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恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

廃れゆく泥灰土坑【ブログ開設8周年記念記事】

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↑Skeletal reconstruction of associated remains of the last New Jersey dinosaurs.

Top to bottom, Dryptosaurus aquilunguis holotype ANSP 9995 with AMNH 2438 (West Jersey Marl Company Pit), lambeosaurinae indet. YPM 3216 (West Jersey Marl Co. Pit), basal hadrosauromorpha YPM 745 (West Jersey Marl Co. Pit), ANSP 15202 (Inversand Pit). Scale bar is 1m.

 

 8周年である。7周年の記念日を素で忘れていた筆者だったりもするのだが、それはさておきこの8年の間に進学して就職してなんかフリーランスになるという激動があったわけで、まだしばらくはそんな感じであろう。

 実のところブログ立ち上げ時には特別骨格図を描くこともなかった筆者なのだが、ここ数年でずいぶんその手のおはなしをいただける身分になった。いい加減で描きあがったものはずいぶん積みあがっており、であれば作家のやることはひとつしかないわけである。

 

 本ブログで幾度となく取り上げてきたのがアパラチア――今日の北米の東半分の上部白亜系、とりわけその最上部で産出してきた恐竜たちである。北米西部――ララミディアの恐竜相がその最後――ランス期を迎える中にあって、化石の質・量ともに著しく劣るアパラチア最後の恐竜相の実態は(まともな研究が始まったのがララミディアのそれよりも先であるにもかかわらず)依然として闇の中である。

 アパラチアの海成最上部白亜系~最下部暁新統は各地でみられるが、とりわけニュージャージー一帯に点在するものがコープとマーシュの時代よりよく研究されてきた。その中でも特に重要なサイトがふたつ――今日に至るまで様々な化石を産出するインヴァーサンド坑と、失われたウェストジャージー泥灰土坑 ――ドリプトサウルスの模式産地である。

 

 ドリプトサウルス・アクイルングイスの模式標本――ANSP 9995とAMNH 2438がバーンズボロのウェストジャージー泥灰岩社の採掘坑で発見されたのは1866年のことであった。当時ニュージャージー一帯では緑色砂泥灰岩――海緑石を含む、石灰分に富んだ泥岩(固結が弱く、泥灰土と言ったほうが実態に即している)を、石灰肥料用に露天掘りで大量に採掘していたのである。緑色砂泥灰岩はまさに上部白亜系をなしており、副産物としてちょくちょく出てくる化石を目当てに(1858年にハッドンフィールドの泥灰土坑跡でハドロサウルス・フォーキイの見事な化石が発掘されていた)コープが目を光らせていた。

 ウェストジャージー泥灰土坑――“チョコレート泥灰岩”(現ニューエジプトNew Egypt層;マーストリヒチアン後期)で見つかる恐竜化石はドリプトサウルス――言うまでもなく当時はラエラプスとよばれていた――が最初でも最後でもなかった。すでにコープはハドロサウルス類の大腿骨の破片(現ANSP 10007)をここの作業員から受け取っており、そしてドリプトサウルスの発見後もコープは継続的にウェストジャージー泥灰土坑の化石を入手することができるはずだった。が、ここで泥灰土坑の現場監督の裏切り――友人だったはずのマーシュの手引きによるものだった――がコープを襲い、1868年以降ここで採集された化石はマーシュのもとへ送られるようになったのである。

 

 かくして、1800年代後半にウェストジャージー泥灰土坑で採集された化石はコープ(ANSPとAMNH)とマーシュ(YPM;USNMへ移管されたものはないようだ)によって分かたれ、化石戦争の戦火の洗礼を受けることになった。マーシュはここで採集されたいくつかの椎骨(YPM 1600;現存しているのは部分的な椎骨1つだけである)に基づきハドロサウルス・ミノールHadrosaurus minor命名し、その後さまざまな標本がこれに含められることになったが、(年季の入った読者の方なら当然予想される通り)これは現代的な分類学に耐えられる代物ではなかったのである。“ハドロサウルス・ミノール”の中には比較的まともそうに見える部分骨格――スーエルのインヴァーサンド坑で発掘されたANSP 15202もあったが、これもやはり(エドモントサウルスとの類似を指摘する声はずっとあるとはいえ)不定のハドロサウルス類に留めておくべきように思われた。

 

(インヴァーサンド坑でみられる地層は、伝統的に下からネーヴシンクNavesink層、ホーナーズタウンHornerstown層、ヴィンセンタウンVincentown層、カークウッドKirkwood層、ペンソーケンPensauken層と区分されてきた。古い文献ではマーストリヒチアン/ダニアン境界がホーナーズタウン層の下部に位置付けられ、またネーヴシンク層とホーナーズタウン層の境界は不整合とされている。近年の研究でK/Pg境界がネーヴシンク層とホーナーズタウン層の境界にほぼ対応することが確認され、またこれらの境界は整合であるとみなされるようになった。さらに、近年ではインヴァーサンド坑のネーヴシンク層をニュー・エジプト層とみなすものも散見される。インヴァーサンド坑の最上部白亜系をネーヴシンク層とニュー・エジプト層のどちらとするかは混乱のあるところだが、いずれにせよこれはネーヴシンク層の“ドリプトサウルス・マクロプス”や“コエロサウルス・アンティクウス”を産する層準よりも明らかに新しく、ウェストジャージー泥灰土坑のニュー・エジプト層と対比されるべきであろう。インヴァーサンド坑(には限らないが)のホーナーズタウン層最下部では様々な鳥類化石やアンモナイトなどが明らかな新生代の化石と混在しており、様々な議論のタネになっている。)

 

 そんなこんなでここ数十年、ニュージャージーの最上部白亜系産の恐竜化石のうち、ドリプトサウルスのほかはずっと不定のハドロサウルス類ばかりが産出リストに名を連ねる状況が続いていた。ハドロサウルス・フォーキイの再記載の際に“ハドロサウルス・ミノール”などの再検討も行われたが、ANSP 15202のほかはもはやどうしようもないものとみなされ、ANSP 15202についても(エドモントサウルスとの類似は特に意味のあるものとも思われなかったため)不定のハドロサウルス類とするに留められたのである。

 

 さて、実のところベアドとホーナーの師弟コンビによって、1977年に極めて重要な指摘がなされていた。これは論文ではなく学会発表の要旨に過ぎず、図も何もない(そしてかなり強引な展開で結んでいた)代物ではあったが、たとえばドリプトサウルスとアレクトロサウルスの類似を指摘したりと、若きホーナーの慧眼ぶりがうかがえるものでもある。アパラチア産恐竜化石の再検討の機運を作り上げることとなったこの要旨の中で、ベアドとホーナーは、たった一言「YPM所蔵の細長い尺骨はランベオサウルス類の可能性がある」と述べたのであった。

 この尺骨YPM 3216(橈骨とのセットである)はウェストジャージー泥灰土坑で採集されたものであった。ニュージャージーの最上部白亜系からのランベオサウルス類らしき化石はこれだけに留まらず、インヴァーサンド坑で発見されたNJSM 11961(これも下腕だけがそっくり残っていた;病変で割とよく知られた標本でもある)もYPM 3216と同様の形態を示していたし、単離した上腕骨ANSP 15550(ニュージャージー産なのは間違いないとして、産出層がはっきりしないのだが、恐らくはマーストリヒチアンとみられている)もランベオサウルス類のそれのように見えた。

 

 ホロタイプとANSP 15202を除く一連の“ハドロサウルス・ミノール”とみなされた標本が記載されることはなく(なにしろどうしようもないレベルで悲惨な保存なので)、また上述のランベオサウルス類らしき化石も時折図示されるほかは特に記載されることもなく、半ば都市伝説化していくことになった。2010年代後半から本ブログではもはやおなじみとなったブラウンスタインがアパラチア産恐竜の再検討にとりかかり、とうとうこれらの怪しげなハドロサウルス類に手が付けられることとなったのである。

 かつて“ハドロサウルス・ミノール”とされた標本のうち、YPM 745とYPM 7896は部分骨格――後肢の長骨と胴体の残骸だけではあったが、紛れもない単一個体に由来するものであった。そしてYPM 745はドリプトサウルスのホロタイプ――アパラチアでは数少ない恐竜の部分骨格と同じ産地から産出していたのである。ドリプトサウルスのホロタイプ以上に進行していた黄鉄鉱病により無惨な状態になってはいたが、それでもこれらの部分骨格が真正のハドロサウルス科というよりはもう少し原始的なタイプであるらしいことはうかがえた。

 もうひとつ、YPM 3216の再検討(というか真面目に記載されるのはYPM 745と7896ともども初めてのことであった)も行われ、やはりランベオサウルス類の尺骨であるらしいことが明らかになった。全体的なつくりはサウロロフス亜科ではなく明らかにランベオサウルス亜科のそれであり、(病変の影響で詳しい比較はできなかったものの)NJSM 11961もよく似た形態であることが改めて確認された。ANSP 15550についても、図示こそ行われなかったものの、ワイシャンペルらによる近年の学会発表を追認し、やはりこれもランベオサウルス類とした。

 

(ブラウンスタインはYPM 3216のプロポーションについて、比較に用いたランベオサウルス類のどれよりもずっとスレンダーであることを述べている。ブラウンスタインはそれ以上突っ込んだ話をしていないが、実のところNJSM 11961はかつて一度cf. チンタオサウルスsp.として報告されたことがあるらしく(未確認情報)、実際問題としてYPM 3216の細長い尺骨もチンタオサウルスのそれとよく似ている。さらに言えば、ライディがハドロサウルス・フォーキイと共に図示したANSP 15550もチンタオサウルスの上腕骨と酷似していたりする。これらをもってアパラチアの最上部白亜系のランベオサウルス類の分類についてどうこう言うのはやめておいた方が身のためではあるのだが、ブラウンスタインの言うようなWISが縮小してからララミディア側から渡ってきた(=ヒパクロサウルスの子孫めいた)ものという可能性に加えて、グリーンランド経由でヨーロッパから渡ってきたパララブドドン的なものについても頭の片隅に加えておくべきなのかもしれない。よく知られているとおり、ララミディアでの確実なランベオサウルス類の記録はマーストリヒチアン前期のヒパクロサウルス・アルティスピヌスを最後に途絶えており(ニューメキシコはオホ・アラモOjo Alamo層でランベオサウルス類と思しき頬骨が出ていたりもするのだが、これもせいぜいマーストリヒチアン中ごろのものである)、マーストリヒチアン後期、とりわけ“ランス期”の確実な記録は知られていない。「ヘル・クリーク層産のランベオサウルス類」といえば、The Dinosauriaの産出リストでもおなじみの、恐竜業界の胡散臭い話題の筆頭である。最近でもそれらしい要素の報告があったりもするのだが、果たしてこれが出版にこぎつけられる代物なのかは微妙である。)

 

 ブラウンスタインは(コルバートの古い文献を引用するのみで)インヴァーサンド坑産のANSP 15202――やはりYPM 745やYPM 7896よりは進化型のタイプのように思われた――がウェストジャージー泥灰土坑の様々なハドロサウルス類とは共存していないとみなしたが、上述の通りインヴァーサンド坑でみられる上部白亜系は、少なくとも他の地域でみられるネーヴシンク層よりは新しく、ニューエジプト層と同時代のものである。つまり、(少なくとも)3タイプのハドロサウルス類が――エドモントサウルスといくらか類似のみられる、恐らく真正のサウロロフス亜科と、YPM 745に代表される“ハドロサウルス科一歩手前”、そしてひょっとしてひょっとするとチンタオサウルスと関連のあるランベオサウルス亜科が白亜紀最末期のニュージャージーで共存していたらしいのである。

 ウェストジャージー泥灰土坑、ひいてはアパラチアのマーストリヒチアン全体を通して、ドリプトサウルスのホロタイプを上回る完全度の恐竜化石は未だに知られていない。とはいえ、同じウェストジャージー泥灰土坑からハドロサウルス類の部分骨格、さらには(漂流中の本体からどこかしらの段階で脱落したらしい)ランベオサウルス類のひとまとめの下腕まで産出したことは特筆すべきだろう。インヴァーサンド坑でもハドロサウルス類の部分骨格とランベオサウルス類の下腕が産出しており、意味ありげなポテンシャルを湛えている。

 

 ウェストジャージー泥灰土坑はとうの昔に放棄され、採掘坑の成れの果ての沼が点在する森林公園となって久しい。ニュージャージーに無数にあった泥灰土坑の最後のひとつであったインヴァーサンド坑も数年前に操業を停止したが、ローワン大学によって化石公園へと生まれ変わり、博物館とビジターセンターの建設と一般開放への準備が進められている真っ最中である。

 ウェストジャージー泥灰土坑では都合3体の恐竜の部分骨格(一つは下腕だけに過ぎないが)を産出したわけだが、インヴァーサンド坑ではどうだろうか。無脊椎・脊椎問わず、K/Pg直下と直上の地層から様々な化石を産出してきたこの産地では、ちぎれた下腕を含めても部分骨格は「まだ」2体しか見つかっていないのである。

 北米における最初期の恐竜研究を支えてきた泥灰土坑は時代の徒花と消えた。廃れゆく産業遺構はしかし、装いを変え、新たな訪れを迎え入れようとしている。

 

 

 

 

 

トロサウルスの向こうへ

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↑Skeletal reconstruction of Sierraceratops turneri holotype NMMNH P-76870.

  Scale bar is 1m.

 

 北米南西部の最上部白亜系、つまりララミディア南部の白亜紀末の地層における恐竜相の話はかつて本ブログで散々に取り上げてきた。どれもこれも断片的かつ保存のひどいものが多く、一度書いてしまえばその後はそうそう取り上げる機会のあるものではない――つまり、再検討のおぼつかないほどの材料しか知られていないことは今さらここに書くまでもない。

 本ブログで過去何度か取り上げた(同人誌でも触れた)“マクラエ(マクレー)McRae層のトロサウルス”といえば、だいぶ前に命名される動きがあったのを覚えている読者の方は幸せである(心豊かであろうから)。ごく断片的な化石しか知られておらず、しかも研究の旗振りは悪名高きダールマンであり、案の定というか音沙汰がなくなって早4年であった。

 が、事態は常に(表向きには)急転直下するものである。ロングリッチを共著に加えて命名されたシエラケラトプス・ターナー Sierraceratops turneriこそ、“マクレー層のトロサウルス”として知られていた謎の大型角竜であった。

 

 マクレー層(最近の研究では層群に格上げされており、それに伴いホセ・クリークJose Creek部層がホセ・クリーク層へ、ホール・レイクHall Lake部層がホール・レイク層に格上げされている)での恐竜発掘の歴史は古く、20世紀初頭までさかのぼることができる。1905年にはここからトリケラトプスが報告されたが、これは(トリケラトプス級のサイズの)角竜の椎体に過ぎなかった。

 1980年代になるとマクレー層群(さらに言えばいずれもホール・レイク層の下部;1905年に報告された化石もホール・レイク層のものらしい)から続々と恐竜化石の断片が報告されるようになった。いずれも断片的ではあったが、ティタノサウルス類や鎧竜、ケラトプス科そしてティラノサウルス科――ティラノサウルスらしき見事な歯骨が発見されるようになったのである。

 アラモサウルスらしきティタノサウルス類や、トリケラトプストロサウルスと同サイズの角竜、そしてティラノサウルス属の発見により、ホール・レイク層の時代はランス期――マーストリヒチアンの後期で間違いないように思われた。これをさらに補強する形で、1998年にトロサウルス・ラトゥスがホール・レイク層から報告されたのである。

 

 1997年にテッド・ターナーの経営する牧場で発見されたそれは、ばらけた大型角竜の部分骨格であった。ひとまず椎骨や肋骨、肩帯や腸骨の断片、そしてばらけた部分頭骨――鱗状骨と上眼窩角、そして頬骨がニューメキシコ州立大学(NMSU)とニューメキシコ自然史博物館(NMMNH)によって採集されたのである。パーツは完全にばらけていた状態だったが、いずれも同一個体と思しきサイズであった。

 この化石はホール・レイク層では初めてとなる角竜の(相当に断片的とはいえ)まとまった骨格であり、鱗状骨の特徴からトロサウルスと断定された。滑らかな表面で細長く伸び、そして縁鱗状骨(とそれが関節する突起)を全くもたないそれは、紛れもなくトロサウルスのものであり、トリケラトプスやペンタケラトプスのものではありえなかった。トロサウルス属はT. ラトゥスのみであり、従ってこの化石(NMMNH P-76870;この時点では標本ナンバーがなかった)はトロサウルス・ラトゥスで間違いないと思われた。

 

(1998年当時、トロサウルス・ラトゥスの解剖学的特徴はほとんど何もわかっていない状態であった。いずれの標本もフリルの保存が悪く、頭頂骨窓のはっきりした形態やホーンレットの有無はまったく不明だったのである。この当時トロサウルス・ユタエンシスをT. ラトゥスのシノニムとする意見が主流であったのだが、ファルケはこの時この”マクレー層のトロサウルス“がT. ユタエンシスである可能性を指摘している。)

 

 200年代も半ばに入るとようやくトロサウルスの骨学的な理解も進み、“マクレー層のトロサウルス”があまりにも断片的で属の同定すらおぼつかないことが(ファルケによって)指摘されるようになった。カスモサウルス亜科の大型種であることは疑うべくもなかったが、かくして“マクレー層のトロサウルス”がトロサウルス属として扱われることはなくなったのである。

 2014年になり、NMMNHの調査隊がターナーの牧場へ帰ってきた。マクレー層の地質調査の一環ではあったのだが、調査隊がそこで出くわしたのは“マクレー層のトロサウルス”の掘り残しであった。

 

 掘り残しにはそれなりの頭骨要素が含まれており、もともと採集されていた要素と合わせれば眼窩まわりの形態はほぼ完全に揃う格好となった。かくして2017年にダールマンとルーカスは本“種”をペンタケラトプスの姉妹群として学会で発表した――が、それ以上の進展は起こらず、しばらく塩漬けになったのである。

 そんなこんなで共著にロングリッチも加えて出版された論文で、とうとう“マクレー層のトロサウルス”は新属新種となった。依然として骨格は断片的もいいところであり(部位によって保存状態の差が著しいが、頭骨の各パーツはまともな方である)、論文がわりあいにツッコミどころ豊か(この際論文の骨格図がだいぶ前に筆者の描いたアンキケラトプスの改造であることには触れない)でもあるのだが(筆頭が筆頭でもあるし、セカンドがセカンドでもある)、とはいえ頬骨の形態は特徴的でもあろう。

 系統解析(ロングリッチ節全開である)の結果、シエラケラトプスはコアウイラケラトプスとブラヴォケラトプス――“エル・ピカチョの角竜”とあわせて小グループをなす可能性が以前から指摘されていた――とひとまとめに括られ、そしてアンキケラトプスとアリノケラトプスの間に置かれた(“アーモンド層のアンキケラトプス”はアンキケラトプスよりもひとつ基盤的なポジションに置かれ、“Bisticeratops froeseorum”なる謎の分類群と姉妹群になった)。これはつまり、シエラケラトプスが(現状の化石記録に基づけば)ララミディア南部でのみ放散した、かなり派生的なカスモサウルス類の一員であることを示している。

 これまで、もっぱら恐竜化石――ティラノサウルスやアラモサウルスそしてトロサウルスの産出に基づき上部マーストリヒチアンとみなされていたホール・レイク層ではあるが、もはやこれらの化石に基づく時代論が何の意味も持たないことは言うまでもない。最近になってホール・レイク層の最下部では7320万±70万年(カンパニアン後期後半)の絶対年代(もっと最近になり、ざっと7200万、つまりカンパニアン末~マーストリヒチアン初頭を示す絶対年代も得られているとのことでもある)が得られており、シエラケラトプスの時代がカンパニアン末~マーストリヒチアン初頭あたりであることを示している。つまるところ、ホール・レイク層下部の恐竜相はそれまで言われていたよりもだいぶ古い時代のものだったわけである。

 

 いつものように取っ散らかった話ではあるが、結局のところララミディア南部の“最上部”白亜系の恐竜相はその時代さえようやく現代的な再検討が始まったばかりである。“アラモサウルス動物群”の実態の解明はあまりにも断片的な化石と怪しげな時代論の前にことごとく阻まれてはいるのだが、それでもわずかずつ、歩みは続いている。

 

星をみるひと

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Ulughbegsaurus uzbekistanensis (UzSGM 11-01-02 (holotype) and CCMGE 600/12457) and Timurlengia euotica (composite).

Scale bar is 1m.

 

 ビッセクティBissekty層といえばウズベキスタンの上部白亜系――貴重なチューロニアン(の中期~後期;約9200万~9000万年前)の陸成層であり、様々な「白亜紀後期型」の恐竜(たとえばティラノサウルス科、ケラトプス科、ハドロサウルス科等々)の起源を辿るうえで極めて重要な地層である。化石は基本的にばらけた状態でしか産出しない(保存状態はわりあい良好なのだが)ものの、これまでに「中間型」ティラノサウルス類のひとつであるティムーレンギアや、「ケラトプス科一歩手前」にあたるトゥラノケラトプス、バクトロサウルス段階と思しきレヴネソヴィアなど、様々なものが命名されている。命名に至らないものであっても、当時の恐竜相を考えるうえで貴重な化石が多数知られているのである。

 

 コニアシアン~チューロニアン以降、つまり白亜紀「中期」以降にローラシアで大型の強肉食性獣脚類の大転換が起こったことはとうの昔に知られていた。白亜紀前期には(ゴンドワナを含めた)世界中で隆盛を極めていたカルカロドントサウルス類(やメガラプトル類など)が、白亜紀「中期」が過ぎ去ってみるといつの間にか大型のティラノサウルス類ときれいに入れ替わっているのである。ティラノサウルス類自体はジュラ紀後期からすでに中型獣脚類としてローラシアではわりあいポピュラーだったようなのだが、とはいえ白亜紀「中期」あたりでなにかが起きたことは間違いない。

 白亜紀「中期」は世界的に恐竜化石に乏しいというのもよく言われる話であり、ローラシアにおける最後の非ティラノサウルス類の頂点捕食者らしいものの化石は暗澹たる有様であった。化石は恐ろしく断片的であり、究極的には(ティラノサウルス科につながる系統ではないのは間違いないとはいえ)系統的な位置付けすらはっきりしなかったのである。

 

 ウルグベグサウルス・ウズベキスタネンシスと命名されたそれは、かつてネソフによって採集された上顎骨の断片に過ぎない(保存はまずまずである;他に上顎骨の断片が2つ参照標本とされているが、これらはネソフによってティラノサウルス類とされたのち、スーズらによってイテミルスとされていたものである)が、そういうわけで非常に重要な発見である。白亜紀「中期」のアジアでカルカロドントサウルス類(やチランタイサウルスのような得体のしれない何か)が頂点捕食者に君臨していたらしいことはすでに知られていたわけだが、ビッセクティ層で――まぎれもない中間型ティラノサウルス類(恐らくはアークトメタターサルを持つ)と同じ時代、同じ場所から非ティラノサウルス類の中大型獣脚類が発見されたのである。しかも時代はチューロニアンであり、シアッツとモロス(産出層準はずれるのだが、とりあえず両者ともセノマニアンである)といった北米のケースよりも明らかに新しい。

 

(系統解析は二通り――つまり、メガラプトラをカルカロドントサウリアとして扱うものと、コエルロサウリアとして扱うという二つの意見を踏まえたうえで試みられている。前者のデータセットではウルグベグサウルスは悪名高きネオヴェナトル科――ネオヴェナトルとメガラプトル類の多系統の中に含まれた一方で、後者のデータセットではメガラプトラがティラノサウルス上科に取り込まれるのを尻目にウルグベグサウルスはネオヴェナトルやコンカヴェナトルなどと共にカルカロドントサウリアの基底で多系統をなした。ちなみに、チランタイサウルスは前者ではネオヴェナトル科に、後者ではコエルロサウリアの最基盤に置かれている。もろもろはさておき、とりあえずウルグベグサウルスは(メガラプトラとは関係のない)カルカロドントサウルス類であることは確かなようである。)

 

 かくして、白亜紀の陸上生物相における頂点捕食者の大転換の空白期間はチューロニアンより後かつカンパニアンより前――コニアシアンとサントニアンというたった600万年の間に絞り込まれた。ローラシアにおけるコニアシアンとサントニアンの恐竜化石の乏しさはチューロニアン(なにしろビッセクティ層とモレノヒルMoreno Hill層があるのだ)の比ではなく、もはや絞り出せるものは絞り切った感さえある。とはいえ、アジアには――モンゴルや中国、韓国にはまだあまり研究の進んでいないこの時代の陸成層が広がっているし、日本はと言えば北海道でいくらでもアンモナイトが出てくる――それらに混じって稀に恐竜化石も採集される――時代でもある。たった600万年ぶんの地層を片っ端からつついて回る時代は、とっくに始まっているのだ。

 

(余談だが、本稿の執筆時点ではウルグベグサウルスの記載論文のSIにはまだアクセスできない――のはいいとして、本文中の図版ではドリプトサウルスがしれっとティラノサウルス科になっていたりする。言葉あそびはともかくとして、それまでローラシアにのさばっていた(さまざな系統の?)大型獣脚類とそっくり入れ替わったのがちょうどこのあたり――アレクトロサウルスの次の段階のティラノサウルス類だったのも確かだろう。)

ドリプトサウルスふたたび

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↑Skeletal reconstruction of Dryptosaurus aquilunguis holotype (ANSP 9995 and AMNH 2438) and Merchantville dryptosaurid ("holotype" YPM 21795 and "paratype" YPM 22416). Scale bar is 1m.

 

 ドリプトサウルスの記事は本ブログなりなんなりで散々書いてきたわけだが、とはいえ日進月歩の古生物学である。マーシュがドリプトサウルス科を設立して130年あまりが過ぎ、一方で1990年代以降ドリプトサウルス科という用語が(何かしらのきちんとした分類学的な意味をもって)用いられることはなくなって久しかった――が、突如として復活させる意見が出現したのである。

 

 これまでの系統解析ではドリプトサウルスはことごとく“ぼっち”――特にアパラチオサウルスと姉妹群になることもなく、アークトメタターサルを獲得した基盤的ティラノサウロイドからティラノサウルス科へと続く流れの中にぽつりと浮かんでいた。ドリプトサウルスが時代のわりに原始的なティラノサウルス類であることはほぼ間違いなかったのだが、他のティラノサウルス類との系統的なつながりははっきりせず、アパラチア産のティラノサウルス類の実態も不明瞭であった。

 今回ブラウンスタイン(精力的かつ散発的にアパラチア産の恐竜化石について出版している)がドリプトサウルス科――ドリプトサウルスと姉妹群をなした――として記載した標本は、ほぼ完全な中足骨であるYPM 21795(および同一個体由来と思しき単離した尾椎YPM 22416)である。これは2017年(11月末)にブラウンスタイン本人によって記載されていた――が、同年(12月)にダールマンらによっても記載されていたという標本である。

 これらの標本が産出したのは、デラウェア(とニュージャージーの州境近く)はチェサピーク・デラウェア運河の北岸に露出するマーチャントヴィルMerchantville層(論文の中ではざっくりサントニアン~カンパニアン前期と書かれていたりもするのだが、この産地周辺のアンモナイトの記録からすると、カンパニアン前期のスカファイテス・(S.)ヒッポクレピスⅢ Scaphites (S.) hippocrepis III帯、すなわち約8150万~8130万年前ごろと言ってよいだろう)である。マーチャントヴィル層も例によって古くから恐竜化石が知られているのだが、ことごとく部分的かつ保存状態もよくない有様であった。

 YPM 21795にせよYPM 22416にせよ保存状態はよくないのだが、それでもYPM 21795の第Ⅳ中足骨は全体が残っており(遠位端が破片化してはいるが)、ドリプトサウルスやアパラチオサウルス等々、様々なティラノサウルス類とのきちんとした比較が可能であった。第Ⅱ中足骨も近位部はそっくり残っており、足の甲の概形を観察することができたのである。

 ドリプトサウルスの第Ⅳ中足骨はかねてより妙な形態であることが指摘されていた――アークトメタターサル化しているのは確かだったが、他の進化型のティラノサウルス類と比べてやけにのっぺりしたつくりだったのである。YPM 21795の再検討により、ドリプトサウルスと共通する特徴――遠位部のくびれを欠いた、全体にのっぺりしたつくりが見出されたのだった。系統解析の結果、いわゆる中間型ティラノサウルス類が派手な多分岐をなす中にあって、本“種”はドリプトサウルスと姉妹群――ドリプトサウルス科をなしたのである。

 

(本論文の中で命名は行われていないのにもかかわらず、文中では思い切りホロタイプやパラタイプとの言及がある。論文の分岐図をよく見ると、「Merchantville Taxon」の下に「Cryptotyrannus」(イタリック体)が隠れており、どうも査読で怒られつつうっかり消し損ねたようだ。何ならSIにはモロに「Cryptotyrannus_orourkeorum」の文字が隠れている。)

 

 「マーチャントヴィル層のドリプトサウルス類」は言うまでもなくきわめて断片的な標本に基づいており、系統関係の評価は究極的には本“種”やドリプトサウルスのもっとずっと完全な標本を待つことになるだろう。それでも、ドリプトサウルスと有意そうな類似が見出されたのは今回が初めての例であり、中足骨の特徴の再評価にはつながるだろう。

 YPM 21795の第Ⅳ中足骨はドリプトサウルスのホロタイプのそれよりむしろ長いのだが、はるかに華奢であり(むしろドリプトサウルスがサイズのわりに妙にごつい点に注意すべきだろう;YPM 21795のきゃしゃさはむしろサイズ相応であり、同サイズのティラノサウルス科の大型幼体と似ている)、恐らくはドリプトサウルスのホロタイプよりも脚が長かったのだろう。あるいは「マーチャントヴィル層のドリプトサウルス類」の成体がドリプトサウルスのそれよりも大きかったというのはありそうな話でもある。

 マーストリヒチアン終わり近くのアパラチアには、カンパニアン前期から続いた「アパラチア型」の末裔だったらしいドリプトサウルスがのさばっていたようだが、一方で急速にララミディアから恐竜が侵入しつつある時代でもあったはずである。ララミディアから侵入してきた大型の進化型ティラノサウルス類――たとえばティラノサウルス――との交流があったかどうかは藪(というかその辺の泥灰岩)の中にある現状だが、最終的に1匹残らずK/Pgの境界イベントで消え去ったのも確かである。

 

 

私雨、その後に

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↑Skeletal reconstruction of Triceratops horridus "LANE" HMNS VP1506.

 Scale bar is about 1m.

 

 古くから知られている恐竜の場合、古くから知られていること――現代的な記載に基づく分類群でないことそのものが厄介な問題を引き起こすことは本ブログで散々ネタにしてきた。再記載の中で本来(意図せずして)意図していた分類群とは別物らしいものが乗っ取ってしまうケース(たとえばイグアノドンやコエロフィシス;カルカロドントサウルスも恐らくはそうであろう)もしばしばであり、歴史的な分類群の再記載は誰しも望んでいる一方、目を通す時は身構えがちにもなる。

 トリケラトプスもぼつぼつまとまった再記載が必要になっている頃合だが、その中心になるべきであろう標本はいくつか(いくつか、である)存在する。その中でも特に中心的な役割を果たすであろう標本がHMNS VP1506――“レインLANE”の名でしばらく前から知られていた、ほぼ完全な骨格――広範囲の皮膚痕付き――である。

 

 BHI(GR)――ブラックヒルズ地質学研究所(れっきとした営利企業である)の縄張りといえばヘル・クリークHell Creek層、特にお膝元であるサウスダコタ州の印象が強いが、アメリカ中西部で化石を掘らせてくれる私有地があれば黙っている業者ではない。同時異相であるランスLance層の広がるワイオミング州でも盛んに発掘を行っており、トリケラトプスの「ふるさと」であるナイオブララ郡で1998年に掘り当てたのが見事なトリケラトプスの部分骨格――“ケルシーKELSEY”であった。

 “ケルシー”は当時“レイモンドRAYMOND”――その数年前にウォーフィールド・フォッシル・クオリー社から委託を受けて発掘のちクリーニング、キャストの制作までをこなしていた――に次ぐ完全度のトリケラトプスであった。頭骨は(ひどく潰れてはいたものの)右半分が完全に残っており、肩帯ごと前肢がすっぽ抜けて失われていた(例によって尾もなかった;全体として変形がひどい)ほかはほぼ完全に保存されていたのである。

 BHIは“ケルシー”を産した牧場の主であるザーブスト家と良好な関係を築き、その後もザーブストの牧場で化石の発掘を続けた。やがて現れたのが“レイン”――骨格の大半を包んでいたコンクリーションに皮膚痕が保存されているのが現地で確認された――だった。

 

(ザーブストの牧場ではこのほかにも様々な化石を産出しており、例えば恐竜科学博にて展示されていたランス層産の足跡ブロックもここの産である。)

 

 “レイン”の発掘は2002年の夏から始まり、コンクリーションはなるべく現地で手を付けることなく採集された。果たしてラーソンの読みは当たり、ほぼ完全な――まんべんなく全身が揃った骨格と、数m2におよぶ皮膚痕が確認されたのである。骨格だけでなく、皮膚痕も(頭と尾を除く)全身を代表するものであった。

 最終的に“レイン”はヒューストン自然科学博物館(HMNS)が皮膚痕もろとも購入することとなり、実物化石のマウントが皮膚痕ともどもリニューアル後の目玉として展示されることとなった。どういうわけか来日している話はさておき、以来“レイン”はそこにある。

 

(“レイン”にはBHI-6220の「社内ナンバー」が与えられていたが、HMNSへの売却にともなって新たな標本番号が与えられることとなった。HMNS 2006.1743.00のナンバーはしばしば見かけたものであるが、HMNSの標本番号は部門別の通し番号方式であり、これは恐らく標本受け入れ時の仮番号と思われる。文化庁向けの申請書類にはHMNS VP1506の記載があり、これが正規ナンバーということだろう。遅くとも2007年にはHMNSへの売却が決定していたのも間違いない。)

 

 “レイモンド”は科博、“ケルシー”はインディアナポリス子供博物館(TCMI)、そして“レイン”はHMNSと、BHIが手塩にかけて送り出した3匹のトリケラトプスはそれぞれ終の棲家――公立博物館へ移って久しい。一方で、なにがしかの研究の主要材料として出版されたのは“レイモンド”に留まっている状況でもある。

 “ケルシー”の骨格に関する簡単な報告は2004年に、“レイン”の皮膚痕に関する報告は2007年にSVPでなされたが、その後続報はない。「モンタナ闘争化石」の片割れを合わせれば、トリケラトプスの骨学的情報の事実上すべて、そして外皮のかなりの情報が明らかになる状況ではあるのだが、「モンタナ闘争化石」の行先が決まった以上の動きのないまま今日に至っている。

 “レイン”はBHIによって3Dスキャンが行われており、研究にはうってつけの状況が整っているはずである。待ちわびたトリケラトプスの詳細な骨学的記載は遠いが、それでも彼らはそこにある。

 

 

 

 

とあるポールのピーター図

 暑かったり寒かったり雨が降ったり降らなかったりする季節である。コラ画像めいた表紙は第三者によるコラージュではなく、グレゴリー・S・ポールの新刊――翼竜のフィールドガイドであった。

 さんざん本ブログでは取り上げてきた(いずれ出るであろう第3版のときも何か書くことになるだろう)が、振り返ればThe Princeton Field Guide to Dinosaursの初版は10年以上前の本であった。2016年に第2版、2020年には第2版の邦訳と、順調に売れていたらしいことになる。

 ポールの骨格図といえば今も昔も恐竜で有名ではあるのだが、恐竜骨格図集などにもあるように、時折恐竜ではない古生物(まれに比較用の現生動物)の骨格図を描くことがあった。プテラノドンやランフォリンクス、プテロダクティルス程度しか見かけたことがないのだが、そういうわけで翼竜の骨格図もいくらかはこれまでに描かれていたわけである。

 ポールの新刊――The Princeton Field Guide to Pterosaursは、128ページとのことで、ボリューム自体は恐竜フィールドガイドの1/3程度といったところのようだ。とはいえ相当な量の骨格図が掲載されるらしい(翼竜であるということで、2面図が基本になるのかもしれないが)ことは明らかで、やはり比類なき本にはなるだろう。

 

 翼竜の骨格図を描くのは端的に言って難しい。これまで筆者もわずかばかりの翼竜を描いてきたが、ひどく潰れて変形し、左右の翼で(明らかに変形によって)骨の長さが派手に変わることさえ常であった。そうした中にあって、翼竜の骨格図をコンスタントに描いてきたプロのイラストレーターと言えばマーク・ウィットンとデイビッド・ピーターズが双璧をなすという、暗澹たるありさまだったのである。

 

(何度か書いてきたことではあるのだが、ピーターズによる骨格図の「技法」そのものはきわめてプリミティブかつ真っ当で真摯なものである。今日でさえ、潰れた骨の「補正」はほとんどの場合科学的とは言えないやり方に頼らざるを得ず、潰れた要素をそのままトレースして描き出すやり方の方が(アウトラインが決して生存時のそれを表わさないという点に留意する限り)よほど科学的であるといえよう。何を見て何を拾い出すかという問題である。)

 

 全盛期のポールによる翼竜の骨格図は(おそらくは)わずかしか存在せず、従って、The Princeton Field Guide to Pterosaursで描き出される翼竜の骨格図たちがいかなるものかは表紙を開けてみるまでわからなさそうだ。ロックの黄金時代を知っていたからこそ死についても嘆きようがあった恐竜フィールドガイドであったが、ポールの描く翼竜の骨格図については(世界中のおそらく誰もが)ほぼ未知数の状態であろう。

 恐ろしいことに刊行日は2022年6月7日と明言されており(書影もばっちりである)、本はあらかたできあがってしまっているのだろう。ケツァルコアトルスのモノグラフの出版が秒読みらしい(本来なら2018年ごろには出版される予定だったらしい)が、このあたりも含めてさてどうなるだろうか。奇妙でおもしろく、そして(たぶん)せつない本になってくるのは恐らく確かである。

 

 

ストークスの影

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↑Skeletal reconstruction of Juratyrant langhami holotype OUMNH J.3311-1~30. Scale bar is 1m.

 

 ティラノサウルス類の確実な化石記録が白亜紀に限定されていた時代はもはや遠く、ジュラ紀の様々なティラノサウルス類が報告されるようになって久しい。ジュラ紀ティラノサウルス類といえばプロケラトサウルス類が比較的よく知られているのだが、一方でこうした「傍系」ではない、よりティラノサウルス類の「本流」――ティラノサウルス科につながっていく系統も上部ジュラ系から知られている。いわゆるストケソサウルス類――ほぼ下半身に限定された化石たちがそれである。

 

 アメリカの上部ジュラ系陸成層の代表であるモリソン層は、19世紀の後半から数々の名産地を輩出してきた。中でも1927年に発見されたユタ州の大規模ボーンベッド――のちにクリーヴランド=ロイド恐竜クオリーとして知られる産地では、おびただしい数のアロサウルスの亜成体、幼体が産出したのである。

 クリーヴランド=ロイドの大規模発掘は、ストークス率いるプリンストン大学のチームによって1939年に開始された。3シーズンでアロサウルスのコンポジットマウントを組み上げるに十分な量の骨格が集まり、まだいくらでも化石が産出する気配があった――が、太平洋戦争の勃発で調査は中断となった。

 戦争が終わってもしばらく調査は再開されなかったのだが、1960年にストークスの助手としてユタ大学のジェームズ・マドセンが加わり、大規模発掘は再開された。途方もない量のアロサウルスが採集され、調査チームは「ユタ大学共同恐竜プロジェクト」――今日の恐竜化石ビジネスの原型――を立ち上げることとなった。調査資金の提供と引き換えに、ここで採集された標本やそのキャスト――今日まで続く「尻尾の長いアロサウルス」を決定付けたもの――が世界中に広がっていったのである。ここで組み上げられたコンポジットのひとつは1964年に日本へ渡り、今日もなお国立科学博物館にたたずんでいる。

 

 クリーヴランド=ロイドではわずかながら竜脚類カンプトサウルス、ステゴサウルスが産出したものの、ほとんどは獣脚類――それも大半がアロサウルスであった。とはいえいくらかは別の獣脚類も紛れ込んでおり、その中にはそれまでモリソン層では知られていなかった新種が複数含まれていたのである。

 1974年になり、マドセンはここで産出した獣脚類のうち、2組の腸骨を新属新種――ストケソサウルス・クリーヴランディStokesosaurus clevelandiとして記載した。全長4mに満たない中小型恐竜ではあったのだが、それらの腸骨はティラノサウルス科のものと酷似していたのである。究極的には新しい科が必要となるであろうことを注記しつつも、マドセンは暫定的に(しかしわりあいに確信をもって)ストケソサウルスをティラノサウルス科に置いたのだった。

 

(マドセンはこの時、クリーヴランド=ロイドで産出した前上顎骨の断片を暫定的にストケソサウルスとして記載した。この標本UUVP 2999はタニコラグレウスのパラタイプとなったのち、ケラトサウルス類の可能性を指摘されて今日に至っている。)

 

 ストケソサウルスらしい化石はその後も時折モリソン層で発見された――が、いかんせんストケソサウルスの標本はホロタイプ、パラタイプともに単離した腸骨だけであり、部位の重複しない標本との比較は当然不可能であった。分類不詳のモリソン層産獣脚類のゴミ箱へと(当然のごとく)転落していく一方で、21世紀に入るとアヴィアティラニAviatyrannis、ディロン、グアンロンと・白亜紀前期そしてジュラ紀後期のティラノサウルス類が続々と記載されるようになっていった。

 ストケソサウルスがティラノサウルス類に属するらしいことを疑う研究者はいなかったのだが、とはいえ相対的にストケソサウルスの重要性は低下していった。が、2008年になって、イギリスからストケソサウルス属の新種――ストケソサウルス・ランガミが記載されたのである。

 

 この標本OUMNH J.3311-1~30(骨それぞれにナンバーが振られている)は1984年にキンメリッジ粘土Kimmeridge Clay層――海成層――から産出したものであった。1990年代には新属新種として記載する向きさえあったらしいのだが、表舞台に出てくるのにずいぶんかかったかっこうである。

 化石の大半は派手に変形してはいたのだが、それでもほぼ完全な腰帯と大腿骨、脛骨、そして各部位を代表する椎骨は残っていた。ティラノサウルス上科内での系統的な位置付けは定まらなかった(多分岐になってしまった)が、グアンロンに続くジュラ紀のまごうことなき、しかも中型サイズのティラノサウルス類の部分骨格が明らかになったのである。

 

(キンメリッジ粘土というからには当然キンメリッジアンの語源ではあるのだが、OUMNH J.3311の産出層準はチトニアン下部であった。キンメリッジ粘土ではダケントルルスやカムナリアも知られているが、これらはキンメリッジアンの産である。)

 

 その後の数年で原始的なティラノサウルス類に関する研究は加速度的に進み、ストケソサウルス・クリーヴランディとストケソサウルス・ランガミを特別に――同属として結びつける理由が特になかったことが明らかになった。同時代の動物であり、古地理を考えても特別離れているわけでもなかった(北米とヨーロッパとで恐竜相の属どころか種さえ共通するものがいるかもしれないレベルである)が、とはいえ両者に共通する腸骨の特徴は、原始的なティラノサウルス類で一般的にみられる特徴でしかなかったのである。

 かくしてストケソサウルス・ランガミ改めジュラティラント・ランガミの誕生となったわけであるが、その後の系統解析でも相変わらずストケソサウルスと近しいポジションに置かれ続けている。同じくイギリス産であるエオティラヌスとももっぱら近しい位置に置かれているが、これらのディロン―シオングアンロンの中間に置かれているヨーロッパの基盤的ティラノサウルス類が単系統をなすのかどうかははっきりしないままである。

 

 ストケソサウルスとジュラティラントは、ジュラ紀後期にはすでにプロケラトサウルス類とは別系統の(究極的には白亜紀の末までつながる)ティラノサウルス類が存在していたことを示している。ストケソサウルスはさておきジュラティラントは全長5mを優に超えており、(おそらくは様々な系統の)ティラノサウルス類が長らく中型獣脚類として生態系に居座っていたことを示しているのである。

 ジュラティラントにせよエオティラヌスにせよ、非プロケラトサウルス類の大枝に属するのは違いないとはいえ、後の進化型――アークトメタターサルを備える明らかな単系統との関係は定かではない。頂点捕食者としてティラノサウルス類がアロサウルス類(や謎めいたチランタイサウルスのような系統)にとって代わったのは間違いないが、ティラノサウルス類の中でも様々な系統の激しい移り変わりがあったのも間違いないのである。