GET AWAY TRIKE !

恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

未知の花、魅知の旅

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↑Composite skeletal reconstruction of "DPF Zapsalis" Saurornitholestes langstoni largely based on  UALVP 55700. Scale bar is 1m for  UALVP 55700.

 

 いい加減で夏である。どうしようもない情勢にあるのはだいぶ前から変わらずで、とはいえ筆者の出る幕はどうにか2件ほどお披露目されている格好である。どちらも関係者の尽力(文字通りであろう)によって立った企画であり、ぜひ体感していただきたいところである。

 

 丸5年は前になるが、久慈―――岩手県北東部に露出する久慈層群(チューロニアン~カンパニアン前期)の玉川層上部(チューロニアン後期;ざっと9000万年前ごろ)のマイクロサイト――マイクロサイトにふさわしく、実に様々な小型の化石が報告されている――からリチャードエステシアRichardoestesia(リカルドエステシア表記も一般に見かけるものであるし、原記載者の意図としてはそちらの方が沿っているような気もするのだが、それはそれである)が産出したという話が知られるようになった。北米ではうんざりするほど(市場にも一般的に出回る程度には)産出する化石ではあるのだが、一方でアジアでは奇妙なほど記録に乏しく、いわゆる“tooth taxon”――ほぼ歯化石のみに基づく事実上の形態属――にしても珍しいものが出たということで、それなりに盛り上がったような記憶がある(そのあと筆者は酒を飲んだのだが)。とはいえ大々的にぶった話でもなく(学会の夜間小集会で出た話題でしかなかった)、なかなかどうして(他の恐竜の歯化石もろとも)論文になる気配もなかったのである。

 だしぬけに7月9日付で久慈のリチャードエステシアの化石が報道発表された公式のリリースがなぜか一番しょっぱい)が、これは2“種”――模式種であるリチャードエステシア・ギルモアイR. gilmoreiと リチャードエステシア・イソスケレスR. isoscelesであった。そしてパロニコドンParonychodon(種小名の言及はないが、とりあえず歯冠がひょろ長くカーブの弱いタイプである)とおまけにティラノサウルス類(少し前に単発で報道発表があったもの;いわゆるアウブリソドン型)までついてきたのである。

 

 リチャードエステシアとパロニコドンといえば、アジアでは珍しいものの、北米ではいくらでも産出する部類の化石である。空間のみならず時間分布も広く(玉川層の記録はかなり古い部類に入る)、白亜紀後期後半の北米の恐竜相の復元では避けて通れないはずではあるのだが、体骨格が事実上知られていない(リチャードエステシア・ギルモアイのホロタイプで歯骨の断片が知られている程度)ため、何かしらの復元は非常に困難である。

 パロニコドンは歯しか知られていないものの、リチャードエステシアと比べればずいぶんマシな状況にはありそうだ。パロニコドンと同様の分岐したリッジをもつザプサリスZapsalis(これも"tooth taxon"として悪名高い)はサウロルニトレステスやバンビラプトル、ヴェロキラプトルの第2前上顎骨歯と酷似することが知られており、つまりザプサリスはなにかしらの(それぞれの時空間に応じた複数種の)エウドロマエオサウルス類の前上顎骨歯と考えることができる。パロニコドンも様々なデイノニコサウルス類――トロオドン類やなにがしかのドロマエオサウルス類の前上顎骨歯と考えることができるだろう。

 リチャードエステシアの場合、まともに(同定がそれなりに可能な程度に)骨格の残った標本でリチャードエステシア型の歯が植わっていたという例は知られていない。R.ギルモアイのホロタイプの歯骨とどんぴしゃで一致する歯骨も現状では確認されておらず(このあたり、例えばブイトレラプトルでは内側面の観察が難しいという事情も効いてくるだろう;しばしば魚食性が指摘されるリチャードエステシアだが、ブイトレラプトルやハルスカラプトルといった同じく魚食性の可能性が指摘されているものと、保存されている限りでは特別歯が類似しているわけでもないようだ)、ままならない状況である。R.イソスケレス(こちらは遊離歯しか知られていない)に至っては恐竜ではなくセベコスクス類との類似さえ指摘されており、"tooth taxon"の面目躍如といったふうでさえある。あるいは、リチャードエステシア2種は同じ(複数の)種の異なる位置の歯を見ているのかもしれず、"tooth taxon"の多様性の評価の意味を突き付けてくる。パロニコドンとリチャードエステシア2種が同じ(やはり複数の)種の恐竜に属する可能性さえままあるのだ。

 

 リチャードエステシアやパロニコドン各種を他の恐竜の属種(しょせん形態分類に過ぎないのは同じことなのだが)と同じ次元で評価する研究者はとっくの昔にいなくなっているはずではあるが、とはいえ現状ではこれら"tooth taxon"も名前を付けて扱うほうが便利なケースは多々あるだろう。白亜紀後期の広大な時空間で栄えたなにがしかの(恐らくは)非鳥類獣脚類の存在は確かであるし、それがかつての久慈――太平洋を望む沿岸域で暮らしていたのも間違いない。ザプサリスの正体は命名から140年ほどで突如明らかになったわけで、北米やアジアのどこかにはリチャードエステシアやパロニコドンの持ち主がそっくり眠っているはずである。

 

 

第三次継承権戦争

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Chilantaisaurus tashuikouensis (holotype IVPP V.2884.2 –7; upper row)

and  Siats meekerorum (holotype FMNH PR 2716; lower row).

Scale bars are 1m.

 

 白亜紀“中期”(いわゆるガリック世――バレミアンからチューロニアン)、とりわけセノマニアンからチューロニアンは、白亜紀前期型から白亜紀後期型へと恐竜相の一大転換が起こった時期である(ジュラ紀/白亜紀境界での変化は実のところ比較的ゆるやかでもあるようだ)。白亜紀前期に猛威を振るったカルノサウリアは12m級のものを連発する一方(少なくとも記録上は)スピノサウルス類は唐突に姿を消し、アークトメタターサルを備えたコエルロサウリア――もはや小型ではなくなりつつある“中間型”ティラノサウルス類を含む――が表舞台へと躍り出るころである。鳥盤類もハドロサウルス様類やケラトプス様類の出現、アンキロサウルス科やノドサウルス科の前期・後期メンバーの交代と枚挙に暇がない。
 鳥盤類は比較的恐竜相の転換について詰めて論じることができそうなのだが、一方で獣脚類は厄介である。南米の状況は比較的わかりやすいが(ヨーロッパはそもそも取り付く島がない)、アジアと北米は一筋縄ではいかないようである。カルノサウリアに混じって、怪しげかつ馬鹿でかい――10mを優に超える分類不詳の獣脚類が頂点捕食者として君臨していたらしいのだ。

 

 モンゴル高原――(外)モンゴルと内モンゴルに恐竜の名産地が点在していることは言うまでもない。中国・ソ連の共同調査隊は1959年から60年にかけて内モンゴル西部のアラシャン砂漠へと乗り込み、烏梁素海Ulansuhai層(チューロニアン?;後述)で様々な恐竜化石――巨大な鎧竜(のちのゴビサウルス)、ほぼ完全な鳥脚類、そして部分的だが保存良好な複数の中~大型獣脚類を得た。

 これらの化石は例外なく数奇な運命を辿ることになるのだが、いまだ謎のベールに覆われた大型獣脚類が、チランタイサウルス・タシュイコウエンシス――10m超級の“メガロサウルス類”であった。

 1964年に烏梁素海層産の獣脚類を記載するにあたり、胡はこれをひとつの属――チランタイサウルスとして命名した。模式種C.タシュイコウエンシス(模式標本には要素ごとに別のナンバーが振られているが、同一個体とみて間違いないだろう)は腸骨の断片と頑丈な四肢――異様な三角筋陵をもつ上腕骨ややたらごつい末節骨を含む――からなっており、大腿骨の長さからしティラノサウルス並みの大型獣脚類――当時知られていた中国の恐竜としては最大のものであった。もう一つの種であるチランタイサウルス・マオルトゥエンシスChilantaisaurus maortuensisは部分的な頭骨と軸椎、いくつかの遠位尾椎(これらもそれぞれ別ナンバーが振られているが、大方同一個体とみて間違いない)からなっており、実のところ両者を同じ属とみなす根拠は特に何もなかった(違う種とするのもそれはそれですんなりいかない状況であるのだが)。

 なんだかんだでC.タシュイコウエンシスにせよC.マオルトゥエンシスにせよ独特の形態はみられたのだが、“伝統”に従ってチランタイサウルス属がメガロサウルス科にぶち込まれたことで事態は悪化した。1979年になり、薫は浙江省の塘上Tangshang層(白亜紀後期;時代不詳)で発見された獣脚類の断片を(C.タシュイコウエンシスと似た末節骨をもつことから)チランタイサウルス・ジェージャンゲンシスC. zheziangensisとして記載・命名したのである。ダメ押しにホルツらがうっかり“アロサウルス・シビリクスAllosaurus sibiricus”(ベリアシアン~オーテリビアンの産という珍品である)まで含めたことで、チランタイサウルス属は完全なゴミ箱分類群となった。

 

 烏梁素海層の時代は文献によって混乱が生じている。胡による原記載では烏梁素海層はちょうど白亜紀前期・後期にまたがるものとなっており、C.タシュイコウエンシスは白亜紀後期、C.マオルトゥエンシスは白亜紀前期のものとされた。その後の研究で烏梁素海層はもっぱらアプチアン~アルビアンとされた一方、烏梁素海層に不整合で覆われる下位層では1億4600万~9200万年前(チューロニアンの中頃)という絶対年代が玄武岩から得られている――というのは90年代の話で、最近の研究ではこの絶対年代は1億4600万ないし1億4100万~1億900万ないし1億800万年前(アルビアン)に修正されているようだ。このところの文献では烏梁素海層の時代はざっとチューロニアンとされていたわけだが、最近の情勢を踏まえるに、もう少し古い可能性はありそうなところである。ゴビサウルス段階のアンキロサウルス類がいなくなって久しいバイン・シレBayn Shireh層からとりあえず9000万年前という絶対年代が得られている現状、烏梁素海層はセノマニアン~チューロニアン前期くらいの位置付けでよいのかもしれない。
 一方で烏梁素海層ではプロトケラトプスと思しき角竜の産出も知られており、時代論の混乱に拍車をかけている。単に烏梁素海層の堆積期間が長かっただけというなら話は単純なのだが、このあたりの層序学的研究はまともに進んでいないようである(バヤンマンダフのあたりまで烏梁素海層の露出域とする場合さえあるようだ)。シノルニトミムスの原記載ではプロトケラトプスの産出をもって烏梁素海層をカンパニアンとしているが、シノルニトミムスの産出層準がカンパニアンかどうかはまた別の話である。

 

 そうは言っても、これだけのゴミ箱がずっと手付かずだったわけではない。1990年には(The Dinosauriaの初版にて)“チランタイサウルス”・ジェージャンゲンシスがまごうことなきテリジノサウルス類である可能性が指摘された。薫の記載した大きな末節骨は手ではなく足に由来するものだったのである。この意見は今日に至るまで追認され続けており、“チランタイサウルス”・ジェージャンゲンシスはテリジノサウルス類とみて間違いない。
 “チランタイサウルス”・マオルトゥエンシスについても90年代からC.タシュイコウエンシスとは完全に切り離して論じるべきという風潮が強くなっていた。チューレは2000年の博論(当然未出版である)にてこれに“アラシャンサウルスAlashansaurus”というややこしい(非公式の)属名を与え、何を思ったかラボカニアの近縁種とみなした(結果、ラボカニアもろともアークトメタターサリアに置いた)。2009年になって(チューレも含めたグループによって)本種はシャオチーロンShaochilongの属名を正式に与えられ、栄えあるアジア産カルカロドントサウルス類第1号として再記載された。
 “アロサウルス・シビリクス”は何しろ第II中足骨の遠位端だけ(しかもC.タシュイコウエンシスとは特に何も似ていない)ということもあって今日では一般に顧みられないが、どうもメガラプトラのそれと関節面の形状が酷似している。
 そんなこんなで残されたチランタイサウルス・タシュイコウエンシスだったが、結局これが最も厄介な代物であった。既知の獣脚類のどれとも似ていないのである。

 

 原記載でメガロサウルス科とされたチランタイサウルス・タシュイコウエンシス――正真正銘のチランタイサウルスだが、そのままで済むはずは当然なかった。80年代も後半を過ぎればポールやモルナーらはこれを(ティラノサウルス科へと続く)アロサウルス上科へと置き、ハリスは1998年のアクロカントサウルスの再記載において派生的なアロサウルス上科(この場合ティラノサウルス科は含まない)――ネオヴェナトルやアクロカントサウルスと近縁とした。が、ハリスの解析はC.タシュイコウエンシスと“C.”マオルトゥエンシスを混ぜて行ったものであり、その後の研究でばっさり切り捨てられることになった。
 チューレやラウフットは前肢の特徴(上腕骨のカーブが弱い+末節骨がデカい)に基づき、本種をメガロサウルス上科に置いた。ラウフットはさらに突っ込んで、チランタイサウルスをスピノサウルス科の姉妹群とした――が、ベンソンらによる再記載でこれは退けられた。
 2008年に行われたベンソンらによる再記載でもチランタイサウルスの系統関係ははっきりしなかった――メガロサウルス上科には入らなさそうだった一方で、アロサウルス上科にもすんなり含められそうになかったのである。悩んだ挙句にベンソンと徐は、ジュラ紀中期に出現した原始的なアヴェテロポーダ(=メガロサウルス上科よりも派生的な獣脚類)の生き残りでさえある可能性を述べる始末だった。

 

 風向きが変わったのは、ベンソンらによる2010年の研究――メガラプトラの提唱であった。チランタイサウルスはいくつかの細かな特徴をフクイラプトルやアウストラロヴェナトルと共有しており、系統解析の結果基盤的なネオヴェナトル類――メガラプトラのすぐ外側に置かれたのである。
とはいえ、これに対する反論も根強い。チランタイサウルスは他の(明らかな)メガラプトラと比べてずっと巨大かつマッシブであり、長骨の基本形はメガラプトラとは似ても似つかない代物ではあるのだ。

 似たような状況はシアッツ――ティラノサウルス科出現以前のものとしては目下北米最後の大型肉食恐竜――にもいえる(特別にチランタイサウルスとシアッツが近縁というわけではないようだが)。明らかな亜成体でありながら全長10mを優に超えるこの恐竜はシーダー・マウンテンCedar Mountain層の最上部、マッセントゥフィットMussentuchit部層上部(セノマニアン前期;ざっと9900万年前ごろ)からの産出で、(チランタイサウルスよりも派生的な)メガラプトラとして記載された――が、そもそもの標本がわずかな椎骨と腰帯の断片にほぼ限られるということもあり、受けはあまりよくない。
 結局、チランタイサウルスにせよシアッツにせよ、いまだに系統的な位置付けはおぼつかない。どちらも現状ではなにかしらのアロサウロイドとしておくのが「無難」なようではある。

 

 烏梁素海層にせよシーダー・マウンテン層の最上部にせよ、これらの獣脚類が頂点捕食者として君臨していたころにはすでに“中間型”ティラノサウルス類が中小型獣脚類としてのさばっていた可能性がままある。烏梁素海層ではシノルニトミムス――アークトメタターサルを備えたオルニトミモサウルス類としてはアーケオルニトミムスと並んで最古級の可能性がある――が産出しており、なにかしらの“中間型”ティラノサウルス類の存在を匂わせている。シーダー・マウンテン層ではマッセントゥフィット部層よりも下位からモロスが産出しており、マッセントゥフィット部層にも“中間型”ティラノサウルス類がいたのはたぶん確かだろう。
 系統的位置付けの混乱しているチランタイサウルスではあるが、今さらシャオチーロンのシニアシノニムになることはなさそうだ。もっとも、胡が原記載で示したようにチランタイサウルスとシャオチーロン(とりあえず全長8mといったところで、チランタイサウルスと比べればだいぶ小さい))とでは産出層準が異なるようでもあり、烏梁素海層で両者が共存していたかどうかは現状不明でもある。
 チューロニアンからコニアシアンそしてサントニアンにかけてのどこかで頂点捕食者の転換が起こったのは間違いない。コニアシアンとサントニアンが嵐のように過ぎ去った後、そこに立っていたのは9mほどのティラノサウルス科だったのである。

エニグマ始動

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↑Skeletal reconstruction of Elaphrosaurus bambergi holotype HMN Gr.S. 38-44.
Scale bar is 1m.

 

 エラフロサウルスと聞いた時にあなたが思い浮かべるのはどういうイメージだろうか?筆者はヴェロキラプトルの頭(めいた何か)が据えられていた頃の生まれであり、従ってヴェロキラプトル顔か、さもなくば破線でクレストが描かれていた頃のポールの骨格図を思い浮かべるものである。
 頭骨を除けばほぼ完全な骨格が(ただ1体)知られているエラフロサウルスは、しかし長きにわたって分類不明の獣脚類の代表格であった。だが、近年の研究の進展にともない、未だに頭骨は知られていないものの、その姿をかなり明確に描き出せるようになったのである。

 

 1907年、ドイツの植民地になっていたタンザニアの南部――現在のモザンビークとの国境にわりあい近い――で活動中だった探鉱技術者のサトラーは、小高い丘――斜面がだいぶ急だったので、地元民からは“急な丘”テンダグルと呼ばれていた――の斜面の下の方から化石が覗いているのを発見した。この時たまたまフラース――エフラアシアにその名を残す――がタンザニアを訪ねており、サトラーの報を受けてテンダグルへ向かった。
 当時も今もテンダグル周辺はうっそうとした藪になっており、ツェツェバエやら何やらが人の立ち入りを拒んでいる場所だった(そしてライオンが出ては地元民が襲われる有様だった)。とはいえフラースとサトラーはこの場所で発掘を試み、そして2体の大型竜脚類の部分骨格を首尾よく手に入れた。この2体はフラースの職場であるシュトゥットガルト自然史博物館へ運ばれ、そこで1908年にギガントサウルス・アフリカヌスGigantosaurus africanusとギガントサウルス・ロブストゥスGigantosaurus robustusとして記載・命名されたのであった。

 フラースは新属のつもりでギガントサウルスを命名したのだが、実はこの属名はシーリーによってとうの昔にヨーロッパ産竜脚類(の断片)に用いられていた。そんなわけでトルニエリアTornieria属が新設されたりなんだりですったもんだあったのだが、今日G.アフリカヌスは基盤的なディプロドクス亜科であるトルニエリア・アフリカーナTornieria africanaG.ロブストゥスはカマラサウルス段階のマクロナリア類(以前言われていたほど派生的ではなかったらしい)であるヤネンシア・ロブスタJanenschia robustaとして知られている。また、ヤネンシュ隊が採集してきた56体分の「トルニエリアの部分骨格」はほとんど同定不能竜脚類の山だったのだが、その中から後にエウヘロプス段階のティタノサウルス形類テンダグリア・タンザニエンシスTendaguria tanzaniensisやマメンチサウルス類ワムウェラカウディア・ケランジェイWamweracaudia keranjeiの尾まで出てくる始末であった(肝心のトルニエリアそのものも、頭骨要素を含む部分骨格があったりはしたのだが)。

 サトラーやフラースの発見を耳にしたフンボルト大学博物館館長のブランカは、極めて大規模なテンダグル遠征を企画した。植民地での大発見を期待する世論の追い風に乗って資金調達は無事成功し(資金繰りのために委員会を新設する気の入れようだった)、ヤネンシュ率いる調査隊は一路アフリカを目指したのであった。

 

 調査隊は早速地元民を170人あまり雇い、テンダグルの丘の周囲を覆う藪を切り開くところから調査が始まった。当初は丘の周りに露出していた骨を頼りに掘ったが、やがては丘の斜面を丸ごと切り崩していくこととなった。作業員の数はどんどん増え、さらに作業員の家族もテンダグルで生活するようになったことで、最終的に人口900人以上の発掘村がテンダグルにできあがったのである。発掘された化石も4日かけて100km以上離れたリンディ港へ(人力で)運び、そこから小さな帆船で沿岸航路船に積み(港が浅すぎて大型船は入港できなかったのだ)、そしてダルエスサラームでヨーロッパ行きの汽船に積み替えるほかなかった。
 ブランカの集めた資金は壮絶な勢いでなくなっていったが、4シーズンでのべ22万5000人を投入した空前の発掘の成果もまた凄まじいものだった。100体近い関節した骨格や数百個の単離した化石がフンボルト大学へやってきたのである。
 フンボルト大の調査は規模もさることながらその方法も特筆すべきものだった。19世紀後半から行われていたこととはいえ、現地の労働者を総動員してジャケットを用いた化石の梱包やマッピングを徹底したのである。現地の資材を駆使して発掘した結果(ジャケットの作成に現地のよく粘る赤土を用いた)、テンダグルの丘が3つの「恐竜層」と交互に重なる浅海層(それぞれがテンダグル層の部層となった)からなっていることが明らかになったのだった。うっそうとした丘となっているその場所は、ジュラ紀中期~末には干潟とラグーンが広がる、陸と海がせめぎ合う場所だったのである。


 フンボルト大学による調査は1913年に終了し、そしてヤネンシュはそれから50年近くに渡ってテンダグル土産と向き合うことになった。フンボルト大学博物館の収蔵庫はカタコンベのような有様になったのだが、それでも地道に記載に取り組み続けるほかはなかったのである。
 調査が終わってしばらくした1920年、ヤネンシュはテンダグル産の中型「コエルロサウルス類」MB R 4960(命名した当時の標本番号は露骨にフィールドでの整理番号めいたものだった)をエラフロサウルス・バンベルギElaphrosaurus bambergi――バンベルグ(発掘のスポンサーのひとり)の軽い足のトカゲ――と命名した。テンダグルの丘から2.5kmほど離れたサイト(テンダグル層のうち上部キンメリッジアンの中部恐竜部層に相当する。他にギラファティタンやディクラエオサウルス(ハンセマニの方)、ヤネンシア、トルニエリアが産出した)にてばらけた状態で発見されたそれは、頭骨こそひとかけらも産出しなかったものの椎骨の大半やほぼ完全な腰帯、後肢を保存していたのである(後にヤネンシュは同じサイトから産出した肩帯と部分的な前肢を本種のものとして報告した。これは今日でもホロタイプと同一個体と考えられており、最初期のバージョンのマウントから組み込まれている)。腰帯はやけに浅く(後に判明したことだが当然胸郭も浅かった)、非常に長い首と長い後肢をもった、オルニトミムスの胴を無理やり引き延ばしたような奇怪な姿であった。
 1920年代当時コエルロサウルス類が高次のゴミ箱分類群と化していたことを抜きにしても、エラフロサウルスの分類は厄介な案件だった。そんな中にあって、ヤネンシュは本種がオルニトミムス科と類似した特徴を示す一方で、プロコンプソグナトゥスのようなより原始的な「コエルロサウルス類」とも似ていることを指摘し、エラフロサウルスが「コエルロサウルス類」の既知のいかなる科にも属さないことを指摘したのである(ヤネンシュはオルニトミムス科的な特徴は収斂によるものと考えていた。これらの見立ては結局正しかったのである)。
 これに対しより尖った意見を述べたのがノプシャであった。ノプシャはヤネンシュも指摘していたオルニトミムス類的な特徴をより強調し、エラフロサウルスをオルニトミムス科に入れたのである。エラフロサウルスの分類はオルニトミムス科とコエルルス科(上述の通りヤネンシュはコエルロサウルス類の科不明と考えていたわけだが)で揺れたが、1970年代以降ラッセルやガルトンはノプシャの意見を強力に後押しするようになった(ついでにモリソン層産の標本をいくつかエラフロサウルス属とみなした)。すでにヤネンシュやノプシャの用いた「コエルロサウルス類」は変質して久しかったが、それでもエラフロサウルスはコエルロサウルス類とみなされるようになっていたのである。

 閑話休題、エラフロサウルスのホロタイプのマウント(実物)は1929年に完成したが、以来90年間で少なくとも2回アーティファクトの頭骨が交換されている。最初に完成したバージョンではやや丸みを帯びた謎の頭部(古竜脚類めいてさえいる)が据えられていたが、いつしか(1980年代後半?)ヴェロキラプトルのホロタイプそのまんま(変形まで再現している)のアーティファクトに交換された。2006年の展示リニューアルの際にマウントは解体され、頭部もろとも主要なアーティファクト(下腕を含む――後述)が新型に置き換えられたが、この新型の頭骨は割と初代と似た何とも言えない代物であった。最初のバージョンとヴェロキラプトルもどきの復元頭骨では実物の歯化石が埋め込まれていたが、これはヤネンシュがエラフロサウルスのものとみなした単離した歯化石群であるようだ。


 エラフロサウルスが最古のオルニトミムス科とみなされるようになりつつあった中で、これに異を唱えたのがポールであった。ポールは(断片しかないものの)エラフロサウルスの前肢が当時マウントされていたもの(下腕にはヤネンシュによってエラフロサウルスとみなされた上部恐竜部層(チトニアン)産の標本が組み込まれていた)よりもずっと短く小さな手をもっていたことを見抜き、また第Ⅲ中足骨――基盤的なオルニトミモサウルス類であっても「はさみつぶされかけ」ている――が極端に太くなっていることを指摘した。ポールは改めて(ヤネンシュが指摘したように)エラフロサウルスがオルニトミモサウルス類としては原始的過ぎることを指摘し、そして(頭骨がないことを嘆きながらもちゃっかりディロフォサウルスめいた小さなクレストを破線で描きつつ)これをコエロフィシス類の生き残りとみなしたのである。


 系統解析ではなくポールの直感頼みではあったが、エラフロサウルスをコエロフィシス上科に置く意見は割としっかりした支持を受けた(オルニトミムス科説も長生きしたが)。もっとも、そういう時のための系統解析でもあるわけで、2009年以降エラフロサウルスは(コエロフィシス上科が夜逃げした後の)ケラトサウリアに置かれるようになったのである。
 2009年に記載・命名されたリムサウルス(ややエラフロサウルスより古い)は手の骨格云々で注目されたが、結局のところその頭骨や系統的位置づけの方が重要であった。極端に軽量化された頭骨には(成体では)歯がなく、腹部からは小さな胃石が大量に発見された――オルニトミモサウルス類に先駆けて植物食に適応していた可能性が高かったのである。そして系統解析の結果、リムサウルスはエラフロサウルスもろともケラトサウリアの基盤的な位置に置かれた。リムサウルスはエラフロサウルスと(そしてコエロフィシス類とも――結局ポールの直感はバカにできない)多数の特徴を共有しており、いくつかの解析結果では姉妹群ともされた。
 そんなこんなで満を持して2016年に出版された再記載(前述のマウント解体の隙に記載作業を行っていた)では、やはりエラフロサウルスはリムサウルスと近縁とされた。エラフロサウルスはCCG 20011――チュアンドンゴコエルルスChuandongocoelurusのパラタイプだった標本――と姉妹群となり、そしてエラフロサウルス―CCG 20011クレードはリムサウルスと姉妹群になった。このクレードはノアサウルス科の二大系統のうちのひとつ――エラフロサウルス亜科となったのである。


 テンダグルからフンボルト大学の調査隊が去ったのち、帝政ドイツのWWⅠ敗戦によって一帯はイギリスの植民地となった。1924年にカトラー率いる大英自然史博物館の調査隊がテンダグルを訪れ様々な恐竜の追加標本を採集したが、そこにエラフロサウルスはなく、そしてマラリアが調査隊を襲った。1925年にカトラーは――大英自然史博物館における北米産恐竜コレクションを築いた男はそこで死に、1929年には調査隊も撤収したのである。
 以来テンダグルでの大規模調査は行われず、かくしてエラフロサウルスは今日も首なしのままである。とはいえ、成体がリムサウルスによく似た歯のない小さな頭(仮に残っていてもささやかなものだろう。ヤネンシュが旧バージョンのマウントに練り込んだ歯化石は、今日エラフロサウルスのものとは考えられていない)だったのもほぼ確実である。
 ラッセルやガルトンらによって北米産エラフロサウルス属として記載されたいくつかの標本は、結局のところ(ケラトサウリアに属するのは確実なようだが)エラフロサウルス属ではないらしい。アベリサウルス類さえ含まれている可能性もあるようだ。また、他にエラフロサウルス属として記載・命名されたアフリカ産の種も疑問名になったりと散々な結果となった(ニジェールの中部~上部ジュラ系から産出した“エラフロサウルス”・ゴーティエリE. gautieriは新属スピノストロフェウスとなっているが、これはエラフロサウルスと近縁とされている)。とはいえ、少なくとも北アフリカから東アジアの内陸部までエラフロサウルス類が広がっていたのは確かである。
 かなり完全な骨格が発見されながら長らく謎の存在だったエラフロサウルスは、結局のところヤネンシュが漠然とイメージしていた通りの動物だったらしい。フンボルト大学のものではなくなってしまった博物館で、妙に強そうなアーティファクトを頭に据え、今日もエラフロサウルスは走り続けている。

逆襲のギガンティス

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↑Gigantic Tyrannosaurus and Triceratops specimens.

Top to bottom, cf. Tyrannosaurus rex (commercial specimen exhibited at Tokyo International Mineral Fair 2017; femoral length:1.36m); Tyrannosaurus rex "SUE" FMMH PR 2081; Triceratops prorsus MWC 7584 (formerly BYU 12183); "Ugrosaurus olsoni" UCMP 128561. Scale bar is 1m.

 

 あけましておめでとうございます。今年もGET AWAY TRIKE !をよろしくお願いします。う゛ぃじねすのご相談はあらゆる連絡手段にて。

 

 さて、2020年はといえば(先の記事では意図的に端折ったわけだが)化石の商業取引に関する話題が席巻した年でもあった(このところずっとそうだが)。オキュルデンタヴィスしかり、ウビラヤラしかり、スタンそしてモンタナ闘争化石しかりである。

 化石の商業取引の問題については様々な観点から議論がなされており(単純な問題ではないことは間違いのないことである)、「科学的価値」の高さは当然のごとく(しばしば「盛られて」)市場価格をつり上げる理由とされてきた。もちろん、有名どころはネーミングの高さだけで値段がつり上げられることも多く、そこに「科学的価値」が加わることでえげつない(そして制御不能なレベルの)価格となっていくこともままある。「ティラノサウルスの最大の大腿骨」も、かくして表舞台から姿を消したわけである。

 そんなわけで「最大論議」に取り上げられることの(ほぼ?)なかったこの標本であるが、一方でいくつかある「トリケラトプスの最大の頭骨」はいずれも博物館の所蔵品となっており、多少なりとも研究に用いられてきた。トリケラトプス・ホリドゥスとT.プロルススの双方で「最大の頭骨」が複数知られているが、いずれの場合も(推定で)長さ2.4mほどのサイズに収束しており、このあたりが事実上の最大サイズということなのかもしれない。

 この手の話は過去2回ほど(記念すべき本ブログ最初の記事もそれであった)取り上げていたりするのだが、改めて取り上げておきたい。いちおう丑年でもある。

 

MWC 7584(旧BYU 12183)

 BYUやMWCで長らくキャストが展示され、また日本でも茨城県自然博物館のキャストが地方巡業にちょくちょく出ていた(メガ恐竜展でも展示された)本標本は、古くから国内外問わず一定の知名度(何)があった。一方で詳しい研究は(今日でも)行われないままで、2014年になってようやくいくつかの計測値が報告されたにとどまっている。

 この標本は上眼窩角とフリルの大部分(特に頭頂骨)を風化浸食によって欠いており、また上下方向にやや圧縮を受けている(ついでに鼻角には、生前に先端をへし折ったのち、折れた破片がずれた状態で治癒した形跡がはっきり残っている)。かつて長さ2.7mとして喧伝された(日本ではどっかしらで何かの数字がまぎれこんだ結果2.9mとさえ紹介された;この数字をひねくり回した結果が「全長15m」のはずなのだが、出来合いの骨格図をつついて出てくる数字でもない)この標本だが、実際の頭骨長は2.5mがいいところのようだ。とはいえ、妥当な程度に正確な頭骨長を推定できる標本の中では本標本が最大であり、持ち主の全長は少なくとも8m程度にはなるようだ。

 

UCMP 128561

 何を思ったかウグロサウルス・オルソニのホロタイプとして記載された標本ではあるが、とりあえずなにかしらのトリケラトプスであることはほぼ間違いないだろう(前上顎骨の保存されているトロサウルスの標本はわずかだが、とりあえず本標本とはnarial strut-premaxillary flangeのつくりが異なるようにみえる)。T. ホリドゥスにしてはやたら鼻骨突起が太いのだが、その角度はT. ホリドゥスのそれである。これについては単に加齢で説明できそうでもある。鼻面の部分はSDSM 2760(本標本とはずいぶんサイズ差があるのだが)と同様に著しい粗面化をみせており、種小名にふさわしい外見となっていたのかもしれない。いかんせん断片的であるため(本標本のフリルの断片や椎体は吻とサイズが合わないようでもある)頭骨長ひいては体サイズの推定はむずかしいところだが、MWC 7584よりも大きいということはなさそうだ。本標本がT. ホリドゥスだとすれば、フリルはMWC 7584よりも長めに復元してよいかもしれない。

 

 全長でみればどうやってもトリケラトプスは9m止まりのようではあるが、とはいえそのサイズ感はすさまじいはずである(体重も最大のティラノサウルスを上回るだろう)。この手のサイズの部分骨格はYPM 1828が知られている(はず)が、YPM 1828は未記載なのはおろかジャケット(の少なくとも一部)さえ130年ほどの間未開封のままなのであった。

 

(YPMは絶賛リニューアル工事中であるが、とりあえずトリケラトプスのバックヤード組が展示に追加されるということはなさそうだ。T. ホリドゥスのホロタイプは(保存は素晴らしいのだが)とても展示に回せるような代物ではなく(わりとバックヤードの手入れしやすい場所にはあるようなのだが)、YPM 1828の現状もなんとなく想像がつくものである。)

 

 

 

 

 

2020年を振り返って

 年の瀬もいい加減押し迫ってきたところである。あまりにも色々なことのあった2020年であり、毎年恒例ともいえた各種イベントはもろに影響を食らったのは今さら書くこともないだろう。夏の大規模展はお流れとなり、中規模展も規模の大幅縮小でどうにか開催にこぎつけるのがやっとといった状況であった。

 執筆以外の研究活動がまともにできない状況ではあった今年ではあるが、それでもというか、だからこそというか、相変わらず研究の出版は盛んであった。どちらかといえば新分類群の記載よりも既存のものの再記載が目立ったような気もする1年で、スピノサウルスの“ネオタイプ”の追加要素は実に鮮やかであったし、エッグ・マウンテンで発見されたフィリコミス「一家」の化石は(以前から予想されていたようなものではあるが)大変見事であった。ディロフォサウルスやデイノスクスそしてスクテロサウルスの詳細な再記載や、そういえばアロサウルス・ジムマドセニの正式出版も今年のことである。

 

 筆者はといえば割と色々おひろめの予定があったのだが、当然というべきか、ことごとく後ろ倒しになった(だけで済めばよいのだが)。ギャラだけもらって表に出ないのも寂しい話だが、とりあえずは楽しみに待っていてほしいとしか書きようのない昨今である。ノータッチだった本を献本でいただける身分になったといえばそうでもあり、思わぬところから悪の誘いがかかってきたりもした昨今でもある。イベントにおよばれはしても話す機会は今までなかったわけで、VR恐竜シンポジウムは非常に楽しい経験であった(最後の方で筆者がマッドサンダーの話しかしてなかったりもするのだが;古参の読者であれば割と予想のついた展開のはずである)。

 

 こんなご時世なので来年の見通しは全く立たない――わけでもないようだ。ちらほらと来年の話が聞こえてきたりもするのだが、鬼が笑い死ぬレベルで予断を許さない状況ではある(東方の鬼は華扇推しの俗物)。もっとも、先が見えないのはいつもと同じでもあろう。

 

もうひとつのカムイ

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↑Skeletal reconstruction of Kamuysaurus japonicus holotype HMG-1219 and TMP 1989.092.0001 (selected elements).

Scale bars are 1m for entire skeletons and 50cm for skulls.

 

 国産恐竜といえば、「ご当地性」と密接に結びついている以上、マウントの量産はされても県境をまたいで常設展示されることはなかった(ニッポノサウルスが例外だが、まあそういう側面もある)。観光資源化されている以上(むしろ端から観光資源とすべく)、現地に足を運んでもらわなければならないというのは至極当然の発想であった。

 このあたりの思惑はさておき、カムイサウルスのマウントの量産(と言っても2体だけのようだが;生物浸食のせいで見るからに抜きにくそうな形状ではある)と販売が決まったわけである。導入する展示施設があるのか/そもそも買い手は付くのかという話は置いておくとして、見学できる施設が増えるのであれば素直にうれしいところだろう。

 

 さて、カムイサウルスの記載によって東アジアの謎めいたエドモントサウルス類――ケルベロサウルスとライヤンゴサウルスの系統的位置付けが明確になったわけだが、実のところこうした恐竜がいたのは東アジアだけではない。遥かベーリング海峡の向こう、カナダはアルバータ州からも、カムイサウルスに酷似した恐竜が知られているのである。

 それ――TMP 1989.092.0001(お察しの通り1989年の採集である)が発見されたのは、アルバータ州の西のはずれ、ワピチWapiti層のユニットIV最上部のレッドウィロー石炭帯(マーストリヒチアン前期:7090万年前ごろ)であった。ワピチ層といえばパキリノサウルス・ラクスタイPachyrhinosaurus lakustaiがよく知られているが、これはユニットIVの基底部(カンパニアン後期:7380万年前ごろ)からの産出である。

 ワピチ層の露出域は森に覆われている地域が少なくなく、そうしたところでは川沿いの露頭をあたるほかない。アルバータ州南部に目を向ければバッドランドのそこら中に恐竜が転がっているわけで、ワピチ層の化石の研究が長らくぱっとしない状況にあったのは無理もない話であった。ブラウンやラッセル(デイルの方)によるちょっとした探索はどちらもハズレに終わり、1975年のパイプストーンクリークのボーンベッドの発見(ロイヤルティレルが掘る気になったのは80年代になってからだったのだが)まで、ワピチ層が脚光を浴びることはなかったのである。

 それゆえ、TMP 1989.092.0001は下半身だけの部分骨格(尾の一部と腰帯、後肢、部位不明の皮膚痕)ではあったが、十分に貴重な標本であるといえた。ロイヤルティレルの調査隊が2003年になってわざわざ再発掘を試みたほどだったのである。再発掘は大当たりで、前肢の大半や手足の要素、肋骨そしてばらけた部分頭骨が姿を現したのだった。

 

 再発掘によって全身の要素がまんべんなく揃ったTMP 1989.092.0001は、とりあえずcf.グリポサウルスsp.とされた――が、どちらかといえばエドモントサウルスの亜成体によく似ていた(グリポサウルスと共通する特徴もままあったが)。一方で、吻は妙に短かった。本標本が亜成体であることを差し引いても(亜成体同士で比較しても)、明らかにエドモントサウルスより吻が短かったのである。

 系統解析の結果は何というか、なんとなく想像もつくだろうが、エドモントサウルス族を粉砕する始末となった。ブラキロフォサウルス族とサウロロフス族がそっくり残った一方(クリトサウルス族は北米系と南米系で分かれてしまった)、エドモントサウルス族はサウロロフス亜科の基底で見事な多分岐と化したのである。とはいえ、TMP 1989.092.0001がエドモントサウルスにわりあい近縁な(新属)新種であるらしいことは明らかになったのだった。

 

 このあたりの話はカムイサウルスの記載で一言も触れられることはなかったのだが、とりあえずTMP 1989.092.0001の頬骨はカムイサウルスのそれと酷似している(エドモントサウルスのそれとも依然として似ているわけだが)。吻が(エドモントサウルスの類縁にしては)短いらしい点も似ているが、これについてはTMP 1989.092.0001の方が輪をかけて短いのも確かである。

 カムイサウルスの記載された今日、再検討のチャンスが巡ってきているのは東アジアの得体のしれないハドロサウルス類だけではない。ひょっとすると、北アメリカの北部でもカムイサウルスの眷属がのさばっていた可能性があるのだ。

モンタナ・デュエリング・ダイナソーズ;帰還

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 Montana dueling dinosaurs――モンタナ闘争化石の名で知られるそれが日本で話題になりだしたのはいつのころだっただろう。本ブログが今は亡きYahoo!ブログ(実際問題編集ははてなブログよりはるかにやりやすかったのだ)で生まれて日の浅いころに集中的に取り上げた話題でもあったが、オークションが不発に終わって以降、目立った(それも希望の持てる――真っ当な研究機関に入るという――)情報はないまま月日ばかりが経っていったわけである。

 化石業者によって「ナノティラヌスと新種の角竜の闘争化石」として喧伝されたそれは、“ナノティラヌス段階”としては最も状態のよい(ジェーンでほとんど知られていなかった首と完全な前肢を保存していた)骨格と、ヘル・クリーク産のケラトプス科角竜化石としては有数の保存状態(完全な尾とフリルの皮膚痕を保存していた)の骨格から構成される。どちらか単体でも極めて貴重な――昨今の事情から言えば大それた値段のつきそうな――化石であったのだが、両者は近接した状態で化石化していたのである。そして角竜の背中には“ナノティラヌス”の歯が埋まっていた。さらにどういうわけか“ナノティラヌス”の(顎に植わっていた)歯はかなりの数がへし折れた状態であり、かくして化石業者――アケロラプトルの模式標本群となる標本を市場へ流した業者――は、ブラックヒルズにクリーニングを委託しつつ、これらの標本を”Montana Dueling Dinosaurs”として喧伝したのであった。

 

 販売は(例によって土地の権利関係やらも絡み)当初の思惑通りにはうまくいかず、“ナノティラヌス”の頭骨と前肢のキャストが市場へと流れるに留まった(日本でも頭骨が少なくとも1セット販売されている)。ドリプトサウルスめいた奇怪な“ナノティラヌス”の前肢は“ナノティラヌス”の独自性の根拠の最後の砦とすらなっているのだが、気が付けば発見から14年の間、(まっとうな)学術的に言えば手つかずの標本だったのである。

 スタンの原標本が驚天動地の値段で個人コレクターの手に渡った一件もあり、もはやモンタナ闘争化石について絶望的なムードさえ漂っていた昨今ではあったが、どういうわけかノースカロライナ自然科学博物館が本標本を取得することとなった。

 

(かくしてモンタナ闘争化石の研究の道がようやく開かれたが、手放しで喜んでいい話のはずがないのは言うまでもない。具体的な購入ルートやらなんやらが非公表なのはある種当然のことでもあるが、相当な金額が動いたのは違いないことで、「重要な」標本の取引価格の高騰に歯止めがかからなくなっているのはスタンの一件で明らかである。)

 

 ノースカロライナ自然科学博物館といえば、アクロカントサウルスの“フラン”の購入と記載を巡ってブラックヒルズやSVPとは因縁浅からぬ仲でもある。とはいえ、今後の研究についてさほど心配はいらないだろう。(販売のために)すでに部分的なクリーニングのなされたモンタナ闘争化石は2022年に展示としてお披露目され、そこから5年計画でクリーニングが進められるという。気の長い話だが、モンタナ闘争化石はいつもそこにある。