GET AWAY TRIKE !

恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

美しかったもの

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↑Skeletal reconstruction of cf. Pinacosaurus sp. MPC-D 100/1305. Scale bar is 1m.

 

 サイカニアといえば、「エウオプロケファルスと違って前肢やわき腹にも鎧が存在する」ということで名前を覚えた方も多いのではないだろうか(筆者もそのクチである)。「前肢やわき腹に鎧が存在する」鎧竜の化石は稀であり、従ってこれを化石化の過程によるみせかけと見る向きさえあったわけである。しかし、不穏なタイトルから既にお察しの方も多かろうが、「前肢やわき腹に鎧が存在するサイカニアの全身骨格」は――頭部以外は――サイカニアではなくなってしまった。モンゴル古生物学センターの所蔵するオリジナルがたびたび来日し、また神流町恐竜センターにて見事なキャストが常設展示されている「サイカニアの完全な骨格」は実のところコンポジットであり、そしてサイカニアの要素は頭部――ホロタイプのキャストが据えられていた――に限られていたのである。


 アンドリュース率いるAMNHの遠征隊による調査やソ連によるWWⅡ直後の調査によってゴビ砂漠に広がる上部白亜系では様々なアンキロサウルス科の化石が採集されてきたが、「まともな骨格」――頭骨と首から後ろの要素がほどほどに揃った骨格はなかなか出てこなかった。全身の要素が最もよく残っていた“シルモサウルス・ヴィミニカウドゥスSyrmosaurus viminocaudus”のホロタイプPIN 614でさえ首なしの有様だったのである。

 1960年代になるとポーランド隊がモンゴル入りし、そこで多数の良好な鎧竜化石を得た。アンドリュース隊によって発見・命名されたピナコサウルス・グレンジャーリの実態が(ある程度)明らかになったのはこの時であったし、美しく関節したアンキロサウルス科の上半身――後のサイカニア・フルサネンシスのホロタイプとなる標本MPC-D 100/151もポーランド隊の手によって発掘された。これらの化石は董枝明言うところの「モンゴル―ポーランド娘子軍」の一角を担っていたマリヤンスカによって記載され、そして彼女は鎧竜の権威として名を馳せていくのであった。


 さて、サイカニアのホロタイプはワルシャワのポーランド科学アカデミーにて産状レプリカが展示されたオリジナルは容赦なくクリーニングされた)のだが、三次元的にマウントされることは(モンゴルに返還された今日でも)なかった。一方で、1990年代後半から「サイカニアの全身骨格」として注目を集めるようになったのがMPC-D 100/1305である。
 MPC-D 100/1305の背面にはほとんど鎧が残っていなかったのだが、前肢やわき腹、そして尾には見事な鎧が残されていた。特にわき腹のものは――90年代までクリーニングされていなかったようなのだが――バルスボルドが「北斎の波」に例えたほどの代物である。
 1995年夏の時点でMPC-D 100/1305は中途半端な状態で展示されていた(「完全にクリーニングされた頭蓋と下顎」、皮骨ごと関節したままの前肢、クリーニング半ばのわき腹のブロック、バラした後肢、関節状態の尾が床に並べられていた)のだが、ほどなくしてこれは(展示に回されていなかった残りの頸椎や胴体のブロックともども)マウントされた。ここに「最も完全な鎧竜の骨格」が組み立てられ、世界を巡るようになったのである。


 「サイカニアの全身骨格」がよく知られるようになる一方で、依然としてモンゴル産鎧竜類のまともな骨格はピナコサウルスの幼体しか見つからない状況が続いていた(ピナコサウルス・メフィストケファルスP. mephistocephalusのホロタイプIMM 96BM3/1を筆頭に3m級の骨格が見つからないわけでもなかったのだが、それらの首から後ろの要素は未記載のままである)。こうした中で、カーペンターを筆頭にMPC-D 100/1305の詳細な骨学的研究が行われることになった。
 満を持して2011年に出版されたモノグラフはMPC-D100/1305の骨学的な記載はもちろんのこと、ハンマーの力学的な解析をもおこなった代物であった。ホロタイプとの間にみられる上腕骨の形態差から、性的二形が存在する可能性にまで踏み込んだ、野心的な論文でもある。カーペンターによる(かなり胡散臭い)骨格図まで添えられ、原記載から30年余りでサイカニア・フルサネンシスの実態が明らかになった。――はずだった。


 博士課程でその辺のアンキロサウルス類の化石を片っ端から引っ掻き回していたアルボアはあることに気付いた。カーペンターらのモノグラフでMPC-D 100/1305の産地はサイカニア・フルサネンシスのホロタイプMPC-D 100/151と同じフルサン――バルンゴヨットBaruungoyot層とされていたのだが、所蔵先のモンゴル古生物学センターの記録では、MPC-D 100/1305は1976年のモンゴル―ソ連共同調査によってザミン・コンド――ジャドフタDjadokhta層で採集されたことになっていたのである(採集されてから20年近くに渡って中途半端なクリーニングで放り出されていたということらしい)。
そしてアルボアはとんでもないことに気がついた。MPC-D 100/1305のマウントに据えられていた頭はMPC-D100/151すなわちホロタイプのキャストその人だったのである(写真で見てもクラックの入り方が完全に一致する)。どういうわけかカーペンターらはMPC-D 100/1305の頭骨がまるっきりMPC-D 100/151と同じものであることに気が付かなかったらしい。

 

(そもそもカーペンター本人がMPC-D 100/1305の実物にどの程度アクセスできたのかは割と謎である。実物はどうも日本に来日した隙に(恐らく著者のうち日本人の誰かが)撮影・観察したらしい。モンゴルのこの手の標本はなぜか実物のマウントが(長期に渡って)巡回に回ることが多く(その間キャストが留守番である)、アルボア自身はMPC-D 100/1305の実物を観察することはかなわなかったという。鎧竜に限らず、この手の話を嘆く声はモンゴル絡みの文献でよく目にするものである。)


 カーペンターらがモノグラフで「サイカニアの全身骨格」を記載するにあたり、その同定――サイカニア・フルサネンシスへのよりどころとしたのは頭骨――サイカニア・フルサネンシスのホロタイプMPC-D 100/151その人だった。つまり、MPC-D 100/1305そのものをサイカニア・フルサネンシスと同定する積極的な根拠は何もなかったのである。そしてカーペンターらが記載した通りMPC-D 100/1305の上腕骨の形態はMPC-D 100/151とは大きく異なっており(それ以外にもちょこちょこ形態差があった)、そもそもサイカニアとは別物の可能性が急浮上したのだった。バルンゴヨット層の方がジャドフタ層よりも新しいという話はダメ押しにしかならなかったのである。


 かくしてMPC-D 100/1305がサイカニア・フルサネンシスでないことはほぼ確実になったのだが、いかんせん首なしということで科レベル以上の同定は厄介な案件であった。アンキロサウルス科の鎧の実像を最もよく示している標本のひとつであり、依然として首から後ろはほぼ完全であるにも関わらず、である。MPC-D 100/1305の採集されたザミン・コンドでは他にも林原隊によって複数のアンキロサウルス科の化石が採集されていたが、これらは記載待ちの状況であり、現状で比較することはできなかった。
 そのくらいでへこたれるアルボアではなく、次に目を付けたのがMPC-D 100/1305の鎧の配置パターンであった。アンキロサウルス科の鎧の基本配置パターンはいずれも同じらしいが、それぞれの鎧やトゲのサイズ、形状は属レベルで(ひょっとすると種レベルでも)異なっている。そして、MPC-D 100/1305と酷似した鎧をもつ化石はすでに知られていたのである。
 その化石――持ち帰るあてがなかったのか、未採集で放棄された――は、1993年から始まったAMNHの「レコンキスタ(Gレコはケルベスとリンゴくんがお気に入りの筆者)で、ウハ・トルゴッド――ジャドフタ層にて発見(そして撮影)されたものだった。頭骨とハンマーそして背面の鎧は浸食で失われていたものの、わき腹から尾にかけての側面鎧はしっかりと生前の配置を留めており、MPC-D 100/1305と酷似していたのである。
 ウハ・トルゴッドでは多数の鎧竜の化石が採集されていたが、それらは全てピナコサウルス・グレンジャーリであった。問題の未採集標本の同定は今となってはかなわないが、産地からしてみるとP. グレンジャーリの可能性が高そうであり、そしてそれはMPC-D 100/1305にも言えそうだった。


 そうは言っても、現状でMPC-D 100/1305をピナコサウルス・グレンジャーリと断定することは難しい。P. グレンジャーリとして詳しく記載された標本は幼体といってよいサイズのものばかりで、亜成体サイズのMPC-D 100/1305との比較はそう簡単にはいかないのである(実際問題、MPC-D 100/1305の烏口骨の形態はアラグテグAlagteeg層産のP. グレンジャーリの幼体とは大きく異なっている)。また、今日P. グレンジャーリの亜成体ないし成体とされている“シルモサウルス・ヴィミニカウドゥス”(のホロタイプ)はMPC-D 100/1305よりも明らかに尾が長い(そもそも尾椎がずっと多い)。このあたり、林原がジャドフタ層からかき集めてきた標本が重要な役割を担うことになりそうでもある。
 首なしだったとはいえ、MPC-D 100/1305は依然としてアンキロサウルス科の化石としては最良のもののひとつであり続けている。モンゴル産のものとしては数少ない亜成体サイズのまともな骨格であり(それゆえ同定が難しいという側面もあるが)、ネメグトNemegt層で時おり産出する大型のアンキロサウルス類の断片の研究にもずいぶん役立っているのだ。そして何より、前肢やわき腹の鎧の配置を保存しているのは未だにMPC-D 100/1305ただひとつなのである。
 MPC-D 100/1305が“美しいもの”――サイカニアから切り離されたことで、結局サイカニアの実態は闇の中に再び引き戻されてしまった。しかしMPC-D 100/1305は――赤い砂の海に白く砕けた波は、今日もまだ美しくそこにある。

もうひとつの謎【ブログ開設6周年記念記事】

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Composite reconstruction of latest Cretaceous therizinosaurid---using Erlikosaurus skull and pes, Nanshiungosaurus neck and torso, Therizinosaurus forelimb (and pes), and Nothronychus hindlimb and tail.

Scale bar is 1m for Therizinosaurus cheloniformis MPC-D 100/15.

 

 6周年である。小学生が中学生になるわけで、まあうまい具合に骨格図はちらほら見かけるようになったわけである。

 

 まもなく閉幕する恐竜博2019の目玉の一つが、デイノケイルスの復元骨格――3体からなるコンポジットだったわけである。系統関係についてはここ20年あまりでほぼコンセンサスが得られていたとはいえ、ホロタイプ――肩帯と前肢だけで復元がおぼつくはずはなく、2体の新標本の重要性については今さら書くまでもない。

 さて、モンゴルはネメグト層といえば、デイノケイルスのほかにももうひとつ、巨大な(この場合あくまでも絶対的なサイズであり、デイノケイルスにおいては前肢は特別目立つプロポーションではなかった)前肢をもつ恐竜が知られている。デイノケイルス・ケロニフォルミスはデイノケイルスより以前から知られていた種であるが、しかし今日に至るまで、肩帯と前肢、わずかばかりの肋骨と足が知られているだけなのであった。その一方で、ここ20年、我々はテリジノサウルスの姿についてなにがしかのコンセンサスらしいビジュアルを見続けてきた。――グレゴリー・S・ポールによる、「テリジノサウルス類」の復元である。

 

 テリジノサウルスのホロタイプPIN 551-483が発見されたのは、1948年のソ連モンゴル遠征においてであった。これは巨大かつ妙に薄っぺらな前肢の末節骨(の破片)が3本ぶんと、やたらごつい肋骨の破片、それから長骨の破片(原記載では中手骨とされたが、実際には中足骨であるようだ)からなっており、当時の知見からしてみれば恐竜とは同定しがたい代物だった。テリジノサウルスの肋骨は何ともなしにプロトステガやアーケロンと比較され、かくして「巨大なカメ様の爬虫類」として記載されたのであった。1970年になってようやく、ロジェストヴェンスキー(ここぞというときに存在感を発揮する)によって獣脚類として再記載されたのである。

 

(ロジェストヴェンスキーはこの時、テリジノサウルスの前肢について、シロアリの塚を崩したり、木の実を集めるためのものと推察している。このあたり、ロジェストヴェンスキーの非凡な才がうかがえる。)

 

 テリジノサウルスの前肢の実態が明らかになったのは、1976年になってからであった。バルスボルドによって記載されたそれは部分的な肩甲烏口骨と前肢の大半、それから肋骨要素からなっており、テリジノサウルスと同定するのはたやすいことであった。復元された前肢の長さは2.5mに達し、テリジノサウルスはデイノケイルスをも上回る巨大な前肢の持ち主であることが明らかになった――が、その全体像はまったくの闇の中にあった。バルスボルドはテリジノサウルスがデイノケイルスと近縁である可能性を指摘したが、前肢のサイズ以外に特別な類似もなかったのである。

 

 1970年代の終わりから80年代にかけてセグノサウルス類の化石が続々と発見されるようになるにつれ、どうもテリジノサウルスがセグノサウルス類と近縁である可能性がささやかれるようになった。ヘルミンツァフで発見された部分的なセグノサウルス類の足は、(特に重複する部位はなかったのだが)どうもテリジノサウルスの気があったのである。

 1980年代の半ば過ぎには(依然として恐竜類の中での位置付けははっきりしなかったのだが)セグノサウルス類の姿は何となく復元できるようになっていた。エルリコサウルスの頭と足にナンシュンゴサウルスの首と胴、セグノサウルスの前後肢。4足歩行にさえ復元されたこの奇怪な恐竜の分類を決定付けるためには、アラシャサウルスの発見を待たねばならなかったのである。

 アラシャサウルスの発見により、テリジノサウルスとセグノサウルス類がごく近縁であること(セグノサウルス類はそのままテリジノサウルス類と呼ばれるようになった)、そしてテリジノサウルス類が獣脚類であることが明白となった。ここに至り、ポールはそれまでちょこちょこ露出のあった自前の「セグノサウルス類の合成骨格図」にテリジノサウルスの前肢をぶち込んだ。かくして、「テリジノサウルスの復元画」のイメージが定まったのである。

 

 それから20年以上が過ぎたが、今日でもポールによる合成骨格図はテリジノサウルスの復元のベースとして用いられている。もっとも、ノスロニクス、スジョウサウルスの発見により、ポールの合成骨格図からもう一歩踏み込んだ解像度での復元が可能となっている昨今でもある。

 デイノケイルスの全身骨格が復元できるようになった今日、テリジノサウルスの全身骨格の発見にも期待がかかる。いかにそれらしく復元できるようになったとはいえ、テリジノサウルスそのものの確実な骨格要素は、ほぼ前肢のみに限られているのが現状なのだ。デイノケイルスの系統関係はしばらく前から(おおざっぱに)定まっていたとはいえ、発見された骨格はそれまでの「復元」とはかけ離れたものであった。実のところ「鎌状」の末節骨をもつテリジノサウルスの前肢はテリジノサウルス類の中でもぶっ飛んだ形態であるのだが、ではそれ以外はどうだろうか。

 

 

いつの間にか

 いろいろとバタバタしているうちに、うっかりブログ開設から6周年が過ぎていました。例によって更新は滞りがちですが、(本来の目標通り)のんびりまったりゆるくやっていきたいところです。

 

 去年あたりからほのめかしていたことですが、この1年間でいろいろなことが(計画通りに)ありました。ブログ立ち上げから苦節(特に苦労はしていない)6年、もろもろの下心はいろいろな形で結実したようです。

 というわけで、すべての“関係者”のみなさまに感謝を。GET AWAY TRIKE !はすでにそこかしこに浸透しています。ここまでお付き合いいただいている読者のみなさま。備えよう。

朱い砂、白い骨

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Skeletal reconstruction of Velociraptor mongoliensis largely based on MPC-D 100/25 ("fighting dinosaurs").
Scale bar is 1m for MPC-D 100/25.

 

 今日非常に高い知名度を誇るヴェロキラプトルが最近見つかった恐竜などではないことは、賢明なるGET AWAY TRIKE !の読者の皆様には今さら言うまでもないことである。原記載ではほとんど頭骨しか知られておらず、ぱっとしない知名度であった下積み時代を経ての「格闘化石」の発見、そしてジュラシック・パークへの大抜擢(特に映画)、羽毛恐竜への「昇格」と順調にスター街道を上ってきた感のある恐竜だが、しかし一方で(それ故に、というべきでもあろうか)、その実態は案外不確かでもある。


 ロイ・チャップマン・アンドリュースの特に前半生といえばそんじょそこらの冒険映画の主人公が寄ってたかって敵うかどうか(あたりまえ)といった代物なのだが、最も有名なのがかの1920年代の中央アジア調査――人類化石を求めたAMNHの内外モンゴル遠征であった。
 ヘッケルのレムリア(この場合ムー的な意味ではない)起源説に始まり、デュボアによるジャワ原人の発見、そしてアンダーソン(本ブログ読者にはおなじみ)とグレンジャー(ピナコサウルスの種小名にその名を残す)による周口店での古人類の痕跡の発見(北京原人の化石そのものの発見は数年後ツダンスキーによってタニウスとエウヘロプスの発見ついでに成し遂げられた――これも後の記事を参照)により、この時期人類のアジア起源説は最高潮にあった。何しろ明確な化石証拠に支えられているわけで、グレンジャーやマシュー、そしてオズボーンにアンドリュースその人と、当時のAMNHの化石哺乳類担当もこの「定説」を支持していたのである。
 かくしてアンドリュース率いるAMNHの遠征隊は一路モンゴルへ向かい、もろもろの困難(自然ばかりが問題だったわけではないが、GPSもない時代である)と戦いつつ化石を捜し歩くこととなった。が、AMNHのメンバーが当初期待したような成果は上がらなかったのはよく知られた話である――アンドリュース隊が内外モンゴルから華々しく持ち帰ったのは、アンドリューサルクスや“バルキテリウム”(懐かしい響き)のような古第三紀の哺乳類化石と、それから無数の白亜紀の恐竜化石であった。


 古人類化石が一向に見つからないまま、アンドリュース隊がたどり着いたのが運命の場所――フレーミング・クリフであった。夕陽を浴びて燃えるように輝くその丘――モンゴル語ではその朱い砂岩にちなんで赤い崖――バイン・ザク――と呼ばれていたその丘で、アンドリュース隊は多数の恐竜化石、哺乳類化石、そして「恐竜の卵」を多数得たのである。
 アンドリュース隊は1923年の夏の間しばらくバイン・ザクに滞在して発掘を行ったが、そこでカイゼン――AMNHの誇る当時世界最強のプレパレーター――がプロトケラトプスの頭骨の脇で小さな獣脚類の頭骨を発見した。頭骨はひしゃげてこそあれ完全といっていい状態で保存されており、また同一個体と思しき部分的な手も残されていた。
 同じ丘で採集された多数の化石と共にニューヨークへ凱旋したその部分骨格AMNH 6515は、翌1924年には早速オズボーンによって一般向けの雑誌にて紹介されることとなった。“オヴォラプトル・ジャドフタリOvoraptor djadochtari”の「仮名」で掲載されたそれは、その年のうちに正式記載されヴェロキラプトル・モンゴリエンシスのホロタイプとなったのである。

 

(この時バイン・ザクではもう1体のヴェロキラプトル――AMNH 6518が採集されていた。これは上顎骨と部分的な前後肢(足はほぼ完全であった)からなっていたのだが、いかんせん頭骨要素に乏しかったためか特に記載されることもなかったのである(そもそも当初ヴェロキラプトルとは同定されていなかったようでもある)。オストロムはデイノニクスの記載にあたり、AMNH 6518の足がデイノニクスに酷似していることを述べている。)

 

 オズボーンはどういうわけか(メガロサウルス科が当時どれほど「ゴミ箱」だったかを如実に示すエピソードでもある)ヴェロキラプトルをサウロルニトイデスともども「(華奢で小型ではあるが)典型的なメガロサウルス類」の特徴をもつとし、これらをメガロサウルス科とした。同じジャドフタ層(カンパニアンのいつか;ざっくり7、8000万年前)で発見されたプロトケラトプスや「プロトケラトプスの卵」、そしてオヴィラプトルは広く注目された一方で、ヴェロキラプトルやサウロルニトイデスは特段脚光を浴びることもなかったのである。


 政治状況に翻弄されるまま1930年の調査を最後にアンドリュース隊はモンゴルから締め出され、また中国―スウェーデン隊の調査は(恐竜に関しては)いまいちぱっとしないまま終わり、そして冷戦の幕開けと共にやってきたのはソ連隊であった。アンドリュース隊の再現を目指したソ連隊の大規模調査はネメグト――アンドリュース隊のたどり着けなかった一大産地の発見で報われたわけだが、ジャドフタ層の露出域では特筆すべき発見はなかった。
 そういうわけでこの間ヴェロキラプトルに関する続報が出るはずもなく、当然大した注目を集めることもなかったのだが、1969年のデイノニクスの「発見」で事情は変わった。オストロムはデイノニクスとドロマエオサウルスそしてヴェロキラプトルがごく近縁であることを見抜き、ここに初めてドロマエオサウルス科の実態が(まだおぼろげだったのだが)示されたのである。ヴェロキラプトルはドロマエオサウルス科としては当時唯一完全な頭骨の知られているものであった(記載は古いままだったのだが)。
 デイノニクスの「発見」でドロマエオサウルス科の骨格復元が可能になったとはいえ、依然としてデイノニクスの骨格は不完全な代物であった(肩帯や腰帯のつくりがはっきりしていなかった)。とはいえ、1970年代に入りポーランド―モンゴル共同調査やソ連―モンゴル共同調査によってジャドフタ層露出域の新産地――バイン・ザクから西へ30kmほどのトゥグリキン・シレ(目のさめるような朱色のバイン・ザクとは異なり、こちらの砂岩は白みの強い黄土色である)が開拓されたことで、このあたりの知見は一気に推し進められることとなった。ヴェロキラプトルの複数の良好な頭骨や初めての全身骨格――格闘化石が発見されたのである。
 プロトケラトプスの全身骨格は別段珍しいものでもなかった(アンドリュース隊の調査ですでに完全なものが知られていた)が、1971年のポーランド―モンゴル共同調査によって発見されたそれは、小型獣脚類――ヴェロキラプトルと向かい合った状態で保存されていた。プロトケラトプスMPC-D 100/512の骨格は風化して砂に還りつつあったのだが(もともと頭骨が露出した状態で、そういうわけで頭の上半分はごっそり失われている)が、そっくり埋まったままだったヴェロキラプトルMPC-D 100/25は完全な状態であり(胴体は左右方向にかなり潰れてはいたのだが)、そしてその右前肢はプロトケラトプスの口の中にあった。クリーニングが済んでみればヴェロキラプトルシックルクローはプロトケラトプスの喉元に蹴り込まれており、これらの骨格は「格闘化石」として名を馳せるようになった。

 

(ジャドフタ層はソ連の研究者によって浅い湖に注ぐ河川成デルタ相とされており、これを受けたバルスボルドは当初「格闘化石」がもつれ合った末水中に転落・溺死した成れの果てであると考えた。今日ジャドフタ層は基本的に風成であると考えられており、「格闘化石」は砂嵐あるいは砂丘の崩壊によってほぼ瞬時に埋積されたものとされている。どういうわけかプロトケラトプスMPC-D 100/512の両前肢と左後肢は発見されなかったのだが、完全に埋積される前にスカベンジャーに前後肢をもぎとられた可能性をカーペンターは述べている。)


 MPC-D 100/25は(今なお)最も完全なヴェロキラプトルの骨格にして派生的なドロマエオサウルス類としても最も完全な骨格なのだが、結局今日に至るまで詳細な骨学的研究は行われていない(尾を欠くとはいえこれに匹敵する骨格がサウロルニトレステスで知られているが、現状では頭骨の記載に留まっている)。頭骨こそそ詳しく記載されたが、それ以外はバルスボルドによって散発的に一部が抜き出されて記載されたきりである。こうした事情もあり、ポールは乏しい写真とデイノニクスのモノグラフに基づいてヴェロキラプトルの骨格図を(それも「大まかなもの」と自ら前置きしたうえで)描き起こすほかなかった。
 1980年代当時、依然としてドロマエオサウルス科の化石はごく限られたものしか知られておらず、ましてや記載されたものはなお限られていた。まともな頭骨要素はヴェロキラプトルのほかはドロマエオサウルスとデイノニクスしか記載されておらず(つまりオストロムの研究以降、ドロマエオサウルス科の頭骨に関してはヴェロキラプトルの頭骨の追加情報のほかは実質進展がなかったのである)、そしてヴェロキラプトルの頭骨はドロマエオサウルスよりはずっとデイノニクスに似ていた。かくしてポールはデイノニクス・アンティロプスをヴェロキラプトル・アンティロプスとし、ポールの一般書――肉食恐竜事典にインスパイアされたのがクライトンだった。ここに全長4m近い「ラプトル」が生まれ、やがてスクリーンの外までを席巻するようになったのである。

上で述べた通り、ポールの描いたヴェロキラプトル・モンゴリエンシスのうち「初期バージョン」(90年代まで使っていたもの)はかなりの部分をデイノニクス・アンティロプスの情報で補っており、従ってV.モンゴリエンシスの実態とは(本人も端から認めている通り)だいぶギャップがある(一方で、D.アンティロプスの頭骨はV.モンゴリエンシスを参考にせざるを得なかったわけで、つまりどちらも初期バージョンの骨格図はちゃんぽんになっている。のちに描き直したバージョンは細部まで手が入っており、少なくとも初期バージョンよりはずっとよく実態を示している)。こうした「ちゃんぽん」が拡大された結果がジュラシックパークの「ラプトル」なわけだが、一方で80年代~90年代の「ポール以外」によるデイノニクスの復元も実態とはだいぶかけ離れたものであり(特に頭骨;オストロムによる初期の復元が当時でも主流であった)、このあたりデイノニクスやヴェロキラプトルの実態を(羽毛は抜きにしても、あれだけ化石が出ていたのにも関わらず)捉えていたのは当時誰もいなかったとさえいえるのかもしれない。)


 「格闘化石」の不甲斐なさをカバーすべく、70年ぶりにモンゴルへ「再上陸」したAMNHのチームは精力的にヴェロキラプトルの新標本の記載を行った()。が、依然として「格闘化石」を凌ぐ完全度のものはなく、そんなこんなでヴェロキラプトルの骨学的記載は(全身骨格が知られているにも関わらず)不完全なままである。ジャドフタ層とほぼ同時代とされる内モンゴルのバヤンマンダフ(バインマントフ)Bayan Mandahu層でもヴェロキラプトルらしい化石がしばしば発見されているが、これらの記載はなお乏しい。
 オストロムによるデイノニクスの「発見」は獣脚類と鳥類との形態的類似を強く示すものだったが、叉骨や骨化した胸骨、鉤状突起(デイノニクスでも発見されていたが、腹骨の一部と誤同定されていた)、そして羽軸こぶの存在と、鳥類との形態的類似をさらに強く示したのはヴェロキラプトルであった。羽毛をむしられてなお鳥に似たその恐竜は、今日もその系統的なつながりを画面の中から訴え続けている。

奇跡の海

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Skeletal reconstruction of Kamuysaurus japonicus holotype HMG-1219. Scale bar is 1m.

 

 言うまでもなく全てはひとつのイベントに収束したわけである。果てしなく続くかに見えた(そして筆者もその片棒のすみっこをなでくりまわした)メディア戦略の末、むかわ竜はカムイサウルス・ジャポニクスとして記載されるに至った。発見の経緯は様々な場所で散々語られている通りであり、というわけで本ブログではそのあたりは省きつつ(白々しく)カムイサウルスのもろもろについて書き散らかしておきたい。先に断っておけば、記載論文の内容は基本的に6月に学会・報道発表されたものと同様である。

 

Zoobankに登録されているとはいえ、論文中でリンクの漏れがあったため、厳密に言えば現時点で“Kamuysaurus japnocus”はnomen nudum――裸名(学名としての条件を満たしていない)の状態にある。近年の電子媒体のみによる新種の記載・命名に伴うもろもろのICZNの規約改訂は周知が明らかに追いついておらず(今回のケースに関していえば、このあたりの不備を指摘すべき査読者・編集もそのあたりが抜けていた格好である)、実のところこうしたケースは珍しくないようだ。ホロタイプの指定やら産地情報の抜けやらといった倫理的な要素をはらみかねない問題ではなく、単なる手続き上のうっかりミスといえばそれまでの話で、従って後日の「リンク漏れ訂正」の出版をもって“Kamuysaurus japnocus”はそのまま有効名にスライドするだろう。カムイサウルスの独自性やホモニムすなわち異物同名――かぶっちゃった結婚が疑われているという話ではない。)

 

 カムイサウルスの時代は発見当初から、「7000万年前」(GTS 2004準拠)、あるいは「7200万年前」(GTS 2012準拠)と言われていたが、これはつまり察しのいい(というか日本の上部白亜系の生層序をかじったことのある)人なら一発でピンときた通り、カムイサウルスが蝦夷層群函淵層のIVbユニットから産出したことを意味していたわけである。IVbユニットからは様々なアンモナイトやイノセラムスの他、“モササウルス”・ホベツエンシスやフォスフォロサウルス・ポンペテレガンス、メソダーモケリスといった脊椎動物化石が知られていた一方で、恐竜の化石は(函淵層全体を見渡しても)初めての産出だったわけである。函淵層のIVbユニットはノストセラス・ヘトナイエンゼ帯――北西太平洋地域の上部白亜系の生層序区分のうち、最下部マーストリヒチアンに相当するもの――にあたり、従ってカムイサウルスの時代はマーストリヒチアンの初頭、すなわち(ざっと)7200万年前と言うことができる。カムイサウルスの産出層準の直下および直上からはパキディスカス・(ネオデスモセラス)・ジャポニカム――ノストセラス・ヘトナイエンゼ帯を代表する通常巻アンモナイトも産出しており、カムイサウルスの時代論についてはかなりの自信をもって言い切ることができるといえよう。

 

(よく言われることではあるが、海生無脊椎動物の生層序で時代を論じられるのは、海成層から産出した強みではある。カムイサウルスと姉妹群になったケルベロサウルス-ライヤンゴサウルスについては、ここまではっきりした時代を絞り込むのは現状難しい。)

 

 これまた発掘当初より言われていた話ではあったが、カムイサウルスは関節がつながった状態で保存されていた――が、蓋を開けてみれば、思いのほか関節が外れかかっていた(=海底でかなり腐乱していた)ようである。骨格は部分的にしかノジュール化しておらず(なにしろ全長8mの中大型恐竜である)、ノジュール化していなかった部分では凍み上がりやらなんやらで保存状態はかなり悪い。そもそも化石化の初期段階で生物侵食を受けているようであり、骨の表面にはさまざまな「虫食い」がはっきり確認できる。骨格は小断層でぶった切られていたのだが、なぜか左の大腿骨が(左の脛を本来の位置に置き去りにしたまま)ばらけた頭骨の付近に移動しており、ひょっとすると何かしらの大型スカベンジャーの仕業なのかもしれない。腰の保存はかなり悪く(腰帯の要素は揃っていたものの仙椎がなぜかそっくりなくなっている)、このあたりも初生的な生物侵食と後生的な侵食の相乗効果によるのだろう。

 カムイサウルスの“ホロタイプ”(厳密さを期すならば、上述の通り、カムイサウルスが有効名にスライドして初めてホロタイプとなる)HMG-1219が産出した函淵層IVbユニットは下部砂質シルト岩層とも呼ばれ、その名の通り主に砂質シルトや砂質泥岩からなっている。穂別周辺の函淵層は現状(出版されている限りでは)あまり詳しい堆積学的研究が行われているというわけではないのだが、とはいえ古くから今日までずっとIVbユニットは外側陸棚――大陸棚の縁辺部(ざっと水深80~100数十m程度)の堆積物として扱われている。この細粒の堆積物とは明らかに異質な直径3cmほどの円礫が2つと直径1cmの亜角礫がカムイサウルスと共産しており、これらは胃石なのかもしれない。

 

 系統解析の結果、(6月の発表ですでに明らかにされていたことだが)カムイサウルスはケルベロサウルス-ライヤンゴサウルスクレードと姉妹群となり、エドモントサウルス族に含まれることとなった。もっとも、小顔かつスレンダーなカムイサウルスは、大きな頭をもちどっしりしたエドモントサウルスやシャントゥンゴサウルスとはだいぶ毛色が異なり、どちらかといえばブラキロフォサウルス族やクリトサウルス族的な見てくれである。カムイサウルスはブラキロフォサウルス族やクリトサウルス族、サウロロフス族の細かな特徴もモザイク的に保持しており、(時代はむしろシャントゥンゴサウルスやライヤンゴサウルスより新しいようなのだが)エドモントサウルス族のあけぼのの姿を残しているのかもしれない。

 恐竜博2019のパンフレットには最初から露骨な記述があり、そもそも筆者は昨年秋の時点で目の当たりにしていたことでもあるのだが、カムイサウルスの頭蓋天井――前頭骨(生物侵食のせいで保存はいまいちなのだが)には、長く伸びた鼻骨の「乗り上げ面」が存在する。この面(縁がやや盛り上がっている)に鼻骨が乗り上げるように関節するわけなのだが、この関節面の作りはエドモントサウルスではなく(亜成体の)ブラキロフォサウルス――鼻骨からなる板状のクレストが頭蓋天井を半ば覆う――と酷似している。この特徴はすなわち、カムイサウルスがブラキロフォサウルスの亜成体様のクレストをもっていたことを示唆している。だとすればハドロサウルス亜科(筆者はむしろサウロロフス亜科を使うタイプの人類である)の4大グループは、全てなにかしらの鼻骨クレストをもっていた格好になる。カムイサウルスのクレストは、ひょっとするとサウロロフス族とエドモントサウルス族の共通祖先から引き継いだものなのかもしれない。

 

 ケルベロサウルスにせよ(もっぱらケルベロサウルスのシノニムとして扱われるクンドゥロサウルスにせよ)ライヤンゴサウルスにせよ、ボーンベッドからの産出ということもあって、その実態は不明瞭であった。アジアの真正ハドロサウルス科は依然として実態のはっきりしないものが少なくなく、また時代論がおぼつかないものも多い。その中にあって、カムイサウルスは生息時代もその姿もかなりはっきりと示すことができる、唯一とさえ言えるものである。

 カンパニアン-マーストリヒチアン境界前後の日本列島がユーラシア大陸の縁辺部だったことは今さら書くまでもないことである。当時の大陸縁辺部の陸上生態系の情報は日本中の化石をかき集めてもおぼろげなものではあるが(かき集めるのがそもそも妥当かという問題もある)、それでも和泉層群や那珂湊層群からは、アズダルコ類やニクトサウルス類といった翼竜、甲長80cm超のスッポン類、全長10mほどのランベオサウルス類といった化石が知られている。

 

 カムイサウルスのホロタイプはほぼ完全な骨格ではあったが、とはいえ骨学的情報のすべてが明らかになったわけではない。結局のところ、“パーフェクト”などあり得ないのである。

 カムイサウルスの第2標本は将来的に産出するだろうか?カムイサウルスを取り巻く生態系は明らかになるだろうか?アジア沿岸部のマーストリヒチアン初頭の地層は、穂別地域の函淵層に限らない。カムイサウルスのホロタイプはまさしく奇跡の化石――函淵層のIVbユニットから恐竜の全身骨格が産出するとは誰も思わなかった――だが、実のところ海成層から恐竜が――特にハドロサウルス類が産出する例は思いのほか少なくないものである。辛抱強く探せばそのうち出てくることもあるだろうし、おそらくその前に大量のアンモナイトと海生爬虫類の化石が積み上がることになるだろう。

 カムイサウルスの発見と記載は、恐竜研究の枠を超えて、ある種日本の上部白亜系の研究の集大成とさえ言ってよいかもしれない。明治からのもろもろの積み重ねが、カムイサウルスの研究を今後も後押ししていくのである。

 

 

 

 

再び発つ

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↑Skeletal reconstruction of Hadrosaurus foulkii holotype ANSP 9201-9204, 10005.

Scale bar is 1m.

 

 どういうわけか本ブログでも散々取り上げてきたむかわ竜は、記載論文の出版が間近に迫っているらしい。むかわ竜の化石が奇跡の産物だというのは今さら書くまでもない話なのだが(海成層は言うに及ばず、外側陸棚ならなおのことである)、一方で、むかわ竜をはじめとするハドロサウルス類が海成層から産出することは必ずしも珍しい話ではない。単離した要素は数知れず、部分骨格も少なくないのである。

 「最初の」ハドロサウルス類――恐竜研究の黎明期に燦然と輝くハドロサウルス・フォーキイもまた、海成層から発掘された奇跡の恐竜であった。

 

 北米最初の恐竜化石の記載・報告は1856年にさかのぼることができるものの、肝心の標本は歯や単離した椎骨や趾骨に限られていた。今日恐竜化石の宝庫として知られるアメリカ西部だが、当時の状況はヨーロッパ――すでに様々な部分骨格が知られていた――とは大違いだったのである(今日ではあまり想像できない様相ではある)。
 が、それから数年で状況は一変することになった。当時知られていた恐竜化石の中でも最良のものが、アメリカ東部――ニュージャージー州で発見されたのである。この化石は恐竜の復元を完全に塗り替えるものであり、そしてコープとマーシュによる「ボーンウォーズ」のきっかけさえ作ることになった。この恐竜――ハドロサウルスの発見から、輝かしい北米の恐竜発掘の歴史が始まったのである。


 1858年夏、アメリカ自然科学アカデミーの会員であったW.P.フォークはニュージャージーのハッドンフィールドでバカンス中であった。フォークはこの時、近所に住んでいたホプキンスという男から気になる話を聞いた――20年ほど前に彼の農場にある泥灰土坑で大きな椎骨が多数見つかったというのである。ホプキンスは見つかった化石を気前よく全て来客に送ってしまったといい、昔の話ということもあってこれらの化石の所在はもはや不明であった。発奮したフォークにホプキンスは農場での調査を快諾し、そして発掘が始まった。
 ホプキンスが散々歩き回った末にかつての泥灰土坑――しばらく前に放棄され、川の流れで完全に埋まっていた――の位置に目星を付け、そして現役の泥灰土坑からかき集められた作業員たちが掘ること1日、20年前の泥灰土坑の端が姿を現した。そこからホプキンスの記憶を頼りに掘り進め、最終的に3m掘り下げたところで巨大な骨がいくつも姿を現した。――北米最初の恐竜の骨格がそこにあったのである。
 泥灰土はやたら粘り、にわか作りの発掘隊は小さなコテとナイフでこれに立ち向かうほかなくなった(母岩が柔らかかったぶん、当時の技術でもクリーニングは完璧にできたのだが)。化石には触る前から細かなクラックが入っている始末で、フォークらはこれを荒布で包んだうえでわらを大量に敷き詰めた荷馬車に載せて現場から運び出した(この時産状図が作成されたというのだが、これは現存していないようだ)。
 このニュースはすぐにライディや科学アカデミー会長のリーに伝えられ、彼らもアドバイザーとして発掘に携わることになった。発掘は10月まで続き、そして12月14日にライディによってこの恐竜はハドロサウルス・フォーキイHadrosaurus foulkii――フォークのかさばるトカゲの意――と命名されたのだった。


 フィラデルフィアの自然科学アカデミーに収蔵されることになったハドロサウルスの骨格は、当時知られていた恐竜の骨格の中でも最良の部類のひとつであった。不完全ではあるが頸椎、胴椎、尾椎はそれなりに発見され、前後肢は大部分が保存されていた。肩帯は見つからなかった(実際には烏口骨が採集されていたが、これが同定されたのは発見から150年近く後の話である)が腰帯は大部分が保存されており、そして頭骨も歯骨(ではなく上顎骨だった)の破片が採集されたのである。
 当時知られていた恐竜化石のうち、1個体で四肢の要素が揃っていたのは他に1834年発見の「メイドストーンのイグアノドン」(いわゆるマンテル・ピース;ポールはこれをマンテロドン・カーペンターリと命名したが、ノーマンは単にマンテリサウルス・アザーフィールデンシスに参照している)のみであった。これはマンテルの有名な骨格図のベースとなり、また1852年にホーキンズによって制作された水晶宮の復元模型(監修はオーウェンである)のプロポーションのよりどころともされたが、マンテルにせよオーウェンにせよ完全な四足歩行の動物として復元していたのである。
 ライディはハドロサウルスの極端な前後肢のプロポーションの差(実のところマンテル・ピースでもかなり差はあるわけだが、なお極端であった)に注目した。発掘中にライディが2頭の恐竜由来かと思ったほど前後肢の長さには差があったのである。ライディはハドロサウルスが(海成層から産出したために)半水生であったとしつつ、摂食時はカンガルーのように三脚立ちをしていたと考えたのだった。ライディはまた、ハドロサウルスがイグアノドンとよく似ていることをしっかり見抜いた。水晶宮の復元模型の制作からわずか6年で、恐竜のイメージは完全に塗り替えられたのである。

(ライディはまた、原記載の中でハドロサウルスの全長を7.5mと妙に正確に推定している。復元骨格が制作されるのはしばらく後の話だが、復元骨格に表現されている要素は基本的に全て原記載(後のコープによる“ラエラプス”の時と同様、アカデミーの定例会録という形である)の中で述べられている。ライディの頭の中には最初からしっかりした復元像が描かれていたようだ。)


 ライディはその後もハドロサウルスの記載を断続的に発表し、(トラコドンやテスペシウスを含め、当時まだ単離した歯しか知られていなかったにも関わらず)ハドロサウルスの歯について、萌出歯とそれに続く(半)未萌出歯が密集した構造――デンタルバッテリー――の存在をも指摘した。また、コープもラエラプスの再記載と合わせてハドロサウルスについて述べ、ラエラプスともどもハドロサウルスが二足歩行の動物であったことを改めて指摘したのである。
 この頃になると、恐竜をはじめ絶滅した巨大動物の化石がアメリカで続々と発見されるようになったことで、水晶宮の復元模型のような実物大のモニュメントを求める声が上がるようになった。この計画はセントラルパークの「古生代博物館」としてまとまり、復元模型や復元骨格――世界で初めての恐竜の復元骨格を含む――の制作が決定されたのである。そして招聘されたのがホーキンズ――水晶宮の復元模型を手がけたその人であった。
 1868年、ホーキンズはフィラデルフィアの自然科学アカデミーにライディを訪ね、古生代博物館の展示に用いるレプリカのための型取りを行った。ここでホーキンズはハドロサウルスやラエラプスの型取りを行うだけでなく、自然科学アカデミーの展示用にハドロサウルスの実物標本を組み立てることになったのである。
 ライディの監修の下、ホーキンズはその当代無比(今日の人物だとしてもなお最高クラスの腕の持ち主だろう)の才能をいかんなく発揮した。左右どちらかしか残っていない要素(特に長骨は左側の要素しかなかった)は鏡写しのアーティファクトで左右を揃え、椎骨も適宜レプリカを作っては(ライディ推定するところの)所定の数まで増やし、ドリルで穴を空けてアーマチュアが通るようにした。長骨は外付け式のアーマチュアで組み上げられ、最終的に骨格全体は両脚と尾、そして支柱を通した樹木の模型で支えられた。イグアナを参考に作られた頭骨(さすがに顎の断片は練り込まれなかった)と哺乳類風の肩帯を組み込まれ、ここに「三脚立ちして木の葉を食べる」ハドロサウルスの実物復元骨格――恐竜の復元骨格として世界で初めてのもの――が完成したのである。1868年の秋のことであった。
 それまでも自然科学アカデミーでハドロサウルスの化石は展示されていたのだが、復元骨格が制作されたことで来館者は凄まじい勢いで増えた。最初の1年で来館者は倍増し、その後の数年で復元骨格が展示される前の3倍以上――年10万人にまで増加したのである。これに焦った自然科学アカデミーは開館日を減らしたり、入場制限をかけるなどして対応したが、結局今日の場所に移転して展示スペースを拡大するほかなかったのだった。現生動物とは著しく異なった体制を示す恐竜の復元骨格――当時すでに絶滅哺乳類の復元骨格は各地で展示されていた――は、進化論を受け入れつつあった人々の強烈な興味を引いたのである。
 さて、セントラルパーク内に設けられた工房に戻ったホーキンズは、ハドロサウルスの復元骨格の量産においてさらに天才ぶりを発揮した。今日でも一般によく用いられている復元骨格レプリカ制作のテクニック――「一体成型」の脊柱、長骨や椎骨内部に完全に埋め込まれたアーマチュア、肋骨籠を内側から支えるプレート――を駆使し、支柱の他は無粋なアーマチュアの露出しない、大変優雅な復元骨格を量産する体制を整えたのである。1869年にはハドロサウルス復元骨格の量産第1号(立ち止まって木の葉を食べようとしているポーズだが、いくぶんオリジナルより行儀のよい姿勢である)が完成し、またラエラプスの復元骨格もひとまず発見部位のキャストの組み付けが完了した状態にあった。そして1871年、運命の日がやってきた。


 古生代博物館計画が中止されたのみならず、制作中の模型もろともセントラルパークの工房は破壊されてしまった。が、ホーキンズはどうにかハドロサウルスの復元骨格の型の持ち出しには成功し、これの量産は可能であった。
 ハドロサウルスの復元骨格は最終的に(破壊されたらしい量産第1号とは別に)3体が量産され、それぞれプリンストン大学スミソニアンスコットランド国立博物館(ヨーロッパで最初の恐竜の復元骨格となった)へ送られた。特にスミソニアンで展示されたタイプは可搬性に優れており、展示レイアウトの変更に伴ってスミソニアン館内を渡り歩いた末1890年代にフィールド博物館へトレードされた。
 ホーキンズの復元は非常に先駆的なものだったが、しかしボーンウォーズの勃発によって指数関数的に増えていくハドロサウルス類の標本によって20年ほどで陳腐化してしまった。1900年代の初めには3体の量産型は全て廃棄され、また自然科学アカデミーのオリジナルも解体されてしまったのである(オリジナルに据えられていた頭部は現存しており、特別展などで展示されることがあるようだ)。


 北米西部――ララミディアから続々と見事なハドロサウルス類の化石が発見される一方、アメリカ東部――アパラチアでは依然としてハドロサウルス・フォーキイのホロタイプが最良の標本といった有様であった。まともな頭骨要素の残っていなかったハドロサウルス・フォーキイが実態のよくわからない代物と化すのは訳ない話で、コープやマーシュがハドロサウルス属の新種として記載した数々の断片がさらに足を引っ張る始末だったのである。保存されていた要素はランベオサウルス亜科ではなく“ハドロサウルス亜科”――エドモントサウルスやクリトサウルスのような「平らな頭蓋」をもつものに似ていたのだが、肝心の頭骨が顎の断片しか残っておらず、このあたりにはいささか疑問も残されていた。
 こうした状況は1970年代後半まで続いていたのだが、アパラチアの恐竜の研究に取り組んでいたベアドとホーナーの師弟コンビは思い切った説を発表した(アブストラクトしか出版されていないので詳細は割と謎なのだが)。オルニトタルスス・イマニスOrnithotarsus immanisやハドロサウルス・カヴァトゥスHadrosaurus cavatus(どちらも今日疑問名として扱われている。オルニトタルススはH.フォーキイの1.5倍ほどとかなりの巨体だが、そもそも産出層がはっきりしない)をハドロサウルス・フォーキイのシノニムとしただけでなく、クリトサウルス属(グリポサウルス属をシノニムとして取り込んでいた)をハドロサウルス属のシノニムとみなしたのである。
 クリトサウルスをハドロサウルスと密接に結びつけるこの意見はそれなりの支持を受けた。――が、それからしばらくしてホーナーは自らこれを否定した(ハドロサウルスは“ハドロサウルス亜科”内の系統不明なものとなった)。やがて行われた再記載で、とうとうハドロサウルス・フォーキイは他のアパラチア産ハドロサウルス類ともども疑問名とされてしまったのである。

 が、結局ハドロサウルスはクラオサウルスともども2011年に疑問名から「復活」することになった。なんだかんだでハドロサウルス・フォーキイのホロタイプはアパラチアのハドロサウルス類(広義)としてはかなりまともな部類だったのである。他に知られている骨格といえば、ニュージャージーのネーヴシンクNavesink層の最上部(K/Pg境界の直下にあたる)で発見された部分骨格(コルバートによって“ハドロサウルス・ミノールHadrosaurus minor”の新標本とされたもの)や、アラバマのムーアヴィル・チョークMooreville Chalk層下部産のロフォロトン・アトプスLophorhothon atopus(カンパニアン前期;8300万~8200万年前ごろ)のホロタイプ、そしてカンザスのナイオブララNiobrara層スモーキー・ヒル・チョークSmoky Hill Chalk部層(コニアシアン後期;8700万年前ごろ)産のクラオサウルス・アギリスのホロタイプくらいであった。
 2016年になり、アラバマのムーアヴィル・チョーク層の最下部(サントニアン後期;8500~8400万年前ごろ)からほぼ完全な頭骨を含むハドロサウルス類の部分骨格――エオトラコドン・オリエンタリスが記載された。これはララミディア産のハドロサウルス類と互角の保存状態で、言うまでもなく極めて重要なものであった。系統解析の結果ハドロサウルスがハドロサウルス科の最も基盤的な位置に、その次に基盤的な位置にエオトラコドンが置かれた(そしてエオトラコドンの姉妹群にサウロロフス亜科――かつての“ハドロサウルス亜科”――+ランベオサウルス亜科が置かれた)。また、ハドロサウルスよりも基盤的な位置にはイタリア産のテチスハドロスが置かれたが、もう一つ基盤的な位置にはクラオサウルスが置かれた。この結果はつまり、(依然としてハドロサウルスが実質首なしである点に注意が必要だが)真正のハドロサウルス科――デンタルバッテリーに加え、後方まで長く伸びた外鼻孔とそれを取り巻く浅く広いくぼみを併せ持つ――がアパラチアでサントニアン前期ごろに出現した可能性を示している。カンパニアン前期の地層であるウッドバリーWoodbury層(8200万年前ごろか)産であるハドロサウルスは最古のハドロサウルス科というわけではなさそうだが、エオトラコドンと並んでハドロサウルス科の原初の姿を伝えてくれる。


 オリジナルの復元骨格の解体から80年あまり後の1984年、ハドロサウルスの復元骨格はキャストを用いたウォールマウントとして自然科学アカデミーに帰ってきた。2008年には命名150年(とオリジナルの復元骨格の展示140周年)を記念して3Dの復元骨格(マイアサウラをベースに、ハドロサウルスのキャストを組み込んでいる)が制作され、ずいぶんにぎやかになった展示ホールで来館者を迎えている。そしてニュージャージー州立博物館へ渡ったこれの量産型はドリプトサウルスと共に――かつてセントラルパークの古生代博物館計画で試みられたように――展示され、「州の恐竜」として往時の姿を伝えている。
 ハドロサウルス・フォーキイの模式産地――ホプキンスの農場の一角――は長らく正確な場所が不明になっていたのだが、1984年になってボーイスカウトによって再発見された。1994年に合衆国国家歴史登録財および合衆国国定歴史建造物に指定されたその林は、ハドロサウルス公園として今日も静かにたたずんでいる。

【告知】第三回古生物創作合同展示会に出展します

    

                           (コラをつくったひと:ツク之助)

今年の夏も山本聖士さん主宰の古生物創作合同展示会に出展します。茨城県自然博物館御用達の某有名イラストレーター(筆者ではない)も参戦する今回は、横浜亜熱帯茶館での開催となります。

 

というわけで、GET AWAY TRIKE !は以下のアイテムを頒布します。

・GET AWAY TRIKE ! in Press GP03S(新刊)…¥2000

・GET AWAY TRIKE ! in Press GP02A(既刊:残部少)…¥3000

・骨格図クリアファイル(ティラノサウルストリケラトプス、むかわ竜、デイノケイルス)…各¥500

・骨格図ポスター各種…¥1000

 

 骨格図クリアファイルの頒布は今回が初めての試みです。骨格図ポスターも新作を複数用意しています。

 会場ではもしかすると重大告知ができるかも…!というわけで、お盆休み最終日ですが、みなさまふるってご来場くださいませ。

 

第3回古生物創作合同展示会

とき:8/18(日)11:00~17:00

ところ:横浜亜熱帯茶館 ~爬虫類Cafe~

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