GET AWAY TRIKE !

恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

最初の一人は慣れてるから

↑ティラノサウルス・レックスTyrannosaurus rexのホロタイプCM 9380(旧AMNH 973)の骨格図。マッシブな体型に注意。

 

 命名120周年である。今日も今日とて人気を集めているティラノサウルス・レックスだが、命名当初はさほど有名だったわけではない――というありがちなイントロは、本種にはまったく当てはまらない。稀代のプロデューサーによって舞台をあつらえられたそれは、命名されるずっと以前から研究者たちに待ち望まれていた存在でさえあったのである。そして数奇な運命をたどったホロタイプCM 9380は、「最初のティラノサウルス・レックス」としてあるべき役割を今日も果たし続けているのだ。

 

 1854年から1855年にかけ、「転がる石を拾う男」ことフェルディナンド・ヴァンディヴィア・ヘイデンはネブラスカ準州はジュディス川流域のバッドランドで地質調査(時代が時代なので事実上の「探検」である)中であった。ジュディス・リバーJudith River層を踏査するうち、ヘイデンはそれなりの数の脊椎動物の小さな化石を手にしていた。一連の化石はペンシルバニア大学の若き解剖学教授であったジョセフ・メリック・ライディの下へと送られ、ライディは1856年にこれらを8つの種に分類した。この中には北米で初めてとなる恐竜化石(いずれも遊離歯)が4種含まれていた――パラエオスキンクス・コスタトゥスPalaeoscincus costatus、トラコドン・ミラビリスTrachodon mirabilis、トロオドン・フォルモススTroodon formosusそしてデイノドン・ホリドゥスDeinodon horridusである。

 

ライディによる1856年の論文は2ページの簡潔な記載に留まっており、標本の図示もない。1860年になって初めてこれらの標本の図示が行われたのである。ライディはパラエオスキンクスを全長30フィート以上の超巨大な半水生のイグアナ科、トロオドンを大型の半水生のオオトカゲとみていた。ヘイデンの採集したこれらの化石、およびその後コープのチームが採集した一連のジュディス・リバー層産の恐竜化石は、すべてマクレラン・フェリーMcClelland Ferry部層上部からコール・リッジCoal Ridge部層下部にかけての層準から産出したものとみられている。これらの部層の境界(“ジュディス中部不連続面Mid-Judith Discontinuity”)はカナダ・アルバータ州は州立恐竜公園におけるオールドマンOldman層とダイナソー・パークDinosaur Park層の境界と一致すると考えられており、その年代は約7650万~7630万年前ごろとみられている。)

 

 ライディはトラコドンの歯がイグアノドンに、デイノドンの歯がメガロサウルスに似ていることを正確に見て取っていた。1857年にデイノドンをメガロサウルスの亜属に下げるなどの気の迷いもあったが、どうあれこれらのデイノドンの歯はメガロサウルスに似た大型の肉食恐竜が白亜紀のアメリカ西部に存在したことをはっきりと示していた。

 が、デイノドンのまとまった骨格は待てど暮らせど西部では出てこなかった。1866年にはニュージャージーはニュー・エジプトNew Egypt層(マーストリヒチアン後期;約6950万~6604万年前ごろ)の最上部でラエラプス・アクイルングイスLaelaps aquilunguisの(ひどく不完全だが)顎と四肢を含むまとまった骨格が産出する一方で、コープ自身やスターンバーグをはじめとするコープ麾下の化石ハンターたちが繰り出していったにもかかわらず、西部では1870年代の中ごろになってもラエラプスの歯がせいぜいだったのである。

 

(デイノドンのもともとのシンタイプ(ANSP 9530-9544)はティラノサウルス科の上顎骨歯/歯骨歯と(D字/U字断面の)前上顎骨歯が混在しており、同一個体(あるいは種)に由来するものでもない。ティラノサウルス上科の歯と顎がセットで産出したのはラエラプス・アクイルングイス=ドリプトサウルス・アクイルングイスのホロタイプが初めてのケースであったが、これには前上顎骨歯が含まれておらず、コープはゆえにラエラプスがデイノドンとは異なる分類群だと判断した格好である(言うまでもなく、当時ティラノサウルス上科の歯の全容は分かっていなかった)。一方でライディは1868年になってANSP 9533-9535(いずれも前上顎骨歯;9533と9534には鋸歯がある)をデイノドン・ホリドゥスから切り離し、アウブリソドン・ミランドゥスと命名した。これによってデイノドンの模式標本はラエラプスによく似た上顎骨歯/歯骨歯だけになった――が、コープは師のこの分類に噛みつき、ラエラプスの記載の際にデイノドンの「典型」をANSP 9533-9535としたことを指摘した(それ以外の、つまりライディがデイノドンに残留させた要素がメガロサウルスそしてラエラプスと酷似していることはライディ自身認めるところであった)。つまり、コープの弁ではアウブリソドン・ミランドゥスはデイノドン・ホリドゥスの客観的同物異名ということになり、ライディ言うところのデイノドン残留組はすべてラエラプス属ということになる。コープはさらにデイノドンDeinodonがディノドンDinodon(旧マダラヘビ属)のジュニアシノニムであるとまで主張し始め(コープはどういうわけかデイノドンを常にDinodonと綴っていた)、デイノドン・ホリドゥスをアウブリソドン・ホリドゥス――アウブリソドン属はラエラプス属より2年遅く命名されており、よって何があってもラエラプス属が北米産の何かのシノニムになることはない――と呼んだ。ラエラプスの属名にかけるコープのこうした生臭い(しかしあまりにもピュアな)野望はマーシュによってあっさりひっくり返され、デイノドンとアウブリソドンは(実態はさておき)別物として今日扱われている。今日、アウブリソドン・ミランドゥスの扱いについては(言うまでもなくコープの意見を完全無視した)マーシュによるもの――鋸歯を欠いた前上顎骨歯ANSP 9535(比較的最近になり、FMNHに書留郵便で送られる途中で行方不明になった)のみをアウブリソドン・ミランドゥスのレクトタイプとする――が受け入れられている。デイノドン・ホリドゥスはやや宙に浮いた格好となっているが、ともあれ今日ではデイノドン、アウブリソドンのいずれの種も疑問名とされている。)

 

 とはいえ、1870年代の後半になるとコープにも運が向いてきたようだった。コープは1876年に一連のジュディス・リバー層産の新標本をラエラプスの新種として多数命名したが、その中にはラエラプス・インクラッサトゥスLaelaps incrassatus――ザイフォドントziphodontではなくパキドントpachydont的な分厚い、まぎれもないティラノサウルス科の成体の上顎骨歯/歯骨歯が含まれていたのである。さらに同年(実際に出版されたのは翌年であるらしい)には、ジュディス・リバー層からラエラプスの歯と左歯骨のセットを見出した。コープはこの標本AMNH 3963がちょっとした異歯性を持っていることを見抜いていたが、ここに至って不意に思慮深さを発揮した。この標本をラエラプスの新種にするようなことは(不幸にして)せず、単にラエラプス・インクラッサトゥスと同定したのである。

 

(コープはAMNH 3963をとうとう図示することはなかった。この標本は今日、もっぱらゴルゴサウルス・リブラトゥスのものとされている。どうあれ、ティラノサウルス科と断定できる歯以外の要素としては初めての発見であった。)

 

 さて、上部白亜系に対するマーシュの動きはこのころ静かなものであった。コープがデイノドン属を事実上ラエラプス属に吸収させ、新種を乱発していたたにもかかわらず、マーシュが似たような動きに出ることはなかった(しかしドリプトサウルス属を設立し、コープの手柄をすべてひっくり返すという殺人技を繰り出してはいた)のである。

 1873年にコープはヘイデン率いる合衆国地質調査所(USGS)の調査隊の一員としてコロラドの“大褐炭層”――今日のデンヴァーDenver層(マーストリヒチアン後期/ランシアン~ダニアン/トレホニアン;約6820万~6380万年前ごろ)を踏査しており、このとき採集したハドロサウルス類や角竜の断片(言うまでもなくエドモントサウルスやトリケラトプス、トロサウルスであろう)を翌年にまとめて(新種として)記載した。こうした流れがあったにもかかわらず、日ごろの根回しがあったのか、運はマーシュの方に転がってきた。1873年の暮れ、デンヴァーのとなりのゴールデン在住のエドワード・ベルソーという男から、マーシュに恐竜化石の発見を知らせる手紙が届いたのである。

 すでに1867年には一帯で採集した化石をスミソニアンへと送っていたベルソーは、マーシュに「牙」(明らかに角竜の角の骨芯である)をはじめとする多数の化石があることを知らせていた。1874年の6月、ベルソーは新たな化石――ラエラプスに似た巨大な歯のスケッチをマーシュに送った。保存のそれほどよくないこの標本YPM 4192は、しかしまぎれもないティラノサウルス・レックスの、初めて発見された化石であった。

 

 ベルソーはデンヴァー周辺で次々と化石産地を見出したが、マーシュがそこで発見される化石に目を向けるようになるにはもう少し時間がかかった。マーシュがYPM 4192を記載することはなく、一帯で地質調査に励んでいたジョージ・キャノンはベルソーの見出した産地から大型獣脚類の顎(ティラノサウルスで間違いないだろう)を掘り出したりもしていたのだが、これはとうとう記載されることなく行方不明になったのである。

 しかし、ベルソーの手紙は究極的には実を結んだ。キャノンとマーシュを、そしてハッチャーとトリケラトプス、そしてティラノサウルスをめぐり合わせることとなったのである。1887年、キャノンはデンヴァーのはずれで一対の巨大な「デンヴァーバイソン」の角を発見したのであった。

 ジュディス・リバー層における1888年夏シーズンの結果は、ハッチャーにとっては芳しくないものであったらしい。それなりに興味深い化石はあったが、スターンバーグ(父)をはじめとするコープ麾下の化石ハンターたちの成果を圧倒的に上回るようなものではなかった――が、それでも重要な化石がマーシュの手元に届くことになった。この中にはケラトプス・モンタヌスCeratops montanus――「角竜」として初めて認識されることになった標本USNM 2411が含まれていたのである。

 1889年の1月にニューヘイヴンに戻ってきたハッチャーはそこで初めて「デンヴァーバイソン」ことビソン・アルティコルニスBison alticornis YPM 1871E(現USNM 4739)と対面し、これがUSNM 2411――産出層からして明らかに哺乳類のものではなかった――の類縁であること、そしてワイオミングはランスLance層(マーストリヒチアン後期;約6910万~6604万年前ごろ)の中部で地元コレクターのガーンジーによって発見された頭骨――のちのYPM 1820もこれと酷似した角を持つことを見て取った。かくしてハッチャーとそのチームはランス層へと導かれることとなったのである。

 

↑ティラノサウルス・レックスUSNM 2100(左)とUSNM 6183(右)。スケールバーは1m。

 

 幼い長男を病で亡くしながらもランス層へと突っ込んでいったハッチャーと仲間たち(年下の義兄であるオラフ・ピーターソンも調査に加わっていた)を待っていたのは、大量のトリケラトプスと文字通りの哺乳類の歯の山であった。アリ塚にマイクロサイト由来の化石が(アリによって)集積されていることに気づいたハッチャーは片っ端からアリ塚を崩して回ったが、一方で大きな恐竜化石もそこら中から見出していたのである。

 ハッチャーは一連の調査で大型獣脚類の断片的な骨格をいくつか発見していた。1891年に採集されたUSNM 6183は大腿骨長が1mを超える大型のもので、これはドリプトサウルス・アクイルングイスよりはるかに大きく、ドリプトサウルス・インクラッサトゥスよりもさらに大きいように思われた。近辺で発見された腸骨USNM 8064も同様の大型獣脚類(ただしUSNM 6183よりも小さな個体に由来する)のものだったが、1890年に発見された中足骨の断片USNM 2110はこれらをはるかに上回る大型獣脚類のものであるようだった。

 マーシュはこれらの標本とよく似たものを1890年にはすでに記載していた。デンヴァー層から産出した手と足に基づくオルニトミムス・ヴェロクスOrnithomimus velox(デンヴァー層産)と第III中足骨の断片に基づくオルニトミムス・テヌイスOrnithomimus tenuisそして巨大な第III中足骨に基づくオルニトミムス・グランディスOrnithomimus grandisである。オルニトミムスの第III中足骨はどれも近位端が鳥のように(マーシュは比較用にシチメンチョウを図示している)第II・第IV中足骨に挟み潰されて後方へと追いやられており、前方からは見えない――アークトメタターサルであった。サイズと形態からして、USNM 2110とUSNM 6183はオルニトミムス・グランディスで間違いないように思われたのである。

 

 マーシュはトリケラトプスそしてトロサウルスと同じ地層――「ケラトプス層」からダントツで世界最大の肉食恐竜の化石が産出したことにいたく感動したようであった。

「この巨大な肉食動物はケラトプス科の天敵のひとつであった可能性が高く、頭骨や骨格全体の発見が興味とともに待たれる。攻撃用に特殊化したそれらの特徴に対抗すべく、ケラトプス科の特異な防御装甲が設計されていることには疑いの余地がない。」

 マーシュは予言めいた一節を記したが、とうとう「攻撃用に特殊化したそれらの特徴」――ティラノサウルス・レックスの頭骨を見ないまま、1899年に死んだ。

 

(オルニトミムス科の頭骨の発見、そして“オルニトミムス”・グランディスがティラノサウルス科(ないしそれにごく近縁なものの寄せ集め)であることが判明したのはだいぶ後――1916年になってからの話である。ランス層産の“オルニトミムス”・グランディスがティラノサウルス・レックスであることはほぼ間違いないが、“オルニトミムス”・テヌイス(少なくともオルニトミムス科ではないようだ)や“オルニトミムス”・グランディスのホロタイプ(スミソニアンに移管されるまでに行方不明になった)のうち、少なくとも後者はジュディス・リバー層ではなくイーグルEagle層(イーグル砂岩とも;サントニアン~カンパニアン前期;約8570万~8120万年前)産であるとみられており、であればリトロナクスLythronaxやディナモテロルDynamoterrorよりも古い、ティラノサウルス科の最古の化石記録の可能性まである。マーシュは実のところ1892年にランス層産の前上顎骨歯に基づきアウブリソドンの新種を2つ命名しており、とりわけ後者はナノティラヌス・ランセンシスであるように思われる――が、これらの形態はそもそもジュディス・リバー層産のものと区別がつかず、そんなわけでナノティラヌス・ランセンシスに優先することはない。)

 

 マーシュによるさりげない必殺の一撃――Laelapsという名が1813年にすでにトゲダニ属として用いられていることを踏まえ、コープの一連のラエラプス属に代わるものとしてドリプトサウルス属を設けた――をコープはどうにか無視し続けた。マーシュがキャリアの絶頂にあった1880年代はコープにとってひたすら耐える時期となり、銀鉱山への投資の失敗やペンシルバニア大との関係悪化もあって経済的に困窮した。しかし1890年代に入ると運はやや上向いてきた(コープの攻撃の甲斐あってマーシュのキャリアにもそれなりに傷がついた)。ハッチャー一行がワイオミングで猛威を振るう中にあって、コープの次の一手はカナダから転がり込んできたのである。

 1880年代に行われたカナダ地質調査所(GSC)のティレルとウェストンによるそれぞれの調査によって、今日のカナダはアルバータ州、ホースシュー・キャニオンHoreseshoe Canyon層(当時はララミーLaramie層と呼ばれていた;カンパニアン末~マーストリヒチアン後期;約7310万~6795万年前)で2体のよく似た獣脚類が採集されていた。どちらの標本もぺしゃんこにつぶれていたうえに保存もよくなかったのだが、上下の顎が噛み合ったままの頭骨が残されていた。下顎はどちらの標本も比較的完全であり、ティレルの採集したもの(のちのCMN 5600)では脳函が、ウェストンの採集したもの(CMN 5601)では頭蓋天井を除く頭蓋の大半まで残されていたのである。

 当時のカナダは恐竜研究の黎明期にあり、カナダ地質調査所には恐竜化石をまともに扱える専門家がまだいない状況であった。これらの頭骨の記載を要請されたのはコープだったのである。

 思いがけず転がり込んできた2つの頭骨を、コープはまたしてもラエラプス・インクラッサトゥスと同定した。頭骨が部分的に含気化していること、(前上顎骨歯は失われていたが)歯骨の先端にある歯がどことなくアウブリソドン(この場合デイノドンのオリジナルのシンタイプの前上顎骨歯すべてを指す)的な「切歯」状であることをしっかりと見抜いたコープであったが、後頭部がまともに残っていなかったこともあり、前眼窩窓を眼窩と誤認した。 「眼窩より前方の領域と長さが等しい」巨大な眼窩の存在について強調したコープは、マーシュが1884年に命名したケラトサウルス・ナシコルニス(中大型獣脚類の保存のよい完全な頭骨が記載されたのはこれが初めてだった)がメガロサウルス属であることを述べ、一連のラエラプス・インクラッサトゥスの頭骨の図示は最終的にカナダ地質調査所の出版物でなされることを記してこの論文を終えたのだった。

 

 結局、コープが「ラエラプスの頭骨」を図示することはとうとうなかった。コープは1896年からたびたび病に伏せるようになったのである。そんな中、親しい教え子であったオズボーンは才気あふれる若きフリーの画家――チャールズ・ナイトをコープに紹介することにした。

 コープにとってナイトの復元画の監修は最後の仕事の一つとなった。1897年に完成した「跳躍するラエラプス」――最期までコープはドリプトサウルスとは呼ばなかった――のらんらんと輝く目は、前眼窩窓の中に押し込められていた。

 

 コープの“ラエラプス”に関するやりかけの仕事は、カナダ軍の士官を経てカナダ地質調査所でサイエンスイラストレーターとして名を上げつつあったランベの双肩へとかかってきた。ランベはオズボーンとともにカナダ西部の白亜系層序の整理を進めつつ、これらドリプトサウルス・インクラッサトゥスの頭骨を図示し、コープの記載の誤りを修正し、ティラノサウルス科初となる頭骨の復元図まで1904年に出版することとなったのである。 

 カナダにおける「化石戦争」のあとしまつはこれくらいで済んだのだが、こうした「戦後処理」は当然アメリカの方がはるかに深刻な問題となっていた。コープにせよマーシュにせよやりかけで終わった仕事はあまりに多く、イェール大学のピーボディ博物館(YPM)およびそこからマーシュのコレクションの相当量を移管されたスミソニアン/国立自然史博物館(USNM)、ライディやコープの初期の研究の核となったフィラデルフィア自然科学アカデミー(ANSP;今日のドレクセル大学自然科学アカデミー)、そしてコープの私蔵コレクションを購入したアメリカ自然史博物館(AMNH)の収蔵庫は混沌とした状態だったのである。

 1900年になり、マーシュの後任としてUSGSの古生物学担当を兼任するようになっていたオズボーンは、マーシュの助手からプリンストン大学を経てカーネギー博物館(CM)へと移っていたハッチャーに尻ぬぐい要員としての白羽の矢を立てた。カーネギー博物館ののちの館長であるホランドとは激しい学術的・政治的対立のもとにあったオズボーンだが、ハッチャーやそのかつてのチームの一員たちを高く評価していたのである(AMNHの古脊椎動物学部門の立ち上げ時にハッチャーの引き抜きを試みたことさえあった)。ハッチャーはマーシュのほぼ手付かずだった仕事――USGSが出版を予定していた角竜のモノグラフの執筆を快諾し、コープの記載した角竜の再記載のためにAMNHを訪れるようになったのだった。

 

 コープの論文は図版に乏しいことで当時から悪名高く(マーシュの論文にしても、今日からしてみれば驚くほど図版に乏しいのだが)、ハッチャーは読みやすいとはいえない記載を頼りにAMNHの収蔵庫をさまよう日々が続いた。そんな中でハッチャーが目を留めたのは、マノスポンディルス・ギガスManospondylus gigas――コープが1892年にアガタウマス科(ケラトプス科と実質的に同義)の新属新種として記載した椎骨AMNH 3982であった。ハッチャーが採集しマーシュが記載してきたどんな角竜よりも巨大なものとして記載されていたそれは、しかしどこからどう見ても獣脚類の椎骨であった。2個あるはずだった椎骨はいつの間にかひとつだけになっていたのだが、破損した面から見える荒い海綿状の構造や、椎体の側面にぽっかりと開いた含気腔は鳥盤類にはまったく見られないものだったのである。

 ハッチャーはこの椎骨とよく似たものを現在の職場――カーネギー博物館で見たことがあった。マーシュの助手時代からの付き合いで、カーネギー博物館で先に働いていた義兄のピーターソン(ハッチャーのカーネギー博物館への移籍にはピーターソンの口添えもあったようだ)が、1902年にワイオミングはランス層で発見した巨大な獣脚類の部分骨格CM 1400である。この巨大な「ドリプトサウルス属のなにか」の椎骨は、マノスポンディルスと酷似していたのだった。

 

 ハッチャーがCM 1400の研究をどこまで本気で進めるつもりがあったのかは、今となっては謎である。とはいえトリケラトプスやハドロサウルス類(つまるところエドモントサウルス)の天敵としての巨大なドリプトサウルスというところにはこだわりがあったようで、1904年には来る角竜のモノグラフ用にトリケラトプスとハドロサウルス類、ドリプトサウルスを描いた生態復元画をナイトに依頼した。ドリプトサウルスについては骨格の不明な部分が相当にある(この時点ではまだランベによるカナダ産頭骨の再記載は出版されていなかった)ことから、ハッチャーは植生でうまくカバーするようナイトに注文している。しかしながらハッチャーは結局ドリプトサウルスをあきらめ、かわりにもう1匹のトリケラトプスを描いてもらったのだった。

 

 ナイトの復元画の納入を見届けたハッチャーはほどなく体調を崩し――遺伝性の疾患に苦しんでいたハッチャーにとって、それ自体は珍しいことではなかった――、書きかけの角竜のモノグラフと首なしのディプロドクスを残して帰らぬ人となった。角竜のモノグラフ、そしてランス層産巨大ドリプトサウルスの一報とマノスポンディルスの再記載は1907年になるまで出版されることはなかったのである。

 

↑“ディナモサウルス・インペリオススDynamosaurus imperiosus”のホロタイプNHMUK R7994(旧AMNH 5866;上段左)、CM 1400(上段中)、“マノスポンディルス・ギガスManospondylus gigas”のホロタイプAMNH 3982(上段右)、ティラノサウルス・レックスのホロタイプCM 9380(旧AMNH 973;下段)。スケールバーは1m。

NHMUK R7994とCM 1400は首から後ろの要素もある程度発見されている。

 

 20世紀になり、化石収集競争の先頭に立ったのはオズボーン――打倒マーシュを掲げた点においてコープの精神的後継者――率いるAMNHの古脊椎動物学部門であった。そしてそこにさらなる新興勢力――鉄鋼王カーネギーの潤沢な資金を背景にそびえるカーネギー自然史博物館と、シカゴの豪商マーシャル・フィールドが設立したシカゴ・コロンビアン博物館(現フィールド博物館:FMNH)が追随することとなったのである。研究だけでなく「展示」(そしてそこから続く教育)への強い関心があったオズボーンにより、「化石戦争」は今日まで続く新しい形のものへと変貌したのであった。

 AMNHの展示を拡充するうえでオズボーンが頼りにしていた化石ハンター(ただしマーシュの助手だったころのハッチャーのような不安定な立場ではなかった)が、言わずと知れたバーナム・ブラウンである。プリンストン大学時代のハッチャーそしてピーターソン(ハッチャーにプリンストン大へ引き抜かれる前にはAMNHで化石ハンターをしていた;後釜がブラウンである)と共に「化石人間」として1898年からパタゴニア遠征調査を行ったブラウンは、「一人置き去りにされた」(引き続き化石調査を自由に続けたかったブラウンが合意のもと隊を離脱したというのが実際のようだ)のち、1900年に帰国するとすぐに西部へと派遣された。喫緊の目標は、展示映えする白亜紀の恐竜の頭骨――この当時、事実上YPMとUSNM、そしてカンザス大(学生時代のブラウンが発掘に携わったもの)にしかなかったトリケラトプスの頭骨の確保である。

 

(ブラウンは学生時代にフィールドで、プリンストン大時代のハッチャーと一度遭遇している。パタゴニアの遠征中、ブラウンはハッチャーのときおり棘のある性格に触れつつも、かなりの好印象を持っていたようだ。ピーターソンと3人で遭難しかけ、一つしかないベッドで二日間寒さをしのいだというエピソードもある。)

 

 コープの一連のモリソン層産コレクションを受け入れたうえ、ボーン・キャビンでの発掘を精力的に行っていたAMNHは、ジュラ紀のコレクションで他の博物館に対して優位に立っていた(カーネギー発掘地の発見によってひっくり返されるのだが)。したがって、「マーシュ越え」を狙うオズボーンとしてはなんとしてでも白亜紀の(それもできるだけ展示映えする)恐竜化石が欲しかったのである。

 かくしてワイオミングはランス層を訪れたブラウンは、ハッチャー隊によって散々ほじくり返されたエリアを避けて発掘を行った――が、“クラオサウルス”(現エドモントサウルス・アネクテンス;AMNH 5863)の部分骨格こそ見つかれど、トリケラトプスの化石は角の破片がせいぜいであった。しかしブラウンはここで伝説の第一歩をしっかりと踏み出していた。1900年10月、ばらけた大型獣脚類――マーシュの記載に一致するものはないようだった――の骨格に出くわしたのである。

 この骨格の関節の大半は外れていたが、頸椎は部分的に関節した状態にあった。周囲には大小さまざまな皮骨が散らばっており、ブラウンは一見してケラトサウルスの類縁と見て取った。骨格はハドロサウルス類や“パラエオスキンクスの歯”(すでにイグアナではなく鎧竜を指す言葉となっていた)、トリケラトプスのフリル、魚鱗やその他の骨片と混在した状態にあり、ブラウンにはそれらがこの肉食恐竜の最後の食事のあとかたであるように思われた。

 

(実のところ、ティラノサウルスとの出会いはブラウンにとってこれが初めてではなかったようだ。カンザス大時代に発掘に携わった標本の中には、KU 1357として知られるティラノサウルスの単離した趾骨がある。)

 

 かくしてブラウンは未知の大型獣脚類――AMNH 5866をニューヨークへと送り出したが、結局1900年のこの調査では保存のよいトリケラトプスの頭骨を持ち帰ることはできなかった。翌1901年はスミソニアンの三畳系の調査に「貸出」されることとなったブラウンだったが、ツキは1902年に巡ってきた。

 ブラウンは様々な時代の様々な動物化石の発掘経験をすでに相当に積んでいたが、結局彼の心をもっともつかんだのは恐竜であるようだった。ランス層でのトリケラトプス探しの機会を再び与えるようオズボーンに催促していたブラウンだったが、一方でさすがのオズボーンもAMNHの展示の拡充ばかりにかまけているわけにもいかず、自らの研究のために新生代の哺乳類化石をもっと採集する必要を感じていた。

 ブラウンのリベンジの機会は思いがけず訪れた。ブロンクス動物園の園長兼学芸員であったホーナデイ(アメリカの自然保護活動を牽引する一方、オズボーン以上に人種差別で悪名高い)が、オグロジカの生態調査中にモンタナ州はヘルクリーク周辺でトリケラトプスの化石のうわさを聞き付けたというのである。

 ホーナデイはブロンクス動物園の運営団体の理事長であったオズボーンと親交があり、同行していた写真家のハフマンに撮らせた化石の写真をオズボーンとブラウンに見せた。果たして、そこに写る化石のいくつかはトリケラトプスのものに違いなかった。

 コープとマーシュの「化石戦争」において、白亜系の主戦場はモンタナのジュディス・リバー層、ワイオミングのランス層にコロラドのデンヴァー層であった。モンタナやサウスダコタ、ノースダコタにはジュディス・リバー層よりも新しい、ランス層やデンヴァー層の同時異相――しばしば「大褐炭層」と呼ばれてきた地層があったが、そこではコープ隊がわずかな化石を採集していた程度だった。

 つまりこの地層(実のところ「大褐炭層」の下位層)――ヘル・クリークHell Creek層(ブラウンの命名による;マーストリヒチアン後期;約6720万~6604万年前)は、「化石戦争」の戦禍をほとんど被っていない地層であった。かくしてブラウンはリチャード・スワン・ラル――オズボーンの学生だった――を相棒に、バッドランドへと旅立っていったのである。

 

 地元住民は一帯に化石がたくさん転がっていることをとっくに知っており、ブラウンは運が向いてきたのを感じていた。ブラウンとラルはホーナデイの旧友であるシーバーがかつて所有していた牧場にたどり着き、その周辺でついに立派な“ステルロロフス”の頭骨(と四肢の一部;AMNH 970)を発見したのである。

 そうこうしているうちにオズボーンからの𠮟責の手紙(以前ブラウンが採集した標本について、プレパレーションし損だったという内容である。母岩の付いたままの大きな化石の評価をフィールドで下すのは今も昔も難しい)が届き、ブラウンは謙虚に反省した――が、名誉挽回のチャンスは目の前にあった。ヘルクリークを挟んでシーバーの避難小屋の向かいにある崖で、ブラウンは再び、「マーシュの記載にはない」巨大な獣脚類の化石を発見したのである。

 

 化石は急峻な崖の途中に埋まっており、馬が入るのもおぼつかない場所であった。しかも化石は青い砂岩のコンクリーション――ブラウンがそれまで経験したことのないほど硬い岩に覆われていたのである。最寄りの鉄道駅までは200km以上あり、掘り出した化石をどうやって駅まで運ぶかも問題であった。ダイナマイトを駆使しての発掘が、始まった。

 困難な発掘の中で夏から秋へと季節は移ろい、降雪の時期が迫りつつあった。ブラウンに相棒としてつけられたラル――のちにアマースト大学を経てイェール大学へ移り、ハッチャーの角竜のモノグラフを完成させ、教授としてキャリアの最後まで在任した――は年齢も学歴もブラウンより上だったが、もちろんフィールドでの経験はブラウンの方が豊富であり、したがって調査の隊長はブラウンであった。こうした背景からふたりの関係は微妙な緊張をはらんでいたが、うまく調査を回していた(ブラウン自身、調査中にラルの評価をよい方向に改めたことを記している)。しかし長引く発掘を前にオズボーンから預かった路銀は底を突こうととしており、吹雪の季節は厳然として立ちはだかっていた。ラルをまずニューヨークへ帰し、それから200km近く離れたマイルズシティへ化石を次々と運び出した。駅にはオズボーンのよこした空の有蓋貨車があり、概算で4.5~6.8tほどの(母岩付きの)化石はかくしてニューヨークへと送り届けられたのであった。

 

 ブラウンが発見した巨大な獣脚類の化石――AMNH 973は1900年に発掘されたAMNH 5866とはまた違ったやっかいさを(はるかに上回るレベルで)抱えていた。AMNH 5866は母岩も化石も随分もろかったのだが、AMNH 973は(発掘中から明らかだった通り)ひたすらに硬いコンクリーションがクリーニングを妨げていたのである。

 一足先にニューヨークへ戻っていたラルと、AMNHが当時世界に誇るプレパレーターであったピーター・カイゼンとポール・ミラーがAMNH 973のクリーニング(母岩ごと化石を粉砕してから再接合するテクニックも駆使されたようだ)を進めていく中で、もう一つの深刻な問題が頭をもたげてきた。AMNH 973の部分的な骨格の保存状態は抜群によかったのだが、しかしその割に妙に部分的にすぎるように思われてきたのである。

 1905年のフィールドシーズンが近づくころ、オズボーンはAMNH 973――デイノドンの新種(オズボーンはコープの教え子ではあったが、分類についてはもっと真っ当な見方をしていた)とみられる標本と、それからAMNH 5866の記載の執筆にとりかかり始めていた。論文の執筆を進めるうち、AMNH 973の発掘場所の再訪は避けられないというところでオズボーンとブラウンの意見は一致した。掘り残しがある可能性をふたりとも感じていたのである。かくして1905年5月、ブラウンは(前年に結婚した妻のマリオンをこっそり料理係として連れて)再び現地へ舞い戻ることとなった。

 案の定、AMNH 973の掘り残しはそこでブラウンを待っていた。

 

 AMNH 973を掘りきるためには崖を相当に(ダイナマイトで)掘削することが必要であり、追加要素のクリーニングも含めれば年単位で時間を要する気配があった。腰を据えてかかるのが一番だったが、オズボーンたちには気がかりなことがあった――見えないタイムリミットが近づいていたのである。

 AMNH 973の産地を再訪した際、情報収集に出たブラウンはカーネギー博物館のウィリアム・アッタバック(ピーターソンと同様にイェール時代のハッチャーの助手を務めており、カーネギー博物館でも3人なかよく働いていた)のチームが数週間前に一帯を調査していたことを知った。幸い現場は3年前のままだったのだが、CM 1400――ハッチャーの死から1年ほどしか経っておらず、角竜のモノグラフは未完のままだったため、この標本に関する情報は寝耳に水だった――のプレパレーションが最終段階にあり、まもなく記載されるであろうという一報までニューヨークに届いていたのである。

 CM 1400には頭骨まで含まれているという話で、であればホランド麾下の(キャリアのどこかでAMNHでの経験があった)研究者たちはそつなく新種として記載するであろうことは容易に想像がついた。そしてAMNH 5866(この時点では歯骨だけが図版の制作のために優先的にクリーニングされていただけだったらしい)には頭蓋はさっぱり残っておらず、AMNH 973の頭骨は破片しか出てこなかったのである。CM 1400の実態はいまだ不明であったが、現状でAMNH 5866とAMNH 973が「勝てる」見込みはあまりなかった。CM 1400――「ドリプトサウルスの新種」とAMNH 973・5866――「デイノドンの新種」は同じ分類群の可能性が多分にあり、であれば先に命名された方が先取権の問題で圧倒的に有利だったのである。

 オズボーンはAMNH 973とAMNH 5866の記載論文をデイノドン類――白亜紀の北米の大型獣脚類の集大成として仕上げようとしていた。焦る仕事ではなかったはずなのだが、カーネギー博物館に先を越されてしまえばそれまでの苦労が水の泡になることは目に見えていたのである。「マーシュの記載していない」巨大獣脚類の名付け親がカーネギー博物館になることは認めがたいことであった。

 悪天候で現地への到着が遅れたこともあり、必死の思いで掘り進めたブラウンと助手のレロイ・パーキンは、ほどなく頭骨と思しき巨大な化石を含んだコンクリーションにぶちあたった。しかしこれは腸骨で、本物の頭骨の残りをすぐ採集して持ち帰るというわけにはとてもいきそうになかった。クリーニングも考えると、時間はもはや残されていないように思われたのである。

 

(ブラウンはフィールドでの印象からAMNH 973とAMNH 5866が別物であるとかたくなに信じていた。AMNH 973の掘り残しの発掘の最中にも別属として記載するようブラウンから手紙で促されているあたり、オズボーンは必ずしもそうではなかったようである。ティラノサウルスの原記載のためにウィリアム・ディーラー・マシュー(もともとオズボーンの助手で、ブラウンと親しかった。画才もあり、ナイトの復元画の監修役も務めていた。エドウィン・コルバートの義父でもある)の描いた骨格図の原画(つまりAMNH 973を描いたものである)には「デイノドン」の文字とともに「背中と脇腹は不規則な小さい、インチ厚の骨板で覆われていた」との文が添えられている。オズボーンはマシューに骨格図の制作を依頼した時点では、AMNH 973とAMNH 5866を同じ分類群――デイノドンの新種として記載するつもりであったようだ。フィールドでの観察に基づくブラウンの意見――両者をかたくなに別属と主張した――を容れて、最終的な論文としたように思われる。)

 

 ブラウンがAMNH 973の発掘を今度こそ終えて数か月後、クリーニングの完了を待たずしてオズボーンはAMNHの紀要にてティラノサウルス・レックスTyrannosaurus rex――AMNH 973をホロタイプとする新属新種の獣脚類を記載した。オズボーンは土壇場で(7月下旬までに)、この恐竜を新属とする決意を固めたのである。結局頭骨のクリーニングは間に合わなかった(論文中に明記までしている)が、相当量が保存されており、いざとなればCM 1400に対して先取権を主張できると踏んでのことであったようだ。オズボーンはティラノサウルス・レックスに続いて、AMNH 5866をホロタイプとしたディナモサウルス・インペリオススDynamosaurus imperiosusを命名した。この時点でティラノサウルスとディナモサウルスを分かつ特徴は、皮骨の有無だけであった。

 オズボーンはまた、それまでに命名された北米産の白亜紀の中~大型獣脚類についても分類の整理を行った。コープによって事実上デイノドンと合体させられていたドリプトサウルスを(アメリカ東部というはるか遠くで発見されていたことから)ドリプトサウルス・アクイルングイスに限定し、それからライディによる原記載を尊重する形で(つまり異歯性を重視して)デイノドンを復活させてアウブリソドンをジュニアシノニムとした。そして、エドモントン層(現ホースシュー・キャニオン層)がジュディス・リバー層よりも新しい時代であり、かつニュージャージーとも遠いことから、ランベがドリプトサウルス・インクラッサトゥスとして記載したCMN 5600をホロタイプ、CMN 5601をパラタイプとして新属新種――アルバートサウルス・サルコファグスAlbertosaurus sarcophagusを命名したのである。オズボーンの観察によれば、アルバートサウルスの歯骨歯の本数や厚さはデイノドンとディナモサウルスの中間にあるようだった。

 1905年12月3日、NYタイムズ日曜版にAMNHの恐竜発掘を紹介する全面記事が掲載された。ブラウンにとって初めての新聞沙汰であり、見出しの真下――センターには、マシューの描いたティラノサウルスの骨格図が大きく掲げられていたのである。化石の展示はまだだったが、かくして「百獣の王」のキャッチフレーズをひっさげ、ティラノサウルスは大衆社会へのデビューを果たしたのであった。

 

(オズボーンによるティラノサウルスの原記載は「ティラノサウルスと他の白亜紀の肉食恐竜」と題されたが、この論文の出版された日は厳密にははっきりしない。英語圏でも1905年10月5日とされることが多いようだが、紀要に記された別刷りの発行日は10月4日となっている。そもそも、記された発行日と実際に印刷物にアクセスできるようになった日が一致するとは(今日でも)限らず、この時代の論文では往々にして派手にずれることもある(コープに至ってはそのあたりを明らかに不正利用していた気配がある)。日本時間の10月5日に祝っておくというのは悪くない落としどころであるようだ。コープやマーシュと比べると、クリーニングが追い付いていなくてもよいのでとにかく原記載に一般受けするビジュアルを添える、というオズボーンの現代的な発想の光る論文でもある。マシューによって描かれた原記載の骨格図は、実のところ本文とあからさまに矛盾するレベルで巨大に描かれていた。)

 

↑CM 9380(旧AMNH 973)の骨格図。スケールバーは1m。

今日の復元(上)と1906年ごろの復元(下)とで仙前椎の様子が変わらないである点に注意。

 

 冬――フィールドへ出られないシーズンの間にAMNH 973(とAMNH 5866?)のクリーニングは着実に進み、きちんとした論文用の図版(原記載時のディナモサウルスの図版はアーウィン・クリストマンが担当し、続いての再記載の図はリンジー・モリス・スターリングが担当した。一方で、クリストマンはその後のモノグラフを想定してか陰影付きの未出版の図を相当数製作してもいた)の制作までこぎつけた。カーネギー博物館に対して先手を打つことに成功した(とうとう今日に至るまでCM 1400のきちんとした記載は出版されなかった)ことで、本来意図していた大著にふさわしい準備に落ち着いて時間を割けるようになったのである。

 オズボーンの焦りは、結果的にいささか裏目に出てもいた。クリーニングが終わってみれば、AMNH 973とAMNH 5866を別属はおろか別種としてみることもできそうになかった――産出部位の重複する部分はことごとくそっくりだったのである。両者を分かつものは、結局のところ皮骨――オズボーンはこれがAMNH 5866のものなのか疑問を抱くようになっていた――だけだった。

 かくして1906年の7月30日付で出版された再記載で、ティラノサウルスの実態――依然として未発見の部位は相当にあったが、とはいえAMNH 973とAMNH 5866を組み合わせることでかなりの部分が埋まった――が明らかにされた。ディナモサウルス・インペリオススはかくしてティラノサウルス・レックスのジュニアシノニムとなり(ホロタイプの発見は前者の方が早かったわけだが、原記載における扱いは後者の方が早かった;論文のタイトルからして後者が「本命」であったことを示している)、ティラノサウルス・レックスの標本リストにはさらにもう1標本――AMNH 5881(現NHMUK R7995;いくつかの腹肋骨と左右の後肢の大部分)が追加されたのである。

 クリーニングが終わってみればAMNH 973の頭骨はそれなりの部分が非常によく保存されており、骨盤はほぼ完全に、後肢も大部分が残されていた。肩甲骨も残っており、上腕骨――AMNH 973に属するのか否かでオズボーンとブラウンはかなり揉めた(オズボーンをして原記載の出版を遅らせるほどだった)が、結局のところこの中空――つまり獣脚類には違いない――の骨は、肩甲骨の肩関節窩に非常にうまくはまったのであった。そしてAMNH 5866は頸椎がほぼ完全に残っており、AMNH 973の胴椎と合わせると仙椎までの様子をかなりはっきりと描き出すことができた。完全な骨格が知られているとはとても言えなかったが、しかしティラノサウルス・レックスは白亜紀の大型獣脚類としてはもっとも完全な骨格が知られていることも確かだったのである。

 スターリングは1/40スケールで、前年にマシューが描いたごくごく概略的な骨格図よりもはるかに精緻に描き込まれたものを描き上げた。そしてオズボーンは、コープが1866年に設立したデイノドン科に特に触れることなく、ティラノサウルス科を設けたのである。

 オズボーンを最後まで悩ませたのはAMNH 5866の皮骨であった。なにしろAMNH 973では奇妙なことにひとかけらの皮骨さえも発見されなかったのである。AMNH 5866はトリケラトプスやハドロサウルス類の破片と共産したのであるが、とはいえ(トリケラトプスの体を覆う皮骨についてはマーシュが報告したりもしていたのだが)こうしたタイプの皮骨はそれらの恐竜では見られないものであった。皮骨が明らかな獣脚類の肋骨と近接して発見されたこともあり、オズボーンは(最後まで懐疑的ながらも)ブラウンの意見――AMNH 5866は皮骨で装甲されている――を受け入れたのである。オズボーンは、こうした皮骨の役割は種内戦闘からの保護以外には考えにくい、と述べてこの論文の締めの文とした。

 

(「ティラノサウルスの皮骨装甲」についてきちんとした記載や配列の検討がなされることはとうとうなかった。ブラウンは1908年にアンキロサウルスを記載した際に「ティラノサウルスの皮骨」について触れ、アンキロサウルス(のホロタイプ)のそれと比べて表面がより滑らかで、やや不規則な形態であること、おそらくはより皮膚の深い部分に位置していたであろうことを述べている。また、「トリケラトプスの皮骨装甲」は結局のところトリケラトプスの骨格と共産したものではなく、フィールド調査でも一度も確認できなかったことにも触れている。「ティラノサウルスの皮骨装甲」が真剣に検討されることはそれからなかったのだが、2004年にカーペンターによって初めてきちんと記載・図示され、単にアンキロサウルスの皮骨であることが示されて今日に至っている。「トリケラトプスの皮骨装甲」は少なくとも角竜のものではなく、よく目立つスパイクのクラスターはパキケファロサウルス(ないしスティギモロク)の幼体のものであった。)

 

 1906年12月30日、NYタイムズにティラノサウルス・レックスのAMNHでの展示開始を知らせる記事が掲載された。まず展示されたのはAMNH 973の巨大な下半身――ほぼ完全な状態で保存されていた仙椎と骨盤、そして相当部分が保存されていた左右の後肢にアーティファクトを加えて組み上げたものであった。優雅な足取りでマウントされた脚の間には現生鳥類の骨格がちょこんと立ち、来館者に両者の類似を訴えかける仕掛けになっていたのである。記載を前倒ししてまで急いで命名したにもかかわらず、そこからわずか1年で(部分的とはいえ)オズボーンは写真映えするマウントの展示にまでこぎつけたのであった。ナイトによる復元画がこれに花を添え、AMNHは、名実ともに「マーシュの記載していない」白亜紀の巨大獣脚類を巡る競争に勝利したのである。

 

(この時点では、ティラノサウルス・レックスとして同定された第III中足骨は存在しなかった。オズボーンはティラノサウルスの第II、第IV中足骨が(ジュラ紀の大型獣脚類とは異なり)第III中足骨と深く嚙み合う構造であることを見抜いてはいたが、“オルニトミムス・グランディス”との類似には気付いておらず、従ってAMNH 973の足の甲は実際よりもやや幅広のものとしてマウントされている(末節骨も実際よりは大きめのものが据えられた)。このマウントは後述のAMNH 5027のマウントの完成後もしばらく常設展示に留まっており、 しばらくは同じフレームに入れて撮影することが可能であった。開始のタイミングははっきりしないものの、大量のアーティファクトと共にマウントされたAMNH 973の復元頭骨も展示されており、やはりAMNH 5027のマウント・実物頭骨と共に展示されていた時期もあったようである(写真左端、ティラノサウルスの脳函(AMNH 5029とAMNH 5117)と共に写っている)。この復元頭骨はスターリングの図とは側頭窓の作りが別物で、再記載の図版とは制作のタイミングがずれていたようにも思われる。これらAMNH 973の初期の展示物は当然現存していないが、カーネギー博物館のリニューアルまではCM 9380の復元骨格の頭部(と足元の実物頭骨)は「旧復元」のままであったし、骨盤や後肢の細かな破損・欠損部を充填したアーティファクトは今日までAMNH製のものが残っている。)

 

 1908年夏、ブラウンは1年ぶりのフィールド――ふたたびモンタナのヘル・クリーク層へと赴いた。今度の相棒は腕利きプレパレーターのカイゼンである。1906年の予備調査で発見されたハドロサウルス類の採集をひとまずの目標に、前回のヘル・クリーク沿いから50kmほど東、ビッグ・ドライ・クリーク沿いで調査が行われることになっていた。実のところ、オズボーンの求めるものはティラノサウルスの追加標本であった。

 現地で牧場を営むトウィッチェル一家と仲良くなりつつ、いざ7月1日に現地に到着すると、ブラウンは予備調査で発見されていたハドロサウルス類の採集をすっぱりあきらめた。――が、ここでブラウンは生涯最高の化石との出会いを果たしていた。キャンプへの道すがら、風化した4個の尾椎が転がっているのを見つけたのである。

 なんということはない尾椎のようだったが、ちょっと掘ってみると――化石はAMNH 973の時のようなコンクリーションではなく、固結度の低い砂岩に埋まっていた――状況は一変した。そこにあったのは、小さな丘へと続く15個の尾椎だったのである。そして、尾椎はこれまでにブラウンが見たことのない形態であった。

 

 尾椎を追いかけてキャンプを丘のそばへ移したブラウンは、7月3日にティラノサウルスと思しき頭蓋と下顎――尾椎の主が埋まっているのを見つけた。お祭り男のブラウンにとって、独立記念日前日のこの出来事は吉報もいいところであった。近隣(日本の感覚にはあてはまらない)住民とともにトウィッチェル牧場で独立記念日を派手に祝った一行は、尾椎の残りが丘の中――砂岩のコンクリーションへと続いていることを確認したのである。

 料理人がろくに仕事をしなかったことを除けば、発掘は極めて順調に進んだ。コンクリーションはAMNH 973の時ほど硬いわけではなく、崖を上ることもないのもあって足場はずっとよかったのである。ダイナマイトで丘の上部を爆破し、7月半ばには化石の全容が明らかになった。

 そこにあったのは、デス・ポーズで横たわるティラノサウルスの巨大な骨格であった。頸椎から尾の中ほどまでが完全に関節していたそれのかたわらには、完全な頭蓋と下顎まで残されていたのである。

 

 チームはまたしてもトウィッチェル牧場で(大量のチキンとアイスクリームで)発見を祝い、オズボーンもこれをいたく喜んだ。8月の下旬に現地を訪れたオズボーンは、「頭骨だけでもこの夏の作業の価値がある」とブラウンが手紙で書いた通りのものを目にできたのだった。

 発掘そのものは9月上旬までにカタがつき、10月第一週までひたすらに梱包作業が続いた。一連の調査は大成功に終わり、この骨格――AMNH 5027のほかにティラノサウルスの単離した脳函AMNH 5029やトリケラトプスの頭骨AMNH 5028、オルニトミムス類まで採集できたのである。

 

↑AMNH 5027(上、中)とCM 9380(下)の骨格図。スケールバーは1m。

AMNH 5027の復元骨格の最初のバージョンに基づくもの(上)では前肢が3本指であり、肩帯と四肢にCM 9380(灰白色)をそのまま組み入れられているため、今日の復元(中)と比べて四肢がマッシブかつわずかに長い点に注意。AMNH 5027では頸椎と胴椎が病変のために短くなっているが、本来CM 9380とほぼ同じサイズの個体である。

 

 AMNH 5027のクリーニングは着実に進められ、1912年になるとオズボーンは頭骨の詳細な記載を行った。AMNH 5027の頭骨は当時知られていた獣脚類のものとしては最大かつ最高の保存状態を誇っており(完全な頭骨が知られていた獣脚類は他にケラトサウルスとアロサウルスくらいしか知られておらず、前者は変形がひどく後者は下顎がいまひとつよくわかっていなかった)、AMNHの所蔵していた一連のアロサウルスの標本と合わせて大型獣脚類の頭骨の詳細がここで明らかになったのである。マーシュの死後10年以上を経て、ついに角竜キラーたる「攻撃用に特殊化したそれらの特徴」が明らかになったのであった。

 AMNH 5027の記載と並行して復元骨格の展示計画・制作も進められた。オズボーンの手元にあったティラノサウルスの標本のうちAMNH 973とAMNH 5027は驚くべきことにほぼ同サイズの動物であり、しかもAMNH 973とAMNH 5027をそれぞれのレプリカで相互補完してやれば尾の後半部以外ほぼ全身がそろってしまう格好であった。両者とも保存状態は抜群によく、最大最強最後の肉食恐竜の復元骨格をいきなり2体展示できるチャンスにオズボーンが飛びつかないはずはなかった。

 

(実際のところAMNH 973=CM 9380はAMNH 5027よりもわずかに大きいが、このサイズの違いは個体変異で吸収できてしまう程度ではある。体サイズはさておきCM 9380はAMNH 5027よりもずっとがっしりした、より成長の進んだ個体であり、問題はむしろこちらにある。結果的に、今日でもAMNH 5027の復元骨格は実際よりもはるかに頑強かつわずかに長い(非アークトメタターサルの)後肢で立っている。)

 

 2体の巨大な獣脚類の骨格を展示するうえで立ちはだかる問題はいくらでもあった――単なる技術的な困難もあったが、限られた館内空間にティラノサウルス2体を展示・設置するのは極めて困難なように思われた。博物館の増築にかかるコストは言うまでもなかったが、それでも(あるいはそれゆえに)オズボーンはあきらめず、 「ティラノサウルスポージングコンテスト」を行ってAMNH 973とAMNH 5027の展示計画を練り続けた。採用されたのはブロンクス動物園の爬虫類担当学芸員レイモンド・L・ディトマーズによるもので、倒したばかりの“トラコドン”を巡って2頭のティラノサウルスが争うという構図であった。そして彫刻家としての才能にも恵まれていたクリストマンによって1/6スケールのティラノサウルスのフル可動の骨格模型が木彫りで2体(+“トラコドン”の代役としてもう1体)制作され、復元骨格のポーズ・レイアウトの検討に供されたのである(この模型は最終的にポーズを変更して常設展示に回された)。

 完全度が高く、それゆえ復元骨格に組み込まれる化石の量が多くなるAMNH 5027は“トラコドン”の上に覆いかぶさった低い姿勢で、これであれば重い頭骨もそのままマウント可能であると見積もられた。完全度が低く(それゆえ、化石本体よりも大胆にアーティファクト部分に支持材を通すことができる)、しかもすでに制作された復元頭骨(石膏に実物標本を埋め込んだため、作り直しは困難だった)を流用することが前提であったAMNH 973は雲突くばかりの高さに立ち上がり、AMNH 5027から獲物を奪おうとする(ついでに、あからさまに不正確なものとなった復元頭骨は来館者から見えにくくなる)ポーズで組み立てられることとなったのである。実のところこれに近い(完全な頭骨を含むより完全度の高い骨格を低い姿勢で、そうでない方を高い姿勢でマウントする)レイアウトの展示はすでに“トラコドン”のペアで実現できており、技術的な問題はそれほど致命的ではなかったようでもある。

 スポンサーへのアピールを兼ねてか、この「展示用復元骨格を制作するための新手法」は1913年にAMNHの紀要にて出版された没ポーズの写真も残っている)が、しかしオズボーンの剛腕をもってしても、この展示計画の前に立ちはだかる経済的な障壁を乗り越えることはできなかった。かくしてティラノサウルスの展示計画は縮小され、AMNH 973は(引き続き)骨盤と後肢のマウントと復元頭骨が展示されることとなった。AMNH 5027はよりおだやかなポージングとされ、結果的に(高い位置でマウントしなくてはならなくなったため)頭骨は軽量なレプリカを用いてマウントされることとなった。

 

(AMNH 5027のプレパレーション中の記録(というか宣伝)写真は広く世界に紹介されたようである。日本でも大正7年(1918年)にAMNH 5027の組み立て中の写真が出版されているが、これはどうやら日本で初めて示されたティラノサウルスのビジュアルでもあるようだ。存在そのものはラルの論文の抄訳という形で大正元年(1912年)には紹介されているが、この時のカナ表記は「チラノサウルス」であった。「ティラノサウルス」表記は大正10年(1921年)にはすでに生まれており(ついでにTyranosaurusと誤記された)、わりあいに起源が古い。)

 

 ハーマンの号令の下、チャールズ・ラングはひたすらにアーティファクト――AMNH 973の石膏レプリカをもってしても埋まらなかった部位を補完するもの――をこね続けた。危なっかしい高所作業の連続の末、1915年の10月についにAMNH 5027の復元骨格は完成した。人類時代展示室――化石ホールにすぐに置ける場所などなかった――の天井すれすれにそびえ立ったそれは、ティラノサウルス・レックスが真に恐竜の王としてよみがえったことをはっきりと示していたのである。オズボーンは1916年にそれまでの獣脚類に関する研究の集大成を出版し、AMNH 5027のありようをクリストマンに存分に描かせ、アンダーソンによる復元骨格の写真で論文を飾らせたのだった。

 

(オズボーンはこのとき初めてAMNH 3982――マノスポンディルス・ギガスについて言及し、ハッチャーの意見――マノスポンディルスが角竜などではなく獣脚類、それもおそらく「巨大ドリプトサウルス」すなわちティラノサウルス・レックスのものとする意見を追認した。オズボーンはこれがティラノサウルスの第10頸椎ないし第1胴椎に酷似していることを見抜いたが、保存のよくない(ゆえに粗い海綿状の組織がむきだしになっていた)単離した椎骨に過ぎないそれに基づく学名を疑問名とみなし、捨て置くこととした。ラーソンはBHIが2000年にサウスダコタで発掘を始めた(前年の終わりにバッキー・ダーフリンガー(言うまでもなく“バッキー”の名は彼にちなんでいる)が一部の骨を持ち込んだ)ティラノサウルス・レックスの標本BHI 6248(E.D.コープというそのまんまな愛称がついている;相当な大型個体であり、AMNH 3982と同程度のサイズには違いない)がAMNH 3982の掘り残しである可能性を示唆した。BHI 6248は部分骨格に過ぎないが、とはいえ上下の顎をはじめとする要所が残っており、これがAMNH 3982の掘り残しであるならば、マノスポンディルス・ギガスは分類上有意な特徴を残した標本をホロタイプとしているという格好になり、ティラノサウルス・レックスをジュニアシノニムにできうる(ので、BHI 6248は学術的に意義深い)――というのがラーソンの言い分であった。BHI 6248がAMNH 3982の掘り残しである、とする根拠は実のところダーフリンガーによる発見以前のいつごろかに誰かが椎骨を掘り起こして脇に積み上げていたらしい、という以上の話ではなく(ラーソンは産地の大まかな位置(「サウスダコタ州モロー川の南側」)も根拠に挙げているが、そもそも先述の通りコープはAMNH 3982の産地情報を原記載に一言も残しておらず、ハッチャーにしても口伝で「サウスダコタ産」とまでしか聞き出せていない。ラベルにこのあたりの情報がなかったのは言うまでもない)、もし本当にBHI 6248がAMNH 3982の掘り残しであったとして、そもそもマノスポンディルス・ギガスは動物命名規約第4版(2000年~)いうところの遺失名nomen oblitumの条件を満たしている(ので、強権発動もなにもないまま、ひとたび正式な形で遺失名であると述べてしまえば終わりとなる)格好である。結局のところBHI 6248をAMNH 3982の掘り残しとみる意見は真剣に検討されたことがなく、マノスポンディルス・ギガスは遺失名としてきちんとした出版物で宣言されることもなく単なる疑問名のまま今日まで至っている。)

 

 それから30年近くの間、AMNH 5027はティラノサウルス・レックス唯一の全身復元骨格として、化石ホールにようやく移設された1917年以降はホロタイプ――AMNH 973を従えてずっと一人で立ち続けた。ほどなくブラウンは妻を病で亡くし、ブラウンらAMNHの調査隊とGSCに雇われたスターンバーグ一家(長男のジョージは当初AMNH隊に雇われていた)による第二次化石戦争によって姿を現したはるかに完全な「デイノドン科」――ゴルゴサウルス・リブラトゥスの発見にともなってAMNH 5027は1927年に手の第III指をもぎ取られた

 

 1908年からずっと理事会会長としてAMNHに君臨していたオズボーンは1934年に退職し、名誉職にありつつ静かに余生を過ごすはずだった――が、翌1935年に書きかけのモノグラフを残して机に向かったまま心臓発作で息を引き取った。館長としてオズボーンの精神的後継者となったアンドリュース――実態がどうあれ、ブラウンとはライバル関係にあった――にも世界恐慌から来る博物館の財政難はどうすることもできず、AMNH――ひいては恐竜研究はゆっくりと時代の波に取り残されていった。シンクレア石油からのフィールド調査への資金援助を取り付け、ジョージ・ゲイロード・シンプソンやエドウィン・ハリス・コルバートといった新星を迎えていたAMNHであったが、資金難は研究能力を着々と奪いつつあったのである。

 1941年、古脊椎動物学部門創設当時からのメンバーであり、ブラウンとともに共同で部門の代表を務めていたウォルター・グレンジャー――正式な学位を長年持たないまま、17歳から半世紀以上にわたってAMNHにあり続けた生粋の叩き上げ――は野外調査中に倒れ、帰らぬ人となった。長年の仕事仲間を失い、代表として一人残されたブラウンだったが、それでも前に進み続けるしかなかった――第二次世界大戦の影が色濃く落ちる中で、疎開を口実に古脊椎動物学部門の予算状況を少しでも改善しようとしていたのである。オズボーン亡き今、ブラウンはカーネギー自然史博物館にAMNH 973――カーネギー自然史博物館を出し抜くため、論文の出版を強行してまで命名されたティラノサウルス・レックスのホロタイプを売却しようとしていたのだった。

 

 1940年の12月から続いたカーネギー自然史博物館との交渉はうまくまとまり、1941年の暮れにAMNH 973(とAMNH 5029から作成された脳函エンドキャスト)は15個の木箱と4つの紙箱に詰め込まれ、トラックでニューヨークからピッツバーグへと旅をした。かくしてなけなしの7000ドル(今日の価値で15万ドルあまり――化石市場の異様な状況を見ればほとんどギャグのような安さである。運賃は今日の価値で2300ドルほどかかり、カーネギー自然史博物館の理事が負担した)が古脊椎動物学部門の懐へと転がり込んだのである。

 

老境のブラウンとラングがティラノサウルス・レックスのホロタイプを点検している写真はアーカイブによれば1942年8月撮影とされており、であればカーネギー自然史博物館でマウントされる直前のタイミングと思われる。AMNHで長らく展示されていた復元頭骨と骨盤・後肢のマウントはそのまま台座ごと売却されているのだが、椎骨をはじめとする残りの部分のアーティファクトはカーネギー自然史博物館で一から制作されたということのようだ。)

 

 1942年、AMNH 973あらためCM 9380の受け入れから1年足らずでカーネギー自然史博物館に新展示――2体目となるティラノサウルス・レックスの復元骨格が加わった。カーネギー博物館がほぼ40年がかりで念願の標本を手に入れた一方で、AMNHの研究部門を取り巻く状況はさらに厳しくなっていった。予算はさらに削減され、定年制が導入され、そしてブラウンは1942年の夏にとうとうAMNHの第一線を退くことになったのである。

 

(ブラウンはこののち、AMNHの名誉キュレーターでありつつも、戦略情報局と戦時経済局での任務(1941年の春にアンドリュースは戦争協力に関する政府の緊急要請を館の要職にあった古生物学者に通達していた)や(それ以前にも副業としてよくこなしていたが)石油探鉱のコンサルタントとして働いた。特に地中海周辺での豊富なフィールド経験を戦略情報局と戦時経済局は高く買っていたというのだが、70代を目前にあやうくハニートラップに引っかかりかけたというエピソードもある。)

 

 戦争が終わってもなお、AMNHからティラノサウルスは去り続けた。1960年になり、AMNH 5866――ディナモサウルス・インペリオススのホロタイプはAMNH 5881もろともBMNH(現NHMUK)――大英自然史博物館へと売却されたのである。生まれて初めて大西洋を渡ったこれらの標本はAMNH 5027のレプリカ(この場合、CM 9380のレプリカ部分も含まれている)と組み合わされ、恐竜ギャラリーにてウォールマウントとして展示されたのであった。

 

(かくしてAMNH 5866はBMNH R7994(現NHMUK R7994)、AMNH 5881はBMNH R7995(NHMUK R7995)となった。AMNH 5866の皮骨はどこかしらのタイミングで分離され、現在ではNHMUK R8001となっている。)

 

 期せずしてブラウンとオズボーンらが手塩にかけてきたティラノサウルスたちの集合体となったこの復元骨格だったが、怪我の功名とでもいうべき出来事に見舞われていた。これの組み立て・展示にあたったニューマンは、最低限の労力でできるだけ最新版に近いティラノサウルスの復元骨格の制作を試みた――ゴルゴサウルスのホロタイプの発見により、とうの昔に長すぎる復元であることが明らかだったAMNH 5027の尾はいくつかの椎骨が抜き取られて短縮されたが、「新規造形」が必要となるCM 9380の足は非アークトメタターサルのまま残された――が、ここで恐竜ギャラリーの構造がネックとなった。アーチ屋根のぶん天井は高かったのだが、壁際の高さはそれほどでもなく、全身を立体的にマウントするには手狭な空間だったのである。

 ニューマンはここで、AMNHのマウントの状態では後頭顆が頸椎にうまく関節しないこと、頸椎の形からして首は鳥のように背側に引いた状態が基本であるらしいこと、ゴルゴサウルスの尾の後半部(言うまでもなくティラノサウルスでは未発見だった)の前方関節突起がよく伸長しており、尾の左右方向への可動性が制限されていることを見て取った。恐竜の発達した血道弓は尾を引きずる際の保護という文脈で語られることがよくあったが、結局のところもっともよく発達した血道弓は尾の近位部――引きずりようのない部分に並んでいたのである。獣脚類の行跡に尾を引きずった痕跡がみられることはめったになく、尾の後半部の左右方向への可動性が制限されていることも鑑みると、ティラノサウルス――ひいては獣脚類が尾を地面に引きずって歩く(実のところこうした復元画が20世紀前半に描かれることはそうなかった)、あるいは地面に向かって垂らしていたとはとても思われなかったのである。走鳥類のように大腿骨を水平近くに保ち、膝下だけを主に使って移動したとも思われなかったが、しかしティラノサウルスにほどよい長さの(そしてトカゲのようにくねくねと動くわけでもない)尾があるのなら、前半身とのバランスは十分に取れるように思われた。ティラノサウルスは――同様のボディプランを持つ獣脚類は鳥のように上半身をおおよそ水平に保って歩いていたのである。

 アラン・チャリグとの確執を残しつつ、かくしてほぼ水平姿勢で腹肋骨までマウントされたティラノサウルスのウォールマウントが、ロンドンはサウス・ケンジントンでおひろめされた。1970年にニューマンは論文を出版し同じ年にラッセルはより過激なポージングで描いたダスプレトサウルスの骨格図を解き放った。恐竜ルネッサンスはすでに始まっていたのだ。

 

 それから半世紀以上が過ぎたが、相変わらずティラノサウルス・レックスは元気に過ごしている。AMNH 5027はAMNHのリニューアルに合わせて解体され、まだ残っていた母岩を完全に取り除かれたのちに現代的な保護剤で補強・修復された。頭骨を新レプリカに交換のち尾を切り詰められた(後肢はそのまま残った)マウントは、つつましげなポーズで来館者を迎えるようになってずいぶん経っている。大英自然史博物館のウォールマウントは解体されたが、その一部――“ディナモサウルス”の顎はこの恐竜の数奇な運命を伝えている。そしてCM 9380は石膏の山の中から頭骨を「救出」されたのち、因縁のCM 1400を足元に従え、オズボーンがとうとう果たせなかった夢――もう一頭のティラノサウルス(MOR 980のレプリカ)とともに獲物を奪い合う姿で組み直されたのだった。

 

 保存状態がよく、完全度もはるかに優れた標本がいくつも知られていることにより、CM 9380の分類学的な価値は長らく顧みられることがなかった。しかし昨今のティラノサウルスを巡る分類学的な体たらくを重く見てか、命名120周年を記念して、カーによるCM 9380の頭骨要素の詳細な――1906年以来となるまとまった再記載が今年になって出版された。CM 9380――ティラノサウルス・レックスのホロタイプの頭骨について現代的な記載を書き連ねたカーは、近年命名されたティラノサウルス属3種――ポールダールマンらによる分類を一蹴したのである。

 かくしてCM 9380はホロタイプとしての存在感を久方ぶりに発揮し、再びティラノサウルスの群れの先頭に立った。マーシュが夢想しオズボーンの野望を乗せたそれは、ブラウンの最後の忘れ物――AMNHに最後まで残っていた肋骨を組み込まれ、今日もどこ吹く風でMOR 980からエドモントサウルスを守り続けている。

 

 

 

 

 

 

ネメシスの要塞

↑セロ・フォルタレザCerro Fortaleza層産の代表的な恐竜の骨格図。上段は左からプエルタサウルス・ロイリPuertasaurus reuili、オルコラプトル・バークイOrkoraptor burkei、タレンカウエン・サンタクルセンシスTalenkauen santacrucensis 。下段はドレッドノートゥス・シュラニDreadnoughtus schrani 。いずれもホロタイプに基づく。スケールバーは4m。


 南米の白亜紀後期後半の恐竜化石と言えばパタゴニア北部のものがよく知られているが、近年ではパタゴニア南部――チリとアルゼンチンにまたがるエリアのカンパニアン~マーストリヒチアンの恐竜化石が注目を集めつつある。南半球の高緯度地域であり、かつ南極-オーストラリアとも密接に関係する地域であるこのエリアには、パタゴニア北部とはかなり異なった恐竜相が広がっていたらしいのだ。


 パタゴニア白亜紀後期の恐竜化石の名産地として知られているが、なにしろパタゴニアは果てしなく広大である。パタゴニア全土でまんべんなく恐竜化石が産出するわけはなく、パタゴニア全体にまたがる堆積盆があるわけでもない。パタゴニアには北からネウケンNeuquén堆積盆、カナドン・アスファルトCañadón Asfalto堆積盆、ゴルフォ・サン・ホルヘGolfo San Jorge堆積盆そしてマガヤネスMagallanes/オーストラルAustral 堆積盆(チリ側がマガヤネス堆積盆、アルゼンチン側がオーストラル堆積盆と呼ばれているが、地質学的に両者が分かたれているわけではない)といった巨大な堆積盆が存在し、それぞれが様々な時代(白亜紀後期に限らない)の堆積物の三次元的な分布を保持している格好である。

 こうした堆積盆のうち、パタゴニアの最北部に位置するネウケン堆積盆やその南にあるカナドン・アスファルト堆積盆、そのさらに南東に位置するゴルフォ・サン・ホルヘ堆積盆の最上部白亜系から産出する恐竜化石は古くから様々なものが知られていた一方で、パタゴニア最南端――チリとアルゼンチンにまたがるマガヤネス/オーストラル堆積盆ではそれほど恐竜化石の産出が知られているわけではなかった。ネウケン堆積盆では例えばアンタークトサウルスAntarctosaurus(言うまでもなく模式種の方である)やネウケンサウルスNeuquensaurus(共にカンパニアン前期~中期のアナクレトAnacleto層産)、ロカサウルスRocasaurus(カンパニアン後期~マーストリヒチアン前期のアレンAllen層産)といった様々なグループのティタノサウルス類や、アベリサウルスAbelisaurus(アナクレト層産)やアウカサウルスAucasaurus(アナクレト層の上部産;カンパニアン前期)といったアベリサウルス類、アウストロラプトルAustroraptorのような大型のウネンラギア類やボナパルテニクスBonapartenykus(共にアレン層産)のような大型のアルヴァレズサウルス類、様々なクリトサウルス亜科のハドロサウルス類(単系統をなすとみられており、アウストロクリトサウリアと呼ばれている)といった多様な恐竜相がよく知られている。また、カナドン・アスファルト堆積盆ではラ・コロニア層でカルノタウルスの産出が知られており、近年になってマーストリヒチアン中ごろの多様な恐竜相の存在が確認されたところでもある。ゴルフォ・サン・ホルヘ堆積盆のラゴ・コルウエ・ウアピLago Colhué Huapí層(コニアシアン?~マーストリヒチアン前期;恐竜化石はほとんどがカンパニアン以降のもののようだ)でも、古くは1893年にライデッカーによって記載されたアルギロサウルスArgyrosaurusや、謎めいたノトケラトプスNotoceratops、セケルノサウルスSecernosaurus(アルギロサウルスやセケルノサウルスはマーストリヒチアン前期の層準から産出する)といった恐竜が知られていたのである。
 これに対し、マガヤネス/オーストラル堆積盆における恐竜化石の研究状況は悲惨なものだった。19世紀の後半にはすでにサンタ・クルス州のビエドマ湖やその南にあるアルヘンティーノ湖、その間に広がるラ・レオナ川やフォルタレザ丘陵、パリ・アイケ丘陵、そしてビエドマ湖の東に伸びるスエウエン川沿いでアメギーノ(弟)によって様々な動物化石が採集されており、20世紀初頭にかけてアメギーノ(兄)とフォン・ヒューネによって記載が進められた。中にはクラスモドサウルス・スパチュラClasmodosaurus spatulaとロンコサウルス・アルゼンチヌスLoncosaurus argentinusの2新属新種の恐竜が含まれていた。とはいえ両者ともごく断片的な要素に基づいており、命名当初から特別な注目を集めることはなかった。そして(いかんせん19世紀末の話なのでどうしようもないところでもあるのだが)この地域の層序は全くおぼついていなかったのである。

 

(クラスモドサウルスは1本の歯、ロンコサウルスは単離した歯と大腿骨のセットに基づいており、両者はどうも同じ場所から産出したようだ。前者は今日ではティタノサウルス類、後者はアベリサウルス類の歯とエラスマリア類の大腿骨の混在したものと考えられている。後述。)

 

 1980年代以降にこのあたりの整理がようやく進み、一帯に露出する地層はセノマニアン~チューロニアンのマタ・アマリヤMata Amarilla層とその上位に重なるカンパニアン~マーストリヒチアンのセロ・フォルタレザCerro Fortaleza層(かなり最近までパリ・アイケPari Aike層と混同されることが多かった;後述)として扱われるようになったが、両者の岩相はかなり似ており、おまけに一帯の露頭は側方連続性がよくなかった。露頭レベルで示準化石がまともに出てこない限り、両者の区別が困難だったのである。従って、互いの露出域は非常にしばしば混同されることとなり、アメギーノ(弟)による調査以来100年以上にわたって混沌をもたらすことになったのだった。
 さて、先行研究の乏しさは(研究を難しくさせるなにがしかの要因の存在を示唆しつつも)そのまま新たな研究のポテンシャルを示していることになる。マガヤネス/オーストラル堆積盆は南米の中でも特に高緯度地域に位置しており、そしてカンパニアン~マーストリヒチアンの様々な生物の化石を保存しているはずである。南極大陸は当時も今も目と鼻の先にあり、その先にはオーストラリアやニュージーランドもある。白亜紀末の大量絶滅イベントの研究に際しては、チチュルブ・クレーターから遠く離れたこれらの地域の生物相の解明は極めて大きな意義を持つはずだった。

 

↑タレンカウエン・サンタクルセンシスTalenkauen santacrucensisのホロタイプMPM–10001Aの骨格図(スケールバーは1m)。欠損部は主にMPM-PV 23353に基づく。ホロタイプは亜成体であり、MPM-PV 23353は全長6mに達するとみられている。

 

 20世紀の間ほとんど手つかずに近い状態となっていたこの地域に遠征隊が戻ってきたのは、1990年代の後半になってからであった。このあたりには「マーストリヒチアン前期のパリ・アイケ層」が露出しており、合同チームを率いるノヴァスの卓越した嗅覚はビエドマ湖の南できっちり大当たりを引いた。ラ・レオナ川沿いで続々と恐竜化石が発見されたのである。竜脚類から獣脚類、鳥脚類までよりどりみどりであり、とりわけタレンカウエンTalenkauen――尾を除きほぼ完全かつ関節した状態の、全長5mになろうかという骨格は極めて重要なものであった。獣脚類の化石はごく断片的だったが、コエルロサウルス類と思しきオルコラプトルOrkoraptorと、非アベリサウルス科アベリサウルス上科らしきアウストロケイルスAustrocheirusといった奇妙なものが見出された。そして竜脚類の化石は頸椎と胴椎(および未記載のままの尾椎の椎体2点)からなるものだったが、あきれるほど巨大であった。運搬のために化石を一度分割し、その上でジャケットに包んで1kmほどの距離を2日がかりで運搬されたそれは、発見者とプレパレーターの名前をもらってプエルタサウルス・ロイリPuertasaurus reuili命名されたのだった。

 

↑プエルタサウルス・ロイリPuertasaurus reuiliのホロタイプMPM-10002の骨格図(スケールバーは4m)。図示のない尾椎2点は省略している点に注意。欠損部のうち、頭骨は大まかにサルミエントサウルス、頸椎はフタロンコサウルスとアラモサウルス、肩帯はパタゴティタンとカンデレロスCandeleros層産の未記載種MOZ-Pv 1221、前肢はパタゴティタンとアラモサウルス、胴体・腰帯はフタロンコサウルスとパタゴティタン、後肢はパタゴティタンとノトコロッスス、尾はMOZ-Pv 1221とアラモサウルス、皮骨はメンドーササウルスに基づく。


 これらの恐竜化石は2004年から断続的に記載され、マガヤネス・オーストラル堆積盆における恐竜の化石記録を一気に積み上げることになった。タレンカウエンのホロタイプはこの時代のゴンドワナ産の鳥脚類としては最高の化石であり、プエルタサウルスにしても最大級のティタノサウルス類(つまり陸上動物として最大級ということである)としては唯一頸椎の知られているものであった。胴椎は(運搬のためにやむなく3分割されたが)驚くほど保存がよく、横突起がアルゼンチノサウルスのそれとは比較にならないほど伸長しているという壮絶な代物でもあった。
 南米産の非ハドロサウルス類鳥脚類が(ゴンドワナに特有の)単系統をなす可能性はかねてから指摘されていたが、タレンカウエンと続くマクログリフォサウルスMacrogryphosaurus(ネウケン堆積盆のシエラ・バローサSierra Barrosa層産;コニアシアン中期~後期)の発見でこのあたりがはっきりと確認されることになった。タレンカウエンやマクログリフォサウルス、ガスパリニサウラGasparinisauraやアナビセティアAnabisetiaといった南米のものに加え、トリニサウラTrinisauraやモロサウルスMorrosaurusといった南極産のもの、さらにはレエリナサウラLeaellynasauraをはじめとする一連のオーストラリア産のものまでエラスマリア類として単系統をなすことが明らかとなったのである。

 また、オルコラプトルがメガラプトル類であることも明らかとなった。オルコラプトルの後眼窩骨は(オルコラプトルと同じ2008年に記載された)アエロステオンのものと酷似していたのである。時代からしてオルコラプトルはどうやら最後のメガラプトル類のように思われた。

 

↑オルコラプトル・バークイOrkoraptor burkeiのホロタイプMPM-Pv 3457の骨格図(スケールバーは1m)。 脛骨の近位部は損傷が著しく、本来の形態を描き出していない点に注意。最近では本種と思しき単離した要素がいくつか発見されている(本文参照)。


 どっこい、2000年代の中ごろになるとこの一帯の上部白亜系の層序に大きな疑問が突き付けられるようになった。もともとラ・レオナ川沿いの地域に露出するものが“パリ・アイケ層”(あるいはセロ・フォータレザ層;パリ・アイケ層の模式地域そのものはスエウエン川沿いにある)、スエウエン川沿いに露出する白亜系はほぼマタ・アマリヤ層とされていた。ノヴァス隊が調査を行った地域はつまるところ“パリ・アイケ層”の露出域のはずであり、(もともとノヴァス自身パリ・アイケ層をより古い時代のものと見ていたものの)下位層であるラ・アニタLa Anita層から産出したカンパニアンの無脊椎動物化石群に基づいてパリ・アイケ層の時代をマーストリヒチアン前期と見なしていた。ところが、“パリ・アイケ層”が実際には(セノマニアン~サントニアン?の;ラ・アニタ層の下位層である)マタ・アマリヤ層の中部に相当する可能性が指摘されたのである。であれば、2000年代初頭の調査で採集された一連の恐竜化石はいずれも白亜紀末頃のものではなく、せいぜい白亜紀後期中ごろのものに過ぎないということになる。

 

(このあたりの層序の議論は当然堆積盆の成り立ちにかかわる話で、ろマガヤネス/オーストラル堆積盆の形成モデルに極めて大きな影響をもたらすものであった。マタ・アマリヤ層中部の最下部付近の火山灰層からは96.2±0.7Ma――紛れもないセノマニアンの絶対年代が得られていたが、そもそもセロ・フォルタレザ層とマタ・アマリヤ層(そしてパリ・アイケ層)の岩相がよく似ているという話は先述した通りで、絶対年代が得られた火山灰層は本来のマタ・アマリヤ層の露出域――ビエドマ湖の東部地域でしか見られないものでもあった。)


 さて、マガヤネス/オーストラル堆積盆に注目していたのは何もノヴァスたちだけではなかった。目と鼻の先に南極大陸を抱えており、ゴンドワナのテクトニクスや古地理を考えるうえで極めて重要な地域である。おまけに、手つかずに近い地域でさえある割に、相当な恐竜化石のポテンシャルがあることはすでに明らかとなっているのだ。プエルタサウルスはさておくとしても、オルコラプトルといいアウストロケイルスといい謎めいた獣脚類の化石が知られている場所でもある。陸伝いで行けるフィールドとしては(政治的な問題を抱えている地域を除けば)最果ての地と言える場所でもあったが、万難を排して行くべき場所には違いなかった。
 やってきたのはドレクセル大学を中心とする合同調査隊で、2005年にビエドマ湖の南――セロ・フォルタレザ層の最下部近くで首尾よく恐竜化石を発見した。本格的な発掘が始まったのは2006年になってからだったが、そこにあったのは巨大な竜脚類の骨格であった。尾は半ば関節した状態で、他の部位もばらけてこそいたがまとまった状態にあり、そしてなによりこの骨格は肩から後ろの骨がほとんど揃っていた。上顎骨のちょっとした破片に加えて歯や巨大な頸椎も姿を現したうえ、傍らにはやや小さな部分骨格――同種とみて間違いなかった――も横たわっていたのである。
 発掘にはたっぷり3年を要したが、この骨格は大型のティタノサウルス類としては異様なほど完全だった。椎骨は少なからず変形していたが、とはいえ保存はかなり良好で、一旦ドレクセル大学へと送られた骨格は入念にレーザースキャンが行われた。なにしろ化石は(最大級のティタノサウルス類と言えるサイズではなかったとはいえ)十二分に巨大で、せっかくのかなり完全な骨格とはいえ一度収蔵庫に収めてしまえばおいそれと全体を見ることはできなくなる。
 かくして2014年になり、この2体の骨格はドレッドノートゥス・シュラニDreadnoughtus schraniとして記載された。大きくてより完全な方(MPM-PV 1156)がホロタイプ、小さな方(MPM-PV 3546)がパラタイプとなり、ド級戦艦――かつてアルゼンチン海軍に2隻存在した――の威光を知らしめることとなったのである。化石にはスカベンジャーによると思しき噛み跡が残されており、オルコラプトルのものらしき歯冠もいくつか見出されたのだった。

ドレッドノートゥス・シュラニDreadnoughtus schraniのホロタイプMPM-PV 1156の骨格図(スケールバーは4m)。首が著しく長いらしい点に注意。

 

(当初から指摘されていた通り、ドレッドノートゥスは最大級のティタノサウルス類では決してない。とはいえ、全長20mを超える大型のティタノサウルス類として(1個体分のまとまったものとして)最も完全な骨格が知られており、歯や頸椎といった要素まで確認できるということは極めて大きな意義を持っている。ビエドマ湖南部の上部白亜系の層序が混乱する中にあって、ドレッドノートゥスは「カンパニアン~マーストリヒチアンのセロ・フォルタレザ層産」としてきっちり記載されている。最近になり、ドレッドノートゥスのホロタイプからコラーゲンが検出されている。)

 

 混沌とするマガヤネス/オーストラル堆積盆の時代論の突破口となったのは砕屑ジルコン粒子を用いた最大堆積年代の測定――火山灰層から絶対年代を得られない場合の飛び道具だった。砂岩の中に含まれるジルコン粒子の形成年代を測定することで、砂岩をなす砂粒が形成された年代――言うまでもなく砂岩が堆積した時代より若くなることはない――を明らかにし、そこから砂岩ひいては地層全体の堆積した時代をおおざっぱに絞り込むのである。

 層序の見直しによってセロ・フォルタレザ層は再定義された。ビエドマ湖の南において、セロ・フォルタレザ層の下位層であるラ・アニタ層の最上部からは82.3±2.6Ma(カンパニアン前期の後半;誤差も含めるとサントニアン中期~カンパニアン中期の前半)、そしてセロ・フォルタレザ層(のサンプリング層準のうち、最も上位のもの)で76.2±1.6Ma(カンパニアン後期の初頭;誤差も含めるとカンパニアン中期の後半~カンパニアン後期の中ごろ)という最大堆積年代が得られたのである。セロ・フォルタレザ層がカンパニアン中期以降の堆積物であることが疑いようもなく示されたのだった。続く研究でビエドマ湖の東――スエウエン川沿いの地域の層序の見直しも図られ、マタ・アマリヤ層は改めてセノマニアン(以降)の地層として再定義されたのである。
かくして、ビエドマ湖より南(のうち、チリ側のウルティマエスペランサ地域を除いたもの=ラゴ・アルヘンティーノ地域)に広がる“パリ・アイケ層”改めセロ・フォルタレザ層はカンパニアン後期~マーストリヒチアン初頭(ざっと7600万~7200万年前ごろか)の地層とみなされるようになった。アメギーノ(弟)による最初の調査から100年以上が過ぎ、ようやくマガヤネス/オーストラル堆積盆の層序が確立されたのである。

 

(本家本元のパリ・アイケ層は先述の通りスエウエン川沿いで見出されていたものであり、実のところマタ・アマリヤ層と区別ができるかは微妙なところのようだ。セロ・フォルタレザ層と長らく混同されていたこともあり、何かと混乱の種になることから今日パリ・アイケ層の名前は使われなくなっている。)


 2016年に発見されたマイクロサイトから産出した化石はいずれも単離した骨や歯に過ぎなかったが、それでもセロ・フォータレザ層――カンパニアン後期~マーストリヒチアン前期のマガヤネス/オーストラル堆積盆の動物相の解明に一筋の光を投げかけるものであった。アベリサウルス科の歯や“ノドサウルス科”の歯や皮骨の小片(歯はアンタークトペルタと酷似していることが述べられており、皮骨についてはクンバラサウルスやアンタークトペルタのそれとよく似ているという。言うまでもなくどちらもパランキロサウルス類のものであった)、ペイロサウルス科のワニの様々な歯に加え、当初スピノサウルス科にさえ思われた謎の(恐竜のものかどうかさえ定かではない)歯まで発見されたのである。
 その後も調査は続き、タレンカウエンの保存のよい骨格(ホロタイプでは部分的にしか保存されていなかった頭骨や腰帯が完全な状態で保存されていた;詳しい骨学的記載が準備中だという)やアウストロケイルスのホロタイプの追加要素――アウストロケイルスはどうやらアベリサウルス上科には含まれないらしかった――、ドレッドノートゥスやオルコラプトルのものと思しき単離した要素が続々と発見された。おまけにプエルタサウルスともドレッドノートゥスとも異なる、原始的なティタノサウルス類の部分骨格まで発見されたのである。

 

(2023年のSVPで予察的に報告された標本MPM-PV 3282は尾椎5点と橈骨の近位部のみからなっており、基盤的なティタノサウルス類とみられている。翌年に別のグループによって記載された標本MPM-PV 23355は尾椎12点と血道弓少々からなっており、やはり基盤的な(中型ないし小型の)ティタノサウルス類と見られている。現状で両者の比較は行われていないようだが、文字情報を見るにつけ、両者は同じ未記載種に属しているように思われる。)

 

 もうひとつ、セロ・フォルタレザ層では竜脚類の思いがけない発見があった。クラスモドサウルスとしか言いようのない歯が2点発見されたのである。典型的な「トゥースタクソン」として疑問名として扱われることがごく一般的だった(そもそも研究者間での知名度さえほとんどなく、パタゴニア南部の恐竜研究史の紹介で取り上げられるかどうかといったところだった)クラスモドサウルスだったが、実のところ歯の特徴は他のティタノサウルス類とは(ドレッドノートゥスのそれとも)かなり異なったものだった。オーストラリアのウィントン層(セノマニアン~チューロニアン前期;ざっと1億~9300万年前ごろ)から産出したディアマンティナサウルスDiamantinasaurusや、アルゼンチンのバホ・バレアル層(ざっくりセノマニアン~チューロニアン)産のサルミエントサウルスSarmientosaurusディアマンティナサウルスと共にディアマンティナサウリアをなす)は同様の歯を持っていたが、それでもクラスモドサウルスのそれとは明確に区別することが可能であった。クラスモドサウルスは(依然として歯しか知られていないものの)疑問名として単純には切り捨てられない分類群であり、ディアマンティナサウリアか、さもなくばそれに収斂したものがカンパニアンのマガヤネス/オーストラル堆積盆に存在したというのである。

 

(やっかいなことに、もろもろの記録を鑑みるにクラスモドサウルスのホロタイプはビエドマ湖の東方――おそらくはマタ・アマリヤ層から産出したものであるらしい。つまりクラスモドサウルスの模式標本はセノマニアン(以降)のものということになり、ディアマンティナサウルスやサルミエントサウルスとざっくり同時代ということになる。一方で、アメギーノ(弟)の採集したクラスモドサウルスの標本の中にはビエドマ湖産という手書きラベルが付けられたものがあり、そちらはセロ・フォータレザ層産とみて間違いなさそうだ。要するに、クラスモドサウルス型の歯を持つ動物が白亜紀後期のかなり長い期間、今日のパタゴニア南部に生息していたということになる。既知のクラスモドサウルスの歯はいずれもティタノサウルス類としては大型で、ノヴァスらはこれがプエルタサウルス級の超大型竜脚類の歯である可能性を示唆している。とはいえディアマンティナサウリアの歯は(ティタノサウルス類としては)頭骨に対して非常に大きく、クラスモドサウルスの歯も全長15mほどのサルミエントサウルスやディアマンティナサウルスの歯と同程度のサイズのようだ。現状で「セロ・フォータレザ層のクラスモドサウルス」の主がいかなるティタノサウルス類かは全く不明だが、筆者が恐竜博2023に際してプエルタサウルスの骨格図を描いた際にサルミエントサウルスを参照して頭骨を描くように指示されたのはこのあたりの事情もあったのかもしれない。ディアマンティナサウリアはティタノサウルス類の中でもかなり基盤的なグループであると見られており、尾椎の概形は先述の部分骨格群と似ているようではあるが、このあたりの系統関係は現状はっきりしない。)

 

 かくして、かつて謎の上部白亜系の露出域でしかなかったパタゴニア南部――マガヤネス/オーストラル堆積盆のセロ・フォルタレザ層は、白亜紀末近くのゴンドワナの高緯度地域としてはもっとも生物相の実態の明らかになっている地層となった。依然として化石の多くはごく断片的だが、それでも時としてタレンカウエンやドレッドノートゥスといった中型~超大型恐竜の保存のよいまとまった骨格が見つかりうるポテンシャルを秘めている。チチュルブ・クレーターから遠く離れた南半球高緯度地域の白亜紀末近くの生物相の一例として、謎に包まれた南極への入り口として、ビエドマ湖とアルヘンティーノ湖は今日も氷河と共に静かに横たわっている。

 

(先述の通りドレッドノートゥスのホロタイプはセロ・フォルタレザ層の最下部付近から産出したが、一方でプエルタサウルスのホロタイプはセロ・フォルタレザ層上部の下部から、タレンカウエンやオルコラプトルのホロタイプは中部から産出した。また、タレンカウエンの第3標本やアウストロケイルスのホロタイプは下部からの産出である。先述の新たな標本群の産出層準についてはタレンカウエンの第3標本を除いて詳しい情報が出版されておらず、現状このあたりについてははっきりしない。とはいえタレンカウエンが下部からも中部からも産出しているあたり、セロ・フォルタレザ層全体を通じてこれといった生物相の転換は起きていないようにも思われる。)

しばし、たたずむ;「グレゴリー・ポール 海竜事典」レビュー

 海竜――様々な(それもだいぶ遠縁の)系統の中生代の海生爬虫類を雑多にまとめた概念はそれなりに市民権を得たようで、なにかにつけてよく見かけるようになった。様々な系統の爬虫類が海洋進出を果たした(そしてそれぞれ興亡を繰り広げていった)というのは中生代における重要な進化イベントであり、「海竜」という概念の雑さぶりはある種きわめて雄弁でもあろう。海洋進出を果たした様々な系統の爬虫類を(それぞれ単系統である陸の恐竜、空の翼竜、と同程度に扱いやすくしようとして)「海竜」としてとりあえず括りたくなる気分はわかるところでもある。

 2021年夏の福井県立恐竜博物館の「海竜展」にあっては「『絶滅した中生代の海生爬虫類』の系統を海竜とよぶ(カメやワニの系統は絶滅していないため、「海竜」には含まない)」ことでこのあたりにどうにか折り合いを付けてきたが、とはいえ(例によってご恵贈いただいてしまった)グレゴリー・ポール 海竜事典」――原著のタイトルは"The Princeton field guide to Mesozoic sea reptiles" であり、やはりこの時点で相当にわやくちゃである――はその辺を容赦なくぶっちぎり、中生代の海生ワニやウミガメの類を載せているのだった。

 

 いきなり本書だけ読もうという酔狂な読者はそれほど多くないと想像され、「三部作」「恐竜事典」の第三版や“シン・肉食恐竜事典”が先日発売されたのはさておくで揃えようという読者からしてみれば本書のつくりは「いつもの」である。いわゆる板歯類のいくらか(相当に体つきが扁平な連中である)やウミガメ類を除けば骨格図は側面図で統一されているが、背面図がいつもより多めなのは素直にうれしい。というより、(骨格図を描いてみればわかることだが)化石の産状やプレパレーションの都合上、「海竜」の多くは側面図よりも背面図の方が描きやすいケースが多い。側面図は往々にして背面図よりもかなり模式的に描かざるを得ないことがあり(肋骨の側面形や角度ひとつとっても厳密に描くのがおぼつかないのだ)、そもそも「側面図」1枚で骨格の概形やプロポーションをまとめて示そうとすれば鰭脚を付け根から「へし折って」描かざるを得なくなる。本書に掲載されている一連の骨格図はそうしたテクニック(あるいはトリック)を駆使して描かれたものであり(これは例えば筆者とて同じであるし、恐竜にせよ翼竜にせよ、「ポール式」骨格図の「うれしさ」(体軸に対する四肢の形態やプロポーションを示しやすく、読み取りやすい)でもある)、逆に言えば骨格図の隣に添えられたカラーの生体復元図は(復元された)生体の姿をそのまま描き出そうとしたものではない(=鰭脚の関節をへし折って示した状態)ということでもある。「ポール式骨格図」を「使いこなす」うえでこうしたテクニックに関する前提知識は必須であり(グラフの読み方を知らなければグラフを読むことはできない、という話である)、まして先述した描きにくさをかかえた「海竜」ではなおさらである。本書に掲載されている骨格図は「翼竜事典」と比べてもなおのこと模式的に描かれているものがほとんどであるし、その模式化度合いも種によってひどく異なっているといえる。

 「海竜の骨格図の描きにくさ」についてそれなりに筆を割いている著者でもあるが、この「テクニック」については特に触れておらず、やはり読者は著者に全力で立ち向かう必要がある。前二作――「恐竜事典」と「翼竜事典」と同様、読者はグレゴリー・ポールに立ち向かわずして本書を「使いこなす」ことなどできないのだ。

 三部作の完結編にふさわしく、本書はラスボスともいえる火力で読者を翻弄しようとするが、しかし読者はひとりでも丸腰でもない。強力な訳者陣がここにあり、これを読んでいる読者は電子の海に漕ぎ出すための道具も一揃い持っている格好である。読者が経験値を積めば積むほど本書は雄弁になっていくのだ。

 

 「海竜」のうち首長竜類や魚竜類、モササウルス類以外のグループの一般的な知名度は相当に低いことは想像に難くないし、首長竜類や魚竜類、モササウルス類にしても「恐竜図鑑のおまけ」以上のものとしてまとめて取り上げられる機会はそう多くない(これは翼竜類とて同じであろう)。であれば「網羅的」――「海生」といういささか曖昧な概念で括らざるを得なかった結果、こぼれ落ちていったものも相当にあるが――というだけで本棚に加える理由としては十二分に過ぎるし、読者の「レベル上げ」に本書はよく応えてくれるだろう。

 「海竜」の骨格図は(おそらくは、単に描きにくいという理由だけで敬遠された結果)それほど多くのものが発表されているわけではなく、本書(の原著)の出版以前は、あるいは後ですら暗澹たる有様でもある。本書の出版により、われわれは「ポール式骨格図」によって恐竜、翼竜、そして混沌とした中生代の「海竜」を網羅的に俯瞰する機会を得た。次はわれわれのターンであり、コマンドの選択は読者に委ねられている。

夜じゃなくてもお化けはいるから

↑Skeletal reconstruction of Allosaurus anax based on OMNH 1771 (postorbital), OMNH 2145 (quadrate), OMNH 1935 (humerus), OMNH 1708 (femur), and OMNH 1370 (tibia). These materials recovered from the same Kenton 1 Quarry and may represent same individual based on its size. 

Scale bar is 1m.

 

 エパンテリアスしかりサウロファガナクスしかり、「ティラノサウルスよりも巨大なアロサウルス科」の伝説は長く愛されてきた。エパンテリアスにせよサウロファガナクスにせよ、それらの既知の要素はすべてかき集めても部分骨格もいいところだったが、しかし骨格のよく知られているアロサウルスにそのまま当てはめてやれば、高い精度で推定全長がはじき出されるというわけである。――サウロファガナクスがアロサウルス科であり、そしてアロサウルスの骨格が本当によく知られていれば、だ。

 

 1930年代――ともすれば恐竜の研究史において暗黒時代といわれる時期でも、恐竜化石の発掘なり研究そのものが途絶えてしまったわけではなかった。大恐慌第二次世界大戦の足音の中にあって、アメリカではWPA――ニューディール政策の要として発足した公共事業促進局が、しばしば化石の発掘やプレパレーション、そして博物館の展示制作に人材を派遣していたのである。こうしたWPAの功績は全米各地の博物館にしっかりと足跡を残しているが、“サウロファガナクス”もそのひとつであった。

 1931年、オクラホマはシマロン郡ケントン(ニューメキシコは目と鼻の先で、北に行くとすぐにコロラドである)近郊で、牧場主のコリンズとタッカーが巨大な骨がいくらか散乱しているのを発見した。この報を受けたのはオクラホマ大のストーヴァル(ワン・ラングストンJr.の師として知られる)だったが、本格的な発掘に乗り出したのは1935年――発足したばかりのWPAに支援を要請してからだった。

 

 この産地――単に“ピット1”、あるいは“ストーヴァル・ピット1”、“ケントン第1クオリー”として知られる――はモリソンMorrison層のケントンKenton部層、つまりコロラドやユタ、ニューメキシコで言うところのブラッシー・ベーズンBrushy Basin部層上部の中部(ざっくり1憶5130万年前;キンメリッジアン後期の前半)にあたり、大量のアパトサウルスにカマラサウルス、ステゴサウルス、カンプトサウルスそして巨大なアロサウルス科の化石がWPAの派遣した作業員たちによって発掘された。が、この作業員たちは化石の発掘そしてプレパレーションに必要な「特殊な訓練」を欠いており(地元の非熟練労働者を主に建設業に動員する、というWPAの施策からしてみれば当然であった)、黒色火薬・人力・馬による発掘・輸送からタガネ・ヤスリ・ジャックナイフによるクリーニングまで恐ろしく稚拙な作業の連続であった。そもそも、発掘の初年度に採集された化石はコンクリーションにまみれており、化石と母岩の区別が困難な代物だったのである。

 発掘は1938年まで続き、1941年には現地にアパトサウルスの大腿骨のレプリカ(コンクリート製)まで設置された。ストーヴァルはケントン第1クオリーから産出した巨大なアロサウルス科が未記載種であるとにらんでおり、1941年に出版された一般向けの雑誌の中で“サウロファグス・マクシムスSaurophagus maximus”として紹介された。しかし、ストーヴァルが“サウロファグス”を記載することはとうとうなかったのである。

 

(ストーヴァルとラングストン、そしてラングストンの友人であったプライスが“サウロファグス”の関節した巨大な後肢を発掘している写真がこの雑誌に掲載されたが、これは完全なやらせであった。のちにラングストンの述懐するところでは、オクラホマ大学のキャンパスからほど近いペルム系のレッドベッドまで化石を運んでいって撮影したという。)

 

 事実上の素人集団による発掘(産状図もなにもない中で大量のコンクリーションにそれぞれフィールド番号を振る始末だった;オクラホマ大のあるノーマンからケントンまでは相当な距離があり、いちいちその場で監督するというわけにはいかなかったのである)と、ストーヴァルの死後10回以上にわたって行われたコレクションの引越し(そして嵐)によって産出記録と標本の相当数が失われ、少なくとも4体(うち3体は相当に巨大)のアロサウルス科の骨格を含んでいたケントン第1クオリーの産状はほぼ何もわからなくなった(さらに厄介なことに、WPAによって発掘された近所の別産地がケントン第1クオリーと混同された)。“サウロファグス”を裸名とみるか有効な学名とみるか、そもそもSaurophagusがキバラオオタイランチョウの(シノニムの)属名であった(タイランチョウの属名からしてティラヌスTyrannusである)ことは些細な問題でしかなかったのである。

 

 このあたりの混沌とした事情に手を突っ込んだのがダン・チューレであった。チューレはアメリカ中を駆けずり回ってアロサウルス科の標本を漁る中で、OMNHに辛うじて残っていた一連の“サウロファグス”の中に奇怪なラミナ(含気腔の仕切)を備えた神経弓があるのを発見したのである。チューレは他にも、“サウロファグス”の環椎や血道弓がアロサウルスとはだいぶ別物であることを見て取った。“サウロファグス”のほかの要素は(違いがないわけではなかったが)アロサウルス・フラギリスとよく似ていたものの、胴椎の神経弓や環椎、血道弓は全く似ていなかったのである。一連の“サウロファグス”の標本の産状に関する情報はほぼなにも残っていなかったが、とはいえケントン第1クオリー産の複数の大型獣脚類が単一の分類群――アロサウルス科の未記載種であることは確かなように思われた。かくしてチューレは胴椎の神経弓OMNH 1123をホロタイプとし(単離した要素ではあるが、もっとも特徴的な部位という点では至極まっとうである)、ストーヴァルが記載するはずだった裸名に敬意を表してサウロファガナクス・マクシムスSaurophaganax maximusを記載したのである。

 

 チューレによる原記載は予察的なものであったが、とはいえサウロファガナクスを“サウロファグス”に取って代わらせ、そして最大の獣脚類ランキングの最上位争いに加わらせるには十分であった。先述の雑誌にはすでに“サウロファグス”の後肢(コンポジットであることは言うまでもない)が2.5mを超える長さであったことが述べられており、大腿骨の長さが1135mm(これはOMNH 1708のことを指している;現実問題としてジュラ紀の獣脚類としては最大級である)あることも記されていた。雑誌に曰く、ストーヴァルは“サウロファグス”の全長を約14mと推定していたというのだが、ユタ大学でクリーヴランド=ロイド産のアロサウルスの化石をマウントしてせっせと世界中に輸出していた(かはくの有名なマウントもその一つである)ジェームス・マドセンは大腿骨長825mmの骨格を全長12mに組み上げていたのである。ティラノサウルスほどマッシブではなかったはずだが、サウロファガナクスは北米ひいては世界最大級の獣脚類のひとつであり、ティラノサウルスの全長が12、3mに縮んだことを鑑みれば「最長」の獣脚類の可能性さえあるようだった。

 

(肉食恐竜事典でグレゴリー・ポールが批判している通り、マドセンによるアロサウルスの復元は尋常ではないほどに尾が長い。かはくのアロサウルスの復元骨格はポージングこそ(半ば無理やり)水平に再マウントされているものの、尾や各所のアーティファクトは1960年代のアロサウルスのなんたるかをはっきりと今に伝えている。)

 

 チューレ自身認めていた通り、大腿骨のカーブ具合や中足骨の束ね具合を除いてサウロファガナクスの四肢はアロサウルス・フラギリスのそれと区別が困難であった。チューレは2000年に完成した博士論文の中でサウロファガナクスの標徴を改訂したものの、2000年代になるとサウロファガナクス・マクシムスはしばしばアロサウルス・マクシムスと呼ばれるようになった。ニューメキシコのブラッシー・ベーズン部層産の巨大かつ保存の悪い部分骨格NMMNH P-26083(大腿骨長は推定で1.1mに達する)はしばしばサウロファガナクスの新標本として語られたが、これは不定アロサウルス科としか言いようのない代物でもあった。サウロファガナクスのホロタイプにみられる含気腔のつくりはどこかカルカロドントサウルス類を思わせるようなものでもあったが、サウロファガナクスをアロサウルス科から切り離すような意見、あるいはケントン第1クオリーの大型獣脚類がカルカロドントサウルス科とアロサウルス科のキメラであるというような意見がきちんとした形で示されることはなかったのである。

 

アロサウルスの成長に伴う体型の変化は(AMNH 5753DINO 2560CM 11844といったかなり完全な骨格に基づくマウントがそれなりに古くから存在したにもかかわらず)かなり見過ごされていた点に注意が必要である。ティラノサウルス科ほどラディカルな変化を見せるわけではないが、こうした大腿骨長800mmを超えるアロサウルス・フラギリスの大型個体ではかなり胴が長く、相対的に後肢の短くなった体型を示す。上の骨格図はAMNH 5753をはじめとする部分骨格をDINO 2560(大腿骨長880mm)の頭骨に合わせたものだが、これの全長はちょうど9mほどのようだ。伝統的にアロサウルス・フラギリスとされてきた部分骨格の中には大腿骨長が1m前後に達するものもいくつか知られており(たとえばAMNH 680)、これらの個体はサウロファガナクスとさほど変わらないサイズだったということになる。こうした「アロサウルス・フラギリスの超大型個体」の大腿骨は、わずかに長いケントン第1クオリー産の大腿骨群と比べ、よりまっすぐに伸びることをチューレは指摘している。)

 

 最近まで誰も気が付かなかったことに、サウロファガナクス・マクシムスのホロタイプOMNH 1123――単離した胴椎の神経弓――は他のなによりも竜脚類の幼体に似ていた。チューレが特に迷うことなくアロサウルス科としたように、獣脚類的な特徴もままあった――が、それらはいずれも竜脚類の幼体の神経弓にも共通する特徴であった。OMNH 1123のラミナと似たものはカルカロドントサウルス科でもみられないわけではなかったが、しかし何よりもまず同じケントン第1クオリー――紛うことなき同じ産地から多産した様々なアパトサウルス不定種のものと酷似していたのである。

 結局のところOMNH 1123は神経弓の断片に過ぎず、竜脚類の幼体のものであるか、もっと突っ込んでケントン第1クオリー産のアパトサウルス不定種(1種とは限らないかもしれない)と同じ分類群に属するかどうかを確定することはできなかったが、どうあれケントン第1クオリー産の四肢やわずかな頭骨要素――疑いのないアロサウルス科の要素と結びつけることはやめておくべきだった。OMNH 1123が獣脚類であることを積極的に否定できる特徴は(いかんせん断片的であるため)見出されなかったものの、積極的に肯定できる特徴は何一つ存在せず、ラミナの特徴は同産地産のアパトサウルスと酷似しているのである。ホロタイプはひどく断片的であるうえ産状についてわかっていることは産地情報以外にほぼ何もなく、ホロタイプの分類はおろか参照する行為さえおぼつかない以上、ダニソン(ホロタイプが竜脚類の幼体に酷似していることに最初に気付いた)やウェデル(竜脚類の椎骨の大家である)らが取るべき道はひとつしかなかった。サウロファガナクス・マクシムスを疑問名とするのである。

 環椎や血道弓――やはりアロサウルス・フラギリスとは別物の形態を示している――の行く末はもっとシンプルで、もはや竜脚類以外の何者とも考えられなかった。環椎はアパトサウルスやカマラサウルスのようであったし、血道弓をよく見てみればディプロドクス科以外の何者でもなかった。つまるところ、チューレが原記載で示した“サウロファガナクス”の標徴のすべてがアパトサウルス不定種――ケントン第1クオリーでもっとも多産したらしい恐竜に由来していた可能性さえ出てきたのである。

 

 というような話が今年のSVPでなされていたわけなのだが、そうは言ってもケントン第1クオリーから産出した複数個体分のアロサウルス科の骨格は興味深いもので、残された要素には既知のアロサウルス属――“アロサウルス・ジムマドセニ”を非公式に命名したチューレの博論から20年以上が過ぎ、北米ではアロサウルス・フラギリスとアロサウルス・ジムマドセニの保存良好な骨格が知られていた――とは少なからず差異があった。チューレが博論の中で“サウロファガナクス”の再記載を行った際に改訂した標徴のうち、問題の椎骨要素や血道弓以外に基づくものの中には依然として有効そうなものが残っていたのである。かくしてダニソンらは、チューレの命名に敬意を表しつつ、結局のところティラノサウルス並みに巨大なことにも違いないアロサウルス科にふさわしい学名をひねり出した。ほぼ完全な後眼窩骨OMNH 1771をホロタイプとした、アロサウルス・アナクスAllosaurus anaxアロサウルスの王、の意)である。

 

(ダニソンらは論文の中でケントン第1クオリー産のアロサウルス科をアロサウルス・アナクスとアロサウルス不定種として分類している。後者は単に種レベルの分類をできそうな特徴が見出せなかった、というだけの話であり、まず間違いなくすべて同一の分類群に属しているとみてよい。ダニソンらはホロタイプのほかに単離した胴椎や腓骨も(ホロタイプと直接比較できないにもかかわらず)アロサウルス・アナクスとしているが、これはつまり既知のA. フラギリスやA. ジムマドセニにはみられない特徴を備えていたためであり、上述の仮定を前提としている。チューレによる“サウロファガナクス”の記載で言及されていた巨大な末節骨や腰帯、足の要素の大半などはダニソンらによるケントン第1クオリー産標本のリストには含まれていないが、結局のところ混同された別産地のものということなのかもしれない。)

 

 なんだかんだ言ってもモリソン層産のアロサウルス科(エパンテリアスは疑問名として扱われるようになって久しい)の骨格の研究は相当な途上にある。マドセンによる1976年のモノグラフはよく知られているが、しかしこれは(クリーヴランド=ロイド産のアロサウルス・フラギリスの様々な成長段階の個体を中心に寄せ集めた情報に基づいている、という点で非常に重要だが)、1個体分のまとまった標本に基づくものではない。先述の大型個体に至ってはいずれもほぼ未記載と言える状況である(AMNH 5753はかつてグレンジャーによって詳細な骨学的記載が計画されており、クリストマンによる美麗な図版が残されている)。

 そんなわけでアロサウルス・アナクスの分類学的な評価が定まるのはまだ先の話でもあろうが、いずれにせよケントン第1クオリーから産出したアロサウルス科の標本の整理は一息ついた格好である。ティラノサウルス科の特異な形態を対比して「標準的な大型獣脚類」としてしばしば語られるアロサウルスだが、結局のところ骨格についてよくわかっていない部分は相当にある。アロサウルス・アナクス――かつて“サウロファガナクス・マクシムス”と呼ばれていた恐竜の獣脚類部分の恐らくすべて――の全長がそこらのティラノサウルス科よりも長く、あらゆる獣脚類の中でもだいぶ巨大な化け物であったことだけは確かである。

 

アロサウルス・アナクスの模式標本群が産出したケントン第1クオリーはモリソン層の中でも相当に上部に位置し、“エパンテリアス”が産出した「コープの乳首」はさらにその上位にあたる。様々な恐竜でモリソン層の上部ほど大型の個体が産出し、これはコープの法則の例である、というような話はしばしば語られるが、実際にはそう単純な話ではない。先述のAMNH 680(尾椎少々と腰帯、ほぼ完全な後肢;大腿骨長1008mm)が産出したワイオミングはボーン・キャビンはモリソン層のソルト・ウォッシュSalt Wash部層上部の中部にあたるとみられており(AMNH 5753の産出したオーロラ第3クオリーも割とそのあたりのようだ)、ケントン第1クオリーや「コープの乳首」と比べて100万年ほどは古いようである。ボーン・キャビンではAMNH 600をはじめ明らかなアロサウルス・フラギリスの産出がいくつも知られており、大腿骨の形態からしてもAMNH 680はアロサウルス・フラギリスとみておくべきであろう。一方で、アロサウルス・ジムマドセニはスーパーサウルスやトルヴォサウルスの模式標本群で知られたコロラドのドライ・メサからも産出するが、これはボーン・キャビンよりも相当に新しく、アロサウルス・フラギリスのホロタイプ及びネオタイプの産地であるマーシュ-フェルチ・クオリーよりも新しいものであるようだ。つまり、アロサウルス・ジムマドセニとアロサウルス・フラギリスの時代は明らかに(部分的に)重複している(一方で、もっか同所的に産出はしていない)。アロサウルス・ジムマドセニの既知の比較的完全な骨格はいずれもそれほど大きな個体のものではない点も含め、考えるべきことはいくらでもある。)

化石の日なので化石のプラモデルをつくるコーナー

 素でブログ開設11周年を忘れる程度には忙しい日々が続いているが、そうはいっても隙を見てやるべきことは色々とある(メックウォリア5Cとか)。お盆はわりあいにのんびりできた格好で、出稼ぎ先の人々からそそのかされたりなんだりでバンダイスピリッツは1/32のイマジナリースケルトンにようやく(発売から2年を経て)手を出したのであった。ここ最近で再販がかかっているわけではないようだが、とはいえ店頭在庫はときおり見かけるし、最近では博物館のショップに並んでいることもある。

 今さら書くまでもなく筆者の「いちばんすきなきょうりゅう」はトリケラトプスである。従って、トリケラトプスを標榜するなにがしかの出来のよいアイテム(できれば「化石」に近しいものがいい)を手元に置いておきたいという欲はだいぶあるのだが、一方で化石をあれこれして骨格図をこさえて日銭を稼いでいる身分としては、生体復元模型――「復元のビジュアル化」の極致であり、ある種もっとも化石からかけ離れたものである(トリケラトプスの皮膚痕は恐竜の中でも相当な面積が知られているとはいえ)――のできあいのものに「満足」することは遠ざかって久しく、自分でどうこうする気も遠くなって久しい。

 しかしながら(出来のよい)骨格復元模型であれば、自分の脳内で都度都度そこへ軟組織のレイヤーを重ねることができる。組み立てに多少の問題があっても、骨の形状さえ正確であれば、切り刻んで「ぼくのかんがえたさいきょうのふくげんこっかく」として組み立て直すことは造作もない。というか、「ぼくのかんがえたさいきょうのふくげんこっかく」を(脳内にせよその外にせよ)こねくり回すのは、筆者のようなタイプにとっては恐竜の模型のもっとも楽しい遊び方のひとつである。

 

 そんなことはずいぶん前からわかっていたわけだが、様々な点において、トリケラトプスのマスプロダクティブな骨格模型は不遇と言ってよい(ティラノサウルスの骨格模型が初手でマスターピースに肉迫しているにもかかわらず)。ハイエンドかつマスプロダクトな骨格模型としてはフェバリットのものがあるが、現行(と言ってもずいぶん昔の発売で、生産は終了しているようだ)のバージョンも厳しさにあふれており、材質上改造も困難である。近年では博物館が公開している復元骨格の3Dモデルが出力・販売されていることもあるが、そもそも既存のトリケラトプスの復元骨格は大なり小なり不適切なアーティファクトを抱えており(あるいは変形がひどく)、その縮小3Dプリント品を単に組み直しただけでは「ぼくのかんがえたさいきょうのふくげんこっかく」には程遠いのである。

 既存の骨格模型、あるいはその再マウントだけでは欲しいものが手に入らないことがいい加減わかった以上、手に入れるべきものは改造しやすい(単なる切り貼りだけでなく、盛る・削るといった作業にも供しやすい)ものである。この点イマジナリースケルトンのトリケラトプスは(このところの市場を鑑みれば)手頃な価格で入手もしやすく、なによりプラモデルであるため改造しやすい。結果的にセミクラッチといえる状態になったとしても、キットというとっかかりがある時点でゼロベースからフルスクラッチするよりははるかに楽(既存のものの気に入らない部分をいじればいいだけなのだ)で、かつ一定の完成度も担保できるだろう。

 

「イマジナリースケルトン」のシリーズ名に筆者は泡を吹いた(結果、発売から2年にわたってキットを手に取ることはなかった)わけだが、キットの箱には「”化石”という太古の記憶から“生”を想像する」という景気のいい文句が書かれている。つまり組み上がったキットから生きているトリケラトプスの姿を想像してね♡ということらしいのだが、しかしまず「我々」がすべきことは化石から骨格そのものの復元を行うことであり、そしてこのキットはトリケラトプスの化石の1/32スケールモデルとしてみるには不可解な点があまりに多い。本キットから「ぼくのかんがえたさいきょうのふくげんこっかく」――それは本来、実際の復元骨格に課された制約から解き放たれているプラモデルが目指す場所でもあるはずだ――を完成させるためにはそれなりに大規模な改造が必要になるようだが、とはいえ先述の通りキットベースで作業できるという気楽さはある。

 若き日の筆者とて無からカラウルやゼロスをこしらえたわけではない。イントロが1000字をぶっちぎったが、そういうわけで筆者の製作記録について書いておく。

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1. 概観

 一度キットを組み上げたら全体をよく観察し、要所要所で計測しておく。キットの(長さ方向に関する)プロポーションは実のところトリケラトプスの大型成体(として筆者が制作した骨格図)にかなり近く、

・頭蓋がでかい

・胴椎が1個多い

・肩帯が細長い

・第IV指、第V指が小さい

・腸骨がでかい

・大腿骨が短い

・中足骨が長い

点を除けば特に問題ないようだ。

 本キット最大の問題は、胴体の骨格が生物として成立しない状態でマウントされている(トリケラトプスの胴体がほぼ可動しないだろうという点はさておいても、肋骨の背側に恥骨が乗っており、スタンド攻撃を受けたかのような状態である)ところにある。また、肋骨の形状そのものがそもそもおかしい(これは事実上あらゆるマスプロダクトのトリケラトプスの骨格縮小模型にいえる)うえ、胴椎の横突起と肋骨の骨頭がまったく関節していない(謎の溝が生じている)のもこの状況を悪化させているといえよう。頭骨の造形のまずさ(説明書ではT. ホリドゥスであることを示唆しているが、T. プロルススめいた何かにしか見えない)はこの際おまけでしかないし、四肢の組み立てのおかしさはもはや微笑ましい。

↑長骨はそれほど手を加えなくていいことがわかり一安心する。頭蓋と肋骨さえいじれば見違えるだろう。

 

 逆に言えば、このあたりの問題さえ解消できれば本キットはトリケラトプスの縮小骨格模型としては他に類を見ないレベルの代物に化けるはずである。改造方針が定まったところで作業に移る。必要な道具は、

・瞬間接着剤各種(中粘度、ゼリー状、パテタイプのもの)、スプレー式硬化促進剤

・エポキシパテ(切削性に優れたタイプのもの)

・ニッパー、デザインナイフ(どちらもなるべくよく切れるもの)、スパチュラ

・紙ヤスリ(筆者はだいたい320番を使用)

・棒ヤスリ(先端のカーブしたダイヤモンドヤスリを使用)

そして、様々な図版をコラージュしてキット(というよりこれから作ろうとする模型)の実寸サイズでプリントした図面である。トリケラトプス・ホリドゥスの(化石としては事実上ほぼ知られていないクラスの)大型個体を作るとして、参照とする標本は主に

・YPM 1820(ホロタイプ):顔面

・ゼンケンベルク自然史博物館の頭蓋(標本番号不詳):フリル

・USNM 4842(“ハッチャー”):骨格の主要部位

・NSM PV 20379(“レイモンド”):“ハッチャー”の欠損部

・HMNS PV.1506(“レイン”):同上

・BSP 1964 I 458(トリケラトプス・プロルスス):同上

をあたることとした(他に下顎や肩帯は別の標本を参考としている)。“ハッチャー”“レイモンド”BSP 1964 I 458はそれぞれ記載があり、非常によい参考となる。一方でこうした標本では肋骨の詳細な記載がないため、スティラコサウルスの記載も参考とする。

 

2. 形状加工

2-1. 仙椎・腰帯

 腸骨と恥骨は肋骨をマウントする上で重要な基準点となるため、何よりもまず手を付けるべきは骨盤まわりである(ただし、パテを盛るのは肋骨ができあがってからでよい)。仙椎(第10仙椎は尻尾のパーツB20に割り振られている)と腰帯は素晴らしい立体感だが、腸骨が異様に大きく肉厚で、第10仙椎も長すぎる。第10仙椎はB20から切り離したうえで前方の関節面を削って短くし、第9仙椎に接着する。腸骨は天面のパーツ(C19、C20)は使用せず、ブレード全体を削り込んでパテを盛り、形を整える。恥骨と座骨の形状はそのままでよいが、大腿骨の骨頭をねじこめるよう、寛骨臼は(本来ある骨の薄い裏打ちは無視して)削り込んで開口しておく。

 骨盤と仙椎の関節位置はキットでは妙なことになっているため、左右それぞれの骨盤の工作が終わったら、骨盤がより前方・腹側で関節するよう仙椎に接着する。左右の座骨の嵌合部は削り取り、遠位端を瞬間接着剤で強引に接着してしまうとよい。第1~第5仙椎の棘突起もパテなどで一体化させておくこと。

2-2. 仙前椎と肋骨

 「躍動的に」大きく曲がった胴体はおそらくこのキットのセールスポイントであり、きちんとした形のトリケラトプスの骨格模型が欲しいのであればこれを完全に殺す必要がある。胴体と胴肋骨のブロック(実際にはいくつかの頸椎と頚肋骨も含まれている)は一度完全に組み上げ、きっちり接着しておく。胴椎はなぜか1個多いので、最終胴椎をまるごとカットする(肋骨は細く加工したうえで第1仙胴肋骨として仙椎と腸骨に接着する)。

 接着した胴体ブロックは椎骨ごとに切り分け(ひとつひとつ切り分けるのは大変なので、要所で切断するのがよい)、胴体ブロックが真っすぐになるよう接着する。続いて肋骨をすべて切り離し(それぞれの肋骨に番号を書きこんでおくこと)、胴椎の横突起ときちんと関節するよう注意しながら接着する。

 本キットの肋骨はケラトプス科の特徴的な形態とはまるで一致せず、個別の肋骨の形態をきちんと表現するにはすべて自作する必要がある(それ以前に胴椎の横突起のつくりからして正確ではない)。そもそもトリケラトプスの肋骨がきちんと記載・図示されたことはなく、参考にできる復元骨格も“レイン”程度である(“レイン”にしても肋骨は少なからず変形しており、またマウントにも多少なりとも問題がある)という問題がある。

 あくまでキットベースの改造に留めるならば、肋骨の近位部の形状が不正確にしかならない、肋骨籠前方の長さが足りなくなるといった問題はあるが、キットの肋骨の近位部をカットし、スティラコサウルスの記載を参考に手で肋骨を曲げていく(案外折れないし脆化もしない)というのが現実的な落としどころだろう。個々の肋骨の形態ではなく、肋骨籠全体の(その中でも側面の)アウトラインを追い込んでいくことを目標に作業を進めていく。

 腸骨・恥骨を頼りに第12胴肋骨を接着し、そこを起点により前方の肋骨を接着していく。肋骨の「肩」の描くラインが腸骨ときれいにつながるよう意識するとスムーズである。頸椎ブロックはそれほどいじる必要もないが、後方の頚肋骨は胴体ブロックとラインがきれいにつながるよう加工する。

↑肋骨と椎骨の関節まわりもきちんと作りこみたいところだが、見ての通り本キットの胴椎はそもそも横突起の形状がだいぶ不正確であり、手を入れるならば本来そこから作り直すべきである。そこまで手を入れ始めると確実に完成しなくなる(それはそれで豊かな経験ではあるはずだが、そこまでいくとキットベースの改造という意義が失われていく)ため、そのあたりは潔くスルーし、肋骨の骨頭は(どうせ瞬間接着剤まみれになるため)切りっぱなしのまま済ませてしまうことにした。頚肋骨の改造は、肩帯のフィッティングが終わってから、そこに合わせて行うとよいだろう。

 

↑胴椎と左側の胴肋骨を再マウントしたところ。かはくの“レイモンド”(下の写真)でも、こうした肋骨と恥骨の位置関係を見て取ることができる。

 

2-3. 尾

 血道弓が意味不明な場所に関節させられていたり、神経弓の前方/後方関節突起が省略されたうえ妙な処理をされているほかは全体的によくできている。血道弓の関節位置の調整は、よほどのことがなければ避けた方が無難だろう(筆者もしれっと無視することとした)。関節突起が省略された結果生じた隙間は瞬間接着剤で埋めるとよい。筆者は第1尾椎をやや切り詰めたほか、血道弓の個数や形状、横突起の形状、遠位尾椎の数を修正した(付属の解説書には尾椎の数について言及があるが、厳密な個数がはっきりしている角竜はわずかであり、ケラトプス科内でもそれなりに変異があるようだ)。

↑ここまでの産物をキットの素組と比較する。“化石”という太古の記憶から“生”を想像する」のであれば、こうした作業は本来避けては通れない。なにより、こうした作業は「古生物学者ごっこ」のおいしい部分である。

 

2-4. 肩帯

 肩甲烏口骨・胸骨は大がかりな改造が必要である。サポート用のパーツC5は使用せず、肋軟骨(付録の解説書にはなぜか腹肋骨と書かれている)は初めに切除しておく。

 肩甲烏口骨は肩甲骨・烏口骨の関節で切断し、肩甲骨はそこから長さを切り詰める。肩甲骨ブレードを走る稜は完全に削り落とし、肩甲骨の高さを増したうえで新造する。烏口骨は一回り小さくなるようカットし、加工した肩甲骨に接着する。そのうえで肩関節窩を新造する(ポールらによる写真と図がよい参考になる)。胸骨は一回り小さくカットし、左右を揃えて接着しておく(AMNH 971セントロサウルスの記載がよい参考になるだろう)。

 肩甲骨烏口骨の加工が完了したら、完成した肋骨籠に接着する。肋骨籠の上方から胴体全体を吊り下げるイメージで、かつ胸骨とうまく関節する位置を探る(“レイン”の復元骨格をはじめ、肋骨籠の下方から胴体を支えるように組み立てられた肩帯はしばしばみられるが、これは恐らく完全な誤りである)。肩甲烏口骨を接着したら、さらに胸骨も接着してしまう。

↑肩帯のフィッティングに際しては四肢と同時並行で行うべきでもあろうが、そうなると実作業としてはあまりにも混沌とするので、まずは肩帯の位置を仮決めする。胴体前半部の肋骨のつくりが(改造後も)あまりよろしくないことを考えれば、実際には(肩関節の位置はこのままで)肩甲骨ブレードの後半部はもっとおさまりがよくなるだろう。(骨化しない)間鎖骨や鎖骨(少なくともプロトケラトプス科段階までは骨化する)の存在を考慮すると、左右の烏口骨にはある程度の間隔があるはずだ。

 

2-5. 四肢

 手と足を除けば四肢はよくできており、加工は最低限で済む。各骨を関節で切り分け、嵌合にかかわる部分はすべて切り落としておく。

 上腕骨は内側上顆がおかしな位置にあるので削り落とし、より内側の位置に新造する。この時、三角筋稜や外側上顆もパテでボリュームアップさせておく。前腕と関節させる際に重要なため、遠位部の関節形状は注意して造形すること。

 橈骨・尺骨はともにボリューム不足だが、形状そのものはよくできている(ただし橈骨は左右逆のようだ)。橈骨は左右を入れ替え、尺骨にきちんと関節させてやる。橈骨・尺骨はパテでボリュームアップさせること。

 手は中足骨に沿って切り分け、前腕部に接着する。第IV指・第V指は新造する。筆者は省略したが、腕に覚えのある人は手根骨も作るとよい。第I指は指骨がひとつ多いので関節部を削ってそれっぽくごまかす。末節骨のサイズがおかしなことになっているので削って調整する。

 大腿骨は骨頭を作り直し、内側顆をボリュームアップさせる。中央部で切断し、延長する。

 脛骨は遠位端の内側部をボリュームアップさせる。距骨は前方側が嵌合の都合で大きくえぐれているのできちんと復元しておくこと。

 足は中足骨が異様に長く、また趾もわずかに長いようである。趾の長さには目をつぶることとし(末節骨は削っておく)、中足骨の短縮で足のプロポーションを改善させることとした。中足骨に沿って切り分け、セントロサウルスなどの足足跡化石の図を参考に、指が放射状に広がるようにして再接着する。

↑関節で切り分けて骨頭にパテを持ったりしているとはいえ、四肢の改造は背骨まわりと比べればはるかに楽である。キットの腰帯や四肢は明らかに“ハッチャー”の記載に基づき造型されているが、にもかかわらず妙な部分で不正確でもある。

 

2-6. 頭骨

 頭蓋は下顎に対してやや大きく、全体として非常にきびしい造形である。後頭顆周辺は位置取りがおかしなことになっているが、嵌合の都合で本来の後頭顆-環椎関節とボールジョイントの凹凸が逆になった結果、頭骨を椎骨に繋いで吻を下げている分にはむしろ問題ない。説明書を無視してA9、A13、A1、A4を接着し、フリル(A13)は鱗状骨の近位部を残してすべて切除する。また、A9は下顎を固定するピンを削り込んでおくと、下顎が可動するようになる。前上顎骨~頬骨(A1・A4)はほぼ消失するまで削り込んでおき、前上顎骨の先端側はA13ごと切り詰めておく。

 上眼窩角はキットパーツ(A2・A3)を使用する場合、左右逆にするとアウトラインをそのまま活かすことができる。老齢個体ではどうも相対的に角があまり長くない(大型亜成体の頃が相対的に最も長い角を持っている)ようなので、このあたりは自分が作るものと相談である。

↑パテを盛る都合上、頭蓋はこのくらいまで削り込んでおく必要がある。筆者はトリケラトプス・ホリドゥスとして製作したが、トリケラトプス・プロルススを製作する場合でも同様である。

 

 こうして加工した頭蓋にエポキシパテを盛りつけ、整形していく。筆者はYPM 1820とゼンケンベルグの頭骨(プロルスス風の吻を据えられているが、鱗状骨の形態は明らかにホリドゥス型である)をコンポジットにしたイメージで改造し、頭蓋にあわせて前歯骨もパテで延長した。キットのスケール表記通りの大型個体として制作するならば、縫合線は特段彫りこむ必要はない。筆者は前上顎骨のもろもろの構造は潔く省略したが、腕に覚えがあるなら再現しておくべきところでもある。キットの構造上、下側頭窓の開口はリスキーだろう。

 下顎の相対的なサイズ・プロポーションはやけに正確で、形状もほぼ問題ない。上角骨の外側面に突出する部分を少し削り、背側・腹側から見た際の歯骨のくびれを軽く削って強調してやれば十分である。

↑細部を作り込むほどの腕はないので、とにかくできる範囲でシルエット・プロポーションを追い込んでいく。キットの表記通り1/32スケールで換算するとYPM 1828もびっくりの大型個体ということになるので、若者らしくは見えないように作ることとした。

 

3. マウント

 すでに胴体のポージングはキットとは別物である。キットでは左肘が胸郭にめりこみかけているので、そのようなことがないよう注意して四肢を接着していく。接着しては剥がし、を繰り返すつもりで進めていくとよいだろう。肩や肘・股や膝関節は(軟骨を介するとはいえ)骨頭の位置関係に注意しなくてはならない。

↑はじめに体軸骨格に皮膚に見立てたマスキングテープを貼り、内臓の入っている領域を可視化しておく。そのうえで、骨格だけでなくそこに付着するはずの筋肉がマスキングテープを圧迫しない姿勢で、かつ足跡化石とよく一致するポージングを探っていく。肩関節の姿勢はこの写真の撮影後にもう一度修正した。

 

 こうしてすり合わせていくと、突拍子のない姿勢を取らずとも、体化石・生痕化石双方と矛盾することはないようだ。先述の通り肋骨は(肋骨籠全体のアウトラインはともかく)実際の形態とはやや異なっているが、そこを勘案しても特に影響はないようである。

↑なにしろエポキシパテによる顔面再建手術のあとなので絶妙に自立せず、ひっつき虫で適当に立たせることとした。生々しい改造の跡(ある種アーティファクトである)を残しておくのも全然よいのだが、それはそれとして最初からこの形だったら(少なくとも、各要素がこの形状をしていれば)どんなに嬉しかったかというところの気持ちを込めて塗装することとした。

 

4. 塗装

 塗装は全体の作業からすればほんのおまけだが、ここまでに挙げた強引な作業の形跡を隠し、さもスマートな作業の連続だったふうに見せかける役割がある。どんな色で塗装してもよい(あえて化石ではなく「骨」風に塗ってしまうのも一興だろう)が、YPM 1820や“ハッチャー”、“レイン”といったランス層産の標本を改造のインスパイア元としたこともあり、それっぽい色で塗ってやりたいところでもある。ランス層産の化石といえば黄土色や白っ茶けた色の印象が強いが、標本によってはヘル・クリーク層産のものと同様のきれいなチョコレート色を呈するものもある。YPM 1820に至っては(恐らく)風化の進んでいなかった部位がチョコレート色、風化して崩れかけていた部分が褐色から黄土色、というように変化に富んでいる。このあたりの折衷として、褐色と黄土色の入り混じったような色をランス層産の化石風ということにして塗装することとした。

 改造で生じたキズや段差を塗膜が埋めてくれることを期待して、ダークアースを筆で厚めに塗り、乾燥後にサンディブラウン→セールカラーの順に雑に(下塗りのダークアースがだいぶ隠れる程度まで)ドライブラシする。仕上げにシェイドブラウンでウォッシングし、つや消しクリアでコートしてやれば完成である。

 

 

↑頭骨の細かい部分を容赦なく省略したり、肋骨の完全再現をあっさり諦めた結果肋骨基部のカーブがおかしかったり胴肋骨の長さが全体的に足りていなかったりもするが、とはいえプロポーションは基本的に骨格図と同じである。同じプロポーション、形状の骨を並べたものであっても、実際の骨格を真横から(なるべくパースを排除して)眺めるのとポール式骨格図では少なからず見た目に違いが表れる。ポール式骨格図に肉付けしても生体復元画にはなり得ないのだ。

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 かくして丸4日でトリケラトプスの製作は終わった。1/32というキットのスケール表記通りにいけば、全長(キットからほぼ変化なし)およそ8.8m、頭蓋長2.5mにして大腿骨長も1.3m強と、既知の最大級の標本と同等かそれ以上のサイズの個体という計算になる。スケール換算はさておくとしても、自分の知っていること・考えたこと・できることのせめぎ合いから生まれただけあって満足感は相当にある(どこをどういじればより完成度が高くなるかを知っている、というところも含め)。決して楽ではないが、とはいえ手頃なサイズで出来のよいトリケラトプスの縮小復元骨格模型――「化石のスケールモデル」を手にする道は確かにあるのだ。

四角い空;「グレゴリー・ポール 翼竜事典」レビュー

 筆者が原書の第一報を目にしたのは、振り返ってみれば3年ほど前のことであった。どういうわけか発売日はその時点で確定しており(現にその通りだったように思う)、ちょっと眉をひそめた覚えもある。

 そんなわけで原書を購入した筆者であったが、実のところ一通り斜め読みしたきり、ほとんど単なるインテリアとして本棚の最下段に置くにまかせていた。より正確に言えば、前半の「翼竜概説」は(どの程度骨格図が出ているかを確認した程度で)斜め読みさえしていなかったのである。原書の発売前に取り留めもない話をしたためたりもしていた(これは筆者の本の制作が佳境に入っていた時期で、自らを鼓舞しようとした側面も大きい)のだが、つまり――少なくとも斜め読みする限りでは――原書は筆者の期待を裏切ることも上回ることもなかった。その後に発売された海竜フィールドガイドの食味にすべてを上塗りされたふうでさえあったのである。

 

 恐竜フィールドガイドの第二版はかくして邦訳され、日本語で読めるもっとも網羅的な恐竜図鑑としての地位を保っている。であれば、翼竜フィールドガイド――海外でさえ網羅的な書籍は数えるほどしかなく、ウィットンによる教科書がこれを除くと現代的なものとしては唯一であろう――が邦訳されるのは既定路線だったのかもしれない。なによりもまず、現代的な翼竜の、それも非常に網羅的な図鑑が邦訳されたことを喜ぶべきである(ヴェルンホーファーの訳書である平凡社動物大百科 別巻 翼竜』が色あせることはないが、なにしろ原書は1991年の刊で、現代的というよりは近代的という位置付けになる)。そして翻訳について何ら心配をする必要がないのは大変に頼もしい限りである。原書に一人で立ち向かうより格段に“安全”であるのだ。

 そうは言いつつ、筆者は一匹狼気取りである。一人でどうとでも相手はできるとタカをくくり、あげく先述の通り斜め読みすら満足にしていなかった。そうこうしているうちに出版社(&訳者)のご厚意で、前回と同様に邦訳版をいただいてしまったわけである。かくして、筆者はやっとこさ腹を括って『グレゴリー・ポール 翼竜事典』ときちんと向き合うこととした。実際問題として、福井県立大学恐竜学研究所と福井県立恐竜博物館の援護射撃があればこそ、(『グレゴリー・ポール 恐竜事典』と比べればだいぶボリュームは小さいが)本書を相手取ることができるようになった格好である。これは本書を手に取るであろう日本語話者の方には例外なく当てはまるはずだ。

 

 『グレゴリー・ポール 恐竜事典』の出版によって日本国内でポールの復権が起きたと思いたい筆者だが、果たしてそのあたりはどうなのだろう。年若い読者にとっては、(自覚的に)初めて触れるグレゴリー・ポールの復元図がおそらく『グレゴリー・ポール 恐竜事典』であることには違いない(『恐竜図鑑展』でポールの骨格図が事実上まったく扱われていなかったことを思えばなおさらである)。筆者くらいの歳であれば00年代初頭までにポールの描く恐竜の骨格図には確実に触れているはずだが、そうした世代であっても、ポールの描く翼竜の骨格図はほとんど未知の存在である。なにしろ、本書に載っている翼竜の相当な数――ポールの言葉を借りれば“有効な種の約1/3が今世紀に入ってから命名されている”のだ。ウィットンの教科書(繰り返しになるが、邦訳はない)翼竜の分類の現代的な知見をまざまざと見せつけられた筆者だが、あらためてそれを「ポール式」の骨格図で見るのはさすがに壮観である。翼竜の現代的かつ網羅的な日本語の図鑑が本書だけであることを鑑みれば、本書が日本における恐竜マニア(あえてそう言い切ってしまおう)翼竜に対する興味を相当に深化させることは間違いない。であれば、『グレゴリー・ポール 翼竜事典』の出版――The Princeton Field Guide to Pterosaursの邦訳は諸手を上げて歓迎すべきである。相当にやんちゃな著者の本だとしても、だ。

 

 当然のごとく、原書で半分以上を占めていた前半パートの「翼竜概説」は、日本語版たる本書でも同様のウェイトを占めている(本書は単なる翼竜骨格図集ではないのだ)。幸いというべきか、前作『グレゴリー・ポール 恐竜事典』のように訳者による脚注の嵐が吹き荒れることはなく、先行研究のレビューという意味では割合におとなしくまとまっているようだ。翼竜の地上での姿勢の復元について熱弁を奮うあたりは往年の輝きを感じさせるものでもあるが、一方でそれを(「ポール式」の)骨格図で扱うことについてはいささかの自己矛盾をはらんでいるようにも聞こえる。

 前半で抑え気味だったポール節は後半の骨格図パートで爆発する――が、前作と比べてやはり控えめのようにも思われるのは、筆者が翼竜に疎いせいか、翼竜の分類が(特に成長に伴う形態の変化と関連して)いまだ混沌としているせいなのか、それともデイビッド・ピーターズ――ウィットンと並んで翼竜の骨格図ではよく知られてしまっている――の影が脳裏にちらつくからなのだろうか。翼竜の骨格図は同じくポールの手による恐竜の骨格よりも相当に模式的に描かれているものが多いが、これはすなわち参照できる資料の質、つまり化石の保存状態やそれらを詳細に記載した文献の有無に影響されているようだ。骨格図から滲み出すものも含め、本書の抱えている膨大な情報をどこまでモノにできるかは前作と同様やはり読者に委ねられている。「ケツァルコアトルスの未命名種」のように原書の出版直後に記載されたものもあり、本書の先には広大な一次資料の海が広がっているのだ。本書を繰り返し手に取るたび、読者は自らの成長を実感していくはずである。このあたりの付き合い方は、前作について書いた時と何ら変わることはない。

 

 繰り返しになるが、本書『グレゴリー・ポール 翼竜事典』は翼竜の図鑑としてはもっとも網羅的な書籍の邦訳版であり、翼竜に関する現代的な本としてもやはり日本語で読めるものとしては唯一無二である。やんちゃで知られた著者の本とはいえ、本棚に加える理由としてはそれで十二分にすぎるだろう。前作『グレゴリー・ポール 恐竜事典』に福井県立大学恐竜学研究所・福井県立恐竜博物館の訳者たちと共に立ち向かった読者であれば、臆することはないはずだ。訳者の援護射撃の下、本書をモノにできるかは読者次第。今一度、存分に腕を振るう時である。

 

 

 

 

 

 

水が温む時

↑Skeletal reconstruction of Tyrannosaurus rex (top: largely based on USNM PAL 555000)

and Tyrannosaurus mcraeensis (bottom: holotype NMMNH P-3698). Scale bars are 1m.

 

 いい加減で3月である。年明け早々にでも書こうと思っていた記事は、あけおめメールの到来によってここまで後ろ倒しになった格好である。

 

 さて、かれこれ10年近く前にこんな記事を書いたりしていたわけだが、年明け早々に“エレファント・ビュートのティラノサウルス類”ことNMMNH P-3698(古い文献だとNMMNH P-1013-1となっている)がティラノサウルス属の新種として記載されたわけである。長らく「ニューメキシコティラノサウルス・レックス」として知られていた本標本は、紆余曲折の末にひとまずティラノサウルス・レックスとは別物と見なされるようになったのだ。

 

 ニューメキシコの上部白亜系といえば北西部はサン・フアン堆積盆のもの(フルーツランドFruitland層やその上位のカートランドKirtland層、オホ・アラモOjo Alamo層)が有名だが、中西部のマクレーMcRae層群(最近までマクレー層扱いだった)でも20世紀の初頭から恐竜化石が産出することが知られていた。1980年代に入ると調査が活発化したが、採集された化石は単離した要素ばかりで、おまけにひどく風化したものばかりであった。

 とはいえ、それなりに同定のできそうなものはないわけではなかった。トロサウルスかペンタケラトプスと思しき大型角竜(頭頂骨に窓を持つのは確かだった)に大型の竜脚類――この時代のアメリカ南西部の竜脚類といえばアラモサウルスを置いて他にはない――、それに鎧竜の皮骨のスパイクが採集されたが、大本命と言えるのがエレファント・ビュート貯水池の東岸――ホール・レイクHall Lake層(当時は部層扱いだった)で1983年に採集された巨大な獣脚類の歯骨だった。この歯骨NMMNH P-3698(この時点ではNMMNH P-1013-1のナンバリングだった)はほぼ完全かつ保存もなかなかのもので、しかも前関節骨や血道弓といった他の要素も一緒に採集されたのである。歯骨は紛れもないティラノサウルス科のそれで、しかももろもろの特徴は何よりもティラノサウルス・レックスとよく一致するものだった。かくして、ジレットらはこれを嬉々としてニューメキシコ初となるティラノサウルス・レックスとして記載したのである。

 

 1993年に同じホール・レイク層の下部でトロサウルスのかなり大きな部分骨格が採集されたこともあり、マクレー層群の恐竜相は典型的なアラモサウルス相――“ランス期”(≒マーストリヒチアン後期)のアメリカ南西部に存在した、アラモサウルスやトロサウルスティラノサウルスを特徴とした恐竜相であるとみなされるようになった。が、2017年になってホセ・クリークJose Creek層(マクレー層群の最下部層である)の上部やホール・レイク層の最下部付近の火山灰層からカンパニアン後期を示す絶対年代が報告されたことで話は妙な方向へと動き始めた。「掘り残し」を得てみれば、ホール・レイク層下部から産出した「トロサウルスの部分骨格」はトロサウルスなどではなかったのである。

 

 さて、当初ティラノサウルス・レックスとして記載されたNMMNH P-3698だったが、当時イケイケだったレーマンとカーペンターは1990年に「ニューメキシコ産アウブリソドンの部分骨格」(今日ビスタヒエヴェルソルとみられている)を記載した際にこれが新属新種にであることを(カーペンターの印刷中だった論文を引用する形で)示唆した(が、出版された論文ではテキサスはハヴェリナJavelina層産の上顎骨TMM 41436-1しか言及されていなかった;後述)。当然これといった理由は述べられていなかったわけで、カーとウィリアムソンは2000年のニューメキシコ産ティラノサウルス類のレビューでこれを一蹴したわけである。当時知られていた目ぼしいティラノサウルス・レックスの(大人サイズの)標本を精査したうえで、カーらは改めてNMMNH P-3698をティラノサウルス・レックスとみなしたのだった。

 この見方はその後も踏襲され、カーによる近年のティラノサウルス・レックスの成長過程に関する大著ではNMMNH P-3698はやや若い成体とみなされた。カーはNMMNH P-3698が(2000年とは比べ物にならないほど比較できる標本が増えた中にあって)ティラノサウルス・レックスであることを改めて示した格好でもあったのだが、一方でマクレー層群の最近の時代論については特に注意を払うことはなかったのである。

 

 1986年にNMMNH P-3698を記載するにあたり、ジレットらは「掘り残し」がまだ現地にあるらしいこと、エレファント・ビュート貯水池の水位が下がって再び現地を訪れられるようになるのは今後2年では厳しいだろうという見通しについても述べていた。果たして、「掘り残し」はまだあったのである。

 「トロサウルスの部分骨格」改めシエラケラトプスNMMNH P-76870の記載に勢いづき、追加要素も含めたNMMNH P-3698の再記載が進められた。マクレー層群の絶対年代を報告した論文中ではNMMNH P-76870にせよNMMNH P-3698にせよ(ホール・レイク層における)産出層準が不詳であることが述べられてはいたのだが、改めて行われた地質調査で両者の産出層準がホール・レイク層の最下部付近――7320万±70万年前(カンパニアン後期の後半)――からそれほど上位にあるわけでもないことが判明した。絶対年代による「挟み撃ち」はできなかったが、とはいえ推定される堆積速度からしてNMMNH P-76870にせよNMMNH P-3698にせよ、カンパニアン末からせいぜいマーストリヒチアン前期の前半のものとみてよさそうだったのである。

 

 かくしてティラノサウルス属の新種――ティラノサウルスマクレーエンシスのホロタイプとなったNMMNH P-3698だが、とはいえティラノサウルス・レックスとの形態的差異として挙げられている特徴のほとんどはかなり微妙であり、歯骨の特徴(腹側縁が角骨との関節部に至るまで背側にカーブする)を除けば成長過程や個体変異、化石の破損・変形によるものとも言えてしまうようなものばかりである(このあたり筆頭著者の悪名高さについてはいちいち書かない;カーが同サイズ個体についても成長段階による差異らしきものを拾い出していることはよく顧みるべきである)。とはいえ歯骨の特徴はティラノサウルス科全体を見渡しても他に見られないものであり、であればひとまず別種と見ておいた方がよいのだろう。

↑北米産のティラノサウルス族の頭骨。上段と下段でそれぞれ、左から右へ向かって成長段階が進んでいく。カーによってTMM 41436-1は亜成体、それ以外は成体とされている。“スタン”とUMNH VP 11000では眼窩周辺の皮骨を透過して描いており、それ以外の標本では省略している点に注意。スケールバーは50cm。

 

 さて、筆頭著者のダールマンといえば“アラモティラヌス”で悪名高いわけである。かつて本ブログでも取り上げた通り、どうもオホ・アラモ層(これまでの時代論は決定打に欠けるが、恐竜化石の産出するナアショイビトNaashoibito部層はおそらくC31rすなわちマーストリヒチアン前期~後期初頭(ざっと7140万~6930万年前)に収まるようだ)産のティラノサウルス類――ほとんどが単離した首から後ろの骨格であり、部分骨格に至ってはカーらのレビューで触れられこそすれど図示されない程度の代物だった――を“Alamotyrannus brinkmani”として記載するつもりだったようなのだが、「印刷中」(一般論として査読が終わっていることを意味する)として引用された論文はとうとう出版されず、今日ではアメリカ南西部のティラノサウルス族の俗称のようなものとして用いられる始末となっている。

 

(ダールマンが“アラモティラヌス”として触れた唯一の標本がACM 7975である。これは保存のぱっとしない部分的な右歯骨であるようだが、今日まで特に記載されておらず、その実態は定かではない。ダールマンがこれをホロタイプにしようとしていたのかも謎である。)

 

 NMMNH P-3698と並んでアメリカ南西部のティラノサウルス・レックスとしてよく知られていたのがテキサスはハヴェリナ層最上部(ケツァルコアトルス・ノースロッピのホロタイプの産出層準と実質的に同じである;もろもろを勘案するとマーストリヒチアン後期の中ごろのようだ)から産出した部分的な上顎骨TMM 41436-1である。これはローソンの修士論文の中で“ティラノサウルス・ヴァヌスTyrannosaurus vanus”として記載されたが、その後1976年に改めてティラノサウルス・レックスとして記載されたものであった。カーペンターは先述の論文の中でこの標本が他の(ティラノサウルス・レックスとされている)上顎骨に見られる個体変異から外れていることを指摘し、未知の属であることを示唆した(が、追加標本の産出を待つと記したのみそれ以上は特に何もしなかった)。実のところこの上顎骨はティラノサウルス・レックスの成体と比べるとかなり小さく、もっぱらティラノサウルス・レックスの亜成体である(≒なにかしらの別種ないし別属にできるような根拠が特にない)とみなされている。

 もうひとつ、ユタ州はノース・ホーンNorth Horn層(マーストリヒチアン後期からダニアンにかかっているが、恐竜化石が産出する層準はマーストリヒチアン後期初頭あたりに相当するようだ)ではティラノサウルス・レックスとされる部分骨格UMNH 11000が産出している。これはかなり風化の進んだ骨格だが、後眼窩骨(およびそこに付着する皮骨)と鱗状骨が関節して保存されており、アメリカ南西部産のものとしては非常に貴重である。

 オホ・アラモ層産の標本はさておくとしても、ハヴェリナ層やノース・ホーン層産の標本の分類についてはどういうわけかティラノサウルスマクレーエンシスの記載論文中では触れられておらず、UMNH 11000がティラノサウルス・レックスの一例として比較用に(SIの中で)図示されている程度である。一方で、実のところUMNH 11000とNMMNH P-3698は後眼窩骨の特徴を共有しており(UMNH 11000の後眼窩骨は皮骨の付着した状態で図示されているが、皮骨を外した状態だとNMMNH P-3698と同様の形態を示す)、もしこの特徴が本当に(筆者は先述の通り歯骨以外の独自性については懐疑的であるが)ティラノサウルスマクレーエンシス特有のものであるならば、UMNH 11000もティラノサウルスマクレーエンシスと言えそうである。TMM 41436-1の正体は判然としない(なにしろ同様の形態の上顎骨が他に知られていない)が、あるいはこれもティラノサウルス・レックスというよりはティラノサウルスマクレーエンシスの亜成体なのかもしれない。

 

 NMMNH P-3698がカンパニアン末~マーストリヒチアン前期の前半のものであることはほぼ確実であり、一方で「トリケラトプス相」――コロラド以北から産出したティラノサウルス・レックス(と断言できるもの)で最古のものはMOR 1125や“スー”といったヘル・クリーク層の最下部付近から産出したもの――どうやってもマーストリヒチアン後期の前半には遡らない――である。両者の間には少なくとも380万年に渡るギャップが存在する格好だが、先述の通りUMNH 11000やTMM 41436-1はマーストリヒチアン後期の前半のものであるらしく、であればこのギャップを埋める存在ということになる。マーストリヒチアン前期から後期の前半にかけてのアメリカ西部の恐竜相はカナダと比べても謎だらけだが、鍵はとうに手の中にある。