GET AWAY TRIKE !

恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

水が温む時

↑Skeletal reconstruction of Tyrannosaurus rex (top: largely based on USNM PAL 555000)

and Tyrannosaurus mcraeensis (bottom: holotype NMMNH P-3698). Scale bars are 1m.

 

 いい加減で3月である。年明け早々にでも書こうと思っていた記事は、あけおめメールの到来によってここまで後ろ倒しになった格好である。

 

 さて、かれこれ10年近く前にこんな記事を書いたりしていたわけだが、年明け早々に“エレファント・ビュートのティラノサウルス類”ことNMMNH P-3698(古い文献だとNMMNH P-1013-1となっている)がティラノサウルス属の新種として記載されたわけである。長らく「ニューメキシコティラノサウルス・レックス」として知られていた本標本は、紆余曲折の末にひとまずティラノサウルス・レックスとは別物と見なされるようになったのだ。

 

 ニューメキシコの上部白亜系といえば北西部はサン・フアン堆積盆のもの(フルーツランドFruitland層やその上位のカートランドKirtland層、オホ・アラモOjo Alamo層)が有名だが、中西部のマクレーMcRae層群(最近までマクレー層扱いだった)でも20世紀の初頭から恐竜化石が産出することが知られていた。1980年代に入ると調査が活発化したが、採集された化石は単離した要素ばかりで、おまけにひどく風化したものばかりであった。

 とはいえ、それなりに同定のできそうなものはないわけではなかった。トロサウルスかペンタケラトプスと思しき大型角竜(頭頂骨に窓を持つのは確かだった)に大型の竜脚類――この時代のアメリカ南西部の竜脚類といえばアラモサウルスを置いて他にはない――、それに鎧竜の皮骨のスパイクが採集されたが、大本命と言えるのがエレファント・ビュート貯水池の東岸――ホール・レイクHall Lake層(当時は部層扱いだった)で1983年に採集された巨大な獣脚類の歯骨だった。この歯骨NMMNH P-3698(この時点ではNMMNH P-1013-1のナンバリングだった)はほぼ完全かつ保存もなかなかのもので、しかも前関節骨や血道弓といった他の要素も一緒に採集されたのである。歯骨は紛れもないティラノサウルス科のそれで、しかももろもろの特徴は何よりもティラノサウルス・レックスとよく一致するものだった。かくして、ジレットらはこれを嬉々としてニューメキシコ初となるティラノサウルス・レックスとして記載したのである。

 

 1993年に同じホール・レイク層の下部でトロサウルスのかなり大きな部分骨格が採集されたこともあり、マクレー層群の恐竜相は典型的なアラモサウルス相――“ランス期”(≒マーストリヒチアン後期)のアメリカ南西部に存在した、アラモサウルスやトロサウルスティラノサウルスを特徴とした恐竜相であるとみなされるようになった。が、2017年になってホセ・クリークJose Creek層(マクレー層群の最下部層である)の上部やホール・レイク層の最下部付近の火山灰層からカンパニアン後期を示す絶対年代が報告されたことで話は妙な方向へと動き始めた。「掘り残し」を得てみれば、ホール・レイク層下部から産出した「トロサウルスの部分骨格」はトロサウルスなどではなかったのである。

 

 さて、当初ティラノサウルス・レックスとして記載されたNMMNH P-3698だったが、当時イケイケだったレーマンとカーペンターは1990年に「ニューメキシコ産アウブリソドンの部分骨格」(今日ビスタヒエヴェルソルとみられている)を記載した際にこれが新属新種にであることを(カーペンターの印刷中だった論文を引用する形で)示唆した(が、出版された論文ではテキサスはハヴェリナJavelina層産の上顎骨TMM 41436-1しか言及されていなかった;後述)。当然これといった理由は述べられていなかったわけで、カーとウィリアムソンは2000年のニューメキシコ産ティラノサウルス類のレビューでこれを一蹴したわけである。当時知られていた目ぼしいティラノサウルス・レックスの(大人サイズの)標本を精査したうえで、カーらは改めてNMMNH P-3698をティラノサウルス・レックスとみなしたのだった。

 この見方はその後も踏襲され、カーによる近年のティラノサウルス・レックスの成長過程に関する大著ではNMMNH P-3698はやや若い成体とみなされた。カーはNMMNH P-3698が(2000年とは比べ物にならないほど比較できる標本が増えた中にあって)ティラノサウルス・レックスであることを改めて示した格好でもあったのだが、一方でマクレー層群の最近の時代論については特に注意を払うことはなかったのである。

 

 1986年にNMMNH P-3698を記載するにあたり、ジレットらは「掘り残し」がまだ現地にあるらしいこと、エレファント・ビュート貯水池の水位が下がって再び現地を訪れられるようになるのは今後2年では厳しいだろうという見通しについても述べていた。果たして、「掘り残し」はまだあったのである。

 「トロサウルスの部分骨格」改めシエラケラトプスNMMNH P-76870の記載に勢いづき、追加要素も含めたNMMNH P-3698の再記載が進められた。マクレー層群の絶対年代を報告した論文中ではNMMNH P-76870にせよNMMNH P-3698にせよ(ホール・レイク層における)産出層準が不詳であることが述べられてはいたのだが、改めて行われた地質調査で両者の産出層準がホール・レイク層の最下部付近――7320万±70万年前(カンパニアン後期の後半)――からそれほど上位にあるわけでもないことが判明した。絶対年代による「挟み撃ち」はできなかったが、とはいえ推定される堆積速度からしてNMMNH P-76870にせよNMMNH P-3698にせよ、カンパニアン末からせいぜいマーストリヒチアン前期の前半のものとみてよさそうだったのである。

 

 かくしてティラノサウルス属の新種――ティラノサウルスマクレーエンシスのホロタイプとなったNMMNH P-3698だが、とはいえティラノサウルス・レックスとの形態的差異として挙げられている特徴のほとんどはかなり微妙であり、歯骨の特徴(腹側縁が角骨との関節部に至るまで背側にカーブする)を除けば成長過程や個体変異、化石の破損・変形によるものとも言えてしまうようなものばかりである(このあたり筆頭著者の悪名高さについてはいちいち書かない;カーが同サイズ個体についても成長段階による差異らしきものを拾い出していることはよく顧みるべきである)。とはいえ歯骨の特徴はティラノサウルス科全体を見渡しても他に見られないものであり、であればひとまず別種と見ておいた方がよいのだろう。

↑北米産のティラノサウルス族の頭骨。上段と下段でそれぞれ、左から右へ向かって成長段階が進んでいく。カーによってTMM 41436-1は亜成体、それ以外は成体とされている。“スタン”とUMNH VP 11000では眼窩周辺の皮骨を透過して描いており、それ以外の標本では省略している点に注意。スケールバーは50cm。

 

 さて、筆頭著者のダールマンといえば“アラモティラヌス”で悪名高いわけである。かつて本ブログでも取り上げた通り、どうもオホ・アラモ層(これまでの時代論は決定打に欠けるが、恐竜化石の産出するナアショイビトNaashoibito部層はおそらくC31rすなわちマーストリヒチアン前期~後期初頭(ざっと7140万~6930万年前)に収まるようだ)産のティラノサウルス類――ほとんどが単離した首から後ろの骨格であり、部分骨格に至ってはカーらのレビューで触れられこそすれど図示されない程度の代物だった――を“Alamotyrannus brinkmani”として記載するつもりだったようなのだが、「印刷中」(一般論として査読が終わっていることを意味する)として引用された論文はとうとう出版されず、今日ではアメリカ南西部のティラノサウルス族の俗称のようなものとして用いられる始末となっている。

 

(ダールマンが“アラモティラヌス”として触れた唯一の標本がACM 7975である。これは保存のぱっとしない部分的な右歯骨であるようだが、今日まで特に記載されておらず、その実態は定かではない。ダールマンがこれをホロタイプにしようとしていたのかも謎である。)

 

 NMMNH P-3698と並んでアメリカ南西部のティラノサウルス・レックスとしてよく知られていたのがテキサスはハヴェリナ層最上部(ケツァルコアトルス・ノースロッピのホロタイプの産出層準と実質的に同じである;もろもろを勘案するとマーストリヒチアン後期の中ごろのようだ)から産出した部分的な上顎骨TMM 41436-1である。これはローソンの修士論文の中で“ティラノサウルス・ヴァヌスTyrannosaurus vanus”として記載されたが、その後1976年に改めてティラノサウルス・レックスとして記載されたものであった。カーペンターは先述の論文の中でこの標本が他の(ティラノサウルス・レックスとされている)上顎骨に見られる個体変異から外れていることを指摘し、未知の属であることを示唆した(が、追加標本の産出を待つと記したのみそれ以上は特に何もしなかった)。実のところこの上顎骨はティラノサウルス・レックスの成体と比べるとかなり小さく、もっぱらティラノサウルス・レックスの亜成体である(≒なにかしらの別種ないし別属にできるような根拠が特にない)とみなされている。

 もうひとつ、ユタ州はノース・ホーンNorth Horn層(マーストリヒチアン後期からダニアンにかかっているが、恐竜化石が産出する層準はマーストリヒチアン後期初頭あたりに相当するようだ)ではティラノサウルス・レックスとされる部分骨格UMNH 11000が産出している。これはかなり風化の進んだ骨格だが、後眼窩骨(およびそこに付着する皮骨)と鱗状骨が関節して保存されており、アメリカ南西部産のものとしては非常に貴重である。

 オホ・アラモ層産の標本はさておくとしても、ハヴェリナ層やノース・ホーン層産の標本の分類についてはどういうわけかティラノサウルスマクレーエンシスの記載論文中では触れられておらず、UMNH 11000がティラノサウルス・レックスの一例として比較用に(SIの中で)図示されている程度である。一方で、実のところUMNH 11000とNMMNH P-3698は後眼窩骨の特徴を共有しており(UMNH 11000の後眼窩骨は皮骨の付着した状態で図示されているが、皮骨を外した状態だとNMMNH P-3698と同様の形態を示す)、もしこの特徴が本当に(筆者は先述の通り歯骨以外の独自性については懐疑的であるが)ティラノサウルスマクレーエンシス特有のものであるならば、UMNH 11000もティラノサウルスマクレーエンシスと言えそうである。TMM 41436-1の正体は判然としない(なにしろ同様の形態の上顎骨が他に知られていない)が、あるいはこれもティラノサウルス・レックスというよりはティラノサウルスマクレーエンシスの亜成体なのかもしれない。

 

 NMMNH P-3698がカンパニアン末~マーストリヒチアン前期の前半のものであることはほぼ確実であり、一方で「トリケラトプス相」――コロラド以北から産出したティラノサウルス・レックス(と断言できるもの)で最古のものはMOR 1125や“スー”といったヘル・クリーク層の最下部付近から産出したもの――どうやってもマーストリヒチアン後期の前半には遡らない――である。両者の間には少なくとも380万年に渡るギャップが存在する格好だが、先述の通りUMNH 11000やTMM 41436-1はマーストリヒチアン後期の前半のものであるらしく、であればこのギャップを埋める存在ということになる。マーストリヒチアン前期から後期の前半にかけてのアメリカ西部の恐竜相はカナダと比べても謎だらけだが、鍵はとうに手の中にある。

 

 

 

十年目の合成骨格【ブログ開設10周年記念記事】

↑マイプの合成骨格図(上)と不定のメガラプトル類の合成骨格図(下)。

上は恐竜博2023用に制作したもの、下は2014年6月に制作したもの。基本的に同じ標本を組み合わせて描いており、実質的にプロポーションの違いがない点に注意。

 

 暇をもてあました末に、それなりの下心をもって本ブログを立ち上げて10年が過ぎた。暇だったのは最初の1年だけで(学部2年の後期から3年の前期という、必修科目も少なければ卒業研究もまともに始まっていない稀有な時期であった)、ここ数年は毎年新機動戦記ガンダムWもびっくりな急展開が続いているところである。10年ともなればさすがにあっという間に過ぎたというわけもなく、振り返ればそれなりに長く、ほとんど消えかかった獣道が藪の中に伸びている。

 さて、筆者が骨格図を制作する仕事を請け負うようになって7年ほどになるが、その中でしばしば描いてきたのが合成骨格図――同一種の複数標本はおろか、複数種の部分的な骨格さえ寄せ集めたコンポジットである。筆者が初めて本格的に描いたコンポジットの骨格図は2014年に描いたメガラプトル類のもので、以来同じテーマでたびたび個人的に描くことがあった。どっこい、ひょんなことから因縁の相手(筆者とて茨城うまれなので適当に因縁を付けがちである)――最大最新のメガラプトル類であるマイプの骨格図を描くという機会を得、ひとまず(この手の話は常に“ひとまず”止まりだ)の決着をつけるに至った格好である。10年目にして決着の機会を与えてくれたマイプについて、今さらながらここに書き記しておきたい。

 

 パタゴニアといえば恐竜化石の世界的な大産地としてよく知られている。広大なパタゴニアに大小さまざまな堆積盆が広がっている格好だが、白亜紀後期の獣脚類の良好な記録はもっぱら最北部のネウケンNeuquen堆積盆(ネウケン州とその周辺)とその南に位置するカナドン-アスファルトCañadón Asfalto堆積盆(チュブ州とリオ・ネグロ州)に限られてきた。パタゴニア南部――南米大陸の南端に広がるマガヤネスMagallanes/オーストラルAustral 堆積盆ではオルコラプトルOrkoraptorやアウストロケイルスAustrocheirusを除いて命名されたものはなく、オルコラプトルにせよアウストロケイルスにせよ分類さえおぼつかないほどに断片的な標本に基づいていたのである。

 

(オルコラプトル、アウストロケイルスとも原記載では「下部マーストリヒチアンのパリ・アイケPari Aike層」産とされている。このあたりの層序と年代論についてはつい最近まで著しい混乱があり、オルコラプトルについてはその後「セノマニアン~サントニアンのマタ・アマリヤMata Amarilla層」に、アウストロケイルスについては「上部チューロニアン~下部コニアシアンのパリ・アイケ層」に修正された。最終的にオルコラプトル、アウストロケイルスとも「中部カンパニアン~下部マーストリヒチアンのセロ・フォルタレザCerro Fortaleza層」産とされるようになり、今日に至っている。これはプエルタサウルスやドレッドノートゥス、タレンカウエンと同じ地層から産出したことを意味している。これらの恐竜の生息時代についてより踏み込んだことは言えないのが現状だが、ざっくりカンパニアン後期としておくのが妥当なところだろう。アウストロケイルスはケラトサウルス類とみて間違いないようで、わずかに残された化石を見るにエラフロサウルスやデルタドロメウスが連想される。)

 

 一連のセロ・フォルタレザ層産恐竜が発掘されたのは2000年代に入ってからだが、マガヤネス/アウストラル堆積盆で恐竜化石が発見されたのはそれが初めてのことではなかった。チョリーヨChorrillo層(上部カンパニアン~下部マーストリヒチアン)では1940年代までにはすでに恐竜の化石が発見されていたのである。1980年には竜脚類の部分骨格が発見され、駆け付けたボナパルテによって部分的な頸椎(だけ)が採集された。骨格の残りの部分はそのまま現地に残されたが、ボナパルテは同じ産地から獣脚類の尺骨や歯冠をも採集していた。

 竜脚類の頸椎はボナパルテによってcf. アンタークトサウルス sp.とされ、その後アエオロサウルス類とされたり不定のティタノサウルス類とされたりもしたが、依然として骨格の残りは現地に残されたままだった。この標本に再びスポットが当たったのは2019年の1月――ノヴァス率いる“ベルナルディーノ・リヴァダヴィア”アルゼンチン国立自然科学博物館のチームがこの地を訪れてからのことである。

 発掘隊はボナパルテが頸椎を採集した産地を再特定し、首尾よく骨格の残りを採集した。この骨格(ボナパルテが採集した頸椎MACN-PV 18644および掘り残しMPM 21542)は新属新種の大型ティタノサウルス類(おそらくコロッソサウルス類)ヌロティタン・グラキアリスNullotitan glaciarisのホロタイプとなったが、発掘隊はヌロティタンの追加標本に加え、他にも新属新種のエラスマリア類イサシクルソル・サンタクルセンシスIsasicursor santacrucensisといった様々な恐竜化石を採集していった。その中にはチョリーヨ層中部の下部から産出したMPM 21545――ひどく断片的だが単一個体に由来すると思しき大型獣脚類の骨格があったが、これはメガラプトル類、それもアエロステオンと同等のサイズのものだったのである。

 実のところ、チョリーヨ層からメガラプトル類の化石が発見されたのはこれが最初ではなかった。1981年にボナパルテが採集していた獣脚類の歯MACN-PV 19066(ヌロティタンのホロタイプと同じ産地で発見されたが、厳密に共産したかについては記録がない。チョリーヨ層下部の産出であることは確かである)もメガラプトル類のもので間違いないことが判明したのである。さらに推定全長2mほどの個体の胴椎(MPM 21546;MPM 21545より10mほど下の層準からの産出)まで発見され、どうもチョリーヨ層の主だった大型獣脚類がメガラプトル類らしいことが明らかになった。まごうことなきマーストリヒチアンのメガラプトル類が、パタゴニアの南部に存在したのだ。2019年のうちにチョリーヨ層産の化石はまとめて記載され、マガヤネス/アウストラル堆積盆――南極そしてオーストラリアへと続くパタゴニア南部のマーストリヒチアンの生物相の一端が初めて示されたのであった。

 

(上述したオルコラプトルはさておくとして、チョリーヨ層産のもののほかにマーストリヒチアンの可能性があるメガラプトル類が記載されていないわけでもない。マガヤネス/アウストラル堆積盆の北東に位置するゴルフォ・サン・ホルヘGolfo San Jorge堆積盆のラゴ・コルウエ・ウアピLago Colhué Huapí層(セケルノサウルスの産出が知られる)ではほぼ完全なメガラプトル類の“シックル・クロー”や中足骨が産出しているのだ。ラゴ・コルウエ・ウアピ層はカンパニアンからマーストリヒチアンにまたがっており、セケルノサウルスの産出層準はマーストリヒチアンに相当するとされている。メガラプトル類の化石はいずれもセケルノサウルスのホロタイプよりも下の層準から産出しているが、これがカンパニアンなのかマーストリヒチアンなのかははっきりしていないようである。いずれにせよカンパニアン以降と非常に新しい時代のものであることは確実で、にもかかわらず“シックル・クロー”の形態はメガラプトルのそれと酷似している。)

 

 2020年の3月になり、“ベルナルディーノ・リヴァダヴィア”の発掘隊がチョリーヨ層の一連の産地を抱えたラ・アニタ・ファームへ帰ってきた。今度は国立科学博物館も加えた国際チームである。チームはチョリーヨ層からさらなる化石を採集したが、その中には前年に掘り残していたMPM 21545の続きも含まれていた。

 母岩は硬く、車で直接乗り入れることのできない現場ということもあった発掘は難航したが、それでも2020年の発掘で採集されたMPM 21545のパーツの量は前年をはるかに上回った。

 

↑マイプ・マクロトラックスMaip macrothoraxのホロタイプMPM 21545の骨格図。

恐竜博2023用に描き起こした(2022年8月)もの(上)と原記載の出版直後(2022年4月)に描いたもの(下)。

腰帯の相対的な位置関係の違いに注意。下のものの腹肋骨はごく模式的に描いている。

 

 マーストリヒチアンのメガラプトル類のまとまった骨格に現場は色めき立ったが、コロナ禍という情勢の急転を受け、ラ・アニタ・ファームでの調査は中断される格好となってしまった。アルゼンチン軍のヘリによるジャケットの搬出予定はなくなり、現地に置き去りにせざるを得なくなった標本さえあったのである。MPM 21545にしても、(関節が完全にばらけた状態であったにもかかわらず)5m×3mほどの範囲を掘ったところで発掘は打ち止めとせざるを得なくなった。標本の行く先であった“ベルナルディーノ・リヴァダヴィア”も閉鎖される中で、MPM 21545はプレパレーターの自宅にてクリーニングが進められることになったのだった。

 不幸中の幸いというべきかMPM 21545の保存状態は非常によく、断片的な骨格とはいえ仙前椎の要所や相当数の腹肋骨、そしてほぼ完全な烏口骨が採集されていた。重複する椎骨はアエロステオンのホロタイプMCNA-PV-3137よりも一回り大きな動物のものであり、そして烏口骨は(椎骨がMCNA-PV-3137のそれよりも大きいことを差し引いても)妙に巨大でがっしりしたつくりであった。依然として断片的ではあるが、それでも最新かつ最大級のメガラプトル類の確かな骨格がそこにあったのである。

 

 MPM 21545の椎骨の細部には既知のメガラプトル類には見られない特徴がいくつか確認され、固有の形質らしいものもいくらか見出された。烏口骨の形態はメガラプトル類にしてもかなり独特で、MPM 21545が未記載種に属していることは明らかだった。

 かくしてMPM 21545をホロタイプとして2022年に正式に記載された(論文の草稿は2021年の年末には公開されていた)マイプだが、「掘り残し」がいまだラ・アニタ・ファームの片隅に埋もれているとみられている。これまでに採集された部位のほとんどは椎骨や肋骨といった体軸骨格や、それに隣接する肩帯や腰帯に限られており、しかもばらけているとはいえそれなりに狭い範囲にまとまって産出した。とはいえ中足骨の破片らしきものも採集されており、であれば四肢の要素も周辺に散乱しているかもしれない。メガラプトル類の標本としては珍しく第2頸椎も産出しており、なにがしかの頭骨要素が残されている可能性もある。

 

↑マイプの合成骨格図とその参照元。歯骨と上腕骨、大腿骨はアウストラロヴェナトルのホロタイプも参照している。趾骨はバホ・バレアル層産のメガラプトル類に基づく。また、前上顎骨-上顎骨-鼻骨はメガラプトルの幼体MUCPv 595を大まかに参照している。

 

 マイプのホロタイプから既知のメガラプトル類とは異なる様々な特徴が見出されたことは先述した通りだが、とはいえこれまでに採集されたMPM 21545の概形は他のメガラプトル類とよく似ている。従って、既知のメガラプトル類の標本を注意深く組み合わせることで、マイプの骨格をそれらしく復元することができるはずである。メガラプトル類のトレードマークである前肢は今のところマイプではひとかけらも知られていないが、そこへつながる烏口骨はメガラプトル類としては極めつけにごつく、相対的なサイズもアエロステオンやメガラプトルと比べて大きい。マイプと最も近い時代のメガラプトル類であるラゴ・コルウエ・ウアピ層のものが(相対的なサイズは不明だが)メガラプトルと酷似した“シックル・クロー”を保持していたことも考えれば、前肢についてもメガラプトルと同等以上に発達していたとみるべきだろう。

 恐竜博2023でマイプの復元骨格が展示されることはなかった(計画されなかったわけではないものの、いかんせん現状では産出部位も少なく、制作したところでほとんどメガラプトルの拡大バージョンになってしまうだろうということもあって見送られたようである)が、かくして筆者はマイプの合成骨格図を仕事として描く機会を得た。南米産の派生的なメガラプトル類の標本を結集してなお足りない部位も少なくないが、とはいえマイプの骨格は上の図からかけ離れたものでもないはずだ。

 

 白亜紀末のゴンドワナ――南半球の陸上生物相のうち、多少なりとも実態が知られているのはパタゴニア北部やインド、マダガスカルに限られており、陸成層の残るパタゴニア南部も先述の通り近年ようやくスポットライトが当たった格好である。南極やオーストラリアではこの時代の陸成層が知られておらず、特に後者の陸上生物相はまったくの謎に包まれている。とはいえ南極やオーストラリアはパタゴニア南部と古地理上密接なつながりがあり、そうした意味でもチョリーヨ層や隣接する(側方変化とも言える)チリのドロテアDrotea層(ステゴウロスやゴンコケンの記載でにわかに知名度を得た)の研究は非常に大きな意味を持っている。

 

 かくしてゴンドワナにおける最後の頂点捕食者として鮮烈なデビューを果たしたマイプだが、ここまで散々書いた通り骨格はごく断片的にしか知られていない。チョリーヨ層では先述の通り2タイプのメガラプトル類の歯化石が知られているが、これらとマイプの関係さえ現状では定かではないのである。それでも、マイプのホロタイプはこの時代のパタゴニア南部(や南極、オーストラリア)の大型獣脚類としては最良の標本である。おそらく存在する「掘り残し」やチョリーヨ層やドロテア層のポテンシャルからすれば、こうした問題はいずれ解決されるものとみてよいだろう。2023年の2月にはラ・アニタ・ファームでの発掘が再開され、次なる成果に期待が高まっている。

 この10年でメガラプトル類に関する知見は大きく広がったが、それでもなお残された謎は多い。次の10年でマイプは、メガラプトル類の骨格復元はどれほどの修正を要することになるだろうか。今日のものは10年後に「妥当な程度に正確」だったと評せるものになっているだろうか。先のことなどわからないが、筆者は気の向くままに描き続けるだけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

閃光

↑Skeletal reconstruction of Furcatoceratops elucidans holotype NSM PV 24660

  ("AVA", formerly RMDRC 12-020) and some other closely related specimens.

 

 恐竜博2023にてお披露目された国立科学博物館所蔵の「ケラトプス科の未記載種」はナストケラトプス族の新属新種であることが仄めかされており、そもそも本ブログの古参読者のみなさまにとってはずいぶん昔からおなじみの顔でもあった。“AVA”の愛称を与えられたそれはかつて「アヴァケラトプスの新標本」として喧伝されたものだったが、発見から11年を経てついにフルカトケラトプス・エルキダンスFurcatoceratops elucidansのホロタイプとして記載されたのである。

 

 本ブログでも散々取り上げてきたジュディス・リバーJudith River層はアメリカ・モンタナ州の北西部に露出しており、デイノドン、トラコドン、トロオドン、パラエオスキンクスと、北米で初めて記載された恐竜たちが産出したことで知られている。ミズーリ川の支流であるジュディス川にちなんで命名されたその地層は19世紀後半から精力的に化石採集が行われてきたが、比較的最近になるまで恐竜のまとまった骨格は知られていなかった。1888年にハッチャーが「最初の角竜」たる“ケラトプス”を発見した(もっと言えば、1876年にコープのチームがモノクロニウスを発見してもいた)地層であるにもかかわらず、1981年に“アヴァケラトプス”のホロタイプANSP 15800が個人コレクターによって発見されるまで、「まとも」な角竜の化石が発見されることはなかったのである。

 なにしろ国境を挟んですぐのカナダ側にはダイナソー・パークDinosaur Park層が露出しており、どう考えてもそちらを探したほうが採れ高がよかった。モンタナ州のカンパニアンを見渡しても、西部に露出するトゥー・メディスンTwo Medicine層では1970年代以降マイアサウラをはじめとする恐竜化石の産出が知られるようになり、研究者の目はそちらに向きがちであった。

 

 ケアレス・クリーク・クオリー(様々な動物の入り混じった大規模なボーンベッドであり、近年でもハドロサウルス類の記載がなされるなどしている)における“アヴァケラトプス”(もっぱら疑問名として扱われている)の発見とそれに続く記載は、ジュディス・リバー層を巡る停滞した状況に風穴を開けたようだった。1990年代に入るとモンタナ州のあちこちで民間の発掘業者が活発に活動するようになり、ジュディス・リバー層はマクレラン・フェリーMcClelland Ferry部層の下部で大規模な角竜のボーンベッド(マンスフィールドのボーンベッド)が発見されたのである。

 1999年に“アヴァケラトプス”の再記載が出版されたが、このときUSNM 2415USNM 4802――ハッチャーによる1888年夏の調査の際、“ケラトプス”のホロタイプUSNM 2411に続いて採集された鱗状骨も“アヴァケラトプス”と同定された。どちらの標本もかつてハッチャーによって採集され、“ケラトプス”名義で図示されたこともある(マーシュはこれを“ケラトプス”の背中に並べようとしていた。“ケラトプス”が剣竜類とされていた時代の話である)、歴史的な標本である。

 USNM 2415とUSNM 4802、そして“アヴァケラトプス”のホロタイプを結び付けていたのは、鱗状骨の外側面に走る、顕著な隆起群の存在であった。これほど顕著な構造はケラトプス科を見渡しても“アヴァケラトプス”にしか見られない特徴のように思われたのである。

 

(暫定的に“アヴァケラトプス”の成体とされた標本MOR 692の鱗状骨にも、同様の顕著な隆起が確認された。今日、こうした構造はナストケラトプス族全般やその他の基盤的なセントロサウルス類でよく発達することが知られている。セントロサウルスのようなより派生的なセントロサウルス類やカスモサウルス類でも同様の構造がみられるが、骨格上ではそれほどはっきりしたものではない。こうした隆起は大きな飾り鱗の起点となっていたとみられており、骨格上で見るよりはるかに目立つ構造をなしていたと思われる。)

 

 その後もジュディス・リバー層における角竜化石の発見は続き、2010年代に入るとメデューサケラトプス(マンスフィールドのボーンベッド産の標本に基づく)、ジュディケラトプス、メルクリケラトプスとジュディス・リバー層産角竜の命名が相次いだ。もっとも、メデューサケラトプスは実態のはっきりしないボーンベッドの産であり(最終的にボーンベッドに含まれている角竜化石は事実上すべてメデューサケラトプスのものらしいことが判明し、頭骨全体を復元可能な状況へと変化した)、ジュディケラトプスはひどく部分的な頭骨の寄せ集め(セントロサウルス類が参照標本の中に紛れ込んでいたことが後に判明した)、メルクリケラトプスは部分的な鱗状骨2点のみと、興味深いながらも扱いに困る代物だらけだったのである。”JUDITH”の愛称で呼ばれていた頭骨の大部分を含む部分骨格はジュディス・リバー層産の角竜としては“アヴァケラトプス”のホロタイプ以来となるまとまった1個体分の骨格であったのだが、商業標本であったことが祟ってかなかなか研究が進まず、ROMによって購入されてからようやくスピクリペウスとして命名される始末だった

 

 こうした中でトリーボールド社によってジュディス・リバー層はコール・リッジCoal Ridge部層の上部で2012年に発見された標本RMDRC 12-020は、“アヴァケラトプス”と同様、鱗状骨にわりあい目立つ隆起群が走っていた。また、手の「ひづめ状」の末節骨の中に顕著に小さいもの(リンク先では第IVとされているが、言うまでもなく第IIIである)が存在する点も“アヴァケラトプス”のホロタイプと似ているように思われた。かくしてこの標本は“アヴァケラトプス”の新標本として諸手を挙げて歓迎され、“AVA”(そのまんますぎるネーミングである)の愛称で呼ばれることになったのだった。

 “AVA”の発掘は翌年のシーズンまで続き、頭骨の相当な部分を含んだ骨格が姿を現した。骨格は完全にばらけていたものの、頭骨の要素は比較的まとまった状態であり、首から後ろについてもほぼ完全な前後肢と肩帯、腰帯、相当数の肋骨が含まれていた。2005年に発見された”JUDITH”をはるかにしのぐ、ジュディス・リバー層の研究が始まって以来となる完全度の角竜の骨格がそこにあったのである。化石化の過程で潰れている骨も少なくなかった一方で、概して骨の表面のテクスチャーはよく保存されており、総じてダイナソー・パーク層でもめったに見つからないような代物であった。

 発掘が進むにつれて“AVA”にはMOR 692と同様の長い上眼窩角が確認され、MOR 692が“アヴァケラトプス”の眷属であることにも疑いの余地がなくなった。しかも"AVA"の鼻骨には鼻角が存在せず(ちょっとした隆起があるのみである)、ナストケラトプスのそれとよく似た代物であった。ナストケラトプスは“アヴァケラトプス”とごく近縁である可能性が指摘されていたが、"AVA"はそれを補強するものだったのである。"AVA"の椎骨はまるっきり癒合が進んでおらず、見るからに未成熟個体ではあったが、とはいえ分類上重要な特徴はすでに立ち現れているようでもあった。

 

 “AVA”の復元頭骨は2014年のツーソンショーでお披露目され、復元骨格についても2015年の秋にSVPにあわせて公開された(ついでにハートマンの手による骨格図も発表され、なぜか本ブログの画像がネットの海を漂った末に転載された)。この頃になると“AVA”はもはや“アヴァケラトプス”とは別物とみられるようになっており、トリーボールド社の販売サイトには「ジュディス期の角竜の新種」の文字が躍るようになった。一方で、“AVA”のオリジナルに関する情報はそれきり途絶えてしまった。“アヴァケラトプス”あるいは「ジュディス・リバー層産の新種」として“AVA”の復元頭骨に基づいた生体復元が競うように描かれる一方で、オリジナルの行く末は判然としなかったのである。

 

(“AVA”の復元頭骨をきちんと見てやればわかることだが、額の部分は左右から圧縮されたような状態でマウントされており、結果的に左右の上眼窩角が正中面でくっつかんばかりとなっている。左右でくっつかんばかりの上眼窩角はしばしば(いまだに)“AVA”の重要な特徴として描かれがちであるが、つまるところこれは化石の保存状態による問題(をマウントの際に矯正しきれなかっただけ)である。後眼窩骨を見れば、“AVA”の上眼窩角は左右ともやや内側(そして腹側)へ向かってカーブしつつ、正中線と平行に伸びていることがわかる。フルカトケラトプスすなわち「フォーク状の角の顔」は、こうした「二又のフォーク状」あるいは音叉状、さすまた状をなしている上眼窩角にちなんだものである。

 

 さて、2017年になると“AVA”を取り巻く状況に転機が訪れた。国境を挟んですぐのカナダ・アルバータ州はオールドマンOldman層の最上部近くで発見された角竜の断片的な頭骨CMN 8804が属種不定のナストケラトプス族(この時初めて設立された)として記載されたのである。この標本は1937年にチャールズ・モートラム・スターンバーグによって採集されて以来、フィールドでざっくり“ブラキケラトプス”として同定されたきり収蔵庫で眠りについていたものであった。

 

(CMN 8804に限らず、「オールドマン層上部」産の標本の時代論については少し注意しておく必要がある。オールドマン層とその上のダイナソー・パーク層の境界は南へ行くほど若くなっており、国境付近でみられるオールドマン層の上部は、州立恐竜公園におけるダイナソー・パーク層の下部と同時代ということになる。CMN 8804はつまるところ、州立恐竜公園でいうところのダイナソー・パーク層下部と同じ時代のものである。ちょうどセントロサウルス・アペルトゥスのレンジに重なるようだ。ジュディス・リバー層とベリー・リバーBelly River層群(オールドマン層+ダイナソー・パーク層)の対比については長年議論があったが、最近になって詳細な絶対年代データに基づく見直しが図られており、フォアモストForemost層とオールドマン層の境界がマクレラン・フェリー部層の最下部に、州立恐竜公園におけるオールドマン層-ダイナソー・パーク層の境界がマクレラン・フェリー部層とコール・リッジ部層の境界に対比されている。また、コール・リッジ部層は州立恐竜公園におけるダイナソー・パーク層の下半全体に対比される。もろもろを勘案すると、CMN 8804はMOR 692とおおよそ同時代のものであり、"AVA"よりもやや古いくらいのものであるようだ。)

 

 CMN 8804も未成熟個体ではあり("AVA"よりもやや小さな頭骨であるようだ)、なにしろ断片的ということで命名は差し控えられたが、既知のナストケラトプス族のいずれとも異なる分類群のようでもあった。断片からして上眼窩角はナストケラトプスほど長くはなく、それでいてMOR 692(こちらは相当に成熟したものであるらしい;"AVA"より一回りは大きい)とは異なり、やや内側に向かってカーブしたものであるように思われたのである。

 そして、MOR 692を“アヴァケラトプス”とする積極的な根拠がもはやどこにもないことも明白となった。ナストケラトプス族であるということ以上に両者を結び付けるような特徴は見当たらなかったうえ、両者の産出層準は派手に離れていたのである。オールドマン層やダイナソー・パーク層では、ケラトプス科角竜の種がせいぜい数十万年で入れ替わっていくことが知られている。“アヴァケラトプス”が例外的に長命な分類群であった可能性はもちろんあるが、そう考えるべき積極的な理由もまったくない。かくして“アヴァケラトプス”はホロタイプANSP 15800に限定され、MOR 692はANSP 15800とは別物として扱われるようになった。

 

(このとき“アヴァケラトプス”が疑問名送りを宣言されることは(どういうわけか)なかったが、幼体であるうえに頭蓋天井をごっそり欠いたANSP 15800から独自性らしいものを見出せないという話は繰り返し述べられている。かくして、フルカトケラトプスの記載では“アヴァケラトプス”は容赦なく疑問名として扱われている。)

 

 こうした背景にあって、未成熟個体であるとはいえ頭骨の相当な部分が良好な状態で保存されている"AVA"――頭頂骨をまるっきり欠いているとはいえ、見るからにナストケラトプス族だった――は、このあたりの問題になにがしかのヒントを与えてくれる存在でもありそうだった。なにしろ、ジュディス・リバー層やベリー・リバー層群では文句なしに最良のナストケラトプス族の標本なのである。“AVA”の記載が待ち望まれたが、音沙汰はこの7年間途絶えていた。

 とはいえ、こうした状況は(表向きには)急転直下で動くものである。恐竜博2023の展示の概要が明らかになったのは開幕までひと月となった時だったが、そこには紛れもない"AVA"の写真があった。会場には”AVA”――NSM PV 24660が(置けるだけ)並べられており、傍らにはかはくのスペシャル仕様(産出部位とアーティファクトを塗り分けてある)で仕上げられたマウントが佇んでいる。図録にはクローズアップの写真がいくらでも載っており、「ケラトプス科の未記載種」名義の展示だったとはいえ、記載論文の出版が近いらしいことがうかがえた。

 

(実のところ記載論文は2023年の2月上旬には投稿済みであり、7月20日付で校正前の受理原稿が(印刷中という扱いで)公表された。8月11日付で受理原稿は正式に出版され、晴れて命名と相成った(日本語のプレスリリースが公開されたのは盆明けであった)のである。だいぶ以前から“AVA”の骨格図を制作する機会にあずかっていた筆者だったりもするのだが、最初に描いたものはとうとう一度も表に出ることがなかった。このあたりの話は、そのうちどこかで書くこともあるだろう。)

 

 かくして新属新種として世に送り出されたフルカトケラトプス・エルキダンスのホロタイプNSM PV 24660は(かねてからの指摘通り)未成熟もいいところであった。椎骨の癒合はさっぱり進んでおらず、頭骨も縁後頭骨はおろかほとんどの部分で癒合がみられなかったのである。長骨の薄片に成長停止線はたった2本しか観察されず、(ナストケラトプス族としてはそれなりの体格であるにもかかわらず)生後ものの数年で死んだことは確かなようだ。

 未成熟個体ということで分類に細心の注意が必要であることは今さら書くまでもないが、NSM PV 24660では鼻骨と前上顎骨の(腹側の)関節面をはじめ、成長過程で変化しないとみて間違いない独自性がいくつも見いだされた。NSM PV 24660の産出層準はMOR 692と比較的近いとみられているが、両者は明らかな別物であることが確認されたのである。やはり産出層準の近いCMN 8804の上眼窩角は(MOR 692とは異なり)NSM PV 24660と似ているようだったが、あまりにも断片的であるためにそれ以上の比較は困難であった。

 

(“アヴァケラトプス”ANSP 15800はそっくり鼻骨を欠いており、フルカトケラトプス(上述の通り、鼻骨と前上顎骨の関節が特殊化している)との比較がまともに行えない。とはいえANSP 15800の前上顎骨は(鼻骨との関節面は途中で欠損しているものの)いたって普通のつくりであるらしく、であればフルカトケラトプス的な鼻骨の持ち主ということもなさそうだ。ANSP 15800(カンパニアン中期の中ごろ;ざっと7800万年前ごろ)とNSM PV 24660(カンパニアン後期の前半;7560万年前ごろか)の産出層準のギャップはANSP 15800とMOR 692のそれより大きく、カンパニアンにおけるケラトプス科角竜の生存期間が概して数十万年程度ということからしても、同じ種とは考えにくい。)

 

 NSM PV 24660の頭骨は半ばバラバラになっていた一方で、相当な数の縁後頭骨(頭頂骨の正中線上にあるもの(P0)を除き、事実上すべて発見された計算になる)が採集された。うち、縁鱗状骨(esq)と縁頭頂鱗状骨(eps)については自信をもって元の位置に関節させることのできるものだったが、かくして復元されたフルカトケラトプスの鱗状骨とホーンレットはUSNM 2415や4802――“アヴァケラトプス”が疑問名となって宙に浮いていたオールドコレクションとよく似たものであった。どちらの標本も今となっては産地・産出層準ともはっきりしないものであり、結局のところ“アヴァケラトプス”に属する可能性は十分あるが、ひょっとするとフルカトケラトプスは最初期に発見された角竜のひとつだったということさえあり得るのである。

 

(MOR 692の鱗状骨は不完全だが、老齢個体であるらしいとはいえ保存されているホーンレットはごく低く、USNM 2415や4802にみられるよく癒合し、かつ突出したものとはだいぶ趣が異なる。USNM 2415とUSNM 4802にはepsの関節面と思しきものがみられ、この点もNSM PV 24660とよく似ている。ANSP 15800はサイズからして相当な若年個体であると思われ、このあたりについては何とも言えないところである。)

 

 フルカトケラトプスの原記載論文は頭骨の記載に重きを置いており(下顎についてはあらゆるケラトプス科角竜の中で最高と言える標本である)、首から後ろの要素についてはわりあい簡潔な記載に留められている。とはいえ端々で詳細な再記載――将来的なモノグラフの出版を匂わせており、今後の研究に非常に期待が持てるところである。なにしろフルカトケラトプスのホロタイプはジュディス・リバー層産の角竜としては空前の保存状態・完全度を誇るものであり、これまで発見されたナストケラトプス族としても最も完全な骨格であり、そしてなにより公的な研究機関――博物館の所蔵する標本なのである。

 フルカトケラトプスのホロタイプの産地はちょっとしたボーンベッドとなっており、ハドロサウルス類の四肢骨をはじめとする共産化石もまとめて国立科学博物館の標本となるようだ。コール・リッジ部層の上部――州立恐竜公園におけるダイナソー・パーク層下部と対比される層準――にぽっかりと開いた窓から差し込む光もまた、我々の手の中にある。

 

 角竜の研究の始まった場所、ジュディス・リバー層における悪夢のような状況を打破しうるものとして当初より期待が寄せられていた“AVA”は、かくしてフルカトケラトプス・エルキダンスのホロタイプNSM PV 24660として国立科学博物館に安住の地を得た。「解き明かす」という意味の種小名を背負ったNSM PV 24660は、相当部分を非常によく保存した数少ないケラトプス科角竜として、ジュディス・リバー層産の角竜としてはもっとも完全な骨格として、そして謎の多いナストケラトプス族の中でも最良の標本として、これからも歩みを止めることはない。

 

 

 

 

 

 

 

戦車トカゲのみるゆめ

↑Skeletal reconstruction of cf. Denversaurus schlessmani

 “Tank” FPDM-V9673 (formerly HMNS 11). Scale bar is 1m.
 Note: recovered postpectoral osteoderms are not illustrated.

 

 「デンヴァーサウルス」という名前を覚えたのはいつのことだったろう。豊橋市立自然史博物館へ贈られたホロタイプのキャストや、かつての林原が購入した“タンク”の愛称のついた部分骨格の存在によって日本とも縁深い恐竜であり、読者の方はどこかしらで一度は目にしたことがあるだろう。デンヴァーサウルス・シュレスマニ、あるいはエドモントニアの一種として扱われるこの恐竜はその実、相当に実態の不明瞭なものでもある。

 パラエオスキンクスPalaeoscincus――なにがしかのノドサウルス類の歯の発見で始まった北米産鎧竜類の研究だが、しばらくのうちはまとまった骨格要素が見つかることはなかった。歯や単離した皮骨の発見が精々であり、それらが同じグループの恐竜に由来するとさえ思われていなかったのである。
 ララミー層あるいは“ケラトプス層”では、ハッチャーの時代からそうした化石の産出が知られていたが、それらの化石が妥当な同定を受けるまでには程遠い状態であった。一帯ではなにかしらの剣竜の類縁――角竜の化石がよく知られており、直接的な証拠は何もなかったものの、この一帯で見つかる単離した皮骨(様々な鎧竜のものに加え、パキケファロサウルス類の頭骨に見られるスパイクのクラスターも含まれていた)が角竜のものであることは間違いないように思われていたのである。こうした状況にあって、ハッチャーがランス層から持ち帰ったスパイクUSNM 5793が(採集者の当人によって)角竜、おそらくはトリケラトプスの尾の基部に2列で並ぶものと考えられたのは無理もないことであった。
 とはいえ、1910年代になるとこうした見方は大きく変わるようになった。カナダやアメリカ――カンザス周辺から様々な「装甲恐竜」が発見されるようになりはじめ、「角竜の鎧」がそうした恐竜の皮骨と区別できないらしいことが明らかになったのである。1914年にスミソニアンの「装甲恐竜」についてのモノグラフをまとめたギルモアは、USNM 5793がホプリトサウルスHoplitosaurus――もともとステゴサウルス類とみなされていたが、ギルモアによる再記載以降はもっぱらポラカントゥス類とされている――のスパイクとよく似ていることを見て取った。ギルモアはこのほかにもハッチャー採集の「トリケラトプスの鎧」が鎧竜のものであるらしいことを見抜いたのだった。


  このあたりの時期から加速度的に北米産の鎧竜に関する理解が進んだ。全体像がはっきりしないのは相変わらずであったが、それでも関節のつながった部分骨格――しばしば鎧を(おおむね)生前の位置に留めていた――がカナダで複数発見されるようになり、「鎧」の実態が明らかになりつつあったのである。
 とりわけ大きな発見がレッド・ディアー川――ベリー・リバー層(現ダイナソー・パーク層)であった。第二次化石戦争もほぼ終わっていた1915年、すでにカナダ地質調査所の調査隊から離れていたリーヴァイ・スターンバーグによって発見されたその骨格――AMNHが入手した――は、ほぼ完全な状態で保存された鎧竜の前半身であった。この標本AMNH 5665――その壮絶な装甲っぷりにマシューは「動物界の超ド級戦艦」と呼んだ――はラングらAMNHのキュレーターの根性で三次元的にクリーニングされ、今日まで至るAMNHの看板展示のひとつに収まったのである。
 頭骨の保存はあまりよくはなかったのだが、とはいえ歯はいくらか保存されており、マシューはAMNH 5665をパラエオスキンクスと同定した。マシューとブラウンはこれをパラエオスキンクスの新種として記載するつもりであったのだが、どういうわけかとうとう記載せずじまいに終わった。マシューによる(属止まりの)AMNH 5665の同定はギルモアら後続に追認され、しばらくの間(1919年にパノプロサウルスが、1928年にはエドモントニアが命名されてはいたのだが)アルバータやモンタナの上部白亜系から見つかるノドサウルス類はざっくりとパラエオスキンクス属にまとめられるようになったのである。

 

1930年にギルモアはモンタナのトゥー・メディスン層産の標本USNM 11868を記載するにあたり、マシューによる1922年のAMNH 5665の「紹介」に大きな影響を受けた。ギルモアはパラエオスキンクス・コスタトゥス(模式種)のホロタイプ(ジュディス・リバー層産)とUSNM 11868の歯の形態が異なることからこれをパラエオスキンクス・ルゴシデンスと命名し、1928年に命名されたばかりであったエドモントニア・ロンギケプスもパラエオスキンクス属に過ぎない可能性をも指摘したのである。ギルモアはこの時AMNH 5665がパラエオスキンクス・コスタトゥスであるという前提の下で自らの議論を展開していたのだが、実のところマシューはAMNH 5665については上述の通り(歯の形態に基づいて)パラエオスキンクス属の新種と考えていた。やがてパラエオスキンクス・ルゴシデンスはエドモントニア属に移され(後述)、AMNH 5665も結局エドモントニア・ルゴシデンスとされて今日に至っている。)

 


 こうした状況が整理されたのは1940年になってからで、ラッセル(ロリスの方)によってこれらのノドサウルス類は2属3種――パノプロサウルス・ミルスPanoplosaurus mirusエドモントニア・ロンギケプスEdmontonia longicepsそしてエドモントニア・ルゴシデンスE. rugosidens(上述の通り、原記載ではパラエオスキンクス属だった)へとまとめられた。このコンセプトは(紆余曲折ありつつも)究極的には現代まで踏襲されるもので、パラエオスキンクスは疑問名として扱われるようになったのである。
 その後表立った動きのない状況が長く続いた(1970年代後半に鎧竜の分類の大改訂に取り組んだクームズがついでにエドモントニア属をパノプロサウルス属のシノニムとしたくらいで、種レベルの話は特に何もなかった)のだが、1986年になり、カーペンターは北米西部における“ランス期”のノドサウルス類(カーペンター自身が一時パラエオスキンクスと呼んでいた一連の標本)をまとめて記載した。恐竜の絶滅に関する議論が盛んになりつつある中で当然ノドサウルス類の絶滅した時期も問題になったのだが、そのあたりをまともに取り扱った研究が何もなかったのである。
 先述のスパイクUSNM 5793はここでやっとエドモントニア属のスパイクであるとされたが、この時カーペンターはサウスダコタのヘル・クリーク層から産出したほぼ完全な頭蓋の記載も行った。この標本DMNH 468は上下方向からひどく押しつぶされていた(鎧竜の頭骨は程度の差はあれだいたい上下方向に潰れているものでもある)が、もろもろの特徴からカーペンターはこれをパノプロサウルス属ではなくエドモントニア属とした――が、種については特に言及することはなかった。カーペンターはランス期のノドサウルス類の化石記録が白亜紀の最末期にまでは到達していない(ヘル・クリーク層やランス層の上部では産出していない)ことを指摘し、恐竜の「緩やかな絶滅」の証拠のひとつとしたのだった。
 かくして種不定のまま記載されたDMNH 468に目を付けたのはバッカーであった。1988年にバッカーはノドサウルス「上科」に関する総説を出版し、その中でパノプロサウルス属とエドモントニア属をやたら細分化したのである。エドモントニア・ルゴシデンスを新亜属チャズスターンバーギアChassternbergiaとし、そしてバッカーはDMNH 468を新属新種のエドモントニア「科」、デンヴァーサウルス・シュレスマニDenversaurus schlessmaniとしたのであった。
 バッカーのこの細分化の受けは極めて悪かった(例によってオルシェフスキーは別だったが)。事実上、標本1つにつき(命名の有無はさておき)1つの種を設けたような状況だったのである。他のエドモントニア類よりもずっと新しいDMNH 468に学名を与えたという意義(だけ)はあったが、その程度であった(そしてノドサウルス上科がアンキロサウルス科よりもステゴサウルス類に近縁であるとするバッカーの意見はその後特に顧みられなかった)。カーペンターは1990年の論文でこのあたりをばっさり切り捨て(同時期にクームズも同様の意見に達していた)、改めてロリス・ラッセルによる分類コンセプトを提示するとともに、DMNH 468が(より時代の近いエドモントニア・ロンギケプスではなく)エドモントニア・ルゴシデンスと最もよく似ていることを指摘した。バッカー言うところのデンヴァーサウルスの特徴のうちのいくつかはアーティファクトめいていた(バッカーはDMNH 468の頭骨復元図に基づいて論じている部分が少なからずあり、一方でバッカーの復元は相当に客観性を欠いていた)のである。一方で変形のために形態のはっきりしない部分もあることから、カーペンターはやはりDMNH 468をエドモントニアの一種としたのだった。

 

(カーペンターによる1990年の論文は、AMNH 5665の骨学的記載としてはいまだにほぼ唯一のものとなっている。小柄なカーペンターをしてマウントの下に潜り込んで椎骨の観察を行うというだいぶ無茶な作業によるものであった。)

 そんなわけでランス期のエドモントニア類の分類については判然としないままだったのだが、その間に大きな動きがあった。1988年、ワイオミングのランス層で大きな鎧竜の部分骨格――“タンク”の愛称で呼ばれるそれが発見されたのである。“タンク”を発見したのは業者であり、化石は一通りのプレパレーション(復元骨格まで制作された)を経て日本の企業――林原へと渡った。

 

(このあたりの経緯はつまびらかではないのだが、“タンク”の復元骨格は2タイプある。林原(→福井)の所蔵であったキャストは最初に作られたタイプであるのだが、これと同型のもの(に一体成型の「甲羅」を加えたもの)がトリーボールドの私設博物館で展示されている。福井県博で常設展示されている実物のマウントも、アーティファクト部分に関してはこれと全く同型である。BHIは林原からキャストの制作・販売権を取得し、アーティファクトをリメイクした(後述)バージョンを販売しているが、初期のタイプを制作していた業者は(トリーボールドの可能性はあるが)はっきりしない。)

 

 かくして“タンク”の形態やら分類やらは当初(カーペンターやラーソンらによる)「目撃談」頼りではあったのだが、頭蓋と尾を除く骨格の相当な部位を保存しており、かつ前方へ向けられた「二重スパイク」――パノプロサウルスではみられない――も残されているらしいとの話であった。つまるところこれは(少なくともカーペンター言うところの)エドモントニア属であるらしく、(直接比較はできないものの)産地からしてヘル・クリーク産の「エドモントニアの一種」と同じ種であるように思われたのである。
 はるばる岡山へと渡った“タンク”はそこでそれなりの研究材料としての扱いを受けた。頭蓋はごく断片的だったものの、明瞭な分岐のある「二重スパイク」の存在からエドモントニア・ルゴシデンスと同定され(言うまでもなくエドモントニア・ロンギケプスも二重スパイクを持っており、このあたりの判断は相当に恣意的ではある)、予察的な機能形態学的、古病理学的な解析をも受けたのである。林原自然科学博物館が設置したパナソニックセンターで“タンク”のキャストが展示されるようになったが、一方で配列のはっきりしなかった方から後ろの皮骨については(相当な数が採集されていたとはいえ)マウントされないままであった。


 さて、林原から“タンク”のキャストの販売権を取得したBHIであったが、それとは別に手元にヘル・クリーク層産のノドサウルス類の頭骨が2つ――頭蓋天井といくらかの皮骨を含むBHI 6225左右からひどく圧縮されているものの完全な頭骨BHI 6332があった。どちらもデンヴァーサウルス・シュレスマニのように思われ、産出層からすれば“タンク”と同種のようにも思われたのである(“タンク”の頭蓋はごく断片的であり、いずれの頭骨とも直接比較できない点に注意)。これらの頭骨と“タンク”に据えられていた出来のよくないアーティファクトとの違いは歴然としていた。BHI 6332は完全な頭蓋ではあったが(ノドサウルス類の頭骨としては珍しく)左右方向からぺしゃんこになっていたため、BHI 6225のキャストに欠損部を継ぎ足したものが新たに量産された“タンク”に据えられた。仕上げに手足のアーティファクトもブラッシュアップされた(原型はほぼそのままだったが)“タンク”は、かくして“Denversaurus (Edmontonia) cf. schlessmani”の「商品名」で、デンヴァーサウルスの代表格のごとく世界へ出荷されていったのである。一方で、林原から特別展へと貸し出される“タンク”のキャストはあくまでも「エドモントサウルスの一種」あるいは「エドモントニア・ルゴシデンス」止まりのままであった。

 

(実のところBHI 6225は“タンク”よりもやや大きな個体の頭蓋天井であり、従ってBHIの“タンク”は本来よりも大きな頭蓋を持つものとしてマウントされている(適切なアーティファクトとは言い難いが、サイズ感については当然オリジナルの“タンク”の方が正確である)。BHIは“タンク”のハーフリングをオリジナルのマウントとは違ったパターンで組み立てている(オリジナルの二重スパイクを第2ハーフリングへ移し、その後ろにあったスパイクをそのまま第3ハーフリング(二重スパイクの位置)へスライドさせている)が、これは明らかな誤りで、林原-FPDMのマウントの方が正確である。)

 


 デンヴァーサウルスの名を冠した「商品」が各地へ広がる一方(なにしろエドモントニア類もといパノプロサウルス類の復元骨格として流通しているのは“タンク”が唯一無二であった)、DMNH 468の再検討はなかなか進まなかった。研究に相当な支障をきたすレベルで変形しているのは間違いなかったし、比較されるべきパノプロサウルスやエドモントニアのレビューさえ1990年が最後だったのである。
 このあたりの問題――パノプロサウルス亜科の再評価に取り組んだのはバーンズであり、博士課程の研究においてパノプロサウルスやエドモントニア各種、そしてBHIの「デンヴァーサウルス」まで広範な再検討が行われた。DMNH 468やBHI 6225にはパノプロサウルスやエドモントニア2種の特徴がモザイク的にみられた一方で固有の特徴らしいものは見出されなかったが、それら3種と全体の形態が一致することもなかった。そして系統解析の結果この2標本は姉妹群をなした一方、エドモントニアやパノプロサウルスの標本群とは独立した枝をなした(パノプロサウルスとそれらが姉妹群をなし、エドモントニア属はその基盤の側系統をなした)のである。バーンズはここに(いまだ博論止まりではあるのだが)デンヴァーサウルス・シュレスマニを復活させたのである(左右方向の変形がひどかったために頭蓋天井の比較ができなかったBHI 6332はひとまずパノプロサウルス亜科の不定種とされ、そもそも頭蓋がほぼ残っていない“タンク”は研究材料とはされなかった)。


 バーンズによるパノプロサウルス亜科のレビューはいまだ出版されてはいないのだが、とはいえ(時代の違いが明確であるものを積極的に同種にまとめることもなかろうという昨今の流れもあって;必ずしも適切な判断とも限らない)デンヴァーサウルス・シュレスマニは研究者のコミュニティでも独立種として扱われるようになった。BHI 6332、ひいては“タンク”も(現状直接比較が困難ではあるが)デンヴァーサウルス・シュレスマニと見て問題はないだろう。
 林原自然科学博物館のうち主だったコレクションは福井県立恐竜博物館へ渡り、“タンク”の標本番号もHMNS 11からFPDM-V9673へと変わったアーティファクトはそのままに、(頭骨以外は)初めて実物でマウントされた“タンク”は、林原時代からおなじみのキャストとは異なり、肩から後ろまで完全に装甲された姿を現すこととなった。
 今度こそ終の棲家を得た“タンク”だが、研究材料――博物館の収蔵物としての正念場はここからである。林原時代に行われた研究は予察的なところで止まっており、肩から後ろの皮骨の配置もはっきりしないままだが、しかしこれはパノプロサウルス亜科としてはAMNH 5665さえ遥かにしのぐ完全度の骨格なのである。眩しい点光源を浴びながら、“タンク”は新たな研究者を待ち続けている。

 

(カーペンターらによる1986年の研究の後、ランス期のノドサウルス類に関する生層序学的な議論は特に行われておらず、カーペンターらの言うようにデンヴァーサウルスがマーストリヒチアンの終わりを前に絶滅したのかどうかははっきりしていない。そもそもの産出数が相当に少ないのも間違いない話で、少なくともトリケラトプスのような話は現状望むべくもない。)

 

 

「恐竜博2023」レポ

 いい加減で春であり、筆者の花粉症のピークは先々週くらいだったらしい。そんなわけで春の特別展はすでに始まっており、今度こそは(2019は招待されつつ当時の本職の都合で行けなかったので)内覧会に顔を出しつつ初日にもう一度観に行けた筆者である。そういうわけで、この半年ちょっとの間筆者を苦しめていた恐竜博2023についてつらつらと紹介していきたい。

 のっけから事前情報の一切なかったスクテロサウルスである。最近の再記載やらを踏まえたマウント(昨年のツーソンショーでお披露目されたばかり)で、出来もなかなかといったところ。

 

 吻やら肘から先がアーティファクトだったりはするのだが、それをさておいてため息の出る産状である。開催のわりあいに直前になって情報が解禁されたスケリドサウルスだが、これ目当てに2200円をつぎこめるだけの代物である。

 

 しばらく前からいろいろと描き溜めていた超大型ティタノサウルス類を結集して描いたものである。実物の6割弱のサイズであることは見ての通りである。

 

 しれっと置かれているが、胴椎(というか神経弓)は特に既知の恐竜の中では最も左右幅があり(アルゼンチノサウルスやパタゴティタンは物の数ではない)、アクリル板越しに置かれるでもなく観察ができる。この手の巨大な骨化石のキャストとしては非常に抜きがよく、原記載の写真が悲惨だったこともあって大変にありがたいところ。

 

 先日報告されたピナコサウルスの咽頭骨(の3Dプリント)やFPDMのデンヴァーサウルスやらオヴィラプトル類の胚のキャスト(どうもそのうち実物に展示更新されそうな気配がある)やらサイカニアのホロタイプの頭骨キャストやらいぶし銀の標本(とピンチヒッターのFPDM出張装盾類セット)が続くが、そこを抜ければもうズールのお出ましである。

 頭骨を全周囲から観察できる粋なレイアウトであり、この空間だけ照明が暗いのだが、とはいえありがちな点光源照明下とは比べ物にならないほど見やすい。見せ所をよくわかっている展示のありがたみを痛感させてくれる。

 

 腹側はもうこれ以上クリーニングができない(というよりジャケットをもう外せない)ため、ズールの胴体ブロックの腹側はこのキャストである意味見納めである。意外なほど関節がゆるんでおり、背側の産状とあわせて興味深い。壁に垂直に貼り付けてあるので、人波が小さくなった隙を突くことで自在に写真が撮れるという思いやりにあふれている。

 

 ズールの胴体ブロックはどう展示してくるかと思いきや、床置きなのはわかるとして尾のブロックとそれから頭部、首(頸椎と第1ハーフリングは実物)を並べた、全身骨格と言える状態でのレイアウトで度肝を抜かれた筆者である。第3頸椎や第2ハーフリング(あまりにも保存が悪かったためかキャストである)は未記載であり、胴体ブロックに至っては直近の研究で図示された状態からさらにクリーニングが進んだ(というかこれで打ち止めだろう)最終形態といえるものである。写真やイラストで示される情報量とは比べ物になるわけがなく、なんなら1回や2回行ったごときでは一瞬で脳がオーバーフローを起こすことうけあいである。ズールのホロタイプとはさりげなく付き合いの長い本ブログであり、このあたり謎の感慨も(勝手に)ある。

 

 恐ろしいことにズールの「全身骨格」は通路の上からも(ガラス越しではあるが)観察可能なレイアウトで、ひたすらにズールをしゃぶりつくさせようという展示設計者の慈悲がうかがえる。全体的に明るくかつ点光源が悪さをしない照明、ゆとりのある(=人波が引くのを待てる)空間、標本の見せたいポイントと見たいポイントをきっちり押さえたレイアウトと、恐竜博2023の展示設計は神がかり的な噛み合いのよさを見せており、筆者の記憶にある限りでは数ある恐竜絡みの展示の中でも断トツで優勝である。

 

  キービジュアルになってはいるのだが、展示品のそうそうたる並びからすると箸休めといったところである。とはいえゴルゴサウルスROM 1247(のキャスト)もズール(用の改造パーツを組み込まれたエウオプロケファルス・トゥトゥスないしスコロサウルス・スロヌスのホロタイプROM 1930のキャスト)のマウントもキャストの精度は良好で、特に後者は色々と観察のし甲斐がある。

 

 内覧会でご一緒した相場大祐博士(ポケモン化石博物館の前に異常巻きアンモナイトやさん同士なんかしら引き合うものがあるらしい)にROM 1247のマウントの頭骨の写真の撮り方を披露してドヤっていた筆者だったのだが、しれっとROM 1247の頭骨の実物が来ていたというオチである。(話には多少聞いてはいたが)おどろくほど保存がよく、キャスト用の型を制作した後で徹底的な再クリーニングが行われたことがうかがえる。恐ろしいことに図録にはバラした各要素がでかでかと(頭骨のマウントには組み込まれていない角骨・上角骨も含めて)図示がある。

 

  しばらく前にトリーボールド社が掘っていた標本("Bert"という愛称も付いている)なのだが、かはくが(恐竜博2019の時のイクチオルニスや、次に紹介する”AVA”と同様に)購入していたわけである。依然としてテスケロサウルスの保存のよい頭骨は珍しく、(すでに歯のマイクロウェアに関する研究には供されているとのことだが)いじりがいのある標本だろう。

 

 どこかで見たことがあると思っていた古参読者の方は大正解、本ブログでずいぶん昔にネタにしていた“AVA”はいつの間にかかはくに購入されていたのである。なんならすでに記載論文は投稿済みという話であり、何もかもうまくいけば年内には学名が付くようだ。

 

 ジュディス・リバー層がどうのこうのは置いといて保存は非常によい。下顎のデンタルバッテリーなどはちょっと異様なほどである。

  例のごとく(おかげさまで例のごとく、になりつつあるようだ)筆者が骨格図を描いていたりするのだが、(単にレイアウト上の問題で)図録に載っているのはバストアップだけである。なんなら同人誌に載せた頭骨図はダミーの古い図だった(し、その時点での最新バージョンだった図は結局没にした)という話は秘密である。

 

 大人の事情の薫り高い展示であり、正直なところ他に書くことは特にない。“スコッティ”(なりなんなり、素性のはっきりしたマウント)が隣にいて初めて成立する展示でもある。

 

 カルノタウルスのマウントはいつもの茨城県博の遠征要員(初来日した時のマウントであり、どうしていいのかわからなかった手も含めて元祖ボナパルテ復元を今に伝えている)なのだが、足元にはフルクリーニングされた右前肢のキャスト(本展にあわせてフルクリーニングしたとのことで、いずれは論文のネタになることだろう)が置かれている。つまるところカルノタウルスの手は完全な状態であったらしく、今後の波乱を予感させる。

 

 福井からのピンチヒッターであるフクイラプトルとメガラプトルを従えつつ、どうにかして来日したマイプのホロタイプの実物(と胸郭の複製)が展示されている。このご時世もあってプレパレーターが在宅でクリーニングしたという代物らしいのだが、保存状態は非常によく、クリーニングも大変丁寧である。そこかしこの破断面からハニカム状の含気構造が顔を覗かせている。

 

 マイプの第6胴椎(胴体の左右幅が最も広くなる位置である)まわりはだいぶ断片的なのだが、とはいえアーティファクトの出来は(あらゆる意味で)非常にしっかりしており、マイプの種小名の意味、ひいてはメガラプトル科の胸郭のなんたるかを物語っている。マイプのホロタイプはメガラプトルのマウントのベースになっている標本よりも(全長で)35%大きい(筆者調べ)ので、そのサイズは頭上のメガラプトルのマウント(前方胴椎が一つ多かったり、尻尾がだいぶごつかったりはするのだが)から推して知るべしである。

 

 

 

 さんざん書いたのだが、これでも展示の紹介はずいぶんかいつまんでいる。海外からの標本を用意しにくい(コロナ禍ということもあるし、少し前の円相場は相当悪さをしたようだ)という中にあって来日した標本はズールを筆頭に凄まじいものばかりで、ズールに関して言えばおそらくもう二度と来日することはないだろう。そうした標本の合間を国内の博物館からの出張組がうまくつないでおり、かはくの特別展会場の規模からしてみればボリューム不足ということは全くない。

 上にも書いたことであるが、標本の点数と空間のバランスというところも含め、照明や展示レイアウト等々、展示設計としても本展は出色のものであった。一昨年の恐竜科学博もそうだったわけだが、(昨今の情勢による怪我の功名的な側面も多分にありそうだが)標本一つ一つをしっかりと見せる/見られる特別展示が確立されてきたということでもあるのだろう。

 そんなこんなで筆者の骨格図(を原図としたもの)がそびえたっていたり、ほかにもマイプや“AVA”のフル骨格図を描くなりなんなり(マイプについては3Dペーパーパズルのたたき台にもなっている)、筆者なりに今まで勝手に因縁をつけてきた相手とひとまずの決着をつけるいいおしごとをこの半年間いただいていた格好でもある。これだけの特別展の賑やかしになれば、この手のおしごととしては何よりなのだ。

お前が大きくなあれ

↑Skull reconstructions of Pachyrhinosaurus spp. Scale bars are 1m.

 2010年代から始まった怒涛の角竜の命名ラッシュにより、ケラトプス科はずいぶんと構成メンバーの数を増やした。ド派手な装飾を備えたものがずいぶん目に付くようになったその中にあって、命名当時から今日に至るまで異彩を放っているのがパキリノサウルス――(ホーナーらによるアケロウサウルスの産出報告までは)角竜の花形たるケラトプス科において唯一、角らしい角を顔面から失った恐竜である。異端の角竜として知られてきたパキリノサウルスだが、その実ケラトプス科のなかでもよく栄えたものであった。


 第二次化石戦争が終わり、その後始末を経た1930年以降になると、北米における恐竜研究は冬の時代を迎えることとなった(第二次化石戦争以前から業界を支えていたベテランも続々とこの世を去っていった)。第二次化石戦争で大きくその数を増やしたケラトプス科角竜も例外ではなく、バッドランドでの調査は続いていたとはいえ、1933年のラルによる総説の出版後(総説を出版できるということは、つまり研究がひと段落着いたということである)、しばらく静かな状況が続いた。既存の属の新種が命名されることは何度かあったが、第二次化石戦争時に比べればまったく静かなものだったのである。
 1940年代の半ば、この状況にちょっとした変化が現れた。アルバータ州南西部のリトル・ボウ川流域――これまで恐竜の化石は特に知られていなかった――で、未知の角竜の頭骨が発見されたのである。1945年にはそこから30kmほど南のスカビー・ビュートでもうひとつ、似たような頭骨が発見された。ここに至ってチャールズ・モートラム・スターンバーグが動き出し、1946年にそれぞれの産地から(まだ採集されていなかった)頭骨を採集したのである。リトル・ボウ川の産地ではもうひとつ頭骨が見つかり、謎の角竜の頭骨は3つになった。――この角竜には角がなかったのである。
 リトル・ボウ川の産地で採集された2つの標本のうち、あとから見つかったCMN 8867は頭蓋の大部分(吻とフリルは部分的だったが)を保存していた。スカビー・ビュートにはどうも複数個体が埋まっていそうだったが、ピクニックに来た人々に長年ほじくりまわされていたりなんだりで、とりあえず採集できたのは1個体分の頭骨の断片であった。これらの標本の保存状態はいずれもぱっとしなかったが、その奇怪な特徴――鼻角も上眼窩角もなく、「破城槌」(チャールズ・モートラムはこう呼んだ)が鼻面から眼窩の前にかけて覆っていた――は明らかであった。
 この凄まじく肥厚した鼻骨の構造に感銘を受けたチャールズ・モートラムは、CMN 8867をホロタイプとして新属新種パキリノサウルス・カナデンシスPachyrhinosaurus canadensis――pachy-rhinusすなわち肥厚した鼻――を命名するのみならず、角竜の新科パキリノサウルス科を設けた(同年、ヒューネはすかさずこれをケラトプス科のパキリノサウルス亜科とした)。角らしいものはどこにも見受けられず、ひどく分厚い骨で構成された、非常に高さのある頭骨は、既知の角竜のどれとも異なっていたのである。 フリルは明らかに後端が欠けていたが、チャールズ・モートラムは(その長さや頭頂骨窓の有無についてはなんとも言えない、と断りを入れつつも)「短くて丸っこい」フリルを持っていたと考えていた。チャールズ・モートラム自らの手による復元模型は、草鞋を載せたプロトケラトプス、といった趣に仕上がったのだった。

 

(パキリノサウルス・カナデンシスの模式産地は当時で言うところのエドモントン層下部――現在のホースシュー・キャニオン層とされた(スカビー・ビュートは同時異相のセント・メアリー・リバーSt. Mary River層)。ここまではよかったのだが、チャールズ・モートラムはこれをランス期――マーストリヒチアン後期に相当するとみなしていた(実際は前期)。その上で、パキリノサウルスの(他の角竜とは異なる)著しく肥厚した骨からなる巨大でマッシブな頭骨は、そうした「奇形的発達」が白亜紀の終わり近くのいくつかの恐竜においてまかり通っていたことの証左としたのだった。)


 1950年代の終わりごろ、今度はレッド・ディアー川流域のホースシュー・キャニオン層でパキリノサウルスの頭骨が姿を現した。横倒しになり真っ白に風化しつつあったそれは地元民によって発見され(当初なにかしらの腰帯とみなされた――眼窩を寛骨臼と勘違いしたのである)、ドラムヘラーの地区博物館(現ドラムヘラー峡谷案内センター)によって採集された。巨大(今日に至るまで、トリケラトプストロサウルスの大型個体に次ぐサイズである)なうえに風化の進んだ頭骨で、しかも地区博物館には古脊椎動物化石の専門家がいなかったが、どうにか無事に(わずかな掘り残しはあったが)持ち帰ることに成功したのである。この頭骨にカナダ国立博物館が興味を示し、詳細なクリーニングと研究のため、オタワへと送られることとなったのだった。
 この「ドラムヘラー標本(研究が終わったのちに返還された;ナンバーなしのため、今日までこの名で呼ばれている)」は(掘り残しを含めて)頭蓋しか残っておらず(エドモントサウルス・レガリスのボーンベッドの中にぽつんと残っていた;他に角竜らしい要素は見当たらなかった)、相変わらずフリルの大半を欠いていたが、吻はそっくり残っており、全体として保存状態はホロタイプよりもずっと良好であった。この頭骨(趣は他のP.カナデンシスとは少々異なっており、一時は新種である可能性もうっすら指摘されたりもしたが、結局今日に至るまでP.カナデンシスとして扱われている)の記載にはワン・ラングストンJr.があたり、パキリノサウルスがケラトプス科のうちセントロサウルスや“モノクロニウス”、スティラコサウルスと同系統に属する可能性を指摘した。ラングストンはこの記載の翌年に自らのドラムヘラー標本の復元を修正し、フリルの形態がセントロサウルスやスティラコサウルスと同様のものであったことも示したのだった。
 1950年代の後半にはカナダ国立博物館によってスカビー・ビュート周辺の本格的な調査が始まっており、やがてエドモントサウルスとパキリノサウルスのボーンベッドが姿を現した(周辺にもボーンベッドが点在しており、魚類やカメ、プリオプラテカルプス(!)、様々な獣脚類やアンキケラトプスと思しき角竜、エドモントニア、哺乳類各種が産出している)。ボーンベッドからは新たに2つの部分頭骨に加え、骨格の様々なパーツ――フリルを含む――が産出した。かくして(依然としてフリルの全体が揃っていたわけではないのだが)パキリノサウルス・カナデンシスの頭骨のまともな復元がようやく可能となったのである。ラングストンは慎重を期して二通りの復元案を示したが、ラングストンが第一案としたものが結局正確といえるものであった。首から後ろの各要素についても比較が行われ、サイズ相応に、スティラコサウルスより頑丈なつくりであるらしいことが明らかになったのである。

 

(スカビー・ビュートでは、その後も散発的にパキリノサウルスの頭骨が採集されることとなった。層準は先述のボーンベッドと同じであり、相当広範だったということのようだ。)


 こうして1975年にはパキリノサウルス・カナデンシスの姿がかなりはっきりしてきたのだが、そこでパキリノサウルスの研究はしばらく休眠状態に入ることとなった。新標本はなかなか見つからず、ラングストンによる詳細な研究の上書きの機運も起こらなかったのである。
 一方で、1972年に事態はひっそりと動き出していた。恐竜化石に関してはそれまでほぼ手付かずだった(ハドロサウルス類の断片が一例あるだけだった)ワピチ層において、地元グランド・プレーリー中学校の理科教師であったアル・ラクスタによってパキリノサウルスのボーンベッドが発見されたのである。ラクスタは3年に渡ってこのパイプストーン・クリークのサイトをちまちまと掘り続けたが、1975年に地元紙に取り上げられたにとどまり、その間に専門家に知れることもなかったのだった。
 ラクスタの採集した標本の一部は地元の歴史博物館に寄贈され、そしてそこで運命の出会いがあった。1979年、PMAAでのキャリアを始めて4年目のフィリップ・カリーがそこを訪れたのである。ここに収蔵されていた要素はごく断片的だったが、それでも角竜のものであることは明らかだった――が、それ以上のことには発展しなかった。
1983年になって、設立準備中のティレル博物館(当時はまだ「ロイヤル」の冠がなかった)であくせくしていたダレン・タンケは、カリーのフィールドノートを読む機会があった。1979年の項で上述の観察記録に目を留めたタンケをなにがしかの直感がよぎり、カリーらと共にラクスタの案内でパイプストーン・クリークを訪れたのである。なんらかのセントロサウルス類のボーンベッドがそこに広がっていたが、それ以上の情報はその場では得られそうにもなかった。
 1985年こそ運命の年であった。ラクスタが歴史博物館に寄贈した標本を漁っていたタンケは、そこで紛れもないパキリノサウルスの鼻骨こぶを見出した。タンケは直感的にその標本がパイプストーン・クリークのボーンベッドに由来することを悟ったのである。その年の冬、ラクスタが採集した標本は全てロイヤルティレルに寄贈されたのだった。
 1986年の夏、ついにパイプストーン・クリークのボーンベッドの発掘が始まった。2.5m×6mの範囲で行われた試掘で手の施しようがないほどの壮絶な状況――後で確認されたことではあるが、1㎥あたり200個の化石が詰まっている(原義的な意味での骨層(ボーンベッド)、つまり骨同士が支えあって層を形作り、その隙間を他の堆積物が充填する)格好だった――が明らかになったことで、重機を入れて240㎡に渡る範囲を大きく掘削し、それからのシーズンはそこを計画的に発掘していくこととなった。春の雪解けと降雨とで緩みに緩んだ母岩の中に凄まじい密度で埋まっていた化石の発掘は難航したが、たびたび出現する熊やらなんやらの獣と(人間による)悪質な破壊行為(スタッフのいない間に装備が盗難されたり、露出させてあった化石が破壊されたりした)の前に、発掘のペースを落とすわけにもいかなかった。ゆえに、骨一つ一つについて走向・傾斜を測るというわけにはいかなかったのである(それでも最低限、ボーンマップは丁寧に作成された)。
 最初のシーズンが終わった段階で、ここから産出した成体のパキリノサウルスのフリルの正中線上には(少なくとも)1本の長いスパイクが存在することが明らかになった。こうした特徴は他の角竜では全く知られておらず(正中線上に複数のこぶを持つ標本はよく知られていたが)、かくして正中線上にスパイクを持ったパキリノサウルスの復元が氾濫することとなったのである。
 このボーンベッドでは(ひとまとまりの)頭骨の産出が多く、1987年のシーズンでは1日に4個(うち3個は20分の間に)見つかる始末であった。まともな保存状態の頭骨にはひとつひとつ愛称が付けられたが、フリルの正中線上のスパイクと顔面がひと揃いになっていたのは“シビル”の愛称のついたTMP 1986.055.0258だけであった。頭骨の数が集まり、個体変異が見えてきた時点でパイプストーン・クリークのパキリノサウルスがP.カナデンシスではないらしいことが明確になり、1988年にカリーとラングストンそしてタンケの3人によるモノグラフの計画が動き出した。タンケはこの未記載種をラクスタに献名にすることを提案し、カリーとラングストンも即座に賛成した。モノグラフの出版にはここから20年を要することになったのだが、その間ずっとこの名前の秘密は守られ続けたのである。
 発掘は1989年までかかり(結局のところ掘り残しが相当量あるらしく、2001年には見事な部分頭骨が侵食によって姿を現す始末だった)、骨の数にしてざっと2500個(2008年時点でそのうちの35%しかクリーニングが終わっていないという)、推定全長1.5mの幼体から6mほどの成体まで少なくとも27体(前歯骨の個数に基づく)のパキリノサウルス・ラクスタイPachyrhinosaurus lakustaiが姿を現すこととなった(ボーンベッドは様々な動物化石を含んではいたが、事実上そのほぼすべてがパキリノサウルス・ラクスタイであった)。このうち部分頭骨は21体分が確認され、個体変異を研究する上で重要なデータを提供することとなったのである。先述の通り、タフォノミーに関する詳細なデータを現地で取り切ることはかなわなかったが。それでもこのボーンベッドが大規模な洪水イベントによるパキリノサウルス・ラクスタイの大量死の結果であるらしいことははっきりしたのだった。
 このボーンベッドで採集された化石は、2体の成体と1体の幼体を純骨で組み上げていくらでも余りあるものであった(いずれも輸送しやすいよう「半ウォールマウント」として仕上げられた)。複数用意されたキャストは三次元的に組み上げられ、成体についてはそれぞれ異なる標本をベースとした復元頭骨が据えられた。これらの骨格はエクステラ財団の援助の下、中国・カナダ恐竜プロジェクト(CCDP)の巡回展の目玉の一つとして、ティラノサウルスのブラック・ビューティーやシンラプトル、モノロフォサウルスなどと共に世界を巡ることとなったのだった。

 

(パイプストーン・クリークで採集された化石の量は、発掘の終了から20年を経てもさばききれるようなものではなかった。数を活かし、様々な研究の材料として切り刻まれることが今日に至るまでしばしばある。)


 1980年代にもなると、白亜紀の古気候を陸成層から復元する試みが行われるようになった。白羽の矢が立ったのが高緯度地域――アラスカ(石油調査のついでに、1960年代には恐竜化石の産出が確認されていた)で、ノーススロープにて散発的に調査が行われるようになったのである。1987年にはコルビル川沿いのプリンス・クリークPrince Creek層にて、角竜の断片――後頭顆、ホーンレット、大腿骨の遠位端が発見されることとなった(これらはすべて別々の産地から産出した;後頭顆はアンキケラトプスと類似しているとされた一方、ホーンレットはスティラコサウルスやパキリノサウルス・カナデンシスのそれとの類似が指摘されている)。そして1988年には、プリンス・クリーク層でパキリノサウルスの部分的な頭骨が発見されるに至ったのである。

 

(プリンス・クリーク層で最初に発見されたパキリノサウルスの頭骨は今日に至るまで記載らしい記載が出版されることがなく、その詳細は不明なままである(後述のP.ペロールムに属するのにはおそらく違いないが;1989年に学会発表された程度のようだ)。恐竜学最前線にてトレイシー・フォードが「新聞の写真から描き起こした」アラスカ産パキリノサウルスの部分頭骨の図を載せており、おそらくこれが問題の頭骨と思われる。この頭骨はパキリノサウルスsp.として報告され、P.ラクスタイも当時P. sp.として報告されることがもっぱらではあったのだが、なかなか命名されないこともあり、結果「アルバータからアラスカまで渡りをするパキリノサウルス」のイメージが構築されることとなった。)


 これを受けて90年代半ばにはコルビル川沿いの調査が進み、キカク-テゴシーク・クオリーKikak-Tegoseak Quarry――パキリノサウルスの単一支配的なボーンベッドが発見された。2005年から2007年にかけて行われた発掘で少なくとも10体分のパキリノサウルス――P.カナデンシスともP.ラクスタイとも別物だった――が姿を現し、2012年になってパキリノサウルス・ペロールムPachyrhinosaurus perotorum――ダラスの自然科学博物館の永年に渡るスポンサーだったペロー家に献名――と命名されたのである。当初はセントロサウルス風の(垂れ下がったP3を持つ)フリルとして復元されもしたが、これはさほど間を置かずに訂正され、パキリノサウルス属の基本形から逸脱しないフリルの持ち主にして、最も重厚な顔――丸みを帯びた短い吻(いささかディキノドン類的でもある)と、鼻骨こぶの上にさらにもう一段こぶの形成された「破城槌」を持つものとして知れ渡るようになった。


 さて、パイプストーン・クリークの発掘がまだ続いていた1988年、ワピチ川の下流(これもワピチ層だが、パイプストーン・クリークより上位にあたる)にて、パキリノサウルスのボーンベッドが新たに発見された。パイプストーン・クリークにかかりきりでこちらへ割くリソースもなかったため、試し掘りで一旦調査は打ち切られた。採集されたフリルの断片の形態は(のちの)P.ラクスタイとよく似ており、P.ラクスタイの新たなボーンベッドの可能性も考えられたのである。
 90年代の末にアマチュア採集家が風化した頭骨を見つけたことで、状況にちょっとした変化が訪れた。この頭骨は2001年になって採集され、このボーンベッドが以前思われていたよりも有望であるらしいことが明らかになったのである。 2003年になってロイヤルティレルの調査隊が再訪し、凄まじく硬いノジュールに包まれた頭骨が川岸にいくつも落ちているのを発見した(とりあえず採集は見送られた)。斜面の上にボーンベッドの本体があるのは間違いなかった。
 2007年になり、このボーンベッドの本格的な調査に乗り出したのはアルバータ大であった。2014年までゆったりとしたペースで発掘は続き、新たに7体分(2001年のものを含めて8体分)のパキリノサウルスが確認された(このボーンベッドも化石のほとんどがパキリノサウルス由来であった)。ここで産出したパキリノサウルスはホーンレットの形態がP.ラクスタイとは異なっているようであり(P2の先端に「柄(つか)」がある)、鼻骨こぶもP.カナデンシスやP.ペロトルムに近い(上眼窩こぶにほぼ接する)ようであった。かくして新種“パキリノサウルス・ヤンギPachyrhinosaurus youngi”が命名されるかに見えたが、これは(一度は論文が投稿されたようではあるが)今日に至るまで出版に至っておらず、ゆえに裸名nomen nudumのままである。

 

↑Skeletal reconstruction of "DPP pachyrhinosaur" TMP 2002. 0076. 0001.

Scale bar is 1m.


 もうひとつ、2001年には意外な発見があった。ダイナソー・パーク層の最上部付近で、パキリノサウルスと思しき骨格が発見されたのである。この標本TMP 2002. 0076. 0001はフリルと尾の大半を欠くほかはほぼ完全な――間違いなく単一個体に由来する骨格であった。フリルを欠いているためパキリノサウルス属かどうかは決定できなかった(とはいえ、鼻骨こぶまわりのつくりや独特の形状の鱗状骨はアケロウサウルスではなくパキリノサウルスのそれと似ているように見える。上眼窩こぶがうね状にならない点もアケロウサウルスのホロタイプとは異なる)が、ようやくパキリノサウルス類のきちんとした全身の復元が可能になったのである。この標本はカナダ産のパキリノサウルス類としては断トツで最古のものであり(恐ろしいことにエイニオサウルスやアケロウサウルスよりも古い可能性がある)、その後長きにわたってララミディア北部で栄えることになる一連のパキリノサウルス属のあけぼのとなるものであった。

 

サヴァンナ・カーペンターによる未出版の研究(YouTubeに分岐図がもろに出ていたりはするのだが)では、恐竜公園のパキリノサウルス類をアケロウサウルス・ホーナーリとして(しかしホロタイプとは別個に)系統解析にかけている。結果はパキリノサウルス属と2つのアケロウサウルス・ホーナーリとで多系統となっており、結局のところ色々と微妙な話である。アケロウサウルスの成体の頭骨はホロタイプしか知られておらず、個体変異やらなんやらを見定めるのは難しい。)

 

 命名から70年を経た現在、パキリノサウルス属は非常ににぎやかな顔ぶれとなっている。カンパニアン後期のP.ラクスタイ(約7380万年前)、カンパニアン後期~マーストリヒチアン初頭(約7370万~7170万年前)のP.カナデンシス、マーストリヒチアン前期(絶対年代不詳だが恐らく最新のパキリノサウルス属)のP.ペロールムと、200万年以上に渡ってララミディア北部にのさばっていた格好になるのだ。ダイナソー・パーク層のパキリノサウルス類はざっと7580万年前ごろといったところで、これがもしパキリノサウルス属であれば400万年以上は永らえた(ケラトプス科の属は100万年も続けば相当長持ちの部類に入る。進化速度がやたら早いのだ)計算になる(“P.ヤンギ”の生息年代は7180万年前ごろのようで、P.カナデンシスと共存していたようである)。パキリノサウルスはアルバータ州南部からアラスカ北部まで分布を広げたが、すでにその時ほかのセントロサウルス類の姿はなかった。カンパニアン前期から栄えたセントロサウルス類の、最後の輝きとなったのがパキリノサウルスだったらしいのだ。
 様々なパキリノサウルス属がララミディア北部に息づく傍らで、カスモサウルス類もまた様々な種が入れ代わり立ち代わりで駆け抜けていった。アリノケラトプスとアンキケラトプスが過ぎ去ったあとに現れたのはトリケラトプス族だったが、それをパキリノサウルスが見届けることはなかった。大槌が振られることはもうなかったのである。

震える山

↑Skeletal reconstructions of Diplodocus spp.

Top to bottom, Diplodocus hallorum USNM 10865, D. hallorum NMMNH P-3690 and P-25079 (holotype), D. carnegii CM 84 (holotype). Scale bar is 1m.

 

 筆者が生まれる少し前、つまり1990年代初頭の日本といえば、バブルとその残滓の呼び込んだ恐竜展の跋扈する時代であった。ハリウッドからジュラシック・パーク映画化の報も伝わる中にあって、空前の恐竜ブームに浮かされていたのである。
 このあたりの空気については生殖細胞にすらなっていなかった筆者は語るべくもないのだが、そうした熱の中にあってひときわ過熱していたであろう話題が「最大の恐竜」であった。スーパーサウルス、ウルトラサウロス、(生痕属だが)ブレヴィパロプスと様々な「ブラキオサウルスより大きい」竜脚類がしのぎを削る中、颯爽と「全身骨格」を引っ提げてやってきたのがセイスモサウルス――「アースシェイカー」だったのである。
 セイスモサウルスはやがて恐竜博2002――日本における90年代の恐竜ブームの総決算的イベントの目玉として来日し、そしてそこでその生涯を再び閉じることになった。狂瀾の時代の幕引きにはふさわしかったであろう顛末だったが、今一度ここで振り返りたい。あの時代に、そしてその反動として過ぎたとさえ言えるこの20年に決着を付けなければ、我々はもはや一歩も前へ進めないのだ。

 

 ニューメキシコ中央部の高原地帯にはアナサジ(言うまでもなくアナサジサウルスはこれにちなんでいる)――古代プエブロ人の描いた岩絵が数多く残されており、観光客を引き寄せ続けている。アルバカーキからざっと100km離れたくんだりへと繰り出していたアーサーとジャンの二人組も、典型的な岩絵目当てのハイカーであった。
 この一帯はネズの木とピニョン松がまばらに生えた丘が点在する荒野ではあったが、ウラン探鉱のためにところどころ切通が作られており、車のアクセスはそう悪い土地ではなかった。二人は車から降りて別々のルートを辿って岩絵探しを始め、そしてアーサーが出くわしたのは化石――砂岩でできた崖のてっぺん近くを真一文字に横切る背骨の列だった。
 アーサーは音楽教師で化石はさっぱりだったが、薬剤師のジャンはもともと地質学者であった。そういうわけでアーサーはとりあえずジャンを呼び、そしてジャンはこれが恐竜であるらしいことを見抜いたのである。ジャンはこの時、堆積物の様子からしてこの砂岩がモリソン層に属することに気付いてすらいた。ジャンの知る限り、この一帯のモリソン層で恐竜が出たという話は全くなかった。
 そこから30mばかし行ったところに岩絵はあったのだが、それはさておき次の休日に二人はハイキング仲間をもう二人――ビルとフランクを連れて化石の場所へ戻ってきた。砂岩から突き出した尾椎はここで初めてフランクのカメラに収まり、そして連邦土地管理局(BLM)――この一帯を自然公園として管理していた――へ写真が持ち込まれたのである。
 土地管理局はこれを竜脚類と見て取ったが、発掘には及び腰だった。壮絶な硬さの砂岩に化石が埋まっており、手ずからの道具ではどうしようもないのは誰の目にも明らかだったのである。予算は心もとなく、なにより現場――国立公園の中であることからして発破を使う大規模な発掘は厳しそうであった。
 かくしてタレコミは不発に終わったが、一行は今後のことを考えて問題の化石をその辺の岩くずで覆い隠しておくことにした。こうしておけば風化をある程度は防げるし、盗掘者の目からも遠ざけることができるはずだった。


 それから6年が過ぎた1985年、ニューメキシコでは州立博物館――ニューメキシコ自然史科学博物館(NMMNH)の建設が進んでいた。翌86年の開館へ向けてスタッフは大わらわであり、準備室から携わって3年目となるジレットもそうであった。毎週のように、州内における恐竜発見を知らせる電話がかかってくるのである。フランクが6年前の発見について連絡してきたのもその時であった。
 懐疑的なジレット――彼の知る限り、ニューメキシコ州内におけるモリソン層の恐竜化石はごくわずかしか知られておらず、それも東部に限られていた――に対し、フランクはジャンの意見を述べ、BLMでも恐竜化石とみなされていたことを伝えて食い下がった。フランクは翌日、6年前の写真を携えて博物館を訪れ、現地までの案内を申し出た。
 写真を見てさすがのジレットも息をのみ、そしてフランクからの言葉にうろたえた。2週間前にローカルニュースでこの化石について放映されているというのである。フランクは現場が荒らされることについて懸念しており、フランクから話を聞いてしまった以上それはジレットも同じであった。事態は切迫していたのである。
 かくしてその翌日、ジレットはフランクの車に乗って現地を訪れることにした。谷を下る車窓の景色は白亜系のマンコスMancos頁岩、そして上部ジュラ系のモリソン層へと移り変わっていた――フランクの話は、そしてジャンの6年前の見立ては正しかったのである。フランクが岩くずをどかすと、一列につながった椎骨――その大きさに注意が向いたのは後になってからだった――が、6年前と変わらぬ姿を現した。ニューメキシコで知られていたジュラ紀後期の竜脚類といえばカマラサウルスが関の山であり、博物館では展示用に骨格を組み立てていたりもしたのだが、明らかにこの化石はそうではなかった。もはや発掘する以外の選択肢はあり得なかったのである。
 お役所仕事で知られる土地管理局からの発掘許可は、奇跡的にたった2週間で下り、ジレットの目論見通り、父の日の休日――人員の確保が容易である――に発掘ができる算段となった。博物館の開館準備は佳境に入っており、すわ新たな目玉展示の出現かという状況に学芸員がかき集められた。ジレットはさらにボランティアも動員し、そして最初の発見者たる4人も集まった。土地管理局からも有志が参加し、そして発破なしの人海戦術で発掘が始まったのである。
 土曜日の早朝から発掘が始まり、恐ろしく硬い砂岩に難儀しながらも日曜日の午後にはどうにか8つの尾椎――露出していた全てをジャケットに包み、運び出すところまでたどり着いた。状況からして「続き」がその場に残されていることはほぼ間違いなかったが、最初の発掘としては上々の成果だった。


 かくして採集された尾椎にはNMMNH P-3690のナンバーが与えられ、ついでにメディア向けに“サム”という愛称も付けられることになった。今後の発掘が長期戦になることは早晩明らかだったし、何かとんでもないものが埋まっているという確信もあったのである。
 開館を控えたNMMNHの学芸員はロス・アラモス研究所で招待講演をする機会があり、ジレットはその際に聴衆――冷戦のただ中にロス・アラモス研究所で働く畑違いの研究者たちに思い切ってアドバイスを請うた。ただでさえ巨大な“サム”の(推定される)掘り残しは凄まじく硬い砂岩――化石と色で区別するのが困難――に埋まっているはずで、しかも自然公園という土地柄もあって発掘には様々な制限が伴っていた。重機も発破も使えないなら人海戦術しかないのだが、(何年かかるかわからないが)発掘終了後は原状復帰が条件とあっては、やみくもに掘り返すことも不可能だったのである。一人か二人から救いの手が挙がればいいと思っていたジレットは、挙手の波に飲み込まれた。1987年、リモートセンシングを駆使した空前(そして絶後だった)のハイテク発掘がここに始まったのである。
 多数のボランティアと探査装置の専門家を動員して行われた発掘は1992年までかかり、四肢を除くそれなりの部位が発掘された。肩から尾の前半にかけて一通りのパーツが揃い、いくらかの頸椎や尾の中ほど、そして胃石も採集されたかに思われた。様々な分野――考古学でもそれなりに実績を上げていたリモートセンシングは、ここでニューメキシコの荒野と古生物学の洗礼を浴びた――地震波トモグラフィーはそれなりにうまくいったが、地中レーダーと磁気異常探査はさっぱりだった。シンチレーションカウンターは深さ数cmまでの範囲のガンマ線を拾うのがやっとで、この発掘では役に立たなかった(モリソン層の恐竜化石はたいがいウランを含んでおり、役に立ったケースもあるにはある)。ハイテク機器が役に立っても立たなくても発掘のほとんどの過程は(重機を入れることのできない現場だったのでなおのこと)人力であり、それは常に同じことであった。

 

(発掘中にふざけて針金2本でダウンジングを行ったところ、頸椎らしい骨が発見されるという事件があったという。1989年のクリスマスには後述の座骨で祭壇を作って“the great god of dinosaur fossils”(正気度のダイスロールは発生しないはずだ、たぶん)に全身骨格の発見を願う一幕もあり、まあそういうものである(ジレットの本写真がある)。座骨に開けたドリル孔に蝋燭をぶっ立てたのが“the great god of dinosaur fossils”の怒りに触れたような気がしなくもない。)

 

 発掘はまだ終わっていなかったが、数度の学会発表を経た1991年の12月(論文の投稿は1990年の3月で、査読を経た受理は1991の1月であった。JVPは人気の雑誌ではあり、無事に査読をクリアしても出版に至るまでだいぶ待ち時間がかかるのはこの頃かららしい)には、ジレットによって“サム”に正式な名称――学名が与えられた。セイスモサウルス・ホーリイSeismosaurus halli――属名は「大地を揺るがす」に足る“サム”の巨大さと地震波探査とのダブルミーニング(正式命名以前から、その巨大さでもって通称として使われてはいた)であり、種小名はかのゴーストランチの所有者であったホール夫妻への献名である。

 

(種小名は複数名への献名であり、例によってオルシェフスキーによって容赦なくツッコミが入ったのちジレットが自ら訂正することとなった。こうした「訂正」が正式に認められることはあまりなかったりもするのだが、このケースではジレット本人による訂正もあってか、ホールオルムhallorumがあらゆる文献で使われるようになって久しい。)

 

 原記載の時点で、セイスモサウルスの標徴――独自性を担保する特徴は、もっぱら恥骨と座骨、そして「中位」尾椎――1990年初頭の時点でクリーニングが終わっていた部位――のプロポーションに基づいていた。遠位端がフック状になった座骨――化学分析のためにサンプルコアが抜き取られた――の形態は他の竜脚類では(今日でも)まったく知られていなかったが、一方でジレット本人は特にこの特徴を重視することはなかった。この時点でクリーニングの終わった要素についてはそれぞれごとの寸法がディプロドクスやアパトサウルスと比較され、比例計算によってセイスモサウルスの全長は39~52mと推定されたのである。スーパーサウルスの全長が43mと推定されていたこの時代にあって、セイスモサウルスは抜きんでて巨大であるように思われた。かくして、セイスモサウルスは史上最大の恐竜として90年代を席巻することになったのである。


 1992年で発掘は切り上げられたが、いつ果てるとも知れないクリーニング地獄はとっくに始まっていた。砂岩は部分的にコンクリーション化しており、文字通りコンクリートのような硬さになっていたのである。しかも砂岩と化石の色は可視光では全く区別がつかず、質感さえほぼ同じだった。紫外線下ではそれなりに区別がついたが、とはいえクリーニングの困難さを打破できるものでもなかった。
 セイスモサウルスの復元骨格を制作し日本で展示するという計画は92年時点で動いていたらしい――が、これがすぐに陽の目を見ることはなかった。とはいえ、ボランティアの手によってじわじわ進むクリーニングの裏で計画は進み、ついに2000年からセイスモサウルスの復元骨格の制作が始まることとなったのである。NMMNHの監督の下でPAST(Prehistoric Animal Structures, Inc.)によって制作が進められる一方、日本における展示会――恐竜博2002を取り仕切るのはオーロラ・オーバル――日本における1990年代の恐竜ブームの象徴たる恐竜学最前線の精神的後継紙であるディノプレスを発行していた――であった。恐竜学最前線は廃刊して久しかったが、1990年代の恐竜ブームの総仕上げがついに始まろうとしていたのである。
 復元骨格を制作する以上は(最低でも片側のパーツだけは)形態が明確になるまでクリーニングしておく必要があった。キャストが作れずとも、実物の計測値に基づく模型を作れる状態には持っていかなければならなかったのである。関節した胴椎や仙椎-腸骨、近位尾椎のブロックを単離した状態までクリーニングするのは早々に断念され、概形がわかる状態まで進んだところで復元骨格用のアーティファクトの制作へと移行することとなった。
 研究目的が第一義ではなかったとはいえ、この突貫クリーニングでセイスモサウルスの実態は急速に明るみに出つつあった。それらしくサイズを合わせたアーティファクト――ディプロドクス準拠――を組み合わせることで、セイスモサウルスの全長は見る間に縮小していったのである。ジレットがセイスモサウルスの頸椎と考えていた4つのひどく侵食された破片(マーク・ハレットはジレットの相当な希望的観測に基づき、セイスモサウルスの首をバロサウルスのような長さで描いていた)のうちの2つは前方胴椎、1つは化石ですらなく、辛うじて頸椎のように思われた破片でさえ事実上何の情報も(復元の助けとなる寸法さえも)もたらさないものであった。胴椎のブロックのざっくりした計測値がディプロドクス・カーネギーイの仙前椎のデータに代入され、できあがったアーティファクトを組み込んでみれば、単なる巨大なディプロドクスめいた恐竜の姿がそこにあったのである。ジレットによる原記載の推定値の下限さえ下回ったそれは、とはいえ妥当な見てくれのように思われた。

 

(セイスモサウルスのマウントを制作する上で特に問題になったのは、「中位」以降の尾椎であった。セイスモサウルスの胴体(第3胴椎)~腰~近位尾椎(第2~第8)はほぼ関節状態で発見された(第1尾椎は採集されなかったが、これは単に発掘中に破壊されただけなのかもしれない)が、それより後方の尾椎は切れ切れに関節した状態で発見され、その厳密な位置関係は不明瞭だったのである。原記載の時点ではこうした尾椎が6点確認されており、ジレットは第13、第20、第24,第25、第26、第27?に割り当てていた。最終的に「中位」以降の尾椎はさらに3点が採集された(計9点)のだが、恐竜博2002用の復元骨格の制作にあたっては(図録の骨格図では第8尾椎と「中位」以降のうちで最も近位側のものが塗り忘れられたりもしているのだが)、ジレットが第20としたものが第17、第24としたものが第21といった具合に、割り当ては全体としてジレットの推定よりも付け根側にシフトさせられた。もっとも、ジレットが第27?としていた尾椎は第26に割り当てられるに留まり、保存されていた範囲に関しての見方は恐竜博2002で特段変化したわけでもなかったのである。つまり、恐竜博2002においてセイスモサウルスの全長が35mまで「縮んだ」のは、首と尾の後半部の推定長さが大幅に下方修正されたことが主因であった。そして本当の問題はここからだったのである。)

 

 かくして公称35mの超巨大恐竜として幕張メッセで組み上げられたセイスモサウルスだったが、その足元にはクリーニングラボ――各地から集められた学生ボランティアがセイスモサウルスの仙椎-腸骨ブロック(先述の通り、早期のフルクリーニングを断念した部位)の実演クリーニングを行っていた――を従えていた。セイスモサウルスのお披露目たる会期中にここで起きた事件は、究極的にはその運命を決定付けるものであった。
 セイスモサウルスの復元骨格の腸骨後端には、奇妙な突起――他の竜脚類には見られない――が造型されていた。復元骨格用の実寸模型を製作する時点で、腸骨の後端部にはなにがしかの突出部の折れたような構造が確認されていたため、それを踏まえてのことであった。クリーニングが全く追いついていなかった(がために当初BYUでクリーニングが行われていた要素でもあった;恐竜学最前線①参照)がゆえにそれまでの記載では全く言及されていなかった特徴であったが、であればセイスモサウルスの独自性を補強する重要な特徴になり得るものだったのである。
 搬入された腸骨のブロックのクリーニングは当然中途半端であった。概形は見えているようであったが、いまだ腸骨の表面は露出していない――砂岩のコンクリーション(骨片すら混じっていた)に薄く覆われていたままだったのである。そしてクリーニングが進むにつれて明らかになったのは、腸骨後端部は完全に破損しており、縁辺は全く残っていなかったという事実であった。「突起の基部」は単に破断面を覆うコンクリーションに過ぎなかったのである。復元骨格における腸骨後端の突起には、もはや何の根拠もなかった。


 恐竜博2002で展示された復元骨格は、開館を控えた北九州市立自然史・歴史博物館へと送られ、そこを終の棲家とした。とはいえNMMNHも自館にセイスモサウルスを展示しないはずはなく、かくしてマウントの第2号が制作に入ったのである。NMMNHの展示計画では(スペースの関係上、伸ばしたままでは置けないので)相当にダイナミックなポーズを取らせたうえでサウロファガナクスのマウントと対決させることになっていたのだが、ルーカスはここでかねてよりの懸念について再確認してみることにした。1号を制作する際に問題となった、「中位」以降の尾椎のポジションについてもう一度検討しようというのである。
 ルーカスが漠然と抱いていた嫌な予感は的中した。原記載のポジション推定は言うまでもなかったが、1号を制作した時の推定さえ相当な問題があったのである。ジレットが第20とみなしたものは1号の制作時には第17とされたが、これはさらにずっと近位側――第13に置くのが妥当らしかった。結局のところ「中位」以降の尾椎はひとつながりのものであり、原記載で第27?とされたのちマウント1号機で第26に置かれた尾椎(一連の尾椎の中で最後部のものであることに違いはなかった)は第19と判断されたのである。マウント2号の全長は1号からさらに縮み、33mとされたのだった。
 恐竜博2002で展示されていた実骨の要素も、クリーニングラボの一件のこともあってNMMNHで再クリーニングが進められていた。復元骨格のために突貫工事で行われたクリーニングは、やはり相当に不完全だったのである。優先クリーニングの対象から外されていた部位(左右の要素が揃っていた場合、より完全な側だけがクリーニングに回されていた)にも手が付けられたのだが、案の定問題が噴出した。左の座骨にあった遠位端の「フック」――原記載では特に重視されなかったものの、今やセイスモサウルスにみられる唯一の独自性となっていた――が、ほったらかされていた右の座骨には全く存在しなかったのである。もはやセイスモサウルス・ホールオルムは「ちょっとデカいディプロドクス」でしかなく、2004年のGSAの席上でルーカスはこれをディプロドクス属に――ディプロドクス・ホールオルムとすることを提案したのだった。そしてディプロドクス・ホールオルムのホロタイプには新たに不完全な大腿骨NMMNH P-25079――やや離れた場所から見つかったうえに、妙に小さいように思われたことから、セイスモサウルスのホロタイプとは別個体と見なされていた――が追加された。マウントの大腿骨は長さ1.8mに造型されていたが、NMMNH P-25079はどう復元しても1.7m弱にしかならないものであった。


 胴椎のブロックや近位尾椎のブロックは、神経弓が終わった段階でクリーニングが打ち切られた。ディプロドクス類の分類で重要となる特徴を観察するには十分であり、椎体を完全に露出させるのはあまりにも困難だったのである。そして、ルーカスが2004年の発表で病変の可能性を示唆していた左座骨の「フック」は病変でさえないことが明らかになった。棘突起の先端と思しき破片がコンクリーションで座骨の先端に結合していただけだったのである。
 2006年になり、ルーカスらはGSAでの発表をまとめた論文()を出版した。NMMNH P-3690(とNMMNH P-25079)の実態がここでようやく示され、ここに正式な形でセイスモサウルス・ホールオルムはディプロドクス・ホールオルムとなったのである。
 かくしてセイスモサウルスはディプロドクス属の独立種として生き延びることになった――かはまだわからなかった。ルーカスらはディプロドクス属の属内分類が相当な問題を抱えていることを指摘するとともに、自ら述べたディプロドクス・ホールオルムの独自性らしいもの(マッシブな腰帯と「パドル状」に広がった血道弓の遠位端)が単に個体変異でしかない可能性をも指摘したのである。だとすれば、ディプロドクス・ホールオルムはディプロドクス・ロングス――スミソニアンのマウントでよく知られたディプロドクス属の模式種――の大型個体でしかなさそうだった。
 ルーカスらの残した爆弾は、セイスモサウルスとディプロドクスを心中させかねないものでもあった。ディプロドクス属全体の分類学的な再検討の必要性についての指摘は至極真っ当で、そもそもディプロドクス属の模式種たるディプロドクス・ロングスのホロタイプが相当に怪しげだったのである(ホロタイプYPM 1920は尾椎2個と血道弓ひとつだけであった;同じ発掘現場からは完全な頭骨USNM 2672やその他のパーツも知られていたが、これがホロタイプと同じ個体である保証は何もなかった)。2007年に出版されたスーパーサウルス“ジンボ”の記載では特に議論することもなく“セイスモサウルス”はディプロドクス・ロングスとして扱われた(ついでに全長も30mに下方修正された)が、こうした事情のために特に意義のある話とはみなされなかった。開け放たれたパンドラの箱の前で些末の話をしても、何の意味もなかったのである。

 

(分類の話で言えば、“セイスモサウルス”よりもスーパーサウルスの方がよほど問題をはらんでいる。ホロタイプがどの標本なのかさえはっきりせず(どの標本だったとしても特に独自性らしいものはみられない)、しかも“ジンボ”とホロタイプは重複する部位がないのである。スーパーサウルスのシノニムとされてきたディスティロサウルスのほうがよほど独自性を保持しているようでもあり、このあたりは今後大きく動くことだろう。)


 2015年に出版された大著――マウントされたものも含め、目ぼしいディプロドクス科の標本に総当たりして分類学的再検討を行った論文で、ルーカスらの残した爆弾は大爆発を起こした。大著ゆえの粗さも抱えた解析ではあったが、とはいえディプロドクス科の抱えていた様々な分類学的な問題に光が当てられ、個体レベルでの系統解析も踏まえて大きく再編されたのである。
 YPM 1920――ディプロドクス・ロングスの模式種のホロタイプであるそれは、結局のところ何の独自性も確認することができなかった。セイスモサウルス云々を抜きにしてそれまでディプロドクス・ロングスとして扱われてきたいくつかの部分骨格――いずれも不完全ではあったが保存は良好だった――とYPM 1920が別の種であると言うことはできなかったが、同じ種とする根拠も何もなかったのである。USNM 10865をはじめとする残された部分骨格たちと“セイスモサウルス”・ホールオルムは(ルーカスらが指摘したように)同じ種と見て間違いなさそうで、そしてもうひとつのディプロドクス――ディプロドクスの「顔」として世界中で君臨してきたディプロドクス・カーネギーイと“セイスモサウルス”・ホールオルムは姉妹群をなし、やはり同属と見てよさそうであった。
 ここにディプロドクス属内のクーデターが勃発した。模式種をディプロドクス・ロングス――いまや疑問名であった――から、かなり完全な骨格(しかも詳細に記載されている)に基づくディプロドクス・カーネギーイへと移すことでディプロドクス属の実用性を守り、“セイスモサウルス”はホロタイプ以外の「元」ディプロドクス・ロングスたちを従えたうえでディプロドクス・ホールオルムとして改めて独自性を確認されたのである。
 かくしてあるべきものをようやく手にしたディプロドクス・ホールオルムだが、そこに“セイスモサウルス”の――狂瀾の90年代が生んだ超巨大恐竜の面影はない。全長30mほどの、サイズ相応にがっしりとした体形とはいえ、依然として素晴らしく華奢で優雅で慎ましげな恐竜がそこにいるだけである。オーロラ・オーバルもPASTもとうの昔に消え失せたが、残された2体の復元骨格――全長35mの1号と全長33mの2号はしかし、座骨の「フック」を高々と掲げ、90年代の熱を今に伝えている。