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恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

戦車トカゲのみるゆめ

↑Skeletal reconstruction of cf. Denversaurus schlessmani

 “Tank” FPDM-V9673 (formerly HMNS 11). Scale bar is 1m.
 Note: recovered postpectoral osteoderms are not illustrated.

 

 「デンヴァーサウルス」という名前を覚えたのはいつのことだったろう。豊橋市立自然史博物館へ贈られたホロタイプのキャストや、かつての林原が購入した“タンク”の愛称のついた部分骨格の存在によって日本とも縁深い恐竜であり、読者の方はどこかしらで一度は目にしたことがあるだろう。デンヴァーサウルス・シュレスマニ、あるいはエドモントニアの一種として扱われるこの恐竜はその実、相当に実態の不明瞭なものでもある。

 パラエオスキンクスPalaeoscincus――なにがしかのノドサウルス類の歯の発見で始まった北米産鎧竜類の研究だが、しばらくのうちはまとまった骨格要素が見つかることはなかった。歯や単離した皮骨の発見が精々であり、それらが同じグループの恐竜に由来するとさえ思われていなかったのである。
 ララミー層あるいは“ケラトプス層”では、ハッチャーの時代からそうした化石の産出が知られていたが、それらの化石が妥当な同定を受けるまでには程遠い状態であった。一帯ではなにかしらの剣竜の類縁――角竜の化石がよく知られており、直接的な証拠は何もなかったものの、この一帯で見つかる単離した皮骨(様々な鎧竜のものに加え、パキケファロサウルス類の頭骨に見られるスパイクのクラスターも含まれていた)が角竜のものであることは間違いないように思われていたのである。こうした状況にあって、ハッチャーがランス層から持ち帰ったスパイクUSNM 5793が(採集者の当人によって)角竜、おそらくはトリケラトプスの尾の基部に2列で並ぶものと考えられたのは無理もないことであった。
 とはいえ、1910年代になるとこうした見方は大きく変わるようになった。カナダやアメリカ――カンザス周辺から様々な「装甲恐竜」が発見されるようになりはじめ、「角竜の鎧」がそうした恐竜の皮骨と区別できないらしいことが明らかになったのである。1914年にスミソニアンの「装甲恐竜」についてのモノグラフをまとめたギルモアは、USNM 5793がホプリトサウルスHoplitosaurus――もともとステゴサウルス類とみなされていたが、ギルモアによる再記載以降はもっぱらポラカントゥス類とされている――のスパイクとよく似ていることを見て取った。ギルモアはこのほかにもハッチャー採集の「トリケラトプスの鎧」が鎧竜のものであるらしいことを見抜いたのだった。


  このあたりの時期から加速度的に北米産の鎧竜に関する理解が進んだ。全体像がはっきりしないのは相変わらずであったが、それでも関節のつながった部分骨格――しばしば鎧を(おおむね)生前の位置に留めていた――がカナダで複数発見されるようになり、「鎧」の実態が明らかになりつつあったのである。
 とりわけ大きな発見がレッド・ディアー川――ベリー・リバー層(現ダイナソー・パーク層)であった。第二次化石戦争もほぼ終わっていた1915年、すでにカナダ地質調査所の調査隊から離れていたリーヴァイ・スターンバーグによって発見されたその骨格――AMNHが入手した――は、ほぼ完全な状態で保存された鎧竜の前半身であった。この標本AMNH 5665――その壮絶な装甲っぷりにマシューは「動物界の超ド級戦艦」と呼んだ――はラングらAMNHのキュレーターの根性で三次元的にクリーニングされ、今日まで至るAMNHの看板展示のひとつに収まったのである。
 頭骨の保存はあまりよくはなかったのだが、とはいえ歯はいくらか保存されており、マシューはAMNH 5665をパラエオスキンクスと同定した。マシューとブラウンはこれをパラエオスキンクスの新種として記載するつもりであったのだが、どういうわけかとうとう記載せずじまいに終わった。マシューによる(属止まりの)AMNH 5665の同定はギルモアら後続に追認され、しばらくの間(1919年にパノプロサウルスが、1928年にはエドモントニアが命名されてはいたのだが)アルバータやモンタナの上部白亜系から見つかるノドサウルス類はざっくりとパラエオスキンクス属にまとめられるようになったのである。

 

1930年にギルモアはモンタナのトゥー・メディスン層産の標本USNM 11868を記載するにあたり、マシューによる1922年のAMNH 5665の「紹介」に大きな影響を受けた。ギルモアはパラエオスキンクス・コスタトゥス(模式種)のホロタイプ(ジュディス・リバー層産)とUSNM 11868の歯の形態が異なることからこれをパラエオスキンクス・ルゴシデンスと命名し、1928年に命名されたばかりであったエドモントニア・ロンギケプスもパラエオスキンクス属に過ぎない可能性をも指摘したのである。ギルモアはこの時AMNH 5665がパラエオスキンクス・コスタトゥスであるという前提の下で自らの議論を展開していたのだが、実のところマシューはAMNH 5665については上述の通り(歯の形態に基づいて)パラエオスキンクス属の新種と考えていた。やがてパラエオスキンクス・ルゴシデンスはエドモントニア属に移され(後述)、AMNH 5665も結局エドモントニア・ルゴシデンスとされて今日に至っている。)

 


 こうした状況が整理されたのは1940年になってからで、ラッセル(ロリスの方)によってこれらのノドサウルス類は2属3種――パノプロサウルス・ミルスPanoplosaurus mirusエドモントニア・ロンギケプスEdmontonia longicepsそしてエドモントニア・ルゴシデンスE. rugosidens(上述の通り、原記載ではパラエオスキンクス属だった)へとまとめられた。このコンセプトは(紆余曲折ありつつも)究極的には現代まで踏襲されるもので、パラエオスキンクスは疑問名として扱われるようになったのである。
 その後表立った動きのない状況が長く続いた(1970年代後半に鎧竜の分類の大改訂に取り組んだクームズがついでにエドモントニア属をパノプロサウルス属のシノニムとしたくらいで、種レベルの話は特に何もなかった)のだが、1986年になり、カーペンターは北米西部における“ランス期”のノドサウルス類(カーペンター自身が一時パラエオスキンクスと呼んでいた一連の標本)をまとめて記載した。恐竜の絶滅に関する議論が盛んになりつつある中で当然ノドサウルス類の絶滅した時期も問題になったのだが、そのあたりをまともに取り扱った研究が何もなかったのである。
 先述のスパイクUSNM 5793はここでやっとエドモントニア属のスパイクであるとされたが、この時カーペンターはサウスダコタのヘル・クリーク層から産出したほぼ完全な頭蓋の記載も行った。この標本DMNH 468は上下方向からひどく押しつぶされていた(鎧竜の頭骨は程度の差はあれだいたい上下方向に潰れているものでもある)が、もろもろの特徴からカーペンターはこれをパノプロサウルス属ではなくエドモントニア属とした――が、種については特に言及することはなかった。カーペンターはランス期のノドサウルス類の化石記録が白亜紀の最末期にまでは到達していない(ヘル・クリーク層やランス層の上部では産出していない)ことを指摘し、恐竜の「緩やかな絶滅」の証拠のひとつとしたのだった。
 かくして種不定のまま記載されたDMNH 468に目を付けたのはバッカーであった。1988年にバッカーはノドサウルス「上科」に関する総説を出版し、その中でパノプロサウルス属とエドモントニア属をやたら細分化したのである。エドモントニア・ルゴシデンスを新亜属チャズスターンバーギアChassternbergiaとし、そしてバッカーはDMNH 468を新属新種のエドモントニア「科」、デンヴァーサウルス・シュレスマニDenversaurus schlessmaniとしたのであった。
 バッカーのこの細分化の受けは極めて悪かった(例によってオルシェフスキーは別だったが)。事実上、標本1つにつき(命名の有無はさておき)1つの種を設けたような状況だったのである。他のエドモントニア類よりもずっと新しいDMNH 468に学名を与えたという意義(だけ)はあったが、その程度であった(そしてノドサウルス上科がアンキロサウルス科よりもステゴサウルス類に近縁であるとするバッカーの意見はその後特に顧みられなかった)。カーペンターは1990年の論文でこのあたりをばっさり切り捨て(同時期にクームズも同様の意見に達していた)、改めてロリス・ラッセルによる分類コンセプトを提示するとともに、DMNH 468が(より時代の近いエドモントニア・ロンギケプスではなく)エドモントニア・ルゴシデンスと最もよく似ていることを指摘した。バッカー言うところのデンヴァーサウルスの特徴のうちのいくつかはアーティファクトめいていた(バッカーはDMNH 468の頭骨復元図に基づいて論じている部分が少なからずあり、一方でバッカーの復元は相当に客観性を欠いていた)のである。一方で変形のために形態のはっきりしない部分もあることから、カーペンターはやはりDMNH 468をエドモントニアの一種としたのだった。

 

(カーペンターによる1990年の論文は、AMNH 5665の骨学的記載としてはいまだにほぼ唯一のものとなっている。小柄なカーペンターをしてマウントの下に潜り込んで椎骨の観察を行うというだいぶ無茶な作業によるものであった。)

 そんなわけでランス期のエドモントニア類の分類については判然としないままだったのだが、その間に大きな動きがあった。1988年、ワイオミングのランス層で大きな鎧竜の部分骨格――“タンク”の愛称で呼ばれるそれが発見されたのである。“タンク”を発見したのは業者であり、化石は一通りのプレパレーション(復元骨格まで制作された)を経て日本の企業――林原へと渡った。

 

(このあたりの経緯はつまびらかではないのだが、“タンク”の復元骨格は2タイプある。林原(→福井)の所蔵であったキャストは最初に作られたタイプであるのだが、これと同型のもの(に一体成型の「甲羅」を加えたもの)がトリーボールドの私設博物館で展示されている。福井県博で常設展示されている実物のマウントも、アーティファクト部分に関してはこれと全く同型である。BHIは林原からキャストの制作・販売権を取得し、アーティファクトをリメイクした(後述)バージョンを販売しているが、初期のタイプを制作していた業者は(トリーボールドの可能性はあるが)はっきりしない。)

 

 かくして“タンク”の形態やら分類やらは当初(カーペンターやラーソンらによる)「目撃談」頼りではあったのだが、頭蓋と尾を除く骨格の相当な部位を保存しており、かつ前方へ向けられた「二重スパイク」――パノプロサウルスではみられない――も残されているらしいとの話であった。つまるところこれは(少なくともカーペンター言うところの)エドモントニア属であるらしく、(直接比較はできないものの)産地からしてヘル・クリーク産の「エドモントニアの一種」と同じ種であるように思われたのである。
 はるばる岡山へと渡った“タンク”はそこでそれなりの研究材料としての扱いを受けた。頭蓋はごく断片的だったものの、明瞭な分岐のある「二重スパイク」の存在からエドモントニア・ルゴシデンスと同定され(言うまでもなくエドモントニア・ロンギケプスも二重スパイクを持っており、このあたりの判断は相当に恣意的ではある)、予察的な機能形態学的、古病理学的な解析をも受けたのである。林原自然科学博物館が設置したパナソニックセンターで“タンク”のキャストが展示されるようになったが、一方で配列のはっきりしなかった方から後ろの皮骨については(相当な数が採集されていたとはいえ)マウントされないままであった。


 さて、林原から“タンク”のキャストの販売権を取得したBHIであったが、それとは別に手元にヘル・クリーク層産のノドサウルス類の頭骨が2つ――頭蓋天井といくらかの皮骨を含むBHI 6225左右からひどく圧縮されているものの完全な頭骨BHI 6332があった。どちらもデンヴァーサウルス・シュレスマニのように思われ、産出層からすれば“タンク”と同種のようにも思われたのである(“タンク”の頭蓋はごく断片的であり、いずれの頭骨とも直接比較できない点に注意)。これらの頭骨と“タンク”に据えられていた出来のよくないアーティファクトとの違いは歴然としていた。BHI 6332は完全な頭蓋ではあったが(ノドサウルス類の頭骨としては珍しく)左右方向からぺしゃんこになっていたため、BHI 6225のキャストに欠損部を継ぎ足したものが新たに量産された“タンク”に据えられた。仕上げに手足のアーティファクトもブラッシュアップされた(原型はほぼそのままだったが)“タンク”は、かくして“Denversaurus (Edmontonia) cf. schlessmani”の「商品名」で、デンヴァーサウルスの代表格のごとく世界へ出荷されていったのである。一方で、林原から特別展へと貸し出される“タンク”のキャストはあくまでも「エドモントサウルスの一種」あるいは「エドモントニア・ルゴシデンス」止まりのままであった。

 

(実のところBHI 6225は“タンク”よりもやや大きな個体の頭蓋天井であり、従ってBHIの“タンク”は本来よりも大きな頭蓋を持つものとしてマウントされている(適切なアーティファクトとは言い難いが、サイズ感については当然オリジナルの“タンク”の方が正確である)。BHIは“タンク”のハーフリングをオリジナルのマウントとは違ったパターンで組み立てている(オリジナルの二重スパイクを第2ハーフリングへ移し、その後ろにあったスパイクをそのまま第3ハーフリング(二重スパイクの位置)へスライドさせている)が、これは明らかな誤りで、林原-FPDMのマウントの方が正確である。)

 


 デンヴァーサウルスの名を冠した「商品」が各地へ広がる一方(なにしろエドモントニア類もといパノプロサウルス類の復元骨格として流通しているのは“タンク”が唯一無二であった)、DMNH 468の再検討はなかなか進まなかった。研究に相当な支障をきたすレベルで変形しているのは間違いなかったし、比較されるべきパノプロサウルスやエドモントニアのレビューさえ1990年が最後だったのである。
 このあたりの問題――パノプロサウルス亜科の再評価に取り組んだのはバーンズであり、博士課程の研究においてパノプロサウルスやエドモントニア各種、そしてBHIの「デンヴァーサウルス」まで広範な再検討が行われた。DMNH 468やBHI 6225にはパノプロサウルスやエドモントニア2種の特徴がモザイク的にみられた一方で固有の特徴らしいものは見出されなかったが、それら3種と全体の形態が一致することもなかった。そして系統解析の結果この2標本は姉妹群をなした一方、エドモントニアやパノプロサウルスの標本群とは独立した枝をなした(パノプロサウルスとそれらが姉妹群をなし、エドモントニア属はその基盤の側系統をなした)のである。バーンズはここに(いまだ博論止まりではあるのだが)デンヴァーサウルス・シュレスマニを復活させたのである(左右方向の変形がひどかったために頭蓋天井の比較ができなかったBHI 6332はひとまずパノプロサウルス亜科の不定種とされ、そもそも頭蓋がほぼ残っていない“タンク”は研究材料とはされなかった)。


 バーンズによるパノプロサウルス亜科のレビューはいまだ出版されてはいないのだが、とはいえ(時代の違いが明確であるものを積極的に同種にまとめることもなかろうという昨今の流れもあって;必ずしも適切な判断とも限らない)デンヴァーサウルス・シュレスマニは研究者のコミュニティでも独立種として扱われるようになった。BHI 6332、ひいては“タンク”も(現状直接比較が困難ではあるが)デンヴァーサウルス・シュレスマニと見て問題はないだろう。
 林原自然科学博物館のうち主だったコレクションは福井県立恐竜博物館へ渡り、“タンク”の標本番号もHMNS 11からFPDM-V9673へと変わったアーティファクトはそのままに、(頭骨以外は)初めて実物でマウントされた“タンク”は、林原時代からおなじみのキャストとは異なり、肩から後ろまで完全に装甲された姿を現すこととなった。
 今度こそ終の棲家を得た“タンク”だが、研究材料――博物館の収蔵物としての正念場はここからである。林原時代に行われた研究は予察的なところで止まっており、肩から後ろの皮骨の配置もはっきりしないままだが、しかしこれはパノプロサウルス亜科としてはAMNH 5665さえ遥かにしのぐ完全度の骨格なのである。眩しい点光源を浴びながら、“タンク”は新たな研究者を待ち続けている。

 

(カーペンターらによる1986年の研究の後、ランス期のノドサウルス類に関する生層序学的な議論は特に行われておらず、カーペンターらの言うようにデンヴァーサウルスがマーストリヒチアンの終わりを前に絶滅したのかどうかははっきりしていない。そもそもの産出数が相当に少ないのも間違いない話で、少なくともトリケラトプスのような話は現状望むべくもない。)