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恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

亡失のエロージョン


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↑Skeletal reconstruction of cf. Anchiceratops sp. CMN 8547. Scale bar is 1m.

 ケラトプス科角竜といえばバラエティーに富んだ頭骨が最大の魅力であろうが、どうしても頭骨の話に終始しがちである。首から後ろについては「基本的にどれも同じ」とさえ言いきられることがしばしばであり、コンパチキットのようなものとして語られがちではある。
 そうはいっても、(各要素は互いによく似ているが、「科」でくくれる程度には近縁である以上ある種当然のことではある)、まともな骨格が知られているものについては、それなりにケラトプス科角竜でも首から後ろの違いは顕著である。中でもCMN 8547のナンバーで知られるカナダ自然博物館のウォールマウントはケラトプス科角竜の「基本形」から外れた、ややもすれば奇怪な骨格である。――頭骨がほとんど失われており、属種の厳密な同定ができないのだが。

 CMN 8547(元GSC 8538)が発見されたのは、「第二次」化石戦争がひと段落ついた1925年の夏の暮れのことであった。スターンバーグ一家の「解散」後もカナダ地質調査所に残っていたチャールズ・モートラム一行は、レッドディア川西岸で全身の関節のつながった角竜の化石――ライバルであったAMNHのブラウン隊やROMのパークス隊、そしてスターンバーグ一家はしばしば関節した角竜の骨格を採集していたが、これほど見事なものは他にAMNHの“モノクロニウス・ナシコルヌス”しかなかった――に出くわしたのである。
 右半身を下にして横たわっていたその骨格は、不幸にして頭骨がごっそり失われていた。わずかに採集できたのは侵食され残ったフリルの断片(と吻の一部があったらしいのだが、現在これは行方不明になっている)だけだったのである。それでも首から後ろの要素は文句のつけようのない標本であり、チャールズ・モートラム一行はほくほく顔でこれを持ち帰った(この時一行は記録映画まで撮っていた)。
 CMN 8547を展示しない手はなく、欠けていた頭部にはちょうどよいサイズだった(のちの)アンキケラトプス・“ロンギロストリス”のキャスト(というよりは模型といったほうがよさそうだ)が据えられた。少々風化の進んでいた左半身を石膏に埋め込まれて(=右半身を表に出した形で)ウォールマウントとして仕上げられ、1929年(か翌年)にはカナダ国立博物館(当時)の壁を飾ることになったのだった。

 以来、「アンキケラトプスの全身骨格」として一般(?)に知られるようになった(言うまでもなくポールの骨格図もこの標本に基づいている)CMN 8547だったが、上で述べた通り、ウォールマウントに据えてある頭骨は別の標本に基づくものである。かといって残されたオリジナルの頭骨要素と本質的に形態が異なるかといえばそんなことはない(ここがまた悩ましいところなのだが)。
 元来この標本はチャールズ・モートラムによって(現地で)「おそらく小型のアンキケラトプス」とみなされ、後にラルによって追認された。ラルはオリジナルのフリルの断片がアンキケラトプス属によく似ていることを確認し、A.オルナトゥスではなく恐らくA.ロンギロストリスであるとしたのである。
 ラルは(カナダ側の研究者によって今後詳しい記載が行われるであろうことを言外にほのめかした上で)CMN 8547の簡潔な記載(と同定)をおこなうに留め、またとうとう詳しい記載は出版されずじまいであった。左半身は壁に塗り込められたうえ、常設展示に回ってしまったこともあって研究のチャンスは失われてしまったのである。2001年になって恐竜ホールのリニューアル工事が始まり、ようやくCMN 8547に詳しい記載のチャンスが回ってきたのだった。

 さすがにウォールマウントを解体するまでには至らなかったが、それでもラル以来恐らく初めてとなる詳しい観察がおこなわれ、(すでに出版されていた写真やラルの記載、そしてそれらに基づきポールが描いた骨格図や復元画でも示されてはいたが)この骨格の奇妙な特徴が明らかになった。頸椎も胴椎も、仙椎もケラトプス科角竜の「標準」よりずっと多かったのである(そしてトレードオフの結果か尾はオマケのような短かさだった)。
 ケラトプス科角竜の骨格はCMN 8547のほかにセントロサウルスやスティラコサウルス、カスモサウルス、ペンタケラトプスそしてトリケラトプスでかなり良好な標本が得られており、これらの角竜では頸椎が9個(うち最前部の3つは癒合)、胴椎が12個、仙椎が10個(ペンタケラトプスのみ尾椎をひとつ取り込んで11個に増加)と、個数に関しては科全体で安定した状態を見せていた。どっこい、CMN 8547では頸椎が10個(うち最前部の4つが癒合)、胴椎が13個、仙椎が12個に増加しており、ケラトプス科角竜としてはやけに(そして本質的に)首が長かったのである(もっとも、一般に思われているよりもケラトプス科角竜は首が長いといえばそうでもあるのだが)。加えて、そこらのカスモサウルスよりも小柄でありながら、トリケラトプスに次ぐレベルでゴツい体格であった。
 また、再研究の結果、CMN 8547が属レベルでさえ(現状では)同定不能であることが判明した。CMN 8547と同層準――ホースシュー・キャニオンHorseshoe Canyon層のモーリンMorrin部層最上部(7084万年前ごろ)で知られているケラトプス科角竜はアンキケラトプス・オルナトゥスにアリノケラトプス・ブラキオプス、そしてパキリノサウルス・カナデンシスであり、明らかにCMN 8547はセントロサウルス亜科ではなかった。アンキケラトプスとアリノケラトプスとではフリルのホーンレットが全く異なる――幼稚園児でも知っている――のはフリル後半部に限った話で、頭頂骨周りの装飾を除けば、(吻の形態なども含めて)両者はよく似ているのである(もっとも、このあたりが明確に認識されるようになったのはごく最近の話でもある)。CMN 8547の残されたフリルはアンキケラトプス、アリノケラトプス双方とよく似ていたのであった。

 かくしてCMN 8547の分類は属種不明のカスモサウルス科まで後退した。その後アリノケラトプスの亜成体ROM 1493――目下アリノケラトプス唯一のまとまった部分骨格――の記載が行われたが、これは断片的(癒合頸椎と前肢の大半しか残ってない)な上に保存状態が悪く、CMN 8547とのまともな比較は望めない代物であった。とはいえ、(保存状態が悲惨すぎて色々と不安が残るのだが)ROM 1493の肩帯の形態はCMN 8547とはやや異なるように見える。また、上腕骨も(全体としてかなりごつい点は共通するが)少々趣が異なる。ROM 1493の癒合頸椎は3つからなっている――が第3頸椎の後半(や全体の神経棘)は激しく侵食されており、本当に3つだけで構成されていたのかははっきりしない。つまるところCMN 8547の分類ははっきりしないままだが、アリノケラトプスというよりはアンキケラトプスの可能性の方が高そうではある。このあたりについては、アンキケラトプスやアリノケラトプスのボーンベッド(それなりに以前から報告されているのだが、いまだに記載されていない)がカギを握っている。

 トリケラトプス(やトロサウルス、“ティタノケラトプス”)の骨格がやたらゴツいのは多少なりともそのサイズで説明できそうなものだが、小さめの体サイズの割に妙にゴツい点でCMN 8547はユニークである。CMN 8547の産出した層準はホースシュー・キャニオン層の中でも(何度かある)海進の最もよく進んだ時期に相当し、数あるケラトプス科角竜の中でも相当な低湿地帯に暮らしていたことが想像される(他のケラトプス科角竜もしばしば低湿地帯の堆積物から出てくるのだが;チャールズ・モートラムはCMN 8547の発掘の際に「いくらかの」カキが共産したことを記している)。ケラトプス科角竜(のいくらか)が半水生であった可能性はしばしば指摘されてきたが、CMN 8547はその中でも半水生適応の進んだものだったのかもしれないこのことは古くから指摘されており、ポールは沼地からアルバートサウルスに向かって奇襲をかけるアンキケラトプスの群れを描いていたりする)。

 アンキケラトプスにせよアリノケラトプスにせよ、下顎の構造(セントロサウルス的である)を除けばその頭骨はケラトプス科の中で特別に変わった特徴は見られないものである。一方で、恐らくそのどちらか(ひょっとすると未知のカスモサウルス類を代表するのかもしれないが)に属するCMN 8547は、他の角竜と――アンキケラトプスやアリノケラトプスと近縁とされるトリケラトプスとも――著しく異なったボディープランの存在を示している。侵食によって失われたものは大きかったが、CMN 8547は角竜の新たな一面を90年に渡って垣間見せ続けている。