GET AWAY TRIKE !

恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

Long live, Fukui.

↑Skeletal reconstructions (see text) of Fukuiraptor kitadaniensis holotype FPDM-V-43.

  Scale bar is 1m.

 

 10月15日は「化石の日」である。こと化石といえば世間的には恐竜のものがよく知られているわけだが、恐竜の化石を探しに行って恐竜以外の化石がやたら豊作だったというのは非常にしばしばある話である。そして結局のところ、中生代の地層であっても恐竜以外の化石を探したほうが(確率論というかコストパフォーマンスの話になってはくるが)たいがいの場合はるかに実りが多いのが日本である。

 今日こそ福井県は「恐竜王国」としてよく知られるようになったが、結局のところこれは福井県がここ30年以上にわたって恐竜という概念にリソースを投入し続けていたからに他ならない。県庁をしてここまでリソースを割かせ続けるきっかけとなったのは、石川との県境にほど近い、勝山市北谷の山間を流れる杉山川のうっそうと茂った草木から垣間見える切り立った露頭――手取層群赤岩亜層群北谷層の存在であった。

 

 北谷層では古くからトリゴニオイデス、プリカトウニオ、ニッポノナイアといった白亜紀前期の東アジアを代表する淡水生の軟体動物化石群集の産出が知られており、この露頭もトリゴニオイデスの産地として知られていた場所であった。1982年6月、トリゴニオイデス探しで終わるはずだった調査で発見されたのは、1本のワニの歯であった。

 翌7月、この一帯は「化石トリゴニオイデス等包含層」として勝山市の天然記念物に指定された。直後に行われた追加調査――この時期、福井県立博物館の開館に向けて県の準備室が活発に活動していた――において発見されたのは、全長1.3mほどの見事なワニ形類――“テトリワニ”の通称で呼ばれることになるゴニオフォリス類(当初はより進化的な正鰐類とみられていた)のほぼ完全な骨格であった。

 この年、県境を挟んだ向こう側――石川県白峰村(現白山市)の桑島化石壁――手取層群石徹白亜層群桑島層でひっそりと恐竜の化石が発見されていた。転石から見出されたこの化石が博物館へ持ち込まれて獣脚類の歯であると判明したのは1985年になってからで、この“カガリュウ”は“ミフネリュウ”に続く日本で二例目となる獣脚類の化石記録となった。さらに、この発見にともなう調査で、桑島化石壁からは恐竜の足跡化石まで発見されたのである。

 かくして手取層群の露出域で恐竜発見の機運が高まり、“カガリュウ”の標本を最初に受け入れた福井県立博物館は「化石トリゴニオイデス等包含層」での大規模な発掘を計画するようになった。“テトリワニ”は当時知られていた日本の中生代動物化石としては最高といってよいもので(今日でも最高クラスに入る)、さらに言えば82年7月の調査では正体不明の長骨も発見されていたのである。

 福井県立博物館は1988年の8月にようやく予備調査にこぎつけ、そこで豪運ぶりを見せつけることになった。わずか三日の調査日程で、「化石トリゴニオイデス等包含層」から獣脚類の歯が2本も産出したのである。1988年10月、これら2点の歯は“キタダニリュウ”、そして82年に発見されていた謎の長骨――獣脚類の尺骨と同定された――は“カツヤマリュウ”として報道発表された。そして1989年、北谷恐竜クオリーと後に呼ばれるようになるこの場所で第一次調査が始まったのである。

 初年度は削岩機の他に特別な機械が投入されることもなかった(現場に続く道路がなかったため、索道を設置して資機材や発掘標本を運搬する羽目にはなっていた)が、その結果明らかになったのは、問題の露頭の最下部はボーンベッドをなしているという事実であった。翌1990年度から重機が投入され、山肌を大きく削り取ってボーンベッドの層準を面的に露出させた上で発掘を行うという、中生界相手には国内でそれまで行われてこなかった大規模な発掘調査へと発展したのである。露出したボーンベッド層準は1m間隔でグリッド分けされ、重機で分割した後に人力で小割りし、有望そうなものはさらに研究室にてクリーニングという、今日まで福井で続く方法がここで確立されたのであった。そして「層面掘り」の過程で恐竜の足跡(というより行跡)化石を大量に保存した層準が複数発見されるに至り、この露頭がとんでもない場所であったことが明白となったのだった。

 

 ジュラシック・パークの公開に沸く1993年――5ヶ年計画で行われた発掘の最終年度に姿を現したのは、広げた手いっぱいになるサイズの獣脚類の末節骨、それに距骨、中足骨そして趾骨のセットであった。ボーンベッドの中から産出した化石であるとはいえ、ボーンベッドそのものは原義のそれよりもずっと低密度でもあり、ごく狭い範囲から産出したという状況からして、これらの化石は同一個体――デイノニクスと同等のサイズのドロマエオサウルス類で間違いないように思われた。実のところ1991年にはごく近くで顎の断片――歯間板が顎骨に癒合しており、明らかにドロマエオサウルス類のそれであった――も産出しており、これも後肢の要素と同一個体のものと見てよさそうだったのである。

 これらの標本はつまるところ、日本で初めてとなる獣脚類の部分骨格であった。ボーンベッドから単離した要素ばかりが見つかるこの発掘現場としても、“テトリワニ”以降ようやく産出した部分骨格だったのである(この時点で“フクイリュウ”の標本はある程度の数が揃っていたが、明らかに部分骨格と言えるもの――フクイサウルスの模式標本群の発見は第二次調査を待たねばならなかった)。顎に埋まったままのものを除けば他にドロマエオサウルス類のものらしき歯は発見されなかった(“カツヤマリュウ”と思しき歯は発見された;後述)のだが、とはいえ「“キタダニリュウ”の歯」ともサイズ的に大きな矛盾もなさそうであり、このドロマエオサウルス類の部分骨格も“キタダニリュウ”として紹介されていくようにもなったのだった。

 

(勝山での発掘は日本の古生物学において画期的な出来事であり、様々な点でその後の日本における恐竜発掘に影響を与えた。一方で、ちょっとした産出例が大きく報道される当時にあって記載は相当に立ち遅れており(骨格に関しては結局2000年になるまでなされなかった)、このあたりの研究体制の整わなさについてはかなり批判を受けたともいう。しごく真っ当な批判である(現代にまで通じるあたり根本的な問題はおそらく今日まで変わっていない)一方、1990年代当時にあって恐竜の専門家は日本に存在しなかった(今日からすればひどくざっくりした同定がせいぜいであったし、ざっくりした同定以上のことのできそうもない標本しか知られてもいなかった)のも確かな話である。このあたりの事情は当時から顕在化しており、例えば一次発掘において上述の「“カツヤマリュウ”の尺骨」の付近で発見された尾椎は1991年までは「“カツヤマリュウ”の尾椎」として報告されていた一方、1992年には「“フクイリュウ”の尾椎」として再同定され、「“カツヤマリュウ”の尺骨」も1995年までには“フクイリュウ”のものとみられるようになった(最終的にフクイサウルスのホロタイプと並べて展示されるに至っている)。一方で、1995年までには新たに産出したアロサウルス類らしき歯が“カツヤマリュウ”に割り当てられている(後述)。国内の恐竜研究事情が暗中模索もいいところであった当時にあって、これらの「通称」は広く一般向けの出版物に紹介され、混沌とした状況を作り出すに至ったのだった。このあたりの状況は表立っては特に整理されておらず、単離した要素に与えられた「通称」が悪手でしかなかったことが明確となった今日では、単に分類不定とされた「〇〇リュウ」も数多い。“丹波竜”や“むかわ竜”はそれぞれよくまとまった部分骨格に与えられたものであり、90年代に日本各地で乱発された「〇〇リュウ」とは次元が異なる。

 

 かくして大成功に終わった第一次調査は幕を閉じ、第二次調査までの間に発掘標本の整理と検討が進められた。「北谷の大型ドロマエオサウルス類」の末節骨は来日したカリーによってさんざん悩んだ末に後肢の“シックル・クロー”ではなく前肢のものとして再同定され、これらの成果は1995年のSVPの席上で鮮烈なデビューを飾った。ユタラプトルの75%ほどの大きさ――全長4.5mほどの大型のドロマエオサウルス類が白亜紀前期の日本に存在したのである。

 1995年から第二次調査が始まり、第一次調査で発見されたボーンベッドの層準はさらに奥へと掘り進められた。これによって第一次調査の掘り残しが次々と姿を現し、「北谷の大型ドロマエオサウルス類」の四肢の骨も続々と追加されることとなった。第二次調査は1999年まで続いたが、追加要素が出そろった1997年には改めて「北谷の大型ドロマエオサウルス類」の報道発表が行われたのだった。

 

 2000年の福井県立恐竜博物館の開館へ向け、「北谷の大型ドロマエオサウルス類」の研究と復元骨格の制作が進められた――が、そこにあったのは奇妙な中型獣脚類であった。ドロマエオサウルス類やティラノサウルス類の特徴さえ持っていたそれは、しかしカルノサウルス類の基盤に位置付けられたのである。頭骨を復元する手がかりはさっぱりだったのだが、かくしてシンラプトルを参考としたアーティファクトに顎の断片のレプリカが埋め込まれ、博物館の開館に合わせて復元骨格が展示公開された。

 そして開館に遅れること5ヶ月、2000年の暮れに「北谷の大型ドロマエオサウルス類」はフクイラプトル・キタダニエンシスとして記載された。ホロタイプには分離した歯冠もいくらか含まれていたが、その中にはかつて「“カツヤマリュウ”の歯」として紹介された標本も含まれていたのである。

 

(90年代から2000年代初頭にかけては恐竜研究の激動の時代であり、系統解析の解像度も今日からすると驚くほど低い。フクイラプトルの原記載で試みられた系統解析では、フクイラプトルの他はヘレラサウルス、シンラプトル、アロサウルス、アクロカントサウルス、シノサウロプテリクスそしてティラノサウルス科、オルニトミムス科、オヴィラプトル科、ドロマエオサウルス科と、計10個のOTUが用いられたに過ぎなかったのである。使用されたキャラクターも110個と、今日おなじみのTWG(獣脚類ワーキンググループ)のものと比べると一桁少ない。このあたりの事情はよく留意しておく必要があるだろう。2001年のSVPで発表されたロングリッチによる系統解析ではコエルロサウルス類の基底に置かれていたというのだが、これは当時特に顧みられることはなかった。)

 

 フクイラプトルは様々な獣脚類のグループに見られる特徴(先述のドロマエオサウルス類めいた顎はその最たるものであった。今日では他にエオティラヌスでも同様の特徴が知られている)をモザイク的に保持しており、既知の獣脚類の中に特別に近縁らしいものは見当たらなかった。唯一、オーストラリアから報告されていた「南極アロサウルス」の距骨はフクイラプトルと酷似していたのだが、いかんせんこの標本は距骨だけであり、それ以上コメントのしようもなかったのである。2004年に出版されたThe Dinosauriaの第2版でもこのあたりは変わらず、シンラプトル風のアーティファクトを掲げてはいたものの、フクイラプトルは実態のよくわからないカルノサウルス類以上の扱いを受けることはなかったのだった。

 原記載者ら、ひいては当時の全ての古生物学者には知る由もないことだったが、フクイラプトルはこの時、四肢のほぼ揃った(だけの)唯一の(今日でも数少ない)メガラプトラであった。メガラプトルがドロマエオサウルス類めいた見てくれの系統不明のコエルロサウルス類とみなされていたこの当時、後にメガラプトラへと分類される恐竜の中で最も完全な骨格が知られていたのがフクイラプトルだったのである(「南極アロサウルス」がメガラプトラであることが判明するのにかなりの時間を要したことは言うまでもない)。

 第二次調査では小型獣脚類の単離した長骨が狭い範囲から割合にまとまった状態で産出し、これらの標本はフクイラプトルの幼体であると考えられた。フクイラプトルのホロタイプは椎骨の癒合が進んでおらず、あからさまに亜成体であったが、第二次調査で発見された多数の幼体の中にはホロタイプの1/3ほどの長さの長骨さえ含まれていたのである。それまでの調査で産出した獣脚類の歯化石の再検討も進められ、ホロタイプの他にもいくつかの歯がフクイラプトルのものとみなされた。その中には、1988年の運命の予備調査で採集された“キタダニリュウ”の片割れも含まれていたのである。このあたりについては2006年にまとめて出版がなされ、フクイラプトルに関する記載は一段落着くことになった。

 

(「“カツヤマリュウ”の歯」とされていたものがフクイラプトルのホロタイプに含まれたことは先述の通りだが、一方で“ツチクラリュウ”と呼ばれた「メガロサウルス科の歯」や、もう一方の“キタダニリュウ”の行く末は定かではない。先述の通りこのあたりの経緯は特に論文でフォローされてはおらず(究極的に言えば90年代の論文でもリスト中に軽く取り上げられた程度でしかない)、外野からしてみれば様々な文献に散逸した写真を突き合わせるほかないのが現状である。2006年の論文の中ではドロマエオサウルス類と思しき(フクイヴェナトルとは明らかに形態が異なる)上腕骨の断片が図示されているほか、ドロマエオサウルス類らしき末節骨(図なし)についても報告がある。また、原記載でもドロマエオサウルス類の歯と胴椎の神経弓について軽く触れられているが、これらについては図示もなく、今日に至るまで未記載のままとなっている。末節骨に関しては「elongate, relatively straight manual ungual」(オルニトミモサウルス類のものと思われる)と「manual ungual with proximodorsal lip」が図なしで報告されており、後者についてドロマエオサウルス類の可能性が指摘されているが、proximodorsal lipはフクイヴェナトルでも顕著である。このあたりの状況はその後表立って整理されてはおらず、北谷層のドロマエオサウルス類についてはかなり微妙なところがある。

 2009年には、群馬県は山中層群瀬林層(バレミアン)の下部から産出した歯化石がフクイラプトル aff.キタダニエンシスとして報告された。決して保存のよくない歯1本ではあるのだが、ひとまずこの同定は今日でも特に否定的にはみられていない。北谷層の時代は今日もっぱらアプチアンとされているが、とはいえ白亜紀前期のそれなりの期間にわたって東アジアに基盤的なメガラプトル類が存在したことを示唆している。

 

 2000年代も半ばを過ぎると様々な発見が相次ぎ、2010年になるとフクイラプトルにも光の当たる機会がやってきた。獣脚類の様々な「問題児」がカルカロドントサウリアの中のネオヴェナトル科として一括され、フクイラプトルはその中でも派生的なタイプであるメガラプトラの基底に位置付けられたのである。メガラプトラの位置付けとその構成に関しては今日まで議論が続いているが、とはいえ2010年以来フクイラプトルは常にメガラプトラの基盤に位置付けられ続けている。

 フクイラプトルの系統関係はかくしてこの10年、それなりの解像度と共に安定しているが、復元骨格は手の回内を修正したマイナーチェンジ版が福井県立恐竜博物館の開館20周年に合わせてお披露目されるに留まっている。とはいえ、典型的な――派生的なメガラプトラを直接の参考としてフクイラプトルを復元してよいのかは全く別の問題であり、少なくとも頭骨についてはあまり適切とも言えなさそうだ。

 メガラプトラで体軸の要素がそれなりに発見されているのは南米の派生的なもの――メガラプトル科に限られており、そしてメガラプトル科と基盤的メガラプトラ――フクイラプトルの重複する要素の形態は(南米のメガラプトル科が形態的に非常によくまとまっている一方で)一見してかなり異なっている。アウストラロヴェナトルでさえフクイラプトルと比べればずっとメガラプトル科的な形態を備えており、(メガラプトルほどではないが)巨大な手やほっそりとした歯骨はフクイラプトルのそれとはだいぶ趣が異なっているのだ。このあたりの問題は新標本の蓄積によって段階的に解消していくほかないところではあり、派生的なメガラプトラ=メガラプトル科の復元がようやくそれなりにきちんとできる状況が整いつつある今日にあって、究極的にはまだ当分は時期尚早とさえ言えるかもしれない。

 フクイラプトルのまとまった骨格はホロタイプのほかは発見されていないまま今日に至っているが、とはいえ北谷恐竜クオリーでの発掘調査は第三次そして第四次と引き継がれている。2015年からはボーンベッド層準から続々と新標本が産出している状況であり、このあたりを悲観することは全くない。少しずつではあったとして、着実に復元の確からしさを高めていけることは間違いないだろう。

 白亜紀後期初頭からマーストリヒチアンに至るまで南米で繁栄を遂げたメガラプトラだが、一方で白亜紀前期には東アジア一帯でも比較的ポピュラーな存在だったようだ。近年になってタイの同時代層からもプウィアンヴェナトルPhuwiangvenatorのような「フクイラプトル段階」のメガラプトラが発見されるようになり、基盤的メガラプトラとスピノサウルス類そしてオルニトミモサウルス類からなる獣脚類相がアジアの広い範囲で見られたことを示している。依然としてフクイラプトルは基盤的メガラプトラとしては骨格のもっともよく揃ったものであり、四肢の他はごく断片的であるとはいえ、かなり重要な意義を持っている。手取層群をはじめ、日本に点在する下部白亜系から産出した獣脚類の単離した化石の検討に関しても、フクイラプトルの今後の発見が重要な鍵を握っているのだ。

 

 頭骨の交換とポーズ替えを経てフクイヴェナトルは新バージョンの復元骨格がお披露目されたが、フクイサウルスそしてフクイラプトルはどうだろう。フクイサウルスの復元骨格は“フクイリュウ”時代からマイナーチェンジを重ねて2020年に新標本を加えた3代目(ver.1.8とでも言うべきか)の復元骨格が公開された一方、フクイラプトルは系統関係の見直しこそあれ、標本としてはホロタイプ以降復元に影響を与えるようなものは産出していないようである。

 筆者はフクイラプトルの(原記載の図版以来となる)公的な出版物(日本酒の箱とコラボTシャツ)への掲載を前提とした骨格図の制作を請けあったわけであるが、(獣脚類研究者の監修を細部まで受けたとはいえ)やはりこれも当然(相当に)暫定的な復元に過ぎない。シンラプトル風の頭蓋は明らかに不適切な復元となった今日ではあるが、しかし「適切な」復元へ向けた手がかりはいまだ相当に貧弱である。フクイラプトルと派生的な(特に南米産の)メガラプトラとの間にかなりの形態的なギャップが存在することは明らかだが、それを「復元」として再構築してどうなるかは別の話でもあるのだ。命名から20年以上が過ぎ、系統関係についてもかなり明らかになりつつあるフクイラプトルだが、その姿は依然として闇の中に身を沈めたままである。

 

 「化石トリゴニオイデス等包含層」での発見から35年の過ぎた2017年、かつての調査で切り残された巨大な露頭は、ここで発見された恐竜の模式標本群ともども国の天然記念物に指定された。そして開館から20年以上が過ぎた福井県立恐竜博物館は今年の12月からリニューアルへ向け休館し、来夏に再オープンを迎える。

 「恐竜王国」福井が産声を上げ、日本の古生物学の新たな扉を開け放ってから40年、開館から20年以上を経て装いを新たにする「恐竜博物館」は、果たして何を見せてくれるだろうか。上から下まですっかり恐竜一色になったかに見えるこのトリゴニオイデス産地――野外恐竜博物館はしかし、今日まで見事な軟体動物化石を届け続けている。

 

 

 

 

 

棘の向く先【ブログ開設9周年記念記事】

↑Skeletal reconstruction of Gigantspinosaurus sichuanensis holotype ZDM 0019.

Scale bar is 1m.

 

 あっという間というわけでは特にないのだが、ともあれ本ブログを立ち上げてから9年になる。ここのところの1年も激動の年だったのだが(ここ数年絶賛転がる石状態である)、そういうわけでこの先もまだまだ色々ありそうな気配が拭えないところである。

 

 ギガントスピノサウルスと言えば復元骨格が来日したこともあり(不幸にして筆者はお目にかかったことがないのだが)、今日日本でもそれなりの知名度にありついているようだ。一方でこの恐竜は2000年代の半ばになるまで中国国外では裸名として(不当に)扱われており、その一方で長らく「トゥオジャンゴサウルスの関節した骨格」として知られてきたというややこしい経歴を辿っている。

 

 1985年4月、自貢恐竜博物館(ZDM)の調査隊が掘り当てたのは、うつぶせになった中型剣竜のかなり完全な骨格であった。しかも肩帯の傍らには、鎌のような見てくれの異様なサイズのスパイクが左右とも残されていたのである。右側の「肩棘」は生息時の位置関係をおおむね留めているように思われ、しかも基部の腹側にはちょっとした皮膚痕(位置関係からして上腕のものだろう)まで保存されていた。頭蓋や尾の後半部、足はほぼ失われていたものの、この骨格は中国産の剣竜類としてはフアヤンゴサウルスに次ぐ完全度だったのである。

 翌1986年、この骨格ZDM 0019はトゥオジャンゴサウルスの新標本として報告された。肩棘(parascapular spine)を保存していた骨格はこれが初めての発見であったが、一方でケントロサウルスの「腰棘」――一連のケントロサウルスの骨格は全て関節が外れた状態で(しかも複数のボーンベッドをなして)発見されており、しかも様々な成長段階の個体が入り混じっていた――の形態は概してZDM 0019の肩棘に似ていたのである。かくして剣竜の復元画は一斉に描き換わり、肩棘を付けたトゥオジャンゴサウルスとケントロサウルスの復元画であふれるようになったのである。

 

(こうした経緯から、1990年代の文献には「細い肩棘」を付けたトゥオジャンゴサウルスやフアヤンゴサウルスの骨格図がしばしば出現するのだが、実のところこれらの復元に用いられていたのは肩棘ではなく尾棘(サゴマイザー)の断片であった。トゥオジャンゴサウルスの尾棘は今日まで未記載であり、そもそも発見されているのかどうかさえ微妙なところである。1992年には正真正銘のフアヤンゴサウルスの肩棘が記載されているが、これは(ずっと華奢でこじんまりした構造ではあるが)ZDM 0019とよく似た、大きく広がった基部から斜め後方へと急激にカーブしたスパイクであった。「トゥオジャンゴサウルスの肩棘」は結局のところ今日に至るまで知られておらず、トゥオジャンゴサウルスが肩棘を持っていたのかどうかは不明である。ミラガイアも肩棘が生やされることがしばしばだったが、これもやはり尾棘に過ぎないようである。

 ケントロサウルスの「腰棘」については今日でもこの解釈を支持する意見がないわけでもないが、上述の通り一連のケントロサウルスの骨格はばらけた状態で産出している(パラレクトタイプはある程度まとまった産状ではあったようだが)ことに注意が必要である。ZDM 0019の肩棘の基部がかなり変形しているのも確かであり、「腰棘」を肩以外の場所に配置することについては特に何の根拠もないと言ってよい。薄く大きく広がった基部とそこから急激に斜め後方へ向いた細身のスパイク本体という組み合わせは、ZDM 0019とフアヤンゴサウルスの肩棘、そしてケントロサウルスの「腰棘」のいずれにも共通する特徴である。)

 

 ZDM 0019の発見はそれなりに話題を呼び、日本でも1992年に出版された一般書でこのあたりが写真付きで紹介された――が、この頃にはすでにZDM 0019はトゥオジャンゴサウルスではないと判断されていた。ZDM 0019は1992年に新属新種――ギガントスピノサウルス・シーチュアネンシスとして記載された――が、恐ろしいことにこれはシンポジウムの要旨集上でのことであった(ホロタイプの指定こそあったが、一方で標本番号は示されていなかったらしい;講演要旨集ということもあり、記載が恐ろしく貧弱だったらしいという話はお察しの通りである;1991年にはすでに文献上でこの名が用いられており、そちらが状況をさらに混乱させる要因にもなったようである)。中国の文献ではそれ以降ギガントスピノサウルスの名がしばしば用いられた(1996年には復元骨格も完成した)一方、オルシェフスキーですらこの記載の存在は見落としており、かくして中国の研究者以外からはギガントスピノサウルスは裸名nomen nudumとして扱われる羽目になったのである。この見落としにフォードが気付いたのは2006年になってからで、かくしてギガントスピノサウルスは(真っ当かつ紛らわしいネーミングも相まって)2000年代半ば過ぎから一躍注目を集めるようになったのだった。

 

(同様の経緯を辿った「元裸名」にユインシャノサウルス/インシャノサウルスYingshanosaurusがある。これも中国国外では裸名として扱われてきたが、実のところ(ギガントスピノサウルスのそれよりもはるかにしっかりした)記載論文は1994年に出版されていた。ホロタイプは半ば関節した部分骨格であり、ギガントスピノサウルスほどではないが大きな肩棘も保存されている。裸名天国として悪名高い中国の古生物学事情だが、このあたりを見るにつけ、単に中国国外で記載論文(と称する何かしら)が見落とされているケースがまだまだあるのかもしれない。フォードは2006年にギガントスピノサウルスの肩棘について、マウントとは逆向きに(スパイク本体が上向きになるように)取り付けるべきと述べたが、これは単にフォードの勘違いであったようだ。なんにせよZDM 0019の肩棘は変形によってだいぶ平べったくなっており、本来のスパイク本体の方向をきちんと復元するのは困難である。)

 

 自貢の恐竜相に関する総説はこれと前後する2005年の暮れに出版され、ようやくギガントスピノサウルスの真っ当な記載が世に出ることとなった。2018年には詳細な骨学的記載が出版され、発見から30年以上を経て、ようやくギガントスピノサウルスの全貌が明らかにされた格好である。大きめの頭に短い首など、全体的な見てくれはフアヤンゴサウルスに近いが、一方で前肢は比較的短くなっており、このあたりは系統的な位置付け(不安定ではあるが、剣竜類としてはかなり基盤的なポジションに置かれるのが常ではある)と整合的である。

 1990年代の業界の混沌っぷりの犠牲になった気配すらあるギガントスピノサウルスだが、多数の剣竜が記載されてきた中国にあって、フアヤンゴサウルスと並んでその実態がよくわかっている数少ないものである。このあたりの進化段階の剣竜類の化石は世界的にもいまだに珍しい部類であり、詳細な記載がなされたこともあって、研究上の重要性は今後さらに増していくことだろう。決して大柄ではないギガントスピノサウルスだが、今日も肩棘で風を切り、数ある剣竜類の中で異様な存在感を放ち続けている。

 

強欲な獣のメメント

ティラノサウルス・レックスCM 9380(ホロタイプ;旧AMNH 973;上)と
 NHMUK R7994(“ディナモサウルス・インペリオスス”のホロタイプ;
 旧AMNH 5866;中)、AMNH FARB 5027(下)
 スケールバーは1m。

 CM 9380とAMNH 5027の全長がほぼ同じ点に注意。
 CM 9380はティラノサウルスの成体としては特に後肢が長いようである。
 AMNH 5027では椎骨や腰帯が異常に癒合している。

 

 チューロニアン~コニアシアン――白亜紀の半ば過ぎに北半球で起きた恐竜相の転換によってカルノサウルス類から頂点捕食者の座を簒奪したコエルロサウルス類の一派――ティラノサウルス上科のうちアークトメタターサルを備えていたグループはその後大型化を続け、ついにカンパニアンの中ごろには全長10mを越え、カルカロドントサウルス類――それ以前の北半球における頂点捕食者に匹敵するサイズに至った。この全長10mを越える大型ティラノサウルス類――ティラノサウルス族のうち、最大最後のものこそティラノサウルス・レックスであった。
 20世紀初頭、ひいては19世紀末から知られていたこの恐竜は、驚くほどの幸運――研究初期から複数の良好な骨格に恵まれ、瞬く間に6600万年ぶりの玉座――最大最強の肉食恐竜の座へと返り咲いた。様々な全長10mを超える大型獣脚類が知られるようになった今日にあってなお、ティラノサウルス玉座から腰を上げようとはしないのである。


 第一次化石戦争の“中期”――1870年代後半の主戦場はアメリカ西部へ移っていたが、その中でも目標となっていたのはもっぱらモリソン層――上部ジュラ系であった。アメリカを代表するジュラ紀後期の恐竜が軒並みこの時に発見されたことは言うまでもないのだが、その前夜――1870年代前半には上部白亜系での恐竜化石の探索も散発的に行われていた。1873年、コープはUSGSの調査隊の一員としてコロラドからいくらかの白亜紀後期の恐竜化石を持ち帰った――が、これらはハドロサウルス類と(当時まだグループとして認識されていない)角竜の残骸の寄せ集めでしかなかったのである。
 やはりというか、運はマーシュに向いていた。1873年の暮れ、コロラドデンヴァー~ゴールデン一帯で化石を採集していたベルソーという男がマーシュへ自らの発見を知らせたのである。ベルソーの言う化石にマーシュは取り立てて興味を示すこともなかったのだが(コープの調査でろくな化石が出てくる印象を持たなかったのかもしれない)、ベルソーはめげずにマーシュへ化石を送った。これはアーサー・レイクス(マーシュの下でモリソン層を掘りまくるのはもう少し後の話である)がだいぶ前に採集してベルソーへ贈ったもので、今日でもYPM 4192として残っている。この標本こそ、最初のティラノサウルス・レックス――少なくとも最上部白亜系のティラノサウルス科の化石としては初めて発見されたものであった。
 ベルソーは結局マーシュの気を引くことをあきらめ、地元の地質調査にあたっていた面々――デンヴァーで教師兼地質学者をしていたキャノンやUSGSでこの一帯の地質図の作成に取り組んでいたクロスと密接に協力するようになった。ベルソーの化石は紛れもない恐竜であり、北米西部に広がる「褐炭層(今日の様々な陸成の上部白亜系の総称)」の時代を決定するのに重要だったのである。レイクスやベルソーが化石採集を行っていた(先述のティラノサウルスらしき歯の産地でもある)テーブルマウンテンの斜面ではその後大型肉食恐竜の顎(恐らくはティラノサウルス類であろう)なども発見されたが、これは現存していない。
 結局、北米西部の最上部白亜系がマーシュの興味を引くまでにはそこから10年以上の時間を要した。キャノンが発見した「デンヴァーバイソン」、そしてハッチャーのトリケラトプスとの出会いを経て、マーシュは北米西部の「ケラトプス層」あるいはララミー層――今日のランス層やデンヴァー層、そしてヘル・クリーク層に目を向けたのである。悲しいかなコープにはもはやそちらへ対抗手段を送る力は残っていなかった。


 かくしてハッチャーは数年にわたってランス層に居座り、数十体分におよぶトリケラトプストロサウルスの化石をYPMへ送りつけた。マーシュはせっせとそれらを記載してハッチャーの労に報いたが、当然ハッチャーが送ってくるのは角竜だけではなかった。
 1890年、マーシュはトリケラトプスの新種――トリケラトプス・プロルススと共に、鳥に似たつくりの足を持つ小型の恐竜――オルニトミムス・ヴェロックスOrnithomimus velox命名した。これは「コロラドのケラトプス層」(=デンヴァー層)のもの(中手骨と足しか残っていなかった)であったが、マーシュは同時に「モンタナの同時代層」(実際にはデンヴァー層よりもだいぶ古かった)から、より大型のオルニトミムス属も命名した。オルニトミムス・ヴェロックスに倍するオルニトミムス・テヌイスO. tenuisに、3倍はあろうかというオルニトミムス・グランディスO. grandisである。マーシュはこの「第III中足骨の近位端が縮小し、第II・第IV中足骨の近位端が背側面で接する」恐竜に、新属だけでなくオルニトミムス科という新たな分類を与えた。第III中足骨の近位側が顕著に細くなり、また長骨が中空化するという鳥類的な特徴を備えた恐竜にはふさわしい名前のように思われた。
 ハッチャーがせっせとトリケラトプスを掘り当てていた「ワイオミングのケラトプス層」(=ランス層)でも、オルニトミムス・グランディスらしき部分骨格が続々と発見された。これらの中には大腿骨の長さが1mを超えるもの(USNM 6183)があったが、これは当時知られていた獣脚類の中でも断トツで最大のものであることをマーシュは見て取った。マーシュはこの「巨大な肉食恐竜」の頭骨や他の部位――「角竜の特異な防御装備に対するべく、攻撃のための特別な特殊化を遂げているであろう」部位の発見を待ちわびたが、結局目にすることのないまま死んだ。

 

(オルニトミムス・テヌイスや、オルニトミムス・グランディスとされた様々な時代の化石は、今日いずれも(様々な)ティラノサウルス類とみなされている。ランス層産のものはティラノサウルス・レックスとみて間違いないのだが、ランス層ではいまだにまともなティラノサウルスの骨格の産出がない(後述のAMNH 5866が最良のものである)。ハッチャーをもってして首なしの部分骨格の発見に留まったのも無理はない話であり、このあたりの様子はヘル・クリーク層とは明らかに異なる。オルニトミムス科の実態が明らかになるのは第二次化石戦争を待たねばならない。)

 

 ハッチャーの奮闘で潤うマーシュを横目に、1892年にコープもララミー層(この場合ケラトプス層と同義;マーシュが非公式名称である「ケラトプス層」を多用する一方、当然のことながらコープがこの名称を使うことはなかった)の“アガタウマス科”(言うまでもなくケラトプス科と同義)の記載に乗り出した。マーシュに先んじて各地のララミー層に唾を付けていたはずのコープであったが、この時期は腕利きの化石ハンターを欠いていたこともあり、完全に出遅れたのである。コープの手持ちはハッチャーを擁するマーシュと比べてだいぶ寂しい状況で(7m超級と思しき“アガタウマス”の部分骨格はあったが。そのくらいがやっとであった;この標本が現在どうなっているのかは不明)、コープは苦しい手持ちの中からいくつかアガタウマス科の新種をひねくりだした。そのうち新属新種としたのがAMNH 3982――2つの椎体(うち1点は恐らくコープの死のどさくさで行方不明)に基づくマノスポンディルス・ギガスManospondylus gigasであった。コープはこの巨大かつ含気化の進んだスポンジ状の2つの「胴椎」(例によって図も何もなかった;現存するものは今日第10頸椎とみなされている)を雰囲気でハドロサウルス類ではなく角竜――アガタウマス科とし、「含気孔」が存在する点で他のいかなるアガタウマス類とも異なるとしたのであった。コープの所見では、この恐竜はララミー層ではアガタウマスをしのいで最大の動物のはずだった。


 コープは1897年に、マーシュは1899年に相次いで死に、残されたコープのコレクション(ANSPに収められていなかったもの)がAMNHへ流れる一方、マーシュのコレクションはYPMとUSNMへ収まった。そして世紀が変わると、ハッチャーは今やマーシュの跡を継ぐ角竜のスペシャリストとして、AMNHに入ったコープの角竜の整理を(カーネギー博物館から出張して)任される立場になっていた。
 コープの論文の大半が図を欠いていた(標本番号も示されていなかった)ため、コープの記載と標本を突き合わせる作業は地獄と化した。ぼろぼろのハッチャーはAMNH 3982のナンバーを振られた椎骨――AMNHに所蔵されていたのは椎骨ひとつだけだった――を手に取り、それが角竜ではありえないことを見て取った。この椎骨はカーネギー博物館所蔵の「ワイオミングのララミー層産ドリプトサウルス」(恐らくは1902年採集のCM 1400;後述;この時期のドリプトサウルスは事実上アルバートサウルスなど真正のティラノサウルス科も含んでいる)と酷似していることに気が付いたのである(ハッチャーは1893年にYPMでの職を辞した後、プリンストン大での勤務やパタゴニアでのAMNHとの共同調査を経て1900年からカーネギー博物館に勤めていた)。ハッチャーは執筆中の角竜のモノグラフの中でマノスポンディルスが大型獣脚類であることを記したのだが、このモノグラフが出版されることになるのはだいぶ後――ハッチャーの死後3年の過ぎた1907年になってからであった。


 コープの弟子筋でありAMNHの古脊椎動物部長となっていたオズボーンの下へ、その男――バーナム・ブラウンがやってきたのは1897年のことであった。カンザス大でエルマー・リッグズとともに学んだブラウンは、在学中にウィリストン――マーシュの部下としてナイオブララ・チョークの様々な陸海空の動物化石に携わってきた男の助手としてすでに十分な経験を積んでおり、「目で見る前に恐竜の匂いを嗅ぎつける」才を買われて卒業と共にAMNHに雇われたのである。就職の翌年にはパタゴニアでの18ヶ月に及ぶ調査(業務命令を受けてわずか2時間で出発したという伝説がある)に旅立ち、ハッチャーの下で様々な薫陶を受けることになったのである。
 パタゴニアから戻ってそう間を置かずにブラウンは再び調査へ旅立った。今度の調査地はワイオミングのララミー層で、ブラウンはそこで巨大な獣脚類の部分骨格と出くわした。これは頭骨の要素――それまで知られていたいかなる獣脚類よりも巨大な歯骨を含んでおり、首から後ろの要素もある程度残されていた(頸椎から前方胴椎は関節しており、腰帯も大部分が残っていた)。そして何より、骨格の周囲にはおびただしい数の皮骨が――キールのついた丸く平べったい骨板が散らばっていたのである。
 1900年の時点でこれほどの化石はララミー層からはまったく知られていなかった。ハッチャーをして“オルニトミムス・グランディス”の後肢を採集するのがやっとだった現ランス層にあって、ブラウンはいきなりハッチャー越えの成果を出して見せたのである。ハッチャーの“オルニトミムス・グランディス”USNM 6183とブラウンのこの謎の獣脚類AMNH 5866は実のところ重複する部位――大腿骨を保存していたのだが、AMNH 5866のクリーニングが難航したこともあり、比較の機会は訪れなかったらしかった。AMNH 5866の母岩はやわらかかったが、一方で化石そのものも相当にもろく、勢い任せでクリーニングできる代物ではなかったのである。
 メディア戦略の得意な(このあたり、かなり現代的なセンスの持ち主ではあろう)オズボーンをしてAMNH 5866は華々しくデビューを飾らせるつもりだったのだろうが、記載の準備をしている間にそれどころではなくなってしまった。1901年の秋になり、ブロンクス動物園の園長であるホーナデイ(先駆的な業績で知られる一方、人種差別で悪名高いのはオズボーンと同じであった)が、知人のシーバーが彼の牧場の近くでトリケラトプスの骨格を発見したという話をオズボーンに伝えたのである。AMNHにはまだトリケラトプスの良好な標本がなかったということもあり、この話を聞いて発奮したオズボーンはブラウンとラル(YPMでのキャリアが有名だが、この頃はまだAMNH勤めだった)を現地に送り込むことにした。
 ホーナデイからの手紙を頼りに、ブラウンとラルが現地に到着したのは1902年の6月になってからだった。すでに牧場の経営者はシーバーではなくなっていたが、二人は首尾よく見事な“ステルロロフス”の頭骨(AMNH 970;トリケラトプス・セラトゥスとして記載・展示されたが、これはトリケラトプス・ホリドゥスとみて間違いないようだ)を採集した。これは吻の一部と角を欠くとはいえ、頭骨の推定サイズは2mを超えるうえに保存もよかった(しかもかなり完全な前肢が残っており、後にAMNHがトリケラトプスの復元骨格を制作する際に参考となった)のだが、ブラウンとラルはもうひとつ、「マーシュが記載していない」大型獣脚類に出くわしていた。
 とんでもないものを発見したのは発掘中から明らかなことであった。最初に見つかった大腿骨はざっと4フィート2インチ――1.3m近くあり、その後も続々と巨大なパーツが(ノジュール化した砂岩に半ば埋もれて)出現したのである。発掘は1シーズンで終わるものでは到底なかったが、とりあえず掘りあがったものから(最寄りの鉄道駅までの160km近くを馬ぞりで運びつつ)AMNHへ送られることになった。
 ブラウンが現地に残っていつ果てるとも知れない発掘を続ける一方、(作業手当が付きたために)先にAMNHへ戻っていたラルがクリーニングを主導することになった。ブラウンによる発掘は1905年いっぱいまで続き、ミラーとカイゼンまで加わったクリーニング作業がそれに続いた。この頃オズボーンの耳にもCM 1400――1902年にアターバック(YPM時代のハッチャーの助手)がワイオミングのララミー層で採集した大型獣脚類の報が入り、思うように進まないブラウンの骨格――AMNH 973のクリーニングに焦燥感を募らせていった。AMNH 973は頭骨のかなりの部位を保存しているようだったが、一方でCM 1400にも頭骨の要素が相当に含まれているという話だったのである。両者は同じ種を代表している可能性があり、そうだとすればもはや早い者勝ちの状況であった。
 1905年10月、オズボーンはAMNH 973とAMNH 5866の記載に踏み切った。AMNH 973は発掘すら終わっていなかったが、それでも相当な部位が残っているのは間違いなく、とにかく先手を打って命名だけしておけばなんとかなると見てのことであった。かくしてここに、ティラノサウルス・レックスTyrannosaurus rex命名されたのである。急ごしらえの命名であった(AMNHに到着していた部位でさえクリーニングが終わっていなかったため、ひたすらに巨大である以上のことはオズボーンにも言えず、体サイズの割にやたら小さい上腕骨がこの動物に属することさえ断言できなかった)が、それでもオズボーンはこの巨大な肉食恐竜にとてつもない可能性を見出していた。
 オズボーンをもってして、ひたすらにデカいこと、頭骨に粗面からなる装飾が発達していること、そして皮骨板を持たないらしいこと程度しか述べられない状態(保存されていることが確認できた部位でもってざっくりとマシューの描いた骨格図を掲載してもいるのだが;研究の「総決算」として骨格図が描かれるかどうかであったこの時代に、ざっくりでいいからとにかくビジュアルを、というオズボーンのセンスはやはり先駆的であった)のティラノサウルスに対し、次のページで命名されたディナモサウルス・インペリオススDynamosaurus imperiosus――AMNH 5866のクリーニングは終わっており(AMNH 973に比べればだいぶ不完全な骨格ではあった)、背中を鎧で固めた巨大肉食恐竜の姿は明らかなように思われた。オズボーンはディナモサウルスの見事な歯骨と歯について詳しく記載することができたのである(ティラノサウルスでも歯骨が保存されているのは間違いなかったが、クリーニング中のためにディナモサウルスとの比較は全く行えなかった)。最後にオズボーンはカナダ産ドリプトサウルスのために新属新種――アルバートサウルス・サルコファグスを命名し、論文の締めくくりとした。


 AMNH 973のクリーニングは1906年に終わり、ようやくティラノサウルス・レックスの実態が明らかとなった。早速オズボーンはティラノサウルスについての第2報を出し、これについて詳しく記載を行った(ついでにティラノサウルス科も設立した)――が、結果は意外なものとなった。AMNH 973とAMNH 5866は形態的に区別できそうな点が見当たらなかったのである。カーネギー博物館に対しどうにか先手を取ったオズボーンだったが、ディナモサウルス・インペリオススをティラノサウルス・レックスのシノニムとすることでそのツケを払うことになったのだった(すんなり自分のミスを認めているあたり、まるっきり同じ形をしていることによほど驚いたのかもしれない)。ディナモサウルスの方が標本の発見では先んじていたものの、論文内での命名順が仇になったのである。
 この時点でオズボーンの手元にはクリーニングの終わった3体目のティラノサウルスの部分骨格AMNH 5881があり、3体を合計すると尾を除く全身の相当な部位のパーツが揃った計算であった(尾の要素はAMNH 973に尾椎の残骸が1点含まれていた程度であった)。AMNHの誇るサイエンスアーティストの一人であったスターリングはこれら3体を取り混ぜ、見事な骨格図を描いてみせたのである。
 原記載でどうするかさんざん悩んだ末に骨格図へ描き入れられていたAMNH 973の小さな上腕骨は、結局AMNH 973そのものと判断された(スターリングの骨格図でも、マシューによる原記載の図と同様3本指の小さな手が復元されている)。ひどく退縮しているとはいえ筋肉の付着点は明確に残されており、なにがしかの機能――おそらくは交尾の際に背中につかまるのに役立ったのだろうとオズボーンは考えた。
 AMNH 5866――ディナモサウルスのホロタイプに含まれていた皮骨の解釈はもっとずっと厄介であった。AMNH 973やAMNH 5881で皮骨はひとかけらも見つからなかった一方で、AMNH 5866からは相当数の皮骨が発見されたのである。AMNH 5866が他の様々な恐竜とごった煮になっていたのも確かであった――トリケラトプスと思しきフリルの断片や、ハドロサウルス類の顎の断片も共産したのである。一方で、AMNH 5866は多数の肋骨――紛れもない獣脚類の形態のそれも保存しており、胴回りのパーツがかなり残っている格好でもあった。かくしてオズボーンは、ティラノサウルスの背中が皮骨で装甲されていたと考えることにしたのである。これほどのサイズの肉食動物が身を守るための装甲を発達させるのも妙な話ではあったが、オズボーンはティラノサウルス科――ことによるとティラノサウルス本人から身を守るためのものと捉えたのであった。

 

(AMNH 5866の皮骨はアンキロサウルスのものと考えられるようになって久しい。ブラウンは1908年のアンキロサウルスの原記載の中で「ティラノサウルスの皮骨」とアンキロサウルスのそれを比較しているが、形態の違いから両者は別物と判断している。)

 

 1906年の暮れ、AMNH 973の巨大な腰帯と後肢が組み上げられ化石ホールに展示された。大きな鳥の骨格が足の間にちょこんと収まり、ティラノサウルスの途方もないサイズとそこはかとない鳥との類似性を訴えかけたのだった。ナイトによって描かれた復元画が花を添え、命名から1年ほどのうちに史上最大最強の陸生捕食者のイメージが完成したのである。

 

AMNH 973の頭骨も(当時の常識として、実物を石膏に練り込む形で)復元されたが、これは今日の目で見るとだいぶ不正確な代物であった。未産出の部位はアルバートサウルスの頭骨でも補完できなかったのである。売却先のカーネギー博物館でAMNH 973がマウントされた際にも、頭部に据えられたのはこの復元頭骨(のレプリカ)であった。全身のマウントのために椎骨のアーティファクトの制作も進められたが、これをAMNHで展示することはとうとうかなわなかった。)


 1908年、ブラウンは再びモンタナのララミー層を訪れた。1906年の予備調査で発見したハドロサウルス類やらなんやらの発掘が当面の目標だったのだが、ふたを開けてみればこれはハズレであり、結局発掘をあきらめることにした。が、キャンプへの道すがら、ブラウンは生涯最高ともいえる化石との出会いを果たしていた。4つの風化した尾椎が露出しており、ちょっと掘ってみただけで15個の関節した尾椎――角竜ともハドロサウルス類とも異なっており、ブラウンのまだ見たことのないタイプの尾椎だった――が姿を現したのである。その根元は丘へと続いており、腹をくくったブラウンはキャンプを骨格のそばへ移動させた。
 この標本――ブラウンは“バグ”と呼んだ――の発掘は1908年の7月から始まり、すぐにそのすさまじい様相が明白となった。ダイナマイトを駆使して丘の上部を吹き飛ばすのに1週間を要したが、そこにあったのは体の右側を下にして横たわったティラノサウルスの巨大な死体――尾の中ほどから首の先までデスポーズで関節した骨格であった。右側の肋骨は全て関節状態でそこにあり、左側の要素も全てがそのあたりに散らばっていた。前後肢はそっくりなくなっていたが、恥骨と座骨の間に引っかかっていた頭骨は完全な状態――頭蓋も下顎もすべて揃っていたのである。大量の堆積物で覆われていたぶん(=風化から相当に保護されていた)化石の保存はよく、AMNH 973の時のように意味不明に硬い砂岩のノジュールに埋まっているということもなかったので、化石の層準に達してしまえば掘り出すのはそう難しい作業ではなかった。9月の上旬には発掘は完了したのである。
 ニューヨークへ到着した“バグ”は、AMNH 5027のナンバーを与えられ、さっそくクリーニングと展示準備が始まった。尾の後半を除けば体軸の要素は完全な状態であり、そしてこの標本はもうひとつ奇跡的な幸運に恵まれていた――AMNH 973と事実上同サイズの動物だったのである。AMNH 973は肩甲骨と上腕骨、それにほぼ完全な後肢を保存しており、AMNH 5027と相互補完することで下腕と尾の後半を除くほぼ全身のパーツが揃ってしまう格好であった。プレパレーションにはAMNHの技術の粋が注ぎ込まれ、AMNH 973のキャストで補完しつつ未知の部位はアロサウルスを参考としたマウントの準備が整ったのである(AMNH 973の第III中足骨は遠位端しか残っておらず、制作されたアーティファクトの足は非アークトメタターサルであった。これは数年後に明らかな誤りであったことが確認された(後述)が、いかんせんマウントの根幹をなす部分でもあり、前肢と違って交換することはかなわなかった。趾骨のアーティファクトは(末節骨がだいぶ大きいものの)特別問題のあるものでもなく、リノベーションの際も中足骨ごとそのまま再利用された)。
 せっかく同サイズのティラノサウルスが2体もある以上、オズボーン(1908年に館長に就任していた)としてはAMNH 973とAMNH 5027を並べて展示したいところであった。それも単に2体を並べるのではなく、生息時のようにいきいきとして「映え」るポーズで、である。AMNH 5027の頭骨の記載を済ませたオズボーンは、クリストマン――スターリングと双璧をなすAMNHのサイエンスアーティストであった――に1/6スケールでティラノサウルスの骨格模型を2体制作させ、マシューと二人でマウントのポージングと配置を検討した(ポーズ案)。最終的に決定されたポーズ案ブロンクス動物園の爬虫類部門のスタッフの意見を参考としたもので、AMNH 973が仕留めた“トラコドン”をAMNH 5027が奪おうとするものだった。“トラコドン”に覆いかぶさるようにして咆哮するAMNH 973と、威嚇のために限界(以上)まで背中を起こしたAMNH 5027――頭のてっぺんは高さ5.5mに達した――というあまりにもダイナミックな取り合わせはしかし、様々な意味で無理筋であった。重い化石と石膏の組み合わせをこれほどアクティブなポーズで組み立てた前例はなく(今日でもない)、今日の目で見ても抜きんでた技術を誇っていた(化石にはあまりやさしくなかったが)AMNHの精鋭プレパレーターたちをもってしても、これほどのマウントを実際に組み立てられる保証はなかった。そもそも展示ホール(当時、脊椎動物化石は全て今日の「脊椎動物の起源」ホールに押し込められていた;1921年になって現在の「鳥盤類ホール」が完成し、恐竜の展示は全てそちらへ移ったが、それでも決して余裕のある空間ではなかった)のサイズからしてこの巨大な動物2体を対決させるのは不可能だったのである。そしてこのあたりの問題をクリア――ホールの増築をするためには不可欠である資金がどうしようもなかった(このあたりはオズボーンをオズボーン足らしめる得意分野ではあったのだが、それでも限界はあった)。
 結局、AMNH 5027をメインにしたマウントただ1体が1915年にデビューすることになったが、この恐竜――ティラノサウルス・レックスを真に恐竜の代表とするにはそれで十分であった。この「世界で唯一のティラノサウルスの復元骨格」は公開されるやいなやセンセーションを巻き起こし、その後30年近くに渡って世界で唯一というその立場を守り続けたのである。1917年にオズボーンはAMNH 5027の椎骨や腰帯についても記載・図示を行い、ティラノサウルスに関する研究のひとまずの締めくくりとしたのであった。

 

(AMNH 5027のマウントが展示されてからしばらくのうちは、1906年に完成したAMNH 973の後肢のマウントもすぐ脇に展示され続けていた。AMNH 5027のマウントは台座ごと移動させることが可能であり、上述の展示室移転時には大いに役立ったようである。オズボーンは1917年の論文の中でマノスポンディルスに関するハッチャーの意見を追認し、さらにティラノサウルスの後方頸椎~第1胴椎と酷似していることを述べた。が、マノスポンディルスが椎体2個のみに基づくことから、これを属種不定ティラノサウルス類とした。オズボーンはさらに、当時スミソニアンでマウントされたばかりであったケラトサウルスのホロタイプの皮骨について触れ、“ディナモサウルス”の皮骨がティラノサウルスに属することはほぼ確実と考えていた。ゴルゴサウルスの発見によってランベはティラノサウルスが2本指であった可能性を指摘するようになり、これを受けて1927年にAMNH 5027の前肢は交換された。1920年にギルモアがスミソニアンの所蔵する様々な獣脚類を一気に記載した際にハッチャーの採集した一連の“オルニトミムス・グランディス”がティラノサウルスであることが指摘され、マシューとブラウンも1923年にこれを追認した。ここに至ってティラノサウルスがアークトメタターサルを持っていたことがようやく認識されたのである。
 マノスポンディルス・ギガスがティラノサウルス・レックスのシニアシノニム云々の問題は(目を引く話題ゆえに)相当な誤解を持って語られがちであるが、オズボーンから今日に至るまできちんとした比較でもってマノスポンディルスがティラノサウルスであると断定した研究者はおらず(恐らくはティラノサウルスで間違いないのだが)、ラーソンがマノスポンディルスの掘り残しの可能性があるとして喧伝したBHI 6248(これはまぎれもないティラノサウルス・レックスで、“E. D. コープ”の愛称が付いている)についても明らかな証拠は何もなかった。「マノスポンディルス・ギガスがティラノサウルス・レックスで間違いないとして」前者はICZN第4版(2000年以降適用)の遺失名nomen oblitumに該当し、自動的に後者が保存名nomen protectumとなるが、そもそもマノスポンディルス・ギガス(と確実に言える標本)が断片的すぎて種としての特徴をなにも保持しておらず(単に巨大なティラノサウルス類の椎骨としか言えない)、保護名うんぬんの状況にさえ(おそらく永久に)至っていないのが現状である。遺失名云々も、特にティラノサウルス・レックスという学名の保護を目的として設けられた強権措置ではない。)


 結局CM 1400は記載されず、ティラノサウルスを巡る情勢はオズボーンの一人勝ちに終わった――のは、オズボーンが死ぬまでの間だけであった。大恐慌の影響をまともに食らってAMNHの入館者数は減り続け、オズボーンが館長を退くと(元部長のオズボーンが館長職についていたがために)金食い虫であった古脊椎動物部門は地質部門に統合され、予算と人員は大きく削減された。こうした状況は割とどこでも似たようなものであり、かくして恐竜研究の暗黒時代が訪れたのである。
 予算不足にあえぐAMNHがとった最後の手段が標本――バックヤードで眠っていたティラノサウルス・レックスのホロタイプAMNH 973の売却であった。第二次世界大戦はとうに始まり、対日戦の足音も近い中にあってニューヨークは決して安全ではなかった――が、交渉はそのさらに以前から始まっていた。1941年、「戦禍を避けるために」AMNH 973を買い取ったのはよりにもよってカーネギー博物館――ララミー層の大型獣脚類の命名を巡ってAMNHに先を越された格好となった――で、翌1942年にはAMNH 5027のキャストと組み合わせた復元骨格が制作されたのである。AMNH 5027のマウントと同様に実物頭骨を足元に従えたそれ――CM 9380は、ディプロドクスやアパトサウルスと正対させられたのであった。暗黒時代の中で、AMNHは「世界で唯一のティラノサウルスの復元骨格」を展示しているという立場を自ら手放したのである。

 

(AMNH 973とともに脳函AMNH 5029もカーネギー博物館へ売却された。こちらは今日CM 9379として所蔵されている。)

 

 やがて暗黒時代は終わり、恐竜ルネッサンスの号令が響く1960年代後半にあってAMNHからはさらにティラノサウルスが旅立っていった。寄付金を得て勢いづく大英自然史博物館に購入されたのはAMNH 5866――“ディナモサウルス・インペリオスス”とAMNH 5881で、それぞれBMNH(現NHMUK)R7994とR7995となった(さらに“ディナモサウルスの皮骨”はR8001として分離した)。
 ロンドンへやってきた“ディナモサウルス”たちをAMNH 5027のキャストと組み合わせてマウントするという任についたのはニューマンだったが、彼はこれをAMNH 5027やCM 9380のマウントと同様の古式ゆかしいスタイルで組み立てる気はなかった。恐竜ルネッサンスによってこの「ゴジラ立ち」スタイルは古ぼけつつあったし、展示空間としてもティラノサウルスの頭を目いっぱい持ち上げて組み立てる余裕がなかった(天井の高さがあまりなかった)。ニューマンはAMNH 5027のキャストの首と下顎をR7994で置き換えつつ、R7995に基づいた腹骨を添えたウォールマウントを組み上げたのだが、これはAMNH 5027とは相当に異なった見てくれになっていた。AMNH 5027では計53個として復元された尾椎のトータル数をゴルゴサウルス(の推定数)と同様の37個まで減らし、3.6mも短くなった尾を常時地表から持ち上げるものとして復元したのである。

 

(オズボーンはあくまでAMNH 5027を活発な動物として復元しており、愚鈍さゆえに尾を常時引きずっていたわけではなかった点に注意が必要である。1917年に詳細に記載されたゴルゴサウルスのホロタイプは尾椎の大多数を保存しており、AMNH 5027のマウントの完成から数年のうちには長すぎる尾の問題が明らかになっていた。ランベはゴルゴサウルスの尾椎のトータル数を36個前後と推定していたが、その後制作されたAMNHのゴルゴサウルスのマウントでもトータル数は37個とされたのであった。ティラノサウルス(や他のティラノサウルス科)の尾椎のトータル数は今日でも厳密にはわかっていないが、“スー”で37個以上あったのは確実であり、またタルボサウルスの大型幼体で45個あったことが確認されている。ティラノサウルスやその他のティラノサウルス科も同程度で間違いないだろう。個数としてはランベやニューマンの推定からだいぶ増えているようにも思えるが、「増加分」の尾椎のサイズはごく小さなものであり、全体で言えばランベやニューマンの復元にひょろっとしたわずかな延長分が付くに過ぎない。)

 

 1970年、このあたりの話題についてニューマンは論文を出版した。尾の復元に関するニューマンの指摘は至極もっともであり、獣脚類の研究者の間で1920年代初頭には暗黙の了解となっていた案件を論文化しただけであったといえばそうでもあった。これも恐竜ルネッサンスのひとつだったのである。さらにニューマンは走鳥類とティラノサウルスを比較し、まともな尾を持たない前者が大腿骨をほぼ水平に保つことで足を重心(胴体の中央付近)の真下に置いている一方、(以前よりだいぶ短く復元したとはいえ依然として)長く重い尾を持つ後者の大腿骨が走鳥類のような姿勢を取らせることなどできそうにないことに注目した。そして、ティラノサウルスの膝関節はほどほどに伸びた状態(依然として曲がった状態である)が基本――足は胴と腰の境界あたりの真下に来る――だとして、長く重い尾で上半身とうまくバランスがとれることに気付いたのである。ニューマンはここに、ティラノサウルス(や同様のボディプラン(重い頭と上半身、ほどほどに長く重い尾)を持つ他の大型獣脚類)が、走鳥類と同様、通常時は上半身と尾をほぼ水平に保っていたことを断言したのであった。ここでついに「現代的」なティラノサウルスの復元が現れたのである。
 ニューマンのティラノサウルスはやや上半身を持ち上げ、ゆったりと行儀よく歩くように描かれていたが、同年にラッセルが出版したカナダ産ティラノサウルスのモノグラフに掲載されていたダスプレトサウルスの骨格図はずっと過激であった。上半身をやや下げて大股で獲物を捜し歩くラッセルのダスプレトサウルスは、恐竜ルネッサンスにおける大型獣脚類のイメージを決定付けるものであったのである。続いてラッセルとキッシュのコンビで描かれた様々なカナダの恐竜の復元――骨格図そして復元骨格と同じポーズで描かれたダスプレトサウルスに加え、砂埃を巻き上げてエドモントサウルスをずたずたに引き裂くティラノサウルスを含んでいた――はこれを加速させ、恐竜研究の黎明期から連綿と続いていた(そして「暗黒時代」に一度は途絶えかけた)「活発な恐竜」のイメージはここで一つの完成を見たのである。

 

↑“ランス期”の様々な未成熟のティラノサウルス類。いずれも今日ではティラノサウルス・レックスとみなされている。

上から、LACM 23845、BMRP 2002.4.1(“ジェーン”)、CMNH 7541、LACM 28471。

スケールバーは1m。


 ニューマンの意見が即座に受け入れられたわけではなかった――「半ゴジラ立ち」で復元しようとする流れはその後もしばらく続いてはいた――が、それでもこの復元は着実に根付き、いつしか「ゴジラ立ち」は時代に置いてけぼりにされた。
 これにさかのぼる1967年、ロサンゼルス郡立博物館(現ロサンゼルス自然史博物館;略号はLACMのまま今日に至っている)はAMNH以来となる大規模な遠征調査を3シーズンにわたってモンタナのヘル・クリーク層――1929年にブラウンによって分離・命名されていた――で行うこととした。この遠征でLACM隊のガイドとなったのが完全独学のアマチュア化石ハンター――ハーレイ・ガルバーニであった。
 ガルバーニはLACM隊を次から次へと化石の産地へ導いた。ブラウン以来の才の持ち主であったガルバーニによってLACMは有数のヘル・クリークの化石コレクションを築き上げることになったのだが、その中でもとりわけ重要な発見が3体の獣脚類――LACM 28471とLACM 23844、そしてLACM 23845であった。
 LACM 28471――もっぱら“ジョーダンの獣脚類”の通称で呼ばれた――は遠征に先立つ1966年に採集されたもので、これは奇妙な小型獣脚類の頭骨の残骸であった。風化した上下の吻の要素と後頭部の断片が残されており、もともとはティラノサウルスの幼体と漠然と考えられていた。一方、これの研究にあたったモルナーは“ジョーダンの獣脚類”がティラノサウルス科と多数の特徴(例えば「D字断面の前上顎骨歯」;LACM 28471は前上顎骨を欠いていたのだが、一緒に見つかった歯のうちのひとつは前上顎骨歯と判断された。これは鋸歯を欠いていた)を共有する一方で、頭蓋天井の縫合線がだいぶ異なるらしいことも見て取った。“ジョーダンの獣脚類”の吻はやたら低いらしく、ティラノサウルスは言うまでもないとして、ヘル・クリーク層産のもう一つのティラノサウルス類――アルバートサウルス・ランセンシスと比べても相当に低かったのである。“ジョーダンの獣脚類”はドロマエオサウルス類とも相当数の特徴を共有しているらしく、1978年にモルナーはひとまず大型のドロマエオサウルス類とみなした。
 続く1981年、モルナーはLACM 23845――遠征調査中にエンダールの牧場で採集された中型のティラノサウルス類を記載した。これは巨大なティラノサウルス・レックスLACM 23844――ばらけた頭骨の大部分に加えてほぼ完全な足が保存されていた――の発掘のさなかに発見されたものであった。エンダールは自らブルドーザーを駆って発掘に協力したのだが、その排土の山の中に(ブルドーザーによって)ぼろぼろになったティラノサウルス類の骨格が入っていることにガルバーニが目ざとく気付いたのである。産状が産状だったためにこのティラノサウルス類には複数の標本番号が振られていたが、それらはやがて同一個体であるとみなされてLACM 23845に統一された。これは頭骨の様々な部位の断片(下顎はそれなりに完全だった)と後肢の大部分、部分的な肩帯と前肢を保存していたのである。。

 この骨格も当初ティラノサウルスの未成熟個体とされていたのだが、その後cf. アルバートサウルス・ランセンシスとされていた。モルナーもやはりLACM 23845はアルバートサウルス(この場合ゴルゴサウルスを含む;この当時、ドリプトサウルスもアルバートサウルスに近いものであるらしいと考えられるようになっていた)的な代物であると考えた。ロジェストヴェンスキーによって、ティラノサウルス類の亜成体が成体と比べてずっとほっそりしていることが指摘されており、これはLACM 23845にも言えそうであった(頭蓋天井の結合は相当緩かった)が、一方で頭蓋天井の縫合線のパターンはティラノサウルス・レックスとは別物で、アルバートサウルス的な(後頭部の幅が左右方向に急拡大しない)頭骨のつくりであることは間違いなかったのである。脛骨の近位端の形態はドリプトサウルスとよく似ているように思われた――が、腓骨の形態は全く異なっており、モルナーはLACM 23845がティラノサウルスの亜成体でもドリプトサウルスでもないと判断した。残るマーストリヒチアンの北米産ティラノサウルス類といえばアルバートサウルス属とダスプレトサウルス・トロススだけで、ヘル・クリーク層といえば上述の通りアルバートサウルス・ランセンシスの産地でもある。アルバートサウルス・ランセンシスの頭蓋天井はしっかりと結合しており(実際はまったくそんなことはなかったのだが)、LACM 23845のゆるいそれとは異なるようにも思われた――が、同じ地層から産出しているということから、ひとまずモルナーはLACM 23845をアルバートサウルス・cf. ランセンシスとしたのであった。

 

(ゴルゴサウルス・ランセンシスGorgosaurus lancensis――ラッセルによる1970年のモノグラフ以来アルバートサウルス・ランセンシスと呼ばれていた――は、1942年に「モンタナのランス層」でクリーブランド自然史博物館のダンクル(ダンクルオステウスは彼への献名である)によって採集された頭骨に基づいている。この頭骨CMNH 7541はほぼ完全な一方で相当に変形・破損していたが、各部の縫合線はかなり強固に“癒着”しているように思われた。このためこれは成体とみなされたのである。ロジェストヴェンスキーはこの標本が全体的な形態からしティラノサウルスの幼体に過ぎないことを指摘したのだが、一方でラッセルは縫合線の様子からして成体で間違いないとみなした。LACM 23845はCMNH 7541と比べてだいぶ大きな個体ではあった一方で未成熟個体であることも間違いなく、モルナーはLACM 23845をアルバートサウルスcf. ランセンシスとはしたものの、再三にわたって生層序的な考え方に基づくもの(=直接的な形態の類似に基づくわけではない)ことを記している。)


 ヘル・クリーク層の獣脚類に関するモルナーの慎重な意見を吹き飛ばしたのはポールであった。ポールは1988年に出版した肉食恐竜事典の中で、LACM 28471の「鋸歯を欠いたD字断面の前上顎骨歯」がアウブリソドンに他ならないことを指摘し、LACM 28471がアウブリソドン類であることを指摘したのである。模式種であるアウブリソドン・ミランドゥスがずっと古いジュディス・リバー層からの産出であることから、ポールはこれにモルナーにちなんでアウブリソドン・モルナリスAublysodon molnaris(末尾のsが余計である)の名を与えた。モルナーとカーペンターは1989年にLACM 28471を再記載してポールの意見を追認しつつ、前上顎骨歯が形態的に区別できなかったことから、種小名についてはcf. ミランドゥスに留めた。
 アルバートサウルス・ランセンシス――CMNH 7541は、1988年にバッカーとウィリアムズ、そしてカリーによってティラノサウルス科の小型の新属――ナノティラヌスNanotyrannus(所蔵先にちなみ、もともとはClevelanotyrannusという属名を考えていたらしい)に移された。進化的な特徴――両眼視のために著しく後頭部の左右幅が拡大しており、かつ極端に左右幅の狭い吻を持っているように思われた――と原始的な特徴――歯の数はだいぶ多かった――の組み合わせからしアルバートサウルスやゴルゴサウルスと同じ属のようには思われなかったのである。バッカーらはナノティラヌスがティラノサウルス科の中でもっとも原始的なものとみなし、進化的な特徴はティラノサウルスへの収斂とみなした。
 ポールはこれを受け、LACM 23845をアルバートサウルス属の新種――アルバートサウルス・メガグラキリスA. megagracilisとした。ここにヘル・クリーク層の4つのティラノサウルス類――大きい順にティラノサウルス・レックス、アルバートサウルス・メガグラキリス、ナノティラヌス・ランセンシスそしてアウブリソドン・モルナーリが揃ったのである。オルシェフスキーは後にLACM 23845がアルバートサウルスではなくもっとティラノサウルスに近いものと考えてこれに新属名ディノティラヌスDinotyrannusを、LACM 28471を歯のみに基づく属であるアウブリソドンから外し、新属名スティギヴェナトルStygivenatorを与えたのだった。


 1992年に出版されたカーペンターによるティラノサウルス科のレビュー(ナノティラヌスの論文や肉食恐竜事典は引用されておらず、原稿の完成は明らかに1988年以前である。もっとも、カーペンターの弁はそのあたりへの批判としても有効であった;脚注でカーペンターの所属先が最近変わったことだけが書き添えられている)は、このあたりのイケイケな状況に冷や水をぶっかけるものであった(一方で、かねてよりタルボサウルスの幼体とみなすかどうかでもめていたゴルゴサウルス・ノヴォジロヴィG. novojiloviに新属マレエヴォサウルスMaleevosaurusを与えている)。CMNH 7541の基本形はアルバートサウルスやゴルゴサウルスではなくティラノサウルスのそれであり、頭蓋天井の“癒着”だけでこれを成体とみなすことに注意喚起をしたのである。LACM 23845にしても、ティラノサウルスの亜成体ではないとする根拠はごく弱い(脛骨の近位端の形態も有意な差かといえばそうでもなさそうだった)ことを指摘したのだった。
 このあたりの問題――“本職”ではないポールやオルシェフスキーが引っ掻き回したことでだいぶ面倒な事態に陥っていた――に正面から突っ込んだのはカーであった。卒論、修論を通してティラノサウルス類の様々な成長段階の個体と向き合ってきたカーをして、CMNH 7541は幼体にしか見えなかったのである(幅の広い後頭部やらなんやらはどう見ても化石化の過程における変形の産物であった)。幼い顔つきであった一方でCMNH 7541の細部の特徴は何よりもまずティラノサウルス・レックスと酷似しており、それはLACM 28471にしてもLACM 23845にしても同様であった。2004年、カーはこれらヘル・クリーク層産の問題児に関する詳細な再記載を出版し、いずれもティラノサウルス・レックスの未成熟個体であること――ヘル・クリーク層ひいては“ランス期”の北米西部のティラノサウルス類がティラノサウルス・レックスただひとつであることを明示したのである。
 かくしてこれらの問題児が未成熟個体であることは誰もが認めるところとなった――が、ここからが泥沼であった。CMNH 7541や、それと多数の特徴を共有する(もう少し大型の)未成熟個体BMRP 2002.4.1――“ジェーン”に見られる種々の特徴は、これが未成熟個体であることを差し引いても分類学上有意なのではないかとする意見が(事実上ピーター・ラーソンただ一人から)延々と述べられたのである。ヘル・クリーク層から時折発見される未成熟のティラノサウルス類(その大半がプライベートコレクションへ入った)の多くはCMNH 7541と同様の特徴を有している――ナノティラヌスの未成熟個体である一方、ラーソン(や他のいくらかの業者)の弁ではいくらかまぎれもないティラノサウルス・レックスの幼体も産出しているというのであった。
 カーからすれば営利業者の言う観察事実はアテにならないものでもあり(公立博物館の標本と同レベルのアクセスは実際問題として不可能であり、ラーソンの言い分が今日の形態記載において通用するものかといえばそうでもなさそうな部分が割とあった)、両者の言い分はこれといって交わることはなかった。カーの言う「成長で変化する特徴」をラーソンはひたすらに「成長で変化しない」と述べるに終始したのである。ラーソンの言うところの「ティラノサウルス・レックスの幼体」が公立博物館のコレクションに収まることもなかったのだった。

 

(2010年にウィットマーらはCMNH 7541の詳細な再記載――高精度のCTスキャンに基づく――を行い、ティラノサウルス・レックスの成体とは異なる様々な特徴を改めて確認したが、一方でこれらが成長段階で変化するのかどうかについて判断を下すことはなかった。ウィットマーらは様々な未記載標本の検討こそがこの分類学上の問題を解決する上で不可欠であると述べるほかなく、究極的にはそれから10年以上がたった現在でもそれは同じである。“ナノティラヌス・ランセンシスの未成熟個体”とティラノサウルス・レックスの成体に見られる形態差のうち、有意かもしれない違いは2点――歯の本数と方形頬骨の外側面にある小さな含気孔に終始する。タルボサウルス・バタール(ティラノサウルス・レックスとごく近縁とされており、カーは常々、原記載と同様にティラノサウルス属として扱っている)の幼体MPC-D 107/7ではどちらの特徴も成体と同様であったが、ティラノサウルス・レックスで同じパターンだったかどうかは判断する術がない。)


 1980年代初頭、開館を控えて活発な調査を行っていたロイヤル・ティレル博物館によってカナダ――チャールズ・モートラムによるわずかな採集例だけがあった――で新発見が相次いだ。カリーらが目星をつけたのはCMN 9950――1946年にチャールズ・モートラムがスコラード層の急崖の中腹で発見し、1960年にラングストンが持ち帰ったその人――趾骨でしかなかった――であった。カリーは1980年に現場を訪れ、チャールズ・モートラムやラングストンが目にしなかったもの――侵食によって姿を現しつつある骨格を見て取り、1981年に発掘が始まった。この“ハクスリー・レックス”――TMP 1981.012. 0001は首から後ろのパーツがわりあいに揃っており、後肢がほぼ完全なだけでなく、椎骨も関節状態で残されていた。発掘隊は崖の上半分を掘り崩しつつ台地の上にクレーンを据えて発掘を行ったが、これによって発掘現場の背後には高さ30m以上に達する新たな崖が生まれた。この時点で頭骨要素は後眼窩骨1点のみであり、まだ相当なパーツが埋まっているようにも思われた――が、崖を丸ごと取り除くだけの予算はなく、これほどの崖をそびえたたせたまま狸掘りをするわけにもいかなかった。発掘はここで中断され、採集されたパーツは(チャールズ・モートラムが発掘をあきらめた程度には硬い母岩だったが)急ピッチでプレパレーションが進められた(プレパレーター6名がかかりきりで丸3年を要したという)。AMNH 5027の頭骨を据えたマウントはどうにか開館に間に合い、以来ロイヤル・ティレルのシンボル展示のようになっている。トンネルを掘って掘り残しをどうにかしようという計画も進められていたが、1993年に崖が崩落して発掘現場は完全に埋まり、かくして頓挫したのであった。
 頭骨に関して言えば不完全燃焼に終わってしまったこの調査の裏で、カリーたちはもうひとつのアルバータティラノサウルスにめぐりあっていた。1980年の夏に釣りに来ていた高校生が発見したそれは、暁新統――新生代の地層とされていたウィロー・クリークWillow Creek層の崖に埋まっていたのである。この骨格が埋まっていた場所はさほど高くない崖の中腹で、幸い(TMP 81.12.1とは異なり)重機が崖下から登ってこられる高さであった。しかもこの場所――バッドランドのはずれにあり、青々としたロッキー山脈のふもととそこから注ぐクロウズネスト川がよく見えた――はカナダ太平洋鉄道の大陸横断線からさほど遠くなく、標本の搬出にも不都合がなかった。地下水の運んだマンガン分で染まった漆黒の化石――灰白色の粗粒砂岩に埋まっており、はっきりと目立った――にちなんで“ブラック・ビューティー”の愛称を与えられたそれ――TMP 1981.006.0001は部分骨格に加えて頭骨の相当な部分を保存していたが、マウントを開館に間に合わせるべくTMP 81.12.1に注力していた博物館に同時並行でこれのクリーニングを進める余裕はなかった。1985年に博物館が開館してからはフルタイムでクリーニングに従事できる人数も減り、この標本のクリーニングは遅々として進まなかった。転機となったのは1990年の日立ディノベンチャー大恐竜博で、会場内の特設ブース内で頭骨のクリーニングが実演展示されたのである。帰国した“ブラック・ビューティー”は来るべきCCDPの世界巡回展で展示すべくクリーニングのピッチが上げられ、そしてCCDPの巡回展には有名なウォールマウント――分割移動式の台座にデスポーズで埋め込まれた実骨と、キャストで組み上げた3Dの全身骨格が展示されたのだった。

 

(“ブラック・ビューティー”の3DマウントはCCDPの特別展で展示されたものと、それ以降に新たに制作されたものとで2タイプあり、例えば下顎後方――角骨と上角骨のアーティファクトが全く異なる。茨城県自然博物館にあるのは前者のタイプであり、福井県立恐竜博物館にあるのは後者のタイプである。ウォールマウントは巡回終了後にロイヤル・ティレルで常設展示されて今に至っているが、この時に足やらのパーツを(実骨準拠の?)ハイディテール版に交換されている。)

 

 

 

ティラノサウルス・レックス“スーSUE”FMNH PR2081(上)と“合衆国のT. レックス  Nation’s T. rex(ワンケル・レックス)”USNM PAL 555000(下)。
 スケールバーは1m。

 “スー”はがっしり型の、“ワンケル・レックス”はきゃしゃ型の典型とされることがしばしばある。ポールは近年これらをホロタイプとしてティラノサウルス属に新種を設けたが、これは全く顧みられていない

 

 1980年代から90年代にかけて、ティラノサウルス・レックスの良好な骨格の発見ラッシュがあった。“ワンケル・レックス”ことMOR 555、“スー”ことFMNH PR2081――ラーソンは頑なに「旧標本番号」BHI-2033を併記し続けた――、そして“スタン”ことBHI-3033はいずれも数奇な運命を辿り、その他相当な数の部分骨格がプライベートコレクションへと消えていくこととなった。
 1988年、モンタナはフォート・ペック貯水池(国立公園の一部、つまりは連邦政府の土地であり、陸軍工兵隊の管理下にあった)にて一家でボート遊びをしていたキャシー・ワンケルはダム湖に浮かぶ島へと上陸し、そこでいくばくかの化石を発見した。彼女はこれを最寄りの博物館――モンタナ州ロッキーズ博物館(MOR)へと持ち込み、同定にあたったホーナーを仰天させた。これはティラノサウルスの前肢――記載されていたのは上腕骨だけだった――に違いなかったのである。所有権はあくまでも陸軍工兵隊にあったが、ともあれ発掘と(当分の間の)管理はMORが行うことになり、“ワンケル・レックス”――AMNH 5027をはるかに上回る完全度の骨格が姿を現した。頭骨は不完全であり、尾も前方1/3しか残っていなかったが、デスポーズでつながった椎骨の傍らには肩帯と完全な後肢があったのである。ワンケルが持ち込んだ前肢はほぼ完全であり、この骨格にはMOR 555のナンバーが与えられたのであった。
 MOR 555のクリーニングが進められる一方で、サウスダコタでもそれを上回る発見があった。1990年、サウスダコタ各地の私有地をまわって販売用の化石を集めていたブラックヒルズ地質学研究所(BHI)が出くわしたのはほぼ完全かつすさまじく巨大で重々しいティラノサウルス・レックス――“スー”だったのである。これはやがてBHIを危機的状況に陥らせることになり、結局手元にも残らなかった――ラーソンはBHIの私設博物館でこれを展示するつもりだった――が、ほどなくして発見された“スタン”はBHIを救うことになった。ティラノサウルス・レックスの中でも最高の保存状態(かつ関節が完全に外れていたために内側面の観察も可能だった)とBHIが豪語する頭蓋を備えた“スタン”のキャストは世界中の博物館にあふれ、BHIを世界でも有数の化石業者へと押し上げたのである。“スタン”の実物復元骨格のこけら落としは日本で行われ、やがて“スー”の代わりにブラックヒルズの博物館のホールへ鎮座することになった。
 紆余曲折の末にピーター・ラーソンは(“スー”のもろもろとは別件で)実刑に服し、そして1997年に競売にかけられた“スー”は(プライベートコレクションへ渡ることを危惧した末に、ディズニーとマクドナルド他の資金提供を受けた)FMNHによって落札された。手始めにカーペンターらによってMOR 555と“スー”の前肢が記載され、次いで2002年、ブロシュによって“スー”のモノグラフが出版されたのであった。
 
(“スー”と“スタン”の発見は、ティラノサウルスひいては恐竜の性的二形に関する研究に火を点けた。ティラノサウルスにおける“がっしり型”と“きゃしゃ型”はよく知られた話題であるが、これがピーター・ラーソンの言うように「二形」をなすのかは微妙なところである。加齢や個体変異の影響は排除できるものではなく、肯定的な評価は特に受けていない現状でもある。バッカーやラーソンはティラノサウルス・“エックス”――AMNH 5027などに代表されるもう一つの種が存在し、それらにも同様の性的二形がみられるとさえ述べたが、これも特に顧みられていない。)

 

 幾度か論文にて記載されたのち、“スタン”を襲ったのはBHIを取り巻く法廷闘争であった。最終的に“スタン”は多くを語らぬまま裁判所の命令によって競売にかけられ、“スー”をはるかに上回る高額――化石の取引額としては断トツで最高額であり、もはや公的機関の手の届く額ではなかった――でどことも知れぬプライベートコレクションへと消えた。いつか夢見た詳細な骨学的記載はついぞなされることなく、BHIの希望の星として常に輝いていたはずの“スタン”は、キャストの販売権だけを残して展示ホールから去っていったのである。
 ティラノサウルス(だけには当然とどまらないが)を取り巻くこうした状況は、カーをして「絶滅危惧種」と言わしめるものであった。“スー”並みの紆余曲折を経た“モンタナ闘争化石”――完全な前肢を保存した“ナノティラヌス”と、トリケラトプス・ホリドゥスと思しきほぼ完全らしい角竜――は(不発に終わった競売を経て)暗闘の末にノースカロライナ科学博物館の所蔵となったが、手放しで喜べる話なわけはない。暗がりの中の出来事が非公表なのはある種当然のことでもあるが、「重要な」標本の取引価格の高騰に歯止めがかからなくなっているのはもはや明らかなのである。「市場価値」と学術的なそれの間に絶望的な隔たりが生まれているのも違いなかった。前者を生み出すのは連綿と続く漠然としたティラノサウルスのイメージ――オズボーンの時代から喧伝されてきたそれが、研究を取り巻く状況を危機的なまでに追いつめていたのである。

 

(“スタン”は結局アブダビ自然史博物館に購入されていたことが判明したが、これが歓迎すべき事態かどうかは現状かなり微妙である。展示標本に対する研究のハードルは結局のところ非常に高い場合が多い。)

 

 「絶滅危惧種」とはいえ、ティラノサウルスの復元骨格はわりあいに世界中どこでも見られるものである。AMNH 5027が担っていたティラノサウルスの「顔」としての役割はスタンへと引き継がれ、そしてそれに続く数々の新発見によって博物館で見られるティラノサウルスの「顔」はずいぶんにぎやかになった。アルバータと比してもまともな発見のなかったサスカチュワンはフレンチマンFrenchman層でもいきなり巨大なティラノサウルスの部分骨格――かなり完全な頭骨を保存していた――“スコッティ”ことRSM 2523.8が発見されたのである。一方で、コロラド以南のティラノサウルス・レックス(あるいはそれとごく近縁のもの)らしい化石は相変わらずお寒い状況でもあった。
 AMNH 5027はリノベーションによって徹底的に修復されたのちに組み直され、今日もAMNHの顔役として来館者を出迎えている。CM 9380もリノベーションに際して解体され、頭骨要素は石膏の中から救出された(直後に来日した)のちに様々なティラノサウルスのキャストと組み合わされ、MOR 980――“ペックス・レックス”として知られる、MOR にとって2体目のかなり完全なティラノサウルス――のキャストとエドモントサウルスを奪い合う格好でマウントされた。オズボーンの果たせなかった夢が、AMNHのライバルであったカーネギー博物館によって(いささか形は変わったが)実現されたのである。“ディナモサウルス”のマウントは解体されて久しいが、それでもその立派な歯骨は展示され続けている。
 長らくMORで産状風にマウントされ続けていたMOR 555のオリジナルは、2013年からスミソニアン――大規模なリノベーションを控えていた――へ(陸軍工兵隊によって)50年の期限で貸し出されることになった。名実ともに“合衆国のT. レックス”となったこの標本――新たにUSNM PAL555000(外部から受け入れたレプリカ等々にPALナンバーが付与される)の標本番号が与えられた――は、トリケラトプスの“ハッチャー”を供されてUSNMの新たな化石ホールに君臨することとなったのである。
 1906年の暮れに展示デビューを果たしたティラノサウルスは、以来展示の王者として世界中の博物館に居座り続けてきた。周囲を取り巻く研究事情はダイナミックに動き続け、そして決して見通しの明るいものでもないのだが、ティラノサウルスたちは今日も玉座の上から、ちっぽけな人間たちのするさまを見下ろすだけである。

鮫歯の竜の国

↑Skeletal reconstruction of Meraxes gigas holotype MMCh-PV 65.
Scale bar is 1m.

 

 カルカロドントサウルス類は(超)大型獣脚類としておなじみのグループ――になったのは90年代半ば以降、ギガノトサウルスの記載と直後に続いたカルカロドントサウルス・サハリクスのネオタイプの記載および系統解析が行われてからの話である。それまでの状況といえば、カルカロドントサウルスは実質的にシュトローマーの論文の図のみから知られている状態であり(ホロタイプはシュトローマーの調査とは無関係のアルジェリア産の2本の歯に過ぎず、言うまでもなく現存していない)、アクロカントサウルスもいくつかの部分骨格が知られるのみで復元はおろか分類もおぼつかないままであった。そもそも実態の伴ったグループとは認識されていなかったのである。

 90年代半ば以降、カルカロドントサウルスを取り巻く状況は劇的に変わった――のは間違いないのだが、しかし依然としてお寒い状況が続いていた。ネオタイプの指定によってオリジナルの分類群とは事実上別物として生まれ変わった(シュトローマーの記載した部分骨格はネオタイプと同じ分類群とみて間違いないだろうが)カルカロドントサウルス・サハリクスはなおネオタイプ以上の標本は発見されず、ギガノトサウルスに至っては骨学的記載が事実上ほとんどなされないまま30年近くが過ぎている。アクロカントサウルスはほぼ完全な頭骨を含む部分骨格が発見され、これに基づく復元骨格が世界中にあふれている――のはよいとして、商業標本という出自もあってその実態はだいぶ不明瞭でもある。ラス・ホヤスで発見された見事な骨格はコンカヴェナトルとして記載され、詳細な骨学的記載も出版された――が、これは絶妙に頭骨が粉砕されており、白亜紀後期初頭のものとは時代的にも形態的にも小さくないギャップがあるように思われた。当初ギガノトサウルスの新標本とも目されたマプサウルスのボーンベッドは様々な情報をもたらしたが、とはいえボーンベッドゆえに全体像の見えるものではなかったのである(復元骨格の出来が伝説的だという話は些末事ですらない)。

 

 とはいえパタゴニア――ギガノトサウルスやマプサウルス、ティラノティタンといった数々のカルカロドントサウルス類を産出してきた――での調査は盛んにおこなわれており、果たしてカンパーナ渓谷に広がる赤茶けたフインクルHuincul層はその期待に応えたのであった。ギガノトサウルスと比べればいささか小さいが、カルカロドントサウルスの本場たる南半球では初めて胸を張って「保存がよい」と言える部分骨格が姿を現したのである。

 この“カンパーナのカルカロドントサウルス類”はアクロカントサウルス以来となるほぼ完全な頭蓋が保存されており、前後肢や肩帯、腰帯も完全と言っていい状態であった。仙前椎はひどく風化していたが、尾椎は付け根から中ほどまで完全な状態であった。南半球でこれほどまとまった1体分の骨格が発見されたのはギガノトサウルス以来のことであったし、保存状態は比べ物にならないほどこちらが良好であった。

 分類学的記載に先駆けて骨組織学的な研究に供されたりもした(割合に壮絶な結果が出た)が、かくして“カンパーナのカルカロドントサウルス類”MMCh-PV 65はメラクセス・ギガスMeraxes gigas命名され、セノマニアンのカルカロドントサウルス類のなんたるかが初めて示されたのである。

 

(すでにメディアで広く取り上げられてもいるが、属名はゲーム・オブ・スローンズの原作に登場するドラゴンにちなんでいる。ファンタジーと言えばファイティング・ファンタジーだったり富士見ドラゴンブックと言えばバトルテックでグレイ・デス軍団だった筆者なので手癖でメカ絵を描くと80年代末~90年代初頭の河森絵もどきになるという話はここではしない。俗っぽい筆者なので日本語版のメックのデザインはやはりフェニックスホークが一番好きである。ロイヤル仕様の見てくれがおそらくストライクバルキリーという話もここではしないでおく。)

 

 

↑カルカロドントサウルス科の骨格。

上からギガノトサウルス・カロリニイ(ホロタイプMUCPv-Ch1)、メラクセス・ギガス(ホロタイプMMCh-PV 65)、カルカロドントサウルス・サハリクス(ネオタイプUCRC PV12)、アクロカントサウルス・アトケンシス(コンポジット;スケールはフランことNCSM 14345に基づく)、コンカヴェナトル・コルコヴァトゥス(ホロタイプMCCM-LH 6666)。スケールバーは1m。

ギガノトサウルス、アクロカントサウルスの腰帯のアーティファクトはおそらく不適切である。ギガノトサウルスの肩帯・前肢のアーティファクトがアクロカントサウルスに基づいている点にも注意。

 

 メラクセスの頭骨はカルカロドントサウルスとギガノトサウルスを足して2で割ったような作りで、涙骨の突起が目立つあたりは(カルカロドントサウルス類としては)珍しいが、その他にこれと言って特筆すべきものはない。肩甲骨はアクロカントサウルスのひょろりとしたものとは異なり、むしろブレードは相応の長さである。前肢の基本的なつくりはアクロカントサウルスやコンカヴェナトルと同様――なのだが、アクロカントサウルスのそれよりもさらに短く、手は(頑なに3本指は保持しつつも)おどろくほどの退縮ぶりであった。そして腰帯は、これまで復元されてきた大型カルカロドントサウルス類のそれとは全く異なった形態――コンカヴェナトルや「クリプトプスの腰帯」すなわち中型の比較的基盤的なカルカロドントサウルス類とよく似た形態であった。足は既知のカルカロドントサウルス類としては最も完全なもので、基本的なつくりはこれまでに報告されたものと特に変わりはなかった――が、やはり末節骨は特筆すべきものであった。第II趾の末節骨(カルカロドントサウルス類ではこれまで知られていなかった)が最も大きいのは獣脚類のボディープランの基本であったが、それにしても異様に長かった(単に長いだけであり、それ以上に特筆すべき特徴はなかった)のである。

 

 依然としてメラクセスのホロタイプは部分骨格に過ぎず、まして他のカルカロドントサウルス類はもっと部分的か、あるいは未記載のままである。とはいえメラクセスで初めて確認された数々の特徴は、少なからず他のカルカロドントサウルス類でも見られた可能性がある。

 メラクセスが産出したのはフインクル層の下部にあたり、ギガノトサウルス(フインクル層の下位にあたるカンデレロスCandeleros層産)とマプサウルス(フインクル層の中部産)との時代的なギャップを埋める格好となる。一方で、系統解析の結果メラクセスはより基盤的な位置――カルカロドントサウルスとティラノティタン-ギガノトサウルス+マプサウルスとの間(ギガノトサウルス族Giganotosauriniの最基盤)に置かれたのである。未記載とはいえ種々の写真からうかがえるギガノトサウルスの頸椎(列)とメラクセスの単離前方頸椎とでは長さに明らかな違いがあり、両者で少なからず体型に差があったことも確かだろう。このあたり、複数系統のカルカロドントサウルス類が白亜紀“中期”の南米でのさばっていた格好となる。

 

 かくしてメラクセスの発見により、カルカロドントサウルス類――脚光を浴びて以来30年でわかった気になっていたグループの思いがけない特徴が白日の下にさらされたわけである。異様に退縮した手、妙にきゃしゃな腰帯、やけくそ気味の長さになった第II趾の末節骨といった特徴が他のカルカロドントサウルス類に見いだせるかどうかは今後の発見次第でもあるが、とはいえこの30年弱でやり残されていたことはあまりにも多い。ギガノトサウルスのホロタイプはひなびた展示室の床にその身を横たえ、ずっと来訪者を待ち続けているのだ。

LALAガーデンつくば店でトークイベントが開催されます

 先日発売された『新・恐竜骨格図集』の刊行を記念するイベントが、7/24(日)にLALAガーデンつくば店にて開催されます。企画にもがっつり関与いただいたイラストレーターのツク之助さんとの恐竜トークと、ツク之助さんの絵本おはなし会&骨格図ぬりえを使った缶バッジづくりの2本立てとなっています。

 詳細はリンク先をお読みください。第1部、第2部とも参加費は無料ですが、第1部は人数制限(25名)と電話での申し込みが必要です。ふるってご参加ください。

伊弉諾物質

↑Skeletal reconstruction of Kamuysaurus japonicus HMG-1219 (holotype) and Yamatosaurus izanagii MNHAH D1-033516 (holotype). Scale bar is 1m.

 日本列島の形成以前――ユーラシア大陸の東縁をなしていた時代、河川を通じて運搬された様々な堆積物が、海底に横たわる種々の堆積盆を埋めていった。こうして生まれた日本の白亜紀の海成層にあって尋常ならざる規模を誇るのが、中央構造線に沿って愛媛から大阪まで300kmにわたって伸びる和泉層群である。カンパニアン中期からマーストリヒチアン後期の中ごろまで、1000万年もかからずに堆積した総層厚60km(地域ごとに時代がずれていくのでひとつところでそこまで堆積しているわけではないのだが)に達する海成層(ごくわずかに陸成や浅海の要素を含むが、基本的には比較的深い海の堆積物である)であり、大量のアンモナイト二枚貝、巻貝、甲殻類に加えて、今日では様々な爬虫類化石――わずかではあるが恐竜も含む――や、果ては鳥類(ヘスペロルニス類)の産出も知られている。
 和泉層群は西から東へ向かって時代が新しくなっていき、岩相の特徴から、露出域の北から順に北縁相(礫岩や泥岩が主体)、主部相(礫岩、砂岩、泥岩の互層からなる)、南部相(礫質の堆積物が目立つ)の3つに大別される。主部相が陸からやや離れた(大陸棚の外側)海底扇状地の堆積物と解釈される一方、北縁相は主部相よりも陸側(北側)の、もう少し浅い海底(ごく一部で浅海~汽水域)で堆積したものとして伝統的に解釈されている。


 和泉層群における化石の発掘・研究は19世紀の末にはすでに始まっており、20世紀に入ると異常巻アンモナイトをはじめとする大型の軟体動物が続々と命名されていった。和泉層群から切り出した石材や砂利は近辺でよく用いられており、採石場にアマチュア採集家が出入りするようになると、和泉層群は蝦夷層群――ちょうどカンパニアン中期からマーストリヒチアン(主に函淵層)にかけて、堆積環境の問題でアンモナイトの産出が一気に減少する――と並ぶ、極めて重要な地層となっていったのである。
 中でも淡路島――南部はそっくりそのまま和泉層群でできている――は和泉層群の露出域の中でも化石の採集が盛んに行われており、数々の“アワジエンシス”や“アワジエンゼ”を輩出していた。特にカンパニアンの最上部は蝦夷層群の化石記録が絶妙に貧弱であるため、日本における上部白亜系の生層序のうち、上部カンパニアン上部(実際には中部カンパニアンも含んでいた)――K6a4を決定付けるのは全て淡路島のアンモナイトやイノセラムス蝦夷層群や那珂湊層群でも採れるには採れるが)といった有様だった。
 淡路島の和泉層群のうち、露出域でもっとも広範にわたっているのが北阿万層である。ここでは戦前の調査(一帯はとっくに由良要塞の一部となっていたが、東京帝大の学生が軍籍持ちだったため、調査許可が下りた)で、カグラザメ類の歯(ノティダヌNotidanus属(カグラザメHexanchus属のシノニム)の新種N. japonicusとされたが、東大博のデータベースには記録がないようで、あるいは行方不明になっている可能性がある)やカメ類(バシレミスBasilemys sp.とされている)、そして翼竜の第4中手骨(もともと異常巻きアンモナイト――バキュリテス・cf.ヴァギナBaculites cf. vaginaとされていた)が産出しており、古くから和泉層群で陸生を含む脊椎動物化石が産出することが知られていた。90年代に入るとモササウルス類やウミガメ類――メソダーモケリス――の発見も続き、日本のカンパニアン-マーストリヒチアンにおける海成脊椎動物の記録を積み上げていくこととなったのである。


 脊椎動物化石の「大物」の発見が2004年に重なった。口火を切ったのは翼竜――まぎれもないアズダルコ類――の頸椎で、公園の片隅に積まれていた工事残土の中から姿を現した。この公園(とその脇の本州四国連絡道路)の整備で削られたのは和泉層群の西淡層、さらに言えば上部のパキディスカス・アワジエンシスPachydiscus awajiensis(カンパニアン末)であり、産出部位からして分類に文句のつけようもない、貴重な発見であった。
 これに続き、淡路島の西海岸の採石場――北阿万層上部が露出していた――で発見されたのが、和泉層群で初めてとなる恐竜の化石――のちのヤマトサウルスの歯骨とそれに続く骨格の断片であった。

 化石はしばらくの間個人蔵ではあった(が、ひとはくで展示されることもしばしばだったようだ)ものの、予察的な研究はサクサク進み、2005年の夏には日本古生物学会で、秋にはSVPで「ランベオサウルス類」として報告されるに至った。
 この標本のデンタルバッテリーは脱落することなくそっくり保存されており、その他の要素についても保存状態は非常に良好で、わりあい急速に埋積されたらしいことがうかがわれた(このあたり、定置されてから完全に埋積されるまでかなり時間がかかったらしいカムイサウルスとは対照的である)。母岩(泥岩である)には骨と共に魚鱗や二枚貝、そして大量の広葉樹の葉――こちらも保存は良好だった――がごちゃまぜになっており、陸からほど遠くない場所で木の葉もろとも(すでに半ばばらけていた)死体が埋積されたらしいことを示唆していた。

 

(北阿万層は先述の北縁相に属し、陸から極端には遠くなく、ほどほどの深さのある場所――大陸棚の堆積物として伝統的に解釈されてきた。ヤマトサウルスの原記載ではタフォノミーに関する特別な議論は何もなされていないのだが、図では、ヤマトサウルスが混濁流によって大陸棚の外まで押し流され、混濁流の「端」すなわち泥質の堆積物(海底扇状地の末端をなす)に埋もれたというざっくりしたシナリオが描かれている。海辺で朽ちかけていた(すでに一度埋積されていたかもしれない)死体が混濁流で木の葉やらとともに押し流されたというのはありそうな話であるが、大陸棚の中(大陸棚の「外」は主部相の堆積場と一般に見なされている)で完結していたように思われる。なんにせよ、タフォノミーひいては堆積環境に関する詳しい研究が必要だろう。)

 

 予察的な報告をもってこの標本を取り巻く状況は静かになったかに見えたが、それも北海道の同時代層――蝦夷層群函淵層からハドロサウルス類の全身骨格が確認されるまでのことだった。2014年にこの標本はひとはくへ寄贈され、やがて「むかわ竜」と共に再研究が進められているという話がぽつぽつ聞かれるようになったのである。

 

(函淵層のIVbユニットと北阿万層の上部では、共に比較的小型の異常巻アンモナイト――ノストセラス・ヘトナイエンゼNostoceras hetonaienseが産出する。もともと穂別の函淵層IVbユニットで知られていた種であるが、のちに大阪の和泉層群六尾層の畔谷泥岩部層下部から、そして北阿万層上部――ヤマトサウルスの発見された問題の一帯からもまとまった数が産出するようになり、これらの地層の対比が可能となったのである。このノストセラス・ヘトナイエンゼ帯はマーストリヒチアンの最下部に位置付けられており、生層序的に重要である。)

 

 華々しく喧伝されたカムイサウルスの裏で、ひっそりとこの「ランベオサウルス類」――MNHAH D1-033516の研究は進み、思いがけない様々な特徴が新たに確認されるに至った。
 予察的な研究でランベオサウルス類とされた根拠となっていたのは歯骨や歯の形態であったが、詳細な観察の結果、歯に妙な特徴――どうも機能歯が一段しか存在しない部分列がちょこちょこ存在する――が確認された。ハドロサウルス科の下顎のデンタルバッテリーといえば、もっぱら「三段構え」が基本なのだが、この標本では確認された34列ぶんのデンタルバッテリーのうち、歯列の中ほど(分散してはいる)の7列が一段しか機能歯が存在せず、ほかも二段しかないという状態であった。これはエオランビアより基盤的なもので一般にみられる特徴であり、一方で歯骨そのものの形態は様々な進化段階のハドロサウロイドの特徴が混在していたのである。烏口骨の形態はギルモアオサウルスにみられるような、つるりとした原始的なタイプであった。
 系統解析の結果、この標本はハドロサウルス科の基盤――ハドロサウルスの「次」のポジション(サウロロフス亜科+ランベオサウルス亜科の姉妹群)におさまった。もはやランベオサウルス類ではないことは確実といえたが、明らかなマーストリヒチアンの初頭和泉層群では古地磁気層序が確立されており、淡路島におけるノストセラス・ヘトナイエンゼの産出層準はC32.1rと対比されている)にあって、ハドロサウルス科でありながらこれほど原始的らしいものが、よりにもよってアジアにいたという衝撃は大きい。この恐竜はその産地と、ハドロサウルス科の起源に近いらしい点とのダブルミーニング――淡路島は国生みで最初に誕生した古事記にもそう書かれている)――で、ヤマトサウルス・イザナギイYamatosaurus izanagiiの学名が与えられたのであった。

 
 タニウスなど、カンパニアン後期の中ほどから後半にかけて、東アジアの比較的沿岸部近くでは時代の割に妙に古いタイプのハドロサウルス類(広義)が生息していたことが知られている。最下部マーストリヒチアンからのヤマトサウルスの発見はこうした状況に輪をかけるものであり、当時の東アジアがアパラチアやヨーロッパと同様、広義のハドロサウルス類にとってなにかしらのレフュジアとして機能していた可能性を示唆している。
 あるいは、ハドロサウルス類の進化において、ある種時代の最先端を突っ走っていたのはララミディアだけというのがより適切な表現なのかもしれない。例えば北のカムイサウルスと南のヤマトサウルスといったように、レフュジア的な地域の中にあっても進化型と原始的なもののすみ分けの可能性を考えることもできるが、一方で、原始的なランベオサウルス類であるチンタオサウルスと同じ紅土崖の上部(金崗口Jingangkou層とされていたが、タニウスの産出層である下位の将軍頂Jiangjunding層ともども紅土崖層に一括された。チンタオサウルスの産出層準はざっと7400万年前ごろと考えられる)からはライヤンゴサウルスのような比較的進化型のもの(やクリトサウルス類が知られている例もあり(タニウスに至ってはシャントゥンゴサウルスとほぼ同時代の可能性がある)、すみ分けていたというよりはむしろ何かしらの食べわけが成立していたということなのかもしれない。
 ヤマトサウルスのホロタイプは貴重な部分骨格ではあるが、突っ込んだ議論を行うにはあまりに断片的でもある(カムイサウルスがいかに特異的かという話でもある)。それでも、カムイサウルスと同時代の東アジア沿岸部に(カムイサウルスとは現状で地理的に離れる格好だが)原始的なハドロサウルス類が存在したのは確かである。
 マーストリヒチアンの初頭――ヘトナイ世(国際層序との対比が進んだ結果、日本のローカル層序はその役目を終えつつある)のはじまりにあって、中新世の「国生み」まで程遠い日本にはどんな光景が広がっていたのだろう。茨城の那珂湊層群、鹿児島の姫浦層群――すでに推定長1.2mに達する大型のハドロサウルス類の大腿骨が発見されている――と、陸の要素を含む最下部マーストリヒチアンは蝦夷層群や和泉層群の他にも点在する。日本における最下部マーストリヒチアンの地層の調査が始まって優に100年が過ぎているが、やるべきことはまだいくらでもある。

 

 

あゆのかぜ

 とっくに春であり、部分的にはすでに夏である。筆者はこの季節が一番好きらしいというのはどうでもいい話で、かれこれ丸2年になる刊行計画は最後のヤマを迎えつつある。

 

 筆者がポールの骨格図を初めて見たのは相当に昔の話になるが、初めてポールの本――恐竜骨格図集ときちんと向かい合ったのは中学生のころ(やはり相当に昔である)になる。図書室ではなく談話コーナーに半ば打ち捨てられていたそれのカバーはとうの昔に失われており、表紙がもげかけている代物でさえあった。とはいえ中学生の心に「全盛期の」グレゴリー・ポールの語り口はよく刺さるものであり、この時期石粉粘土(ファンドではなくラドール派だった)の味を覚えた筆者は、90年代から続く伝統的な手法――骨格図を切り刻んで模型の芯にするやり方に手を出したのである。

 高校生になり、英語でググるという賢しいだけの子供になった筆者は、適当な地域の恐竜相の面子を統一スケールの模型で揃えるという大それた野望を抱くようになっていた。高校の図書館には美品の恐竜骨格図集が入っており、とりあえず目ぼしいページをコピーした筆者であったが、ここで(トリケラトプスの添え物という関係上)テスケロサウルスの骨格図をどうにかして調達する必要に駆られた。「キロステノテスの骨格図」――まだアンズーが命名される前の話である――はスコット・ハートマンのものがいくらでも見つかったが、テスケロサウルスのそれはゴジラ立ちのもの――原記載の図であったということに気付くのはまだしばらく先である――しか見当たらず、そしてそれはあからさまに頭骨が未発見の時代に描かれたものであった。かくして筆者は覚悟を決め、(画像加工ソフトの持ち合わせも何もなかったので)プリントしたゴジラ立ちの骨格図を少しずつ回転させながらトレースし、頭骨(といくらかの頸椎)を描き足してから(ミリペンすら持っていなかったので)ボールペンで清書した。かれこれ13年前の話である。

 

 さて、ポールの骨格図は、登場した当時――恐竜ルネッサンスの激しい熱の中にあった80年代後半にあってさえ、驚くほど過激であった。グラフィカルな主張が強いとはいえ描画手法そのものはガルトンやラッセルによる伝統的な骨格の模式(的かつ正確な)図とバッカーによる黒塗りシルエットの組み合わせでしかなかったのだが、近縁種に対する徹底的な注意と大胆な「素材」の組み合わせは本職の研究者をうろたえさせるのに十分だったのである。コルバートによる相当にアバウトな図しか出回っていなかった当時にあって、ポールによるコエロフィシスの形態の「予言」――ポールは“シンタルスス”をもってコエロフィシスの骨格を徹底的に補完した――は、コエロフィシスのクリーニングにあたっていたプレパレーターを驚愕させたというのだが、これこそがポールの骨格図をロックンロールたらしめるところであった。大胆に過ぎることもしょっちゅうだった(「ポール式分類」には多少なりとも先見性が含まれていた部分もあったが、ともあれ本職から歓迎されることはほとんどなかった)が、それでもポールのロックは研究者たちを震わすに十分だったのである。

 

 The Princeton field guide to dinosaurs――海外でも何年かぶりとなるポールの新刊が発売されたのは、筆者が恐竜骨格図集の目ぼしいページをコピーしてからさほど間を置かずしてのことであった。果たして恐竜骨格図集(そもそも原語版は発売されておらず、ジュラシック・パークに浮かれていた中にあっても当時の日本の恐竜ブームの異常過熱ぶりがうかがえる)の増補改訂版のようなものを想像していた(ついでによくわからず出版社違いのUK版も一緒に買った)筆者は少なからず衝撃を受けた――連発される「ポール式分類」、つまり100%濃縮還元のポールの本と向かい合うのはこれが初めてだったのである(肉食恐竜事典を買うのはもう少し後の話だった)。

 とはいえ「ポール式分類」のなんたるかは上述の通りよく語られていた話でもあった。筆者をわりあいに打ちのめしたのは骨格図そのもの――ポールの命たるそれだったのである。恐竜骨格図集、あるいはそれ以前からポールの代表作として知られていた作品と、明らかにここ数年(=2000年代)で描かれたものとであからさまに出来が違っていたのだった。新鮮さあるいはハングリーさのようなものが後者にないのは当然としても、老獪さのようなもの――長年のキャリアで熟成されるであろうものさえそこには何もなかったのである。

 ポールの奏でるロック――研究者にすら再考を突きつける骨格図――に惹かれた筆者だったが、その時にはすでにそれは過去のものになっていたらしかった。ロックは死んだのである。

 

 第2版はなおのことロックの死のなんたるかを突きつける本であった。初版に残っていた往年の輝きは少なからず削除され、わりあいに無惨な「新バージョン」へ差し替えられていたのである。とはいえ依然としてこの本は骨格図付きの恐竜の本としては(今日でも)もっとも網羅的なものであった。そこの歯がゆさのようなものは散々に書いてきた通りでもあるし、ましてその邦訳を福井県立恐竜博物館のスタッフが、となれば(邦訳の関係者の責では全くないのは言うまでもないが)なおのことである。

 2000年代に入るとポールのほかにも様々な「ポール式」骨格図が現れるようになっていた。先に挙げたハートマンなどはその筆頭ではあったのだが、それらの骨格図は結局のところ「ポール式」ではなかった。ロックを奏でるうえでの約束事――肉食恐竜事典や恐竜骨格図集に注記されている――は、そうしたポールのフォロワーたちや、当のポール本人にさえ守られることはなく、かくしてそれらの骨格図は概念図と言えるかも微妙な代物へと育っていったのである。

 これらの骨格図は、ロックがどうのこうのは別としてポールの骨格図が元来持っていたはずの「うれしさ」(業界用語)は一切合切失われていた。全盛期のポールが削り出すようにして描いていた化石のラインはそこには残っておらず、そして骨格要素の寸法も何も実際とかけ離れたそれは、事実上何者の骨格図でもなかったのである。そしてポールの骨格図では究極的には添え物でしかない黒塗りシルエットの話をしたところで、そこに意味は何もなかった。

 

 このころ暇を持て余した筆者は、造型はやめてマイナーどころの骨格図を濫造する方向に舵を切っていた。濫造とはいえマイナーどころのチョイスの評判はわりあいによかったらしく、またマイナーどころを描くためにメジャーどころ――かつてポールが描いていたものたちを筆者なりにアップデートすることもしばしばであった。果たして骨格図は積み上がり、ついでに骨格図のおまけで集まってきたもろもろの書き綴りも珍しがられ、色々なところから声をかけていただける身分にはなっていたのである。

 このあたりの話は本ブログの古参読者の方には見ていただいていた通りである。かくして筆者の描いた骨格図は様々なところで使っていただける運びとなったが、これはまさしくポールの骨格図――全盛期のそれの愚直な手法を引き継いだものであった。

 もちろん、ポールの全盛期――80年代後半から90年代と今とでは、時代が全く異なる。研究は飛躍的に進み、そして資料は比べ物にならないほど豊富に、かつ大半はたやすく手の届くところに置かれているのだ。であればこそ先駆者(ポールだけに限らない)の手の届かなかったところまできちんとさらってみせるのがなによりの敬意の表し方であるし、その中で改めて先駆者の偉大さに震えるところでもある。ポールの骨格図が世に出て30年以上が過ぎた今なお、――3Dモデルを組み上げた復元画像が論文に掲載されるようになってなお、本来の「ポール式」骨格図はまだ一定の「うれしさ」を留めているのだ。

 

 いつも通り、ここまでがすべて前置きである。かくしてすったもんだの末に(裏で渦巻いていたもろもろの策謀はそのうち話す機会もあるだろう)筆者はを書くことになり、特に悩みもせずにそのままのタイトルを選んだ。少なくともポールほどロックを奏でる腕はないし奏でる気もないのだが、しかしそれでも無我夢中でむかわ竜の骨格図を描くうち、クライアント――本書の監修に入っていただいた――にはなにかしらを与えることができたらしい(絵描きの戯言と思わず耳を傾けてくれたということでもある)。

 科学を加速させるのが古き時代のサイエンスイラストレーションであったし、今日でもそれは変わらないはずである。ロックはもう死んだきりかもしれないが、だとして筆者はただ藪を漕いでいくだけである。

 

(物量を重視した本を作るつもりではなかったのだが、とはいえ恐竜の目ぼしいグループをカバーしつつ、かつ近しいうちでのプロポーションの違いも押さえようとした結果、A4変型判で152ページ、全177種というそれなりのボリュームとなった。ろくに描いていなかったグループをことごとく描いたということでもあり、なんだかんだ描きおろしも結構な割合である。まともな復元が事実上全くなされていなかったグループも(様々な思惑のもと)一挙に描いていたりもして、このあたりはぜひ楽しみにしていただきたい。同人誌よりも安くて大ボリュームな商業作品というのもなかなかな気はするのだが、とはいえ実際よくある話であろう。)