↑Skeletal reconstruction of Gigantspinosaurus sichuanensis holotype ZDM 0019.
Scale bar is 1m.
あっという間というわけでは特にないのだが、ともあれ本ブログを立ち上げてから9年になる。ここのところの1年も激動の年だったのだが(ここ数年絶賛転がる石状態である)、そういうわけでこの先もまだまだ色々ありそうな気配が拭えないところである。
ギガントスピノサウルスと言えば復元骨格が来日したこともあり(不幸にして筆者はお目にかかったことがないのだが)、今日日本でもそれなりの知名度にありついているようだ。一方でこの恐竜は2000年代の半ばになるまで中国国外では裸名として(不当に)扱われており、その一方で長らく「トゥオジャンゴサウルスの関節した骨格」として知られてきたというややこしい経歴を辿っている。
1985年4月、自貢恐竜博物館(ZDM)の調査隊が掘り当てたのは、うつぶせになった中型剣竜のかなり完全な骨格であった。しかも肩帯の傍らには、鎌のような見てくれの異様なサイズのスパイクが左右とも残されていたのである。右側の「肩棘」は生息時の位置関係をおおむね留めているように思われ、しかも基部の腹側にはちょっとした皮膚痕(位置関係からして上腕のものだろう)まで保存されていた。頭蓋や尾の後半部、足はほぼ失われていたものの、この骨格は中国産の剣竜類としてはフアヤンゴサウルスに次ぐ完全度だったのである。
翌1986年、この骨格ZDM 0019はトゥオジャンゴサウルスの新標本として報告された。肩棘(parascapular spine)を保存していた骨格はこれが初めての発見であったが、一方でケントロサウルスの「腰棘」――一連のケントロサウルスの骨格は全て関節が外れた状態で(しかも複数のボーンベッドをなして)発見されており、しかも様々な成長段階の個体が入り混じっていた――の形態は概してZDM 0019の肩棘に似ていたのである。かくして剣竜の復元画は一斉に描き換わり、肩棘を付けたトゥオジャンゴサウルスとケントロサウルスの復元画であふれるようになったのである。
(こうした経緯から、1990年代の文献には「細い肩棘」を付けたトゥオジャンゴサウルスやフアヤンゴサウルスの骨格図がしばしば出現するのだが、実のところこれらの復元に用いられていたのは肩棘ではなく尾棘(サゴマイザー)の断片であった。トゥオジャンゴサウルスの尾棘は今日まで未記載であり、そもそも発見されているのかどうかさえ微妙なところである。1992年には正真正銘のフアヤンゴサウルスの肩棘が記載されているが、これは(ずっと華奢でこじんまりした構造ではあるが)ZDM 0019とよく似た、大きく広がった基部から斜め後方へと急激にカーブしたスパイクであった。「トゥオジャンゴサウルスの肩棘」は結局のところ今日に至るまで知られておらず、トゥオジャンゴサウルスが肩棘を持っていたのかどうかは不明である。ミラガイアも肩棘が生やされることがしばしばだったが、これもやはり尾棘に過ぎないようである。
ケントロサウルスの「腰棘」については今日でもこの解釈を支持する意見がないわけでもないが、上述の通り一連のケントロサウルスの骨格はばらけた状態で産出している(パラレクトタイプはある程度まとまった産状ではあったようだが)ことに注意が必要である。ZDM 0019の肩棘の基部がかなり変形しているのも確かであり、「腰棘」を肩以外の場所に配置することについては特に何の根拠もないと言ってよい。薄く大きく広がった基部とそこから急激に斜め後方へ向いた細身のスパイク本体という組み合わせは、ZDM 0019とフアヤンゴサウルスの肩棘、そしてケントロサウルスの「腰棘」のいずれにも共通する特徴である。)
ZDM 0019の発見はそれなりに話題を呼び、日本でも1992年に出版された一般書でこのあたりが写真付きで紹介された――が、この頃にはすでにZDM 0019はトゥオジャンゴサウルスではないと判断されていた。ZDM 0019は1992年に新属新種――ギガントスピノサウルス・シーチュアネンシスとして記載された――が、恐ろしいことにこれはシンポジウムの要旨集上でのことであった(ホロタイプの指定こそあったが、一方で標本番号は示されていなかったらしい;講演要旨集ということもあり、記載が恐ろしく貧弱だったらしいという話はお察しの通りである;1991年にはすでに文献上でこの名が用いられており、そちらが状況をさらに混乱させる要因にもなったようである)。中国の文献ではそれ以降ギガントスピノサウルスの名がしばしば用いられた(1996年には復元骨格も完成した)一方、オルシェフスキーですらこの記載の存在は見落としており、かくして中国の研究者以外からはギガントスピノサウルスは裸名nomen nudumとして扱われる羽目になったのである。この見落としにフォードが気付いたのは2006年になってからで、かくしてギガントスピノサウルスは(真っ当かつ紛らわしいネーミングも相まって)2000年代半ば過ぎから一躍注目を集めるようになったのだった。
(同様の経緯を辿った「元裸名」にユインシャノサウルス/インシャノサウルスYingshanosaurusがある。これも中国国外では裸名として扱われてきたが、実のところ(ギガントスピノサウルスのそれよりもはるかにしっかりした)記載論文は1994年に出版されていた。ホロタイプは半ば関節した部分骨格であり、ギガントスピノサウルスほどではないが大きな肩棘も保存されている。裸名天国として悪名高い中国の古生物学事情だが、このあたりを見るにつけ、単に中国国外で記載論文(と称する何かしら)が見落とされているケースがまだまだあるのかもしれない。フォードは2006年にギガントスピノサウルスの肩棘について、マウントとは逆向きに(スパイク本体が上向きになるように)取り付けるべきと述べたが、これは単にフォードの勘違いであったようだ。なんにせよZDM 0019の肩棘は変形によってだいぶ平べったくなっており、本来のスパイク本体の方向をきちんと復元するのは困難である。)
自貢の恐竜相に関する総説はこれと前後する2005年の暮れに出版され、ようやくギガントスピノサウルスの真っ当な記載が世に出ることとなった。2018年には詳細な骨学的記載が出版され、発見から30年以上を経て、ようやくギガントスピノサウルスの全貌が明らかにされた格好である。大きめの頭に短い首など、全体的な見てくれはフアヤンゴサウルスに近いが、一方で前肢は比較的短くなっており、このあたりは系統的な位置付け(不安定ではあるが、剣竜類としてはかなり基盤的なポジションに置かれるのが常ではある)と整合的である。
1990年代の業界の混沌っぷりの犠牲になった気配すらあるギガントスピノサウルスだが、多数の剣竜が記載されてきた中国にあって、フアヤンゴサウルスと並んでその実態がよくわかっている数少ないものである。このあたりの進化段階の剣竜類の化石は世界的にもいまだに珍しい部類であり、詳細な記載がなされたこともあって、研究上の重要性は今後さらに増していくことだろう。決して大柄ではないギガントスピノサウルスだが、今日も肩棘で風を切り、数ある剣竜類の中で異様な存在感を放ち続けている。