↑Some skulls of Triceratops. Scale bars are 1m.
命名から130年以上もの間、トリケラトプスは常に角竜の代表であり続けてきた。長きにわたる研究の中で紆余曲折が繰り返されたが、それでも恐竜時代の最後を飾る徒花として今日も第一線に立ち続けている。
いわゆるインディアン戦争に歩調を合わせるように、第一次化石戦争の主戦場もアメリカ西部へと移っていった。19世紀後半、西部の地質調査はその端緒についたばかりであり、コープもマーシュもそれぞれ政府の地理地質調査隊(後の米国地質調査所USGS――言うまでもなく今日まで存続している)と共同で調査を行いつつ(コープとは対照的にマーシュはうまく立ち回り、USGSの主任古生物学者にまでなった)地質学的なフロンティアで激しい競争を繰り広げることとなったのである。
当然のごとくアメリカ西部の地質は全くの未解明であり、化石をもって時代を確定させる必要があった。州に昇格したばかりであったコロラドの州都デンヴァーでは、市街地の中に露頭が多数残っており、1860年代から化石の採集が行われていた。1873年にはUSGSの調査隊としてコープがコロラド州からいくらかの恐竜化石――属種も定かではない破片の寄せ集め――を持ち帰った。例によってすぐさま命名されたこれらの化石の中にはポリオナクス・モルトゥアリスPolyonax mortuaris――角竜の破片を含む――があったが、コープには知る由もないことであり、デンヴァーの市街地で調査を行うこともなかった。
1873年の暮れ、マーシュのもとにゴールデン(デンヴァーと隣接する)に住むベルソーという男から手紙が届いた。ベルソーは1860年代後半に様々な化石をこの一帯で採集しており、「牙(トゥースではなくタスクの方)の化石」――おそらくは角竜の角芯――が見つかったことを手紙に記している。ベルソーはその後マーシュへ獣脚類の歯(アーサー・レイクスが採集したものであった)――今日までYPMで現存しており、YPM 4192のナンバーを与えられている――を送ったが、これこそ最初に発見されたティラノサウルスの歯であった。
ベルソーの化石にマーシュは特別の興味を抱かず、ベルソーもやがて採集した化石をデンヴァー周辺の地質調査を進めていたジョージ・キャノン――若き高校教師にして地質学者――のもとへ送るようになった。キャノンはUSGSのクロスらと共にこの地域の地質調査を進め、産出化石――明らかに恐竜だった――からして、デンヴァーの市街地周辺の露頭が白亜系であることを確信していた。
1887年の春、キャノンがデンヴァーの街はずれを流れるグリーン・マウンテン・クリーク(今日ではレイクウッド・ガルチと呼ばれており、産出地点(だいたい2ヶ所まで絞り込まれている)は河川工事で埋め立てられている。住宅街のすぐ脇であり、公園の駐車場 か隅っこ といったところである)にて、一対の巨大な角と出くわした。クロスがこの標本をマーシュへ送る手はずを整えたが、マーシュは5月初週に届いた化石――YPM 1871E(後のUSNM 4739)のナンバーを与えられた――を見るなり、この「デンヴァーバイソン」の掘り残しがまだあることを見て取った。この鉱化も半ばの角はどちらも不完全だったが、新鮮な破断面が残っていたのである。マーシュは掘り残しを探すよう、クロスとキャノンそれぞれに手紙を送って念押しした。
果たして、角の先端などが次々と見つかり、「デンヴァーバイソン」の右の角は完全、左の角も先端以外はきれいにパーツが揃うこととなった。角と頭蓋天井の他は明らかに川の浸食で失われており、これ以上パーツが追加されないことに納得したマーシュは、その年の10月に「デンヴァーバイソン」を、鮮新世のバイソンの新種、ビソン・アルティコルニスBison alticornisとして記載したのであった。
マーシュからの最初の返信を受け取った時点で、キャノンはマーシュの同定――「デンヴァーバイソン」と呼んでいた――に眉をひそめていた。「デンヴァーバイソン」が産出したのは、キャノンらの調査で恐竜の産出する地層――白亜系のはずだったからである。キャノンはマーシュに対し、この矛盾をどうにかして解決するためになんとか時間を割かねばならないと手紙で嘆いたが、結局は間違いなく白亜系からの産出であると結論付けた。にもかかわらず、マーシュはこの標本をバイソンの一種として記載したのである。基部(というより下から1/3ほどまで達する)が中空で、深い血管溝が多数刻まれたそれは、確かにバイソンの角と酷似していた。鉱化が中途半端であり、それほど古い時代のもののようには見えなかったことも相まって、キャノンらの再三の意見を無視してまでマーシュはこれをバイソンとみなしたのである。
翌1888年にハッチャーが紛れもない有角恐竜――ケラトプス・モンタヌスをマーシュのもとへ送った。マーシュは角の基部にちょっとした中空部が存在することを見て取り、ビソン・アルティコルニスの分類にいささか疑問を抱くようにはなったが、表沙汰にすることはなかった。
10月初め、ジュディス・リバーの調査を終えたハッチャーは、YPMへの帰りがけにワイオミング南部――セミノール山脈の南へ寄るよう命じられた。この地で恐竜の部分骨格が発見されたという報がマーシュの耳に届いていたのである。果たしてハッチャーが現地で見たものは角竜の部分骨格らしきものであったが、断片的なうえに保存状態もよくなかった。周辺の調査も行ったがめぼしいものは何も見つからず、無駄足を運んだ格好になったハッチャーは、気を取り直してサウスダコタのブラックヒルズへ足を延ばし、ここで哺乳類探しと洒落こむことにした。
(ハッチャーが目にした断片骨格の産地は、今日メディスン・ボウMedicine Bow層の露出域とみなされている。メディスン・ボウ層とその上位のフェリスFerris層(の下部)はランス層の同時異相すなわちマーストリヒチアンとされている。河口付近や海浜部の要素を含んでおり、この時期までWISの一部が残っていたことを示す重要な地層だが、恐竜化石でめぼしいものは今日まで知られていない。)
道すがら、ワイオミングの知人――のちにワイオミング州知事まで上り詰めた――を訪ねたハッチャーは、そこで地元の名士であるガーンジーを紹介された。ガーンジーは牧場の経営主として成功する一方、精力的に化石をコレクションしていたのである。ガーンジーのコレクションの質の高さに感銘を受けたハッチャーは、直径20cm、長さにして50cm近くある巨大な角の化石――基部は中空になっていた――に目を留めた。
この化石は、ガーンジーの牧場でリーダーとして働いていたウィルソンが発見したものであった。「鍬の柄くらいの長さの角」と「帽子くらいの大きさの眼窩」をもつ頭骨が枯れ谷の崖に横たわっており、投げ縄を付けて引っ張ったところ、角だけがすっぽ抜け、残りは谷底へ落としてしまったのだという。興奮するハッチャーに産地までの案内を申し出たガーンジーだったが、仕事が忙しかったため、すぐ連れていくというわけにはいかなかった。
サウスダコタでの仕事を終えたハッチャーは、年の明けた1889年の1月にYPMへ戻ってきた。ハッチャーはここでようやくビソン・アルティコルニスの実物と対面し、すぐさまガーンジーのコレクションにあった角との類似を見て取った。ハッチャーはガーンジーに手紙を書き、ガーンジーはハッチャーの要望に応えて問題の角を送ったのだった。両者が酷似していることを確認したマーシュは居ても立ってもいられなくなり、真冬の荒野へとハッチャーを送り出した。
ひと月半のニューヘイヴン暮らしに別れを告げたハッチャーは、ウィルソンの案内のもと問題の標本の場所へたどり着いた。ガーンジーの言った通り、谷底にはノジュールに包まれた頭骨が眠っていたのである。真冬の嵐の前に作業は困難を極めたが、それでもハッチャーはこの500kg近い代物を採集し、どうにかニューヘイヴンへの運送を段取ると、そのままこの一帯での調査を続けたのであった(伝説の「アリの巣で化石探し」もこの時編み出した手法である)。
頭骨がまだ届いていなかった1889年4月、マーシュは(ガーンジーから借り受けた角と、ハッチャーによる現地での観察をもとに)この恐竜をケラトプス属の新種――ケラトプス・ホリドゥスCeratops horridusと命名した。頭蓋天井――上眼窩角からフリルの付け根にかけての、どっしりとして分厚く、そして多数の血管溝の走った荒々しいつくり――ケラトプス・モンタヌスでは保存されていなかった――に感銘を受けたマーシュは、この特徴にちなんだ種小名を選んだのである。
(ここに至ってマーシュはビソン・アルティコルニスがまぎれもないケラトプスの類であると考えるようになった――が、欄外の注釈で触れただけであり、恐らくケラトプス属であると述べたのみであった。)
5月になるとハッチャーの送った頭骨もYPMに到着し、クリーニングが始まった。ハッチャーは次から次へと角竜の頭骨を掘り当ててはYPMへ送り、8月にはマーシュはこれらの角竜をまとめて新属――これらの頭骨は長い上眼窩角と短い鼻角をあわせもっていた――を設けた。ここに、トリケラトプス・ホリドゥスTriceratops horridusと、それに続く2新種――トリケラトプス・フラベラトゥスT. flabellatusとトリケラトプス・ガレウスT. galeusが生まれたのである。さらにマーシュは正式にビソン・アルティコルニスの分類を正した――が、トリケラトプス属ではなく、なぜかケラトプス属としたのだった。
トリケラトプス・ホリドゥスのホロタイプYPM 1820は風化によってだいぶ砕けてはいたが、保存状態は良好であり、吻からフリルの付け根までを保存していた。トリケラトプス・ガレウスのホロタイプ(後のUSNM 2410)は(実のところトリケラトプスかもはっきりしない)鼻角やそのほかのちょっとした破片の寄せ集めだったが、トリケラトプス・フラベラトゥスのホロタイプYPM 1821は関節のきれいに外れた、ほぼ完全な頭骨(の左半分と、完全な腰帯をはじめとするいくらかの骨格要素)を保存していた。その年の冬にはYPM 1821のクリーニングもあらかた終わり、12月の論文でトリケラトプスひいては角竜の頭骨の全貌が初めて図示されたのであった。
(ハッチャーは1907年のモノグラフでYPM 1820の発見に至る詳細を書き記し、「右の上眼窩角の基部」が結局ガーンジーのプライベートコレクションとなったことを述べている。今日、YPM 1820は脳函から頭蓋天井、上眼窩角に至るブロックを天地逆の状態にして、台座と一体化したジャケットに半ば埋め込まれた状態で収蔵されている(その他の部位はばらけた状態のままである)が、残っているのは右の上眼窩の半分ほど(と左の上眼窩角の基部;残っている右の上眼窩角の形態は、ハッチャーがモノグラフで左右同じ形で描いた角とよく一致する)である(右の後眼窩骨の、鱗状骨と関節するあたりは確かに欠けているが)。ガーンジーの手元に残った化石は、もともと彼のコレクションであった角――左の角の付け根付近のようにも思われるのだが、今日どうなっているのか確認の術はない。)
↑Skeletal reconstruction of Triceratops sp. USNM 4842. Scale bar is 1m.
続く数年の間に、ハッチャーはおびただしい量のトリケラトプスや新顔――トロサウルスの化石をYPMへ送った。マーシュはこれらにせっせと名前――トリケラトプス・セラトゥスT. serratus、トリケラトプス・プロルススT. prorsus、トリケラトプス・スルカトゥスT. sulcatus、トリケラトプス・エラトゥスT. elatus、トリケラトプス・カリコルニスT. calicornisそしてトリケラトプス・オブトゥススT. obtusus――を付けたのである。次々に届く化石の中には部分骨格もそれなりに含まれており、1891年にはトリケラトプスの骨格図を描くことができるレベルにまで達していた。
マーシュによるこの復元は、トリケラトプス・プロルススのホロタイプYPM 1822――見事に保存されたほぼ完全な頭骨と、癒合頸椎からなる――と、同じくT.プロルススとみなされた巨大な部分骨格――のちのUSNM 4842を組み合わせ、それでも足りない部分(手足や椎骨の大多数)を他の標本で補ったものであった。今日からしてみれば、仙前椎がやたら多かったり、肘関節を無理やりまっすぐ伸ばしたり、手足が実際とは全く異なる様相であったりと修正すべき点はキリがないのだが、それでもこの骨格図は、当時からしてみれば十二分に「妥当な程度に正確」な復元であった。この骨格図は広くトリケラトプスの復元の礎となり、今日に至るまで古典的なトリケラトプスのイメージを規定することとなったのである。
(「ケラトプスの皮骨板」が皮骨板などではないことはとうに明らかになっていたが、一方でマーシュはワイオミングの「角竜層」で時折見つかる皮骨質のスパイクやこぶの集合体、小さなプレートがトリケラトプスに由来するのではないかと考えていた。これはパキケファロサウルス類の後頭部の断片であったり、アンキロサウルス類の単離した鎧の一部だったのだが、当時のマーシュには知る由もなかった。)
マーシュは1899年に死に、やりかけの仕事が数多く残された。言うまでもなく、後任者は後始末に奔走することとなったのである。
マーシュは生前、USGSの地位にあるうちに角竜のモノグラフの出版を計画していた――が、マーシュの死後に残っていたのは見事な図版――USGSつまりは連邦政府の予算があてられていた――だけで、本文は全くの手つかずであった。オズボーンはUSGSの所長から、不良債権化しつつあるこのモノグラフをどうにかして完成させるべく相談を受け、そして白羽の矢が立ったのがハッチャーであった。モノグラフで記載されるべき標本のほとんどを自ら採集してきたこの男以外に、託せる人物はいなかったのである。
ハッチャーは1902年からモノグラフの執筆に本格的に取りかかり、他の様々な案件を抱えた中にあって、1日に6時間を割き続けた。2年の歳月を費やし、モノグラフのおよそ3/4まで修正稿を仕上げた。――が、ステルロロフス・フラベラトゥス(マーシュは1891年になってYPM 1821に新属ステルロロフスSterrholophusを与えていたが、ハッチャーはこれを一蹴していた)の前上顎骨の記載を推敲している最中、中途半端なところで突如手を止めた。
ハッチャーはタイプライターの前にはもう戻らず、そして数日後に腸チフスで死んだ。
ハッチャーの遺稿は、最後の10ページほどが未改稿のままだった。モノグラフの3人目の著者として、世に送り出す大役を負うこととなったラル(マーシュの後任としてYPMに就いた)は、角竜の進化や分類、生態等々に関する30ページあまりの章を書き足すこととし、またハッチャーがモノグラフの中で命名しようとしていた新種――トリケラトプス・ブレヴィコルヌスTriceratops brevicornusとディケラトプス・ハッチャーリDiceratops hatcheriを、モノグラフに先駆けて、それぞれ独立した記載論文で命名することとした。モノグラフは1907年にようやく出版され、今日まで重要な文献として読み継がれている。
(T.ブレヴィコルヌスとディケラトプスの記載論文の出版にあたり、ラルの行った作業は、独立した論文として遺稿から切り取るだけのことであった(ゆえに前者はハッチャーの単著扱いである)。後者の学名をハッチャーは考えておらず、従ってラルは(自身はディケラトプスの独自性に懐疑的でもあったのだが)ハッチャーに献名することとしたのであった。モノグラフの中で、ようやくケラトプス・アルティコルニスはトリケラトプス属へと移された。)
モノグラフの出版をもって、トリケラトプスを取り巻く状況は急に静かになった。第二次化石戦争の主戦場はカナダに移り、トリケラトプスよりも古い時代のケラトプス科角竜が盛んに発掘・研究されるようになったのである。
ラルは1933年になって再び――当然、今度は全て自らの執筆だった――角竜のモノグラフを出版したが、1907年以降にトリケラトプスやトロサウルスに関する目立った動きはなく(トリケラトプス・インゲンスT. ingensとトリケラトプス・マクシムスT. maximusが命名されたのみで、しかも前者はマーシュの草稿をラルが紹介するという体であった)、記載事項についても特別に付け加えることもなかった。トリケラトプス属の種の整理を進めるには進めたのだが、ホロタイプが貧弱だった4種――T. アルティコルニス(いかんせん上眼窩角だけだったので、今となってはトロサウルスとの区別もおぼつかなかった)、T. ガレウス(鼻角の断片しか事実上比較には用いることができなかった)、T. スルカトゥス(実質的に上眼窩角の断片のみ)、T. マクシムス(単に大きいだけの一連の椎骨でしかなかった)を疑問名とするにとどまったのである。
ラルは1907年のモノグラフにおいて、ケラトプス科を二大系統――フリルの短いモノクロニウス-トリケラトプス系とフリルの長いケラトプス(というよりカスモサウルス)-トロサウルス系に大別した(このコンセプトは1933年に「改訂版」として出版した新たなモノグラフでも踏襲していた)。ランベはこれに対し、1915年に出版したカナダ産角竜のモノグラフの中で、セントロサウルス-スティラコサウルス系(セントロサウルス亜科)とカスモサウルス-トロサウルス系(カスモサウルス亜科)、そしてエオケラトプス-トリケラトプス系(エオケラトプス亜科)の3系統とした。最後発となったチャールズ・モートラム・スターンバーグは、トリケラトプス・アルバーテンシスTriceratops albertensis――目下トリケラトプス属として命名された「最後」の種である――の記載論文において、トリケラトプスの鱗状骨が他の「長盾角竜」と同様、フリルの後/上端まで達していることを指摘し、トリケラトプスをカスモサウルス亜科として扱った。分岐分析に基づくものでは当然なかったが、1949年になり、今日まで続くケラトプス科の二大系統の基本的な見方がようやく確立された――かに見えた。
アメリカの研究者の見立ては異なっていた。コルバートは1948年の論文の中でラルの意見を踏襲していたし、YPMで(ラルの後任だった)シンプソンの跡を継いだオストロムも、1966年の論文で同様の見解を示していた。
(ラルやシュレイカー、チャールズ・モートラムは、トリケラトプスの種内の系統関係についても考察を行っている(ラルやチャールズ・モートラムは、亜成体らしいT. フラベラトゥスとT. セラトゥスには言及しなかった)。ラルは1933年のモノグラフにて、T. プロルスス→T. ブレヴィコルヌス→T. ホリドゥス系統(トリケラトプス属の基本形であり、体サイズの大型化と反比例して鼻角が縮小する)、T. エラトゥス→T. カリコルニス系統(非常に長く伸びた上眼窩角とごく短くなった鼻角;ラルは後者が前者のシノニムである可能性も考えていた)、そしてT. オブトゥスス→ディケラトプス・ハッチャーリ系統(ほぼ消失した鼻角;ラルは1933年のモノグラフにて、ディケラトプスをトリケラトプス属の亜属とした)の3系統に分けた。シュレイカーは1935年にT. エウリケファルスeurycephalusの原記載の中で再検討を試み、T. オブトゥスス→ディケラトプス・ハッチャーリ系統をT. エラトゥス→T. カリコルニス系統の根本に位置付けた。T. エウリケファルスはディケラトプスと共に「フリルの大きい」グループをなし、T. フラベラトゥスとT. セラトゥスも「T. プロルスス→T. ブレヴィコルヌス→T. ホリドゥス系統以外」の根本に位置する格好である。チャールズ・モートラムはラルの系統樹を下敷きとしつつ、T. アルバーテンシスとT. エウリケファルスを加えて再検討し、T. プロルスス→T. ブレヴィコルヌス→T. ホリドゥス系統とそれ以外のものからなる系統が、それぞれアリノケラトプスから進化した(つまりトリケラトプス属は単系統ではない)可能性を示唆した。それ以外のものからなる系統はまずT. アルバーテンシスが枝分かれし、次いでT. エウリケファルスからT. エラトゥス→T. カリコルニス系統とT. オブトゥスス→ディケラトプス・ハッチャーリ系統が分かれるという格好である。これらの試みはつまるところ客観的な証拠から積み上げられたというわけではなく、分岐分析が基本となった今日では全く顧みられていない。)
↑Skeletal reconstruction of Triceratops prorsus BSP 1964 I 458. Scale bar is 1m.
1891年にハッチャーの助手であったアターバックにより発見され、その後アターバックとハッチャーによって採集されたYPM 1834――トリケラトプス・ブレヴィコルヌスは、ほぼ完全な頭骨と、それに続く一連の仙前椎を非常によく保存していた。この標本の仙前椎については1907年のモノグラフにて、T. カリコルニスのホロタイプの仙前椎と共に図示されてはいたのだが、詳しい記載はなされていなかった。この標本のうち、頭骨については1926年からYPMのグレート・ホールで常設展示されていたのだが、やがて改装にともなってバックヤードに引っ込められていた。
オストロムはこの頭骨――下顎も完全だった――がYPMのトリケラトプスの頭骨の中でも最良の部類に入ることをよく認識しており、従って角竜の顎の機能形態学的な研究において、主だった材料として用いていた。とはいえこの標本はバックヤードで眠りについているのが常であり、そこにミュンヘンからの客――第二次世界大戦で壊滅的な被害を被ったバイエルン古生物学・地質史博物館(BSP)の館長が目を留めたのである。交渉の末、この標本は生まれて初めて海を渡ることとなった。1964年、YPM 1834はBSPへ移管され、BSP 1964 I 458のナンバーを得たのである。
この頃にはオストロムの研究上の興味は獣脚類と鳥――デイノニクスと始祖鳥へ移り、しばらくの間角竜に触ることはなくなった。BSPのヴェルンホーファーは翼竜が専門であり、とにかく手持ちの翼竜の研究で忙しく(始祖鳥を見にやってくるオストロムの手伝いはしたが)、しばらくの間BSP 1964 I 458の研究は進まなかった。そうは言っても完全な頭骨と仙前椎の全体がよく保存されている(うえに、マウントされているわけでもないので触りたい放題だった)ケラトプス科角竜はきわめて貴重であり、頭骨と長骨に偏重していた解剖学的理解を一気に推し進めることが期待されたのである。
翼竜の専門家であったヴェルンホーファーには、一人でBSP 1964 I 458の記載をするのは荷が重かった。幸いにしてオストロムとの付き合いは深く、かくしてオストロムは再びBSP 1964 I 458と向き合うことになったのである。
オストロムとヴェルンホーファーはBSP 1964 I 458の骨学的記載だけには飽き足らず、トリケラトプス属の整理――ラル以来長らくほったらかしにされていた仕事に手を出すことにした。1970年代から1980年代にかけて、様々な観点から粗製乱造された種――例えばランベオサウルス類――の整理の大波が到来していたのである。
BSP 1964 I 458の詳細な骨学的記載は1986年になって出版されたが、その中で行われた分類学的整理は苛烈の一言に尽きた。トリケラトプス属はトリケラトプス・ホリドゥスただ1種にまとめられたのである。オストロムとヴェルンホーファーは、トリケラトプス属の目ぼしい種がほぼすべて、四次元的にかなり狭いらしい範囲から産出したことに着目した。ほとんどの種のホロタイプが、ワイオミング州東部――ナイオブララ郡のランスLance層からの産出だったのである。ハーテビーストやアフリカスイギュウをモデル生物とし、オストロムとヴェルンホーファーはトリケラトプスの様々な種を定義していた角やフリルの形態等々の違いが、すべて個体変異や病変、化石化の過程における変形で説明できると考えたのだった。
(オストロムとヴェルンホーファーは何を思ったか、“ケラトプス・モンタヌス”をトリケラトプスの一例として扱った。これを顧みた研究者はさすがに誰一人いなかったようだ。オストロムとヴェルンホーファーはまた、BSP 1964 I 458における仙前椎のトータル数を実際より多く推定していた。)
アグハケラトプスAgujaceratopsのボーンベッドの記載でケラトプス科角竜の個体変異のありようをいやというほど思い知らされていたレーマンは、このオストロムとヴェルンホーファーの意見を強力に支持した。レーマンはアグハケラトプスのボーンベッドの研究から、上眼窩角の角度が性的二形を示すというアイデアにたどり着いており、これが今やただ1種となったトリケラトプス属にも適用できそうなことを見て取った。レーマンは、古典的なT. プロルスス→T. ブレヴィコルヌス→T. ホリドゥス系統がメス(短めの上眼窩角が低角度で伸び、かつ左右に大きく開く)、T. エラトゥス→T. カリコルニス系統がオス(長めの上眼窩角が急角度で立ち上がるが、左右にはあまり開かない)、T. オブトゥスス→ディケラトプス・ハッチャーリ系統がオスの病変個体を代表すると考えたのである(一方、オストロムとヴェルンホーファーはトロサウルスがトリケラトプスのオスである可能性を考えてもいた)。
にわかにトリケラトプス・ホリドゥス唯物論で沸く中にあって、ドッドソンの学生だったキャサリン・フォースターは、博士課程の課題としてトリケラトプスの属内分類を再検討することにした。オストロムとヴェルンホーファーの意見はもっともらしいものではあったが、一方で「モデル生物」に依存したアイデアではあったのである。
フォースターは泥臭く、かつ先進的な手法――当時知られていたトリケラトプスの頭骨の目ぼしいものに総当たりし、標本ごとに分岐分析にかける――を用い、それなりに客観的にトリケラトプス属内の系統関係を可視化しようとした。その結果、2通りのそれらしい樹形――トリケラトプス・ホリドゥスとトリケラトプス・プロルスス、そしてディケラトプスの2属3種にまとめるか、さもなくばオストロムとヴェルンホーファーの言うトリケラトプス・ホリドゥスと、AMNH 5116(AMNHのマウントの頭蓋)のみからなるトリケラトプス属の新種、そしてディケラトプスの2属3種にまとめる――がはじき出されたのである。
フォースターは博論においては後者の方がよりもっともらしいと考えた――AMNH 5116に仮の新種名“トリケラトプス・スターンバーギイTriceratops sternbergii”を与えさえしたのだが、最終的に論文化するにあたり、前者の樹形を取ることにした。
フォースターの博論は2編の論文にまとめなおされて1996年に出版され、トリケラトプスは2種――短い鼻角と(側面から見て)S字カーブを描いた長めの吻をあわせ持つトリケラトプス・ホリドゥスと、長い鼻角と丸っこく短い吻をあわせ持ったトリケラトプス・プロルススに再編されたのであった。
(フォースターは博論の中でケラトプス科全体の系統解析も試みており、描き出された樹形はチャールズ・モートラムの1949年の意見――トリケラトプスをカスモサウルス亜科に含めることを強く支持していた。鱗状骨の形態に重きを置いて分類するというチャールズ・モートラムのアイデアは直感的なものではあったが、本質的な部分を突いていたのである。同年に出版されたレーマンの論文(先述のもの)はカスモサウルス亜科とセントロサウルス亜科の再定義を行っており、それ以降トリケラトプスがセントロサウルス亜科に分類されることはもはやなかった。)
フォースターの意見は広く支持を集め、(それぞれの種の定義に多少の変更はあったものの)今日に至るまでトリケラトプスは(他の属の種をトリケラトプス属に移す意見はさておいて)T. ホリドゥスとT. プロルススの2種からなるものとして扱われている。90年代当時は両種を形態以外――地理的あるいは生層序的に区別できるかはっきりしなかったが、2000年代のモンタナ州立大によるヘル・クリークHell Creek層の精力的な野外調査によって、T. ホリドゥスがT. プロルススよりももっぱら古い時代のものであること、両者の「中間型」が存在し、T. プロルススがT. ホリドゥスの直接の子孫であることがはっきりと示されたのだった。
トリケラトプスが著しく特殊化したカスモサウルス類――アリノケラトプスやトロサウルスのような長いフリルを、二次的に短くした――の例であることは、1990年代以来広く認識されるようになった。2000年代も後半に入るとトリケラトプスの取り巻き――ごく近縁らしいものが続々と記載され、マーストリヒチアンの中ごろから最後の角竜として君臨したグループ――トリケラトプス族Triceratopsiniが姿を現したのである。
ケラトプス科角竜の最後を飾ったトリケラトプス族にあって、その最後を飾ったのはトリケラトプス――T. プロルススであった。徒花と咲いたトリケラトプスだったが、バッドランドから無数とあふれる化石が、大輪の花であったことを今日に伝えている。
ハッチャーがランス層から持ち帰った標本の多くは、YPMやスミソニアンの収蔵庫でひっそりと眠りについている。YPM 1822――トリケラトプス・プロルススのホロタイプは常に――リノベーション後も――グレート・ホールを守り続ける一方、YPM 1820――片角となったトリケラトプス・ホリドゥスのホロタイプは、なおも新たな研究者を待っている。
(モンタナ州立大の調査範囲はモンタナ州東部(それだけでも相当な範囲なのだが)に限られており、その他の地域――とりわけワイオミングのランス層(T. ホリドゥスにせよT. プロルススにせよ、模式標本はランス層産である)でどのようにトリケラトプスの種の置き換わりが進んでいったのかは全くわかっていない。ハッチャーはランス層におけるトリケラトプスの相対的な産出層準の関係を記載しているが、GPSのない時代にだだっ広いバッドランドで行われた記録であり、現代的な研究で参照するわけにはいかないのである。ランス層におけるトリケラトプスの歴史的な産出地点の特定は全く進んでおらず(第二次化石戦争の時とは違い、フィールドでの写真がろくにないのだ)、ランス層の層序学的な研究がヘル・クリーク層ほど進んでいないことと相まって、実のところトリケラトプス・ホリドゥスの生息年代、ひいてはトリケラトプス属の出現した年代ははっきりしていない。)