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恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

伊弉諾物質

↑Skeletal reconstruction of Kamuysaurus japonicus HMG-1219 (holotype) and Yamatosaurus izanagii MNHAH D1-033516 (holotype). Scale bar is 1m.

 日本列島の形成以前――ユーラシア大陸の東縁をなしていた時代、河川を通じて運搬された様々な堆積物が、海底に横たわる種々の堆積盆を埋めていった。こうして生まれた日本の白亜紀の海成層にあって尋常ならざる規模を誇るのが、中央構造線に沿って愛媛から大阪まで300kmにわたって伸びる和泉層群である。カンパニアン中期からマーストリヒチアン後期の中ごろまで、1000万年もかからずに堆積した総層厚60km(地域ごとに時代がずれていくのでひとつところでそこまで堆積しているわけではないのだが)に達する海成層(ごくわずかに陸成や浅海の要素を含むが、基本的には比較的深い海の堆積物である)であり、大量のアンモナイト二枚貝、巻貝、甲殻類に加えて、今日では様々な爬虫類化石――わずかではあるが恐竜も含む――や、果ては鳥類(ヘスペロルニス類)の産出も知られている。
 和泉層群は西から東へ向かって時代が新しくなっていき、岩相の特徴から、露出域の北から順に北縁相(礫岩や泥岩が主体)、主部相(礫岩、砂岩、泥岩の互層からなる)、南部相(礫質の堆積物が目立つ)の3つに大別される。主部相が陸からやや離れた(大陸棚の外側)海底扇状地の堆積物と解釈される一方、北縁相は主部相よりも陸側(北側)の、もう少し浅い海底(ごく一部で浅海~汽水域)で堆積したものとして伝統的に解釈されている。


 和泉層群における化石の発掘・研究は19世紀の末にはすでに始まっており、20世紀に入ると異常巻アンモナイトをはじめとする大型の軟体動物が続々と命名されていった。和泉層群から切り出した石材や砂利は近辺でよく用いられており、採石場にアマチュア採集家が出入りするようになると、和泉層群は蝦夷層群――ちょうどカンパニアン中期からマーストリヒチアン(主に函淵層)にかけて、堆積環境の問題でアンモナイトの産出が一気に減少する――と並ぶ、極めて重要な地層となっていったのである。
 中でも淡路島――南部はそっくりそのまま和泉層群でできている――は和泉層群の露出域の中でも化石の採集が盛んに行われており、数々の“アワジエンシス”や“アワジエンゼ”を輩出していた。特にカンパニアンの最上部は蝦夷層群の化石記録が絶妙に貧弱であるため、日本における上部白亜系の生層序のうち、上部カンパニアン上部(実際には中部カンパニアンも含んでいた)――K6a4を決定付けるのは全て淡路島のアンモナイトやイノセラムス蝦夷層群や那珂湊層群でも採れるには採れるが)といった有様だった。
 淡路島の和泉層群のうち、露出域でもっとも広範にわたっているのが北阿万層である。ここでは戦前の調査(一帯はとっくに由良要塞の一部となっていたが、東京帝大の学生が軍籍持ちだったため、調査許可が下りた)で、カグラザメ類の歯(ノティダヌNotidanus属(カグラザメHexanchus属のシノニム)の新種N. japonicusとされたが、東大博のデータベースには記録がないようで、あるいは行方不明になっている可能性がある)やカメ類(バシレミスBasilemys sp.とされている)、そして翼竜の第4中手骨(もともと異常巻きアンモナイト――バキュリテス・cf.ヴァギナBaculites cf. vaginaとされていた)が産出しており、古くから和泉層群で陸生を含む脊椎動物化石が産出することが知られていた。90年代に入るとモササウルス類やウミガメ類――メソダーモケリス――の発見も続き、日本のカンパニアン-マーストリヒチアンにおける海成脊椎動物の記録を積み上げていくこととなったのである。


 脊椎動物化石の「大物」の発見が2004年に重なった。口火を切ったのは翼竜――まぎれもないアズダルコ類――の頸椎で、公園の片隅に積まれていた工事残土の中から姿を現した。この公園(とその脇の本州四国連絡道路)の整備で削られたのは和泉層群の西淡層、さらに言えば上部のパキディスカス・アワジエンシスPachydiscus awajiensis(カンパニアン末)であり、産出部位からして分類に文句のつけようもない、貴重な発見であった。
 これに続き、淡路島の西海岸の採石場――北阿万層上部が露出していた――で発見されたのが、和泉層群で初めてとなる恐竜の化石――のちのヤマトサウルスの歯骨とそれに続く骨格の断片であった。

 化石はしばらくの間個人蔵ではあった(が、ひとはくで展示されることもしばしばだったようだ)ものの、予察的な研究はサクサク進み、2005年の夏には日本古生物学会で、秋にはSVPで「ランベオサウルス類」として報告されるに至った。
 この標本のデンタルバッテリーは脱落することなくそっくり保存されており、その他の要素についても保存状態は非常に良好で、わりあい急速に埋積されたらしいことがうかがわれた(このあたり、定置されてから完全に埋積されるまでかなり時間がかかったらしいカムイサウルスとは対照的である)。母岩(泥岩である)には骨と共に魚鱗や二枚貝、そして大量の広葉樹の葉――こちらも保存は良好だった――がごちゃまぜになっており、陸からほど遠くない場所で木の葉もろとも(すでに半ばばらけていた)死体が埋積されたらしいことを示唆していた。

 

(北阿万層は先述の北縁相に属し、陸から極端には遠くなく、ほどほどの深さのある場所――大陸棚の堆積物として伝統的に解釈されてきた。ヤマトサウルスの原記載ではタフォノミーに関する特別な議論は何もなされていないのだが、図では、ヤマトサウルスが混濁流によって大陸棚の外まで押し流され、混濁流の「端」すなわち泥質の堆積物(海底扇状地の末端をなす)に埋もれたというざっくりしたシナリオが描かれている。海辺で朽ちかけていた(すでに一度埋積されていたかもしれない)死体が混濁流で木の葉やらとともに押し流されたというのはありそうな話であるが、大陸棚の中(大陸棚の「外」は主部相の堆積場と一般に見なされている)で完結していたように思われる。なんにせよ、タフォノミーひいては堆積環境に関する詳しい研究が必要だろう。)

 

 予察的な報告をもってこの標本を取り巻く状況は静かになったかに見えたが、それも北海道の同時代層――蝦夷層群函淵層からハドロサウルス類の全身骨格が確認されるまでのことだった。2014年にこの標本はひとはくへ寄贈され、やがて「むかわ竜」と共に再研究が進められているという話がぽつぽつ聞かれるようになったのである。

 

(函淵層のIVbユニットと北阿万層の上部では、共に比較的小型の異常巻アンモナイト――ノストセラス・ヘトナイエンゼNostoceras hetonaienseが産出する。もともと穂別の函淵層IVbユニットで知られていた種であるが、のちに大阪の和泉層群六尾層の畔谷泥岩部層下部から、そして北阿万層上部――ヤマトサウルスの発見された問題の一帯からもまとまった数が産出するようになり、これらの地層の対比が可能となったのである。このノストセラス・ヘトナイエンゼ帯はマーストリヒチアンの最下部に位置付けられており、生層序的に重要である。)

 

 華々しく喧伝されたカムイサウルスの裏で、ひっそりとこの「ランベオサウルス類」――MNHAH D1-033516の研究は進み、思いがけない様々な特徴が新たに確認されるに至った。
 予察的な研究でランベオサウルス類とされた根拠となっていたのは歯骨や歯の形態であったが、詳細な観察の結果、歯に妙な特徴――どうも機能歯が一段しか存在しない部分列がちょこちょこ存在する――が確認された。ハドロサウルス科の下顎のデンタルバッテリーといえば、もっぱら「三段構え」が基本なのだが、この標本では確認された34列ぶんのデンタルバッテリーのうち、歯列の中ほど(分散してはいる)の7列が一段しか機能歯が存在せず、ほかも二段しかないという状態であった。これはエオランビアより基盤的なもので一般にみられる特徴であり、一方で歯骨そのものの形態は様々な進化段階のハドロサウロイドの特徴が混在していたのである。烏口骨の形態はギルモアオサウルスにみられるような、つるりとした原始的なタイプであった。
 系統解析の結果、この標本はハドロサウルス科の基盤――ハドロサウルスの「次」のポジション(サウロロフス亜科+ランベオサウルス亜科の姉妹群)におさまった。もはやランベオサウルス類ではないことは確実といえたが、明らかなマーストリヒチアンの初頭和泉層群では古地磁気層序が確立されており、淡路島におけるノストセラス・ヘトナイエンゼの産出層準はC32.1rと対比されている)にあって、ハドロサウルス科でありながらこれほど原始的らしいものが、よりにもよってアジアにいたという衝撃は大きい。この恐竜はその産地と、ハドロサウルス科の起源に近いらしい点とのダブルミーニング――淡路島は国生みで最初に誕生した古事記にもそう書かれている)――で、ヤマトサウルス・イザナギイYamatosaurus izanagiiの学名が与えられたのであった。

 
 タニウスなど、カンパニアン後期の中ほどから後半にかけて、東アジアの比較的沿岸部近くでは時代の割に妙に古いタイプのハドロサウルス類(広義)が生息していたことが知られている。最下部マーストリヒチアンからのヤマトサウルスの発見はこうした状況に輪をかけるものであり、当時の東アジアがアパラチアやヨーロッパと同様、広義のハドロサウルス類にとってなにかしらのレフュジアとして機能していた可能性を示唆している。
 あるいは、ハドロサウルス類の進化において、ある種時代の最先端を突っ走っていたのはララミディアだけというのがより適切な表現なのかもしれない。例えば北のカムイサウルスと南のヤマトサウルスといったように、レフュジア的な地域の中にあっても進化型と原始的なもののすみ分けの可能性を考えることもできるが、一方で、原始的なランベオサウルス類であるチンタオサウルスと同じ紅土崖の上部(金崗口Jingangkou層とされていたが、タニウスの産出層である下位の将軍頂Jiangjunding層ともども紅土崖層に一括された。チンタオサウルスの産出層準はざっと7400万年前ごろと考えられる)からはライヤンゴサウルスのような比較的進化型のもの(やクリトサウルス類が知られている例もあり(タニウスに至ってはシャントゥンゴサウルスとほぼ同時代の可能性がある)、すみ分けていたというよりはむしろ何かしらの食べわけが成立していたということなのかもしれない。
 ヤマトサウルスのホロタイプは貴重な部分骨格ではあるが、突っ込んだ議論を行うにはあまりに断片的でもある(カムイサウルスがいかに特異的かという話でもある)。それでも、カムイサウルスと同時代の東アジア沿岸部に(カムイサウルスとは現状で地理的に離れる格好だが)原始的なハドロサウルス類が存在したのは確かである。
 マーストリヒチアンの初頭――ヘトナイ世(国際層序との対比が進んだ結果、日本のローカル層序はその役目を終えつつある)のはじまりにあって、中新世の「国生み」まで程遠い日本にはどんな光景が広がっていたのだろう。茨城の那珂湊層群、鹿児島の姫浦層群――すでに推定長1.2mに達する大型のハドロサウルス類の大腿骨が発見されている――と、陸の要素を含む最下部マーストリヒチアンは蝦夷層群や和泉層群の他にも点在する。日本における最下部マーストリヒチアンの地層の調査が始まって優に100年が過ぎているが、やるべきことはまだいくらでもある。