GET AWAY TRIKE !

恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

Long live, Fukui.

↑Skeletal reconstructions (see text) of Fukuiraptor kitadaniensis holotype FPDM-V-43.

  Scale bar is 1m.

 

 10月15日は「化石の日」である。こと化石といえば世間的には恐竜のものがよく知られているわけだが、恐竜の化石を探しに行って恐竜以外の化石がやたら豊作だったというのは非常にしばしばある話である。そして結局のところ、中生代の地層であっても恐竜以外の化石を探したほうが(確率論というかコストパフォーマンスの話になってはくるが)たいがいの場合はるかに実りが多いのが日本である。

 今日こそ福井県は「恐竜王国」としてよく知られるようになったが、結局のところこれは福井県がここ30年以上にわたって恐竜という概念にリソースを投入し続けていたからに他ならない。県庁をしてここまでリソースを割かせ続けるきっかけとなったのは、石川との県境にほど近い、勝山市北谷の山間を流れる杉山川のうっそうと茂った草木から垣間見える切り立った露頭――手取層群赤岩亜層群北谷層の存在であった。

 

 北谷層では古くからトリゴニオイデス、プリカトウニオ、ニッポノナイアといった白亜紀前期の東アジアを代表する淡水生の軟体動物化石群集の産出が知られており、この露頭もトリゴニオイデスの産地として知られていた場所であった。1982年6月、トリゴニオイデス探しで終わるはずだった調査で発見されたのは、1本のワニの歯であった。

 翌7月、この一帯は「化石トリゴニオイデス等包含層」として勝山市の天然記念物に指定された。直後に行われた追加調査――この時期、福井県立博物館の開館に向けて県の準備室が活発に活動していた――において発見されたのは、全長1.3mほどの見事なワニ形類――“テトリワニ”の通称で呼ばれることになるゴニオフォリス類(当初はより進化的な正鰐類とみられていた)のほぼ完全な骨格であった。

 この年、県境を挟んだ向こう側――石川県白峰村(現白山市)の桑島化石壁――手取層群石徹白亜層群桑島層でひっそりと恐竜の化石が発見されていた。転石から見出されたこの化石が博物館へ持ち込まれて獣脚類の歯であると判明したのは1985年になってからで、この“カガリュウ”は“ミフネリュウ”に続く日本で二例目となる獣脚類の化石記録となった。さらに、この発見にともなう調査で、桑島化石壁からは恐竜の足跡化石まで発見されたのである。

 かくして手取層群の露出域で恐竜発見の機運が高まり、“カガリュウ”の標本を最初に受け入れた福井県立博物館は「化石トリゴニオイデス等包含層」での大規模な発掘を計画するようになった。“テトリワニ”は当時知られていた日本の中生代動物化石としては最高といってよいもので(今日でも最高クラスに入る)、さらに言えば82年7月の調査では正体不明の長骨も発見されていたのである。

 福井県立博物館は1988年の8月にようやく予備調査にこぎつけ、そこで豪運ぶりを見せつけることになった。わずか三日の調査日程で、「化石トリゴニオイデス等包含層」から獣脚類の歯が2本も産出したのである。1988年10月、これら2点の歯は“キタダニリュウ”、そして82年に発見されていた謎の長骨――獣脚類の尺骨と同定された――は“カツヤマリュウ”として報道発表された。そして1989年、北谷恐竜クオリーと後に呼ばれるようになるこの場所で第一次調査が始まったのである。

 初年度は削岩機の他に特別な機械が投入されることもなかった(現場に続く道路がなかったため、索道を設置して資機材や発掘標本を運搬する羽目にはなっていた)が、その結果明らかになったのは、問題の露頭の最下部はボーンベッドをなしているという事実であった。翌1990年度から重機が投入され、山肌を大きく削り取ってボーンベッドの層準を面的に露出させた上で発掘を行うという、中生界相手には国内でそれまで行われてこなかった大規模な発掘調査へと発展したのである。露出したボーンベッド層準は1m間隔でグリッド分けされ、重機で分割した後に人力で小割りし、有望そうなものはさらに研究室にてクリーニングという、今日まで福井で続く方法がここで確立されたのであった。そして「層面掘り」の過程で恐竜の足跡(というより行跡)化石を大量に保存した層準が複数発見されるに至り、この露頭がとんでもない場所であったことが明白となったのだった。

 

 ジュラシック・パークの公開に沸く1993年――5ヶ年計画で行われた発掘の最終年度に姿を現したのは、広げた手いっぱいになるサイズの獣脚類の末節骨、それに距骨、中足骨そして趾骨のセットであった。ボーンベッドの中から産出した化石であるとはいえ、ボーンベッドそのものは原義のそれよりもずっと低密度でもあり、ごく狭い範囲から産出したという状況からして、これらの化石は同一個体――デイノニクスと同等のサイズのドロマエオサウルス類で間違いないように思われた。実のところ1991年にはごく近くで顎の断片――歯間板が顎骨に癒合しており、明らかにドロマエオサウルス類のそれであった――も産出しており、これも後肢の要素と同一個体のものと見てよさそうだったのである。

 これらの標本はつまるところ、日本で初めてとなる獣脚類の部分骨格であった。ボーンベッドから単離した要素ばかりが見つかるこの発掘現場としても、“テトリワニ”以降ようやく産出した部分骨格だったのである(この時点で“フクイリュウ”の標本はある程度の数が揃っていたが、明らかに部分骨格と言えるもの――フクイサウルスの模式標本群の発見は第二次調査を待たねばならなかった)。顎に埋まったままのものを除けば他にドロマエオサウルス類のものらしき歯は発見されなかった(“カツヤマリュウ”と思しき歯は発見された;後述)のだが、とはいえ「“キタダニリュウ”の歯」ともサイズ的に大きな矛盾もなさそうであり、このドロマエオサウルス類の部分骨格も“キタダニリュウ”として紹介されていくようにもなったのだった。

 

(勝山での発掘は日本の古生物学において画期的な出来事であり、様々な点でその後の日本における恐竜発掘に影響を与えた。一方で、ちょっとした産出例が大きく報道される当時にあって記載は相当に立ち遅れており(骨格に関しては結局2000年になるまでなされなかった)、このあたりの研究体制の整わなさについてはかなり批判を受けたともいう。しごく真っ当な批判である(現代にまで通じるあたり根本的な問題はおそらく今日まで変わっていない)一方、1990年代当時にあって恐竜の専門家は日本に存在しなかった(今日からすればひどくざっくりした同定がせいぜいであったし、ざっくりした同定以上のことのできそうもない標本しか知られてもいなかった)のも確かな話である。このあたりの事情は当時から顕在化しており、例えば一次発掘において上述の「“カツヤマリュウ”の尺骨」の付近で発見された尾椎は1991年までは「“カツヤマリュウ”の尾椎」として報告されていた一方、1992年には「“フクイリュウ”の尾椎」として再同定され、「“カツヤマリュウ”の尺骨」も1995年までには“フクイリュウ”のものとみられるようになった(最終的にフクイサウルスのホロタイプと並べて展示されるに至っている)。一方で、1995年までには新たに産出したアロサウルス類らしき歯が“カツヤマリュウ”に割り当てられている(後述)。国内の恐竜研究事情が暗中模索もいいところであった当時にあって、これらの「通称」は広く一般向けの出版物に紹介され、混沌とした状況を作り出すに至ったのだった。このあたりの状況は表立っては特に整理されておらず、単離した要素に与えられた「通称」が悪手でしかなかったことが明確となった今日では、単に分類不定とされた「〇〇リュウ」も数多い。“丹波竜”や“むかわ竜”はそれぞれよくまとまった部分骨格に与えられたものであり、90年代に日本各地で乱発された「〇〇リュウ」とは次元が異なる。

 

 かくして大成功に終わった第一次調査は幕を閉じ、第二次調査までの間に発掘標本の整理と検討が進められた。「北谷の大型ドロマエオサウルス類」の末節骨は来日したカリーによってさんざん悩んだ末に後肢の“シックル・クロー”ではなく前肢のものとして再同定され、これらの成果は1995年のSVPの席上で鮮烈なデビューを飾った。ユタラプトルの75%ほどの大きさ――全長4.5mほどの大型のドロマエオサウルス類が白亜紀前期の日本に存在したのである。

 1995年から第二次調査が始まり、第一次調査で発見されたボーンベッドの層準はさらに奥へと掘り進められた。これによって第一次調査の掘り残しが次々と姿を現し、「北谷の大型ドロマエオサウルス類」の四肢の骨も続々と追加されることとなった。第二次調査は1999年まで続いたが、追加要素が出そろった1997年には改めて「北谷の大型ドロマエオサウルス類」の報道発表が行われたのだった。

 

 2000年の福井県立恐竜博物館の開館へ向け、「北谷の大型ドロマエオサウルス類」の研究と復元骨格の制作が進められた――が、そこにあったのは奇妙な中型獣脚類であった。ドロマエオサウルス類やティラノサウルス類の特徴さえ持っていたそれは、しかしカルノサウルス類の基盤に位置付けられたのである。頭骨を復元する手がかりはさっぱりだったのだが、かくしてシンラプトルを参考としたアーティファクトに顎の断片のレプリカが埋め込まれ、博物館の開館に合わせて復元骨格が展示公開された。

 そして開館に遅れること5ヶ月、2000年の暮れに「北谷の大型ドロマエオサウルス類」はフクイラプトル・キタダニエンシスとして記載された。ホロタイプには分離した歯冠もいくらか含まれていたが、その中にはかつて「“カツヤマリュウ”の歯」として紹介された標本も含まれていたのである。

 

(90年代から2000年代初頭にかけては恐竜研究の激動の時代であり、系統解析の解像度も今日からすると驚くほど低い。フクイラプトルの原記載で試みられた系統解析では、フクイラプトルの他はヘレラサウルス、シンラプトル、アロサウルス、アクロカントサウルス、シノサウロプテリクスそしてティラノサウルス科、オルニトミムス科、オヴィラプトル科、ドロマエオサウルス科と、計10個のOTUが用いられたに過ぎなかったのである。使用されたキャラクターも110個と、今日おなじみのTWG(獣脚類ワーキンググループ)のものと比べると一桁少ない。このあたりの事情はよく留意しておく必要があるだろう。2001年のSVPで発表されたロングリッチによる系統解析ではコエルロサウルス類の基底に置かれていたというのだが、これは当時特に顧みられることはなかった。)

 

 フクイラプトルは様々な獣脚類のグループに見られる特徴(先述のドロマエオサウルス類めいた顎はその最たるものであった。今日では他にエオティラヌスでも同様の特徴が知られている)をモザイク的に保持しており、既知の獣脚類の中に特別に近縁らしいものは見当たらなかった。唯一、オーストラリアから報告されていた「南極アロサウルス」の距骨はフクイラプトルと酷似していたのだが、いかんせんこの標本は距骨だけであり、それ以上コメントのしようもなかったのである。2004年に出版されたThe Dinosauriaの第2版でもこのあたりは変わらず、シンラプトル風のアーティファクトを掲げてはいたものの、フクイラプトルは実態のよくわからないカルノサウルス類以上の扱いを受けることはなかったのだった。

 原記載者ら、ひいては当時の全ての古生物学者には知る由もないことだったが、フクイラプトルはこの時、四肢のほぼ揃った(だけの)唯一の(今日でも数少ない)メガラプトラであった。メガラプトルがドロマエオサウルス類めいた見てくれの系統不明のコエルロサウルス類とみなされていたこの当時、後にメガラプトラへと分類される恐竜の中で最も完全な骨格が知られていたのがフクイラプトルだったのである(「南極アロサウルス」がメガラプトラであることが判明するのにかなりの時間を要したことは言うまでもない)。

 第二次調査では小型獣脚類の単離した長骨が狭い範囲から割合にまとまった状態で産出し、これらの標本はフクイラプトルの幼体であると考えられた。フクイラプトルのホロタイプは椎骨の癒合が進んでおらず、あからさまに亜成体であったが、第二次調査で発見された多数の幼体の中にはホロタイプの1/3ほどの長さの長骨さえ含まれていたのである。それまでの調査で産出した獣脚類の歯化石の再検討も進められ、ホロタイプの他にもいくつかの歯がフクイラプトルのものとみなされた。その中には、1988年の運命の予備調査で採集された“キタダニリュウ”の片割れも含まれていたのである。このあたりについては2006年にまとめて出版がなされ、フクイラプトルに関する記載は一段落着くことになった。

 

(「“カツヤマリュウ”の歯」とされていたものがフクイラプトルのホロタイプに含まれたことは先述の通りだが、一方で“ツチクラリュウ”と呼ばれた「メガロサウルス科の歯」や、もう一方の“キタダニリュウ”の行く末は定かではない。先述の通りこのあたりの経緯は特に論文でフォローされてはおらず(究極的に言えば90年代の論文でもリスト中に軽く取り上げられた程度でしかない)、外野からしてみれば様々な文献に散逸した写真を突き合わせるほかないのが現状である。2006年の論文の中ではドロマエオサウルス類と思しき(フクイヴェナトルとは明らかに形態が異なる)上腕骨の断片が図示されているほか、ドロマエオサウルス類らしき末節骨(図なし)についても報告がある。また、原記載でもドロマエオサウルス類の歯と胴椎の神経弓について軽く触れられているが、これらについては図示もなく、今日に至るまで未記載のままとなっている。末節骨に関しては「elongate, relatively straight manual ungual」(オルニトミモサウルス類のものと思われる)と「manual ungual with proximodorsal lip」が図なしで報告されており、後者についてドロマエオサウルス類の可能性が指摘されているが、proximodorsal lipはフクイヴェナトルでも顕著である。このあたりの状況はその後表立って整理されてはおらず、北谷層のドロマエオサウルス類についてはかなり微妙なところがある。

 2009年には、群馬県は山中層群瀬林層(バレミアン)の下部から産出した歯化石がフクイラプトル aff.キタダニエンシスとして報告された。決して保存のよくない歯1本ではあるのだが、ひとまずこの同定は今日でも特に否定的にはみられていない。北谷層の時代は今日もっぱらアプチアンとされているが、とはいえ白亜紀前期のそれなりの期間にわたって東アジアに基盤的なメガラプトル類が存在したことを示唆している。

 

 2000年代も半ばを過ぎると様々な発見が相次ぎ、2010年になるとフクイラプトルにも光の当たる機会がやってきた。獣脚類の様々な「問題児」がカルカロドントサウリアの中のネオヴェナトル科として一括され、フクイラプトルはその中でも派生的なタイプであるメガラプトラの基底に位置付けられたのである。メガラプトラの位置付けとその構成に関しては今日まで議論が続いているが、とはいえ2010年以来フクイラプトルは常にメガラプトラの基盤に位置付けられ続けている。

 フクイラプトルの系統関係はかくしてこの10年、それなりの解像度と共に安定しているが、復元骨格は手の回内を修正したマイナーチェンジ版が福井県立恐竜博物館の開館20周年に合わせてお披露目されるに留まっている。とはいえ、典型的な――派生的なメガラプトラを直接の参考としてフクイラプトルを復元してよいのかは全く別の問題であり、少なくとも頭骨についてはあまり適切とも言えなさそうだ。

 メガラプトラで体軸の要素がそれなりに発見されているのは南米の派生的なもの――メガラプトル科に限られており、そしてメガラプトル科と基盤的メガラプトラ――フクイラプトルの重複する要素の形態は(南米のメガラプトル科が形態的に非常によくまとまっている一方で)一見してかなり異なっている。アウストラロヴェナトルでさえフクイラプトルと比べればずっとメガラプトル科的な形態を備えており、(メガラプトルほどではないが)巨大な手やほっそりとした歯骨はフクイラプトルのそれとはだいぶ趣が異なっているのだ。このあたりの問題は新標本の蓄積によって段階的に解消していくほかないところではあり、派生的なメガラプトラ=メガラプトル科の復元がようやくそれなりにきちんとできる状況が整いつつある今日にあって、究極的にはまだ当分は時期尚早とさえ言えるかもしれない。

 フクイラプトルのまとまった骨格はホロタイプのほかは発見されていないまま今日に至っているが、とはいえ北谷恐竜クオリーでの発掘調査は第三次そして第四次と引き継がれている。2015年からはボーンベッド層準から続々と新標本が産出している状況であり、このあたりを悲観することは全くない。少しずつではあったとして、着実に復元の確からしさを高めていけることは間違いないだろう。

 白亜紀後期初頭からマーストリヒチアンに至るまで南米で繁栄を遂げたメガラプトラだが、一方で白亜紀前期には東アジア一帯でも比較的ポピュラーな存在だったようだ。近年になってタイの同時代層からもプウィアンヴェナトルPhuwiangvenatorのような「フクイラプトル段階」のメガラプトラが発見されるようになり、基盤的メガラプトラとスピノサウルス類そしてオルニトミモサウルス類からなる獣脚類相がアジアの広い範囲で見られたことを示している。依然としてフクイラプトルは基盤的メガラプトラとしては骨格のもっともよく揃ったものであり、四肢の他はごく断片的であるとはいえ、かなり重要な意義を持っている。手取層群をはじめ、日本に点在する下部白亜系から産出した獣脚類の単離した化石の検討に関しても、フクイラプトルの今後の発見が重要な鍵を握っているのだ。

 

 頭骨の交換とポーズ替えを経てフクイヴェナトルは新バージョンの復元骨格がお披露目されたが、フクイサウルスそしてフクイラプトルはどうだろう。フクイサウルスの復元骨格は“フクイリュウ”時代からマイナーチェンジを重ねて2020年に新標本を加えた3代目(ver.1.8とでも言うべきか)の復元骨格が公開された一方、フクイラプトルは系統関係の見直しこそあれ、標本としてはホロタイプ以降復元に影響を与えるようなものは産出していないようである。

 筆者はフクイラプトルの(原記載の図版以来となる)公的な出版物(日本酒の箱とコラボTシャツ)への掲載を前提とした骨格図の制作を請けあったわけであるが、(獣脚類研究者の監修を細部まで受けたとはいえ)やはりこれも当然(相当に)暫定的な復元に過ぎない。シンラプトル風の頭蓋は明らかに不適切な復元となった今日ではあるが、しかし「適切な」復元へ向けた手がかりはいまだ相当に貧弱である。フクイラプトルと派生的な(特に南米産の)メガラプトラとの間にかなりの形態的なギャップが存在することは明らかだが、それを「復元」として再構築してどうなるかは別の話でもあるのだ。命名から20年以上が過ぎ、系統関係についてもかなり明らかになりつつあるフクイラプトルだが、その姿は依然として闇の中に身を沈めたままである。

 

 「化石トリゴニオイデス等包含層」での発見から35年の過ぎた2017年、かつての調査で切り残された巨大な露頭は、ここで発見された恐竜の模式標本群ともども国の天然記念物に指定された。そして開館から20年以上が過ぎた福井県立恐竜博物館は今年の12月からリニューアルへ向け休館し、来夏に再オープンを迎える。

 「恐竜王国」福井が産声を上げ、日本の古生物学の新たな扉を開け放ってから40年、開館から20年以上を経て装いを新たにする「恐竜博物館」は、果たして何を見せてくれるだろうか。上から下まですっかり恐竜一色になったかに見えるこのトリゴニオイデス産地――野外恐竜博物館はしかし、今日まで見事な軟体動物化石を届け続けている。