GET AWAY TRIKE !

恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

ラングストンの悪魔

イメージ 1
↑Composite skeletal reconstruction of Acrocanthosaurus atokensis.
Based on
OMNH 10146 (holotype; cervical series and fibula),
OMNH 10147 (paratype; some caudal vertebrae),
SMU 74646 (cervical spines, pelvic girdle, femur and mid-caudal)
and NCSM 14345
("Fran"; skull, pectoral girdle, forelimb, sacrum, ilium, hindlimb and caudal series).
Scale bar is 1m for NCSM 14345 (and OMNH 10147).

 アクロカントサウルスといえば人気恐竜のひとつになって久しい(断定)。少なくとも90年代の子供向け図鑑には味わい深い復元画が出ていたりもしたのだが、人気の火付け役がチョコラザウルスや恐竜博2002だったのは多分間違いないだろう。
 アクロカントサウルスが「見栄えのする」恐竜であることに異論をはさむ人はまずいないだろうが、実のところこの恐竜の妥当な程度に正確な姿が明らかになったのは90年代末―――“フランFran”の愛称で呼ばれる標本がBHIによって組み立てられてからのことであった。例によって長くなりそうな雰囲気を感じ取った読者の方も多いだろうが(そのカンは正しい)、お付き合いいただきたい。

 世界恐慌のあとアメリカのとったいわゆるニューディールについて説明する必要は特にないだろうが、この時WPA(公共事業促進局)が行った活動は極めて幅広いものであった。1940年、WPAの事業で働いていたサウザンはオクラホマ、アトカ郡のアーノルド農場に広がるトリニティTrinity層群アントラーズAntlers層(白亜紀前期アプチアン後期~アルビアン前期;およそ1億1600万~1億1000万年前ごろ)で、大きな獣脚類の化石を発見した。
 連絡を受けたオクラホマ大学博物館(現サムノーブルオクラホマ自然史博物館)のストーヴァルは、WPAの事業の下博物館で働いていた人員と、何年も出入りした末にオクラホマ大の学生となったラングストンを引き連れて現場へ向かった。発掘のついでに近場の調査も行った結果、もう一体の大型獣脚類や、頭骨のよく残った中型鳥脚類の化石―――テノントサウルスが命名されるのは20年後だった―――をも発見した。端的に言って大成功の発掘だったのである。これらの発見は、オクラホマ(さらにはテキサスにおいても)で初めての「まともな」白亜紀前期の恐竜であった。
 これらの化石の重要性は言うまでもなく、ストーヴァルは2体の大型獣脚類―――初めにアーノルド農場で発見された個体と後からコクラン農場で発見されたひとまわり小さい(依然としてアロサウルスより大きい)がより完全度の高い個体―――をラングストンに研究課題として与えるつもりだったのだが、時代が悪すぎた。ラングストンは学部課程を終えると海軍へ入隊する羽目になり、2体の化石はしばらく埃をかぶることになった。
 
 かくして、対日戦を潜り抜けて無事に復学したラングストンは、修士課程の課題としてこの2体の大型獣脚類の研究にとりかかった。この2体はどちらも部分骨格ではあったが同一種であることは明らかで、コクラン農場で発見された方(MOU 8-0-S9;のちのOMNH 10146)には部分的ながら脳函を含む頭骨が残っていた。アーノルド農場で発見された方(MOU 8-0-S8;のちのOMNH 10147)はとてつもないサイズであり、そして両者はゴツくて長い棘突起をもっていた。
 修士論文の中でラングストンはこの恐竜を“アクロカントゥス・アトカエンシスAcrocanthus atokaensis”(アトカ産の高い棘突起、の意)と呼んだが、ストーヴァルとの共著で1950年に出版するにあたり、アクロカントサウルス・アトケンシスAcrocanthosaurus atokensisと正式に命名したのであった。

 ラングストンはアクロカントサウルスがアロサウルスと近縁であること(当時はアントロデムス名義で通っており、従ってラングストンは本種をアントロデムス科に分類した)、さらに発達した棘突起が(この場合)分類にはこれといって役に立たないことを見抜いていた。ラングストンはアクロカントサウルスがスピノサウルスとこれといって近縁ではないらしいこと、さらにアルティスピナクス(このところずっとベックレスピナクス名義で通っていたが、結局アルティスピナクスと呼ぶべきらしい)との類似も収斂によるものと考えたのである。
(当時アルティスピナクスは例によってメガロサウルス類とされていたが、結局のところカルカロドントサウルス類の可能性が高いようだ。両者に見られる高い棘突起は、あるいは収斂ではないのかもしれない。)

 ラングストンの見立ては的確だったのだが、いかんせん骨格が部分的だったこともあり、その後しばらくアクロカントサウルスは謎の獣脚類のままだった。アルティスピナクスとともにスピノサウルス科にぶち込まれることもあり、果ては眼窩の「真上」の皮骨の存在からティラノサウルス類との関係さえ指摘される始末であった。一方で、カルカロドントサウルスの比較的完全な頭骨やギガノトサウルスのよく揃った骨格が発見されると、アクロカントサウルスとこれらカルカロドントサウルス類の類縁性が指摘されるようになった。
 1990年にテキサス州のツインマウンテンTwin Mountains層で採集(実のところ1940年代にはすでに発見されていたらしい)されたアクロカントサウルスの部分骨格SMU 74646は、頭骨と四肢こそほとんど残っていなかったものの、他の要素は比較的よく揃っていた。詳細な記載とともに行われた系統解析の結果はアクロカントサウルスが(依然としてアロサウルスと近縁ではあるものの)カルカロドントサウルス科に含まれることを示し、カルカロドントサウルス類がゴンドワナ「限定」ではないらしいことを示唆していた。

 さて、さかのぼって1986年。おなじみカーペンターはオクラホマ自然史博物館でちょっとした仕事を行っていた際に、そこのスタッフであったシフェリ(アントラーズ層がらみの文献で名前を見る)からアントラーズ層産の大型獣脚類の骨をいくつか見せてもらう機会があった。この標本OMNH 10168は1982年にオクラホマの地元住民であるシルヴェリーが発見・寄贈したもので、翌1987年にシフェリが発見地点を訪れたところとんでもない事実が判明した。現場には巨大な穴があるだけだった―――OMNH 10168の「残り」を何者かが採集した後だったのである。そして翌1988年に出版されたとある本―――肉食恐竜事典―――に「アクロカントサウルスの(模式標本より)巨大で完全な標本」の記述がわずかに現れた。

 1987年、ディノフェストの準備で忙しくしていたカーペンターはとんでもない噂を耳にした。ノースカロライナ自然史博物館がアクロカントサウルスの頭骨および骨格の大部分を購入したというのだ。クリーニングもロクに進んでいないというその標本に40万ドル出したという噂さえあったが、ラッセル―――カナダ自然博物館を退職したのちノースカロライナ自然史博物館へ移っていた―――の口は堅かった。既にカーペンターとは20年来の付き合いであり、ドリプトサウルスの再記載を共同で進めていたにも関わらず、である。購入交渉がまだ終わっていなかったことは、この時のカーペンターには知る由もなかった。
 1990年(スーが発見される直前である)、いくつか化石を見せてもらいにBHIを訪れたカーペンターはそこで仰天することになった。そこにあったのは、クリーニング中のアクロカントサウルスの骨格―――“フラン”であった。シルヴェリーの発見した骨格の大半はマチュア採集者によって掘り出され、それを購入した化石ディーラーのグラフマンがクリーニングをBHIに委託していたのである。
 遅々として進まないクリーニング(黄鉄鉱の付着がとんでもないことになっており、黄鉄鉱病を食い止めるにはすべて取り除くほかなかった)をグラフマンにせっつかれていたラーソンは、(グラフマンの許可の下で)フランの研究をカーペンターに勧めた。当初は渋っていたグラフマンもついに折れ、かくしてカーペンターはカリーと共同研究に取り掛かったのだった。
 が、いかんせんカリーはCCDPを抱えている身であった。家族旅行のついでにBHIを訪れるといったカリーの涙ぐましい努力もあったが、そういうわけで(BHIが世界に誇るウエンツの腕をもってしても相変わらずクリーニングが進んでおらず、しかもBHIはスーがらみの訴訟やら社運を賭けたスタンのプレパレーションという重大案件を多数抱えていたという事情もあった。恐竜学最前線⑨で1994年夏時点のフランの頭骨の写真を見ることができる)フランの研究には相当な時間を要することになってしまった。
 そんなこんなでクリーニングは1996年の暮れにどうにか終わったが、この頃にはノースカロライナ自然史博物館との購入交渉も無事に終わっており、また研究の方もあらかためどが立っていた。ラッセルも出版にGOサインを出し、ようやくフランが―――ほぼ完全な頭骨を含むアクロカントサウルス最良の標本NCSM 14345が日の目を見ることになったのである。
 しかしフランの記載論文がそうすんなり出版できるはずもなかった。どうにか博物館に身を落ち着けたとはいえフランは元「商業標本」であり、さらに悪いことにクリーニングを行ったのはBHI―――スーに関わるもろもろでSVPから相当なひんしゅくを買った「業者」であった。カリーもカーペンターもJVPに論文を出したかったのだがそんなわけで無理な話であり、最終的にパリの国立自然史博物館の紀要に決定するまでに複数の投稿先を検討する羽目になったのである。

 ようやく2000年になってフランの記載論文が出版された。頭骨のクリーニングが完全に終わる前に書かざるを得なかったものの、アクロカントサウルスの頭骨の全容、さらには妥当な程度に正確な姿がようやく明らかになったのである。
 カーペンターはアクロカントサウルスがカルカロドントサウルス科に属すると考えていたのだが、一方でファーストオーサーにおさまったカリーはアロサウルス科であると考えていた。もっとも、その後の研究ではアクロカントサウルスがカルカロドントサウルス科に属すると考えられるようになって久しい。

 BHIによって見事な復元骨格が制作されたフラン(スタンに次ぐベストセラーであろう)だが、アクロカントサウルスの骨格には依然として不明な点が多い。胴椎や仙椎の神経棘が完全に保存されていた例は今のところ知られておらず、結局のところ「帆」の高さや概形ははっきりしないのである(今回はギリギリまで低く復元してみた)。フランの頭骨は(やや左右方向に潰れて歪んでいるとはいえ)完璧といっていい代物だったが、四肢こそよく残っていたとはいえ首から後ろの要素はかなり不完全であった。
 そうはいってもアクロカントサウルスは数少ない「それなりの標本に基づきよく研究されている」カルカロドントサウルス類であり、カルカロドントサウルス類の貴重な情報を提供している。フランの頭骨はカルカロドントサウルス類としては断トツの完全度/保存状態であり(クリーニングが完全に終わったこともあり、最近になって再記載された。また、脳函に関する研究も行われている)、頭骨が不完全にしか知られていないゴンドワナ産カルカロドントサウルス類の復元の重要な手掛かりになる。加えてフランの前肢もカルカロドントサウルス類の中では断トツの状態であり、可動範囲に関する研究が行われるほどであった。さらに、フランでは保存の悪かった椎骨についても、よく記載されたホロタイプやパラタイプ、SMU 74646が(限られてはいるものの)大きな助けになるのである。

 最近になってワイオミングのクローヴァーリーCloverly層でアクロカントサウルスの幼体と思しき部分骨格が発見され、アクロカントサウルスの分布がどうやらかなり広かったらしいことが明らかになった。サウロポセイドンのような大型のティタノサウルス形類やテノントサウルス、デイノニクスやアクロカントサウルスは、白亜紀前期の北米中にのさばっていたらしい。いずれは、フランを越える化石も発見されることだろう。

 今回記事を書くにあたってSさんから多大な資料提供をいただきました。ありがとうございました。