↑Skeletal reconstructions of Diplodocus spp.
Top to bottom, Diplodocus hallorum USNM 10865, D. hallorum NMMNH P-3690 and P-25079 (holotype), D. carnegii CM 84 (holotype). Scale bar is 1m.
筆者が生まれる少し前、つまり1990年代初頭の日本といえば、バブルとその残滓の呼び込んだ恐竜展の跋扈する時代であった。ハリウッドからジュラシック・パーク映画化の報も伝わる中にあって、空前の恐竜ブームに浮かされていたのである。
このあたりの空気については生殖細胞にすらなっていなかった筆者は語るべくもないのだが、そうした熱の中にあってひときわ過熱していたであろう話題が「最大の恐竜」であった。スーパーサウルス、ウルトラサウロス、(生痕属だが)ブレヴィパロプスと様々な「ブラキオサウルスより大きい」竜脚類がしのぎを削る中、颯爽と「全身骨格」を引っ提げてやってきたのがセイスモサウルス――「アースシェイカー」だったのである。
セイスモサウルスはやがて恐竜博2002――日本における90年代の恐竜ブームの総決算的イベントの目玉として来日し、そしてそこでその生涯を再び閉じることになった。狂瀾の時代の幕引きにはふさわしかったであろう顛末だったが、今一度ここで振り返りたい。あの時代に、そしてその反動として過ぎたとさえ言えるこの20年に決着を付けなければ、我々はもはや一歩も前へ進めないのだ。
ニューメキシコ中央部の高原地帯にはアナサジ(言うまでもなくアナサジサウルスはこれにちなんでいる)――古代プエブロ人の描いた岩絵が数多く残されており、観光客を引き寄せ続けている。アルバカーキからざっと100km離れたくんだりへと繰り出していたアーサーとジャンの二人組も、典型的な岩絵目当てのハイカーであった。
この一帯はネズの木とピニョン松がまばらに生えた丘が点在する荒野ではあったが、ウラン探鉱のためにところどころ切通が作られており、車のアクセスはそう悪い土地ではなかった。二人は車から降りて別々のルートを辿って岩絵探しを始め、そしてアーサーが出くわしたのは化石――砂岩でできた崖のてっぺん近くを真一文字に横切る背骨の列だった。
アーサーは音楽教師で化石はさっぱりだったが、薬剤師のジャンはもともと地質学者であった。そういうわけでアーサーはとりあえずジャンを呼び、そしてジャンはこれが恐竜であるらしいことを見抜いたのである。ジャンはこの時、堆積物の様子からしてこの砂岩がモリソン層に属することに気付いてすらいた。ジャンの知る限り、この一帯のモリソン層で恐竜が出たという話は全くなかった。
そこから30mばかし行ったところに岩絵はあったのだが、それはさておき次の休日に二人はハイキング仲間をもう二人――ビルとフランクを連れて化石の場所へ戻ってきた。砂岩から突き出した尾椎はここで初めてフランクのカメラに収まり、そして連邦土地管理局(BLM)――この一帯を自然公園として管理していた――へ写真が持ち込まれたのである。
土地管理局はこれを竜脚類と見て取ったが、発掘には及び腰だった。壮絶な硬さの砂岩に化石が埋まっており、手ずからの道具ではどうしようもないのは誰の目にも明らかだったのである。予算は心もとなく、なにより現場――国立公園の中であることからして発破を使う大規模な発掘は厳しそうであった。
かくしてタレコミは不発に終わったが、一行は今後のことを考えて問題の化石をその辺の岩くずで覆い隠しておくことにした。こうしておけば風化をある程度は防げるし、盗掘者の目からも遠ざけることができるはずだった。
それから6年が過ぎた1985年、ニューメキシコでは州立博物館――ニューメキシコ自然史科学博物館(NMMNH)の建設が進んでいた。翌86年の開館へ向けてスタッフは大わらわであり、準備室から携わって3年目となるジレットもそうであった。毎週のように、州内における恐竜発見を知らせる電話がかかってくるのである。フランクが6年前の発見について連絡してきたのもその時であった。
懐疑的なジレット――彼の知る限り、ニューメキシコ州内におけるモリソン層の恐竜化石はごくわずかしか知られておらず、それも東部に限られていた――に対し、フランクはジャンの意見を述べ、BLMでも恐竜化石とみなされていたことを伝えて食い下がった。フランクは翌日、6年前の写真を携えて博物館を訪れ、現地までの案内を申し出た。
写真を見てさすがのジレットも息をのみ、そしてフランクからの言葉にうろたえた。2週間前にローカルニュースでこの化石について放映されているというのである。フランクは現場が荒らされることについて懸念しており、フランクから話を聞いてしまった以上それはジレットも同じであった。事態は切迫していたのである。
かくしてその翌日、ジレットはフランクの車に乗って現地を訪れることにした。谷を下る車窓の景色は白亜系のマンコスMancos頁岩、そして上部ジュラ系のモリソン層へと移り変わっていた――フランクの話は、そしてジャンの6年前の見立ては正しかったのである。フランクが岩くずをどかすと、一列につながった椎骨――その大きさに注意が向いたのは後になってからだった――が、6年前と変わらぬ姿を現した。ニューメキシコで知られていたジュラ紀後期の竜脚類といえばカマラサウルスが関の山であり、博物館では展示用に骨格を組み立てていたりもしたのだが、明らかにこの化石はそうではなかった。もはや発掘する以外の選択肢はあり得なかったのである。
お役所仕事で知られる土地管理局からの発掘許可は、奇跡的にたった2週間で下り、ジレットの目論見通り、父の日の休日――人員の確保が容易である――に発掘ができる算段となった。博物館の開館準備は佳境に入っており、すわ新たな目玉展示の出現かという状況に学芸員がかき集められた。ジレットはさらにボランティアも動員し、そして最初の発見者たる4人も集まった。土地管理局からも有志が参加し、そして発破なしの人海戦術で発掘が始まったのである。
土曜日の早朝から発掘が始まり、恐ろしく硬い砂岩に難儀しながらも日曜日の午後にはどうにか8つの尾椎――露出していた全てをジャケットに包み、運び出すところまでたどり着いた。状況からして「続き」がその場に残されていることはほぼ間違いなかったが、最初の発掘としては上々の成果だった。
かくして採集された尾椎にはNMMNH P-3690のナンバーが与えられ、ついでにメディア向けに“サム”という愛称も付けられることになった。今後の発掘が長期戦になることは早晩明らかだったし、何かとんでもないものが埋まっているという確信もあったのである。
開館を控えたNMMNHの学芸員はロス・アラモス研究所で招待講演をする機会があり、ジレットはその際に聴衆――冷戦のただ中にロス・アラモス研究所で働く畑違いの研究者たちに思い切ってアドバイスを請うた。ただでさえ巨大な“サム”の(推定される)掘り残しは凄まじく硬い砂岩――化石と色で区別するのが困難――に埋まっているはずで、しかも自然公園という土地柄もあって発掘には様々な制限が伴っていた。重機も発破も使えないなら人海戦術しかないのだが、(何年かかるかわからないが)発掘終了後は原状復帰が条件とあっては、やみくもに掘り返すことも不可能だったのである。一人か二人から救いの手が挙がればいいと思っていたジレットは、挙手の波に飲み込まれた。1987年、リモートセンシングを駆使した空前(そして絶後だった)のハイテク発掘がここに始まったのである。
多数のボランティアと探査装置の専門家を動員して行われた発掘は1992年までかかり、四肢を除くそれなりの部位が発掘された。肩から尾の前半にかけて一通りのパーツが揃い、いくらかの頸椎や尾の中ほど、そして胃石も採集されたかに思われた。様々な分野――考古学でもそれなりに実績を上げていたリモートセンシングは、ここでニューメキシコの荒野と古生物学の洗礼を浴びた――地震波トモグラフィーはそれなりにうまくいったが、地中レーダーと磁気異常探査はさっぱりだった。シンチレーションカウンターは深さ数cmまでの範囲のガンマ線を拾うのがやっとで、この発掘では役に立たなかった(モリソン層の恐竜化石はたいがいウランを含んでおり、役に立ったケースもあるにはある)。ハイテク機器が役に立っても立たなくても発掘のほとんどの過程は(重機を入れることのできない現場だったのでなおのこと)人力であり、それは常に同じことであった。
(発掘中にふざけて針金2本でダウンジングを行ったところ、頸椎らしい骨が発見されるという事件があったという。1989年のクリスマスには後述の座骨で祭壇を作って“the great god of dinosaur fossils”(正気度のダイスロールは発生しないはずだ、たぶん)に全身骨格の発見を願う一幕もあり、まあそういうものである(ジレットの本に写真がある)。座骨に開けたドリル孔に蝋燭をぶっ立てたのが“the great god of dinosaur fossils”の怒りに触れたような気がしなくもない。)
発掘はまだ終わっていなかったが、数度の学会発表を経た1991年の12月(論文の投稿は1990年の3月で、査読を経た受理は1991の1月であった。JVPは人気の雑誌ではあり、無事に査読をクリアしても出版に至るまでだいぶ待ち時間がかかるのはこの頃かららしい)には、ジレットによって“サム”に正式な名称――学名が与えられた。セイスモサウルス・ホーリイSeismosaurus halli――属名は「大地を揺るがす」に足る“サム”の巨大さと地震波探査とのダブルミーニング(正式命名以前から、その巨大さでもって通称として使われてはいた)であり、種小名はかのゴーストランチの所有者であったホール夫妻への献名である。
(種小名は複数名への献名であり、例によってオルシェフスキーによって容赦なくツッコミが入ったのちジレットが自ら訂正することとなった。こうした「訂正」が正式に認められることはあまりなかったりもするのだが、このケースではジレット本人による訂正もあってか、ホールオルムhallorumがあらゆる文献で使われるようになって久しい。)
原記載の時点で、セイスモサウルスの標徴――独自性を担保する特徴は、もっぱら恥骨と座骨、そして「中位」尾椎――1990年初頭の時点でクリーニングが終わっていた部位――のプロポーションに基づいていた。遠位端がフック状になった座骨――化学分析のためにサンプルコアが抜き取られた――の形態は他の竜脚類では(今日でも)まったく知られていなかったが、一方でジレット本人は特にこの特徴を重視することはなかった。この時点でクリーニングの終わった要素についてはそれぞれごとの寸法がディプロドクスやアパトサウルスと比較され、比例計算によってセイスモサウルスの全長は39~52mと推定されたのである。スーパーサウルスの全長が43mと推定されていたこの時代にあって、セイスモサウルスは抜きんでて巨大であるように思われた。かくして、セイスモサウルスは史上最大の恐竜として90年代を席巻することになったのである。
1992年で発掘は切り上げられたが、いつ果てるとも知れないクリーニング地獄はとっくに始まっていた。砂岩は部分的にコンクリーション化しており、文字通りコンクリートのような硬さになっていたのである。しかも砂岩と化石の色は可視光では全く区別がつかず、質感さえほぼ同じだった。紫外線下ではそれなりに区別がついたが、とはいえクリーニングの困難さを打破できるものでもなかった。
セイスモサウルスの復元骨格を制作し日本で展示するという計画は92年時点で動いていたらしい――が、これがすぐに陽の目を見ることはなかった。とはいえ、ボランティアの手によってじわじわ進むクリーニングの裏で計画は進み、ついに2000年からセイスモサウルスの復元骨格の制作が始まることとなったのである。NMMNHの監督の下でPAST(Prehistoric Animal Structures, Inc.)によって制作が進められる一方、日本における展示会――恐竜博2002を取り仕切るのはオーロラ・オーバル――日本における1990年代の恐竜ブームの象徴たる恐竜学最前線の精神的後継紙であるディノプレスを発行していた――であった。恐竜学最前線は廃刊して久しかったが、1990年代の恐竜ブームの総仕上げがついに始まろうとしていたのである。
復元骨格を制作する以上は(最低でも片側のパーツだけは)形態が明確になるまでクリーニングしておく必要があった。キャストが作れずとも、実物の計測値に基づく模型を作れる状態には持っていかなければならなかったのである。関節した胴椎や仙椎-腸骨、近位尾椎のブロックを単離した状態までクリーニングするのは早々に断念され、概形がわかる状態まで進んだところで復元骨格用のアーティファクトの制作へと移行することとなった。
研究目的が第一義ではなかったとはいえ、この突貫クリーニングでセイスモサウルスの実態は急速に明るみに出つつあった。それらしくサイズを合わせたアーティファクト――ディプロドクス準拠――を組み合わせることで、セイスモサウルスの全長は見る間に縮小していったのである。ジレットがセイスモサウルスの頸椎と考えていた4つのひどく侵食された破片(マーク・ハレットはジレットの相当な希望的観測に基づき、セイスモサウルスの首をバロサウルスのような長さで描いていた)のうちの2つは前方胴椎、1つは化石ですらなく、辛うじて頸椎のように思われた破片でさえ事実上何の情報も(復元の助けとなる寸法さえも)もたらさないものであった。胴椎のブロックのざっくりした計測値がディプロドクス・カーネギーイの仙前椎のデータに代入され、できあがったアーティファクトを組み込んでみれば、単なる巨大なディプロドクスめいた恐竜の姿がそこにあったのである。ジレットによる原記載の推定値の下限さえ下回ったそれは、とはいえ妥当な見てくれのように思われた。
(セイスモサウルスのマウントを制作する上で特に問題になったのは、「中位」以降の尾椎であった。セイスモサウルスの胴体(第3胴椎)~腰~近位尾椎(第2~第8)はほぼ関節状態で発見された(第1尾椎は採集されなかったが、これは単に発掘中に破壊されただけなのかもしれない)が、それより後方の尾椎は切れ切れに関節した状態で発見され、その厳密な位置関係は不明瞭だったのである。原記載の時点ではこうした尾椎が6点確認されており、ジレットは第13、第20、第24,第25、第26、第27?に割り当てていた。最終的に「中位」以降の尾椎はさらに3点が採集された(計9点)のだが、恐竜博2002用の復元骨格の制作にあたっては(図録の骨格図では第8尾椎と「中位」以降のうちで最も近位側のものが塗り忘れられたりもしているのだが)、ジレットが第20としたものが第17、第24としたものが第21といった具合に、割り当ては全体としてジレットの推定よりも付け根側にシフトさせられた。もっとも、ジレットが第27?としていた尾椎は第26に割り当てられるに留まり、保存されていた範囲に関しての見方は恐竜博2002で特段変化したわけでもなかったのである。つまり、恐竜博2002においてセイスモサウルスの全長が35mまで「縮んだ」のは、首と尾の後半部の推定長さが大幅に下方修正されたことが主因であった。そして本当の問題はここからだったのである。)
かくして公称35mの超巨大恐竜として幕張メッセで組み上げられたセイスモサウルスだったが、その足元にはクリーニングラボ――各地から集められた学生ボランティアがセイスモサウルスの仙椎-腸骨ブロック(先述の通り、早期のフルクリーニングを断念した部位)の実演クリーニングを行っていた――を従えていた。セイスモサウルスのお披露目たる会期中にここで起きた事件は、究極的にはその運命を決定付けるものであった。
セイスモサウルスの復元骨格の腸骨後端には、奇妙な突起――他の竜脚類には見られない――が造型されていた。復元骨格用の実寸模型を製作する時点で、腸骨の後端部にはなにがしかの突出部の折れたような構造が確認されていたため、それを踏まえてのことであった。クリーニングが全く追いついていなかった(がために当初BYUでクリーニングが行われていた要素でもあった;恐竜学最前線①参照)がゆえにそれまでの記載では全く言及されていなかった特徴であったが、であればセイスモサウルスの独自性を補強する重要な特徴になり得るものだったのである。
搬入された腸骨のブロックのクリーニングは当然中途半端であった。概形は見えているようであったが、いまだ腸骨の表面は露出していない――砂岩のコンクリーション(骨片すら混じっていた)に薄く覆われていたままだったのである。そしてクリーニングが進むにつれて明らかになったのは、腸骨後端部は完全に破損しており、縁辺は全く残っていなかったという事実であった。「突起の基部」は単に破断面を覆うコンクリーションに過ぎなかったのである。復元骨格における腸骨後端の突起には、もはや何の根拠もなかった。
恐竜博2002で展示された復元骨格は、開館を控えた北九州市立自然史・歴史博物館へと送られ、そこを終の棲家とした。とはいえNMMNHも自館にセイスモサウルスを展示しないはずはなく、かくしてマウントの第2号が制作に入ったのである。NMMNHの展示計画では(スペースの関係上、伸ばしたままでは置けないので)相当にダイナミックなポーズを取らせたうえでサウロファガナクスのマウントと対決させることになっていたのだが、ルーカスはここでかねてよりの懸念について再確認してみることにした。1号を制作する際に問題となった、「中位」以降の尾椎のポジションについてもう一度検討しようというのである。
ルーカスが漠然と抱いていた嫌な予感は的中した。原記載のポジション推定は言うまでもなかったが、1号を制作した時の推定さえ相当な問題があったのである。ジレットが第20とみなしたものは1号の制作時には第17とされたが、これはさらにずっと近位側――第13に置くのが妥当らしかった。結局のところ「中位」以降の尾椎はひとつながりのものであり、原記載で第27?とされたのちマウント1号機で第26に置かれた尾椎(一連の尾椎の中で最後部のものであることに違いはなかった)は第19と判断されたのである。マウント2号の全長は1号からさらに縮み、33mとされたのだった。
恐竜博2002で展示されていた実骨の要素も、クリーニングラボの一件のこともあってNMMNHで再クリーニングが進められていた。復元骨格のために突貫工事で行われたクリーニングは、やはり相当に不完全だったのである。優先クリーニングの対象から外されていた部位(左右の要素が揃っていた場合、より完全な側だけがクリーニングに回されていた)にも手が付けられたのだが、案の定問題が噴出した。左の座骨にあった遠位端の「フック」――原記載では特に重視されなかったものの、今やセイスモサウルスにみられる唯一の独自性となっていた――が、ほったらかされていた右の座骨には全く存在しなかったのである。もはやセイスモサウルス・ホールオルムは「ちょっとデカいディプロドクス」でしかなく、2004年のGSAの席上でルーカスはこれをディプロドクス属に――ディプロドクス・ホールオルムとすることを提案したのだった。そしてディプロドクス・ホールオルムのホロタイプには新たに不完全な大腿骨NMMNH P-25079――やや離れた場所から見つかったうえに、妙に小さいように思われたことから、セイスモサウルスのホロタイプとは別個体と見なされていた――が追加された。マウントの大腿骨は長さ1.8mに造型されていたが、NMMNH P-25079はどう復元しても1.7m弱にしかならないものであった。
胴椎のブロックや近位尾椎のブロックは、神経弓が終わった段階でクリーニングが打ち切られた。ディプロドクス類の分類で重要となる特徴を観察するには十分であり、椎体を完全に露出させるのはあまりにも困難だったのである。そして、ルーカスが2004年の発表で病変の可能性を示唆していた左座骨の「フック」は病変でさえないことが明らかになった。棘突起の先端と思しき破片がコンクリーションで座骨の先端に結合していただけだったのである。
2006年になり、ルーカスらはGSAでの発表をまとめた論文(①、②)を出版した。NMMNH P-3690(とNMMNH P-25079)の実態がここでようやく示され、ここに正式な形でセイスモサウルス・ホールオルムはディプロドクス・ホールオルムとなったのである。
かくしてセイスモサウルスはディプロドクス属の独立種として生き延びることになった――かはまだわからなかった。ルーカスらはディプロドクス属の属内分類が相当な問題を抱えていることを指摘するとともに、自ら述べたディプロドクス・ホールオルムの独自性らしいもの(マッシブな腰帯と「パドル状」に広がった血道弓の遠位端)が単に個体変異でしかない可能性をも指摘したのである。だとすれば、ディプロドクス・ホールオルムはディプロドクス・ロングス――スミソニアンのマウントでよく知られたディプロドクス属の模式種――の大型個体でしかなさそうだった。
ルーカスらの残した爆弾は、セイスモサウルスとディプロドクスを心中させかねないものでもあった。ディプロドクス属全体の分類学的な再検討の必要性についての指摘は至極真っ当で、そもそもディプロドクス属の模式種たるディプロドクス・ロングスのホロタイプが相当に怪しげだったのである(ホロタイプYPM 1920は尾椎2個と血道弓ひとつだけであった;同じ発掘現場からは完全な頭骨USNM 2672やその他のパーツも知られていたが、これがホロタイプと同じ個体である保証は何もなかった)。2007年に出版されたスーパーサウルス“ジンボ”の記載では特に議論することもなく“セイスモサウルス”はディプロドクス・ロングスとして扱われた(ついでに全長も30mに下方修正された)が、こうした事情のために特に意義のある話とはみなされなかった。開け放たれたパンドラの箱の前で些末の話をしても、何の意味もなかったのである。
(分類の話で言えば、“セイスモサウルス”よりもスーパーサウルスの方がよほど問題をはらんでいる。ホロタイプがどの標本なのかさえはっきりせず(どの標本だったとしても特に独自性らしいものはみられない)、しかも“ジンボ”とホロタイプは重複する部位がないのである。スーパーサウルスのシノニムとされてきたディスティロサウルスのほうがよほど独自性を保持しているようでもあり、このあたりは今後大きく動くことだろう。)
2015年に出版された大著――マウントされたものも含め、目ぼしいディプロドクス科の標本に総当たりして分類学的再検討を行った論文で、ルーカスらの残した爆弾は大爆発を起こした。大著ゆえの粗さも抱えた解析ではあったが、とはいえディプロドクス科の抱えていた様々な分類学的な問題に光が当てられ、個体レベルでの系統解析も踏まえて大きく再編されたのである。
YPM 1920――ディプロドクス・ロングスの模式種のホロタイプであるそれは、結局のところ何の独自性も確認することができなかった。セイスモサウルス云々を抜きにしてそれまでディプロドクス・ロングスとして扱われてきたいくつかの部分骨格――いずれも不完全ではあったが保存は良好だった――とYPM 1920が別の種であると言うことはできなかったが、同じ種とする根拠も何もなかったのである。USNM 10865をはじめとする残された部分骨格たちと“セイスモサウルス”・ホールオルムは(ルーカスらが指摘したように)同じ種と見て間違いなさそうで、そしてもうひとつのディプロドクス――ディプロドクスの「顔」として世界中で君臨してきたディプロドクス・カーネギーイと“セイスモサウルス”・ホールオルムは姉妹群をなし、やはり同属と見てよさそうであった。
ここにディプロドクス属内のクーデターが勃発した。模式種をディプロドクス・ロングス――いまや疑問名であった――から、かなり完全な骨格(しかも詳細に記載されている)に基づくディプロドクス・カーネギーイへと移すことでディプロドクス属の実用性を守り、“セイスモサウルス”はホロタイプ以外の「元」ディプロドクス・ロングスたちを従えたうえでディプロドクス・ホールオルムとして改めて独自性を確認されたのである。
かくしてあるべきものをようやく手にしたディプロドクス・ホールオルムだが、そこに“セイスモサウルス”の――狂瀾の90年代が生んだ超巨大恐竜の面影はない。全長30mほどの、サイズ相応にがっしりとした体形とはいえ、依然として素晴らしく華奢で優雅で慎ましげな恐竜がそこにいるだけである。オーロラ・オーバルもPASTもとうの昔に消え失せたが、残された2体の復元骨格――全長35mの1号と全長33mの2号はしかし、座骨の「フック」を高々と掲げ、90年代の熱を今に伝えている。