↑Skeletal reconstruction of
Fukuiraptor kitadaniensis holotype FPDM-V 97122 (top)
and Australovenator wintonensis holotype AODF 604 (bottom).
Scale bars are 1m.
2000年に命名されて以来、フクイラプトル・キタダニエンシスは常に「恐竜王国福井」の先頭に立ち続けてきた。事あるごとに復元骨格がメディアを飾り、また復元骨格に基づき制作された復元模型も常に第一線にあり続けてきた。とはいえ、命名から15年以上も経てばいかなる恐竜であってもそれなりに「見てくれ」は変わり得るもので、それがメガラプトル類であればなおのことである。
「『日本から恐竜は出ない』のがかつての常識だった」とはよく言われることであるのだが、実のところ1951年には(広義/旧義の)手取(てとり)層群(明治初期にはすでに植物化石の名産地として知られていた)から恐竜化石がいずれ発見されるであろうことが小林貞一によって「夢想」されていた。1966年には福井県美山町(現福井市)小和清水の九頭竜層群(旧九頭竜亜層群)の最上部、境寺層でアスワテドリリュウ――テドロサウルス・アスワエンシスTedorosaurus asuwaensis(トカゲ類)が、そして1982年には勝山市北谷町――運命の露頭で、1本のワニの歯が発見された。福井県立博物館建設準備室――典型的な総合博物館になるはずだった――が中心となった調査で発見されたのは、見事なゴニオフォリス類の化石――ほぼ完全な骨格だった。
(地層名としては手取(てとり)層群を用いるのだが、元になった地名(川)本来の読みは手取(てどり)である。よくある話なのだが、1894年に横山又二郎は読み方をうっかり間違えたまま命名したのだった。)
1986年、事態は一気に動いた。石川県側の手取層群――手取川に面した石徹白亜層群桑島層の巨大露頭――桑島化石壁から、待望の恐竜化石が報告されたのである。1978年に採集されていたそれは獣脚類のちょっとした歯冠の断片ではあったのだが、それでも今後の発見を期待させるものであり、カガリュウの「通称」が与えられたのである。
手取層群初の恐竜化石となる「カガリュウ」の発見は、桑島化石壁はもちろんのこと、福井県側の調査をも活発化させることとなった。白羽の矢が立ったのが1982年にゴニオフォリス類の産出した露頭であり、1988年に予備調査が行われた。3日間の調査ではあったのだが、案の定と言うべきか、獣脚類の歯が2本――同じ分類群に属すると思しきもの――が産出し、これらには「キタダニリュウ」の通称が与えられた。また、1982年の調査でゴニオフォリス類と共産した複数の骨片をつなぎ合わせたところ、アロサウルス類と思しき尺骨が現れた。「カツヤマリュウ」である。
本格的な発掘が始まるにつれ、露頭の最下部の砂岩がボーンベッドと化していたことが明白となった。北谷層の恐竜相、さらに言えば当時の情景がかなり復元できる可能性が出てきたのである。発掘2年目からはボーンベッドを面的に掘る方法に切り替え(ある程度のマッピングも行われたが、これはいわゆるボーンマップを描けるような詳細なものではなかった)、さらに多数の化石が発見された。その中には複数のイグアノドン類の骨(ほっそりとしたほぼ完全な歯骨も含まれていた――これはフクイサウルスではない)――「フクイリュウ」である。
そして1991年、ドロマエオサウルス類と思しき(歯間板が顎骨に完全に癒合する)上顎骨や歯骨の断片が発見された。さらに、1993年には顎の発見地点のすぐそばで巨大な末節骨と足の骨が密集した状態で発見された。末節骨の形態は(断面こそ完全な逆涙滴型ではなかったものの)ドロマエオサウルス科の後肢の第Ⅱ指――シックルクローとよく似ており(左右非対称の血管溝があった)、デイノニクスよりやや大きいサイズのドロマエオサウルス類(しかもデイノニクスよりも華奢な体格らしい)が存在していた可能性が浮上したのである。「キタダニリュウ」がドロマエオサウルス類の歯と同定されたこともあって、この部分骨格(産状からして同一個体であることはほぼ確実だった)が「キタダニリュウ」と同じ種に属する可能性もあった(が断定は避けられた)。
その後、福井を訪れたカリーはさんざん悩んだ末に末節骨はシックルクローではなく前肢に属するものと再同定した。これに伴いサイズについても再検討され、この部分骨格がどうやらユタラプトルの75%ほどの大きさ――ドロマエオサウルス類としてはかなり大型のものであるらしいことが明らかになったのである。
(これらの化石の実質的なお披露目となった福井県立博物館の特別展に合わせ、フクイリュウの復元骨格も制作された。多数の骨が知られていた一方で、複数個体に属することが明らかであったため、頭骨要素(サイズ的に同一個体分であるように思われた)の他は、いくつかの後位頸椎や前位胴椎、肩甲骨の近位端、中手骨、肋骨、座骨近位端、いくつかの尾椎と血道弓だけが復元骨格に組み込まれ、他はほとんどアーティファクトとなった。そのままフクイリュウの復元骨格の尺骨に組み込まれているのはどうもカツヤマリュウらしい。)
追加要素の発掘が期待されたこともあり、1996年から始まった第二次調査ではこの「大型ドロマエオサウルス類の部分骨格」の発見地点周辺を集中的に攻めることとなった。結果は大当たりで、第一次発掘の要素と合わせれば前肢の大部分やほぼ完全な後肢が揃うこととなったのである。
――フタを開けてみれば、「キタダニリュウ」とさえ目されたこの「大型ドロマエオサウルス類の部分骨格」FPDM-V 97122(旧FPMN 97122とFPMN 96082443)がドロマエオサウルス類でないことは明らかだった。各要素のサイズや産状(「北谷クオリー」は全体としてボーンベッドの様相を呈してはいたが、それでも20㎡ほどの範囲にまとまっていた)からしてキメラとは考えられなかったのだが、カルノサウルス類の亜成体らしき部分骨格(椎体と神経弓は分離していた)がそこにあったのである。
2000年に復元骨格が完成し、それから間を置かずにこの部分骨格はフクイラプトル・キタダニエンシスFukuiraptor kitadaniensisと命名された(「ラプトル」の名は、どちらかといえば研究史というよりシンラプトルを意識したもののように思われる)。系統解析の結果フクイラプトルは基盤的カルノサウルス類とされた(が故に、基盤的カルノサウルス類の中で頭骨が最もよく知られていたシンラプトルが復元骨格のモデルとされた)が、一方でコエルロサウルス類的な特徴(前述の顎骨に癒合した歯間板に加え、長くほっそりした前肢、非常に大きな手など)もみられた。また、距骨の形態はオーストラリアのウォンタギWonthaggi層(白亜紀前期;アプチアン前期ごろ?)から産出した「ドワーフアロサウルス」(1981年の最初の記載で何を思ったかAllosaurus sp.と同定され、挙句博物館のラベルにはAllosaurus robustusとまで書かれた;90年代にはしばしば「毛皮をまとった」姿で描かれている)とよく似ており、フクイラプトルが「ドワーフアロサウルス」と近縁である可能性まで指摘されたのである。また、ホロタイプから20mほど離れた場所に寄せ集まっていた複数の小型獣脚類(推定全長1mほどの個体から2mほどの個体まで;ほとんどが歯と長骨からなる)はフクイラプトルの幼体とされた。
命名によって、名実ともにフクイラプトルは「恐竜王国福井」の顔となった。「フクイリュウの復元骨格」を「改修」した「フクイサウルスの復元骨格」を従え、「日本の恐竜」の代表としてそこかしこに氾濫するようになったのである。
アウストラロヴェナトル(原記載ではカルカロドントサウルス科の姉妹群とされた)の発見によってアウストラロヴェナトル、フクイラプトルそして「ドワーフアロサウルス」が近縁である可能性が示され、そしてそれらはメガラプトラとしてひとくくりにされた。メガラプトラの系統的位置づけに関する議論については先の記事に書いた通りだが、いずれにせよフクイラプトルはもはや基盤的なカルノサウルス類とは考えられなくなった。
メガラプトラの頭骨の復元は(かなり無茶な)コンポジットに頼るほかないことも先の記事に書いた通りで、現状ごく断片的な要素しか知られていない(今後の期待はできるのだが)フクイラプトルの頭骨を復元することはなおのこと難題である。とはいえ、(肉付けしたとしても)復元骨格の頭――ほぼシンラプトル――とはだいぶ趣が異なっていた可能性はままある。
フクイラプトルの命名から15年以上が過ぎ、フクイヴェナトルや「むかわ竜」のように遥かに完全な骨格も知られるようになった。欠損部位をシンラプトル風のアーティファクトで埋めたフクイラプトルの復元骨格は、今日もガラスの向こうから来館者を出迎えている。