GET AWAY TRIKE !

恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

エニグマ始動

f:id:RBOZ-008:20210428232820j:plain

↑Skeletal reconstruction of Elaphrosaurus bambergi holotype HMN Gr.S. 38-44.
Scale bar is 1m.

 

 エラフロサウルスと聞いた時にあなたが思い浮かべるのはどういうイメージだろうか?筆者はヴェロキラプトルの頭(めいた何か)が据えられていた頃の生まれであり、従ってヴェロキラプトル顔か、さもなくば破線でクレストが描かれていた頃のポールの骨格図を思い浮かべるものである。
 頭骨を除けばほぼ完全な骨格が(ただ1体)知られているエラフロサウルスは、しかし長きにわたって分類不明の獣脚類の代表格であった。だが、近年の研究の進展にともない、未だに頭骨は知られていないものの、その姿をかなり明確に描き出せるようになったのである。

 

 1907年、ドイツの植民地になっていたタンザニアの南部――現在のモザンビークとの国境にわりあい近い――で活動中だった探鉱技術者のサトラーは、小高い丘――斜面がだいぶ急だったので、地元民からは“急な丘”テンダグルと呼ばれていた――の斜面の下の方から化石が覗いているのを発見した。この時たまたまフラース――エフラアシアにその名を残す――がタンザニアを訪ねており、サトラーの報を受けてテンダグルへ向かった。
 当時も今もテンダグル周辺はうっそうとした藪になっており、ツェツェバエやら何やらが人の立ち入りを拒んでいる場所だった(そしてライオンが出ては地元民が襲われる有様だった)。とはいえフラースとサトラーはこの場所で発掘を試み、そして2体の大型竜脚類の部分骨格を首尾よく手に入れた。この2体はフラースの職場であるシュトゥットガルト自然史博物館へ運ばれ、そこで1908年にギガントサウルス・アフリカヌスGigantosaurus africanusとギガントサウルス・ロブストゥスGigantosaurus robustusとして記載・命名されたのであった。

 フラースは新属のつもりでギガントサウルスを命名したのだが、実はこの属名はシーリーによってとうの昔にヨーロッパ産竜脚類(の断片)に用いられていた。そんなわけでトルニエリアTornieria属が新設されたりなんだりですったもんだあったのだが、今日G.アフリカヌスは基盤的なディプロドクス亜科であるトルニエリア・アフリカーナTornieria africanaG.ロブストゥスはカマラサウルス段階のマクロナリア類(以前言われていたほど派生的ではなかったらしい)であるヤネンシア・ロブスタJanenschia robustaとして知られている。また、ヤネンシュ隊が採集してきた56体分の「トルニエリアの部分骨格」はほとんど同定不能竜脚類の山だったのだが、その中から後にエウヘロプス段階のティタノサウルス形類テンダグリア・タンザニエンシスTendaguria tanzaniensisやマメンチサウルス類ワムウェラカウディア・ケランジェイWamweracaudia keranjeiの尾まで出てくる始末であった(肝心のトルニエリアそのものも、頭骨要素を含む部分骨格があったりはしたのだが)。

 サトラーやフラースの発見を耳にしたフンボルト大学博物館館長のブランカは、極めて大規模なテンダグル遠征を企画した。植民地での大発見を期待する世論の追い風に乗って資金調達は無事成功し(資金繰りのために委員会を新設する気の入れようだった)、ヤネンシュ率いる調査隊は一路アフリカを目指したのであった。

 

 調査隊は早速地元民を170人あまり雇い、テンダグルの丘の周囲を覆う藪を切り開くところから調査が始まった。当初は丘の周りに露出していた骨を頼りに掘ったが、やがては丘の斜面を丸ごと切り崩していくこととなった。作業員の数はどんどん増え、さらに作業員の家族もテンダグルで生活するようになったことで、最終的に人口900人以上の発掘村がテンダグルにできあがったのである。発掘された化石も4日かけて100km以上離れたリンディ港へ(人力で)運び、そこから小さな帆船で沿岸航路船に積み(港が浅すぎて大型船は入港できなかったのだ)、そしてダルエスサラームでヨーロッパ行きの汽船に積み替えるほかなかった。
 ブランカの集めた資金は壮絶な勢いでなくなっていったが、4シーズンでのべ22万5000人を投入した空前の発掘の成果もまた凄まじいものだった。100体近い関節した骨格や数百個の単離した化石がフンボルト大学へやってきたのである。
 フンボルト大の調査は規模もさることながらその方法も特筆すべきものだった。19世紀後半から行われていたこととはいえ、現地の労働者を総動員してジャケットを用いた化石の梱包やマッピングを徹底したのである。現地の資材を駆使して発掘した結果(ジャケットの作成に現地のよく粘る赤土を用いた)、テンダグルの丘が3つの「恐竜層」と交互に重なる浅海層(それぞれがテンダグル層の部層となった)からなっていることが明らかになったのだった。うっそうとした丘となっているその場所は、ジュラ紀中期~末には干潟とラグーンが広がる、陸と海がせめぎ合う場所だったのである。


 フンボルト大学による調査は1913年に終了し、そしてヤネンシュはそれから50年近くに渡ってテンダグル土産と向き合うことになった。フンボルト大学博物館の収蔵庫はカタコンベのような有様になったのだが、それでも地道に記載に取り組み続けるほかはなかったのである。
 調査が終わってしばらくした1920年、ヤネンシュはテンダグル産の中型「コエルロサウルス類」MB R 4960(命名した当時の標本番号は露骨にフィールドでの整理番号めいたものだった)をエラフロサウルス・バンベルギElaphrosaurus bambergi――バンベルグ(発掘のスポンサーのひとり)の軽い足のトカゲ――と命名した。テンダグルの丘から2.5kmほど離れたサイト(テンダグル層のうち上部キンメリッジアンの中部恐竜部層に相当する。他にギラファティタンやディクラエオサウルス(ハンセマニの方)、ヤネンシア、トルニエリアが産出した)にてばらけた状態で発見されたそれは、頭骨こそひとかけらも産出しなかったものの椎骨の大半やほぼ完全な腰帯、後肢を保存していたのである(後にヤネンシュは同じサイトから産出した肩帯と部分的な前肢を本種のものとして報告した。これは今日でもホロタイプと同一個体と考えられており、最初期のバージョンのマウントから組み込まれている)。腰帯はやけに浅く(後に判明したことだが当然胸郭も浅かった)、非常に長い首と長い後肢をもった、オルニトミムスの胴を無理やり引き延ばしたような奇怪な姿であった。
 1920年代当時コエルロサウルス類が高次のゴミ箱分類群と化していたことを抜きにしても、エラフロサウルスの分類は厄介な案件だった。そんな中にあって、ヤネンシュは本種がオルニトミムス科と類似した特徴を示す一方で、プロコンプソグナトゥスのようなより原始的な「コエルロサウルス類」とも似ていることを指摘し、エラフロサウルスが「コエルロサウルス類」の既知のいかなる科にも属さないことを指摘したのである(ヤネンシュはオルニトミムス科的な特徴は収斂によるものと考えていた。これらの見立ては結局正しかったのである)。
 これに対しより尖った意見を述べたのがノプシャであった。ノプシャはヤネンシュも指摘していたオルニトミムス類的な特徴をより強調し、エラフロサウルスをオルニトミムス科に入れたのである。エラフロサウルスの分類はオルニトミムス科とコエルルス科(上述の通りヤネンシュはコエルロサウルス類の科不明と考えていたわけだが)で揺れたが、1970年代以降ラッセルやガルトンはノプシャの意見を強力に後押しするようになった(ついでにモリソン層産の標本をいくつかエラフロサウルス属とみなした)。すでにヤネンシュやノプシャの用いた「コエルロサウルス類」は変質して久しかったが、それでもエラフロサウルスはコエルロサウルス類とみなされるようになっていたのである。

 閑話休題、エラフロサウルスのホロタイプのマウント(実物)は1929年に完成したが、以来90年間で少なくとも2回アーティファクトの頭骨が交換されている。最初に完成したバージョンではやや丸みを帯びた謎の頭部(古竜脚類めいてさえいる)が据えられていたが、いつしか(1980年代後半?)ヴェロキラプトルのホロタイプそのまんま(変形まで再現している)のアーティファクトに交換された。2006年の展示リニューアルの際にマウントは解体され、頭部もろとも主要なアーティファクト(下腕を含む――後述)が新型に置き換えられたが、この新型の頭骨は割と初代と似た何とも言えない代物であった。最初のバージョンとヴェロキラプトルもどきの復元頭骨では実物の歯化石が埋め込まれていたが、これはヤネンシュがエラフロサウルスのものとみなした単離した歯化石群であるようだ。


 エラフロサウルスが最古のオルニトミムス科とみなされるようになりつつあった中で、これに異を唱えたのがポールであった。ポールは(断片しかないものの)エラフロサウルスの前肢が当時マウントされていたもの(下腕にはヤネンシュによってエラフロサウルスとみなされた上部恐竜部層(チトニアン)産の標本が組み込まれていた)よりもずっと短く小さな手をもっていたことを見抜き、また第Ⅲ中足骨――基盤的なオルニトミモサウルス類であっても「はさみつぶされかけ」ている――が極端に太くなっていることを指摘した。ポールは改めて(ヤネンシュが指摘したように)エラフロサウルスがオルニトミモサウルス類としては原始的過ぎることを指摘し、そして(頭骨がないことを嘆きながらもちゃっかりディロフォサウルスめいた小さなクレストを破線で描きつつ)これをコエロフィシス類の生き残りとみなしたのである。


 系統解析ではなくポールの直感頼みではあったが、エラフロサウルスをコエロフィシス上科に置く意見は割としっかりした支持を受けた(オルニトミムス科説も長生きしたが)。もっとも、そういう時のための系統解析でもあるわけで、2009年以降エラフロサウルスは(コエロフィシス上科が夜逃げした後の)ケラトサウリアに置かれるようになったのである。
 2009年に記載・命名されたリムサウルス(ややエラフロサウルスより古い)は手の骨格云々で注目されたが、結局のところその頭骨や系統的位置づけの方が重要であった。極端に軽量化された頭骨には(成体では)歯がなく、腹部からは小さな胃石が大量に発見された――オルニトミモサウルス類に先駆けて植物食に適応していた可能性が高かったのである。そして系統解析の結果、リムサウルスはエラフロサウルスもろともケラトサウリアの基盤的な位置に置かれた。リムサウルスはエラフロサウルスと(そしてコエロフィシス類とも――結局ポールの直感はバカにできない)多数の特徴を共有しており、いくつかの解析結果では姉妹群ともされた。
 そんなこんなで満を持して2016年に出版された再記載(前述のマウント解体の隙に記載作業を行っていた)では、やはりエラフロサウルスはリムサウルスと近縁とされた。エラフロサウルスはCCG 20011――チュアンドンゴコエルルスChuandongocoelurusのパラタイプだった標本――と姉妹群となり、そしてエラフロサウルス―CCG 20011クレードはリムサウルスと姉妹群になった。このクレードはノアサウルス科の二大系統のうちのひとつ――エラフロサウルス亜科となったのである。


 テンダグルからフンボルト大学の調査隊が去ったのち、帝政ドイツのWWⅠ敗戦によって一帯はイギリスの植民地となった。1924年にカトラー率いる大英自然史博物館の調査隊がテンダグルを訪れ様々な恐竜の追加標本を採集したが、そこにエラフロサウルスはなく、そしてマラリアが調査隊を襲った。1925年にカトラーは――大英自然史博物館における北米産恐竜コレクションを築いた男はそこで死に、1929年には調査隊も撤収したのである。
 以来テンダグルでの大規模調査は行われず、かくしてエラフロサウルスは今日も首なしのままである。とはいえ、成体がリムサウルスによく似た歯のない小さな頭(仮に残っていてもささやかなものだろう。ヤネンシュが旧バージョンのマウントに練り込んだ歯化石は、今日エラフロサウルスのものとは考えられていない)だったのもほぼ確実である。
 ラッセルやガルトンらによって北米産エラフロサウルス属として記載されたいくつかの標本は、結局のところ(ケラトサウリアに属するのは確実なようだが)エラフロサウルス属ではないらしい。アベリサウルス類さえ含まれている可能性もあるようだ。また、他にエラフロサウルス属として記載・命名されたアフリカ産の種も疑問名になったりと散々な結果となった(ニジェールの中部~上部ジュラ系から産出した“エラフロサウルス”・ゴーティエリE. gautieriは新属スピノストロフェウスとなっているが、これはエラフロサウルスと近縁とされている)。とはいえ、少なくとも北アフリカから東アジアの内陸部までエラフロサウルス類が広がっていたのは確かである。
 かなり完全な骨格が発見されながら長らく謎の存在だったエラフロサウルスは、結局のところヤネンシュが漠然とイメージしていた通りの動物だったらしい。フンボルト大学のものではなくなってしまった博物館で、妙に強そうなアーティファクトを頭に据え、今日もエラフロサウルスは走り続けている。