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恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

ラエラプス、メガロサウルス、ドリプトサウルス

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↑Skeletal reconstruction of Dryptosaurus aquilunguis.
Based on ANSP 9995 and AMNH 2438.
Scale bar is 1m.

 色々あって気の休まらない今日この頃で、エウへロプスの骨格図は仕込みだけしてほったらかしていたりする筆者である。さすがに丸1週間更新なしというのもアレなので、先日描き直したドリプトサウルスの骨格図でもネタに一発書きたい。

 アメリカにおける恐竜発掘の歴史は19世紀半ばにさかのぼることができる。もっとも、初期の発見はほとんどが単離した歯の化石に限られ、まともな骨格―――ヨーロッパに比肩するレベルの―――は、1858年のハドロサウルスの発見が初めてであった。
 さて、コープはハドロサウルスの発見以降、ニュージャージーの上部白亜系(いずれも海成層である)に興味を抱いた。ニュージャージーの上部白亜系は石灰質に富んだ泥岩(いわゆる泥灰岩)からなっており、石灰肥料の原料とすべく多数の採掘場が稼働していたのである。コープはまめに採掘場へ足を運び、作業員に何か化石を見つけたら知らせるように言って回ったのだった。

 1866年、アメリカはニュージャージー州のあちこちでいつものように泥灰岩の採掘がおこなわれていた。その日、バーンズボロにあったウエスト・ジャージー泥灰岩(社)の採掘孔からいくつかの巨大な骨が見つかり、コープの元へ発見を知らせる手紙が届いた。早速コープは現場へ向かい、「メガロサウルスらしき恐竜の骨」に驚嘆したのだった。
 この発見に気をよくしたコープは、8月15日に父親あてに発見を知らせる手紙を書き、そして21日のフィラデルフィア科学アカデミーの定例の集会(毎週おこなわれていた)にて、この発見について発表した。その年のうちに発表は出版物としてまとめられ、ラエラプス・アクイルングイスLaelaps aquilunguis(鷲の爪をもつラエラプス(ギリシャ神話の猟犬))が世に生まれ出たのであった。

 ラエラプスの化石には頭骨の断片や部分的な四肢(後肢はかなり完全)、尾椎が含まれており、ハドロサウルスと並んで恐竜の2足歩行説の重要な証拠となった。ホーキンスとオーウェンによるクマとワニのキメラのような水晶宮のメガロサウルスのイメージで知られていた肉食恐竜は、この時から2足歩行のカンガルーめいた化け物へと姿を変えたのである。1868年にはラエラプスの復元骨格の製作も試みられ、ANSP 9995の複数のキャストが製作された。

(ホーキンスはニューヨークのセントラルパークに建設予定だった古生物博物館のためにハドロサウルスやラエラプスの復元骨格を制作していたのだが、すったもんだの末にラエラプスの復元骨格(写真が残っている)は失われてしまった。これとは別にスミソニアンにラエラプスのウォールマウントを展示する計画もあったのだが、こちらも頓挫している。復元骨格の制作のついでに量産されたANSP 9995のレプリカのうち一組はロンドンの自然史博物館に渡り、最近おこなわれた再記載で重要な役割を果たした。ドリプトサウルスの模式標本のうち第Ⅳ中足骨だけはANSPへ入らずコープの元に留まり、彼の死後AMNHの所蔵となってAMNH 2438となった。)

 コープの記載といえば、図なしの予察的な記載の悪名が高いのだが、ラエラプスの場合は違った。原記載の後も断続的に記載を発表し続け、結果、今日まで続く獣脚類の復元の基本形ができあがったのである(もっとも、1869年に描かれたラエラプスとエラスモサウルスの復元画を見ればわかる通り、コープは「鷲の爪のような」大きな末節骨が足に属すると考えていた)。この過程でコープはラエラプス属の新種L.マクロプス命名し、獣脚類と鳥類の近縁性について指摘している。
 ところで、1868年にとあるコープの客がラエラプスの発掘現場を見学していた。彼はラエラプスに大きな興味を示し、作業員たちに対し化石発掘の一報はコープではなく自分に(こっそり)知らせるように頼んだ。この客こそマーシュであり、この一件は同時期に起きたエラスモサウルス事件(いわずもがな)と相まって、ボーンウォーズの狼煙となったのである。

 採集されたばかりのオルニトタルススを巡ってコープに敗れたマーシュだった(よりによってイェール大のコレクションをコープに命名されてしまった)のだが、ある時彼(ないし彼の部下)はラエラプスの属名がすでにトゲダニに先取されていることに気が付いた。かくしてマーシュは1877年の論文の脚注にて、さりげなく(しかし明らかに嬉々として)ラエラプスの属名をドリプトサウルスDryptosaurus(引き裂くトカゲ)へと変更したのである。
 一方、コープはこれを無視してその後もラエラプスの属名を使い続けた(有名な「戦うラエラプス」の復元画がコープ監修のもとチャールズ・ナイトによって描かれたのは1896年のことである)。ニュージャージーから遥か彼方のジュディス・リバーで発見された歯をラエラプス属の複数の新種として報告し、後にアルバートサウルス・サルコファグスの模式標本となる頭骨までラエラプス属としたのだった。

(筆者は不幸にしてダニの仲間について大した知識を持ち合わせてはいないのだが、どうもトゲダニLaelaps属は程々にメジャーであるらしい(トゲダニ科Laelapidaeが存在する)。コープにダニ分類に関する知識が皆無だったとも考えにくく、要するに自分の発見に舞い上がっていたということなのかもしれない。)

 さて、ラエラプス改めてドリプトサウルスが発見された当時、比較可能な程度に骨格の揃っていた獣脚類はメガロサウルスとその眷属に限られていた。従って、ドリプトサウルスがメガロサウルスと同じ科に含まれるのはある種当然であった。一方でマーシュは1890年にドリプトサウルス科を設立し、他の獣脚類のグループとは明確に区別したのだった。(一方、コープの教え子であったオズボーンは、1898年になぜかドリプトサウルス属をメガロサウルス属のシノニムとした。これがマーシュへのささやかな反抗だったのかはわからないが、1905年のティラノサウルスの記載の際にはドリプトサウルス属を普通に用いている。)

 その後のティラノサウルス類の発見でドリプトサウルスの影は薄くなり、アメリカ東部のよくわからない恐竜の代表の座に収まった。ヒューネによってやはりメガロサウルス科とされたり、馬鹿でかいコエルルス科(もっとも、当時のコエルルス科にはエラフロサウルスも含まれていたようだ)とされたり、散々な状況であった。
 その後ギルモアが1946年(死後)にドリプトサウルスとティラノサウルス科との類似について指摘し、1970年代になると同様の意見が相次いだ。ベアドと(きれいな)ホーナーは正式にドリプトサウルスをティラノサウルス科に含めたのである。
 一方で、やはりドリプトサウルスとティラノサウルス科との間には形態的な隔たりがいくつもみられ、ドリプトサウルスをティラノサウルス科から外す意見も根強かった。ドリプトサウルスとティラノサウルス科の間に共通する特徴が少なからず存在することは誰もが認めるところではあったのだが、それ以上踏み込んだ考察は難しかったのである。

(ところで、ベアドとホーナーの説の根拠となっていたのはノースカロライナ産の大腿骨であった。これはアルバートサウルスのものと酷似していたのだが、ドリプトサウルスのものかどうかは極めて怪しい。モルナーはLACM 23845(のちのディノティラヌス)の記載の際に、ベアドとホーナーの説に影響されてLACM 23845がドリプトサウルス属の標本である可能性を真剣に検討している。90年代にはドリプトサウルスをマニラプトル類とみなす意見さえあり、もはや訳が分からない。)

 結局、ドリプトサウルスのはっきりした系統関係は21世紀になるまで不明のままだった。アジアやヨーロッパから(比較的状態のよい)基盤的なティラノサウルス上科の化石が発見されるに至り、ようやくドリプトサウルスの系統関係について(大ざっぱな)コンセンサスが得られるようになったのである。
 今日、ドリプトサウルスは基盤的なティラノサウルス上科のグループとティラノサウルスの「中間」に位置付けられている。ドリプトサウルスと断定できる標本は依然として模式標本に限られておりしっかりした復元は難しいのだが、系統解析の結果などに従うと、肉付けしてしまえばティラノサウルス科の基盤的なものとそう差はないようだ。比較的細身であるらしい頭部と、短めの腕に大きな手の組み合わせはナノティラヌスとも一見似ているように思える。

 ドリプトサウルスの生息していた時期は、驚くべきことにマーストリヒチアンの後期―――恐竜時代のクライマックスである。当時すでにアパラチアとララミディアの間にあった西部内陸海路(WIS)は消滅していたのだが、旧アパラチア側では未だにかなり原始的なティラノサウルスの仲間がのさばっていたということらしい。
 ドリプトサウルスの発見から来年で150年になろうとしているが、未だにドリプトサウルスとそれを取り巻く恐竜たちの姿は見えてこない。しかし、白亜紀最末期のニュージャージーに広がっていた暖かい海のそばで、ドリプトサウルスがハドロサウルス類を追いかけ回していたのは多分確かだろう。