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恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

ランベの竜たち

イメージ 1
↑Skeletal reconstruction of albertosaurine tyrannosaurids.
Top, Albertosaurus sarcophagus based on TMP 81.10.1 and ROM 807.
Bottom, Gorgosaurus libratus largely based on CMN 2120.
Scale bar is 1m.

 アルバートサウルスとゴルゴサウルスといえばティラノサウルスに次ぐティラノサウルス類の花形であり、子供向けの図鑑でも古参のメンバーであった。つまるところこれは発見・命名の古さによるところが大きく、最近に至るまで「数少ない」ティラノサウルス科の屋台骨を支えていたわけである。

 ご存じの通りアルバートサウルスとゴルゴサウルスとではアルバートサウルスの方が発見・命名ともに古い。アルバートサウルスの模式標本CMN 5600が発見されたのは1884年のことであった。
 1884年、カナダ地質調査所2年目の新人である26歳のジョセフ・バー・ティレル(ロイヤル・ティレル博物館の名が彼にちなんでいるのは言うまでもない)は、勤め始めてから初めての調査をアルバータ州南部で行うことになった。7月9日、かのレッドディア―川の支流沿いのキャンプのそばの丘を登っていたティレルは、そこで多数の恐竜の骨に出くわした。
 恐竜の骨は素晴らしい保存状態であったがひどく脆く、そして重かった。なんとかこれらを採集しようとしたティレル一行はどうにか頭骨(下顎と関節したままだったがぺしゃんこになっていた)を掘り出し、そしてオタワへ馬車で送った。

 いかんせんティレルは若かった。適当な発掘そして輸送手段をもっていなかったこともあり、頭骨は発掘そしてオタワへの長旅で木端微塵になり、最終的に頭蓋天井はごっそり失われてしまった。1888年になり、今度は同じくカナダ地質調査所所属のベテランであるT.C.ウェストンが地元民の協力を得てボートでレッドディア―川へ挑んだ・・・のだが、ボートのつくりがよくなかった。ボートはあっさり転覆し、ウェストンらはほうほうのていで逃げ帰ったのである。
 翌1889年、地域の名士の協力を得たウェストンらは再びボート調査へ挑んだ。今度は無事に成功し、ティレルが見つけたものと同じ種らしい頭骨(相変わらず下顎と関節したままぺしゃんこになっていた)と骨格の一部を持ち帰ったのだった。

 さて、ティレルが採集した頭骨(のちのCMN 5600)とウェストンが採集した頭骨(のちのCMN 5601)はコープによって記載されることになった。1892年、コープはこれらをラエラプス・インクラッサトゥスLaelaps incrassatus(模式標本は歯のみ)の新標本として記載した・・・のだが、例によって図示は行わなかった(うえに前眼窩窓を眼窩と間違えた。さらに言うと1892年にはすでにラエラプスはドリプトサウルスに置き換わっている)。
 コープ自身はこれらの「ラエラプスの頭骨」をそのうち詳しく再記載のついでに図示する気でいたのだが、とうとう再記載を行わないまま1897年に死んだ。残された2つの頭骨に挑んだのが、カナダ軍上がりの化石画家、ローレンス・モリス・ランベその人であった。

 ランベはカナダ軍をチフスで退役した後、論文用の化石図版を描く画家(そういう職業が成り立っていた時代である)としてカナダ地質調査所へ入所していた。化石の図版をせっせと描きつつ(筆者の本業の論文にもランベの描いた図版があったりする)、オズボーンを師と仰ぎながら実戦/実践を通して古生物学を学んでいたのである。
 1903年から1904年にかけてランベはコープの遺した2つの「ドリプトサウルスの頭骨」に取り組み、注意深く記載・図示を行った。1904年には「ドリプトサウルス・インクラッサトゥスの頭骨復元図」―――初めて妥当な程度に正確に示されたティラノサウルス科の頭骨復元図―――も発表している
 
 「ドリプトサウルス・インクラッサトゥスの頭骨」の産出したエドモントン層下部(現ホースシュー・キャニオンHorseshoe Canyon層)はドリプトサウルス・インクラッサトゥスの模式標本の産出したフォート・ユニオン層より新しい時代のものであったし、しかもドリプトサウルス属の模式種D.アクイルングイスの産地ははるか彼方のニュージャージーである。そういうわけでオズボーンは、前年にランベが再記載した2つの頭骨をタイプシリーズ(ホロタイプがティレルのCMN 5600、パラタイプがウェストンのCMN 5601)として新属新種を設立したのだった。

 さて、モンタナのヘル・クリーク層でひと稼ぎしたバーナム・ブラウンが次に目を付けたのがカナダ地質調査所の縄張り(というほどでもなかったようだが)のレッドディア―川流域であった。派手好きで有名だった(フィールドでさえ白いシャツにネクタイだったという)ブラウンは、レッドディアー川の調査専用の平底船を建造したのである。手始めに1909年~1910年にかけてホースシュー・キャニオン層でハドロサウルス類やら角竜やら鎧竜やらを大量に発見し、ついでにアルバートサウルスのボーンベッド(のちにカリーらによって再発見される)を発見した。さらに1912年から1915年にかけてベリー・リバー層(現ダイナソー・パーク層/オールドマン層)でも調査を行い、ここでもっと多くの良質な化石―――AMNHや売却先のYPM・USNMの恐竜ホールを飾っている数々の骨格―――を採集した。
 ブラウンが相変わらず絶好調だったため、カナダ地質調査所は色々と批判にさらされることになってしまった。が、カナダ地質調査所はブラウンらAMNHの遠征隊の調査を禁止することはせず(英断だったといえよう)、かわりに最強の刺客を送り込むことにした。コープの死後フリーとなっていた伝説の一族―――スターンバーグ一家である。

 1912年に調査を開始したスターンバーグ一家は、翌1913年にはブラウン隊のものを上回る規模の平底船(モーターボートや手漕ぎ船まで搭載していた)を建造し、真っ向勝負を挑んだ。かくして1913年夏、ダイナソー・パーク層で見事なティラノサウルス類の化石が見つかったのである。
 この骨格CMN 2120は胸から尾の後半まで美しく関節しており、ひどく潰れているとはいえ頭骨もそろっていた。そして指先まで関節した前肢には、指が2本しかなかった。
 この特徴に肝を抜かしたランベは、真っ先に前肢のクリーニングを済ませて1914年1月に記載・図示した。この「デイノドン属」は初めて確認された2本指の前肢をもつ恐竜であり、デイノドン類すなわちティラノサウルス類の前肢の特徴を明らかにするものであった。さらに4月にはこの骨格にゴルゴサウルス・リブラトゥスGorgosaurus libratusの名を与えたのである(この時ランベはゴルゴサウルスの命名と共に「ステファノサウルス・マルギナトゥスStephanosaurus marginatusのほぼ完全な頭骨」を記載・図示している。これこそ後のランベオサウルス・ランベイであった)。

 1917年になり、クリーニングの終了したゴルゴサウルスの模式標本(といくつか採集された新標本)についてランベはモノグラフを出版した。これは最近になるまでティラノサウルス類について記載した最も詳しい論文であり続けたほどの代物で、「半ゴジラ立ち」の骨格図まで添えられていた。ランベはゴルゴサウルスの歯に摩耗の跡がみられないことに気づき、柔らかい腐肉を食べていたと考えた。ここに、恐竜ルネサンスまで続く怠惰な獣脚類のイメージが生まれたのである。

 ブラウン率いるAMNHの遠征隊とスターンバーグ一家のわりあい友好的(だったらしい)な競争関係は、ブラウンらが1915年にレッドディア川から引き上げるまで続いた。フリーの化石ハンターに戻りたくて仕方なかったスターンバーグ一家の父チャールズ・ヘイゼリアスは1916年にカナダ地質調査所を退職し、息子のレヴィと共にレッドディア川流域で調査を続けた(一方でチャールズ・モートラムとジョージはそのままカナダ地質調査所の元でやはりレッドディア川流域の調査を続けた)。
 チャールズ・ヘイゼリアスは1917年にゴルゴサウルスのほぼ完全な亜成体/大型幼体を発見したが、これを買い取ったのはよりによってAMNHであった。この骨格(AMNH 5664)は、ブラウン隊の発見した成体の骨格AMNH 5458と向かい合うようにしてウォールマウントされ、1923年にマシューとブラウンによってゴルゴサウルス・スターンバーギG. sternbergiと命名された。かつてのライバル(にして当時AMNHの重要な取引相手となっていた)であるチャールズ・ヘイゼリアスに敬意を表していることは言うまでもない。

 1918年、ブラウン隊とスターンバーグ一家に続けと言わんばかりにパークス率いるロイヤル・オンタリオ博物館の調査隊がレッドディアー川流域の調査を開始した・・・のだが、不幸にして下流域は現在に至るまで最強クラスの化石ハンターであるブラウンとスターンバーグ一家によってほじくり返された後だった。やむなくパークス隊は上流へ向かい、幸いそこでかなりの成果を得た。1923年にホースシュー・キャニオン層で発見された首なしの大きな骨格ROM 807は、1928年になってパークスによりアルバートサウルス・アルクトゥングイスA. arctunguis命名された。

 それからしばらくして恐竜研究の「暗黒時代」へ突入したこともあり、その後長い間アルバートサウルスやゴルゴサウルスの音沙汰はなかった。
 1970年になり、ラッセルがダスプレトサウルス・トロススを命名する際(恐ろしいことに模式標本は1921年の発見当初から新種の可能性が指摘されていたにも関わらず、この時期まで放置されていた)、ようやくアルバートサウルスとゴルゴサウルスに再び光が当たったのである。
 さて、ラッセルはダスプレトサウルスの記載にあたって北米産のティラノサウルス類について分類の整理を行っている。この時ラッセルはA.サルコファグスの(状態の良くない)頭骨とG.リブラトゥスの頭骨がよく似ていることに注目し、容赦なくG.リブラトゥスをアルバートサウルス属にしてしまった。また、ロジェストヴェンスキーによるタルボサウルスの研究(成長過程で後肢のプロポーションが著しく変化することが示されていた)にも注目し、G.スターンバーギ(未成熟であることはすでにマシューとブラウンが指摘していた)をG.リブラトゥスのシノニムとした。さらに、A.アルクトゥングイスを定義づけていた特徴が「使えない」ことも指摘し、A.アルクトゥングイスをA.サルコファグスのシノニムとした。一方でラッセルは、A.サルコファグスと、A.リブラトゥスの肩帯~前肢のプロポーションが大きく異なっていることも指摘している。

 かくしてそこらじゅうに「アルバートサウルス」として元ゴルゴサウルスが溢れかえることになった(この問題はいまだに尾を引いていて、適当にアルバートサウルスをググってもゴルゴサウルスしか引っかからない始末である)。一方で、1970年代から90年代にかけてダイナソー・パーク層やホースシュー・キャニオン層で続々とティラノサウルス類の骨格が発見されるようになった。
 これらの化石の中にはティレルの発見以来はじめての「A.サルコファグスのまともな頭骨」なども含まれており、結局A.サルコファグスとA.リブラトゥスの頭骨にはラッセルが考えていた以上に大きな違いがあることが確認された。かくしてゴルゴサウルスは復活を遂げたのである(もっとも、割とこの辺恣意的と言えばその通りである。カーなどは今でもA.リブラトゥスという学名を使っている)。

 アルバートサウルスとゴルゴサウルスは紆余曲折を経て、現在でも図鑑のページを飾っている。なんだかんだでアルバートサウルスの骨格もまともなものが複数得られているし、カリーらロイヤル・ティレル博物館の調査隊によって再発見されたボーンベッドは様々な情報を提供している。ゴルゴサウルスは今日もっともよく(さまざまな成長段階の)骨格の知られたティラノサウルス類となっていることは言うまでもない。
 ゴルゴサウルスと大ざっぱに言って入れ替わり(それなりに空白はあるが、もろもろの理由で多分無視できる)でアルバートサウルスが出現していること、両者が(頭骨のいくらかの違いと肩帯~前肢のプロポーションを除けば)よく似ていることは、アルバートサウルスがゴルゴサウルスの直系の子孫である可能性を示唆している。系統解析でも両者は姉妹群をなす(アルバートサウルス亜科)のが常であり、一応別属とみなすのが一般的とはいえ、きわめて密接な関係にあったことは間違いない。
 ゴルゴサウルスは「ダスプレトサウルスっぽいなにか」と共存していたらしいのだが、結局「ダスプレトサウルスっぽいなにか」はカナダではカンパニアンの後期には途絶えてしまったようである。マーストリヒチアンに入り300万年ほど繁栄を謳歌したアルバートサウルスは、きっと南からやってくるティラノサウルスを見たに違いない。