GET AWAY TRIKE !

恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

*いしのなかにいる*【ドリプトサウルス原記載150周年記念記事】

イメージ 1
↑Skeletal reconstruction of Dryptosaurus aquilunguis
(top, ca.1896; bottom, after Brusatte et al., 2011).
Based on holotype ANSP 9995
and AMNH 2438 (metatarsal IV; possible the same individual of the holotype).
Scale bar is 1m.

 「恐竜の研究」がまともに始まったのは、ヴィクトリア朝華やかりし19世紀前半のイギリスだった。彫刻家にして稀代のプレパレーター(今なお世界最高クラスの腕の持ち主だったといってもよいだろう)だったベンジャミン・ウォーターハウス・ホーキンズによって制作されたメガロサウルス、イグアノドンそしてヒラエオサウルスの復元―――当時知られていた情報から考えれば驚くほど先駆的な代物だった―――は、当時の人々の心を捉えるに十分であった。「恐竜の研究」が始まって30年余りで、恐竜は市民権を得たのである。
 かくしてワニと熊とトカゲのキメラのごとき恐竜の一般イメージが形成されたが、しかしそれは長くは続かなかった。マンテルやオーウェンそしてホーキンズの復元は先駆的ではあったが、いかんせんベースになる化石が貧弱すぎたのである。新たな恐竜のイメージ―――今日まで続くそのイメージを作り出すことになった化石が発見されたのは新大陸、アメリ東海岸だった。1858年にニュージャージーで発見されたそれは、幾度かの疑問名送りを乗り越えて、今日でもハドロサウルス・フォーキイHadrosaurus foulkiiとして知られている

 それから数年後、南北戦争が終わる頃に二人の若き古生物学者がヨーロッパからアメリカに帰ってきた。コープとマーシュである。ベルリンで出会って意気投合した二人は、帰国してすぐにそれぞれの道を歩き出すこととなった。コープはハバフォード大学で教鞭をとり、マーシュはイェール大学へ戻ってピーボディ博物館の立ち上げに取りかかったのである。
 さて、コープがハドロサウルス発見のニュースをそのまま聞き流すはずはなく、彼は帰国するなりニュージャージー州各地の緑色砂泥灰岩(海緑石を大量に含んだ泥灰岩―――石灰質に富んだ泥岩で、石灰肥料や浄水に使われていた)の鉱山を回って、作業員とのネットワークの構築にいそしんだ。ハドロサウルスの化石が発見されたのは泥灰岩の採掘抗だったから、恐竜をはじめとする脊椎動物の化石が同様の地層(白亜系緑色砂岩の名で知られていた)から産出するに違いないと踏んだのである。案の定、鉱山を渡り歩くうちにコープの手元にはみるみるカメやワニ、モササウルス類、そしてコープの手にする初めての恐竜の骨―――ハドロサウルス類の大腿骨が集まっていた。
 1866年、ニュージャージーのグロウチェスター郡はバーンズボロ近郊にあったウエストジャージー泥灰岩社の採掘抗で、ひとまとまりの恐竜の骨が見つかった。奇しくも、コープ初めての恐竜化石であったハドロサウルス類の大腿骨の見つかった場所と同層準(“チョコレート泥灰岩”の最上部)、ほんの数フィートわきからの発見だった。作業監督のボーアヒーズは(根回しの甲斐あって)コープに発見を知らせる手紙を書き、そして手紙を読んだ翌日に現地へ急行したコープは驚嘆した。上下の顎の断片、いくつかの分離した歯、多数の椎骨、「肩帯」、上腕骨、ほぼ完全な後肢、いくつかの「趾」骨―――そして巨大な末節骨。「ライディのハドロサウルスを食い殺していた」「バックランドのメガロサウルスと思しき恐竜」の、かなりの部位が発見されたのである。また、この骨格の周囲からは先述のハドロサウルス類のほか、ヌノメアカガイやバキュリテス(多分ユーバキュリテス属だろう)、モササウルス類やヒポサウルスHyposaurus(ディロサウルス科の海生ワニ)、トラコサウルスThoracosaurus(原始的なガビアル上科)、ボットサウルスBottosaurus(クロコダイル科)といった化石が共産したという。
 コープの喜びようは、現場を訪れた直後の8月15日に父親あてに発見について綴った手紙を送っているあたりから察することができる。勢いでコープは8月21日―――現物を見てから一週間も経っていない(!)―――に開かれたフィラデルフィア自然科学アカデミーの定例集会(毎週開催)で、この肉食恐竜をラエラプス・アクイルングイスLaelaps aquilunguisの名と共に報告―――コープにとって初めて恐竜を命名する機会でもあった―――した。発表の内容は「会議録」としてまとめられ、ここに北米で最初の「まとも」な獣脚類が命名・記載されたのである。
 原記載の中でコープはラエラプスの生態について考察を試みた。全長18フィート(≒5.5m)で膝を常に曲げて二本脚で立ち、短い前肢よりも、長い後肢の巨大な爪―――「タカとライオンの爪の中間的形態」―――を武器としてハドロサウルスを餌食にするラエラプスは、「地球上の最もすさまじい生態系のひとつ」の一員であったとコープは考えたのである。ラエラプスの化石は、(始祖鳥はさておき)実のところプロポーションを妥当な程度に正確に復元することのできる―――四肢の揃った―――初めての獣脚類の化石であった。二足歩行する巨大な鳥に似た肉食・植物食の爬虫類が取っ組み合う、「地球上のもっともすさまじい生態系のひとつ」の今日よく知られたイメージが確立された瞬間だった。

 “ラエラプスLaelaps”という属名は、そのままギリシャ神話の猟犬にちなんでいる。いかなる獲物をも逃さない運命にあったラエラプスはあるときテウメソスの狐を退治することになったが、テウメソスの狐は何者にも捕らえられない運命にあった。この永遠の追いかけあいを見かねたゼウスは両者を石に変えてしまったという(そしてラエラプスは空に上げられおおいぬ座となった、とする話もあるらしい)。つまり、この神話の猟犬の名は「石になった」化石肉食動物の学名にうってつけであった。種小名の“アクイルングイスaquilunguis”はアクイラすなわちワシの爪を意味し、コープの目を引いた巨大な末節骨を表している。

 教職がウマに合わなかったコープはハバフォード大学での職を辞し、1868年になって泥灰岩鉱山にほど近いハッドンフィールド(ハドロサウルスの発見された場所でもある)へ豪華な邸宅を建てて転居した。もちろんこれは、泥灰岩鉱山から産出する化石が目当てでもある。これを聞いたマーシュはコープと連絡を取り、これらのサイトを案内してもらうことにした。この申し出を喜んで受けたコープはマーシュを盛大にもてなし、馬車で一緒に泥灰岩鉱山を回った。―――コープは気が付かなかったが、この時マーシュの頭の中はニュージャージーの化石でいっぱいになっていた。コープとの友情はもはや微塵も残ってはおらず、ただラエラプスの影が頭の中にちらつくばかりだったのである。
 これ以降、こうした泥灰岩鉱山で見つかった化石はコープの待つフィラデルフィア科学アカデミーではなく、マーシュの待つピーボディ博物館へと送られるようになった。これらの手引きをしたのは、かつてコープのネットワーク下にあった人々―――ラエラプスをコープと引き合わせたボーアヒーズその人であった。
 このマーシュの「背信」が明らかになるにつれて、コープがマーシュに抱いていた感情―――友情そして尊敬の念は敵意へと変わっていった。ここにボーンウォーズの狼煙が上がり、1870年の「エラスモサウルス事件」で全米が炎に包まれることとなる。

 こうしてマーシュとの仲を失っただけでなく、ニュージャージー産の化石に手を出しにくい状況に陥れられたコープではあったが、それでも1868年には別の泥灰岩鉱山で見つかった後肢の断片をラエラプス・マクロプスL. macropus命名し、1869年の論文でラエラプス・アクイルングイスを詳しく再記載・図示するなど、精力的に研究を行った。
 こうした中、コープは1867年に出版したニュージャージー白亜紀爬虫類化石の概説において、ラエラプスの生態について原記載よりも突っ込んだ考察を行い、「直線距離にして18フィート(≒5.5m)以上、軌跡にして30フィート(≒9.1m)以上を跳躍して後肢で獲物に致命傷を与え、ずっしりした身体で地面に押し倒した」と記した。この中でコープはラエラプス(ひいては恐竜全体)が「温血」であった可能性を強調し、また論文の後編(1869年)にラエラプスの最初の復元画を掲載している。

(“ラエラプス”・マクロプスは紆余曲折の末、新属テイヒヴェナトル・マクロプスTeihivenator macropusとなった。ドリプトサウルス・アクイルングイスよりも派生的なティラノサウロイドの可能性もあるようだ)

 これと前後する1868年、水晶宮の成功にならって「古生代博物館」をニューヨークのセントラルパークに建設する計画が立ち上がった。水晶宮にならい、アメリカ産絶滅古脊椎動物の実物大の生態復元模型や、復元骨格を展示するのである。この一大プロジェクトを一手に引き受けたのが、水晶宮を手掛けたホーキンズその人だった。
 さっそくホーキンズは展示に必要な情報そして標本のレプリカを入手すべく、フィラデルフィア科学アカデミーを訪れた。ここでハドロサウルスやラエラプスの化石を観察するのに加えてレプリカを制作し、そして「寄り道」をしてフィラデルフィア科学アカデミーの展示用にハドロサウルスの純骨を組み立てることになったのである。
 ハドロサウルスの復元骨格(純骨)はその年の秋には無事完成し、フィラデルフィア科学アカデミーに展示されることになった(来館者は例年3万人程度だったのだが、この年には6万6000人を数え、それ翌年からは10万人を超えるペースとなった。結果、膨れ上がった来場者数に合わせ、現在の位置にアカデミーは移転したという)。「寄り道」を終えたホーキンズはセントラルパーク内の工房に移り、ハドロサウルスやラエラプス、モササウルスなどの復元模型の制作および化石のレプリカ制作・組み立てに取りかかった。1869年の時点でハドロサウルスのレプリカは組みあがり、ラエラプスもひとまず発見部位のレプリカの組み付けは完了していた
 ―――が、ここでホーキンズとその工房を名実ともにニューヨーク市の首領として知られていた“ボス”・ツイードの「一味」が襲った。ツイードは当時から悪名高き政治家であり(市の公金を少なくとも2500万ドル、下手をすると2億ドル(現在の価値?)ほど横領していたことが知られている)、対立関係に陥ったセントラルパークの会計監査官のグリーン―――プロジェクトを提案した当人―――を解任した。後釜に据えられたスウィーニーは古生代博物館のプロジェクトがこれといって「一味」の懐を潤しそうにないと見て、プロジェクトを中止してしまったのだった。
 中止だけならまだよかったのだが、あろうことかツイードら(プロジェクトの中止にからむ動きについて、公の場でホーキンズに批判されたらしい)は、大きなハンマーを持った「ならずもの」たちにホーキンズの工房を襲撃させた(どこぞの世紀末である。ちなみに筆者はレイズナーの第二部が結構好き)。1871年5月3日、半ば完成していた復元模型や復元骨格はすべて破壊され、セントラルパークの南西の隅(!)に埋められてしまった。どうにかホーキンズはハドロサウルスのキャストの型を持ち出すことができたものの、他はすべて―――半ば完成していたラエラプスの復元骨格も失われてしまったのだった。スミソニアンにラエラプスのウォールマウントを展示するという計画もあったらしいのだが、これも頓挫してしまったのである。
 しかしこの時すでにラエラプスのレプリカはいくらか量産され、ツイードの手の届かない場所にあった。このうち1セット分が海を渡ってロンドンの自然史博物館に送られ、のちに重要な役割を果たすことになるのだが、ホーキンズには知る由もなかった。

 1877年になり、マーシュはコープにとって致命的なミスを発見・発表した。あろうことか、ラエラプスの名は1836年にすでにダニの仲間―――トゲダニの属名に用いられていたのである。あの手この手でラエラプスのステータスを守ろうとしていた(万一のことがあってもデイノドンとアウブリソドンがラエラプスのジュニアシノニムになるように分類学的整理を行っていた)コープであったが、一週間という歴史的なハイペースで命名したのが仇となった。
 マーシュはさりげなく(間違いなくほくそえみながら)これを指摘するとともに、ラエラプスに代わる新たな属名ドリプトサウルスDryptosaurus―――引き裂くトカゲ(巨大な末節骨にちなんでいることは言うまでもなく、マーシュもこの恐竜に相当入れ込んでいたらしいことを示している)―――を提唱した。激怒したコープは反論を試みたものの、シニアホモニムたるトゲダニの方に先取権があるのは明らかで、あっけなくラエラプスはドリプトサウルスとなった。もっとも、コープがこれを受け入れることはなく、死ぬまでラエラプスの名を使い続けたのだった。

 ところで、1870年代にはコープ率いる遠征隊(一角を担っていたのがスターンバーグ(父)だった)がモンタナで本格的なフィールド調査を行っていた。このとき採集されたのはほとんどが恐竜の歯で、フォート・ユニオンFort Union層で発見されたいくつかはコープによってアウブリソドンおよびラエラプスの新種として1876年にまとめて命名された。
 これらのうちラエラプス・インクラッサトゥスLaelaps incrassatusは、獣脚類の研究史でかなり重要な存在だった。翌1877年にコープはジュディス・リバーJudith River層で発見された大きな歯骨AMNH 3963L.インクラッサトゥスとみなして記載したのである。これは実のところ、初めて記載されたティラノサウルス科の歯以外の要素であった。
 さらに、1880年代になるとカナダから大型獣脚類の化石が見つかるようになった。コープはこれらの頭骨―――ひどく変形していたもののかなり完全な状態だった―――もL.インクラッサトゥスとして記載した(そして前眼窩窓を眼窩と間違えた)。ここにラエラプスもといドリプトサウルス属の頭骨が揃ったわけである。
 かくして1896年、気鋭の動物画家(当時22歳!)だったチャールズ・ナイトはAMNHの依頼によりドリプトサウルス―――コープは未だにラエラプスと呼び続けていた―――の復元画を描くことになった。これの学術的なサポートには当時すでにAMNHの古脊椎動物学部門の要職にあったオズボーンと、そしてオズボーンの師にして前年にコレクションの大半をAMNHに売却していたコープがあたることとなった。完成した「戦うラエラプス」にはコープ、オズボーンそしてナイト自身の活動的な恐竜のイメージが徹底的に盛り込まれ、コープが30年来脳裏に描き続けていた“ラエラプス”の姿が余すところなく描き出されている。また、今日では否定されたいくつかの要素(前眼窩窓を眼窩と誤認したことによって短くなった頭部、後肢に属するものとされた巨大な爪)も丁寧に描かれており、コープが非常に熱心に監修したらしいこともうかがえる。復元画の完成を見届けたコープは、翌年息を引き取った。

 その後続々と北米から中大型獣脚類の化石が発見されるにつれ、ドリプトサウルスの実態はどんどん海霧の中へと後退していった。ドリプトサウルス属と断言できるものはD.アクイルングイスのみとなり、“ラエラプス”・インクラッサトゥスは属不明のティラノサウルス科およびアルバートサウルス・サルコファグスに再編された。残されたD.アクイルングイスはニュージャージーの泥灰岩鉱山が続々と閉鎖された結果追加標本の産出も見込めない状況で、そして模式標本は(20世紀に入ってからの北米上部白亜系産の中大型恐竜化石としては)あまりに断片的すぎた。挙句に黄鉄鉱病が容赦なく標本を蝕み、研究の深刻な妨げとなりつつあった。
 こうした状況―――結局現在に至るまで変わってはいない―――ではドリプトサウルスの系統関係についてまともに論じるのは無茶であり、そういうわけでアパラチアの恐竜相の実態も謎のままだった。1940年代から1970年代にかけて、ドリプトサウルスがティラノサウルス科に属するという意見が複数出されたが、依然として謎はあまりに大きかったのである。
 かくして1997年になり、カーペンターらが1930年代に行われたヒューネの研究以来となる詳細な再記載を行った。コープによる骨の誤同定が正され、またいくつかの骨が初めて記載図示されたわけである。一方で、コープが図なしで記載した骨のうちいくつかが行方不明になっていることも確認された。
 カーペンターらはドリプトサウルスの再記載にあたって奇妙な特徴をいくつも見出し、結局その分類について、マーシュに立ち返り系統不明の獣脚類ドリプトサウルス科とした。ティラノサウルス科と共通する特徴も少なくなかった一方で、例えば歯や距骨の特徴はティラノサウルス科とはかなり異なっているように見えたのである。カーペンターらはさんざん悩み、ドリプトサウルスがカルノサウルス類なのかコエルロサウルス類なのかさえ決めかねたのであった。
 もっとも、共著者の一人であったデントンは(90年以来相変わらず)ドリプトサウルスを基盤的なコエルロサウルス類であると考えていた。1998年のホルツによる獣脚類の包括的な系統解析の結果も、ドリプトサウルスがコエルロサウルス類であることを示唆していた。

 結局のところ、1940年代から1970年代にかけてドリプトサウルスをティラノサウルス科とみなした研究者(例えばギルモアやモルナー)も、ティラノサウルス科との共通点を見出しつつ違いも見出したカーペンターらも、わりあい的確な観察眼をもっていた(もっとも、カーペンターらは上角骨を角骨に派手に誤同定したりもしたが)。2000年代に入ると続々と基盤的なティラノサウルス上科の恐竜が発見・記載され、2005年のアパラチオサウルスの記載―――ドリプトサウルス以来待ち焦がれられていたアパラチア産の中大型獣脚類―――の時にはすでにドリプトサウルスが(非ティラノサウルス科)ティラノサウルス上科に属することは明白になっていたのである。さらに、ティラノサウルス科と共通する特徴―――他の基盤的なティラノサウルス上科、例えばディロングやエオティラヌスには見られない―――もはっきりと確認された。
 満を持してブルサッテらによって行われたドリプトサウルスの再記載(2011年)で、標本の帰属が整理されるとともに(ドリプトサウルス・アクイルングイスと断言できる標本は模式標本ANSP 9995およびそれと同一個体らしき第Ⅳ中足骨AMNH 2438のみとなった)、このあたりの重要な骨学的情報が(再)確認された。採集から150年近くが経過した模式標本は黄鉄鉱病によってひどく損傷していたが、ロンドンの自然史博物館に眠っていたレプリカ―――ホーキンズが辛うじて制作できた1セット―――がそれを補い、初めてドリプトサウルスの化石が写真によって図示されたのである。
 この再記載により、ドリプトサウルスがディロングやエオティラヌスのような「基盤的な」ティラノサウルス上科のものと「派生的な」ティラノサウルス上科(=ティラノサウルス科)の「中間」に位置づけられることが示され、おぼろげではあるものの、しかし確かなドリプトサウルスの姿も示された。短い腕に(おそらく)2本指の大きな手、そして巨大な爪。アルクトメタターサルを備えた長い後肢、ティラノサウルスと比べ相対的に長い尾。全長7mの、神話の猟犬の姿がそこにあった。

 ドリプトサウルスは今なおアパラチア産の獣脚類としてはアパラチオサウルスに次ぐ完全度を誇り、その系統的な位置づけはその生息時代・地域と相まって大きな意味をもつ。ドリプトサウルスの産出した“チョコレート泥灰岩”は今日ニュー・エジプトNew Egypt層と呼ばれているが、これは実のところアパラチアを代表する白亜紀最末期―――マーストリヒチアン中期~後期(およそ6900万年前~6600万年前;ドリプトサウルスの模式標本が産出したのは“チョコレート泥灰岩”の最上部なので、額面通りに受け取ればマーストリヒチアンの末もいいところである)の地層であった。上位層であるホーナーズタウンHornerstown層との境界にはイリジウムの濃集層まで存在し、まさしく白亜紀最後の地層のひとつである。つまり、はるか西のララミディアの平原でティラノサウルスがのさばっていたまさにその時(西部内陸海路はすでに湾と化し、ララミディアとアパラチアの往来を遮る海はもはやなかった)、アパラチアの東のはずれではずっと基盤的らしいドリプトサウルスがバリア島をのし歩いていたのだ。

(マーストリヒチアン後期のニュージャージー周辺の古気候については浮遊性有孔虫や花粉化石から(ざっくりした)推定が試みられている。有孔虫はひとまず熱帯/亜熱帯の群集がみられるようである。一方で花粉化石からは、針葉樹主体の硬葉低木林の広がる、温帯かつ夏に乾燥する(冬は湿潤)地中海性気候のようなものが推定されている。)

 ドリプトサウルスの模式標本の頭骨はごく断片的であるが、全体として(アリオラムス族を除く)ティラノサウルス科と比べて華奢なつくりのようである。保存されていた上顎骨歯・歯骨歯はともにティラノサウルス科の成体と比べて(ゴルゴサウルスなどと比べても)やや薄く、(椎骨からしてドリプトサウルスの模式標本は成体のようだが)頭部は全体としてティラノサウルス科の亜成体に似た印象を受ける。巨大な末節骨はいかにも強力そうであるが、一方で屈筋の付着点はグアンロンやディロング、エオティラヌスなどと比較して発達が弱い。上腕(とおそらく下腕)もこうした基盤的なものと比べるとかなり短く(形態もティラノサウルス科的な単純なシャフト状になっている)、こうした特徴から、基盤的なものと比べて前肢は(相対的には)さほど強力な武器というわけではなかったのかもしれないとブルサッテらは述べている。
 頭骨はティラノサウルス科ほど頑丈ではなく、かつ前肢は基盤的ティラノサウルス上科ほどは攻撃に向いていなさそうな作りではあるが、全体としてドリプトサウルスは軽快な体形であったと思われ(体重は1997年のカーペンターらによる推定では700~900kgほどとされている)、アルクトメタターサルを備えていることも相まってかなり足は速かったのだろう。このことを顧みるに、ドリプトサウルスは中型のハドロサウルス類(例えば“ハドロサウルス・ミノール”)や小型のオルニトミムス類(“コエロサウルス”)にとっては非常に危険な相手だったといえそうだ。一方で、マーストリヒチアン後期のアパラチア南西部(ミシシッピ;オウル・クリークOwl Creek層)にケラトプス科角竜が分布していたことがつい先日確認されたが、こうしたケラトプス科角竜やノドサウルス類(ネーヴシンク層から皮骨と尾椎がわずかに産出している)のような重武装の植物食恐竜相手にはいささか力不足のようでもある(互いのサイズにもよるだろうが)。あるいは、ひょっとするとドリプトサウルスとは別に、9m超級の大型ティラノサウルス類が存在したのかもしれない(現状それらしい化石はマーストリヒチアン後期のアパラチアでは全く知られてはいないようだが)。

 今年になって出版されたブルサッテとカーによる系統解析は、ティラノサウルス上科に関するものとしてはこれまでに最も詳細なデータマトリクスに基づくもので、位置付けのはっきりしていなかったいくつかの属についてひとまずの居場所を提供しつつ、いくつかの興味深い結果を示した。最大節約法に基づき示された系統図は(派生的なものについていえば)それまでのブルサッテやカーによるものと特に変わりない。ドリプトサウルスの位置もブルサッテの再記載から特に変わっていない結果である。一方で、妙なことに、ベイズ解析に基づき示された系統図ではドリプトサウルスは(ティラノサウルス亜科の)アリオラムス族の基盤に置かれる結果となった。
 この問題の解決には結局のところさらなる化石の発見が不可欠であり、一朝一夕に解決できる問題ではなさそうである(ドリプトサウルスは言うまでもなく、依然としてアリオラムス属2種もチエンジョウサウルスも骨格はかなり不完全である)。とはいえ、どちらの系統解析の結果も、ドリプトサウルスがかなり「ティラノサウルス科的な」ティラノサウロイドであったことを支持しているともいえるだろう。

 ドリプトサウルスの頭骨はごく断片的にしか保存されておらず、アリオラムス族の特徴的な頭骨と比較は難しい。現状では欠損部位について「どうとでも復元できる」状況でもあり(全体的に華奢だったのは疑うべくもないが)、また仮にドリプトサウルスがアリオラムス族だったとしても、アリオラムスやチエンジョウサウルスとどの程度密接な関係にあったのか(=どのくらい“ゴースト”が存在するのか)は現時点では何もいえる状況ではない(アリオラムスとチエンジョウサウルスは地理的位置こそやや離れているとはいえ(おそらく)マーストリヒチアン前期のアジアに生息していた、形態的に極めてよくまとまったグループの恐竜である。一方でドリプトサウルスははるかアパラチアの恐竜であり、いつ頃渡ったのかも不明である。もしドリプトサウルスがアリオラムス族であり、なおかつアリオラムスやチエンジョウサウルスにごく近縁であるならば、マーストリヒチアンになって西部内陸海路が閉じた際に一気に移動した可能性が高いが、しかし現状ララミディアからアリオラムス族らしい化石は知られていない)。アパラチオサウルスやビスタヒエヴェルソル、そして現状最も基盤的なティラノサウルス科とみなされているゴルゴサウルスとアルバートサウルスの頭骨の概形はよく似ており、従って(少なくともブルサッテとカーの系統解析に従うのであれば)ティラノサウルス科の頭骨のスタートは「ゴルゴサウルス型」の頭骨であったといえる。これはつまりアリオラムスやチエンジョウサウルスの頭骨は(かつていわれていたような“祖形”ではなく)二次的な特殊化の産物であることを示しており、ドリプトサウルスが基盤的なアリオラムス族であったとしても「非アリオラムス的な」頭骨の持ち主であった可能性はままあるだろう(現状否定も肯定もできないが)。そういうわけで、今回掲載する骨格図の頭骨については「きゃしゃなゴルゴサウルス型」であるアパラチオサウルスを参考にしている。

 コープによる命名から150年が過ぎたが、相変わらずドリプトサウルスを取り巻く状況は厄介かつ賑やかである。折しもニュージャージー州立博物館に「戦うラエラプス」を模した2体の復元骨格が制作・展示され、またリニューアル後のスミソニアンにも同じ骨格が展示されるらしい。一度は潰えたホーキンズの計画が、150年近くを経てついに実現したのである。
 このドリプトサウルスの復元骨格の不足部位は、基本的にゴルゴサウルスの大型幼体ROM 1247(ゴルゴサウルスの復元骨格としては最もよく見る標本)の復元骨格をそのまま流用しているようである。ドリプトサウルスの模式標本ANSP 9995/AMNH 2438と比べるといささかROM 1247は小さいようでもあるが、十分に許容範囲であるといえよう(大腿骨長はANSP 9995の781mmに対しROM 1247は730mm。ちなみにROM 1247の膝下は非常に長く(脛骨のほうが大腿骨より長い)、典型的な大型幼体の形態を示している)
 頭蓋はほぼROM 1247そのままのように見える(わずかに涙骨突起を削っているらしいのと、元のROM 1247のアーティファクト部分を少々「ディテールアップ」してはいるようだが)。とはいえ、頭蓋と第Ⅳ中足骨を除いてきちんとドリプトサウルスの模式標本のレプリカを用いているようだ。前肢(というか手)の復元は(指の本数は言うまでもなく)ブルサッテらによる直近の再記載(2011年)とは指骨の配置が異なっているようだが、このあたりは色々と微妙なところではあるだろう。

 ドリプトサウルスの産出したウエストジャージー泥灰岩社の採掘抗は閉鎖されて久しく、湧水に沈んだ末に、今では公園となっている(点在する沼のどれかが産地のはずである)。最近までニューエジプト層の同時異相であるネーヴシンクNavesink層の上部を含む泥灰岩層の採掘はインヴァーサンド社で続けられていたが、それもとうとう終了してしまった。しかしこのインヴァーサンド社の採掘抗(一般にハドロサウルス・ミノールとして知られる不定のハドロサウルス類の部分骨格ANSP 15202をはじめ、これまで数々の脊椎動物化石を産出してきた)は化石公園として保存されることとなり、今年の1月から地元のローワン大学が運営を行っている。今でもニューエジプト層やネーヴシンク層での発掘そして研究は続けられており、またいつの日か、コープが愛しマーシュの焦がれた恐竜が、石の中から姿を現す日が来るだろう。