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恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

再び発つ

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↑Skeletal reconstruction of Hadrosaurus foulkii holotype ANSP 9201-9204, 10005.

Scale bar is 1m.

 

 どういうわけか本ブログでも散々取り上げてきたむかわ竜は、記載論文の出版が間近に迫っているらしい。むかわ竜の化石が奇跡の産物だというのは今さら書くまでもない話なのだが(海成層は言うに及ばず、外側陸棚ならなおのことである)、一方で、むかわ竜をはじめとするハドロサウルス類が海成層から産出することは必ずしも珍しい話ではない。単離した要素は数知れず、部分骨格も少なくないのである。

 「最初の」ハドロサウルス類――恐竜研究の黎明期に燦然と輝くハドロサウルス・フォーキイもまた、海成層から発掘された奇跡の恐竜であった。

 

 北米最初の恐竜化石の記載・報告は1856年にさかのぼることができるものの、肝心の標本は歯や単離した椎骨や趾骨に限られていた。今日恐竜化石の宝庫として知られるアメリカ西部だが、当時の状況はヨーロッパ――すでに様々な部分骨格が知られていた――とは大違いだったのである(今日ではあまり想像できない様相ではある)。
 が、それから数年で状況は一変することになった。当時知られていた恐竜化石の中でも最良のものが、アメリカ東部――ニュージャージー州で発見されたのである。この化石は恐竜の復元を完全に塗り替えるものであり、そしてコープとマーシュによる「ボーンウォーズ」のきっかけさえ作ることになった。この恐竜――ハドロサウルスの発見から、輝かしい北米の恐竜発掘の歴史が始まったのである。


 1858年夏、アメリカ自然科学アカデミーの会員であったW.P.フォークはニュージャージーのハッドンフィールドでバカンス中であった。フォークはこの時、近所に住んでいたホプキンスという男から気になる話を聞いた――20年ほど前に彼の農場にある泥灰土坑で大きな椎骨が多数見つかったというのである。ホプキンスは見つかった化石を気前よく全て来客に送ってしまったといい、昔の話ということもあってこれらの化石の所在はもはや不明であった。発奮したフォークにホプキンスは農場での調査を快諾し、そして発掘が始まった。
 ホプキンスが散々歩き回った末にかつての泥灰土坑――しばらく前に放棄され、川の流れで完全に埋まっていた――の位置に目星を付け、そして現役の泥灰土坑からかき集められた作業員たちが掘ること1日、20年前の泥灰土坑の端が姿を現した。そこからホプキンスの記憶を頼りに掘り進め、最終的に3m掘り下げたところで巨大な骨がいくつも姿を現した。――北米最初の恐竜の骨格がそこにあったのである。
 泥灰土はやたら粘り、にわか作りの発掘隊は小さなコテとナイフでこれに立ち向かうほかなくなった(母岩が柔らかかったぶん、当時の技術でもクリーニングは完璧にできたのだが)。化石には触る前から細かなクラックが入っている始末で、フォークらはこれを荒布で包んだうえでわらを大量に敷き詰めた荷馬車に載せて現場から運び出した(この時産状図が作成されたというのだが、これは現存していないようだ)。
 このニュースはすぐにライディや科学アカデミー会長のリーに伝えられ、彼らもアドバイザーとして発掘に携わることになった。発掘は10月まで続き、そして12月14日にライディによってこの恐竜はハドロサウルス・フォーキイHadrosaurus foulkii――フォークのかさばるトカゲの意――と命名されたのだった。


 フィラデルフィアの自然科学アカデミーに収蔵されることになったハドロサウルスの骨格は、当時知られていた恐竜の骨格の中でも最良の部類のひとつであった。不完全ではあるが頸椎、胴椎、尾椎はそれなりに発見され、前後肢は大部分が保存されていた。肩帯は見つからなかった(実際には烏口骨が採集されていたが、これが同定されたのは発見から150年近く後の話である)が腰帯は大部分が保存されており、そして頭骨も歯骨(ではなく上顎骨だった)の破片が採集されたのである。
 当時知られていた恐竜化石のうち、1個体で四肢の要素が揃っていたのは他に1834年発見の「メイドストーンのイグアノドン」(いわゆるマンテル・ピース;ポールはこれをマンテロドン・カーペンターリと命名したが、ノーマンは単にマンテリサウルス・アザーフィールデンシスに参照している)のみであった。これはマンテルの有名な骨格図のベースとなり、また1852年にホーキンズによって制作された水晶宮の復元模型(監修はオーウェンである)のプロポーションのよりどころともされたが、マンテルにせよオーウェンにせよ完全な四足歩行の動物として復元していたのである。
 ライディはハドロサウルスの極端な前後肢のプロポーションの差(実のところマンテル・ピースでもかなり差はあるわけだが、なお極端であった)に注目した。発掘中にライディが2頭の恐竜由来かと思ったほど前後肢の長さには差があったのである。ライディはハドロサウルスが(海成層から産出したために)半水生であったとしつつ、摂食時はカンガルーのように三脚立ちをしていたと考えたのだった。ライディはまた、ハドロサウルスがイグアノドンとよく似ていることをしっかり見抜いた。水晶宮の復元模型の制作からわずか6年で、恐竜のイメージは完全に塗り替えられたのである。

(ライディはまた、原記載の中でハドロサウルスの全長を7.5mと妙に正確に推定している。復元骨格が制作されるのはしばらく後の話だが、復元骨格に表現されている要素は基本的に全て原記載(後のコープによる“ラエラプス”の時と同様、アカデミーの定例会録という形である)の中で述べられている。ライディの頭の中には最初からしっかりした復元像が描かれていたようだ。)


 ライディはその後もハドロサウルスの記載を断続的に発表し、(トラコドンやテスペシウスを含め、当時まだ単離した歯しか知られていなかったにも関わらず)ハドロサウルスの歯について、萌出歯とそれに続く(半)未萌出歯が密集した構造――デンタルバッテリー――の存在をも指摘した。また、コープもラエラプスの再記載と合わせてハドロサウルスについて述べ、ラエラプスともどもハドロサウルスが二足歩行の動物であったことを改めて指摘したのである。
 この頃になると、恐竜をはじめ絶滅した巨大動物の化石がアメリカで続々と発見されるようになったことで、水晶宮の復元模型のような実物大のモニュメントを求める声が上がるようになった。この計画はセントラルパークの「古生代博物館」としてまとまり、復元模型や復元骨格――世界で初めての恐竜の復元骨格を含む――の制作が決定されたのである。そして招聘されたのがホーキンズ――水晶宮の復元模型を手がけたその人であった。
 1868年、ホーキンズはフィラデルフィアの自然科学アカデミーにライディを訪ね、古生代博物館の展示に用いるレプリカのための型取りを行った。ここでホーキンズはハドロサウルスやラエラプスの型取りを行うだけでなく、自然科学アカデミーの展示用にハドロサウルスの実物標本を組み立てることになったのである。
 ライディの監修の下、ホーキンズはその当代無比(今日の人物だとしてもなお最高クラスの腕の持ち主だろう)の才能をいかんなく発揮した。左右どちらかしか残っていない要素(特に長骨は左側の要素しかなかった)は鏡写しのアーティファクトで左右を揃え、椎骨も適宜レプリカを作っては(ライディ推定するところの)所定の数まで増やし、ドリルで穴を空けてアーマチュアが通るようにした。長骨は外付け式のアーマチュアで組み上げられ、最終的に骨格全体は両脚と尾、そして支柱を通した樹木の模型で支えられた。イグアナを参考に作られた頭骨(さすがに顎の断片は練り込まれなかった)と哺乳類風の肩帯を組み込まれ、ここに「三脚立ちして木の葉を食べる」ハドロサウルスの実物復元骨格――恐竜の復元骨格として世界で初めてのもの――が完成したのである。1868年の秋のことであった。
 それまでも自然科学アカデミーでハドロサウルスの化石は展示されていたのだが、復元骨格が制作されたことで来館者は凄まじい勢いで増えた。最初の1年で来館者は倍増し、その後の数年で復元骨格が展示される前の3倍以上――年10万人にまで増加したのである。これに焦った自然科学アカデミーは開館日を減らしたり、入場制限をかけるなどして対応したが、結局今日の場所に移転して展示スペースを拡大するほかなかったのだった。現生動物とは著しく異なった体制を示す恐竜の復元骨格――当時すでに絶滅哺乳類の復元骨格は各地で展示されていた――は、進化論を受け入れつつあった人々の強烈な興味を引いたのである。
 さて、セントラルパーク内に設けられた工房に戻ったホーキンズは、ハドロサウルスの復元骨格の量産においてさらに天才ぶりを発揮した。今日でも一般によく用いられている復元骨格レプリカ制作のテクニック――「一体成型」の脊柱、長骨や椎骨内部に完全に埋め込まれたアーマチュア、肋骨籠を内側から支えるプレート――を駆使し、支柱の他は無粋なアーマチュアの露出しない、大変優雅な復元骨格を量産する体制を整えたのである。1869年にはハドロサウルス復元骨格の量産第1号(立ち止まって木の葉を食べようとしているポーズだが、いくぶんオリジナルより行儀のよい姿勢である)が完成し、またラエラプスの復元骨格もひとまず発見部位のキャストの組み付けが完了した状態にあった。そして1871年、運命の日がやってきた。


 古生代博物館計画が中止されたのみならず、制作中の模型もろともセントラルパークの工房は破壊されてしまった。が、ホーキンズはどうにかハドロサウルスの復元骨格の型の持ち出しには成功し、これの量産は可能であった。
 ハドロサウルスの復元骨格は最終的に(破壊されたらしい量産第1号とは別に)3体が量産され、それぞれプリンストン大学スミソニアンスコットランド国立博物館(ヨーロッパで最初の恐竜の復元骨格となった)へ送られた。特にスミソニアンで展示されたタイプは可搬性に優れており、展示レイアウトの変更に伴ってスミソニアン館内を渡り歩いた末1890年代にフィールド博物館へトレードされた。
 ホーキンズの復元は非常に先駆的なものだったが、しかしボーンウォーズの勃発によって指数関数的に増えていくハドロサウルス類の標本によって20年ほどで陳腐化してしまった。1900年代の初めには3体の量産型は全て廃棄され、また自然科学アカデミーのオリジナルも解体されてしまったのである(オリジナルに据えられていた頭部は現存しており、特別展などで展示されることがあるようだ)。


 北米西部――ララミディアから続々と見事なハドロサウルス類の化石が発見される一方、アメリカ東部――アパラチアでは依然としてハドロサウルス・フォーキイのホロタイプが最良の標本といった有様であった。まともな頭骨要素の残っていなかったハドロサウルス・フォーキイが実態のよくわからない代物と化すのは訳ない話で、コープやマーシュがハドロサウルス属の新種として記載した数々の断片がさらに足を引っ張る始末だったのである。保存されていた要素はランベオサウルス亜科ではなく“ハドロサウルス亜科”――エドモントサウルスやクリトサウルスのような「平らな頭蓋」をもつものに似ていたのだが、肝心の頭骨が顎の断片しか残っておらず、このあたりにはいささか疑問も残されていた。
 こうした状況は1970年代後半まで続いていたのだが、アパラチアの恐竜の研究に取り組んでいたベアドとホーナーの師弟コンビは思い切った説を発表した(アブストラクトしか出版されていないので詳細は割と謎なのだが)。オルニトタルスス・イマニスOrnithotarsus immanisやハドロサウルス・カヴァトゥスHadrosaurus cavatus(どちらも今日疑問名として扱われている。オルニトタルススはH.フォーキイの1.5倍ほどとかなりの巨体だが、そもそも産出層がはっきりしない)をハドロサウルス・フォーキイのシノニムとしただけでなく、クリトサウルス属(グリポサウルス属をシノニムとして取り込んでいた)をハドロサウルス属のシノニムとみなしたのである。
 クリトサウルスをハドロサウルスと密接に結びつけるこの意見はそれなりの支持を受けた。――が、それからしばらくしてホーナーは自らこれを否定した(ハドロサウルスは“ハドロサウルス亜科”内の系統不明なものとなった)。やがて行われた再記載で、とうとうハドロサウルス・フォーキイは他のアパラチア産ハドロサウルス類ともども疑問名とされてしまったのである。

 が、結局ハドロサウルスはクラオサウルスともども2011年に疑問名から「復活」することになった。なんだかんだでハドロサウルス・フォーキイのホロタイプはアパラチアのハドロサウルス類(広義)としてはかなりまともな部類だったのである。他に知られている骨格といえば、ニュージャージーのネーヴシンクNavesink層の最上部(K/Pg境界の直下にあたる)で発見された部分骨格(コルバートによって“ハドロサウルス・ミノールHadrosaurus minor”の新標本とされたもの)や、アラバマのムーアヴィル・チョークMooreville Chalk層下部産のロフォロトン・アトプスLophorhothon atopus(カンパニアン前期;8300万~8200万年前ごろ)のホロタイプ、そしてカンザスのナイオブララNiobrara層スモーキー・ヒル・チョークSmoky Hill Chalk部層(コニアシアン後期;8700万年前ごろ)産のクラオサウルス・アギリスのホロタイプくらいであった。
 2016年になり、アラバマのムーアヴィル・チョーク層の最下部(サントニアン後期;8500~8400万年前ごろ)からほぼ完全な頭骨を含むハドロサウルス類の部分骨格――エオトラコドン・オリエンタリスが記載された。これはララミディア産のハドロサウルス類と互角の保存状態で、言うまでもなく極めて重要なものであった。系統解析の結果ハドロサウルスがハドロサウルス科の最も基盤的な位置に、その次に基盤的な位置にエオトラコドンが置かれた(そしてエオトラコドンの姉妹群にサウロロフス亜科――かつての“ハドロサウルス亜科”――+ランベオサウルス亜科が置かれた)。また、ハドロサウルスよりも基盤的な位置にはイタリア産のテチスハドロスが置かれたが、もう一つ基盤的な位置にはクラオサウルスが置かれた。この結果はつまり、(依然としてハドロサウルスが実質首なしである点に注意が必要だが)真正のハドロサウルス科――デンタルバッテリーに加え、後方まで長く伸びた外鼻孔とそれを取り巻く浅く広いくぼみを併せ持つ――がアパラチアでサントニアン前期ごろに出現した可能性を示している。カンパニアン前期の地層であるウッドバリーWoodbury層(8200万年前ごろか)産であるハドロサウルスは最古のハドロサウルス科というわけではなさそうだが、エオトラコドンと並んでハドロサウルス科の原初の姿を伝えてくれる。


 オリジナルの復元骨格の解体から80年あまり後の1984年、ハドロサウルスの復元骨格はキャストを用いたウォールマウントとして自然科学アカデミーに帰ってきた。2008年には命名150年(とオリジナルの復元骨格の展示140周年)を記念して3Dの復元骨格(マイアサウラをベースに、ハドロサウルスのキャストを組み込んでいる)が制作され、ずいぶんにぎやかになった展示ホールで来館者を迎えている。そしてニュージャージー州立博物館へ渡ったこれの量産型はドリプトサウルスと共に――かつてセントラルパークの古生代博物館計画で試みられたように――展示され、「州の恐竜」として往時の姿を伝えている。
 ハドロサウルス・フォーキイの模式産地――ホプキンスの農場の一角――は長らく正確な場所が不明になっていたのだが、1984年になってボーイスカウトによって再発見された。1994年に合衆国国家歴史登録財および合衆国国定歴史建造物に指定されたその林は、ハドロサウルス公園として今日も静かにたたずんでいる。