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恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

孤独の海

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↑Skeletal reconstruction of Nipponosaurus sachalinensis holotype UHR 6590.
Scale bar is 1m.

 今でこそ「恐竜研究(というか中生代の大型化石爬虫類全般)」が行える研究機関は日本でもみられるようになったが、かつては――研究対象を世界に求めることのなかった頃は、独り立ちした研究者にせよ学生にせよ「恐竜研究」に携わることのできるケースは極めて稀であった。たまたま研究に携わることができたとして、それは「たまたま」であったから、そうした分類群を専門とする古脊椎動物研究者はほとんどいなかったわけである。たまたま研究に駆り出されるのは、研究分野が近くて化石哺乳類研究者、遠ければ無脊椎動物――アンモナイトやその他の化石軟体動物研究者であった。
 こうした状況が変わり始めたのは最近の話で、つまり日本人研究者として最初に恐竜の研究に取り組んだ長尾巧も恐竜屋ではなかった。イノセラムスをはじめとする二枚貝化石が専門だったのである。

 北海道帝国大学の古生物学教室で教授を務めていた長尾はしばしば「多芸はよくない」と口にしていたというのだが、1933年7月に「多芸」に首を突っ込むことになった。南樺太(現サハリン)の林業者が「動物の頭」を持ちこんだのである。これがデスモスチルス気屯標本の頭部で、長尾率いる調査隊はソ連との国境にほど近いエリアでデスモスチルス・ヘスペルスのほぼ完全な骨格を発掘し、その後ライフワークとして研究に取り組むことになったのだった。
 さて、1934年になり、デスモスチルスの発掘も終わって札幌へ戻ってきた長尾の元にまたも南樺太から連絡が届いた。連絡の主は当時北大に出入りしていた化石販売商の根本で、三井鉱山の川上炭鉱(現シネゴルスク)に附属する病院の建設現場で骨化石が発見されたというのである。拡張工事で削られた崖から姿を現した巨大ノジュールに、化石がまだまだ埋まっていることは間違いなかった。
 その年の11月から12月にかけて鉱山の作業員らを動員して発掘が行われ、1体の比較的よく揃った恐竜の部分骨格が採集された。採集された骨格は北大に寄贈されることになり(重役会議の場で決まったという)、デスモスチルスと同様に長尾が研究にあたることとなった。またしても「多芸」に手を染めることになったのである。

 「上部菊石層群の上部」(海成層;色々とめんどくさい研究史があるのだが、とりあえず現在では蝦夷層群ブイコフBykov層と呼ばれている。サントニアン後期~カンパニアン前期(およそ8400万~8200万年前)とされているのだが、このあたりについては後述する)で発見されたこの恐竜は、部分的に関節がつながった状態で保存されていた。部分的に関節した状態であった割には骨そのものの保存状態は良いとはいえず、表面がだいぶボロボロになっていた上にノジュールとしっかり結合しており、(当時の機材では)クリーニングは文字通り骨の折れる作業となった。
 あらかたクリーニングの終わった1936年、長尾は記載論文を出版し、この恐竜について詳細に記載するとともにニッポノサウルス・サハリネンシスNipponosaurus sachalinensis(今となっては色々とアレな感じの学名である)と命名した。前肢を欠くほかは全身のかなりの部分が残っており(頭骨についてもとりあえず後頭部が採集された)、北米産の様々な“トラコドン科”と比較することができたのである。

 1936年当時、ハドロサウルス類の分類は割と混乱状態にあった。おおむね現在と通ずる分類が確立されていたものの、棒状のクレストをもつサウロロフスやプロサウロロフス、パラサウロロフスの位置づけには議論が生じており、結果、クレストをもたない「ハドロサウルス亜科」、ひれ状あるいはドーム状のクレストをもつ「ランベオサウルス亜科」、そして棒状のクレストをもつ「サウロロフス亜科」の3つに大別されることとなっていたのである(さらに、パラサウロロフスをサウロロフス亜科に入れるのかランベオサウルス亜科に入れるのかの問題がここに付随する)。
 ニッポノサウルスの頭骨の前半部は未発見であり、従ってクレストの有無は不明であった――が、長尾はしっかりニッポノサウルスの座骨にブーツが存在すること――ランベオサウルス亜科の特徴を見出していた(一方で、当時はサウロロフスにも座骨ブーツがあると考えられていたこともあり、サウロロフス亜科の可能性についても長尾は言及している)。
 当時知られていた北米産の(パラサウロロフス以外の)ランベオサウルス亜科の恐竜といえば、ランベオサウルスにコリトサウルス、ヒパクロサウルス、“ケネオサウルス”、“テトラゴノサウルス”の5属であった(うち最後の2属は現在では幼体に基づくものとして、疑問名やシノニムとなっている)。ニッポノサウルスの仙椎(前半3つが保存されていた)が癒合していた(実際には第1仙椎はまだ癒合していなかったのだが)ことから長尾はこれを成体であると考え、既知の大型属の幼体である可能性を否定した。“ケネオサウルス”、“テトラゴノサウルス”(いずれも当時はランベオサウルス類の小型種とされていた)とはよく似ているフシがあったのだが、いかんせんニッポノサウルスではクレストが未発見だったので、まともな比較は不可能だった。

 こうした事情もあって、ニッポノサウルスの分類学的な有効性について、実のところ端から長尾は疑念を持っていた。一方でこうしたタイプの“トラコドン科”は北米でしか見つかっておらず(明らかにニッポノサウルスは“マンチュロサウルス”やタニウスとは別物だった)、かくして、(半ば割り切って)長尾はニッポノサウルスを命名したのである。
 さて、ニッポノサウルスのホロタイプは全身が比較的よく残った標本ではあったのだが、前肢がそっくり欠けていたり、肝心の頭骨前半部が欠けていたりで不完全燃焼といったところではあった。そもそもの産状が部分的に関節していたということもあり、まだ掘り残しがあると睨んだ長尾は、1937年の夏に川上炭鉱を訪れることにした。この追加発掘で、すでに完成していた附属病院の一部を取り壊すという最終手段が功を奏し、長尾の目論見通りホロタイプの掘り残しの前肢――ほぼ完全――が採集されたのである。この前肢についても1938年に記載が行われ、ニッポノサウルスに関する基礎研究はひと段落付くことになった。

 原記載の中で(属・種の分類に使えるような)まともな骨学的特徴が見出されなかったため、その後ニッポノサウルスの分類学的な位置づけは混乱することになった。クレストが欠けており、幼体くさい雰囲気(小さな体サイズやひょろ長い後肢など)が漂っている状況ではなおさらである。
 また、もう一つ大きな問題があった。ニッポノサウルスを“マンチュロサウルス”の近縁とみなす意見から、ハドロサウルス科の基盤的なものとみなす意見、そして疑問名とする意見までよりどりみどりであった一方で、それらの意見は全て長尾の原記載にのみ基づいていた。誰もニッポノサウルスのホロタイプに触ったことがなかったのである。原記載の図版には明らかにクリーニングの終わっていない椎骨の写真があふれており、従って誰かが基礎的な情報を更新する必要があった。
 これに名乗りを上げたのが北海道大学の学生であった鈴木であり、修士研究(!)としてニッポノサウルスの再記載にあたることとなった。手始めに行われた再クリーニングの結果、案の定椎骨の縫合線がはっきりと現れた。ニッポノサウルスのホロタイプUHR 6590は成体ではなかったのである。

 ホロタイプの再クリーニングの結果、新たに関節した頸椎~胴椎や頭蓋天井の一部、そして吻の断片が見出された。これによって(断片とはいえ)頭骨の詳細な骨学的情報が明らかとなり、ニッポノサウルスがランベオサウルス亜科に属することは確実となった。さらに、ニッポノサウルス独自の特徴らしいものも複数見出された。
一方で、原記載で図示された要素のうち、いくつかのものは原記載時の状態からかなりのダメージを受けていることが確認された。後頭部の要素も長年の間にダメージを受けており、頭蓋天井とされていた要素(前述の通り正真正銘の頭蓋天井が新たに見出されており、原記載で頭蓋天井や方形骨とされていた骨は何かの誤認だったらしいのだが)はごっそり行方不明になっていたのである。
 再記載にあたって行われた系統解析では、驚くべきことに(時代も地域もかけ離れているにも関わらず)ニッポノサウルスはヒパクロサウルス・アルティスピヌスの姉妹群となった(そしてニッポノサウルス+H.アルティスピヌスのクレードがH.ステビンゲリの姉妹群となった)。アジアと北米との間で白亜紀後期に恐竜の移動があった可能性は様々な研究で示唆されていたが、ニッポノサウルスもその一例であるらしいことが示されたのである。

 鈴木による再記載は2004年に出版された。久方ぶりにニッポノサウルスが表舞台へ出てきた一方で、この再記載で示された「ニッポノサウルス独自の特徴」について疑問視する向きもあった。
 また、ニッポノサウルスをヒパクロサウルス・アルティスピヌスと結び付けていた特徴についてもばっさりと否定された。ホロタイプは亜成体(あるいは大型幼体)であり、クレストがごっそり欠けていることもあって、系統解析には(やはり)色々な問題が伴うことも改めて指摘されるようになった。かくしてニッポノサウルスの有効性に再び黄信号が灯ったのである。
 そんなこんなで、ニッポノサウルスの(有効性と)系統的位置づけをはっきりさせるべく再研究が行われた。大腿骨や肋骨、血道弓をスライスして成長線の観察が行われ、ニッポノサウルスがどうも亜成体というより大型幼体であるらしいことが明らかになった一方で、全身の要素についても詳細な観察と比較が行われた。結果、特に頭骨から(今度こそ)ニッポノサウルス独自の特徴が見出されたのである。
 ニッポノサウルスの歯骨の筋突起は(頭骨前面/後面から見た時に)歯骨本体のど真ん中に位置しており、そこからいきなり垂直に伸びるが、他のハドロサウルス類では筋突起の基部は歯骨の側面の場所にあり、そこから斜め上に伸びる点で異なっている。また、ニッポノサウルスはハドロサウルス科としては唯一、はっきりした歯骨の「棚」をもっており(エオランビアやプロバクトロサウルスのようなもっと基盤的なものにはみられる一方で、ハドロサウルス科では幼体にさえもみられない)、全体として特殊化した下顎をもっていることが明らかになった。
 
 ヒパクロサウルス・ステビンゲリの様々な成長段階の標本を検討するなどして成長段階における変化が系統解析に与える問題を洗い出したところで、ニッポノサウルスの新たな系統解析が行われた。その結果は(またしても)意外なもので、マーストリヒチアン後期のスペイン産ランベオサウルス類――アレニサウルスArenysaurusとブラシサウルスBlasisaurusとひとまとめになってランベオサウルス亜科の基盤的な位置に置かれたのである。
 アレニサウルスとブラシサウルスが密接な関係にあることは以前から知られていたのだが、ニッポノサウルスの頬骨や歯骨の特徴(頬骨の腹側が突出、側面から見た時に歯骨の筋突起が前傾している、など)はこれらと共通するものであった。ここに至って、ニッポノサウルスが北米ではなくむしろヨーロッパと強いつながりをもっている可能性が浮上したのである。
 近年の研究で、山東省産のチンタオサウルスとスペイン産のパララブドドン、カザフスタン産のアラロサウルスとフランス産のカナルディアがそれぞれごく近縁であるらしいことが示され、どうもアジア-ヨーロッパ間で複数回ランベオサウルス類の移動があったことが判明した。ニッポノサウルスとアレニサウルス、ブラシサウルスを姉妹群とする解析結果もこれを示唆しており、ランベオサウルス類はアジアとヨーロッパ(そして南北アメリカ)で幾度となく移動を繰り返していたようだ。

 依然としてニッポノサウルスのホロタイプは大型幼体であり、しかも(未発達の)クレストが未発見であることから、その姿には謎が多く残されている。ホロタイプの前肢の短さはハドロサウルス科としては有数のレベルだが、果たして成体になったときにどうなっているのだろうか? クレストの形態には謎が多い(ブラシサウルスでは未発見であり、アレニサウルスでも前頭骨のドームしか残っていない)が、ひょっとすると成体ではアレニサウルスと同様の、妙に大きく膨らんだ前頭骨ドームをもっていたのかもしれない。棘突起は成長に伴って大きく伸長する可能性もあり、このあたりは想像すると非常に楽しい(現状では想像するほかないのだが)。

 1993年・94年と日本人研究者によるチームがサハリンで地質調査を行った際にシネゴルスクでニッポノサウルスのホロタイプの産地を再訪しようとした――が、川上炭鉱の附属病院は跡形もなくなっていた。地元民にも当時の様子を知る者はなく、ホロタイプの詳細な産地は所在不明となってしまったのである。ホロタイプがブイコフ層から産出したのはほぼ確実なのだが(戦前の三井鉱山の地質調査のデータやら何やらからするとサントニアン後期ないしカンパニアン前期ではあるらしい)、従って時代やタフォノミーに関する突っ込んだ議論は難しい。
 カンパニアン前期、太平洋岸から西を目指して移動していったニッポノサウルスの一群がいたのだろうか? それとも、サントニアン後期に西からやってきた一群が太平洋岸に居ついたのだろうか?
「日本最初の恐竜研究」は、まだ終わらない。