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恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

彼岸帰航

イメージ 1
↑Skeletal reconstructions of parasaurolophins.
Top to bottom,
"Charonosaurus" jiayinensis (composite; scaled as largest femur);
Parasaurolophus tubicen based on NMMNH P-25100;
P. walkeri based on ROM 768;
P. cyrtocristatus based on FMNH P27393 and USNM 13492.
Scale bar is 1m.

 前記事でララミディアのパラサウロロフス類について紹介したわけであるが、ご存知の通り、割と最近(2000年)になって東アジア―――アムール川/黒竜江下流でもパラサウロロフス類が記載・命名されている。これこそがカロノサウルス・ジアイネンシスCharonosaurus jiayinensisで、「全長13m」の謳い文句もあってかそれなりの知名度(狭い世界の話ではある)を得ている。
 アムーロサウルスと並び、アムール川/黒竜江下流のハドロサウルス類の命名ラッシュの先鞭をつけた格好となったカロノサウルスであったが、実のところこの地域ではずっと以前にハドロサウルス類が発見・命名されていた。“マンチュロサウルス・アムーレンシスMandschurosaurus amurensis”である。

 今日でこそそこらじゅう(そんなことはない)で恐竜化石が産出するようになったアジアだが、19世紀の発見は驚くほど乏しく、インドで体化石が少々と中東で足跡化石がふたつといった具合であった。
 さて、大陸へ進出しつつあった日本のこともあり、帝政ロシアは19世紀末から極東地域で活発な調査を行っていた。そのさなかの1902年、マナキン大佐(コーラサワーの嫁ではない)の隊はアムール川/黒竜江下流南岸の渔亮子(黒竜江省の伊春市嘉蔭県)で、現地の漁民から大型動物の化石を入手した。マナキン隊はこれをマンモスかなにかの骨と考え、地元の新聞もそのように報じた。マナキン隊は本格的な発掘は行わなかったのだが、いくつかの骨を採集しておくことにした。
 1914年になり、マナキン隊の採集した化石の一部がたまたまサンクトペテルブルグのロシア地質委員会の目に触れる機会があった。メンバーであったレビニャンは、これが恐竜の脛骨の近位端であることを見抜いたのである。1915年~1916年にかけて派遣されたチームはマナキン隊の恐竜化石採集地点―――アムール川/黒竜江南岸―――を突き止め、地質図を作りがてら恐竜の化石がまだ出てくることを確認した。かくして1916年と1917年の夏(二月革命でバタバタしていたにも関わらず、である)に本格的な調査がおこなわれ、「トラコドン類」の骨格やティラノサウルス類の歯が採集されたのである。これらの化石はサンクトペテルブルグの中央地質博物館へと送られた。

 直後に十月革命が始まってしまうとさすがに研究どころではなくなった―――が、それでもクリーニングはじわじわ進められ、1924年にはレビニャンによって「トラコドン類」の部分骨格が組み立てられた。まんべんなく骨が見つかってはいたのだが、頭蓋の大半を含め依然として欠損部位は多く、レビニャンはトラコドン・アネクテンス(今日のエドモントサウルス・アネクテンスであることは言うまでもない)を参考に、大量の石膏でどうにかすることにした。復元骨格の完成した翌年にレビニャンはこれをトラコドン・アムーレンゼTrachodon amurense(語尾は本来-eではなく-isである命名したが、1930年に詳細な再記載をおこなうにあたって新属を設け、マンチュロサウルス・アムーレンシスMandschurosaurus amurensisとしたのだった。

 1917年の夏を最後に、その後60年近くに渡って嘉蔭のマナキン隊の産地を訪れる者はなかった。国境地帯ということもあり、うかつに調査できる場所ではなかったのである。さらに1950年代になると、マンチュロサウルスの有効性について疑問が呈されるようになった。模式標本はこれといって特徴らしい特徴をもたないうえにすべて石膏を塗りたくられたうえで復元骨格に組み込まれており、あげくレビニャン自身が1930年の論文で触れたように、複数個体のキメラの可能性が濃厚だったのである。かくしてマンチュロサウルス・アムーレンシスは疑問名となってしまったのだった(その煽りを受けて「モンゴル産マンチュロサウルス」は新属ギルモアオサウルスとなった)。
 一方で、1970年代後半になると黒竜江省の地質局などが嘉蔭の地質調査を行うようになり、1977年になって「竜骨山(山とは言うがこれは比喩で、実際には河岸である)」と呼ばれる複数の大規模なボーンベッド(マナキン隊の産地を含む)が(再)発見された。1978年~1979年に黒竜江省博物館の主導する調査隊が竜骨山で大規模な発掘をおこない、トータルで少なくとも18体分のハドロサウルス類の骨格を採集したのだった。
 こうして採集されたハドロサウルス類の化石(完全にばらけていたらしい)から3体の骨格が組み上げられ、マンチュロサウルスとして展示されることになった(頭骨要素は上顎骨と下顎くらいしか産出していなかったので、例によって悲惨な感じに復元された)が、うち1体は吉林市博物館へ貸し出した際に火災で失われてしまったという。

黒竜江省博物館に残された1体(3体制作されたうちの小さい骨格)の写真はネットで見ることができる。この骨格にはマンチュロサウルス・アムーレンシスのキャプションが付いているのだが、もう1体(?)にはマンチュロサウルス・“ジアイネンシス”M. "jiaynensis"の非公式名が付いているらしい(未確認情報)。)

 さらに、1989年には長春地質学院(現長春理工大学)が竜骨山で発掘をおこない、またしても多数の「マンチュロサウルス・アムーレンシス」の化石を採集すると、例によってコンポジットの復元骨格を制作した。1992年には黒竜江地質博物館(黒竜江博物館とは別)も同地で大規模な発掘をおこない、大量の化石の中から「マンチュロサウルス・“マグヌス”M. "magnus"(非公式名)の骨格」を組み上げたのだった。

 さて、長春地質学院の採集した化石(現在は吉林大学博物館に移管されている)の中には、よく保存されたハドロサウルス類の後頭部があった。これにはクレストの基部が残されており、ランベオサウルス亜科に属することが明らかだった。同じボーンベッドから産出したその他のハドロサウルス類の化石も全てランベオサウルス亜科のものであるらしく(サウロロフス亜科らしきものはまったく発見されなかった)、さらにいえば黒竜江地質博物館(そして黒竜江省博物館)所蔵の“マンチュロサウルス”も全てランベオサウルス亜科の化石であるらしかった。竜骨山で発掘された化石の中に第2のランベオサウルス類といえるものは含まれておらず、1978年以来竜骨山で採集されてきたハドロサウルス類の化石は全て同じランベオサウルス亜科の新属新種―――カロノサウルス・ジアイネンシスCharonosaurus jiayinensisとなったのだった。竜骨山から産出した化石のうち、およそ90%がカロノサウルスとみなされる格好となったのである。

 カロノサウルスの系統解析の結果は驚くべきもので、パラサウロロフスの姉妹群となってしまった。竜骨山(マナキン隊の産地を含む)は渔亮子Yuliangze層(詳細な時代については議論があるがおそらくマーストリヒチアン中ごろ;ざっくり6900万年前ごろ)にあたり、ララミディアからパラサウロロフスが消えてたっぷり数百万年は後なのである。
 いかんせんボーンベッドからの産出ということで、カロノサウルスのきちんとした復元は難しい。パラサウロロフスに似た管状のクレストをもっていたことはほぼ確実なのだが、前上顎骨の要素は全く産出していないのである。首から後ろの骨はほぼすべて発見されているといっていいのだが、厳密にプロポーションを復元することは現状不可能である(ボーンベッドの化石の多くが亜成体および幼体であり、神経弓と椎体がばらけているのがほとんどだったというのも厄介な点である)。もっとも、ごく近縁とされる(後述)パラサウロロフスを頼りにすることはできるだろう。カロノサウルスの山のような化石の中には長さ135cmに達する大腿骨が含まれており(ほかにも1.3m級の大腿骨がいくつか存在する)、カロノサウルスのサイズを知る助けになる(もっとも、全長13mというのは多分に過大な見積もりであろう)。

 渔亮子の“マンチュロサウルス”はカロノサウルスとなることで(ひとまずの)決着を見たが、結局“マンチュロサウルス・アムーレンシス”―――サンクトペテルブルグの復元骨格の正体は何だったのだろう。組み上げられた模式標本のうち、歯骨や上腕骨はサウロロフス亜科のものらしいが、それ以外についてランベオサウルス亜科(=カロノサウルス?)なのかサウロロフス亜科なのか判断する術はなさそうである。
 最近になって竜骨山でサウロロフス亜科らしい歯骨の破片が発見されたのだが、それでも竜骨山のボーンベッドから産出するハドロサウルス類はランベオサウルス亜科のものがほとんどを占めているとみて間違いないようだ。とすると、“マンチュロサウルス・アムーレンシス”のホロタイプの大半はカロノサウルスで構成されているのかもしれない。

 ハドロサウルス類に関する最近の複数の系統解析は、カロノサウルス・ジアイネンシスがパラサウロロフス・トゥビセンあるいはP.ワルケリと姉妹群になる可能性を示している。だとすると、カロノサウルス・ジアイネンシスはパラサウロロフス・ジアイネンシスと呼ばれるべきだろう。竜骨山を削り続けるアムール川/黒竜江―――カロノサウルスを命名したゴデフロアはスティクス川に例えた―――の波に翻弄され続けたカロノサウルスだが、まだ流れ着く先は見えない。