GET AWAY TRIKE !

恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

朱い砂、白い骨

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Skeletal reconstruction of Velociraptor mongoliensis largely based on MPC-D 100/25 ("fighting dinosaurs").
Scale bar is 1m for MPC-D 100/25.

 

 今日非常に高い知名度を誇るヴェロキラプトルが最近見つかった恐竜などではないことは、賢明なるGET AWAY TRIKE !の読者の皆様には今さら言うまでもないことである。原記載ではほとんど頭骨しか知られておらず、ぱっとしない知名度であった下積み時代を経ての「格闘化石」の発見、そしてジュラシック・パークへの大抜擢(特に映画)、羽毛恐竜への「昇格」と順調にスター街道を上ってきた感のある恐竜だが、しかし一方で(それ故に、というべきでもあろうか)、その実態は案外不確かでもある。


 ロイ・チャップマン・アンドリュースの特に前半生といえばそんじょそこらの冒険映画の主人公が寄ってたかって敵うかどうか(あたりまえ)といった代物なのだが、最も有名なのがかの1920年代の中央アジア調査――人類化石を求めたAMNHの内外モンゴル遠征であった。
 ヘッケルのレムリア(この場合ムー的な意味ではない)起源説に始まり、デュボアによるジャワ原人の発見、そしてアンダーソン(本ブログ読者にはおなじみ)とグレンジャー(ピナコサウルスの種小名にその名を残す)による周口店での古人類の痕跡の発見(北京原人の化石そのものの発見は数年後ツダンスキーによってタニウスとエウヘロプスの発見ついでに成し遂げられた――これも後の記事を参照)により、この時期人類のアジア起源説は最高潮にあった。何しろ明確な化石証拠に支えられているわけで、グレンジャーやマシュー、そしてオズボーンにアンドリュースその人と、当時のAMNHの化石哺乳類担当もこの「定説」を支持していたのである。
 かくしてアンドリュース率いるAMNHの遠征隊は一路モンゴルへ向かい、もろもろの困難(自然ばかりが問題だったわけではないが、GPSもない時代である)と戦いつつ化石を捜し歩くこととなった。が、AMNHのメンバーが当初期待したような成果は上がらなかったのはよく知られた話である――アンドリュース隊が内外モンゴルから華々しく持ち帰ったのは、アンドリューサルクスや“バルキテリウム”(懐かしい響き)のような古第三紀の哺乳類化石と、それから無数の白亜紀の恐竜化石であった。


 古人類化石が一向に見つからないまま、アンドリュース隊がたどり着いたのが運命の場所――フレーミング・クリフであった。夕陽を浴びて燃えるように輝くその丘――モンゴル語ではその朱い砂岩にちなんで赤い崖――バイン・ザク――と呼ばれていたその丘で、アンドリュース隊は多数の恐竜化石、哺乳類化石、そして「恐竜の卵」を多数得たのである。
 アンドリュース隊は1923年の夏の間しばらくバイン・ザクに滞在して発掘を行ったが、そこでカイゼン――AMNHの誇る当時世界最強のプレパレーター――がプロトケラトプスの頭骨の脇で小さな獣脚類の頭骨を発見した。頭骨はひしゃげてこそあれ完全といっていい状態で保存されており、また同一個体と思しき部分的な手も残されていた。
 同じ丘で採集された多数の化石と共にニューヨークへ凱旋したその部分骨格AMNH 6515は、翌1924年には早速オズボーンによって一般向けの雑誌にて紹介されることとなった。“オヴォラプトル・ジャドフタリOvoraptor djadochtari”の「仮名」で掲載されたそれは、その年のうちに正式記載されヴェロキラプトル・モンゴリエンシスのホロタイプとなったのである。

 

(この時バイン・ザクではもう1体のヴェロキラプトル――AMNH 6518が採集されていた。これは上顎骨と部分的な前後肢(足はほぼ完全であった)からなっていたのだが、いかんせん頭骨要素に乏しかったためか特に記載されることもなかったのである(そもそも当初ヴェロキラプトルとは同定されていなかったようでもある)。オストロムはデイノニクスの記載にあたり、AMNH 6518の足がデイノニクスに酷似していることを述べている。)

 

 オズボーンはどういうわけか(メガロサウルス科が当時どれほど「ゴミ箱」だったかを如実に示すエピソードでもある)ヴェロキラプトルをサウロルニトイデスともども「(華奢で小型ではあるが)典型的なメガロサウルス類」の特徴をもつとし、これらをメガロサウルス科とした。同じジャドフタ層(カンパニアンのいつか;ざっくり7、8000万年前)で発見されたプロトケラトプスや「プロトケラトプスの卵」、そしてオヴィラプトルは広く注目された一方で、ヴェロキラプトルやサウロルニトイデスは特段脚光を浴びることもなかったのである。


 政治状況に翻弄されるまま1930年の調査を最後にアンドリュース隊はモンゴルから締め出され、また中国―スウェーデン隊の調査は(恐竜に関しては)いまいちぱっとしないまま終わり、そして冷戦の幕開けと共にやってきたのはソ連隊であった。アンドリュース隊の再現を目指したソ連隊の大規模調査はネメグト――アンドリュース隊のたどり着けなかった一大産地の発見で報われたわけだが、ジャドフタ層の露出域では特筆すべき発見はなかった。
 そういうわけでこの間ヴェロキラプトルに関する続報が出るはずもなく、当然大した注目を集めることもなかったのだが、1969年のデイノニクスの「発見」で事情は変わった。オストロムはデイノニクスとドロマエオサウルスそしてヴェロキラプトルがごく近縁であることを見抜き、ここに初めてドロマエオサウルス科の実態が(まだおぼろげだったのだが)示されたのである。ヴェロキラプトルはドロマエオサウルス科としては当時唯一完全な頭骨の知られているものであった(記載は古いままだったのだが)。
 デイノニクスの「発見」でドロマエオサウルス科の骨格復元が可能になったとはいえ、依然としてデイノニクスの骨格は不完全な代物であった(肩帯や腰帯のつくりがはっきりしていなかった)。とはいえ、1970年代に入りポーランド―モンゴル共同調査やソ連―モンゴル共同調査によってジャドフタ層露出域の新産地――バイン・ザクから西へ30kmほどのトゥグリキン・シレ(目のさめるような朱色のバイン・ザクとは異なり、こちらの砂岩は白みの強い黄土色である)が開拓されたことで、このあたりの知見は一気に推し進められることとなった。ヴェロキラプトルの複数の良好な頭骨や初めての全身骨格――格闘化石が発見されたのである。
 プロトケラトプスの全身骨格は別段珍しいものでもなかった(アンドリュース隊の調査ですでに完全なものが知られていた)が、1971年のポーランド―モンゴル共同調査によって発見されたそれは、小型獣脚類――ヴェロキラプトルと向かい合った状態で保存されていた。プロトケラトプスMPC-D 100/512の骨格は風化して砂に還りつつあったのだが(もともと頭骨が露出した状態で、そういうわけで頭の上半分はごっそり失われている)が、そっくり埋まったままだったヴェロキラプトルMPC-D 100/25は完全な状態であり(胴体は左右方向にかなり潰れてはいたのだが)、そしてその右前肢はプロトケラトプスの口の中にあった。クリーニングが済んでみればヴェロキラプトルシックルクローはプロトケラトプスの喉元に蹴り込まれており、これらの骨格は「格闘化石」として名を馳せるようになった。

 

(ジャドフタ層はソ連の研究者によって浅い湖に注ぐ河川成デルタ相とされており、これを受けたバルスボルドは当初「格闘化石」がもつれ合った末水中に転落・溺死した成れの果てであると考えた。今日ジャドフタ層は基本的に風成であると考えられており、「格闘化石」は砂嵐あるいは砂丘の崩壊によってほぼ瞬時に埋積されたものとされている。どういうわけかプロトケラトプスMPC-D 100/512の両前肢と左後肢は発見されなかったのだが、完全に埋積される前にスカベンジャーに前後肢をもぎとられた可能性をカーペンターは述べている。)


 MPC-D 100/25は(今なお)最も完全なヴェロキラプトルの骨格にして派生的なドロマエオサウルス類としても最も完全な骨格なのだが、結局今日に至るまで詳細な骨学的研究は行われていない(尾を欠くとはいえこれに匹敵する骨格がサウロルニトレステスで知られているが、現状では頭骨の記載に留まっている)。頭骨こそそ詳しく記載されたが、それ以外はバルスボルドによって散発的に一部が抜き出されて記載されたきりである。こうした事情もあり、ポールは乏しい写真とデイノニクスのモノグラフに基づいてヴェロキラプトルの骨格図を(それも「大まかなもの」と自ら前置きしたうえで)描き起こすほかなかった。
 1980年代当時、依然としてドロマエオサウルス科の化石はごく限られたものしか知られておらず、ましてや記載されたものはなお限られていた。まともな頭骨要素はヴェロキラプトルのほかはドロマエオサウルスとデイノニクスしか記載されておらず(つまりオストロムの研究以降、ドロマエオサウルス科の頭骨に関してはヴェロキラプトルの頭骨の追加情報のほかは実質進展がなかったのである)、そしてヴェロキラプトルの頭骨はドロマエオサウルスよりはずっとデイノニクスに似ていた。かくしてポールはデイノニクス・アンティロプスをヴェロキラプトル・アンティロプスとし、ポールの一般書――肉食恐竜事典にインスパイアされたのがクライトンだった。ここに全長4m近い「ラプトル」が生まれ、やがてスクリーンの外までを席巻するようになったのである。

上で述べた通り、ポールの描いたヴェロキラプトル・モンゴリエンシスのうち「初期バージョン」(90年代まで使っていたもの)はかなりの部分をデイノニクス・アンティロプスの情報で補っており、従ってV.モンゴリエンシスの実態とは(本人も端から認めている通り)だいぶギャップがある(一方で、D.アンティロプスの頭骨はV.モンゴリエンシスを参考にせざるを得なかったわけで、つまりどちらも初期バージョンの骨格図はちゃんぽんになっている。のちに描き直したバージョンは細部まで手が入っており、少なくとも初期バージョンよりはずっとよく実態を示している)。こうした「ちゃんぽん」が拡大された結果がジュラシックパークの「ラプトル」なわけだが、一方で80年代~90年代の「ポール以外」によるデイノニクスの復元も実態とはだいぶかけ離れたものであり(特に頭骨;オストロムによる初期の復元が当時でも主流であった)、このあたりデイノニクスやヴェロキラプトルの実態を(羽毛は抜きにしても、あれだけ化石が出ていたのにも関わらず)捉えていたのは当時誰もいなかったとさえいえるのかもしれない。)


 「格闘化石」の不甲斐なさをカバーすべく、70年ぶりにモンゴルへ「再上陸」したAMNHのチームは精力的にヴェロキラプトルの新標本の記載を行った()。が、依然として「格闘化石」を凌ぐ完全度のものはなく、そんなこんなでヴェロキラプトルの骨学的記載は(全身骨格が知られているにも関わらず)不完全なままである。ジャドフタ層とほぼ同時代とされる内モンゴルのバヤンマンダフ(バインマントフ)Bayan Mandahu層でもヴェロキラプトルらしい化石がしばしば発見されているが、これらの記載はなお乏しい。
 オストロムによるデイノニクスの「発見」は獣脚類と鳥類との形態的類似を強く示すものだったが、叉骨や骨化した胸骨、鉤状突起(デイノニクスでも発見されていたが、腹骨の一部と誤同定されていた)、そして羽軸こぶの存在と、鳥類との形態的類似をさらに強く示したのはヴェロキラプトルであった。羽毛をむしられてなお鳥に似たその恐竜は、今日もその系統的なつながりを画面の中から訴え続けている。