GET AWAY TRIKE !

恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

懐かしき東方の血

イメージ 1
↑Skeletal reconstruction of Tanius sinensis holotype PMU 24720.
Scale bar is 1m.

 あけましておめでとうございます。今年も変わらずGET AWAY TRIKE !をよろしくお願いします。
 それでは諸君、都合二回目のタニウスの記事だ、行ってみよー!



 タニウス――今時の子供向け図鑑に載っているかどうかは寡聞にして知らない――といえば、筆者の世代(?)はチンタオサウルスとセットで(タニウスそのものについてはよく知らないまま)覚えたクチであろう。山東省のハドロサウルス類といえば、奇妙なクレスト(結局特段変わったクレストではなかったらしいが、依然として大変絵になる)をもつチンタオサウルス、並みの竜脚類を上回る巨体のシャントゥンゴサウルスと図鑑でもおなじみの面子が揃っている中にあってひときわ地味オーラを醸し出している感のあるタニウスだが、その実ハドロサウルス類としては華奢なつくりの(後)頭部、すらりとした後肢や妙に高い棘突起と見どころは少なくない。中国における恐竜研究の最初期を飾る恐竜でもあるタニウスについて(最近マイナー恐竜の記事がご無沙汰だったということもある)、つらつらと書き散らかしておきたい。

 中華民国が成立してほどない1914年、北京政府の要請に応じて一人のスウェーデン人がやってきた。地質学者のJ.G.アンダーソンである。彼はお雇い外国人として鉱産顧問に着任すると中国北部~北西部で資源調査に従事することとなったが、ここで問題がひとつあった。しばしば産出する「竜骨」の同定にあたって、いち地質学者として力不足を感じていたアンダーソンは旧知のカール・ワイマン――ウプサラ大学の古生物学・地史学教授――に応援を求めたのだった。
 ウプサラ大の要職ということもあってスウェーデンを早々離れるわけにはいかなかったワイマンが応援によこしたのは、ウィーン生まれのウィーン育ち、陸軍で第一次大戦への従軍経験まであったオットー・ツダンスキーであった。北京政府が政変で混乱する中、1921年に着任したツダンスキーはアンダーソンの期待によく応え、翌1922年にはいきなり周口店で北京原人の化石(歯2本)を発見するという大金星を挙げている。
 さて、1922年にアンダーソン、ツダンスキーそして中国地質調査所から派遣された譚錫畴は山東半島で地質調査を行うことになった。ドイツの占領下にあった当時、山東半島の蒙陰県ではドイツ人採掘技師のベハゲルによって恐竜化石(現在では行方不明)が発掘されていたのである。この地で10年来活動していた宣教師のメルテンス(元々ベハゲルの化石を発見したのはメルテンスであった)の手を借り、1922年の11月に一行は寧家溝近くのベハゲルのサイトを再発見したのだった。

(余談だがこの寧家溝の住民は今日でもカトリックだという。メルテンスの蒔いた種はしっかり根付いたらしい。)

 ここで一行は二手に分かれ、ツダンスキーは1923年の3月から寧家溝で発掘を開始する一方、譚は莱陽県へと足を延ばした。ツダンスキーは寧家溝の蒙陰Mengyin層(白亜紀前期バレミアン、1億2900万~1億1300万年前)でステゴサウルス類(ウエルホサウルスに近縁らしい)の断片や見事な竜脚類の化石――のちのエウヘロプス・ツダンスキーイEuhelopus zdanskyiを発見することとなった。一方の譚が莱陽県の将軍頂で出くわしたのはボーンベッド――“トラコドン・アムーレンゼ”(のちのマンチュロサウルス)に続くアジア2例目のハドロサウルス類の部分骨格を含む――だった。
 将軍頂周辺の発掘は1923年の4月から半年をかけて行われ、エウヘロプスの採集を終えた(掘り残しも派手にあったのだが)ツダンスキーも合流することとなった。問題のボーンベッドではハドロサウルス類の部分骨格に加えていくつかの獣脚類の単離した要素(ほとんどは椎骨)や、竜脚類の胴椎、アンキロサウルス類の(おそらく)部分骨格まで産出するというにぎやかさで、さらにツダンスキーは別のサイトでもハドロサウルス類の前肢や獣脚類の断片を発見することとなったのである。

 かくして山東半島での調査は大成功に終わり、一連の化石は詳しい研究のためにウプサラ大学へと送られることになった。これらの記載にはワイマンがあたることになり、1929年に一連の山東半島の恐竜についてまとめた論文が出版された。ワイマンはこの論文の中で蒙陰層の竜脚類にヘロプス・ツダンスキーイHelopus zdanskyi、将軍頂――将軍頂Jiangjunding層(カンパニアン後期;7500万年前ごろ?)産のハドロサウルス類にタニウス・シネンシスTanius sinensisの学名を与えたのだった。献名することでツダンスキーと譚をたたえたわけである。
 ワイマンはタニウスをハドロサウルス科の“ハドロサウルス亜科”(この場合サウロロフス族は含まれない)に分類したのだが、ヒューネを皮切りに「一歩原始的」なハドロサウルス類(“プロハドロサウルス科”)とみなす意見が出るようになった。ここ10数年でタニウスはハドロサウルス科の基盤(サウロロフス亜科とランベオサウルス亜科の分岐以前)に置かれるようになり、そしてハドロサウルス科の外側(ハドロサウルス上科の「比較的」基盤的なタイプ=基盤的ハドロサウルス形類)に位置付けられるようになって今日に至っている。

 ツダンスキーのフィールドノートが帰国時にシベリア鉄道で(他の荷物もろとも?)盗まれるという不幸もあったが、ボーンベッド由来とはいえタニウスのホロタイプ(原記載ではナンバーが振られておらず、各要素ごとに異なる標本番号を与えられた末にPMU 24720に統一された)は1個体の各要素を(部分的だが)まんべんなく保存している。タニウスは今日バクトロサウルスやギルモアオサウルス、レヴネソヴィアLevnesoviaと近縁(解析によっては単一グループにまとまる)とされているが、ハドロサウルス上科の中では比較的原始的なタイプであるにもかかわらずカンパニアン後期に生息していたというつわものである(バクトロサウルスやギルモアオサウルスもそうなのだが)。
 一方で、ワイマンの記載が(オルニトミモサウルス類の恥骨ブーツを大型の座骨ブーツと誤認したりもしたとはいえ)割としっかりしていたためか、最近まで再記載がなされることはなかったのだった。
 
 脊柱の長さがはっきりしないとはいえ、タニウスがすらりとした中大型の(広義の)ハドロサウルス類であることは間違いない。頭骨は(後頭部しか見つかっていないのだが)近縁のバクトロサウルスと比べてやや華奢なつくりである。後方胴椎の棘突起はかなり高くなっており、バクトロサウルス同様(より発達している気配があるが)なんらかの背びれ状の構造があったようだ。前肢はわりあい短く華奢な一方で、後肢はハドロサウルス類としてもかなり長いタイプである。大腿骨の伸筋および屈筋の走る溝は(大腿骨の内側・外側の遠位骨頭が癒合した結果)完全なトンネル状になるという妙なつくりとなっており、あるいはこれは走行適応の結果のようなものなのかもしれない。
 将軍頂層では、ティラノサウルス類やオルニトミモサウルス類(ガリミムスのような前肢の末節骨の短いタイプらしい)、アンキロサウルス類(一時ピナコサウルス・cf.グレンジャーリとされたアンキロサウルス科を含む)といった白亜紀後期後半のおなじみのものに加え、エルケツErketuに似た(おそらく)基盤的なティタノサウルス形類、さらに(おそらく)非常に基盤的な角竜であるミクロパキケファロサウルスといった愉快なメンバーが揃っている。
 このように将軍頂層では原始的なタイプのハドロサウルス類やティタノサウルス形類が知られている一方で、同地域のやや古い(カンパニアンの半ば過ぎ)辛格庄Xingezhuang層最上部や紅土崖Hongtuya層下部では派生的なハドロサウルス類であるシャントゥンゴサウルスやティタノサウルス類(オピストコエリカウディアに近縁な可能性がある)のズケンティタンZhuchengtitanが、やや新しい(カンパニアン末)金崗口Jingangkou層ではシャントゥンゴサウルスに近縁らしいライヤンゴサウルスLaiyangosaurusが知られている。そのまた一方で金崗口層では基盤的なランベオサウルス類であるチンタオサウルスが発見されている。少なくともカンパニアンの山東では、古いタイプの生き残りと新しいタイプの恐竜が入り乱れる状況にあったようだ(このあたり、将軍頂層は温帯(ないし亜熱帯)湿潤な環境だった一方で金崗口層ではより乾燥した気候だったという話もあり、興味深いところである)。

(王氏層群の時代論については色々と問題があったが、最近になって紅土崖層中部にみられる玄武岩の年代が7290~7350万年前と推定されたことから、辛格庄層がカンパニアン前期~後期、紅土崖層がカンパニアン後期、将軍頂層がカンパニアン末~マーストリヒチアン前期、金崗口層がマーストリヒチアン前期、常旺鋪Changwanpu層がマーストリヒチアン後期とみなされていた。ところがどっこい、問題の玄武岩は実際には金崗口層のものであるという。紅土崖層では7600万年前を示す火山灰が得られているという話もあり、このあたりを総合すると、実際には辛格庄層がカンパニアン前期~中期、紅土崖層がカンパニアン後期(の前半)、将軍頂層がカンパニアン後期(の中ごろ)、金崗口層がカンパニアン末、常旺鋪層がマーストリヒチアン前期といったところであるらしい。)

 中国の恐竜研究史の最初期を飾るタニウスであるが、アジアで(少なくとも)白亜紀末近くまでそれなり繁栄していたらしい基盤的ハドロサウルス類ということもあり、依然として大きな意味を持っている。再記載は出版間近で足踏みをしているらしい(首から後ろについては修論か何かがISSN付きで出回っているのだが)が、近いうちに出版されることだろう。山東省では諸城に加えて金崗口の(再)発掘も行われており、あるいは将軍頂の再発掘も期待していいのかもしれない。
 80年近い間ウプサラ大学のガラスケースにつつましく収まっていたタニウスだが、大舞台に戻る日は近い。

(チンタオサウルスの産出した金崗口層では、チンタオサウルスのホロタイプを含むボーンベッドから産出した(少なくとも2体分の)断片に基づき“タニウス・チンカンコウエンシスTanius chingkankouensis”が、同じボーンベッドから(後に?)産出したおそらく1個体分の仙椎と腸骨に基づき“タニウス・ライヤンゲンシスTanius laiyangensis”が命名されている。“タニウス・チンカンコウエンシス”のうち、腸骨は“タニウス・ライヤンゲンシス”とよく似ているが、これはタニウス・シネンシスのそれよりも派生的なタイプ(=真正のハドロサウルス科)の形態を示している。“タニウス・チンカンコウエンシス”の残りの要素はいくらか基盤的ハドロサウルス類的な形態を示しているフシもあるのだが、かなり微妙なところである。このあたりに関して詳細な検討は現状なされていないのだが、そういうわけで金崗口層産の“タニウス”は疑問名とされることが一般的である。“タニウス・ライヤンゲンシス”についてはチンタオサウルス・スピノリヌスのシノニムとされる場合もあるし、“タニウス・チンカンコウエンシス”に関しても同様の可能性は拭えない。)