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恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

ララミディアのトロンボーン吹き

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↑Skeletal reconstructions of Laramidian parasaurolophins.
Top to bottom, Parasaurolophus tubicen based on NMMNH P-25100;
P. walkeri based on ROM 768;
P. cyrtocristatus based on FMNH P27393 and USNM 13492.
Scale bar is 1m.

 パラサウロロフスといえば、ハドロサウルス類の中でもトップクラスの有名どころであろう(断言)。非常に目を引くクレストをもち、かつ古くから知られているだけあって、日本の図鑑でも古くから見かける顔(文字通り)である。
 北米産のハドロサウルス類は1940年代までに相当数が命名された―――のだが、恐竜ルネサンスの流れを組む70年代の大改革でかなりの種がシノニムないし疑問名として姿を消した。一方でパラサウロロフスは今日まで3(+1?)種が生き延びており、今日の恐竜の属としてはわりあい賑やかである。とはいえ、模式種パラサウロロフス・ウォーカーリ以外はあまり知られていないらしいようでもあり、そういうわけで今回もお付き合い願いたい。

 1918年、ブラウンとスターンバーグ一家による(少なくとも表向き平和な)新しいボーンウォーズがアルバータで勃発したことに勢いづけられたロイヤル・オンタリオ博物館は、ウィリアム・パークス率いる調査隊をトロントから送り込んだ―――のだが、あまりにも相手が悪かった(どちらも伝説の化石ハンターである)。レッドディア川下流は散々ほじくり返されたあとであり、何も残っていないに等しい状況だったのである。手ぶらで帰るわけにいかなかったパークス隊はやむなくバッドランドの奥へ分け入るべくレッドディア川をさかのぼる羽目になった―――幸いパークス隊の苦労は報われ、ロイヤル・オンタリオ博物館(ROM)はアメリカ自然史博物館(AMNH)とカナダ自然博物館(CMN;当時はカナダ地質調査所/カナダ国立博物館(GSC/NMC))に次ぐ規模のアルバータ産恐竜化石のコレクションを手に入れたのである。これに続いてトロント大学なども調査隊を送り込み、アルバータの恐竜化石が続々とカナダの国内外へと運び出されるようになったのである。
 
 トロント大が1920年に採集した恐竜化石の中には、奇怪なクレストをもつ「トラコドン類」があった。左半身を下にして横たわっていたこの骨格ROM 768(右半身はかなり侵食されていた)は、頭から尾の付け根まで美しく関節しており(尾や膝下、座骨の遠位は浸食されて失われていた)、レヴィ・スターンバーグの監督の下、埋もれていた左半身をクリーニングして座骨と尾椎2つに石膏を少々盛り、そのままウォールマウントとして展示されることになった。1922年、復元骨格の完成とともにROM 768はパークスによってパラサウロロフス・ウォーカーリParasaurolophus walkeri―――少なくとも表面的にはサウロロフスとわりあい似ていた―――と命名され、ROMの目玉展示のひとつに収まったのである。
 発見時点でROM 768のクレストにはがっつり亀裂が走っており(いうまでもなくここでへし折れてしまった)、パークスは破断面を観察してクレスト内に4本のチューブ状の空洞が存在することに気付いた(それ以上クレストをぶっ壊すのは気が引けたパークスは、内部構造や機能についての議論はとりあえず棚上げした)。また、奇妙に曲がった胴椎の棘突起にも言及し、「(ブラウンがサウロロフスについて指摘したのと同様に)骨質のクレストに支えられた肉質のフリルが棘突起につながっていたのはほぼ疑いようがない」とした。

 一方、P.ウォーカーリの命名に先立つこと1年、スウェーデンはウプサラ大のワイマンから仕事の依頼を受け、アルバータから新天地ニューメキシコへ移っていたスターンバーグ(父)も奇怪な頭骨を発見していた。ばらけてはいたものの保存の良かったこの頭骨PMU.R1250は1931年になってワイマンによって記載され、パラサウロロフス・トゥビセンP. tubicen―――種小名は「トランペッター」の意―――となった。例によって中空のクレストに注目したワイマンは同時にそのマッシブさに驚嘆し、非常に長いクレストをもつものとして復元したのだった。
 その2年後の1923年、スターンバーグ(父)はニューメキシコでもう1体のパラサウロロフスを発見した。頭骨こそクレストと吻以外ほとんどなくなってはいたものの首から後ろはかなり完全な骨格であり、この骨格(のちのFMNH P27393)はシカゴのフィールド自然史博物館(当時はシカゴ自然史博物館名義だった)へ送られた―――のだが、なぜかそこで30年以上にわたってジャケットのまま埃をかぶることになった。これだけの骨格にも関わらず、発見されたという情報さえ出回らなかったのである。

 その後、ギルモア率いるスミソニアン隊がニューメキシコでほぼ完全な尾を含む首なしの部分骨格USNM 13492(同じ地層からそれっぽいランベオサウルス類が他に出ていないこともあり、今日でもパラサウロロフス属とみなされている)を採集したとはいえ、他にこれといったパラサウロロフスの化石は出てこないままだった。
 1960年代に入り、ハドロサウルス類のクレストについて研究を進めていたオストロムのもとへ、フィールド博物館から連絡が入った。フィールド博物館の収蔵庫でオストロムが見たものこそ、FMNH P27393であった。
 オストロムは嬉々としてこれの研究にあたり(この手の埃をかぶっていた古い化石の記載に定評のあるオストロムである)、1961年にパラサウロロフス・キルトクリスタトゥスP. cyrtocristatus(種小名は「曲がったクレスト」の意)命名した(翌々年にはモノグラフも出版している)。FMNH P27393は垂れ下がった短いクレストをもっており、成長段階や性別による差と考えられないこともなかったが、オストロムはFMNH P27393がかなり大型の個体であること(頭骨や四肢の長さはROM 768よりも長かった)から、これをひとまず種の特徴とみなしたのである(性差の可能性についても、それぞれの種で時代が異なるらしいことから否定している)。
 パラサウロロフスの化石が見つかることはその後もあまりなかったのだが、それでも1971年にユタでP.キルトクリスタトゥスのクレストが、1995年にはニューメキシコでやや潰れているものの非常に状態のよいP.トゥビセンの頭骨NMMNH P-25100が発見された。後者はCTスキャンにかけられ、クレストの内部構造を詳細に研究された。のちに、このCTデータによってパラサウロロフスの「トロンボーンのような鳴き声(リンク先ダウンロード注意)」が復元されるに至ったわけである(この時期クレストの内部構造を水生適応と絡める説がすでに顧みられなくなっていた事は言うまでもない)。
 
 最近になってユタで新たなパラサウロロフス―――全長わずか2mの幼体“Joe”ことRAM 14000(産地/層からしておそらくP.キルトクリスタトゥスであるがいかんせんクレストが未発達なのでP. sp.に留められている)が発見・記載された。これは実のところパラサウロロフス属で最も完全な骨格であり(皮膚痕もみられる)、多少風化はしているものの完全な頭骨(ケラチンのくちばしさえ保存されている)が残されていた。これによってパラサウロロフスの成長に伴う形態変化―――たとえば特徴的なクレストの形成過程―――の一端が明らかになるとともに、「幼体の鳴き声」の復元までおこなわれたのである。
 
 かくして、依然として標本は少ないものの、パラサウロロフスはよく研究されて今日まで至っている。既知の種について産出層や生息時代/年代についてまとめてみると、模式種たるP.ワルケリがアルバータダイナソー・パークDinosaur Park層下部(カンパニアン中期;7700万~7670万年前ごろ)、P.キルトクリスタトゥスがニューメキシコのフルートランドFruitland層フォッシル・フォレストFossil Forest部層上部and/orカートランドKirtland層下部ハンター・ウォッシュHunter Wash部層下部(カンパニアン後期;7450万年前ごろ)およびユタのカイパロウィッツKaiparowits層(カンパニアン後期;7640万~7550万年前ごろのいつか)、P.トゥビセンがカートランド層のデ・ナ・ジンDe-na-zin部層(カンパニアン後期;7320万年前ごろ)となっており、(標本数が少ないという根本的な問題があるとはいえ)わりと時代ではっきり分けられそうなのがポイントである。一方でP.キルトクリスタトゥスはP.ワルケリより基盤的な種とみなされており、(少なくとも見かけの)生息時期の違いは興味深いところである。
 
 カンパニアンの中ごろから終わりにかけてララミディアの南北で栄えた“トロンボーン吹き”の一団は、マーストリヒチアンの初めには姿を消してしまったらしい(いわゆる“ヘル・クリークのパラサウロロフス”はまた別の問題である)。その一方、アジアへと渡っていった一団は少なくともマーストリヒチアンの中ごろまで栄えたらしいのだが、その話は次の記事に譲りたいと思う。

◆追記◆
ユタ自然史博物館がP.キルトクリスタトゥスの頭骨と思しき完全な頭骨を研究中のようだ。所蔵先からしてカイパロウィッツ層産の標本なのだろう。