GET AWAY TRIKE !

恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

脆すぎた呪縛

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Carpenter (2018)より、マラアプニサウルス(A)、レバッキサウルス(B)、ヒストリアサウルス(C)の胴椎(後面)の比較。スケールは50cm。

 恐竜の分類が分類の体をなしていないという話(1属1種が多すぎる)はしばしばなされることで、実際問題として属名を出されたときに模式種以外の種をぱっと思い浮かべる属というのは少ないものである。そうした状況の中で数少ない例外のひとつがアンフィコエリアス――「最大の恐竜」として名高い一方標本が行方不明となっていることも相まって伝説的な存在となったA.フラギリムスである。アンフィコエリアスと聞いた時に模式種A.アルトゥスを先に思いつくという人は、たぶん専門家の相談を受けた方がいい。

 アンフィコエリアス・フラギリムスの模式標本AMNH 5777(AMNHのナンバーが付いているのだが、この標本がAMNHの門をくぐったかどうかさえ定かではない)といえば、「コープの図を信用する限り」極めて巨大な竜脚類の胴椎の神経弓ただひとつである。これはコープに曰く「神経弓だけで」高さ1500m(これはmmの誤記のようにも思われるのだが、実のところこの当時「M」をメートル、「m」をミリメートルの略記として用いることがしばしばあったらしい。コープは「M」と「m」を明確に使い分けているフシがあり、従って「1500mm」は最近指摘されたように「1050mm」の誤記というわけではなく、実際に「1500mm」を示している可能性が高いようだ。)に達する代物で、コープによって新種とされた一方、一時はもっぱらA.アルトゥスの極端な大型個体とみなされていた。
 さて、アンフィコエリアス属のうちA.アルトゥスは系統解析にしばしばぶち込まれ、最近では一般にディプロドクス科の最基盤(ディプロドクス亜科とアパトサウルス亜科の分岐する前の段階)に置かれている。従ってA.フラギリムスの全長の推定はざっくりディプロドクスに準拠していたのだが(A.アルトゥスの見てくれはアパトサウルスのようにがっしりしたタイプではない)、一方で一部(のアマチュア)からは、A.フラギリムスをレバッキサウルス類とみなす声も上がっていた。

(そもそも原記載の時点において、A.フラギリムスをアンフィコエリアス属たらしめる強い根拠は何もなかった。当時胴椎の形態のはっきりしていた竜脚類はカマラサウルスとアンフィコエリアスくらいであり、単にコープが参照できるものが限られていただけの話だったのである。)

 このあたりの問題に真正面から突っ込んでいったのは、例によってA.フラギリムスの虜になっているカーペンターであった(メガ恐竜展で来日した模型もカーペンターの復元に基づいたものである)。いかんせん残された(ぱっとしない)コープのスケッチ頼りであったが、確かにそこからはレバッキサウルス類の特徴――A.アルトゥスにはみられない――が認められた。
 かくしてA.フラギリムスとA.アルトゥスを結び付けていたもの(実際には端から存在しなかったとさえ言えるわけだが)は崩れ去り、ここにマラアプニサウルス・フラギリムスMaraapunisaurus fragillimus――属名の前半は「巨大」を意味する南部ユテ族の言葉――が生まれることとなった。58mとも言われた(“セイスモサウルス”の全長について最初にまともな推定値を導き出したポールでさえ40~60mという訳の分からない数字を書くほかなかった)推定全長はつまるところアンフィコエリアス属がディプロドクス型の動物だったという前提に基づいていたわけで、リマイサウルスにぶち込んではじき出されたマラアプニサウルスの推定全長は30m~32mと、ずいぶんと(依然として巨大だが)現実的な数値が出てきたのである。

 ここに最大最古のレバッキサウルス類として生まれ変わったマラアプニサウルスだが、依然としてホロタイプは――AMNH 5777は行方不明(というよりこの世に残っていないのがほぼ確実である)のままである。アンフィコエリアス・フラギリムスの呪縛は、アンフィコエリアス・フラギリムスが崩れ去ってなお、ひょっとすると未来永劫あり続けるのだ。

太陽に身を焦がす

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 「化石の日」である。こと日本においては今年が初めての試みではあるのだが、一応筆者も学界を追放されたわけではない(ちゃんと学会費は払っている)ので、便乗してもたぶん怒られることはないだろう。言うまでもなく自☆演☆乙なわけだが、そういうわけで(論文がwebに出てからしばらく経つのだが――冊子体になったのはつい先日の話である)お付き合い願いたい。
 
 上部白亜系はややもすれば意外なほど日本各地に点在しているのだが、そうはいってもたいがい露出は貧弱で、一般(相変わらず謎のフレーズである)の知名度は皆無に等しいものも少なくない。そういう意味で那珂湊層群は数少ない関東地方の上部白亜系として、地元――茨城県ひたちなか市では多少の――「白亜紀層」――として知名度を得ていた(かつてここには「白亜紀荘(国民宿舎)」があり、今日そこは「ホテルニュー白亜紀(市営)」(ネーミングに若干のいかがわしさを感じるが、何ということはない普通の観光ホテルである)となっている)。
 那珂川の河口を挟んで南北10kmあまり、南は大洗港から北は磯崎漁港(ここ数年で妙に知名度の上がったひたち海浜公園(もともと陸軍の飛行場→わりかし最近までアメリカ空軍の悪名高き射爆場であった)は目と鼻の先である)までには、関東では珍しく岩礁地帯が続いている。この岩礁地帯(ともう少し陸側)は妙にややこしい地質からなり(付加体のそれとは比べ物にならないが)、それがそのまま研究史となっている。そしてそのもっとも北側――4kmあまりの岩礁をなすのが那珂湊層群――カンパニアン後期~マーストリヒチアン前期(ざっと7500万~7000万年前あたりだろう)の海成層であった。
 
 日本における地質学や古生物学の歴史が明治時代までさかのぼれるのは言うまでもないことで、大洗~磯崎まで続く岩礁地帯(いちいち書くのも面倒なので以下那珂湊-大洗海岸とよぶ)の地質学研究のはじまりも明治の中ごろ――1888年(ボーンウォーズ真っただ中の頃である)までさかのぼることができる。これは水戸周辺の地質図(20万分の1)だったのだが、この中で那珂湊-大洗海岸岩礁地帯はすべて第三系とされた。その後の研究でも(双葉に上部白亜系――双葉層群が認識される一方で)この一帯の地層は第三系とされ続けたのである。
 
(実のところ1926年に作成された20万分の1の地質図では那珂湊-大洗海岸のうち那珂湊海岸の岩礁地帯が下部白亜系とされたりもしたのだが、いかんせんこの地質図は説明書を欠いた作りで、かつ印刷された数もわずかだったため特に顧みられることはなかったらしい。今となっては根拠は完全に謎なのだが、どうも地層の固結度あたりに基づいていたフシがある。)
 
 そんなこんなで戦後もこの一帯――まとめて湊層とよばれていた――は鮮新統とされていたのだが、実のところ露頭をよく観察してやるとそう単純な話ではなさそうであった。鮮新統とされていたものの「拾える」貝化石はどれも中新世のもののようであったし、走向・傾斜からしてこの「湊層」のうちの上部(那珂湊海岸に露出するもの)の下部(つまり湊層上部の下部)の方が湊層上部の上部よりも上位に来そうだったのである。
 こうして色々と揺さぶりがかかっていた中、1954年5月16日に事態は急変した。一人の学生が「湊層上部の上部」から2つのアンモナイト――ディディモセラスに似たフックの雌型と、バキュリテスを見出したのである。
 このわずか2つ――前者(雌型とはいえ妙に保存がよい)はともかく後者の保存状態は悲惨だった――の化石が那珂湊-大洗海岸の地質を文字通りひっくり返すことになった。「湊層の下部」が上部白亜系大洗層に、「湊層上部の上部」が上部白亜系那珂湊層(のち層群に格上げ)に、そして「湊層上部の下部」が中新統殿山層となったのである。
 
(この地から初めてアンモナイトの化石を見出した学生は、そのまま大量の化石を採集(彼の調査ののち、これほど大量の化石がまとまって採れたことはとうとうなかった)するとともに一帯の地質を卒論としてまとめ上げた。その後研究者となることはなかったが、教員として茨城県の地学教育普及に力を尽くしたという。)
 
 大洗植物群の研究も含め、このあたりの地質と化石に関する研究は1960年代でひと段落付くことになった。岩礁地帯に露出していたノジュールはあらかた採り尽くされ、それなりの数の軟体動物化石――ほとんどが異常巻アンモナイト――が採集されたのである(イノセラムスさえロクに出ず、そしてどういうわけか通常巻アンモナイトは産出しなかった)。
 異常巻アンモナイトもいくらかはバキュリテスだったが、ほかはほとんどディディモセラス属――D.アワジエンゼであった。他に2標本が新種――D.ナカミナトエンゼとされ、他のいくつかの新種(たとえばブンブクウニ類――ニポナスター・ナカミナトエンシス)とともに「ご当地化石」の座に収まった。
 
 やがて大洗層が白亜系から外され(どうも古第三系の気があるが、現状謎のままである)、那珂湊層は那珂湊層群に格上げされた(同時に部層が層へと格上げされ、下から順に築港層、平磯層、磯合層となった。築港層の露頭は今日完全に失われているのだが(ちょうど県立海洋高校のあたりである)、そもそも磯合層の“切れ端”に過ぎない可能性さえある)。80年代に入り、北海道――蝦夷層群に留まらず四国や淡路島、和泉山地――和泉層群における同時代層のアンモナイトが続々と(再)記載された――が、那珂湊層群は特段顧みられることはなかった。多様というわけでもなかったし、基本的に出てくる異常巻アンモナイトは淡路島のものと変わり映えしなかったのである(保存もよくなかったし、そして何より地層としての規模がごく小さかった)。層序学的および堆積学的研究がぽつぽつと行われる一方で、蝦夷層群や和泉層群を横目に古生物学的研究の進展はほとんどなかった。
 状況が変わり始めたのは90年代に入ってからで、堆積相解析の概念を導入した再検討が(卒論ではあったが)おこなわれた。堆積学的な研究が中心であったとはいえ、通常巻アンモナイトの破片とともに久方ぶりのみごとなディディモセラスの化石――GIUM 5001――が採集された(そしてその「雌型」は現地に残された;どうもこいつは新種くさいのだが、螺塔がきれいに失われており、また付近の層準からひとかけらたりとも参照できそうな化石が産出していないこともあってsp.止まりが無難なところである)。
 
 それからの20年で少しずつ化石は増え(茨城県自然博物館が開館したのも大きかった)、中には那珂湊層群ではまだ報告されていなかったタイプのもの――クリップ状に巻くもの――ものも少なからず含まれていた。それまでアオザメ属の歯がただ一本発見されているだけだった脊椎動物化石についても翼竜の肩甲骨スッポン類の上腕骨やモササウルス類の尾椎が発見されるなど、着実に標本は増えつつあり、また(いかんせん狭いわりに開けて見通しの利く場所であり、産出地点はピンポイントで柱状図に落とし込むことができた)生層序的なデータの素も集まりつつあった。また、平磯層産の微化石の研究もおこなわれるようになった。
 この頃になると、日本各地の上部白亜系で層序やらなんやらの再検討が続々と出版されるようになっていた。お膳立てはすべて整っていたのである。
 
 役者がそろったのは2014年になってからで、GIUM 5001の雌型の「再」発見に始まり、那珂湊層群産の異常巻アンモナイトと各地の同時代層――和泉層群や蝦夷層群産の標本との比較がおこなわれるようになった。同時に、溜まりに溜まった産地データは柱状図に叩き込まれ、1900mあまりに渡って途切れずに見える岩相の変化(すなわち堆積環境の変化である)と産出種の変遷が明るみに出た(意外なことに、先行研究で試みられたことはなかったのである)。
 先行研究でそれとなく指摘されていたことではあるのだが、かくして、海底扇状地の下部(平磯層下部)から中部~上部(平磯層上部~磯合層)へと堆積環境は移り変わり、そしてそれと合わせるように大型化石もディディモセラス主体からバキュリテス主体(そもそも平磯層下部とそれより上とでは化石の産出頻度が比べ物にならないのだが)へと移り変わっていくことが明白となった。平磯層の下部と磯合層とでは明らかに別の時代――カンパニアン後期とマーストリヒチアン前期――を示す化石が産出しており、そしてそれらは淡路島と北海道――堆積環境の違いから、(時代が被っているのは明らかであったにも関わらず)直接対比の困難だった一大産地を結び合わせるものでもあった。平磯層下部ではディディモセラス・アワジエンゼ――那珂湊層群のほか四国と淡路島の和泉層群で多産する一方、北海道では未だ出る出る詐欺状態の種――が多産する一方、磯合層上部では「トゲの長い大型ノストセラス」――那珂湊層群で最初に発見されたアンモナイトの片割れ――や“イノセラムス”・クシロエンシスといった、目下北海道(“I.”クシロエンシスはサハリンやらでも出るのだが)でのみ知られているものと同様のものが産出していたのである。
 
 那珂湊層群からこの60年あまりで出てきた異常巻アンモナイトはいずれも殻のどこかしらを派手に欠いていたが、それでもいくつか淡路島や北海道のものに匹敵する(殻表面の保存やらに関していえばむしろ上回っているものもある)保存状態のものもあった。ディディモセラス・アワジエンゼの中には殻口が完全に保存されているものもあったし、ディプロモセラス(もろもろの理由でsp.だが、北西太平洋地域のものをひっくるめて究極的には新しい種小名が必要かもしれない)の中には――ものがものだけにポリプチコセラス属にされかけていた――成長中期の4本のシャフトが揃ったままのものさえあったのである。

(ディプロモセラスは世界中で産出し、日本でも中部カンパニアン以上でわりあいよく出るが、カンパニアン後期の後半――ディディモセラス・アワジエンゼと同じ層準から出てきたケースはそれまで未報告であった。また、シャフトが化石化の過程でばらけることがよく知られており(成長後期の殻が2本つながっていればいい方である)、成長中期の殻が4本まとまって出てくるケースは極めて稀である。こうした事情から、その辺でみかけるディプロモセラスの復元図は成長初期~中期の殻を文字通り端折られていたりする。)

 この60年で海岸沿いの風景は激変し、ディディモセラス・ナカミナトエンゼもD.アワジエンゼのシノニムとなったが、それでも岩礁地帯は、そして海は――7500万年前から――変わらずそこにある。どうにか連綿と“バトン”として受け継がれてきた標本たちは今日も新たな研究者の訪れを待っており、そして潮が引くたび那珂湊層群の化石は――筆者の見つけ損ねたものたちは細粒タービダイトの波食台の上で、太陽に身を焦がしている。

シロワニ属の歯や“ヒタチナカリュウ”として知られるニクトサウルス類の肩甲骨巨大スッポン類の上腕骨、モササウルス類の尾椎、そして推定甲長80cmに達する巨大なスッポン類の背甲の産出した層準は、どうもマーストリヒチアン初頭――淡路島のランベオサウルス類やカムイサウルスと同時代に相当するようだ。もし――もしも恐竜が出てくるとすれば、たぶんこの層準を置いて他にない。)
 

ラストエンデミズム【ブログ開設5周年記念記事】

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↑Skeletal reconstruction of Dryptosaurus aquilunguis,
the best-known late Maastrichtian dinosaur in "old" Appalachia,
based on holotype
and Triceratops horridus, typical chasmosaurine
in mid-late Maastrichtian "old" Laramidia, based on SDSM 2760.
Scale bar is 1m.

 5周年である。我ながら5年もよくやったと思うところでもあるのだが、言うまでもなく取り上げていないネタは数知れず、そういうわけで当分飽きは来そうもない。

 さて、アパラチア(そしてそれと対をなすララミディア)といえば本ブログではこれまで散々取り上げてきたわけだが、ここに書くまでもなく恐竜相(というか陸上生物相全般)の理解はあまり進んでいない(ララミー変動による育ち盛りのロッキー山脈を後背地に抱えたララミディアと比較するのが間違いといえばそうでもあろうが)。ここ数年ブラウンスタインによって(いささか小出しにしすぎているきらいがあるのだが)獣脚類の再評価が進められているのだが、アパラチオサウルスのホロタイプ以降、部分骨格が見つかる気配は一向にないのが現状である。断片に基づくトピックはいくらかあったが、正直なところ何とも言えない話止まりではある。
 一方鳥盤類に目を向ければ、久方ぶりの(そしてアパラチアでは空前(目下)絶後の)まともな新発見――エオトラコドンの記載は記憶に新しい。アパラチア産の頭骨付きハドロサウルス類といえば実質的にそれまでロフォロトンのホロタイプ1例しか知られていなかったわけだが、エオトラコドンのホロタイプはララミディア産の最良クラスに匹敵するほぼ完全な頭骨を残していたのである。
 そしてもうひとつ、標本はわずか1本の歯に過ぎないが、これまでの(少なくとも一般(何)的な)認識をひっくり返す話題が一昨年にあったのは記憶に新しい。二重歯根――ケラトプス上科の特徴である――をもつ角竜の歯が、ミシシッピ州の最上部白亜系オウル・クリークOwl Creek層で産出したのである。

 その標本MMNS VP-7969――見てくれはその辺で1本4、5万円で売られているトリケラトプスの歯の最高級品と変わりない――が産出したのはミシシッピ州はユニオン郡を流れる川のほとり、それも最近その辺に溜まったちょっとした泥の中からであった。この川(詳細な産地情報は産地保護の観点からか、一般には公開されていない)に沿って更新統と古第三系(ダニアン)のクレイトンClayton層、そして上部白亜系(マーストリヒチアン)のオウル・クリーク層とリプレイRipley層のチワパChiwapa砂岩部層が露出しているのだが、様々な状況証拠――特筆すべきことに、蟹やらモササウルス(ホフマニとされている)やらなんやらと共に、名実ともに最後のアンモナイトのひとつであるディスコスカファイテス・アイリスDiscoscaphites irisが同じ吹き溜まりから共産した――からして、この歯がオウル・クリーク層上部――マーストリヒチアンの中頃以降に由来することはほぼ確実であった。

 オウル・クリーク層(やその下のリプレイ層)はミシシッピ湾入――ララミディアとアパラチアを分かつ西部内陸海路(WIS)の南端近くに口を開けた巨大な湾――の南西部を構成しており、つまりこの場所はアパラチア南端近くの海だったことになる。MMNS VP-7969にみられる摩耗はわずかであり(歯根が残っていた――遊離歯ではないことを差し引いても)、すぐ近辺からやってきた角竜のようである。――白亜紀最後のほんの数百万年の間に、アパラチアにケラトプス科角竜が侵入していたのである。
 マーストリヒチアン後期にWISが閉鎖された(一方でモンタナ-南北ダコタ近辺に白亜紀のほぼ末までWISの名残の海があったのも確実なのだが)可能性については色々な観点から度々指摘されていたことではあったのだが、いかんせんアパラチアの陸上生物相の保存の悪さもあっていささか決定打を欠いていた。歯一本だけとはいえMMNS VP-7969はまぎれもないケラトプス科角竜――他にはララミディアと山東省そして(おそらく)日本(下甑島)でしか知られていない――であり、そしてそれがララミディアから(マーストリヒチアンの半ば以降に)渡ってきたのもほぼ確実である。

 右歯骨歯1本だけではケラトプス科角竜であること以上の同定はどうやっても不可能なのだが、言うまでもなく当時の(旧)ララミディア側の状況はMMNS VP-7969の正体のヒントになる(ヒント止まりだが)。マーストリヒチアンの中ごろ(ここではざっと6900万年前にしておこう)のララミディア南部の角竜といえば、“トロサウルス”・ユタエンシス“オホケラトプス”・ファウラーリ(要はどちらもトリケラトプス族である)あたりが挙げられるが、どちらも内陸部の住人である。
 もう少し目を北に向けてやると、海岸平野で形成されたとされるララミー層ではトリケラトプス・ホリドゥス(のうち最古のもの)とトロサウルス属と思しき謎の部分骨格が産出している。両者は後のヘル・クリーク層(これも基本的に海岸平野で形成された地層である)でも産出しており、トリケラトプス族の中でも比較的海辺が好きな部類なのかもしれない。
 このあたりは言うまでもなく妄想止まりの話であり、結局のところアパラチア側でそれなりの頭骨要素(何度も書くがMMNS VP-7969は遊離歯ではないわけで、本来近くに歯骨があったことを示唆している)が見つからなければどうしようもない話である。とはいえ、もろもろの間接証拠からするとMMNS VP-7969はトリケラトプス族に属しているようで(現状の化石証拠からすると、マーストリヒチアンの中ごろまでに非トリケラトプス族ケラトプス科は絶滅しているようである)、ひょっとするとトリケラトプス属かトロサウルス属の可能性さえあるのだ。

 散々書いて書きすぎることはないが、結局のところアパラチアの陸上生物相はわかっていないことがあまりにも多い。とはいえ、MMNS VP-7969の発見で、マーストリヒチアンの半ば過ぎには少なくとも旧アパラチア側の南部までケラトプス科角竜が進出していたことが明らかとなった。
 この時期のアパラチア側の恐竜相が多少なりとも明らかになっているのははるか彼方のニュージャージーはネーヴシンク層とニューエジプト層だけである。もっとも、アパラチアはララミディア側と比べて全体的に平坦であり、目立った障壁になる地形は特になさそうでもある。ララミディアの南北で恐竜相が明確に分かれていたとする意見はだいぶ勢いを失いつつあるのだが、それをさておいてもアパラチアの恐竜相が各地で割と均一だったというのは(現状化石証拠も何もないのだが)割とありそうな話でもある。

 はるばるミシシッピ湾入まで旅した角竜――初期のトリケラトプス・ホリドゥスの可能性さえある――はそこで何を見たのだろう。あるいはそこにいたのは大人になってもティラノサウルスの亜成体めいた姿の獣脚類――ドリプトサウルスだったのかもしれない。

【開設5周年記念特別寄稿】板橋の若武者

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↑Skeletal reconstruction of Triceratops horridus
in Itabashi Science and Education Museum.
Scale bar is 1m.

 このブログの読者の方々には言うまでもないことだろうが、現在日本の博物館で見られる恐竜の骨格の多くはレプリカが大半である(実物化石を用いた展示も数多くあるのだが)。恐竜の実物化石が見られる施設というのは、今なお貴重であろう。その実物化石が見られる博物館の一つが、板橋区立教育科学館である。
 
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 ここでは1階ホールに、トリケラトプスの頭骨の実物化石(ただし、アーティファクトと思しき箇所がいくつか存在する)とエドモントサウルス(※)の右後肢の骨格(中足骨から下はレプリカの可能性あり)がポツンと展示されている。国立科学博物館とは異なり全身が展示されているわけではないが、このトリケラトプスの頭骨については、他に類を見ないレベルで保存状態が良好である。
 特に正面から見た時のアングルに注目していただきたい。地層の圧力による変形をほとんど受けてない、良好な保存状態である。全身骨格こそ見られないが、すばらしい保存状態の頭骨をここで見ることができるのだ。
 
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 ではここで、この頭骨化石の来歴について振り返ってみよう。
 この頭骨化石の起源は、アメリカ合衆国ワイオミング州のランス・クリーク累層から1980年代にWestern Paleontological Laboratories(以下WPLと表記) によって発掘されたところまで遡る。少なくとも1991年までにプレパレーションが完了した。頭骨化石のフリル裏面には、プレパレーションを担当した(今となっては大御所の)WPLの方々の名前が書かれた金属パネルが取り付けられている。とりわけ、Ronald G.Mjos(ヘスペロサウルスの種小名にもその名前がついている)の名前が一番上に記されている辺り、この頭骨化石の歴史の重みが感じられるだろう。この金属パネルは今も板橋区立教育科学館で見ることができるので、同館に来館した際は是非確かめていただきたい部分である。
 
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 その後、日本の一企業である学研が大枚をはたいてエドモントサウルスの骨格と共に購入した。これは1990年に大恐竜博を開催したことがきっかけとなったそうだ。
 そして購入された頭骨化石は学研の関わった恐竜展で使用されるようになり、日本全国を旅することになった。残念ながらどの地域のどのような恐竜展において使用されたかはほとんど不明であるが、少なくとも1993年には大阪で開催された恐竜展「DINO ALIVE」において展示されたことが判明している。
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 しかしながら、1990年代後半から2006年まで(所沢市にあるらしい)学研の倉庫において、頭骨化石はほかの教材と共に長い間眠りに就くこととなった。噂によれば、この当時の学研は自らの手で博物館を建造する予定もあり、恐竜化石もその一環として購入されたものだったのだが、同社が当時業績不振で余裕がなかったことでそれは叶わず、恐竜化石も一度は封印を余儀なくされたという。
 しかし、転機は2007年に訪れた。板橋区立教育科学館が学研の指定管理社になったことがきっかけで、エドモントサウルスの骨格ともども同館の常設展示へとデビューしたのだ(その当時の運搬の様子が大人の科学編集部のブログに掲載されている)。当時は非常に話題となったのか、産経新聞にも記事が掲載された

 このトリケラトプス頭骨の骨学的特徴であるが、骨どうしが癒合しきってない点や角の長さと角度を鑑みるに(角についてはHorner&Goodwin,2006を参照のこと)、おそらく亜成体の骨格であると考えられる(ちなみにフリルの突起は後から継ぎ足された所謂「アーティファクト」であり、この標本の成長段階を調べるにあたっては参考にならない)。
 化石化する際に失われたものなのか、もしくは生きている時に折れたものなのか、それは不明である。ちなみに上述の写真のように、1993年の展示に使用された時には(いかにも継ぎ足されたような)右角が存在していたが、現在展示されている標本は右角が欠けたままとなっている。
 角はなぜ折れたのか? 折れた角の先端はどこへ消えたのか? それは永遠の謎である。
 
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 2018年10月現在、この頭骨化石を所有しているのは、板橋区立教育科学館ではなく、学研という一企業である。当然のことではあるが、骨学的な記載や研究がなされたことはこれまで一度もない。この頭骨化石は国内におけるトリケラトプスの標本としては非常に貴重なものであり、今後の研究にも大きく貢献できる可能性がある。まさに至宝なのだ。
 残念ながら筆者が同館に在籍していた当時は、展示解説パネルを更新することが関の山であった。だが、今後もし研究者のメスが入れば、新たな知見や発見があるかもしれない。その時、この若武者についてどんなことが分かるのだろうか。今後の動向に注目したい。

 この若きトリケラトプスの頭骨は、6600万年以上の眠りから目を覚まし、故郷から遠く離れた日本の科学館へと長い旅をしてきた。そして今は、板橋区立教育科学館のホールで静かに子ども達を見守っている。
 この記事をご覧になった方が、板橋区立教育科学館へと足を運び、このトリケラトプスの実物化石を見てもらえれば、筆者としてはこれ以上に嬉しいことはない。


(文責:ラクティア)
なお、本文における写真は、すべて筆者(ラクティア)が撮影したものである。


※なお、「エドモントサウルス属の一種」として展示されている同館の右脚骨格だが、実のところ右脚だけでハドロサウルス類の厳密な同定ができるはずもなく、本来は「ハドロサウルス類の一種」と表記するほうが適切ではある。しかしながら、館の来客層を考えた場合、「ハドロサウルス類の一種」としてしまうと混乱が生じやすくなるため、ここでは今なお「エドモントサウルス属の一種」として展示されている。ちなみにこの化石標本については、別個体の骨格を混ぜたコンポジットである可能性が高い。また、産地はアメリカ産ということ以外は一切不明である。


参考文献・HP
日立ディノベンチャー’90 大恐竜博ガイドブック (大恐竜博’90 Official Guide Book) (1990)(発行:株式会社学習研究社
DINO ALIVE ディノアライブオフィシャルガイドブック(1993)(発行:ディノ・アライブ実行委員会)
大恐竜博 Official Guide Book(1995)(発行:㈱東京放送(TBS)) 


 というわけで、う゛ぃじねすも含めGET AWAY TRIKE !とも縁の深いラクティアさんにブログ開設5周年を記念して寄稿していただきました。色々と楽しいう゛ぃじねすをさせていただいたわけで、板橋区立教育科学館は一度覗いてみるのもよいかと思います(通好みの標本がちょこちょこあります)。
 この手のひとつの標本を追いかける(いささかいかがわしい――だいたい筆者がいかがわしいタイプの人間であることは言うまでもない)記事が最近ご無沙汰なので、いずれまた適当なネタで書いてやりたいところ。。。

気が付けば

 ちょっとした思い付きとあてどもなく描き溜めていたポールやフォードのまねごとの流用でブログを立ち上げてから、早5年が経ちました。ちょっとした思い付きにしては長続きしたわけで、これからも気ままに気まぐれに書き散らかしていきたいところです。

 一昨年あたりから適当に蒔いていた種はこの1年で一気に(まだ芽吹いてないけど)根を張ったようで、これからの1年は(そして願わくばその先も)色々と危ない年になりそうです。
 このあたりの下心がブログ立ち上げの原動力の一つになったことには違いないのですが、とはいえ人の縁がなければ何もならなかったことで、この5年間の幸運な全ての出会いに感謝を。らえらぷすの名にかけて、現在進行形の悪だくみは最も邪悪な形で結実させてみせましょう。
 最後に、「こんなところ」にいい加減お付き合いいただいてる皆様に感謝を。俺たちの本当の戦いはこれからだ!

新しい風

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↑Skeletal reconstruction of Neovenator salerii holotype
(MIWG 6348 and NHMUK 10001).
Scale bar is 1m.

 ネオヴェナトルといえば、筆者(94年生まれ)が子供の頃に出た図鑑で「最近見つかった新種」の代表格だった覚えがある。曲者かつ古参ぞろい(最近新属が設けられたものもそれなりにはあるが、たいがい原記載は19世紀だったりするものが多い)のイギリス産恐竜のなかでは1996年命名と新しく、バリオニクスをしのぐ完全度、正統派のカルノサウルス類の風格もあいまって、早いうちからそれなりの知名度(何)をもっていたわけである。
 そうは言っても、ネオヴェナトルの研究が順風満帆に進んだわけではない。ネオヴェナトルのホロタイプの発見は命名の20年近く前――1978年までさかのぼる。

 ワイト島がイギリスの一大リゾート地であるとともに古くから――バックランドの時代から恐竜化石のよく知られた産地であることは今さら書くまでもないだろう。ワイト島をそのまま形作る下部白亜系ウィールデンWealden層群は、“イグアノドン・マンテリ”(この場合今日のマンテリサウルス・アザーフィールデンシスを指す)のかなり完全な骨格を始め、グレートブリテン島のそれよりも良好な化石をよく産出することでも知られていた。
 1978年のある夏の日(前夜は嵐だった)、バカンスに来ていた一家が海辺の崖とその真下の浜からいくつかの化石がのぞいているのに気が付いた。一家はその辺の農家からスコップやらを借りて泥縄式の発掘を始め、浜辺に埋もれていた化石――崖から洗い出されたもの――を掘り起こしたのである。それからの数週間、近辺の地質調査をしていた学生によって浜辺に埋もれていた化石がさらに掘り出されたのであった。

 結局これらの化石――明らかに崖から洗い出されて浜辺に再堆積したものだった――のほぼ全てが大英自然史博物館へ渡り、そしてそこでチャリグの面通しを受けることになった。チャリグはそれらに2つの恐竜――鳥脚類(マンテリサウルスだった)と獣脚類が混在していることを見抜いたが、きゃしゃ型のイグアノドン類はワイト島では珍しいものではなかったし、獣脚類にしてもあまりに断片的であった。いくらかの椎骨と砕けた腰帯だけだったのである。
 80年代前半にクリーニングされたこれらの化石は大英自然史博物館のナンバーを与えられたのち、一部を残して1987年にワイト島地質博物館へと移管された。そしてこれに先んずること数年、ワイト島地質博物館はマンテリサウルス目当てに問題の崖の本格的な発掘――“残り”がそこにあるのは確実だった――を再訪していたのである。

 この80年代半ばの調査の結果は意外なものとなった。マンテリサウルスの部分骨格が期待通り産出した一方で、その隣から獣脚類のまとまった骨格が姿を現したのである。アマチュア化石採集家を動員した調査やその後の派手ながけ崩れやらでこのサイトからはさらに獣脚類の要素が採集され、いつしかこの獣脚類――ワイト島地質博物館に移管されず大英博物館にそのまま残った要素も含め、全て同じ個体に属すると考えられた――は、中大型獣脚類としてはイギリスはおろかヨーロッパ全体を見渡しても最良クラスの骨格のひとつとなっていた。
 かくして、最初の発見から10年を経て、この獣脚類の研究がようやく本格的に始まることとなった。妙に大きな外鼻孔をもっていたことや要素の誤同定(座骨のブーツを恥骨のブーツと誤認した)もあり当初この獣脚類はメガロサウルス類と考えられたが(90年代に突入していたこの時期でさえまだメガロサウルス類の実態は不明確でもあった)、結局ヨーロッパ初の確実なアロサウルス上科との触れ込みで1996年にネオヴェナトル・サレリイNeovenator salerii命名されたのであった。

(原記載の出版された翌年になって、またしても砂浜からホロタイプと同一個体に属する尾椎が発見された。1998年のクリスマスには後肢が新たに発見され、そして2001年に趾骨が砂浜で採集されたのを最後に、ようやくネオヴェナトルのホロタイプの要素は「枯渇」した。とはいえ、砂浜のどこかにまだちょっとした残りが埋もれている可能性は十二分にある。)

 頭骨後半部と前肢をそっくり欠いていたとはいえ、(波に洗われすぎて訳の分からなくなったいくつかの要素を除けば)保存状態は抜群によく、完全度にしてもバリオニクスを遥かに凌ぐものであった。復元骨格を制作しない理由はなく、ホロタイプはそのままワイト島地質博物館の目玉として組み上げられた。
 こうしてワイト島の顔におさまった一方で、ネオヴェナトルの研究は必ずしも積極的に出版されたわけではなかった。原記載はかなり簡潔な記載に留まっており、その後詳細な研究がハットの修士論文としてまとめられたものの、(獣脚類屋の間では広く出回ったとはいえ)これが出版されることはなかったのである。
 とはいえこうした状況を放置しておくわけにもいかず(何といってもヨーロッパの中大型獣脚類としては抜群の完全度・保存状態であったし、白亜紀前期のものとしても非常に重要な存在であった)、隙を見てマウントはいったん解体された。ハットの修論以来10年で劇的に進んだ獣脚類の研究を踏まえ、2008年に待望のネオヴェナトルのモノグラフが出版されたのだった(そしてモノグラフの出版はネオヴェナトルに関連する研究を加速させ、病変やら顔面まわりの神経系やら、生態に絡む複数の研究が出版されるに至った)。

 ホロタイプの欠損部位(たとえば恥骨)は参照標本(ホロタイプの産地のすぐそばで発見され、一時ホロタイプとは異なる種の可能性を示唆されていたもの)である程度補完され、そして系統解析の結果(アロサウルス上科であることに変わりはないが)、ネオヴェナトルはこれまでよりも派生的な位置――カルカロドントサウルス科の姉妹群となった。
 ネオヴェナトルのホロタイプのサイズはその辺のアロサウルスと同じくらいなのだが、実のところこれは亜成体である(神経弓と椎体はそれなりにしっかり関節しているようだが縫合線は明確に残っており、また仙椎の癒合も進んでいなさそうな気配がある)。ネオヴェナトルの産出したウィールデンWealden層群ウェセックスWessex層上部(の下部:白亜紀前期バレミアン;ざっくり1億2940万~1億2500万年前のいつか)では先述のマンテリサウルスの他にイグアノドン属(おおかたI.ベルニサーレンシスだろう)と思しき化石が知られており、このあたりを相手取るにはやはり10mくらいのサイズは欲しいところである(ウェセックス層では9m超級とおぼしき獣脚類の単離した趾骨が知られていたりもするのだが、これがネオヴェナトルのものかどうかは現状はっきりしない)。

 ヨーロッパ産中大型獣脚類としての完全度ランキング1位の座はコンカヴェナトルの発見で奪われた格好になったが、しかしネオヴェナトルの重要性は微塵も揺るがない。白亜紀前期~“中期”にかけてローラシアゴンドワナ双方の頂点捕食者として君臨したカルカロドントサウルス類と、ジュラ紀後期に北米とヨーロッパで「ぽっと出で」栄えたアロサウルスとをつなぐポジションにおかれたネオヴェナトルと、そのお株を奪う形となったコンカヴェナトルの存在は、カルカロドントサウルス類の初期進化がヨーロッパ(というよりはこれに北アフリカを加え、テチス海沿岸域としてもよいのかもしれないが)で起こった可能性を示唆している。
 ネオヴェナトル――新しい狩人、と名付けられたそれは、しかしその実ジュラ紀後期の獣脚類の正統後継者に過ぎないものであった。ネオヴェナトルの類縁はその後軽く3000万年に渡って頂点捕食者として君臨することになるのだが、その次に頂点捕食者となった系統――ティラノサウルス上科のエオティラヌスもまた、“新しい狩人”と共にそこにいたのである。

性懲りもなくむかわ竜についてgdgdと

 先日の特番(再放送もBSということで、持たざる者は結局オンデマンドに頼るほかないようだ)はすべて一連の計画のうちであったらしい(このあたり、色々な流れというか動きが見える)。クリーニングの終わった(厳密にいえば、まだ(そして究極的にはひょっとすると未来永劫)未同定の破片がかなり残っているというのだが)むかわ竜の化石が報道公開され、ここに改めて全容が示されたわけである。
 プレスリリースに書かれていることが現状のほぼ全てであり、またむかわ竜の全容について写真以上に語れることは少ない(そして賢明なるげったうぇーとらいくの読者諸氏には現状それで十分すぎるはずだ)。少なくともこのタイミングで筆者ごときが何かを書く必要はないだろう(やるべきことは他にあるのだ)。

 そうは言いつつ何度も書いていることだが、(しばしばNHKの映像に現れるCGとは違って)むかわ竜はサウロロフス亜科のなかではわりあい小顔ですらりとした部類に入るようだ。ブラキロフォサウルス族のような特に華奢なグループと比べて四肢はなお華奢といってよく、このあたりは(全長7mを超えるサイズであるにも関わらず)まだ亜成体であることを示しているのかもしれない。
 頭骨は驚くほど(あらぬ心配をするほどに)大きくアップの写真が掲載されており、色々なことが読み取れる。頬骨と前前頭骨-前頭骨-後眼窩骨コンプレックスの様子から(ひょっとすると亜成体の可能性があるにも関わらず)眼窩は上下非対称性がかなり強いことがうかがえ、このあたりは(小顔であるにも関わらず)エドモントサウルス族やサウロロフス族と似ているようである(鼻骨-前頭骨クレストの気配はなさそうなのだが)。一方で、これほどまでにスレンダーな歯骨をもつハドロサウルス類はめずらしいものでもある。

 この先むかわ竜関連で大きな動きがあるのは、たぶん命名か全身骨格の完成のタイミングだろう。どちらが先になるかはわからないが、どちらにしても本業でこの時代を扱っていた筆者にとっては(勝手に)感慨深い話である。

(賢明な読者のみなさまはとっくにお気づきの通り、むかわ竜の右歯骨の内側面や左歯骨の外側面には大小さまざまな穴が開いており、死後それなりに長時間にわたってばらけた頭骨が海底面に露出していたらしいことをうかがわせる(歯骨の穴のいくつかはかなり大きく、ひょっとすると何かの噛み痕なのかもしれない)。産状の詳細が明らかになるのは先の話だろうが、このあたりむかわ竜はまた色々と語ってくれることだろう。)