GET AWAY TRIKE !

恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

流れ着く先

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Composite skeletal reconstruction of  Hypsilophodon foxii.
Scale bar is 1m for adult specimen NHMUK R5829.

 ヒプシロフォドンといえば「小型鳥脚類」の代名詞であり、その典型として常に恐竜図鑑を飾ってきた。それもそのはず19世紀から複数の骨格がよく知られており、鳥盤類としてはイグアノドンやマンテリサウルスと並んで全身骨格が知られていた最初期の部類に入るわけである。また、「ヒプシロフォドン科」といえばジュラ紀後期から白亜紀末まで様々な(しかし見てくれはよく似た)属が含められ、コンサバティブかつ非常に長命の系統とされてきた。
 知名度的にも骨学的にも古くからよく知られ、常に「小型鳥脚類」のベンチマークとして用いられてきたヒプシロフォドンだが、近年の系統解析の成果は目覚ましく、「ヒプシロフォドン科」の崩壊(側系統化)に始まり、ヒプシロフォドンそのものの位置づけについても鳥脚類に含められるかどうかかなり微妙になってきた。角脚類の基盤において周飾頭類や鳥脚類と共に多分岐をなす結果さえ出てきたのである。
 そうは言っても「ヒプシロフォドン科」は未だに“”付きで用いられており、一連の基盤的角脚類~基盤的鳥脚類のベンチマークとしてのヒプシロフォドンの重要性は微塵も揺らいでいない。前置きがやたら長くなったが、そういうわけでお付き合い願いたい。

 19世紀の中ごろにおいて恐竜研究の中心がヨーロッパにあったことは語るまでもない。当時の(そして恐らくいまだに)恐竜に対する認識はとにかくその大きさに重きを置いていた(Dinosaurは今日一般に「『恐ろしい』トカゲ」として訳されるが、原義的には「『恐ろしく大きな』トカゲ」の方が正確なようだ)。従って、1849年にワイト島のカウリーズ峡谷の脇で発見されたヒプシロフォドンの最初の骨格(マンテル=ボワーバンク標本)が”イグアノドン・マンテリ”(もはやただの歴史的名称に過ぎない)の幼体とされたのはある種当然のことであった。
 石切り場で採集されたこの骨格は2つのブロックに分割され、片方はマンテル、残りは博物学者のボワーバンクの手に渡った。どちらのブロックもしばらくして大英博物館のコレクションに入り(その間にマンテルは手持ちのブロックをイグアノドンの幼体として記載していた)、オーウェンによって“イグアノドン・マンテリ”の幼体として記載されたのだった。
 やがてカウリーズ峡谷周辺は化石の有名産地として名を馳せるようになり、化石コレクターが寄り集まってくることとなった。熱心な収集家(オーウェンも頼りにしていた)であったフォックス牧師はワイト島に引っ越してくるなりこの地の虜になり、カウリーズ峡谷で大量の恐竜化石を掘り出すに至った。
 フォックス牧師は自分の掘りだした一連の骨格群が近辺で産出した「イグアノドン・マンテリの幼体」と同じ種に属するらしいことを見抜いていた(他にも複数種が含まれてはいた)のだが、どうもイグアノドンとは別物であるらしいことにも気づいていた。ハックスレーはフォックス牧師の意見に賛成し、1869年にフォックス牧師のコレクションにあったほぼ完全な頭骨を模式標本として新属新種の恐竜ヒプシロフォドン・フォクシイHypsilophodon foxii命名した。ここに実質的に初めてとなる「小型」恐竜が確認されたのである。
 ハックスレーはヒプシロフォドンの複数の骨格を観察し、当時はまだ手探りで誤同定の連続だった恐竜の骨学的記載を確立するに至った。ヒプシロフォドンの「鳥に似て」後方に並列に伸びる恥骨と座骨を正確に見抜いたのである(オーウェンはこれを関節した脛骨・腓骨としていた)。ここに「鳥盤類」が生まれたのだった。

Hypsilophodonは直訳すると「高い峰の歯」という意味になる。――が、歯には複数のリッジが走っているとはいえ、際立って「高い峰」があるというわけでもない。実のところハックスレーはイグアノドンすなわち「イグアナの歯」に倣って「ヒプシロフスHypsilophus(今日グリーンイグアナのシノニムになっている)の歯」を意味する属名をこの恐竜に与えたのであった。この場合「高い峰」が背中を走るクレストを意味していることは言うまでもない。)

 オーウェンは依然としてヒプシロフォドン・フォクシイをイグアノドン属として扱ったが(種としての独自性は認めた)、オーウェン言うところのイグアノドン属の特徴は結局のところより高次の分類群――角脚類あるいは鳥脚類――の特徴に過ぎなかった(この時点でほぼ完全な頭骨の知られていた鳥盤類は他にスケリドサウルスだけだった)。これと前後してカウリーズ峡谷付近ではさらに追加標本が発掘され、ハルクによって記載された。さらにハルクは1882年にヒプシロフォドンのモノグラフを書き上げ、骨学的研究はここにひとつの到達点を見たのである。
 この頃になるとベルニサールのイグアノドン類の研究も始まり、骨学的な上方の詳細が明らかとなったイグアノドンとヒプシロフォドンはそれぞれ大小の鳥盤類の代表となった。ドローによってヒプシロフォドン科が設立され、鳥盤類に大型のイグアノドン科と小型のヒプシロフォドン科という二大グループが認識されるようになったのである。
 
 スウィントンによる新標本(最大級の骨格のひとつであるNHMUK R5829と最小の骨格であるNHMUK R5830)の研究を最後にヒプシロフォドンの研究はしばらく停滞期に入った。そして20数年ぶりにヒプシロフォドンと向き合うことになったのが新進気鋭の学生――ピーター・マルコム・ガルトンであった。
 ガルトンは博士課程の間、フォックスらが収集してきたヒプシロフォドンの化石を付きっきりで酢酸に漬け込み、徹底的なクリーニングをおこなった。結果、ハルクにはなすすべのなかった硬いノジュール中の部分が白日の下に晒された(直射日光に積極的に当てるべきではないだろう)のである。
 かくしてガルトンの青春が捧げられたヒプシロフォドンのモノグラフ(この頃からマブダチだったらしいバッカーによる復元図まで付いている)は1974年に出版された。これは今なお「ヒプシロフォドン科」の論文としては最も詳細な骨学的記載となっており、ベンチマークとしてのヒプシロフォドンを決定付けるものであった。また、1920年代~30年代に広く唱えられた「樹上生活者説」を完全に打ち砕くものでもあった。ハルクの精力的な研究を土台に唱えられたはずの説ではあったが、実のところハルクの研究成果はまともに活かされていなかったのである。

 ガルトンの懸案事項であった「ヒプシロフォドンの皮骨」(1920年代ごろから積極的に論じられるようになった)は肋骨に関節する軟骨板の誤認であったことが確認され、ヒプシロフォドンの骨学的な情報はほぼ完全といってよいものとなった。一方で、ヒプシロフォドンと断定できる化石はカウリーズ峡谷付近に露出する厚さ1mの「ヒプシロフォドン層」(ウェセックス層上部(白亜紀前期バレミアン後期;ざっと1億2600万年前ごろか)の一部)から産出したもの――様々なサイズの個体の混在した群れが泥流にのまれた可能性すらガルトンは示唆している――に限られている。イグアノドン・ベルニサーレンシスやマンテリサウルス・アザーフィールデンシスは結局のところ(ワイト島を含め)ヨーロッパ各地に分布を広げていたらしいのだが、ヒプシロフォドンについてこの辺りは何も言えないのが現状である。19世紀から受け継がれてきた研究によって申し分ない骨学的情報の得られたヒプシロフォドンだが、その実態が明らかになるのはまだ当分先の話だろう、

ゆりかごから墓場まで

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ティラノサウルスとタルボサウルスの成長過程。下から、
タルボサウルス・バタール MPC-D 107/7
“ラプトレックス・クリーグスタイニ” LH PV18
“スティギヴェナトル・モルナーリ” LACM 28471
“マレエヴォサウルス・ノヴォジロヴィ” PIN 552-2
タルボサウルス・バタール ZPAL MgD-I/3
“ディノティラヌス・メガグラキリス” LACM 23844
タルボサウルス・バタール ZPAL MgD-I/4
タルボサウルス・バタール PIN 551-1(ホロタイプ)
ティラノサウルス・レックス AMNH 5027
ティラノサウルス・レックス FMNH PR 2081(スー)

スケールは1m。
“ナノティラヌス”はおそらく“スティギヴェナトル”と“ディノティラヌス”の間に
位置付けられる。

 ティラノサウルス類の成長に関する話というのはまあだいたい人気のある話であって、形態変化やら羽毛の有無やら話題は尽きることがない。なかでもティラノサウルスとタルボサウルスは若年個体の分類学的な問題も(かつては)ついてまわったこともあり、何かと香ばしいネタも(現在進行形で)あったりするわけである。
 さて、ティラノサウルスとタルボサウルスは(「一般」に認知されているよりも)よく似ているわけで、当然両者の若年個体も(同じ成長段階であれば)よく似ていることが期待される。ティラノサウルスはもっぱら全長10m以上の大型個体に化石記録が集中しており、若年個体はせいぜい全長5~7mほどのものがいくらか知られる程度である。一方、タルボサウルスは全長10m超級の大型個体がほとんど知られていない一方、8~9m程度の亜成体はよく知られている。また、全長2mほどから6mほどの個体もよく知られており、つまりティラノサウルスとタルボサウルス(およびそれらとごく近縁らしいもの)は互いの各成長段階を補い合うような産状を示しているわけである(この際歯の本数の問題はおとなしくスルーしておく。結局のところこの問題にはあまり神経質になるべきではないのかもしれない)。
 要するに、ティラノサウルスの若年個体の姿を描き出すのにはタルボサウルスが(おそらく)非常に有用であるし、タルボサウルスでほとんど知られていない成長段階は、他方ティラノサウルスがよく代表する。そういうわけで前置きがやたら長くなったが、このあたりを(適当にサイズや形態で分けて)適当に書いていきたい。



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↑Skeletal reconstruction of juvenile tyrannosaurs. 
Top to bottom,
"Stygivenator molnari" LACM 28471,
"Raptorex kriegsteini" LH PV18,
Tarbosaurus bataar MPC-D 107/7.
Scale bar is 1m.

~全長3m(~大腿骨長35cm弱)
 このクラスは林原のタルボサウルス幼体(MPC-D 107/7)や“ラプトレックス”Supplementの図もよい参考になるだろう)、“シャンシャノサウルス”でほぼ全身の骨格の様子が知られている。非常に華奢な体格であり(首や胴がかなり長く見える)、前肢はごく貧弱である。
 頭骨は大腿骨よりも短く、上から見ると薄い三角形をしている。この時点では立体視に関する特殊化はみられず、涙骨の「角」はよく発達している。

~全長4m?
 このクラスの化石記録は乏しく、タルボサウルスでさえ(表向き)ほとんど知られていないようである。いわゆる“スティギヴェナトル”(復元頭骨が茨城県自然博物館に常設展示されている)はこのサイズに相当するようであるが、“ラプトレックス”などと比べて極端に吻が長くなっているらしい。歯もやたら大きくなっており、それなりのサイズの獲物を襲うようになっていたのかもしれない。

全長5m~7m(大腿骨長60~75cm程度)
 厄介なクラスである。いわゆる“ナノティラヌス”はこの段階に相当するが、既知の全長6m程度のタルボサウルスの頭骨(例えばZPAL MgD-I/3)は“ナノティラヌス”と比べて短いようにみえる。一方で、PIN 552-2の頭骨については上の図よりもずっと長く、ナノティラヌス様に復元する意見もある。
 ZPAL MgD-I/3の頭骨のアーティファクトのうち「継ぎ足し部分」は一目瞭然なのだが、それ以外にも少なからず手が入っているフシもある(発掘中の有名な写真もヒントになるかもしれない)。このあたりはきちんとした記載が必要だろう。このあたり、既知の標本ではサイズと成長段階がすんなり一致するわけでもないということもあり得るだろう。
 最近モンゴルへ返還された盗掘品の中にはタルボサウルスの若年個体と思しき吻の長い頭骨(アレクトロサウルスにしては鼻骨の粗面が発達しすぎているように思える)が含まれている。この頭骨のサイズは写真からではわからないが、もしかするとタルボサウルスの“ナノティラヌス段階”を代表する頭骨なのかもしれない。
 このクラスのタルボサウルスの標本の前肢は成体と比べれば相対的に長いとはいえ、特別変わったつくりではないらしい。一方で、“ナノティラヌス”のうち全長6m強の個体(例えばモンタナ闘争化石の片割れ)では手がやたら大きく末節骨も大きな、「ドリプトサウルス的」な前肢をもっていることが知られている。タルボサウルスはティラノサウルスよりも退化的な前肢をもつことが知られている(ティラノサウルスでは生涯分離したままの第Ⅲ中手骨が、タルボサウルスでは少なくとも亜成体の時点で第Ⅱ中手骨と癒合する)が、あるいはこのあたりと関係するのかもしれない。
 このクラスの時点ではタルボサウルスも“ナノティラヌス”と同様涙骨の角を残している。当然立体視向きの特殊化はまだ進んでいない。

全長8m(大腿骨長90cm程度)
 ここまで来ると頭骨の長さは1mほどになり、ずいぶん大型獣脚類らしい見てくれになる。このクラスの個体はティラノサウルスでは“ディノティラヌス”が知られているくらいだが、タルボサウルスでは“ゴルゴサウルス・ランキナトル”のホロタイプ(PIN 553-1)や、上野のモンゴル展でも来日していたMPC-D 100/59など、全体の割合よく残った頭骨(や骨格)が知られている。前肢はティラノサウルス、タルボサウルス共にだいぶ貧弱となり、後肢の相対的な長さ・プロポーションもも(依然としてかなり腰高ではあるが)だいぶ成体に近づいている。
 涙骨の「角」はこの段階でようやく消失するが、涙骨による鼻骨の「挟み込み」はまだ進んでおらず、従って頭骨を上から見た時の様子はゴルゴサウルスなどと変わらない。このクラスの標本がゴルゴサウルスやアルバートサウルスと比較されたのも頷ける話ではある。

~全長10m(~大腿骨長1.1m程度)
 一般に「タルボサウルスのおとな」として紹介されるマウントはいずれもこのクラスである。カリーによってタルボサウルスの頭骨の再記載に使われたZPAL MgD-I/4(ティラノサウルスの成体と比べて涙骨による鼻骨の「挟み込み」が弱く、また涙骨-鼻骨-上顎骨関節が単純である)もこのクラスの個体であり、このあたりの「ティラノサウルスとの違い」は少なからず成長段階に依存する特徴である。つまるところこのサイズの個体でさえ、立体視の可能な特殊化はあまり進んでいない。プロポーションはほぼ成体と変わりないが、全体としてまだ華奢である(要するに、一般に「タルボサウルスの特徴」として語られるものの多くは成長段階に依存するものの可能性が高い)。

全長11~13m(大腿骨長1.2~1.3m程度)
 このクラスのタルボサウルスは“ティラノサウルス”・バタールのホロタイプPIN 551-1くらいしか知られていない。PIN 551-1(福井県博所蔵のキャストがしばしば巡回展でみられる)の涙骨による鼻骨の「挟み込み」はティラノサウルスの成体にみられるそれと同様であり、ここに至ってタルボサウルスの頭骨は極めて「ティラノサウルス的」になる。PIN 551-1の復元には、その辺のティラノサウルスの成体が役に立つだろう。PIN 551-1も特別老齢個体らしい雰囲気はなく、結局のところタルボサウルスとティラノサウルスに特別なサイズ差はなさそうでもある。



 まとまりを投げ捨てた記事ではあるが、要するにティラノサウルスとタルボサウルスの標本を慎重に用いることで、お互いの化石記録の欠如をかなり補うことができる「はず」である。幸いなことに日本国内では様々なティラノサウルスやタルボサウルスの標本を観察することができるが、このあたりを何かしらに活かすのであれば、使いどころが肝心であろう。

懐かしき東方の血

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↑Skeletal reconstruction of Tanius sinensis holotype PMU 24720.
Scale bar is 1m.

 あけましておめでとうございます。今年も変わらずGET AWAY TRIKE !をよろしくお願いします。
 それでは諸君、都合二回目のタニウスの記事だ、行ってみよー!



 タニウス――今時の子供向け図鑑に載っているかどうかは寡聞にして知らない――といえば、筆者の世代(?)はチンタオサウルスとセットで(タニウスそのものについてはよく知らないまま)覚えたクチであろう。山東省のハドロサウルス類といえば、奇妙なクレスト(結局特段変わったクレストではなかったらしいが、依然として大変絵になる)をもつチンタオサウルス、並みの竜脚類を上回る巨体のシャントゥンゴサウルスと図鑑でもおなじみの面子が揃っている中にあってひときわ地味オーラを醸し出している感のあるタニウスだが、その実ハドロサウルス類としては華奢なつくりの(後)頭部、すらりとした後肢や妙に高い棘突起と見どころは少なくない。中国における恐竜研究の最初期を飾る恐竜でもあるタニウスについて(最近マイナー恐竜の記事がご無沙汰だったということもある)、つらつらと書き散らかしておきたい。

 中華民国が成立してほどない1914年、北京政府の要請に応じて一人のスウェーデン人がやってきた。地質学者のJ.G.アンダーソンである。彼はお雇い外国人として鉱産顧問に着任すると中国北部~北西部で資源調査に従事することとなったが、ここで問題がひとつあった。しばしば産出する「竜骨」の同定にあたって、いち地質学者として力不足を感じていたアンダーソンは旧知のカール・ワイマン――ウプサラ大学の古生物学・地史学教授――に応援を求めたのだった。
 ウプサラ大の要職ということもあってスウェーデンを早々離れるわけにはいかなかったワイマンが応援によこしたのは、ウィーン生まれのウィーン育ち、陸軍で第一次大戦への従軍経験まであったオットー・ツダンスキーであった。北京政府が政変で混乱する中、1921年に着任したツダンスキーはアンダーソンの期待によく応え、翌1922年にはいきなり周口店で北京原人の化石(歯2本)を発見するという大金星を挙げている。
 さて、1922年にアンダーソン、ツダンスキーそして中国地質調査所から派遣された譚錫畴は山東半島で地質調査を行うことになった。ドイツの占領下にあった当時、山東半島の蒙陰県ではドイツ人採掘技師のベハゲルによって恐竜化石(現在では行方不明)が発掘されていたのである。この地で10年来活動していた宣教師のメルテンス(元々ベハゲルの化石を発見したのはメルテンスであった)の手を借り、1922年の11月に一行は寧家溝近くのベハゲルのサイトを再発見したのだった。

(余談だがこの寧家溝の住民は今日でもカトリックだという。メルテンスの蒔いた種はしっかり根付いたらしい。)

 ここで一行は二手に分かれ、ツダンスキーは1923年の3月から寧家溝で発掘を開始する一方、譚は莱陽県へと足を延ばした。ツダンスキーは寧家溝の蒙陰Mengyin層(白亜紀前期バレミアン、1億2900万~1億1300万年前)でステゴサウルス類(ウエルホサウルスに近縁らしい)の断片や見事な竜脚類の化石――のちのエウヘロプス・ツダンスキーイEuhelopus zdanskyiを発見することとなった。一方の譚が莱陽県の将軍頂で出くわしたのはボーンベッド――“トラコドン・アムーレンゼ”(のちのマンチュロサウルス)に続くアジア2例目のハドロサウルス類の部分骨格を含む――だった。
 将軍頂周辺の発掘は1923年の4月から半年をかけて行われ、エウヘロプスの採集を終えた(掘り残しも派手にあったのだが)ツダンスキーも合流することとなった。問題のボーンベッドではハドロサウルス類の部分骨格に加えていくつかの獣脚類の単離した要素(ほとんどは椎骨)や、竜脚類の胴椎、アンキロサウルス類の(おそらく)部分骨格まで産出するというにぎやかさで、さらにツダンスキーは別のサイトでもハドロサウルス類の前肢や獣脚類の断片を発見することとなったのである。

 かくして山東半島での調査は大成功に終わり、一連の化石は詳しい研究のためにウプサラ大学へと送られることになった。これらの記載にはワイマンがあたることになり、1929年に一連の山東半島の恐竜についてまとめた論文が出版された。ワイマンはこの論文の中で蒙陰層の竜脚類にヘロプス・ツダンスキーイHelopus zdanskyi、将軍頂――将軍頂Jiangjunding層(カンパニアン後期;7500万年前ごろ?)産のハドロサウルス類にタニウス・シネンシスTanius sinensisの学名を与えたのだった。献名することでツダンスキーと譚をたたえたわけである。
 ワイマンはタニウスをハドロサウルス科の“ハドロサウルス亜科”(この場合サウロロフス族は含まれない)に分類したのだが、ヒューネを皮切りに「一歩原始的」なハドロサウルス類(“プロハドロサウルス科”)とみなす意見が出るようになった。ここ10数年でタニウスはハドロサウルス科の基盤(サウロロフス亜科とランベオサウルス亜科の分岐以前)に置かれるようになり、そしてハドロサウルス科の外側(ハドロサウルス上科の「比較的」基盤的なタイプ=基盤的ハドロサウルス形類)に位置付けられるようになって今日に至っている。

 ツダンスキーのフィールドノートが帰国時にシベリア鉄道で(他の荷物もろとも?)盗まれるという不幸もあったが、ボーンベッド由来とはいえタニウスのホロタイプ(原記載ではナンバーが振られておらず、各要素ごとに異なる標本番号を与えられた末にPMU 24720に統一された)は1個体の各要素を(部分的だが)まんべんなく保存している。タニウスは今日バクトロサウルスやギルモアオサウルス、レヴネソヴィアLevnesoviaと近縁(解析によっては単一グループにまとまる)とされているが、ハドロサウルス上科の中では比較的原始的なタイプであるにもかかわらずカンパニアン後期に生息していたというつわものである(バクトロサウルスやギルモアオサウルスもそうなのだが)。
 一方で、ワイマンの記載が(オルニトミモサウルス類の恥骨ブーツを大型の座骨ブーツと誤認したりもしたとはいえ)割としっかりしていたためか、最近まで再記載がなされることはなかったのだった。
 
 脊柱の長さがはっきりしないとはいえ、タニウスがすらりとした中大型の(広義の)ハドロサウルス類であることは間違いない。頭骨は(後頭部しか見つかっていないのだが)近縁のバクトロサウルスと比べてやや華奢なつくりである。後方胴椎の棘突起はかなり高くなっており、バクトロサウルス同様(より発達している気配があるが)なんらかの背びれ状の構造があったようだ。前肢はわりあい短く華奢な一方で、後肢はハドロサウルス類としてもかなり長いタイプである。大腿骨の伸筋および屈筋の走る溝は(大腿骨の内側・外側の遠位骨頭が癒合した結果)完全なトンネル状になるという妙なつくりとなっており、あるいはこれは走行適応の結果のようなものなのかもしれない。
 将軍頂層では、ティラノサウルス類やオルニトミモサウルス類(ガリミムスのような前肢の末節骨の短いタイプらしい)、アンキロサウルス類(一時ピナコサウルス・cf.グレンジャーリとされたアンキロサウルス科を含む)といった白亜紀後期後半のおなじみのものに加え、エルケツErketuに似た(おそらく)基盤的なティタノサウルス形類、さらに(おそらく)非常に基盤的な角竜であるミクロパキケファロサウルスといった愉快なメンバーが揃っている。
 このように将軍頂層では原始的なタイプのハドロサウルス類やティタノサウルス形類が知られている一方で、同地域のやや古い(カンパニアンの半ば過ぎ)辛格庄Xingezhuang層最上部や紅土崖Hongtuya層下部では派生的なハドロサウルス類であるシャントゥンゴサウルスやティタノサウルス類(オピストコエリカウディアに近縁な可能性がある)のズケンティタンZhuchengtitanが、やや新しい(カンパニアン末)金崗口Jingangkou層ではシャントゥンゴサウルスに近縁らしいライヤンゴサウルスLaiyangosaurusが知られている。そのまた一方で金崗口層では基盤的なランベオサウルス類であるチンタオサウルスが発見されている。少なくともカンパニアンの山東では、古いタイプの生き残りと新しいタイプの恐竜が入り乱れる状況にあったようだ(このあたり、将軍頂層は温帯(ないし亜熱帯)湿潤な環境だった一方で金崗口層ではより乾燥した気候だったという話もあり、興味深いところである)。

(王氏層群の時代論については色々と問題があったが、最近になって紅土崖層中部にみられる玄武岩の年代が7290~7350万年前と推定されたことから、辛格庄層がカンパニアン前期~後期、紅土崖層がカンパニアン後期、将軍頂層がカンパニアン末~マーストリヒチアン前期、金崗口層がマーストリヒチアン前期、常旺鋪Changwanpu層がマーストリヒチアン後期とみなされていた。ところがどっこい、問題の玄武岩は実際には金崗口層のものであるという。紅土崖層では7600万年前を示す火山灰が得られているという話もあり、このあたりを総合すると、実際には辛格庄層がカンパニアン前期~中期、紅土崖層がカンパニアン後期(の前半)、将軍頂層がカンパニアン後期(の中ごろ)、金崗口層がカンパニアン末、常旺鋪層がマーストリヒチアン前期といったところであるらしい。)

 中国の恐竜研究史の最初期を飾るタニウスであるが、アジアで(少なくとも)白亜紀末近くまでそれなり繁栄していたらしい基盤的ハドロサウルス類ということもあり、依然として大きな意味を持っている。再記載は出版間近で足踏みをしているらしい(首から後ろについては修論か何かがISSN付きで出回っているのだが)が、近いうちに出版されることだろう。山東省では諸城に加えて金崗口の(再)発掘も行われており、あるいは将軍頂の再発掘も期待していいのかもしれない。
 80年近い間ウプサラ大学のガラスケースにつつましく収まっていたタニウスだが、大舞台に戻る日は近い。

(チンタオサウルスの産出した金崗口層では、チンタオサウルスのホロタイプを含むボーンベッドから産出した(少なくとも2体分の)断片に基づき“タニウス・チンカンコウエンシスTanius chingkankouensis”が、同じボーンベッドから(後に?)産出したおそらく1個体分の仙椎と腸骨に基づき“タニウス・ライヤンゲンシスTanius laiyangensis”が命名されている。“タニウス・チンカンコウエンシス”のうち、腸骨は“タニウス・ライヤンゲンシス”とよく似ているが、これはタニウス・シネンシスのそれよりも派生的なタイプ(=真正のハドロサウルス科)の形態を示している。“タニウス・チンカンコウエンシス”の残りの要素はいくらか基盤的ハドロサウルス類的な形態を示しているフシもあるのだが、かなり微妙なところである。このあたりに関して詳細な検討は現状なされていないのだが、そういうわけで金崗口層産の“タニウス”は疑問名とされることが一般的である。“タニウス・ライヤンゲンシス”についてはチンタオサウルス・スピノリヌスのシノニムとされる場合もあるし、“タニウス・チンカンコウエンシス”に関しても同様の可能性は拭えない。)

2017年をgdgd振り返るコーナー

 上半期が色々としんどかった上に夏から秋にかけてあちこち飛び回っていたわけで、今年は妙に長く感じた筆者である。気が付けば大晦日なのだが、いい加減齢を取るとその辺割とどうでもよくなってくるタイプの筆者でもある。
 何だかんだで今年も色々あったわけで、とりあえず鎧竜関連のよいニュースが続いた。”Sherman”は無事にROMに引き取られてズールのホロタイプとなり、また「ノドサウルス類のミイラ」もボレアロペルタとして記載されるに至った。どちらも研究はまだまだ道半ばといったところだが、今後に非常に期待がもてる。アンキロサウルスも再記載が行われ、カーペンターによる再記載の抱えていたもろもろの謎はずいぶんすっきりしたものである。
 ティラノサウルスの皮膚痕はついに記載されたが、蓋を開けてみればこれまでに出回っていた話をひっくり返す要素もあり、色々と未記載標本の恐ろしさを(改めて)思い知らされた年でもあった。トロオドンはとうとう疑問名となったが、これはまあ想定の内といったところだろう。琥珀漬けになったエナンティオルニス類の幼鳥やら翼竜の営巣地やら、そのあたりもにぎやかであった。筆者としては先日メデューサケラトプスの再記載が出版されたのが大変嬉しいところである(とかいいつつまだ読めていないのだが)。
 国内の特別展といえば、福井と御船は例によって高水準だったが、怖いもの見たさで訪れたギガ恐竜展が拍子抜けするほどまともな展示だったのが逆に印象深いところである(横浜はとうとう行けなかったのでここでは触れない)。

 先に触れた通り、色々あって今年もわりあい不安定な更新ペースだったのだが、一方で去年から企んでいたことは軒並み実行に移すことができた。同人誌はわりあい好評だったようで、嬉しい限りである(まだ在庫が結構あるんだなこれが
 今年は本業の関連で海外へ行く機会があったわけだが、(記事の格好のネタであるにも関わらず)結局記事にできずに今年が終わってしまった。とはいえせっかくのことではあるし、のんびりこの辺は待っていてほしい。



 というわけで来年もGET AWAY TRIKE !をよろしくお願いします。まだまだ来年も悪だくみが続くので乞うご期待!

(例によって新年一発目の記事はタニウスを予定。いやタニウスみんな好きじゃん)

δの鼓動

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↑Skeletal reconstruction of Deltadromeus agilis holotype SGM-Din2.
Scale bar is 1m.

 デルタドロメウスといえば最近(とはいえもう20年以上前になる)命名された恐竜ではあるのだが、復元骨格は時折見かける機会があり、また「三角州を走るもの」というなかなかの響きをもつ属名も相まってかそれなりの知名度をもつ。何と言っても(未だに)謎の多い北アフリカ白亜紀の中大型獣脚類のひとつということで、筆者が小さいころ(=命名直後)から図鑑で見かけたものである。
 そんなデルタドロメウスだが、ここ数年(実のところもっと前から)系統的な位置づけは混乱しており、その姿はおぼろげなものとなりつつある。骨格図で察していただけようが、つまるところデルタドロメウスの骨格は断片的なのである。

 1993年から北アフリカで活動していたセレノ率いるシカゴ大の調査隊(この時はまだプロジェクト・エクスプロレーションは立ち上がっていなかった)は1995年からモロッコ東部での調査をスタートさせた。モロッコ東部にはケムケムKem Kem層群(読者のみなさまは少なからずお世話になっているはずだ)があり、ここでは様々な脊椎動物化石の産出が知られていたのである。
 果たしてセレノの読みは大当たりで、1995年の調査でケムケム層群のアウフーAoufous層(セノマニアン;ざっと9500万年前ごろ)から2種の大型獣脚類が発見された。ひとつはカルカロドントサウルスと思しき大型獣脚類の部分頭骨――それまで知られていた最良の標本は第二次大戦で焼失していた――で、もうひとつはやたら細身の新たな中大型獣脚類――デルタドロメウス・アギリスであった。
 シュトローマ―隊以来となる北アフリカでの大型獣脚類の(比較的)まともな化石の発見は言うまでもなく大成果であり、さっそく翌1996年に(ごく簡潔な)記載が出版された。系統解析の結果デルタドロメウスはオルニトレステスよりも派生的なコエルロサウルス類となった――相対的に大きくなった烏口骨や大腿骨の低く長い第4転子、腓骨の裏側に存在する大きな孔の存在は、コエルロサウルス類にみられる特徴だったのである。

 かくしてデルタドロメウスはコエルロサウルス類の初期の放散の一例を代表するものとみなされるようになった。復元骨格には中大型獣脚類にふさわしい大きな頭が据えられ(何を参考にしたのか全く分からない代物である。首にせよ胴にせよ、特に何かを参考にした気配はない)、前肢はオルニトレステスのように長く復元された。こうして今日よく見るデルタドロメウスの復元骨格が完成したのである。
 が、命名から数年で基盤的コエルロサウルス類という系統的な位置づけは(セレノら自身によって)崩されることになった。ラウフットによる系統解析でオルニトミモサウルス類とされたりもしたのだが、ラジャサウルスの命名に際して行われた系統解析で、ノアサウルスやマシアカサウルスと多系統をなしたのである。

 その後行われた系統解析でもデルタドロメウスはケラトサウリアに位置付けられるようになり、この結果を受けて復元骨格の頭は「新型」に差し替えられる事態に発展した(「新型」はそこはかとなくリムサウルスを参考にしたようにみえる)。一方で、量産されて世界各地に散っていった復元骨格の頭は(今もなお)「旧型」であり続けたのである。
 もっとも、詳細な位置づけはともかくとしてデルタドロメウスの系統的な位置づけがとりあえず基盤的なケラトサウルス類で安定した――のは束の間であった。アルゼンチンで発見されたアオニラプトルAoniraptor(おそらく後者のジュニアシノニム)やグアリコGualichoの断片的な要素はデルタドロメウスと酷似していたのはいいとして、系統解析の結果これらの恐竜(三者を総合しても依然として部分的である上に首なしである)をメガラプトラないしそれと近い場所に置く意見が出てきたのである。メガラプトラを派生的なカルノサウルス類に位置付けるか基盤的なコエルロサウルス類に位置付けるかはこの系統解析でも真っ二つに割れ、状況は恐ろしく混乱することとなった。

 このあたりの問題を解決するためには、究極的にはより良い保存状態の骨格の産出を待つほかないのは言うまでもないことである。とはいえ、結局のところ、デルタドロメウスやグアリコ、アオニラプトルをメガラプトル類とみなす意見にはかなり問題があるようだ。目下、椎骨の関節面や大腿骨の転子のちょっとした特徴程度しか「非ケラトサウルス類的」な特徴は確認できないようである。今年に入って出版されたリムサウルスの成長過程における形態変化に関する論文において行われた系統解析では、やはり基盤的なケラトサウルス類に置かれている。
 現状デルタドロメウスは基盤的なケラトサウルス類、それも恐らくはノアサウルス類(ないしそれに近いもの)と考えた方がよいらしい。ノアサウルス類の頭骨はマシアカサウルスからリムサウルスまで非常に幅の広い形態変化がみられるわけだが、中大型獣脚類としてはあまりに細身なデルタドロメウスには強肉食性の頭骨はふさわしくないように思える。

 セレノらはシュトローマ―がバハリアサウルスBahariasaurusに同定したいくつかの標本(ホロタイプでない点に注意)をデルタドロメウスとみなしたのだが、実のところこれに関してはかなり微妙なところなようだ(少なくともシュトローマ―によってバハリアサウルスとされた標本のうちいくつかは何らかの(おそらく基盤的な)ケラトサウルス類ではあるらしいが)。現状で確実にデルタドロメウスといえる標本はホロタイプだけなのだが、それでもグアリコの発見によって多少状況はマシになったと言えそうだ。
 残された化石を見る限り、デルタドロメウスが高い走行性をもっていたのは確実である。テチス海に面したデルタを駆けるこの恐竜は何を追っていたのだろう。あるいは、何に追われていたのだろうか?

ゴンドワナのかけらをあつめて

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↑Skeletal reconstruction of majungasaurines.
Top to bottom,
Rajasaurus narmadensis  holotype GSI 21141/1–33
with referred skull elements (scaled as holotype),
Majungasaurus crenatissimus adult
largely based on FMNH PR 2100 and FMNH PR 2278
(scaled as FMNH PR 2100),
subadult based on UA 8678 (postcranial) with skull UA 9944
(scaled as UA 8678),
Arcovenator escotae holotype MHNA-PV-2011.12.1–5.
Scale bar is 1m.

 マジュンガサウルスといえば今やすっかりおなじみになった感がある(そうでもない)が、元々この属名は実質的に忘れ去られたような名であった。読者の方には少なからずこの恐竜がマジュンガトルス・アトプスMajungatholus atopusと呼ばれたことを覚えている心豊かな方もいるだろうし、何なら唯一のゴンドワナ産堅頭竜類だった頃を覚えている方もいるだろう。
 白亜紀後期(というか中生代を通して)のゴンドワナの恐竜相の実態が明らかになってきたのは比較的最近のことであり、それは白亜紀後期の獣脚類にも言えることである。前記事で触れたアベリサウルスとカルノタウルスの発見まで、白亜紀後期後半のまともな獣脚類の化石は発見されていなかったのだ。

 南アメリカ同様、かつてのゴンドワナの構成要素であったマダガスカルでの恐竜発掘の歴史は古い。19世紀の末にはいくばくかの白亜紀後期の恐竜の断片が発見され、その中のいくつか――獣脚類の歯と椎骨と末節骨は、デュペレ(カルカロドントサウルスの原記載者でもある)によってまとめてメガロサウルス・クレナティシムスMegalosaurus crenatissimus命名された。
 その後マダガスカルは化石の名産地として知られるようになった(アンモナイトがよく採れるのだ)が、白亜紀後期の恐竜は鳴かず飛ばずといった状況に陥った。まともな骨格が出てくる気配がなかったのである。日本の国立科学博物館が70年代に意気揚々と乗り込んだ際も多数の白亜紀後期の恐竜化石が採集された――が、いずれも(保存は素晴らしいのだが)断片ばかりであった(そしてその後すったもんだあって標本のオリジナルはマダガスカル国内で行方不明になった)。どさくさに紛れてラヴォキャットが中大型獣脚類の歯骨を(メガロサウルス・クレナティシムスと同種とみなしたうえで)マジュンガサウルスと命名したりもしていたのだが、いかんせん断片的だったのでこれといって顧みられることはなかった。

 そうはいってもあちこちを調査隊が出入りしていれば何かしら見つかるものである。1979年、鳴り物入りでネイチャーに発表されたのがマジュンガトルス・アトプス――南半球初のパキケファロサウルス科であった。例によって頭蓋天井しか残っていなかったが、やたら肥厚した天井が作る「ドーム」は堅頭竜類の特徴だったのである。
(記載にあたったスーズとタケの肩を持っておくと、彼らは論文中でマジュンガトルスの「ドーム」が前頭骨のみからなっている(一般に堅頭竜類の「ドーム」の形成には前頭骨に加えて頭頂骨なども関与する)ことを指摘している。これは堅頭竜類としては確かに奇妙な特徴であった。頭蓋天井の肥厚した獣脚類という概念は当時存在しなかったのである。)

 1993年から始まったストーニーブルック大(アメリカ)とアンタナナリボ大(マダガスカル)の野心的な共同調査は地味(失礼)ながら大きな成果を挙げ続け、そして1996年に大当たりを引いた。関節の外れた、ほぼ完全かつ抜群に保存のよいアベリサウルス類の頭骨(と連続した尾椎;FMNH PR 2100)が発見されたのである。マジュンガトルスのホロタイプ――「堅頭竜類の頭蓋天井」はアベリサウルス類の頭蓋天井の断片に過ぎなかったことが明らかとなり、かくしてこのマダガスカル産アベリサウルス類がマジュンガトルスと呼ばれるようになった。
 その後の調査で多数の部分骨格が発見され、気が付けばマジュンガトルスはほぼ全身の要素が発見された計算となった。恐竜博2005向けに復元骨格を制作するのと合わせて記載が進められ、最も詳しく研究されたアベリサウルス類となったのである(記載待ちのさらに完全な骨格もあるらしい)。当初マジュンガサウルスの属名を用いることはためらわれた(そもそもシンタイプが単離した化石の寄せ集めである)が、ラヴォキャットが記載した歯骨(植わっていた歯の形態も含めて「マジュンガトルスの頭骨」と酷似していた)をネオタイプとすることでこのあたりの問題はクリアされ、マジュンガトルスは最終的にマジュンガサウルスと呼ばれるようになったのだった。

 さて、マジュンガサウルスが発見されたのはマーストリヒチアンのマエヴァラノMaevarano層なのだが、この地層の生物相(恐竜に限らない)がインドや南米とよく似ていることが前述の共同調査で明らかとなった。80年代にはすでにインド産の白亜紀後期の中大型獣脚類が(ティラノサウルス類ではなく)アベリサウルス類に属する可能性が指摘されていたりもしたわけだが、マジュンガサウルスの「発見」などによって南米やインドにみられる「奇妙な」恐竜たちがマダガスカルにも分布していたことが明らかになったのである。
 かつてインド―マダガスカルが南米―アフリカから分離した時期は白亜紀中ごろとされていたのだが、白亜紀末期になっても類似した生物相がそれらの「かけら」に広く分布していたことが明らかになった以上、ゴンドワナ分裂のシナリオを再考する必要が出てきた。ひょっとすると白亜紀の終わりごろまで南米やインド―マダガスカルは南極経由で繋がりを保っていた可能性まで出てきたのである。一方で、白亜紀末期の化石に乏しいこともあり、アフリカの分裂時期のヒントはほとんどないままだった。

 ヨーロッパにはかねてからアベリサウルス類が(白亜紀中ごろから終わりにかけて)分布するとされていた(一方でいずれも断片的であったため、何とも言えない状況が続いていた)が、アルコヴェナトル(カンパニアン後期)がフランスから発見されたことで事態は一気に進展を見た。アルコヴェナトルはラジャサウルスそしてマジュンガサウルスなどとマジュンガサウルス亜科をなし、一方でカルノタウルスやアベリサウルスなど南米産の派生的なものはブラキロストラとしてまとまった。
 ブラキロストラの(確実な)分布は南米に限られる一方、マジュンガサウルス亜科の分布はインド―マダガスカルそしていきなりヨーロッパと飛んだことで状況はさらに厄介になった。結局のところ白亜紀中ごろにどうしようもないレベルで南米とインド―マダガスカルが分離していた可能性が出てきたのである。一方で、どうもアフリカがインド―マダガスカルとヨーロッパとを(ゆるく)繋いでいたようである。

 白亜紀後期後半の(元)ゴンドワナの恐竜相はまだまだ未解明な部分に溢れており、さらに言えば少なからずつながりのあったらしいヨーロッパでも同じことが言える。マジュンガサウルスやラジャサウルス、アルコヴェナトルの発見はゴンドワナの分裂に関する議論を加速させたが、まだゴンドワナの「かけら」をつなぎ合わせるには至っていない。

肉を食べる牛

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↑Skeletal reconstruction of Carnotaurus sastrei holotype MACN-CH 894.
Scale bar is 1m.

 アベリサウルス類といえばそれなりに知名度の高い属を含んでおり、カルノタウルスなどは割と人気どころの恐竜だろう。マジュンガサウルスやらラジャサウルスやらとそれなりに様々な属が図鑑に現れるようになってずいぶん経つような気もするのだが、実のところアベリサウルス科が設立されたのは1985年とかなり最近のことである。
 90年代から2000年代にかけて――あるいはマジュンガサウルスの骨格が詳細に記載されて久しい現在でも――アベリサウルス科の代表として君臨していたのがカルノタウルスであった。その間、あらゆるアベリサウルス類は――インドスクスを例外として――カルノタウルスをベースとして復元され続けたのである。

 アルゼンチンでの恐竜研究といえばヒューネによる輝かしい20世紀前半の研究が有名――なわけはないのだが(もちろんローマーを忘れるわけにもいかない)、ヒューネをもってしてアルゼンチンの恐竜を掘りつくせるわけがない。ヒューネがアルゼンチンを去ってずいぶん経った1976年、ナショナルジオグラフィック協会の支援の下で“ベルナルディーノ・リヴァダヴィア”アルゼンチン国立自然史博物館はパタゴニアに広がるジュラ系・白亜系の調査プロジェクトを開始したのである。 
 さて、パタゴニアはアルゼンチンのチュブト州で暮らしていたサストレ一家(農家ということで、多分牛の放牧でもしていたのだろう)はある時荒野(層序学的な研究があまり進んでいなかったため当初は白亜紀中ごろとみなされていたが、結局カンパニアンないしマーストリヒチアン(マーストリヒチアン前期の可能性が高いらしい)のラ・コロニアLa Colonia層であった)で恐竜の骨格に出くわした。この一報は地元の地質学者を通じてリヴァダヴィア側に伝わり、1984年にボナパルテ率いる第7回調査隊によって発掘が行われることになった。

 この第7回調査隊の成果は輝かしいものであったが、この大型獣脚類の骨格――カルノタウルスの模式標本MACN-CH 894はアマルガサウルスの模式標本と並んで特に素晴らしいものであった。巨大な赤鉄鉱のノジュールに包まれたそれは体の右側を下にして横たわり、典型的なデスポーズをとっていた。尾と膝下は浸食でほとんど失われていたが、残りの部分は完璧といっていい状態だったのである。胸骨や“鎖骨”(実際には叉骨の片割れであった)がきっちり保存され、舌骨はアーチをそのまま保ち、そして皮膚痕が――大型獣脚類としてほとんど初めての外皮の手がかりが頭の付け根から肩、胴、そして尾の付け根に残されていたのである。
 保存状態もさることながら、その形態も奇怪であった。外突起やら横突起やらが伸長して「上面が平ら」になった椎骨、極端に退縮した結果ほとんど上腕から直接手の生えた前肢、妙にひょろ長い大腿骨、そして頭部――滑稽なほど短い吻に並ぶ薄く鋭いが小さな歯、そして一対のマッシブな角。ボナパルテがカルノタウルス・サストレイ――サストレ家の、肉を食べる牛――と命名するにふさわしい姿だった。

 カルノタウルスとアベリサウルス――カルノタウルスと同じく1985年命名――の類縁性はすぐに認識され、白亜紀後期の南米(そしてインド――というよりゴンドワナ全域)でケラトサウルス類の成れの果てが繁栄していたらしいことが明らかになった。カルノタウルスとアベリサウルスの頭骨は基本的な特徴をよく共有していたが、一方でパッと見はずいぶん異なる。アベリサウルス類がかなりの形態的な多様性をもっていたことは誰の目にも明らかであった。
 そうは言ってもアベリサウルス類のまともな骨格といえばカルノタウルスのホロタイプが一体あるきりで、依然として尾の大半と膝下は知られていなかった。一方で、1986年に記載されたクセノタルソサウルスXenotarsosaurus――頭骨を欠いた部分骨格に過ぎないが基本的な特徴はカルノタウルスとよく似ていた――は脛の要素をよく残しており(足は失われていた)、従ってカルノタウルスの復元の重要な参考資料となったわけである。

 かくして完成した復元骨格、そして1990年のモノグラフで示されたボナパルテらによる骨格図の脛はクセノタルソサウルスが参考とされていた。この時ボナパルテらはクセノタルソサウルスの後肢のプロポーション(大腿骨長611mm、脛骨長592mm)に従い、カルノタウルスの脛骨を大腿骨よりわずかに短い970mmとして復元したのだった。
 こうしてすらりとした後肢をもつカルノタウルスの復元骨格や骨格図が広く出回るようになると、他のアベリサウルス類――いずれも部分骨格のみ――もカルノタウルスを参考に(というより頭を適当に挿げ替えただけで)復元されるようになった。ここにカルノタウルスに代表される「古典的な」アベリサウルス類のイメージが固まり、恐竜図鑑を飾るようになったのである。

 アベリサウルス類の標本が増えるに従って、ボナパルテらによるカルノタウルスの膝頭の突起の復元はどうやらかなり(問題になるレベルで)控えめだったことが明らかになった。突起の高さをかなり低く見積もっていただけにとどまらず、そもそも突起を「小さく」復元していたのである。
 ポールは気を回して(カルノタウルスの脛骨の断片を半ば無視する形で)クセノタルソサウルスの脛骨を直接ぶち込むという「曲芸」でこの問題をカバーしていたりもしたのだが、結局のところ、大型のアベリサウルス類の脛骨は大腿骨と比べてそれなりに短く(大腿骨長の8割といったところである)、そして膝頭は大腿骨の長さの割にかなり大きかった。要するに、ボナパルテらそしてポールによるカルノタウルス――アベリサウルス科の復元を決定付けたもの――の脛は長すぎたのである。

 究極的にはカルノタウルスの膝下のプロポーションは未知である(未だにホロタイプ以外の骨格が見つかっていない)が、それでもアウカサウルス(最近出た論文でようやく長骨の計測値が示された)などを参考に、残された脛骨近位端に基づいてそれらしく復元してやることができる。カルノタウルスの大腿骨は体サイズの割にかなり長く、膝下が多少短くなったところで(マジュンガサウルスなどと比べて)軽快なプロポーションだったのは確かなようだ。
 これまでもっぱらアベリサウルス科の「典型」として扱われてきた(やむを得ないことではあった)カルノタウルスだが、結局のところブラキロストラ――目下ほぼ南米のみに限られている――の中でも非常に特殊化の進んだものであり、マジュンガサウルス(マジュンガサウルス亜科)などとはだいぶかけ離れた姿をしているようだ。力あふれるハドロサウルス類も跋扈していた白亜紀末期のパタゴニアにあって、アベリサウルス科の中でも奇怪な見てくれのカルノタウルスはどのように暮らしていたのだろうか。