GET AWAY TRIKE !

恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

流れ着く先

イメージ 1
Composite skeletal reconstruction of  Hypsilophodon foxii.
Scale bar is 1m for adult specimen NHMUK R5829.

 ヒプシロフォドンといえば「小型鳥脚類」の代名詞であり、その典型として常に恐竜図鑑を飾ってきた。それもそのはず19世紀から複数の骨格がよく知られており、鳥盤類としてはイグアノドンやマンテリサウルスと並んで全身骨格が知られていた最初期の部類に入るわけである。また、「ヒプシロフォドン科」といえばジュラ紀後期から白亜紀末まで様々な(しかし見てくれはよく似た)属が含められ、コンサバティブかつ非常に長命の系統とされてきた。
 知名度的にも骨学的にも古くからよく知られ、常に「小型鳥脚類」のベンチマークとして用いられてきたヒプシロフォドンだが、近年の系統解析の成果は目覚ましく、「ヒプシロフォドン科」の崩壊(側系統化)に始まり、ヒプシロフォドンそのものの位置づけについても鳥脚類に含められるかどうかかなり微妙になってきた。角脚類の基盤において周飾頭類や鳥脚類と共に多分岐をなす結果さえ出てきたのである。
 そうは言っても「ヒプシロフォドン科」は未だに“”付きで用いられており、一連の基盤的角脚類~基盤的鳥脚類のベンチマークとしてのヒプシロフォドンの重要性は微塵も揺らいでいない。前置きがやたら長くなったが、そういうわけでお付き合い願いたい。

 19世紀の中ごろにおいて恐竜研究の中心がヨーロッパにあったことは語るまでもない。当時の(そして恐らくいまだに)恐竜に対する認識はとにかくその大きさに重きを置いていた(Dinosaurは今日一般に「『恐ろしい』トカゲ」として訳されるが、原義的には「『恐ろしく大きな』トカゲ」の方が正確なようだ)。従って、1849年にワイト島のカウリーズ峡谷の脇で発見されたヒプシロフォドンの最初の骨格(マンテル=ボワーバンク標本)が”イグアノドン・マンテリ”(もはやただの歴史的名称に過ぎない)の幼体とされたのはある種当然のことであった。
 石切り場で採集されたこの骨格は2つのブロックに分割され、片方はマンテル、残りは博物学者のボワーバンクの手に渡った。どちらのブロックもしばらくして大英博物館のコレクションに入り(その間にマンテルは手持ちのブロックをイグアノドンの幼体として記載していた)、オーウェンによって“イグアノドン・マンテリ”の幼体として記載されたのだった。
 やがてカウリーズ峡谷周辺は化石の有名産地として名を馳せるようになり、化石コレクターが寄り集まってくることとなった。熱心な収集家(オーウェンも頼りにしていた)であったフォックス牧師はワイト島に引っ越してくるなりこの地の虜になり、カウリーズ峡谷で大量の恐竜化石を掘り出すに至った。
 フォックス牧師は自分の掘りだした一連の骨格群が近辺で産出した「イグアノドン・マンテリの幼体」と同じ種に属するらしいことを見抜いていた(他にも複数種が含まれてはいた)のだが、どうもイグアノドンとは別物であるらしいことにも気づいていた。ハックスレーはフォックス牧師の意見に賛成し、1869年にフォックス牧師のコレクションにあったほぼ完全な頭骨を模式標本として新属新種の恐竜ヒプシロフォドン・フォクシイHypsilophodon foxii命名した。ここに実質的に初めてとなる「小型」恐竜が確認されたのである。
 ハックスレーはヒプシロフォドンの複数の骨格を観察し、当時はまだ手探りで誤同定の連続だった恐竜の骨学的記載を確立するに至った。ヒプシロフォドンの「鳥に似て」後方に並列に伸びる恥骨と座骨を正確に見抜いたのである(オーウェンはこれを関節した脛骨・腓骨としていた)。ここに「鳥盤類」が生まれたのだった。

Hypsilophodonは直訳すると「高い峰の歯」という意味になる。――が、歯には複数のリッジが走っているとはいえ、際立って「高い峰」があるというわけでもない。実のところハックスレーはイグアノドンすなわち「イグアナの歯」に倣って「ヒプシロフスHypsilophus(今日グリーンイグアナのシノニムになっている)の歯」を意味する属名をこの恐竜に与えたのであった。この場合「高い峰」が背中を走るクレストを意味していることは言うまでもない。)

 オーウェンは依然としてヒプシロフォドン・フォクシイをイグアノドン属として扱ったが(種としての独自性は認めた)、オーウェン言うところのイグアノドン属の特徴は結局のところより高次の分類群――角脚類あるいは鳥脚類――の特徴に過ぎなかった(この時点でほぼ完全な頭骨の知られていた鳥盤類は他にスケリドサウルスだけだった)。これと前後してカウリーズ峡谷付近ではさらに追加標本が発掘され、ハルクによって記載された。さらにハルクは1882年にヒプシロフォドンのモノグラフを書き上げ、骨学的研究はここにひとつの到達点を見たのである。
 この頃になるとベルニサールのイグアノドン類の研究も始まり、骨学的な上方の詳細が明らかとなったイグアノドンとヒプシロフォドンはそれぞれ大小の鳥盤類の代表となった。ドローによってヒプシロフォドン科が設立され、鳥盤類に大型のイグアノドン科と小型のヒプシロフォドン科という二大グループが認識されるようになったのである。
 
 スウィントンによる新標本(最大級の骨格のひとつであるNHMUK R5829と最小の骨格であるNHMUK R5830)の研究を最後にヒプシロフォドンの研究はしばらく停滞期に入った。そして20数年ぶりにヒプシロフォドンと向き合うことになったのが新進気鋭の学生――ピーター・マルコム・ガルトンであった。
 ガルトンは博士課程の間、フォックスらが収集してきたヒプシロフォドンの化石を付きっきりで酢酸に漬け込み、徹底的なクリーニングをおこなった。結果、ハルクにはなすすべのなかった硬いノジュール中の部分が白日の下に晒された(直射日光に積極的に当てるべきではないだろう)のである。
 かくしてガルトンの青春が捧げられたヒプシロフォドンのモノグラフ(この頃からマブダチだったらしいバッカーによる復元図まで付いている)は1974年に出版された。これは今なお「ヒプシロフォドン科」の論文としては最も詳細な骨学的記載となっており、ベンチマークとしてのヒプシロフォドンを決定付けるものであった。また、1920年代~30年代に広く唱えられた「樹上生活者説」を完全に打ち砕くものでもあった。ハルクの精力的な研究を土台に唱えられたはずの説ではあったが、実のところハルクの研究成果はまともに活かされていなかったのである。

 ガルトンの懸案事項であった「ヒプシロフォドンの皮骨」(1920年代ごろから積極的に論じられるようになった)は肋骨に関節する軟骨板の誤認であったことが確認され、ヒプシロフォドンの骨学的な情報はほぼ完全といってよいものとなった。一方で、ヒプシロフォドンと断定できる化石はカウリーズ峡谷付近に露出する厚さ1mの「ヒプシロフォドン層」(ウェセックス層上部(白亜紀前期バレミアン後期;ざっと1億2600万年前ごろか)の一部)から産出したもの――様々なサイズの個体の混在した群れが泥流にのまれた可能性すらガルトンは示唆している――に限られている。イグアノドン・ベルニサーレンシスやマンテリサウルス・アザーフィールデンシスは結局のところ(ワイト島を含め)ヨーロッパ各地に分布を広げていたらしいのだが、ヒプシロフォドンについてこの辺りは何も言えないのが現状である。19世紀から受け継がれてきた研究によって申し分ない骨学的情報の得られたヒプシロフォドンだが、その実態が明らかになるのはまだ当分先の話だろう、