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恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

陽の当たる場所へ

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Skeletal reconstruction of
Thescelosaurus neglectus (composite; scaled as "Willo" NCSM 15728)
and Thescelosaurus garbanii (holotype LACM 33542).
Scale bar is 1m.
 
 テスケロサウルスといえば白亜紀最末期を代表する小型(というにはやたら大きいのだが)鳥脚類であり、知名度はともかくとしても比較的古くから複数の良好な骨格が知られてきた恐竜でもある。近年では「心臓」とされた構造物(単なるゲーサイトノジュールであった)の存在や、植物食にあるまじき凶悪面でそれなりに知られるようになったといえる。一方で、近年に至るまでまともな頭骨要素が知られていなかったこともあり、苦難の道を辿ってきた恐竜でもある。「無視された」を意味する種小名が表す通り、のっけから紆余曲折あったテスケロサウルスについて色々と書いておきたい。
 
 コープそしてマーシュの死をもって化石戦争は終結したが、その爪痕は大きかった。ハッチャー率いるマーシュ麾下の化石ハンターたちが採集してきた膨大な量の化石はピーボディ博物館(YPM)に収まりきるものではなく、かなりの量の化石が(一度もジャケットを開封されないまま)スミソニアン(USNM)へと運び込まれたのだった。これに立ち向かうことになったのがハッチャー門下の新人、チャールズ・ホイットニー・ギルモアである。朝はクリーニング、昼間は観察・記載と非凡な才をいかんなく発揮したギルモアではあったが、化石戦争の産物の半分近くに達する化石の山は、彼ひとりで対処できる量ではなかった。着任から10年間格闘を続け(それでもまだかなりの量が残っていた)、ふとギルモアが目を留めたのがUSNM 7757――ハッチャーとアターバックが20年以上前にランス層で採集してきた小さな「オルソポーダ」であった。
 
 (オルソポーダOrthopodaは1866年にコープによって設立された分類グループであり、1930年代まで(マーシュ陣営の流れを組むギルモアにさえも)しばしば用いられてきた。20世紀初頭には実質的に鳥脚類と同じ意味で用いられていたようである。)
 
 ジャケットを開いたギルモアはそこで愕然とした。その「オルソポーダ」のがっしりした前後肢は他にみられないもので、何より(頭と首を欠いていたものの)全身が見事に関節した状態だったのである。前後肢のクリーニングが済むと即座にギルモアは短報を出し、このUSNM 7757をホロタイプとしてテスケロサウルス・ネグレクトゥスThescelosaurus neglectus――無視されていた驚くべきトカゲの意――を命名した。この全長2mほどの小さな恐竜の価値を見過ごしてきた全ての人々――自分自身を含む――への戒めを込めたのかもしれない。ギルモアはまた、USNM 7758――ピーターソンが1889年にランス層で採集した断片的な骨格も同じ種であるらしいことを見抜き、これをパラタイプとした。
 2年後の1915年、クリーニングの終了したUSNM 7757はウォールマウントとしてスミソニアンの展示室を飾ることとなった。頭部と首はヒプシロフォドンを参考に作った模型が、肩帯はUSNM 7758(やブラウンが採集してきたAMNH所蔵の標本)に基づく模型が据えられたが、それ以外は産状そのままの見事な代物である。
 ウォールマウントの制作と同時に同時にモノグラフも出版され、テスケロサウルスの肩から後ろの骨学的詳細が明らかとなったのである(皮膚痕らしき炭素膜の小片が胴体側面に残っていたことまでギルモアは述べている)。ハッチャーとアターバックの発見から20年以上を経て、ようやくこの標本に光が当たったのだった。

  同じく1926年の暮れにはカナダのアルバータ州は「エドモントン層」で、もうひとつの見事なテスケロサウルスらしき化石がパークスによって報告・記載された。パークスはほぼ完全な頭骨を含むこれをテスケロサウルス・ウォーレニと命名したが、1937年になってチャールズ・モートラム・スターンバーグはこれをテスケロサウルス属から外し、新属パークソサウルスとした。T.ネグレクトゥスとはあまりに後肢のプロポーションがかけ離れていたのである。
 1926年にはチャールズ・モートラムによって「エドモントン層」(現エドモントン層群;ホースシュー・キャニオン層やスコラード層などからなる)からテスケロサウルスの産出を報告した――が、これの記載は1940年になるまで出版されなかった。テスケロサウルス属の新種T.エドモントネンシスとしてようやく記載されたこの標本CMN 8537もまた見事に関節したほぼ完全な骨格であり、今度はほぼ完全な下顎を含む頭骨要素の一部も残されていた――が、依然として頭骨の形態ははっきりしないままだった。
 ギルモアは1915年のモノグラフにおいて、テスケロサウルスを(やたら)細身の走行性の動物として復元したが、チャールズ・モートラムはテスケロサウルス属が極端に長くはないマッシブな後肢をもつことを指摘し、サイズの割にはどっしりしたつくりの生き物であることを指摘した(そしてそれはパークソサウルスとは著しく異なっていた)。チャールズ・モートラムはテスケロサウルスをヒプシロフォドン科の中のテスケロサウルス亜科に位置付け、一方ですらりとしたパークソサウルスをヒプシロフォドン亜科に置いたのだった。

 それからしばらくテスケロサウルスの目立った化石は新たに産出しなかった。1960年代も終わったころ、AMNHの収蔵庫を訪ねてきた男が一人――ガルトンである。
 AMNHにはブラウンらによって採集されたテスケロサウルスの標本がいくつかあったが、一部がギルモアのモノグラフで言及された程度に留まっていた。しかしガルトンが訪ねてみれば3次元的に保存・クリーニングされた立派な部分骨格が収蔵されており、ギルモアのモノグラフの穴――USNM 7757は半身しかクリーニングされなかったこともあり、三次元構造のはっきりしない部分が少なからずあった――を埋めるものだったのである。
 ガルトンはまた、T.エドモントネンシスをT.ネグレクトゥスのシノニムとし、テスケロサウルスがヒプシロフォドン科というよりむしろイグアノドン科に属する可能性を指摘した。ヒプシロフォドン科とするには、テスケロサウルスはがっしりしすぎていたのである。
 
 さて、実のところ1960年代にはテスケロサウルスの新標本ラッシュのちょっとした波が来ていた。ハーレイ・ガーバニといえば散々本ブログで取り上げている最強クラスの化石ハンターのひとり(故人)であるが、例によってガーバニの先導するLACMの遠征隊はモンタナのヘル・クリーク層にて複数のテスケロサウルスの部分骨格を発見していた。その中にはこれまで未発見だった頸椎列(の大半)、そしてやたら大きな関節した後肢やこれまた大型個体のものらしい頭骨が含まれていたのである。
 ガーバニ隊の採集した一連のテスケロサウルス(やそれらしいもの)はモリスによって1976年に(ロリス・ラッセルの記念論文集の中で)記載された。関節した後肢を含む部分骨格LACM 33542は踵骨の構造が既知のテスケロサウルス属とは著しく異なっており(踵骨が退縮しており、足首関節に参加していない)、(おそらく)テスケロサウルス属の新種T.(?) ガーバニとなった。頸椎列を含む部分骨格LACM 33543(これまでテスケロサウルス属では知られていなかった頬骨や脳函も残っていた)はすんなりT.ネグレクトゥスとなったが、もうひとつ厄介な標本――SDSM 7210が残っていた。
 SDSM 7210は大きめの(おそらく)ヒプシロフォドン類の頭骨であることは確かだったが、いかんせん部分的であり、その全体形を知るのは難しい代物であった。首から後ろの要素は申し訳程度の椎骨と指骨しか残っていない有様で、他の鳥脚類――例えばテスケロサウルス――との詳しい比較は困難であった。モリスは思い切ってこの標本がテスケロサウルス属のおそらく新種である可能性を述べたが、こうした事情からSDSM 7210はもっぱら不定の鳥脚類として扱われるようになった。
 
 90年代までこうした状況が続いたのだが、1995年にガルトンはSDSM 7210をホロタイプとして新属新種ブゲナサウラ・インフェルナリスBugenasaura infernalisを設立した。ガルトンはまた、T.(?) ガーバニが本種に属する可能性をも指摘した(一方でひょっとするとスティギモロクかもしれないとも述べている)。1999年にガルトンはブゲナサウラの再記載をおこない、ここにブゲナサウラの有効性は確固たるものとなって一件落着に――ならなかった。
 1993年にサウスダコタで発見された鳥脚類――小型というには少々大きすぎた――は、膝下こそ失われているものの頭から尾の中ほどまで見事に関節した化石であった。“ウィロー”の愛称が付けられたこの標本NCSM 15728の胸郭には妙な「塊」があり、CTスキャンの結果心臓の内部構造らしきものまで認められたのである。この(屍蝋化したのちゲーサイトに置換されたと考えられた)「心臓」の顛末は記事冒頭で触れた通りであったが、NCSM 15728はランス期の小型鳥脚類で初めてとなる完全な頭骨が(よく保存された首から後ろの要素と共に)残っている点でも重要であった。
 NCSM 15728はひとまずテスケロサウルス・ネグレクトゥスとされた一方で、モンタナで発見されたもうひとつの「首あり」のほぼ完全な骨格MOR 979はブゲナサウラ・インフェルナリスと同定された。1999年の再記載でガルトンはブゲナサウラをテスケロサウルス亜科に置いていたのだが、どうやらガルトンが考えていた以上に両者が酷似していること――ことによると同じ種である可能性さえ浮上してきたのである。
 この辺りの議論は公にはなかなか進まなかったのだが、それでも2009年には再検討が行われ、結局ブゲナサウラは疑問名(テスケロサウルスの一種扱い)となり、その一方でT.(?) ガーバニはテスケロサウルス属の有効種として固まった。また、サスカチュワンはフレンチマン層でワン・ラングストンによって採集されていたテスケロサウルスのかなり完全な亜成体の骨格は新種である可能性が指摘された(そのまま2011年に新種T.アシニボイエンシスassiniboiensisになった。いつの間にか復元骨格も制作されている)。さらに2014年にはNCSM 15728の頭骨の詳しい記載がおこなわれ、ようやくテスケロサウルスの全貌が明らかになったのである。これらの研究の過程でT.ネグレクトゥスのパラタイプUSNM 7758の「残骸」の中からいくつか頭骨要素が見出される始末であった。
 また、(近年のもろもろを踏まえた)系統解析の結果、どうもテスケロサウルスとオロドロメウス類(かねてよりゼフィロサウルスやオリクトドロメウスなどと単系統をなすことが指摘されていた)が単系統のグループをなすことが示された。かつての「ヒプシロフォドン科」のメンバーの大部分や近年アジアや南米で産出したものを含むかなり大きなグループの、とびきりの変わり種がテスケロサウルスだったらしいのだ。

 依然としてMOR 979などは(クリーニングが進んでいないこともあって)いまだに種不明のままであるし、T.ガーバニも後肢以外まともに見つかっていないこともあり、このあたりに残された謎はまだまだ多い。
 スミソニアンの恐竜展示は現在リニューアル工事の真っ最中であるが、USNM 7757は壁(いつの間にか見学者の目のほとんど届かない、やたら高い場所に移されていた)から引き剥がされ、母岩に埋まったままだった左半身のクリーニングが――ハッチャーとアターバックの発掘以来初めて人目に触れる――おこなわれた。標本はバックヤードへ栄転する一方、キャストはNCSM 15728を縮小した模型と組み合わせた復元骨格として新たな恐竜ホールに展示されるという。また、ひしゃげているものの完全な頭骨を含む部分骨格も最近新たにトリーボールド社によって発掘された。ピーターソンの最初の目立たない発見から130年近くが過ぎた今日、「無視されていたトカゲ」に熱い視線が注がれているのである。