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恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

砕かれた鎧 後編

イメージ 1
↑Skeletal reconstruction of north Laramidian "Pre-Ankylosaurus".
Top to bottom, 
Euoplocephalus tutus
(based on CMN 210, AMNH 5337, 5403-5406, 5409, ROM 788, 1930),
Dyoplosaurus acutosquameus
(based on ROM 784),
Scolosaurus cutleri
(based on NHMUK R5161, USNM 7943, MOR 433, TMP 2001.42.19),
Anodontosaurus lambei
(based on CMN 8530, TMP 82.9.3, 97.132.1, AMNH 5245, 5266).
Scale bar is 1m for AMNH 5404, ROM 784, NHMUK R5161, AMNH 5245.


 さて、すったもんだあって(そんなにはなかった)、気が付けばもう明日から恐竜博2016である。前編から2週間が経ってしまったが、そういうわけで後編といきたい。(昨日記事を更新したはずがupしてみたら消えたという怪現象が起こったのはひみつ)

 前編でも触れたとおり、20世紀の初頭にはすでにエウオプロケファルス(原記載ではステレオケファルスStereocephalus)やアンキロサウルスが命名されていたのだが、どちらもばらけた部分骨格だったこともあり、ブラウンによってアンキロサウルス科こそ設立されたもののその実態は定かではなかった。パークス(知名度はいまいちだがアルバータの恐竜の研究を語る上では外せない)によるディオプロサウルス・アクトスクアメウスDyoplosaurus acutosquameus命名・記載(1924年)で初めてアンキロサウルス科の特筆すべき特徴―――「ハンドルとノブ」から構成された尾のハンマーの存在が明らかになったのである。
 パークスが記載したディオプロサウルスの模式標本ROM 784は、頭骨の破片と関節した下半身(パークスの記載の後追加で行われたクリーニングによって、完全な後肢が折りたたまれた状態で埋もれているのが発見された)からなっている。下半身は関節した状態であり、皮骨が(少なくともある程度は)生前の位置関係を留めていた。パークスはしっかりこの標本がアンキロサウルス科に属することを見抜いた。ディオプロサウルスの下半身は、ブラウンによるアンキロサウルスの復元とは著しく異なっていたが、そういうわけでアンキロサウルス科に関する理解がかなり進んだわけである。

 パークスの記載から4年後、同じアルバータダイナソー・パーク層の最下部(ないしオールドマン層の最上部?)から、本ブログではすでにおなじみカトラーによって発見されていた鎧竜の骨格が、“あの”ノプシャによって記載された。ノプシャはこの骨格(NHMUK R5161―――当時カトラーは大英博物館付きの化石ハンターだった)をスコロサウルス・カトラーリScolosaurus cutleri命名し、記載を行った。
 スコロサウルスの化石はとんでもない代物で、頭こそ欠けていたが首から尾、四肢に至るまで関節した状態であり、しかも背中の皮骨(というか皮膚痕)は生前の配置をよく留めた状態で残されていた。今日に至るまで、北米産の鎧竜化石(のうちよく研究されたもの)としては最良の標本である(以前紹介したこの標本はスコロサウルスの模式標本を上回る保存状態と期待される。真っ当な研究機関に入ることを強く望む。)
 これだけ状態のよい標本だったのだが、ノプシャははたと悩んだ。スコロサウルスの尾は、大きな一対のトゲが生えているあたりで侵食によって途切れていたのである。もちろんディオプロサウルスと同様のハンマーをもっている可能性もあったが、短い尾をもっていた可能性についてもノプシャは言及している。
 こうした背景もあって、ブリアンが描いたスコロサウルスの復元画には巨大な一対のトゲが描かれた(尾がかなり短い点、そしてハンマーが明確に描かれていない点に注目)。が、結果的に「尾の先端の一対のトゲ(本来は尾の中ほどに位置する・・・上図参照)」が独り歩きし、結果「後付け」のハンマーと結び付けられて、ふた昔前の図鑑によくあるイメージができあがってしまったのである。
 
 スコロサウルスの記載の翌年には、スターンバーグ(息子のチャールズ・モートラムの方)によって、同じアルバータのホースシュー・キャニオン層(当時はまだエドモントン層とよばれていた)で発見された鎧竜の部分骨格CMN 8530がアノドントサウルス・ランベイAnodontosaurus lambei命名された。スターンバーグは本種が歯を退化させ、一方で皮骨を発達させて歯の代用としていたと考え、「歯無しトカゲ」という属名を与えた。実際にはそんなことはなく、単に化石化の過程で歯が全て脱落し(よくある話である)、そこに皮骨の破片やら何やらが引っかかっていただけの話だったが・・・・・・。
 いずれにせよ、これらの発見によって、アルバータの鎧竜は一気ににぎやかになったわけである。一方で、いずれの標本もいまいち決定打に欠けるもの(部分的だったり、損傷がひどかったり、肝心の頭がなかったり)であった。ギルモアがモンタナ産の鎧竜の部分骨格(かなり完全な頭骨を含む;USNM 7943)をディオプロサウルスとみなしたりはしたが、その程度が限界であった。

 そうはいっても、鎧竜の分類は1960年代まで混乱の極みにあり、これらの属について分類の再検討が行われることはなかった。
 当時の鎧竜の下位分類といえば、スケリドサウルスやヒラエオサウルスなどの原始的らしいをまとめてぶち込んだアカントフォリス科(!)、そしてエドモントニアやアンキロサウルスなどより進化的と思われるものをまとめたノドサウルス科(つまりこの時期アンキロサウルス科はノドサウルス科のシノニムとなっていた)である。そこにマレーエフがシルモサウルス科(シルモサウルスは現在ピナコサウルスのシノニムとなっている)を付け加えたことでもはやどうしようもないことになっていた。
 分類がこういう状況だったから、当然鎧竜の復元もかなり危険な状況となっていた。アンキロサウルスとエドモントニアを足して2で割ったような復元が溢れていたのだ。

 この混沌の渦に真っ向から立ち向かったのがウォルター・P・クームズJr.であった。クームズは1971年の博士論文(とその後出版された一連の論文)で容赦なく大ナタを振るい、あとにははっきりと再定義されたアンキロサウルス科とノドサウルス科が残ったのである。クームズによる大改革によって、単離した皮骨だけでも科レベルの同定が可能になり、また真っ当な鎧竜の復元が実質的に初めて可能になったのだった。
 そうは言っても、さすがにクームズにも限界はあった。本当にどうしようもない部分(ヨーロッパ産ノドサウルス類)については暫定的にまとめざるを得なかったし、多少の問題があることを承知の上で、エドモントニアをパノプロサウルスのシノニムにしたりもしている(そういうわけでパノプロサウルスからエドモントニアが再分離して今日に至っているわけだが、この過程でバッカーが色々やらかしたりもしている)。クームズはこの時、北米の鎧竜のうち、エウオプロケファルスとディオプロサウルス、スコロサウルスそしてアノドントサウルスの化石が部分的であることに注目した。これらの模式標本はいずれも部分骨格であり、保存状態もまちまちで、それゆえ独自の特徴を保持しているか怪しいところがかなりあった。
 これらの恐竜は基本的によく似ており、また頭骨にはかなりの形態変異がみられた。クームズは頭骨一つ一つを新種にするようなことは避け(エドモントニアでこれをやらかしたのがバッカーであったが、それはまた別の話である)、一連の恐竜をすべてエウオプロケファルス・トゥトゥスにまとめた。骨格には形態変異がなんだかんだでかなりあったが、それらは個体変異や化石化の過程で受けた損傷などによるものであるとされた。

 カーペンターはクームズの意見に従い、ディオプロサウルスとスコロサウルス、アノドントサウルスをエウオプロケファルスのシノニムとみなした上でエウオプロケファルスの皮骨の配置を復元した(今日一般に目にする復元は全てこれに基づいている)。また、これらの説を踏まえて、G.ポールもエウオプロケファルスの合成骨格図を描いている。
 一方でカーペンターは90年代ごろには、ディオプロサウルス(この場合スコロサウルスも含む)とエウオプロケファルス(この場合アノドントサウルスを含む)がやはり別属だろうと考えていたようだ。もっとも、この研究はとうとう出版されることがなかった。

 さて、ここで改めて、「膨れ上がった」エウオプロケファルスについてちょっと考えてみたい。スコロサウルスやディオプロサウルスはダイナソー・パーク層の最下部近く、すなわち白亜紀後期のカンパニアンの中頃(7650万年前ごろ)のもので、一方でアノドントサウルスはホースシュー・キャニオン層、すなわちマーストリヒチアンの半ば過ぎ(~6800万年前ごろ)のものである。これらを全てエウオプロケファルス・トゥトゥスとしてまとめると、生存期間がかなり長く、かつかなりの形態変異を示しているということになる。要するに、時代やら何やらを勘定に入れて再検討する必要があったのである。クームズの大改革から30年以上が経過し、再びナタを振るう時が近づいていたのだ。

 そういうわけでArbourの一連の研究に代表されるように、ここ数年、様々な研究者が鎧竜に飛び付いている。
 手始めに復活を遂げたのがディオプロサウルスで、(これといって未成熟でもないのに)尖った後肢の末節骨や、腰帯の構造、ひょろりとした小さめのハンマーから、エウオプロケファルスとはやはり別物であると考えられた。
 次いで復活したのがスコロサウルスである。やはり腰帯のつくりはエウオプロケファルスそしてディオプロサウルスとは異なっており、また胴椎の数はエウオプロケファルスとは異なっていた(上の図で頑張って数えてみよう)。
 モンタナ産エウオプロケファルスとされていた一連の標本(上で少し触れた「ディオプロサウルスの頭骨」も含む)は新属新種オオウコトキア・ホーナーリOohkotokia horneriとなった・・・と思いきや、すかさず復活したスコロサウルスのシノニムとなってしまった。オオウコトキアとスコロサウルスとを分かつ特徴とされていたものは有意なものではなく、一方で「上面の平らな第1ハーフリング」を共有していた。かくしてスコロサウルスは頭骨とハンマーを手に入れたのである。
 アノドントサウルスも無事に復活を遂げた。頭骨や第1ハーフリングの皮骨の形態はエウオプロケファルスやスコロサウルスとは異なっており、またとんでもなくデカくて尖った尾のハンマー(ポールのエウオプロケファルス骨格図のハンマーである)は他のものにはみられない。
 この手の話だと最後にエウオプロケファルスが疑問名に転落する―――というのが稀によくあるパターンだが、このケースではそうはならなかった。エウオプロケファルスの模式標本は部分骨格ではあったが完全な第1ハーフリング(上で触れているとおり、分類上割と重要な特徴を保持している)を保存しており、ディオプロサウルスなどが分離独立してもなお残った多数の比定標本から、はっきりした特徴が見出されたのである。

 こうして、ララミディア北部のアンキロサウルス類は復権を遂げた。一連の研究によって、これらのアンキロサウルス類が(オーバーラップしつつも)異なる時代の異なる地域で暮らしていたことが示されている。
 近年の研究でララミディア南部のアンキロサウルス類の記載も進み、白亜紀後期後半の鎧竜たちの姿がようやく見え始めてきた。クームズの大改革以来となる鎧竜の再検討の激流はまだまだ続き、しばらくはだいぶ派手なことになるだろう。