GET AWAY TRIKE !

恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

ラストエンデミズム【ブログ開設5周年記念記事】

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↑Skeletal reconstruction of Dryptosaurus aquilunguis,
the best-known late Maastrichtian dinosaur in "old" Appalachia,
based on holotype
and Triceratops horridus, typical chasmosaurine
in mid-late Maastrichtian "old" Laramidia, based on SDSM 2760.
Scale bar is 1m.

 5周年である。我ながら5年もよくやったと思うところでもあるのだが、言うまでもなく取り上げていないネタは数知れず、そういうわけで当分飽きは来そうもない。

 さて、アパラチア(そしてそれと対をなすララミディア)といえば本ブログではこれまで散々取り上げてきたわけだが、ここに書くまでもなく恐竜相(というか陸上生物相全般)の理解はあまり進んでいない(ララミー変動による育ち盛りのロッキー山脈を後背地に抱えたララミディアと比較するのが間違いといえばそうでもあろうが)。ここ数年ブラウンスタインによって(いささか小出しにしすぎているきらいがあるのだが)獣脚類の再評価が進められているのだが、アパラチオサウルスのホロタイプ以降、部分骨格が見つかる気配は一向にないのが現状である。断片に基づくトピックはいくらかあったが、正直なところ何とも言えない話止まりではある。
 一方鳥盤類に目を向ければ、久方ぶりの(そしてアパラチアでは空前(目下)絶後の)まともな新発見――エオトラコドンの記載は記憶に新しい。アパラチア産の頭骨付きハドロサウルス類といえば実質的にそれまでロフォロトンのホロタイプ1例しか知られていなかったわけだが、エオトラコドンのホロタイプはララミディア産の最良クラスに匹敵するほぼ完全な頭骨を残していたのである。
 そしてもうひとつ、標本はわずか1本の歯に過ぎないが、これまでの(少なくとも一般(何)的な)認識をひっくり返す話題が一昨年にあったのは記憶に新しい。二重歯根――ケラトプス上科の特徴である――をもつ角竜の歯が、ミシシッピ州の最上部白亜系オウル・クリークOwl Creek層で産出したのである。

 その標本MMNS VP-7969――見てくれはその辺で1本4、5万円で売られているトリケラトプスの歯の最高級品と変わりない――が産出したのはミシシッピ州はユニオン郡を流れる川のほとり、それも最近その辺に溜まったちょっとした泥の中からであった。この川(詳細な産地情報は産地保護の観点からか、一般には公開されていない)に沿って更新統と古第三系(ダニアン)のクレイトンClayton層、そして上部白亜系(マーストリヒチアン)のオウル・クリーク層とリプレイRipley層のチワパChiwapa砂岩部層が露出しているのだが、様々な状況証拠――特筆すべきことに、蟹やらモササウルス(ホフマニとされている)やらなんやらと共に、名実ともに最後のアンモナイトのひとつであるディスコスカファイテス・アイリスDiscoscaphites irisが同じ吹き溜まりから共産した――からして、この歯がオウル・クリーク層上部――マーストリヒチアンの中頃以降に由来することはほぼ確実であった。

 オウル・クリーク層(やその下のリプレイ層)はミシシッピ湾入――ララミディアとアパラチアを分かつ西部内陸海路(WIS)の南端近くに口を開けた巨大な湾――の南西部を構成しており、つまりこの場所はアパラチア南端近くの海だったことになる。MMNS VP-7969にみられる摩耗はわずかであり(歯根が残っていた――遊離歯ではないことを差し引いても)、すぐ近辺からやってきた角竜のようである。――白亜紀最後のほんの数百万年の間に、アパラチアにケラトプス科角竜が侵入していたのである。
 マーストリヒチアン後期にWISが閉鎖された(一方でモンタナ-南北ダコタ近辺に白亜紀のほぼ末までWISの名残の海があったのも確実なのだが)可能性については色々な観点から度々指摘されていたことではあったのだが、いかんせんアパラチアの陸上生物相の保存の悪さもあっていささか決定打を欠いていた。歯一本だけとはいえMMNS VP-7969はまぎれもないケラトプス科角竜――他にはララミディアと山東省そして(おそらく)日本(下甑島)でしか知られていない――であり、そしてそれがララミディアから(マーストリヒチアンの半ば以降に)渡ってきたのもほぼ確実である。

 右歯骨歯1本だけではケラトプス科角竜であること以上の同定はどうやっても不可能なのだが、言うまでもなく当時の(旧)ララミディア側の状況はMMNS VP-7969の正体のヒントになる(ヒント止まりだが)。マーストリヒチアンの中ごろ(ここではざっと6900万年前にしておこう)のララミディア南部の角竜といえば、“トロサウルス”・ユタエンシス“オホケラトプス”・ファウラーリ(要はどちらもトリケラトプス族である)あたりが挙げられるが、どちらも内陸部の住人である。
 もう少し目を北に向けてやると、海岸平野で形成されたとされるララミー層ではトリケラトプス・ホリドゥス(のうち最古のもの)とトロサウルス属と思しき謎の部分骨格が産出している。両者は後のヘル・クリーク層(これも基本的に海岸平野で形成された地層である)でも産出しており、トリケラトプス族の中でも比較的海辺が好きな部類なのかもしれない。
 このあたりは言うまでもなく妄想止まりの話であり、結局のところアパラチア側でそれなりの頭骨要素(何度も書くがMMNS VP-7969は遊離歯ではないわけで、本来近くに歯骨があったことを示唆している)が見つからなければどうしようもない話である。とはいえ、もろもろの間接証拠からするとMMNS VP-7969はトリケラトプス族に属しているようで(現状の化石証拠からすると、マーストリヒチアンの中ごろまでに非トリケラトプス族ケラトプス科は絶滅しているようである)、ひょっとするとトリケラトプス属かトロサウルス属の可能性さえあるのだ。

 散々書いて書きすぎることはないが、結局のところアパラチアの陸上生物相はわかっていないことがあまりにも多い。とはいえ、MMNS VP-7969の発見で、マーストリヒチアンの半ば過ぎには少なくとも旧アパラチア側の南部までケラトプス科角竜が進出していたことが明らかとなった。
 この時期のアパラチア側の恐竜相が多少なりとも明らかになっているのははるか彼方のニュージャージーはネーヴシンク層とニューエジプト層だけである。もっとも、アパラチアはララミディア側と比べて全体的に平坦であり、目立った障壁になる地形は特になさそうでもある。ララミディアの南北で恐竜相が明確に分かれていたとする意見はだいぶ勢いを失いつつあるのだが、それをさておいてもアパラチアの恐竜相が各地で割と均一だったというのは(現状化石証拠も何もないのだが)割とありそうな話でもある。

 はるばるミシシッピ湾入まで旅した角竜――初期のトリケラトプス・ホリドゥスの可能性さえある――はそこで何を見たのだろう。あるいはそこにいたのは大人になってもティラノサウルスの亜成体めいた姿の獣脚類――ドリプトサウルスだったのかもしれない。

【開設5周年記念特別寄稿】板橋の若武者

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↑Skeletal reconstruction of Triceratops horridus
in Itabashi Science and Education Museum.
Scale bar is 1m.

 このブログの読者の方々には言うまでもないことだろうが、現在日本の博物館で見られる恐竜の骨格の多くはレプリカが大半である(実物化石を用いた展示も数多くあるのだが)。恐竜の実物化石が見られる施設というのは、今なお貴重であろう。その実物化石が見られる博物館の一つが、板橋区立教育科学館である。
 
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 ここでは1階ホールに、トリケラトプスの頭骨の実物化石(ただし、アーティファクトと思しき箇所がいくつか存在する)とエドモントサウルス(※)の右後肢の骨格(中足骨から下はレプリカの可能性あり)がポツンと展示されている。国立科学博物館とは異なり全身が展示されているわけではないが、このトリケラトプスの頭骨については、他に類を見ないレベルで保存状態が良好である。
 特に正面から見た時のアングルに注目していただきたい。地層の圧力による変形をほとんど受けてない、良好な保存状態である。全身骨格こそ見られないが、すばらしい保存状態の頭骨をここで見ることができるのだ。
 
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 ではここで、この頭骨化石の来歴について振り返ってみよう。
 この頭骨化石の起源は、アメリカ合衆国ワイオミング州のランス・クリーク累層から1980年代にWestern Paleontological Laboratories(以下WPLと表記) によって発掘されたところまで遡る。少なくとも1991年までにプレパレーションが完了した。頭骨化石のフリル裏面には、プレパレーションを担当した(今となっては大御所の)WPLの方々の名前が書かれた金属パネルが取り付けられている。とりわけ、Ronald G.Mjos(ヘスペロサウルスの種小名にもその名前がついている)の名前が一番上に記されている辺り、この頭骨化石の歴史の重みが感じられるだろう。この金属パネルは今も板橋区立教育科学館で見ることができるので、同館に来館した際は是非確かめていただきたい部分である。
 
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 その後、日本の一企業である学研が大枚をはたいてエドモントサウルスの骨格と共に購入した。これは1990年に大恐竜博を開催したことがきっかけとなったそうだ。
 そして購入された頭骨化石は学研の関わった恐竜展で使用されるようになり、日本全国を旅することになった。残念ながらどの地域のどのような恐竜展において使用されたかはほとんど不明であるが、少なくとも1993年には大阪で開催された恐竜展「DINO ALIVE」において展示されたことが判明している。
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 しかしながら、1990年代後半から2006年まで(所沢市にあるらしい)学研の倉庫において、頭骨化石はほかの教材と共に長い間眠りに就くこととなった。噂によれば、この当時の学研は自らの手で博物館を建造する予定もあり、恐竜化石もその一環として購入されたものだったのだが、同社が当時業績不振で余裕がなかったことでそれは叶わず、恐竜化石も一度は封印を余儀なくされたという。
 しかし、転機は2007年に訪れた。板橋区立教育科学館が学研の指定管理社になったことがきっかけで、エドモントサウルスの骨格ともども同館の常設展示へとデビューしたのだ(その当時の運搬の様子が大人の科学編集部のブログに掲載されている)。当時は非常に話題となったのか、産経新聞にも記事が掲載された

 このトリケラトプス頭骨の骨学的特徴であるが、骨どうしが癒合しきってない点や角の長さと角度を鑑みるに(角についてはHorner&Goodwin,2006を参照のこと)、おそらく亜成体の骨格であると考えられる(ちなみにフリルの突起は後から継ぎ足された所謂「アーティファクト」であり、この標本の成長段階を調べるにあたっては参考にならない)。
 化石化する際に失われたものなのか、もしくは生きている時に折れたものなのか、それは不明である。ちなみに上述の写真のように、1993年の展示に使用された時には(いかにも継ぎ足されたような)右角が存在していたが、現在展示されている標本は右角が欠けたままとなっている。
 角はなぜ折れたのか? 折れた角の先端はどこへ消えたのか? それは永遠の謎である。
 
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 2018年10月現在、この頭骨化石を所有しているのは、板橋区立教育科学館ではなく、学研という一企業である。当然のことではあるが、骨学的な記載や研究がなされたことはこれまで一度もない。この頭骨化石は国内におけるトリケラトプスの標本としては非常に貴重なものであり、今後の研究にも大きく貢献できる可能性がある。まさに至宝なのだ。
 残念ながら筆者が同館に在籍していた当時は、展示解説パネルを更新することが関の山であった。だが、今後もし研究者のメスが入れば、新たな知見や発見があるかもしれない。その時、この若武者についてどんなことが分かるのだろうか。今後の動向に注目したい。

 この若きトリケラトプスの頭骨は、6600万年以上の眠りから目を覚まし、故郷から遠く離れた日本の科学館へと長い旅をしてきた。そして今は、板橋区立教育科学館のホールで静かに子ども達を見守っている。
 この記事をご覧になった方が、板橋区立教育科学館へと足を運び、このトリケラトプスの実物化石を見てもらえれば、筆者としてはこれ以上に嬉しいことはない。


(文責:ラクティア)
なお、本文における写真は、すべて筆者(ラクティア)が撮影したものである。


※なお、「エドモントサウルス属の一種」として展示されている同館の右脚骨格だが、実のところ右脚だけでハドロサウルス類の厳密な同定ができるはずもなく、本来は「ハドロサウルス類の一種」と表記するほうが適切ではある。しかしながら、館の来客層を考えた場合、「ハドロサウルス類の一種」としてしまうと混乱が生じやすくなるため、ここでは今なお「エドモントサウルス属の一種」として展示されている。ちなみにこの化石標本については、別個体の骨格を混ぜたコンポジットである可能性が高い。また、産地はアメリカ産ということ以外は一切不明である。


参考文献・HP
日立ディノベンチャー’90 大恐竜博ガイドブック (大恐竜博’90 Official Guide Book) (1990)(発行:株式会社学習研究社
DINO ALIVE ディノアライブオフィシャルガイドブック(1993)(発行:ディノ・アライブ実行委員会)
大恐竜博 Official Guide Book(1995)(発行:㈱東京放送(TBS)) 


 というわけで、う゛ぃじねすも含めGET AWAY TRIKE !とも縁の深いラクティアさんにブログ開設5周年を記念して寄稿していただきました。色々と楽しいう゛ぃじねすをさせていただいたわけで、板橋区立教育科学館は一度覗いてみるのもよいかと思います(通好みの標本がちょこちょこあります)。
 この手のひとつの標本を追いかける(いささかいかがわしい――だいたい筆者がいかがわしいタイプの人間であることは言うまでもない)記事が最近ご無沙汰なので、いずれまた適当なネタで書いてやりたいところ。。。

気が付けば

 ちょっとした思い付きとあてどもなく描き溜めていたポールやフォードのまねごとの流用でブログを立ち上げてから、早5年が経ちました。ちょっとした思い付きにしては長続きしたわけで、これからも気ままに気まぐれに書き散らかしていきたいところです。

 一昨年あたりから適当に蒔いていた種はこの1年で一気に(まだ芽吹いてないけど)根を張ったようで、これからの1年は(そして願わくばその先も)色々と危ない年になりそうです。
 このあたりの下心がブログ立ち上げの原動力の一つになったことには違いないのですが、とはいえ人の縁がなければ何もならなかったことで、この5年間の幸運な全ての出会いに感謝を。らえらぷすの名にかけて、現在進行形の悪だくみは最も邪悪な形で結実させてみせましょう。
 最後に、「こんなところ」にいい加減お付き合いいただいてる皆様に感謝を。俺たちの本当の戦いはこれからだ!

新しい風

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↑Skeletal reconstruction of Neovenator salerii holotype
(MIWG 6348 and NHMUK 10001).
Scale bar is 1m.

 ネオヴェナトルといえば、筆者(94年生まれ)が子供の頃に出た図鑑で「最近見つかった新種」の代表格だった覚えがある。曲者かつ古参ぞろい(最近新属が設けられたものもそれなりにはあるが、たいがい原記載は19世紀だったりするものが多い)のイギリス産恐竜のなかでは1996年命名と新しく、バリオニクスをしのぐ完全度、正統派のカルノサウルス類の風格もあいまって、早いうちからそれなりの知名度(何)をもっていたわけである。
 そうは言っても、ネオヴェナトルの研究が順風満帆に進んだわけではない。ネオヴェナトルのホロタイプの発見は命名の20年近く前――1978年までさかのぼる。

 ワイト島がイギリスの一大リゾート地であるとともに古くから――バックランドの時代から恐竜化石のよく知られた産地であることは今さら書くまでもないだろう。ワイト島をそのまま形作る下部白亜系ウィールデンWealden層群は、“イグアノドン・マンテリ”(この場合今日のマンテリサウルス・アザーフィールデンシスを指す)のかなり完全な骨格を始め、グレートブリテン島のそれよりも良好な化石をよく産出することでも知られていた。
 1978年のある夏の日(前夜は嵐だった)、バカンスに来ていた一家が海辺の崖とその真下の浜からいくつかの化石がのぞいているのに気が付いた。一家はその辺の農家からスコップやらを借りて泥縄式の発掘を始め、浜辺に埋もれていた化石――崖から洗い出されたもの――を掘り起こしたのである。それからの数週間、近辺の地質調査をしていた学生によって浜辺に埋もれていた化石がさらに掘り出されたのであった。

 結局これらの化石――明らかに崖から洗い出されて浜辺に再堆積したものだった――のほぼ全てが大英自然史博物館へ渡り、そしてそこでチャリグの面通しを受けることになった。チャリグはそれらに2つの恐竜――鳥脚類(マンテリサウルスだった)と獣脚類が混在していることを見抜いたが、きゃしゃ型のイグアノドン類はワイト島では珍しいものではなかったし、獣脚類にしてもあまりに断片的であった。いくらかの椎骨と砕けた腰帯だけだったのである。
 80年代前半にクリーニングされたこれらの化石は大英自然史博物館のナンバーを与えられたのち、一部を残して1987年にワイト島地質博物館へと移管された。そしてこれに先んずること数年、ワイト島地質博物館はマンテリサウルス目当てに問題の崖の本格的な発掘――“残り”がそこにあるのは確実だった――を再訪していたのである。

 この80年代半ばの調査の結果は意外なものとなった。マンテリサウルスの部分骨格が期待通り産出した一方で、その隣から獣脚類のまとまった骨格が姿を現したのである。アマチュア化石採集家を動員した調査やその後の派手ながけ崩れやらでこのサイトからはさらに獣脚類の要素が採集され、いつしかこの獣脚類――ワイト島地質博物館に移管されず大英博物館にそのまま残った要素も含め、全て同じ個体に属すると考えられた――は、中大型獣脚類としてはイギリスはおろかヨーロッパ全体を見渡しても最良クラスの骨格のひとつとなっていた。
 かくして、最初の発見から10年を経て、この獣脚類の研究がようやく本格的に始まることとなった。妙に大きな外鼻孔をもっていたことや要素の誤同定(座骨のブーツを恥骨のブーツと誤認した)もあり当初この獣脚類はメガロサウルス類と考えられたが(90年代に突入していたこの時期でさえまだメガロサウルス類の実態は不明確でもあった)、結局ヨーロッパ初の確実なアロサウルス上科との触れ込みで1996年にネオヴェナトル・サレリイNeovenator salerii命名されたのであった。

(原記載の出版された翌年になって、またしても砂浜からホロタイプと同一個体に属する尾椎が発見された。1998年のクリスマスには後肢が新たに発見され、そして2001年に趾骨が砂浜で採集されたのを最後に、ようやくネオヴェナトルのホロタイプの要素は「枯渇」した。とはいえ、砂浜のどこかにまだちょっとした残りが埋もれている可能性は十二分にある。)

 頭骨後半部と前肢をそっくり欠いていたとはいえ、(波に洗われすぎて訳の分からなくなったいくつかの要素を除けば)保存状態は抜群によく、完全度にしてもバリオニクスを遥かに凌ぐものであった。復元骨格を制作しない理由はなく、ホロタイプはそのままワイト島地質博物館の目玉として組み上げられた。
 こうしてワイト島の顔におさまった一方で、ネオヴェナトルの研究は必ずしも積極的に出版されたわけではなかった。原記載はかなり簡潔な記載に留まっており、その後詳細な研究がハットの修士論文としてまとめられたものの、(獣脚類屋の間では広く出回ったとはいえ)これが出版されることはなかったのである。
 とはいえこうした状況を放置しておくわけにもいかず(何といってもヨーロッパの中大型獣脚類としては抜群の完全度・保存状態であったし、白亜紀前期のものとしても非常に重要な存在であった)、隙を見てマウントはいったん解体された。ハットの修論以来10年で劇的に進んだ獣脚類の研究を踏まえ、2008年に待望のネオヴェナトルのモノグラフが出版されたのだった(そしてモノグラフの出版はネオヴェナトルに関連する研究を加速させ、病変やら顔面まわりの神経系やら、生態に絡む複数の研究が出版されるに至った)。

 ホロタイプの欠損部位(たとえば恥骨)は参照標本(ホロタイプの産地のすぐそばで発見され、一時ホロタイプとは異なる種の可能性を示唆されていたもの)である程度補完され、そして系統解析の結果(アロサウルス上科であることに変わりはないが)、ネオヴェナトルはこれまでよりも派生的な位置――カルカロドントサウルス科の姉妹群となった。
 ネオヴェナトルのホロタイプのサイズはその辺のアロサウルスと同じくらいなのだが、実のところこれは亜成体である(神経弓と椎体はそれなりにしっかり関節しているようだが縫合線は明確に残っており、また仙椎の癒合も進んでいなさそうな気配がある)。ネオヴェナトルの産出したウィールデンWealden層群ウェセックスWessex層上部(の下部:白亜紀前期バレミアン;ざっくり1億2940万~1億2500万年前のいつか)では先述のマンテリサウルスの他にイグアノドン属(おおかたI.ベルニサーレンシスだろう)と思しき化石が知られており、このあたりを相手取るにはやはり10mくらいのサイズは欲しいところである(ウェセックス層では9m超級とおぼしき獣脚類の単離した趾骨が知られていたりもするのだが、これがネオヴェナトルのものかどうかは現状はっきりしない)。

 ヨーロッパ産中大型獣脚類としての完全度ランキング1位の座はコンカヴェナトルの発見で奪われた格好になったが、しかしネオヴェナトルの重要性は微塵も揺るがない。白亜紀前期~“中期”にかけてローラシアゴンドワナ双方の頂点捕食者として君臨したカルカロドントサウルス類と、ジュラ紀後期に北米とヨーロッパで「ぽっと出で」栄えたアロサウルスとをつなぐポジションにおかれたネオヴェナトルと、そのお株を奪う形となったコンカヴェナトルの存在は、カルカロドントサウルス類の初期進化がヨーロッパ(というよりはこれに北アフリカを加え、テチス海沿岸域としてもよいのかもしれないが)で起こった可能性を示唆している。
 ネオヴェナトル――新しい狩人、と名付けられたそれは、しかしその実ジュラ紀後期の獣脚類の正統後継者に過ぎないものであった。ネオヴェナトルの類縁はその後軽く3000万年に渡って頂点捕食者として君臨することになるのだが、その次に頂点捕食者となった系統――ティラノサウルス上科のエオティラヌスもまた、“新しい狩人”と共にそこにいたのである。

性懲りもなくむかわ竜についてgdgdと

 先日の特番(再放送もBSということで、持たざる者は結局オンデマンドに頼るほかないようだ)はすべて一連の計画のうちであったらしい(このあたり、色々な流れというか動きが見える)。クリーニングの終わった(厳密にいえば、まだ(そして究極的にはひょっとすると未来永劫)未同定の破片がかなり残っているというのだが)むかわ竜の化石が報道公開され、ここに改めて全容が示されたわけである。
 プレスリリースに書かれていることが現状のほぼ全てであり、またむかわ竜の全容について写真以上に語れることは少ない(そして賢明なるげったうぇーとらいくの読者諸氏には現状それで十分すぎるはずだ)。少なくともこのタイミングで筆者ごときが何かを書く必要はないだろう(やるべきことは他にあるのだ)。

 そうは言いつつ何度も書いていることだが、(しばしばNHKの映像に現れるCGとは違って)むかわ竜はサウロロフス亜科のなかではわりあい小顔ですらりとした部類に入るようだ。ブラキロフォサウルス族のような特に華奢なグループと比べて四肢はなお華奢といってよく、このあたりは(全長7mを超えるサイズであるにも関わらず)まだ亜成体であることを示しているのかもしれない。
 頭骨は驚くほど(あらぬ心配をするほどに)大きくアップの写真が掲載されており、色々なことが読み取れる。頬骨と前前頭骨-前頭骨-後眼窩骨コンプレックスの様子から(ひょっとすると亜成体の可能性があるにも関わらず)眼窩は上下非対称性がかなり強いことがうかがえ、このあたりは(小顔であるにも関わらず)エドモントサウルス族やサウロロフス族と似ているようである(鼻骨-前頭骨クレストの気配はなさそうなのだが)。一方で、これほどまでにスレンダーな歯骨をもつハドロサウルス類はめずらしいものでもある。

 この先むかわ竜関連で大きな動きがあるのは、たぶん命名か全身骨格の完成のタイミングだろう。どちらが先になるかはわからないが、どちらにしても本業でこの時代を扱っていた筆者にとっては(勝手に)感慨深い話である。

(賢明な読者のみなさまはとっくにお気づきの通り、むかわ竜の右歯骨の内側面や左歯骨の外側面には大小さまざまな穴が開いており、死後それなりに長時間にわたってばらけた頭骨が海底面に露出していたらしいことをうかがわせる(歯骨の穴のいくつかはかなり大きく、ひょっとすると何かの噛み痕なのかもしれない)。産状の詳細が明らかになるのは先の話だろうが、このあたりむかわ竜はまた色々と語ってくれることだろう。)

孤独の海

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↑Skeletal reconstruction of Nipponosaurus sachalinensis holotype UHR 6590.
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 今でこそ「恐竜研究(というか中生代の大型化石爬虫類全般)」が行える研究機関は日本でもみられるようになったが、かつては――研究対象を世界に求めることのなかった頃は、独り立ちした研究者にせよ学生にせよ「恐竜研究」に携わることのできるケースは極めて稀であった。たまたま研究に携わることができたとして、それは「たまたま」であったから、そうした分類群を専門とする古脊椎動物研究者はほとんどいなかったわけである。たまたま研究に駆り出されるのは、研究分野が近くて化石哺乳類研究者、遠ければ無脊椎動物――アンモナイトやその他の化石軟体動物研究者であった。
 こうした状況が変わり始めたのは最近の話で、つまり日本人研究者として最初に恐竜の研究に取り組んだ長尾巧も恐竜屋ではなかった。イノセラムスをはじめとする二枚貝化石が専門だったのである。

 北海道帝国大学の古生物学教室で教授を務めていた長尾はしばしば「多芸はよくない」と口にしていたというのだが、1933年7月に「多芸」に首を突っ込むことになった。南樺太(現サハリン)の林業者が「動物の頭」を持ちこんだのである。これがデスモスチルス気屯標本の頭部で、長尾率いる調査隊はソ連との国境にほど近いエリアでデスモスチルス・ヘスペルスのほぼ完全な骨格を発掘し、その後ライフワークとして研究に取り組むことになったのだった。
 さて、1934年になり、デスモスチルスの発掘も終わって札幌へ戻ってきた長尾の元にまたも南樺太から連絡が届いた。連絡の主は当時北大に出入りしていた化石販売商の根本で、三井鉱山の川上炭鉱(現シネゴルスク)に附属する病院の建設現場で骨化石が発見されたというのである。拡張工事で削られた崖から姿を現した巨大ノジュールに、化石がまだまだ埋まっていることは間違いなかった。
 その年の11月から12月にかけて鉱山の作業員らを動員して発掘が行われ、1体の比較的よく揃った恐竜の部分骨格が採集された。採集された骨格は北大に寄贈されることになり(重役会議の場で決まったという)、デスモスチルスと同様に長尾が研究にあたることとなった。またしても「多芸」に手を染めることになったのである。

 「上部菊石層群の上部」(海成層;色々とめんどくさい研究史があるのだが、とりあえず現在では蝦夷層群ブイコフBykov層と呼ばれている。サントニアン後期~カンパニアン前期(およそ8400万~8200万年前)とされているのだが、このあたりについては後述する)で発見されたこの恐竜は、部分的に関節がつながった状態で保存されていた。部分的に関節した状態であった割には骨そのものの保存状態は良いとはいえず、表面がだいぶボロボロになっていた上にノジュールとしっかり結合しており、(当時の機材では)クリーニングは文字通り骨の折れる作業となった。
 あらかたクリーニングの終わった1936年、長尾は記載論文を出版し、この恐竜について詳細に記載するとともにニッポノサウルス・サハリネンシスNipponosaurus sachalinensis(今となっては色々とアレな感じの学名である)と命名した。前肢を欠くほかは全身のかなりの部分が残っており(頭骨についてもとりあえず後頭部が採集された)、北米産の様々な“トラコドン科”と比較することができたのである。

 1936年当時、ハドロサウルス類の分類は割と混乱状態にあった。おおむね現在と通ずる分類が確立されていたものの、棒状のクレストをもつサウロロフスやプロサウロロフス、パラサウロロフスの位置づけには議論が生じており、結果、クレストをもたない「ハドロサウルス亜科」、ひれ状あるいはドーム状のクレストをもつ「ランベオサウルス亜科」、そして棒状のクレストをもつ「サウロロフス亜科」の3つに大別されることとなっていたのである(さらに、パラサウロロフスをサウロロフス亜科に入れるのかランベオサウルス亜科に入れるのかの問題がここに付随する)。
 ニッポノサウルスの頭骨の前半部は未発見であり、従ってクレストの有無は不明であった――が、長尾はしっかりニッポノサウルスの座骨にブーツが存在すること――ランベオサウルス亜科の特徴を見出していた(一方で、当時はサウロロフスにも座骨ブーツがあると考えられていたこともあり、サウロロフス亜科の可能性についても長尾は言及している)。
 当時知られていた北米産の(パラサウロロフス以外の)ランベオサウルス亜科の恐竜といえば、ランベオサウルスにコリトサウルス、ヒパクロサウルス、“ケネオサウルス”、“テトラゴノサウルス”の5属であった(うち最後の2属は現在では幼体に基づくものとして、疑問名やシノニムとなっている)。ニッポノサウルスの仙椎(前半3つが保存されていた)が癒合していた(実際には第1仙椎はまだ癒合していなかったのだが)ことから長尾はこれを成体であると考え、既知の大型属の幼体である可能性を否定した。“ケネオサウルス”、“テトラゴノサウルス”(いずれも当時はランベオサウルス類の小型種とされていた)とはよく似ているフシがあったのだが、いかんせんニッポノサウルスではクレストが未発見だったので、まともな比較は不可能だった。

 こうした事情もあって、ニッポノサウルスの分類学的な有効性について、実のところ端から長尾は疑念を持っていた。一方でこうしたタイプの“トラコドン科”は北米でしか見つかっておらず(明らかにニッポノサウルスは“マンチュロサウルス”やタニウスとは別物だった)、かくして、(半ば割り切って)長尾はニッポノサウルスを命名したのである。
 さて、ニッポノサウルスのホロタイプは全身が比較的よく残った標本ではあったのだが、前肢がそっくり欠けていたり、肝心の頭骨前半部が欠けていたりで不完全燃焼といったところではあった。そもそもの産状が部分的に関節していたということもあり、まだ掘り残しがあると睨んだ長尾は、1937年の夏に川上炭鉱を訪れることにした。この追加発掘で、すでに完成していた附属病院の一部を取り壊すという最終手段が功を奏し、長尾の目論見通りホロタイプの掘り残しの前肢――ほぼ完全――が採集されたのである。この前肢についても1938年に記載が行われ、ニッポノサウルスに関する基礎研究はひと段落付くことになった。

 原記載の中で(属・種の分類に使えるような)まともな骨学的特徴が見出されなかったため、その後ニッポノサウルスの分類学的な位置づけは混乱することになった。クレストが欠けており、幼体くさい雰囲気(小さな体サイズやひょろ長い後肢など)が漂っている状況ではなおさらである。
 また、もう一つ大きな問題があった。ニッポノサウルスを“マンチュロサウルス”の近縁とみなす意見から、ハドロサウルス科の基盤的なものとみなす意見、そして疑問名とする意見までよりどりみどりであった一方で、それらの意見は全て長尾の原記載にのみ基づいていた。誰もニッポノサウルスのホロタイプに触ったことがなかったのである。原記載の図版には明らかにクリーニングの終わっていない椎骨の写真があふれており、従って誰かが基礎的な情報を更新する必要があった。
 これに名乗りを上げたのが北海道大学の学生であった鈴木であり、修士研究(!)としてニッポノサウルスの再記載にあたることとなった。手始めに行われた再クリーニングの結果、案の定椎骨の縫合線がはっきりと現れた。ニッポノサウルスのホロタイプUHR 6590は成体ではなかったのである。

 ホロタイプの再クリーニングの結果、新たに関節した頸椎~胴椎や頭蓋天井の一部、そして吻の断片が見出された。これによって(断片とはいえ)頭骨の詳細な骨学的情報が明らかとなり、ニッポノサウルスがランベオサウルス亜科に属することは確実となった。さらに、ニッポノサウルス独自の特徴らしいものも複数見出された。
一方で、原記載で図示された要素のうち、いくつかのものは原記載時の状態からかなりのダメージを受けていることが確認された。後頭部の要素も長年の間にダメージを受けており、頭蓋天井とされていた要素(前述の通り正真正銘の頭蓋天井が新たに見出されており、原記載で頭蓋天井や方形骨とされていた骨は何かの誤認だったらしいのだが)はごっそり行方不明になっていたのである。
 再記載にあたって行われた系統解析では、驚くべきことに(時代も地域もかけ離れているにも関わらず)ニッポノサウルスはヒパクロサウルス・アルティスピヌスの姉妹群となった(そしてニッポノサウルス+H.アルティスピヌスのクレードがH.ステビンゲリの姉妹群となった)。アジアと北米との間で白亜紀後期に恐竜の移動があった可能性は様々な研究で示唆されていたが、ニッポノサウルスもその一例であるらしいことが示されたのである。

 鈴木による再記載は2004年に出版された。久方ぶりにニッポノサウルスが表舞台へ出てきた一方で、この再記載で示された「ニッポノサウルス独自の特徴」について疑問視する向きもあった。
 また、ニッポノサウルスをヒパクロサウルス・アルティスピヌスと結び付けていた特徴についてもばっさりと否定された。ホロタイプは亜成体(あるいは大型幼体)であり、クレストがごっそり欠けていることもあって、系統解析には(やはり)色々な問題が伴うことも改めて指摘されるようになった。かくしてニッポノサウルスの有効性に再び黄信号が灯ったのである。
 そんなこんなで、ニッポノサウルスの(有効性と)系統的位置づけをはっきりさせるべく再研究が行われた。大腿骨や肋骨、血道弓をスライスして成長線の観察が行われ、ニッポノサウルスがどうも亜成体というより大型幼体であるらしいことが明らかになった一方で、全身の要素についても詳細な観察と比較が行われた。結果、特に頭骨から(今度こそ)ニッポノサウルス独自の特徴が見出されたのである。
 ニッポノサウルスの歯骨の筋突起は(頭骨前面/後面から見た時に)歯骨本体のど真ん中に位置しており、そこからいきなり垂直に伸びるが、他のハドロサウルス類では筋突起の基部は歯骨の側面の場所にあり、そこから斜め上に伸びる点で異なっている。また、ニッポノサウルスはハドロサウルス科としては唯一、はっきりした歯骨の「棚」をもっており(エオランビアやプロバクトロサウルスのようなもっと基盤的なものにはみられる一方で、ハドロサウルス科では幼体にさえもみられない)、全体として特殊化した下顎をもっていることが明らかになった。
 
 ヒパクロサウルス・ステビンゲリの様々な成長段階の標本を検討するなどして成長段階における変化が系統解析に与える問題を洗い出したところで、ニッポノサウルスの新たな系統解析が行われた。その結果は(またしても)意外なもので、マーストリヒチアン後期のスペイン産ランベオサウルス類――アレニサウルスArenysaurusとブラシサウルスBlasisaurusとひとまとめになってランベオサウルス亜科の基盤的な位置に置かれたのである。
 アレニサウルスとブラシサウルスが密接な関係にあることは以前から知られていたのだが、ニッポノサウルスの頬骨や歯骨の特徴(頬骨の腹側が突出、側面から見た時に歯骨の筋突起が前傾している、など)はこれらと共通するものであった。ここに至って、ニッポノサウルスが北米ではなくむしろヨーロッパと強いつながりをもっている可能性が浮上したのである。
 近年の研究で、山東省産のチンタオサウルスとスペイン産のパララブドドン、カザフスタン産のアラロサウルスとフランス産のカナルディアがそれぞれごく近縁であるらしいことが示され、どうもアジア-ヨーロッパ間で複数回ランベオサウルス類の移動があったことが判明した。ニッポノサウルスとアレニサウルス、ブラシサウルスを姉妹群とする解析結果もこれを示唆しており、ランベオサウルス類はアジアとヨーロッパ(そして南北アメリカ)で幾度となく移動を繰り返していたようだ。

 依然としてニッポノサウルスのホロタイプは大型幼体であり、しかも(未発達の)クレストが未発見であることから、その姿には謎が多く残されている。ホロタイプの前肢の短さはハドロサウルス科としては有数のレベルだが、果たして成体になったときにどうなっているのだろうか? クレストの形態には謎が多い(ブラシサウルスでは未発見であり、アレニサウルスでも前頭骨のドームしか残っていない)が、ひょっとすると成体ではアレニサウルスと同様の、妙に大きく膨らんだ前頭骨ドームをもっていたのかもしれない。棘突起は成長に伴って大きく伸長する可能性もあり、このあたりは想像すると非常に楽しい(現状では想像するほかないのだが)。

 1993年・94年と日本人研究者によるチームがサハリンで地質調査を行った際にシネゴルスクでニッポノサウルスのホロタイプの産地を再訪しようとした――が、川上炭鉱の附属病院は跡形もなくなっていた。地元民にも当時の様子を知る者はなく、ホロタイプの詳細な産地は所在不明となってしまったのである。ホロタイプがブイコフ層から産出したのはほぼ確実なのだが(戦前の三井鉱山の地質調査のデータやら何やらからするとサントニアン後期ないしカンパニアン前期ではあるらしい)、従って時代やタフォノミーに関する突っ込んだ議論は難しい。
 カンパニアン前期、太平洋岸から西を目指して移動していったニッポノサウルスの一群がいたのだろうか? それとも、サントニアン後期に西からやってきた一群が太平洋岸に居ついたのだろうか?
「日本最初の恐竜研究」は、まだ終わらない。