GET AWAY TRIKE !

恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

お前が大きくなあれ

↑Skull reconstructions of Pachyrhinosaurus spp. Scale bars are 1m.

 2010年代から始まった怒涛の角竜の命名ラッシュにより、ケラトプス科はずいぶんと構成メンバーの数を増やした。ド派手な装飾を備えたものがずいぶん目に付くようになったその中にあって、命名当時から今日に至るまで異彩を放っているのがパキリノサウルス――(ホーナーらによるアケロウサウルスの産出報告までは)角竜の花形たるケラトプス科において唯一、角らしい角を顔面から失った恐竜である。異端の角竜として知られてきたパキリノサウルスだが、その実ケラトプス科のなかでもよく栄えたものであった。


 第二次化石戦争が終わり、その後始末を経た1930年以降になると、北米における恐竜研究は冬の時代を迎えることとなった(第二次化石戦争以前から業界を支えていたベテランも続々とこの世を去っていった)。第二次化石戦争で大きくその数を増やしたケラトプス科角竜も例外ではなく、バッドランドでの調査は続いていたとはいえ、1933年のラルによる総説の出版後(総説を出版できるということは、つまり研究がひと段落着いたということである)、しばらく静かな状況が続いた。既存の属の新種が命名されることは何度かあったが、第二次化石戦争時に比べればまったく静かなものだったのである。
 1940年代の半ば、この状況にちょっとした変化が現れた。アルバータ州南西部のリトル・ボウ川流域――これまで恐竜の化石は特に知られていなかった――で、未知の角竜の頭骨が発見されたのである。1945年にはそこから30kmほど南のスカビー・ビュートでもうひとつ、似たような頭骨が発見された。ここに至ってチャールズ・モートラム・スターンバーグが動き出し、1946年にそれぞれの産地から(まだ採集されていなかった)頭骨を採集したのである。リトル・ボウ川の産地ではもうひとつ頭骨が見つかり、謎の角竜の頭骨は3つになった。――この角竜には角がなかったのである。
 リトル・ボウ川の産地で採集された2つの標本のうち、あとから見つかったCMN 8867は頭蓋の大部分(吻とフリルは部分的だったが)を保存していた。スカビー・ビュートにはどうも複数個体が埋まっていそうだったが、ピクニックに来た人々に長年ほじくりまわされていたりなんだりで、とりあえず採集できたのは1個体分の頭骨の断片であった。これらの標本の保存状態はいずれもぱっとしなかったが、その奇怪な特徴――鼻角も上眼窩角もなく、「破城槌」(チャールズ・モートラムはこう呼んだ)が鼻面から眼窩の前にかけて覆っていた――は明らかであった。
 この凄まじく肥厚した鼻骨の構造に感銘を受けたチャールズ・モートラムは、CMN 8867をホロタイプとして新属新種パキリノサウルス・カナデンシスPachyrhinosaurus canadensis――pachy-rhinusすなわち肥厚した鼻――を命名するのみならず、角竜の新科パキリノサウルス科を設けた(同年、ヒューネはすかさずこれをケラトプス科のパキリノサウルス亜科とした)。角らしいものはどこにも見受けられず、ひどく分厚い骨で構成された、非常に高さのある頭骨は、既知の角竜のどれとも異なっていたのである。 フリルは明らかに後端が欠けていたが、チャールズ・モートラムは(その長さや頭頂骨窓の有無についてはなんとも言えない、と断りを入れつつも)「短くて丸っこい」フリルを持っていたと考えていた。チャールズ・モートラム自らの手による復元模型は、草鞋を載せたプロトケラトプス、といった趣に仕上がったのだった。

 

(パキリノサウルス・カナデンシスの模式産地は当時で言うところのエドモントン層下部――現在のホースシュー・キャニオン層とされた(スカビー・ビュートは同時異相のセント・メアリー・リバーSt. Mary River層)。ここまではよかったのだが、チャールズ・モートラムはこれをランス期――マーストリヒチアン後期に相当するとみなしていた(実際は前期)。その上で、パキリノサウルスの(他の角竜とは異なる)著しく肥厚した骨からなる巨大でマッシブな頭骨は、そうした「奇形的発達」が白亜紀の終わり近くのいくつかの恐竜においてまかり通っていたことの証左としたのだった。)


 1950年代の終わりごろ、今度はレッド・ディアー川流域のホースシュー・キャニオン層でパキリノサウルスの頭骨が姿を現した。横倒しになり真っ白に風化しつつあったそれは地元民によって発見され(当初なにかしらの腰帯とみなされた――眼窩を寛骨臼と勘違いしたのである)、ドラムヘラーの地区博物館(現ドラムヘラー峡谷案内センター)によって採集された。巨大(今日に至るまで、トリケラトプストロサウルスの大型個体に次ぐサイズである)なうえに風化の進んだ頭骨で、しかも地区博物館には古脊椎動物化石の専門家がいなかったが、どうにか無事に(わずかな掘り残しはあったが)持ち帰ることに成功したのである。この頭骨にカナダ国立博物館が興味を示し、詳細なクリーニングと研究のため、オタワへと送られることとなったのだった。
 この「ドラムヘラー標本(研究が終わったのちに返還された;ナンバーなしのため、今日までこの名で呼ばれている)」は(掘り残しを含めて)頭蓋しか残っておらず(エドモントサウルス・レガリスのボーンベッドの中にぽつんと残っていた;他に角竜らしい要素は見当たらなかった)、相変わらずフリルの大半を欠いていたが、吻はそっくり残っており、全体として保存状態はホロタイプよりもずっと良好であった。この頭骨(趣は他のP.カナデンシスとは少々異なっており、一時は新種である可能性もうっすら指摘されたりもしたが、結局今日に至るまでP.カナデンシスとして扱われている)の記載にはワン・ラングストンJr.があたり、パキリノサウルスがケラトプス科のうちセントロサウルスや“モノクロニウス”、スティラコサウルスと同系統に属する可能性を指摘した。ラングストンはこの記載の翌年に自らのドラムヘラー標本の復元を修正し、フリルの形態がセントロサウルスやスティラコサウルスと同様のものであったことも示したのだった。
 1950年代の後半にはカナダ国立博物館によってスカビー・ビュート周辺の本格的な調査が始まっており、やがてエドモントサウルスとパキリノサウルスのボーンベッドが姿を現した(周辺にもボーンベッドが点在しており、魚類やカメ、プリオプラテカルプス(!)、様々な獣脚類やアンキケラトプスと思しき角竜、エドモントニア、哺乳類各種が産出している)。ボーンベッドからは新たに2つの部分頭骨に加え、骨格の様々なパーツ――フリルを含む――が産出した。かくして(依然としてフリルの全体が揃っていたわけではないのだが)パキリノサウルス・カナデンシスの頭骨のまともな復元がようやく可能となったのである。ラングストンは慎重を期して二通りの復元案を示したが、ラングストンが第一案としたものが結局正確といえるものであった。首から後ろの各要素についても比較が行われ、サイズ相応に、スティラコサウルスより頑丈なつくりであるらしいことが明らかになったのである。

 

(スカビー・ビュートでは、その後も散発的にパキリノサウルスの頭骨が採集されることとなった。層準は先述のボーンベッドと同じであり、相当広範だったということのようだ。)


 こうして1975年にはパキリノサウルス・カナデンシスの姿がかなりはっきりしてきたのだが、そこでパキリノサウルスの研究はしばらく休眠状態に入ることとなった。新標本はなかなか見つからず、ラングストンによる詳細な研究の上書きの機運も起こらなかったのである。
 一方で、1972年に事態はひっそりと動き出していた。恐竜化石に関してはそれまでほぼ手付かずだった(ハドロサウルス類の断片が一例あるだけだった)ワピチ層において、地元グランド・プレーリー中学校の理科教師であったアル・ラクスタによってパキリノサウルスのボーンベッドが発見されたのである。ラクスタは3年に渡ってこのパイプストーン・クリークのサイトをちまちまと掘り続けたが、1975年に地元紙に取り上げられたにとどまり、その間に専門家に知れることもなかったのだった。
 ラクスタの採集した標本の一部は地元の歴史博物館に寄贈され、そしてそこで運命の出会いがあった。1979年、PMAAでのキャリアを始めて4年目のフィリップ・カリーがそこを訪れたのである。ここに収蔵されていた要素はごく断片的だったが、それでも角竜のものであることは明らかだった――が、それ以上のことには発展しなかった。
1983年になって、設立準備中のティレル博物館(当時はまだ「ロイヤル」の冠がなかった)であくせくしていたダレン・タンケは、カリーのフィールドノートを読む機会があった。1979年の項で上述の観察記録に目を留めたタンケをなにがしかの直感がよぎり、カリーらと共にラクスタの案内でパイプストーン・クリークを訪れたのである。なんらかのセントロサウルス類のボーンベッドがそこに広がっていたが、それ以上の情報はその場では得られそうにもなかった。
 1985年こそ運命の年であった。ラクスタが歴史博物館に寄贈した標本を漁っていたタンケは、そこで紛れもないパキリノサウルスの鼻骨こぶを見出した。タンケは直感的にその標本がパイプストーン・クリークのボーンベッドに由来することを悟ったのである。その年の冬、ラクスタが採集した標本は全てロイヤルティレルに寄贈されたのだった。
 1986年の夏、ついにパイプストーン・クリークのボーンベッドの発掘が始まった。2.5m×6mの範囲で行われた試掘で手の施しようがないほどの壮絶な状況――後で確認されたことではあるが、1㎥あたり200個の化石が詰まっている(原義的な意味での骨層(ボーンベッド)、つまり骨同士が支えあって層を形作り、その隙間を他の堆積物が充填する)格好だった――が明らかになったことで、重機を入れて240㎡に渡る範囲を大きく掘削し、それからのシーズンはそこを計画的に発掘していくこととなった。春の雪解けと降雨とで緩みに緩んだ母岩の中に凄まじい密度で埋まっていた化石の発掘は難航したが、たびたび出現する熊やらなんやらの獣と(人間による)悪質な破壊行為(スタッフのいない間に装備が盗難されたり、露出させてあった化石が破壊されたりした)の前に、発掘のペースを落とすわけにもいかなかった。ゆえに、骨一つ一つについて走向・傾斜を測るというわけにはいかなかったのである(それでも最低限、ボーンマップは丁寧に作成された)。
 最初のシーズンが終わった段階で、ここから産出した成体のパキリノサウルスのフリルの正中線上には(少なくとも)1本の長いスパイクが存在することが明らかになった。こうした特徴は他の角竜では全く知られておらず(正中線上に複数のこぶを持つ標本はよく知られていたが)、かくして正中線上にスパイクを持ったパキリノサウルスの復元が氾濫することとなったのである。
 このボーンベッドでは(ひとまとまりの)頭骨の産出が多く、1987年のシーズンでは1日に4個(うち3個は20分の間に)見つかる始末であった。まともな保存状態の頭骨にはひとつひとつ愛称が付けられたが、フリルの正中線上のスパイクと顔面がひと揃いになっていたのは“シビル”の愛称のついたTMP 1986.055.0258だけであった。頭骨の数が集まり、個体変異が見えてきた時点でパイプストーン・クリークのパキリノサウルスがP.カナデンシスではないらしいことが明確になり、1988年にカリーとラングストンそしてタンケの3人によるモノグラフの計画が動き出した。タンケはこの未記載種をラクスタに献名にすることを提案し、カリーとラングストンも即座に賛成した。モノグラフの出版にはここから20年を要することになったのだが、その間ずっとこの名前の秘密は守られ続けたのである。
 発掘は1989年までかかり(結局のところ掘り残しが相当量あるらしく、2001年には見事な部分頭骨が侵食によって姿を現す始末だった)、骨の数にしてざっと2500個(2008年時点でそのうちの35%しかクリーニングが終わっていないという)、推定全長1.5mの幼体から6mほどの成体まで少なくとも27体(前歯骨の個数に基づく)のパキリノサウルス・ラクスタイPachyrhinosaurus lakustaiが姿を現すこととなった(ボーンベッドは様々な動物化石を含んではいたが、事実上そのほぼすべてがパキリノサウルス・ラクスタイであった)。このうち部分頭骨は21体分が確認され、個体変異を研究する上で重要なデータを提供することとなったのである。先述の通り、タフォノミーに関する詳細なデータを現地で取り切ることはかなわなかったが。それでもこのボーンベッドが大規模な洪水イベントによるパキリノサウルス・ラクスタイの大量死の結果であるらしいことははっきりしたのだった。
 このボーンベッドで採集された化石は、2体の成体と1体の幼体を純骨で組み上げていくらでも余りあるものであった(いずれも輸送しやすいよう「半ウォールマウント」として仕上げられた)。複数用意されたキャストは三次元的に組み上げられ、成体についてはそれぞれ異なる標本をベースとした復元頭骨が据えられた。これらの骨格はエクステラ財団の援助の下、中国・カナダ恐竜プロジェクト(CCDP)の巡回展の目玉の一つとして、ティラノサウルスのブラック・ビューティーやシンラプトル、モノロフォサウルスなどと共に世界を巡ることとなったのだった。

 

(パイプストーン・クリークで採集された化石の量は、発掘の終了から20年を経てもさばききれるようなものではなかった。数を活かし、様々な研究の材料として切り刻まれることが今日に至るまでしばしばある。)


 1980年代にもなると、白亜紀の古気候を陸成層から復元する試みが行われるようになった。白羽の矢が立ったのが高緯度地域――アラスカ(石油調査のついでに、1960年代には恐竜化石の産出が確認されていた)で、ノーススロープにて散発的に調査が行われるようになったのである。1987年にはコルビル川沿いのプリンス・クリークPrince Creek層にて、角竜の断片――後頭顆、ホーンレット、大腿骨の遠位端が発見されることとなった(これらはすべて別々の産地から産出した;後頭顆はアンキケラトプスと類似しているとされた一方、ホーンレットはスティラコサウルスやパキリノサウルス・カナデンシスのそれとの類似が指摘されている)。そして1988年には、プリンス・クリーク層でパキリノサウルスの部分的な頭骨が発見されるに至ったのである。

 

(プリンス・クリーク層で最初に発見されたパキリノサウルスの頭骨は今日に至るまで記載らしい記載が出版されることがなく、その詳細は不明なままである(後述のP.ペロールムに属するのにはおそらく違いないが;1989年に学会発表された程度のようだ)。恐竜学最前線にてトレイシー・フォードが「新聞の写真から描き起こした」アラスカ産パキリノサウルスの部分頭骨の図を載せており、おそらくこれが問題の頭骨と思われる。この頭骨はパキリノサウルスsp.として報告され、P.ラクスタイも当時P. sp.として報告されることがもっぱらではあったのだが、なかなか命名されないこともあり、結果「アルバータからアラスカまで渡りをするパキリノサウルス」のイメージが構築されることとなった。)


 これを受けて90年代半ばにはコルビル川沿いの調査が進み、キカク-テゴシーク・クオリーKikak-Tegoseak Quarry――パキリノサウルスの単一支配的なボーンベッドが発見された。2005年から2007年にかけて行われた発掘で少なくとも10体分のパキリノサウルス――P.カナデンシスともP.ラクスタイとも別物だった――が姿を現し、2012年になってパキリノサウルス・ペロールムPachyrhinosaurus perotorum――ダラスの自然科学博物館の永年に渡るスポンサーだったペロー家に献名――と命名されたのである。当初はセントロサウルス風の(垂れ下がったP3を持つ)フリルとして復元されもしたが、これはさほど間を置かずに訂正され、パキリノサウルス属の基本形から逸脱しないフリルの持ち主にして、最も重厚な顔――丸みを帯びた短い吻(いささかディキノドン類的でもある)と、鼻骨こぶの上にさらにもう一段こぶの形成された「破城槌」を持つものとして知れ渡るようになった。


 さて、パイプストーン・クリークの発掘がまだ続いていた1988年、ワピチ川の下流(これもワピチ層だが、パイプストーン・クリークより上位にあたる)にて、パキリノサウルスのボーンベッドが新たに発見された。パイプストーン・クリークにかかりきりでこちらへ割くリソースもなかったため、試し掘りで一旦調査は打ち切られた。採集されたフリルの断片の形態は(のちの)P.ラクスタイとよく似ており、P.ラクスタイの新たなボーンベッドの可能性も考えられたのである。
 90年代の末にアマチュア採集家が風化した頭骨を見つけたことで、状況にちょっとした変化が訪れた。この頭骨は2001年になって採集され、このボーンベッドが以前思われていたよりも有望であるらしいことが明らかになったのである。 2003年になってロイヤルティレルの調査隊が再訪し、凄まじく硬いノジュールに包まれた頭骨が川岸にいくつも落ちているのを発見した(とりあえず採集は見送られた)。斜面の上にボーンベッドの本体があるのは間違いなかった。
 2007年になり、このボーンベッドの本格的な調査に乗り出したのはアルバータ大であった。2014年までゆったりとしたペースで発掘は続き、新たに7体分(2001年のものを含めて8体分)のパキリノサウルスが確認された(このボーンベッドも化石のほとんどがパキリノサウルス由来であった)。ここで産出したパキリノサウルスはホーンレットの形態がP.ラクスタイとは異なっているようであり(P2の先端に「柄(つか)」がある)、鼻骨こぶもP.カナデンシスやP.ペロトルムに近い(上眼窩こぶにほぼ接する)ようであった。かくして新種“パキリノサウルス・ヤンギPachyrhinosaurus youngi”が命名されるかに見えたが、これは(一度は論文が投稿されたようではあるが)今日に至るまで出版に至っておらず、ゆえに裸名nomen nudumのままである。

 

↑Skeletal reconstruction of "DPP pachyrhinosaur" TMP 2002. 0076. 0001.

Scale bar is 1m.


 もうひとつ、2001年には意外な発見があった。ダイナソー・パーク層の最上部付近で、パキリノサウルスと思しき骨格が発見されたのである。この標本TMP 2002. 0076. 0001はフリルと尾の大半を欠くほかはほぼ完全な――間違いなく単一個体に由来する骨格であった。フリルを欠いているためパキリノサウルス属かどうかは決定できなかった(とはいえ、鼻骨こぶまわりのつくりや独特の形状の鱗状骨はアケロウサウルスではなくパキリノサウルスのそれと似ているように見える。上眼窩こぶがうね状にならない点もアケロウサウルスのホロタイプとは異なる)が、ようやくパキリノサウルス類のきちんとした全身の復元が可能になったのである。この標本はカナダ産のパキリノサウルス類としては断トツで最古のものであり(恐ろしいことにエイニオサウルスやアケロウサウルスよりも古い可能性がある)、その後長きにわたってララミディア北部で栄えることになる一連のパキリノサウルス属のあけぼのとなるものであった。

 

サヴァンナ・カーペンターによる未出版の研究(YouTubeに分岐図がもろに出ていたりはするのだが)では、恐竜公園のパキリノサウルス類をアケロウサウルス・ホーナーリとして(しかしホロタイプとは別個に)系統解析にかけている。結果はパキリノサウルス属と2つのアケロウサウルス・ホーナーリとで多系統となっており、結局のところ色々と微妙な話である。アケロウサウルスの成体の頭骨はホロタイプしか知られておらず、個体変異やらなんやらを見定めるのは難しい。)

 

 命名から70年を経た現在、パキリノサウルス属は非常ににぎやかな顔ぶれとなっている。カンパニアン後期のP.ラクスタイ(約7380万年前)、カンパニアン後期~マーストリヒチアン初頭(約7370万~7170万年前)のP.カナデンシス、マーストリヒチアン前期(絶対年代不詳だが恐らく最新のパキリノサウルス属)のP.ペロールムと、200万年以上に渡ってララミディア北部にのさばっていた格好になるのだ。ダイナソー・パーク層のパキリノサウルス類はざっと7580万年前ごろといったところで、これがもしパキリノサウルス属であれば400万年以上は永らえた(ケラトプス科の属は100万年も続けば相当長持ちの部類に入る。進化速度がやたら早いのだ)計算になる(“P.ヤンギ”の生息年代は7180万年前ごろのようで、P.カナデンシスと共存していたようである)。パキリノサウルスはアルバータ州南部からアラスカ北部まで分布を広げたが、すでにその時ほかのセントロサウルス類の姿はなかった。カンパニアン前期から栄えたセントロサウルス類の、最後の輝きとなったのがパキリノサウルスだったらしいのだ。
 様々なパキリノサウルス属がララミディア北部に息づく傍らで、カスモサウルス類もまた様々な種が入れ代わり立ち代わりで駆け抜けていった。アリノケラトプスとアンキケラトプスが過ぎ去ったあとに現れたのはトリケラトプス族だったが、それをパキリノサウルスが見届けることはなかった。大槌が振られることはもうなかったのである。