GET AWAY TRIKE !

恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

失われた者たちへの鎮魂歌

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↑Skeletal reconstruction of famous Smithsonian trikes.
Top, Triceratops horridus USNM 2100;
bottom, Triceratops sp. USNM 4842.
Scale bar is 1m.

 スミソニアン――本ブログの読者にはたぶんUSNMと言った方が通りがよい――の恐竜展示の歴史は当然古く、化石戦争の戦後処理を担わされてからかれこれ100年以上に渡っている。そんなUSNMの恐竜ホールがリニューアル工事に入って5年が過ぎ、今夏ついに再公開されるわけである。
 かつてのUSNMを飾っていた輝かしい復元骨格の数々――これまでも本ブログで取り上げてきたし、今後も取り上げるはずだ――はすべて実物からキャストへ置き換えられ、最新の技術で新たなポーズに組み直されたわけだが、その中でひっそりと「息を引き取った」マウントがある。お披露目から114年、紆余曲折がありながらもUSNMの「顔」として閉鎖された恐竜ホールの留守さえ守ってきた“ハッチャー”――トリケラトプスの合成復元骨格は、“合衆国のティラノサウルス・レックス”――USNMに50年間の期限でリースされたMOR 555に我が身を捧げたのである。

 マーシュ麾下の最強の化石ハンターであったジョン・ベル・ハッチャーは“長角バイソン”を皮切りに、ほぼ全ての種のホロタイプを含むあきれるほど大量のトリケラトプスの化石を19世紀最後の10数年で発見したのだが、そういうわけで化石戦争がコープとマーシュの死で幕を閉じた時、トリケラトプスの化石はマーシュの拠点であったイェール大学ピーボディ博物館(YPM)にはとても収まりきらない量になっていた。かくして相当数の標本(ほとんどはジャケットも外されていなかった)がYPMからUSNMへと移管されたのだが、その中にはマーシュが生前記載・図示した標本も含まれていたわけである。
 トリケラトプスの化石といえば今も昔も頭骨ばかりのイメージが強い(実際その通りではある)が、実のところ“ケラトプス”・ホリドゥスの原記載から2年後の1891年には、足を除く全身各部の代表的な要素が(“鎧”と共に)記載・図示されていた。その中にあったのが後のUSNM 4842――“ハッチャー”の主要部分を占める、かなり大きなおとなの部分骨格であった。

 なんだかんだで(椎骨のカウントなど、謎は多かったのだが)それなりの要素が集まっていたこともあり、1896年にはマーシュによる北米産恐竜類の総括の中でトリケラトプス・プロルススの骨格の復元が試みられることとなった。この復元は(最初の復元の試みでありながら)いまだにトリケラトプスの復元イメージを支配しているという代物であり、そして究極的にはUSNMのトリケラトプスの運命を支配するものでさえあった(そしてこの骨格図の体部の主要部分をUSNM 4842が占めていることは言うまでもない)。
 アメリカの輝かしい(そして血塗られた――当時の大統領であったマッキンリーは会場内で銃撃されその後落命した)20世紀の幕開けを飾るパンアメリカン博覧会にブースを出展するにあたり、USNMがシンボル展示に選んだのがトリケラトプスの復元骨格――いうまでもなく世界初――であった。とはいえUSNMに移管されたトリケラトプスの標本の多くはジャケットの開封が追い付いていない状態であり、USNMのキュレーターであったフレデリック・ルーカスは「張り子」でこれを作り上げることにしたのである。

(実のところルーカスは古生物学者ではなかった――鳥類を得意とする腕利きの剥製士ではあったのだが化石を扱った経験はなく、従ってルーカスはマーシュの骨格図を単純に「立体化」することしかできなかったのである。)

 かくしてマーシュの復元に基づくトリケラトプスの復元骨格「模型」は1901年の5月から11月までニューヨーク州はバッファローで公開され(模型とはいえ、これはハドロサウルスと“クラオサウルス”・アネクテンスに次ぐアメリカ3種目の恐竜の復元骨格であった)大好評となった(1901年に描かれたナイトの有名な復元画は明らかにこの骨格に基づいている)。これに気をよくしたUSNMは、本家博物館の地質分野の目玉として実骨のマウントを展示することとしたのである。
 パンアメリカン博覧会では断念されたこの難題を任されたのがUSNMにやってきたばかりの若手――ハッチャーの下でクリーニングの修業を積んだギルモアであった。手始めに“クラオサウルス”・アネクテンスのホロタイプをウォールマウントとして送り出し、そしてトリケラトプスの山の中から目を付けたのがUSNM 4842――頭骨の断片やいくつかの椎骨、肋骨と四肢の大部分、そして見事な腰帯であった。
 首から後ろの主要部分はUSNM 4842を核にすることで落ち着いた(欠損部はサイズのだいたい合いそうな他の実骨で埋め、間に合わない椎骨などは石膏模型があてがわれた)が、もうひとつ問題があった。この骨格の「顔」が欠けていたのである。ここでハッチャーが見出したのがUSNM 2100――吻を欠くもののほぼ変形のない、見事な頭骨であった(下顎は別個体のものである点に注意)。

 ハッチャーの死から1年後の1905年、ギルモアとその相方であるノーマン・ロスの手によって「トリケラトプス・プロルススの復元骨格」が完成し、USNMの目玉展示となった(当時の新聞記事が熱気を教えてくれる)。その後もギルモアとロスの手によって続々と恐竜のマウントがホールを飾っていく中にあって、この骨格はUSNMの化石ホールの顔であり続けたのである。

(「張り子」の復元骨格模型はその後セントルイス万博を始め全米各地を巡回し、その後一旦スミソニアンの展示に復帰した。1907年にはこれと同型のものが大英自然史博物館で展示された(今日でも常設展示のままである)が、これがオリジナルの「張り子」そのものなのか、「張り子」のレプリカであるかははっきりしない。)

 1907年になってようやく出版されたハッチャーの遺作である角竜のモノグラフ(もともとマーシュの死後ハッチャーが引き継いだ研究であった)でUSNM 4842とUSNM 2100は詳しく記載・図示され、特にUSNM 4842については貴重なトリケラトプスの体骨格ということもあってその後も様々な文献に図が転載されることとなった。80年代の後半になりポールがトリケラトプス・ホリドゥスの骨格図を描いた際にも、四肢と腰帯にはUSNM 4842があてがわれさえしたのである。
 黄鉄鉱病でいよいよ限界に来ていたマウントは、1998年になってついに来館者のくしゃみのショックで腰帯が崩壊を始めた。USNM 4842はバックヤードへ勇退する一方USNM 2100はそのまま単体の展示として残留し、そしてこの骨格は最新技術のデモンストレーションを兼ねて全身を3Dスキャンされた。20GB“もの”データを元にこの骨格のプロポーション――USNM 2100はUSNM 4842と比べて一回り小さな個体であった――は矯正され(ついでに足にあてがわれていたエドモントサウルスも追い出された)、2001年に“ハッチャー”としてこの骨格は再デビューを飾ったのである。

 USNMの黄金時代を飾った“ハッチャー”の功績は上に書いた通りであり、USNM 2100にせよUSNM 4842にせよ、その標本としての重要性はいまだに揺るがない。USNM 2100ほど変形の少ない成体の頭骨は他にほとんど知られていないし、USNM 4842ほどのサイズで体部の記載のある(それも変形のほぼみられない)トリケラトプスは他にないのである。
 トリケラトプスの復元イメージを114年間担い続けてきた“ハッチャー”は、かくしてUSNMの恐竜ホールの顔役をティラノサウルスへ譲り、文字通り身を捧げることとなった。USNM 4842に基づくポールの骨格図もフィールドガイドの第二版から消えたが、それでもギルモアとロスが手塩にかけた標本たちはUSNMの収蔵庫で息づいている。

(USNM 4842の頭骨のうちまともに残っているのは上眼窩角だけであり、従って(上腕骨の形態からしトロサウルス属ではなくトリケラトプス属なのはほぼ確実だが)USNM 4842の種を定めるのは難しい。USNM 4842のナンバーを振られた断片の中には明らかにエドモントサウルスの上顎骨が紛れ込んだりしているのだが、一方でどうも鼻角らしいものも見受けられる。何となく腹側から撮影したように見え、だとするとホリドゥス的な小さな鼻角のようにも見えるのだが、さてどうだろう。)

君はあの影を見たか

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↑Skeletal reconstruction of huge hadrosaur
Shantungosaurus giganteus (composite; including holotype GMV 1780-1) and
Saurolophus angustirostris (composite; largely based on MPC-D 100/764).
Scale bar is 1m for GMV 1780-1 and MPC-D 100/764.

 あけましておめでとうございます。今年もGET AWAY TRIKE !をよろしくお願いします。


 ハドロサウルス類といえば名実ともに世界を支配した恐竜といっても過言ではない(ゴンドワナにしても南米そして南極まで食い込んでおり、北アフリカでそこそこまともな標本が出てくるのも時間の問題だろう)。サントニアン初頭ごろに出現すると瞬く間にローラシアはおろかゴンドワナにまで進出したわけで、ティラノサウルス類など物の数ではないレベルで繁栄したグループなのだが、その実ティラノサウルス類にかじられるのが板についている昨今である。
 
 今のご時世、日本でハドロサウルス類といえばむかわ竜ということになるのだろうが(現実問題として、下手なララミディア産のものより完全度は高いのだ)、ニッポノサウルスは置いておくとして、西南日本の各地でもハドロサウルス類の化石はちょこちょこ産出している。淡路島のランベオサウルス類は完全度はともかく保存状態はむしろむかわ竜を上回るものであるし、昨年(2018年)に報告された上甑島のハドロサウルス類の大腿骨は推定で長さ1.2m――まごうことなき10m級のハドロサウルス類のものである。その辺のティラノサウルス類をサシで殴り倒せるレベルの動物がいたのだ。

 ハドロサウルス類はローラシアならどこにでも住んでいたようなものだし、さらに言えば海成層からもちょくちょく出てくる(むかわ竜は言うまでもないが、アウグスティノロフスなど、それなりに沖合であっても全身骨格が出てくるケースは他にもあるのだ)。従って日本各地に点在する上部白亜系から出てくるのは訳ない話なのだが、一方で、ハドロサウルス類の骨格が展示されている博物館は国内では思いのほか少なく(現状の雰囲気でいくとむかわ竜の骨格もあまり量産はされなさそうだ)、まして10m超級となればなおさらである。
 こんにち国内でみられる唯一の10m超級のハドロサウルス類の全身骨格が、福井県立恐竜博物館にあるサウロロフス・アングスティロストリスMPC-D 100/706のキャストである(読者のみなさまもご存知の通り、これのオリジナルはしばしば来日している)。展示配置の問題もあってその全長を実感するのは難しい(実のところ胴椎がいくつか欠けているのを強引にマウントしているようである――これはタルボサウルスも同様である)し、また棘突起は派手に失われている(バルスボルディアは結局のところ本種のシノニムとみなせるらしく、だとするとサウロロフス亜科でも屈指の背の高さを持つ計算になる)が、そのプレッシャー(富野節)を感じるのには十分すぎるだろう。
 
 とはいえ、実のところサウロロフスの最大個体はこの骨格ではない。例えばモスクワにあるひどく潰れた頭骨PIN 551-357はMPC-D 100/706よりわずかに大きいし(変形を補正すればもう少し差が開くかもしれない)、林原が各地で展示していたブギン・ツァフ産のほぼ完全な骨格MPC-D 100/764――計測値がろくに出版されていないうえ記載も中断されている岡山理大には何とかしてほしい所存)――も、MPC-D 100/706よりやや大きそうである。つまるところ(足跡に基づく18mという全長の推定は置いておくとして――ブレヴィパロプスを忘れてはならない)、シャントゥンゴサウルスと同等のサイズなのである。

 恐ろしい話だが、実のところ10m超級のハドロサウルス類は世界的に見ても――少なくとも北米とアジアでは決して珍しいものではない。アパラチア産のいくつかの断片(時代やら古地理からすると真正のハドロサウルス類としてはかなり古いタイプだろう)が10m超級のものらしいことは古くから指摘されてきたし、シャントゥンゴサウルスやサウロロフス・アングスティロストリス、マグナパウリア(先の2つに比べるとやや見劣りするサイズだが、「背びれ」がとんでもなく大きいのでサイズ感は相当だろう)は言うまでもない。
 あげく、従来9m止まりと言われていた(12、3mに届くという話もあるにはあったが)エドモントサウルス・アネクテンスがどうやらシャントゥンゴサウルスと同等の体格になるまで成長したらしいことまで明らかになったのである(ブラキロフォサウルスも8m止まりと見せかけて13mほどにはなるらしい)。結局のところ、ホーナーの弁――既知の恐竜の“おとな”のほとんどは亜成体に過ぎない――は、割とそれらしく聞こえてくるものでもあるのだ。
 
 このあたり、上甑島の大腿骨はたぶん氷山の一角でさえないのだろう。10m級のハドロサウルス類はユーラシアの内陸だけに留まらず、海岸線近く――ひょっとすると波打ち際さえ歩き回っていたのである。
 むかわ竜の全長はざっと8mちょうどくらいのようなのだが(ハドロサウルス類はこのあたり、大腿骨1本でも割としっかり推定が利くのだ)、ハドロサウルス類としては(サイズの割には)かなりスマートな部類であるらしく、あまり高くないらしい棘突起も相まって、どことなく若い個体であるらしい印象さえ受ける。あるいはむかわ竜も、環境が許せばひょっとすると10mクラスまで育つのかもしれない。

 サウロロフス族はカンパニアン後期からマーストリヒチアンの終わりごろまで繁栄したわけだが、プロサウロロフスやアウグスティノロフスは海成層からほぼ完全な骨格が発見されていたりもして、内陸から海沿いまで広い範囲で栄えていたらしい。ユーラシア大陸の東岸でも全長10mを越す巨大なサウロロフス族がティラノサウルス類を蹴散らしていたというのは、多分にありそうな話ではある。

(開設初年度を除いてげったうぇーとらいく!の年頭記事はハドロサウルス類、それもアジア産のものが恒例であった。例によって今年もそうなったわけだが、このあたりの事情については、筆者の邪さについてよくご存じのみなさまには多分とっくにお気づきのことだろう。備えよう。)

おわりのはじまり

 大晦日である(齢を取るにつれ実感がわかなくなってきた)。職にありついたりなんだりで今年も色々あったのだが、まあなんとかさばいた格好である。

 業界を振り返ってみれば、今年もミャンマー琥珀が席巻した1年であった。翼竜の「羽毛」に関するかなり衝撃的な話もあり(なんだかんだこれまでまともに微細構造を観察できる保存の羽毛はなかったのだ)、恐竜に関していえば空前絶後(かは今後の話だが)のレバッキサウルス類の当たり年であった。アンフィコエリアス・フラギリムスの思いがけない再検討もあったが、あれは半ば質の悪い冗談だと受け止めておくべきであろう。
 また、アーカンサウルスやサルトリオヴェナトルなど、ここ20年近く非公式に命名されたきりだった恐竜が陽の目を見た年でもあった。(以前SVPで出ていたネタではあったが)メデューサケラトプスは無事セントロサウルス亜科として再記載され、そしてアルボアの整理した旧エウオプロケファルス群はペンカルスキー(久方ぶりの登場であろう)によって細切れにされるなど、北米の事情は相変わらずであった。ブラウンスタインによるアパラチアの恐竜相に関する研究はやたら細切れに出版されたが、いずれも断片的な化石に基づいていることはまあ言うまでもない話である。

 ひるがえって筆者といえば、最初の3ヶ月――特に3月は論文の執筆と、それから某案件(いつ陽の目を見るかがさっぱりなのだが、事が事だけに腰を据えて待つべきなのだろう)で大わらわであった。5月に受けた案件は即座に公開されたわけだが、そういうケースは現状それが唯一のようだ。論文は最初の査読でズタボロにされた割にはすんなり出版にこぎつけることができたようだ。秋すぎからは色々あったが、そういうわけで来年(もっと正確にいえば半年後)へのお膳立ては割と始まったばかりなのかもしれない。

 そういうわけで今年も順調に(?)不安定な更新ペースだったのは許してほしいところなのだが、まあその辺は同人誌でも読んでおいてほしいところでもある(在庫はまだそれなりにあるのだ)。



 というわけで来年もGET AWAY TRIKE !をよろしくお願いします。来年は色々席巻する予定なのでおたのしみに(・∀・) 新年最初の記事は【検閲】にするわけにもいかないのでサウロロフスだ、いってみよー!

邪悪の種子

 筆者は昔から悪だくみが得意科目だったクチだが、そういうわけでここ数ヶ月怪しい動きを見せているのは言わずもがなである。今年の3月から色々と(もっと言えば一昨年の秋から)現状では表沙汰にはできない新作が相当数あったりもして(芦別ティラノサウルス類に関しても昨年の早い時期にうすぼんやりとした話があったりもしたのだが、結局のところ発注があったのは6月に入ろうかという頃で、公開は6月半ば過ぎとかなりのスピード案件であった)、このあたりは(一番早いものでも)陽の目を見るまでたっぷり半年はかかろうものである。一方で、絵のない案件についても色々と手を出しつつある昨今であり、こちらのうち1件は年明けには明るみに出るだろう。
 読者の皆様には何かと楽しみにしておいてほしいところなのだが(我ながらだいぶどでかい話に複数ありついたものである)、筆者が一番楽しみにしているのは言うまでもないことである。

夏の炎の竜

 去年の秋からちらほら情報は出ており、また本ブログでもそこはかとなく度々取り上げてはきたわけだが、来年の7月13日(土)~10月14日(月)まで、国立科学博物館恐竜博2019が開催されることが発表された(公式サイトはティザーもいいところだが、やたら解像度のよいむかわ竜の写真がある)。
 かねてからの情報通り、むかわ竜の復元骨格(実物を組み込んだマウントにする話だったわけだが、見るからに重く脆そうな化石でもあり、色々気になるところである)が恐竜博2019の目玉になるわけだが、もうひとつ、公式サイトを見れば一目瞭然の通りデイノケイルスの全身骨格が目玉になるという。公式サイトの文言を見る限りマウントはキャストになるようにもとれるわけだが(その方が色々と好都合であろうし、あの代物をマウントするのはちょっと考えものでもあろう)、頭骨などは実物が来日するようである。
 一方で、目玉がこの二つだけとも考えにくく(どちらもマウントすればわりあい面積を取るのは違いないのだが)、他の色々な標本の来日にも期待したいところである。

(以前のモンゴル展におけるゴビヴェナトルのようなケースはあったが、むかわ竜が名無しのまま目玉展示に君臨するとも考えにくく、これはつまり、来年の初夏ごろには命名される可能性が高そうだ(言うまでもなく記載論文が出版されるかどうかの問題なわけだが)。フクイヴェナトルと並ぶ日本産屈指の完全度なわけで、論文の内容も楽しみなところである。)

脆すぎた呪縛

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Carpenter (2018)より、マラアプニサウルス(A)、レバッキサウルス(B)、ヒストリアサウルス(C)の胴椎(後面)の比較。スケールは50cm。

 恐竜の分類が分類の体をなしていないという話(1属1種が多すぎる)はしばしばなされることで、実際問題として属名を出されたときに模式種以外の種をぱっと思い浮かべる属というのは少ないものである。そうした状況の中で数少ない例外のひとつがアンフィコエリアス――「最大の恐竜」として名高い一方標本が行方不明となっていることも相まって伝説的な存在となったA.フラギリムスである。アンフィコエリアスと聞いた時に模式種A.アルトゥスを先に思いつくという人は、たぶん専門家の相談を受けた方がいい。

 アンフィコエリアス・フラギリムスの模式標本AMNH 5777(AMNHのナンバーが付いているのだが、この標本がAMNHの門をくぐったかどうかさえ定かではない)といえば、「コープの図を信用する限り」極めて巨大な竜脚類の胴椎の神経弓ただひとつである。これはコープに曰く「神経弓だけで」高さ1500m(これはmmの誤記のようにも思われるのだが、実のところこの当時「M」をメートル、「m」をミリメートルの略記として用いることがしばしばあったらしい。コープは「M」と「m」を明確に使い分けているフシがあり、従って「1500mm」は最近指摘されたように「1050mm」の誤記というわけではなく、実際に「1500mm」を示している可能性が高いようだ。)に達する代物で、コープによって新種とされた一方、一時はもっぱらA.アルトゥスの極端な大型個体とみなされていた。
 さて、アンフィコエリアス属のうちA.アルトゥスは系統解析にしばしばぶち込まれ、最近では一般にディプロドクス科の最基盤(ディプロドクス亜科とアパトサウルス亜科の分岐する前の段階)に置かれている。従ってA.フラギリムスの全長の推定はざっくりディプロドクスに準拠していたのだが(A.アルトゥスの見てくれはアパトサウルスのようにがっしりしたタイプではない)、一方で一部(のアマチュア)からは、A.フラギリムスをレバッキサウルス類とみなす声も上がっていた。

(そもそも原記載の時点において、A.フラギリムスをアンフィコエリアス属たらしめる強い根拠は何もなかった。当時胴椎の形態のはっきりしていた竜脚類はカマラサウルスとアンフィコエリアスくらいであり、単にコープが参照できるものが限られていただけの話だったのである。)

 このあたりの問題に真正面から突っ込んでいったのは、例によってA.フラギリムスの虜になっているカーペンターであった(メガ恐竜展で来日した模型もカーペンターの復元に基づいたものである)。いかんせん残された(ぱっとしない)コープのスケッチ頼りであったが、確かにそこからはレバッキサウルス類の特徴――A.アルトゥスにはみられない――が認められた。
 かくしてA.フラギリムスとA.アルトゥスを結び付けていたもの(実際には端から存在しなかったとさえ言えるわけだが)は崩れ去り、ここにマラアプニサウルス・フラギリムスMaraapunisaurus fragillimus――属名の前半は「巨大」を意味する南部ユテ族の言葉――が生まれることとなった。58mとも言われた(“セイスモサウルス”の全長について最初にまともな推定値を導き出したポールでさえ40~60mという訳の分からない数字を書くほかなかった)推定全長はつまるところアンフィコエリアス属がディプロドクス型の動物だったという前提に基づいていたわけで、リマイサウルスにぶち込んではじき出されたマラアプニサウルスの推定全長は30m~32mと、ずいぶんと(依然として巨大だが)現実的な数値が出てきたのである。

 ここに最大最古のレバッキサウルス類として生まれ変わったマラアプニサウルスだが、依然としてホロタイプは――AMNH 5777は行方不明(というよりこの世に残っていないのがほぼ確実である)のままである。アンフィコエリアス・フラギリムスの呪縛は、アンフィコエリアス・フラギリムスが崩れ去ってなお、ひょっとすると未来永劫あり続けるのだ。

太陽に身を焦がす

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 「化石の日」である。こと日本においては今年が初めての試みではあるのだが、一応筆者も学界を追放されたわけではない(ちゃんと学会費は払っている)ので、便乗してもたぶん怒られることはないだろう。言うまでもなく自☆演☆乙なわけだが、そういうわけで(論文がwebに出てからしばらく経つのだが――冊子体になったのはつい先日の話である)お付き合い願いたい。
 
 上部白亜系はややもすれば意外なほど日本各地に点在しているのだが、そうはいってもたいがい露出は貧弱で、一般(相変わらず謎のフレーズである)の知名度は皆無に等しいものも少なくない。そういう意味で那珂湊層群は数少ない関東地方の上部白亜系として、地元――茨城県ひたちなか市では多少の――「白亜紀層」――として知名度を得ていた(かつてここには「白亜紀荘(国民宿舎)」があり、今日そこは「ホテルニュー白亜紀(市営)」(ネーミングに若干のいかがわしさを感じるが、何ということはない普通の観光ホテルである)となっている)。
 那珂川の河口を挟んで南北10kmあまり、南は大洗港から北は磯崎漁港(ここ数年で妙に知名度の上がったひたち海浜公園(もともと陸軍の飛行場→わりかし最近までアメリカ空軍の悪名高き射爆場であった)は目と鼻の先である)までには、関東では珍しく岩礁地帯が続いている。この岩礁地帯(ともう少し陸側)は妙にややこしい地質からなり(付加体のそれとは比べ物にならないが)、それがそのまま研究史となっている。そしてそのもっとも北側――4kmあまりの岩礁をなすのが那珂湊層群――カンパニアン後期~マーストリヒチアン前期(ざっと7500万~7000万年前あたりだろう)の海成層であった。
 
 日本における地質学や古生物学の歴史が明治時代までさかのぼれるのは言うまでもないことで、大洗~磯崎まで続く岩礁地帯(いちいち書くのも面倒なので以下那珂湊-大洗海岸とよぶ)の地質学研究のはじまりも明治の中ごろ――1888年(ボーンウォーズ真っただ中の頃である)までさかのぼることができる。これは水戸周辺の地質図(20万分の1)だったのだが、この中で那珂湊-大洗海岸岩礁地帯はすべて第三系とされた。その後の研究でも(双葉に上部白亜系――双葉層群が認識される一方で)この一帯の地層は第三系とされ続けたのである。
 
(実のところ1926年に作成された20万分の1の地質図では那珂湊-大洗海岸のうち那珂湊海岸の岩礁地帯が下部白亜系とされたりもしたのだが、いかんせんこの地質図は説明書を欠いた作りで、かつ印刷された数もわずかだったため特に顧みられることはなかったらしい。今となっては根拠は完全に謎なのだが、どうも地層の固結度あたりに基づいていたフシがある。)
 
 そんなこんなで戦後もこの一帯――まとめて湊層とよばれていた――は鮮新統とされていたのだが、実のところ露頭をよく観察してやるとそう単純な話ではなさそうであった。鮮新統とされていたものの「拾える」貝化石はどれも中新世のもののようであったし、走向・傾斜からしてこの「湊層」のうちの上部(那珂湊海岸に露出するもの)の下部(つまり湊層上部の下部)の方が湊層上部の上部よりも上位に来そうだったのである。
 こうして色々と揺さぶりがかかっていた中、1954年5月16日に事態は急変した。一人の学生が「湊層上部の上部」から2つのアンモナイト――ディディモセラスに似たフックの雌型と、バキュリテスを見出したのである。
 このわずか2つ――前者(雌型とはいえ妙に保存がよい)はともかく後者の保存状態は悲惨だった――の化石が那珂湊-大洗海岸の地質を文字通りひっくり返すことになった。「湊層の下部」が上部白亜系大洗層に、「湊層上部の上部」が上部白亜系那珂湊層(のち層群に格上げ)に、そして「湊層上部の下部」が中新統殿山層となったのである。
 
(この地から初めてアンモナイトの化石を見出した学生は、そのまま大量の化石を採集(彼の調査ののち、これほど大量の化石がまとまって採れたことはとうとうなかった)するとともに一帯の地質を卒論としてまとめ上げた。その後研究者となることはなかったが、教員として茨城県の地学教育普及に力を尽くしたという。)
 
 大洗植物群の研究も含め、このあたりの地質と化石に関する研究は1960年代でひと段落付くことになった。岩礁地帯に露出していたノジュールはあらかた採り尽くされ、それなりの数の軟体動物化石――ほとんどが異常巻アンモナイト――が採集されたのである(イノセラムスさえロクに出ず、そしてどういうわけか通常巻アンモナイトは産出しなかった)。
 異常巻アンモナイトもいくらかはバキュリテスだったが、ほかはほとんどディディモセラス属――D.アワジエンゼであった。他に2標本が新種――D.ナカミナトエンゼとされ、他のいくつかの新種(たとえばブンブクウニ類――ニポナスター・ナカミナトエンシス)とともに「ご当地化石」の座に収まった。
 
 やがて大洗層が白亜系から外され(どうも古第三系の気があるが、現状謎のままである)、那珂湊層は那珂湊層群に格上げされた(同時に部層が層へと格上げされ、下から順に築港層、平磯層、磯合層となった。築港層の露頭は今日完全に失われているのだが(ちょうど県立海洋高校のあたりである)、そもそも磯合層の“切れ端”に過ぎない可能性さえある)。80年代に入り、北海道――蝦夷層群に留まらず四国や淡路島、和泉山地――和泉層群における同時代層のアンモナイトが続々と(再)記載された――が、那珂湊層群は特段顧みられることはなかった。多様というわけでもなかったし、基本的に出てくる異常巻アンモナイトは淡路島のものと変わり映えしなかったのである(保存もよくなかったし、そして何より地層としての規模がごく小さかった)。層序学的および堆積学的研究がぽつぽつと行われる一方で、蝦夷層群や和泉層群を横目に古生物学的研究の進展はほとんどなかった。
 状況が変わり始めたのは90年代に入ってからで、堆積相解析の概念を導入した再検討が(卒論ではあったが)おこなわれた。堆積学的な研究が中心であったとはいえ、通常巻アンモナイトの破片とともに久方ぶりのみごとなディディモセラスの化石――GIUM 5001――が採集された(そしてその「雌型」は現地に残された;どうもこいつは新種くさいのだが、螺塔がきれいに失われており、また付近の層準からひとかけらたりとも参照できそうな化石が産出していないこともあってsp.止まりが無難なところである)。
 
 それからの20年で少しずつ化石は増え(茨城県自然博物館が開館したのも大きかった)、中には那珂湊層群ではまだ報告されていなかったタイプのもの――クリップ状に巻くもの――ものも少なからず含まれていた。それまでアオザメ属の歯がただ一本発見されているだけだった脊椎動物化石についても翼竜の肩甲骨スッポン類の上腕骨やモササウルス類の尾椎が発見されるなど、着実に標本は増えつつあり、また(いかんせん狭いわりに開けて見通しの利く場所であり、産出地点はピンポイントで柱状図に落とし込むことができた)生層序的なデータの素も集まりつつあった。また、平磯層産の微化石の研究もおこなわれるようになった。
 この頃になると、日本各地の上部白亜系で層序やらなんやらの再検討が続々と出版されるようになっていた。お膳立てはすべて整っていたのである。
 
 役者がそろったのは2014年になってからで、GIUM 5001の雌型の「再」発見に始まり、那珂湊層群産の異常巻アンモナイトと各地の同時代層――和泉層群や蝦夷層群産の標本との比較がおこなわれるようになった。同時に、溜まりに溜まった産地データは柱状図に叩き込まれ、1900mあまりに渡って途切れずに見える岩相の変化(すなわち堆積環境の変化である)と産出種の変遷が明るみに出た(意外なことに、先行研究で試みられたことはなかったのである)。
 先行研究でそれとなく指摘されていたことではあるのだが、かくして、海底扇状地の下部(平磯層下部)から中部~上部(平磯層上部~磯合層)へと堆積環境は移り変わり、そしてそれと合わせるように大型化石もディディモセラス主体からバキュリテス主体(そもそも平磯層下部とそれより上とでは化石の産出頻度が比べ物にならないのだが)へと移り変わっていくことが明白となった。平磯層の下部と磯合層とでは明らかに別の時代――カンパニアン後期とマーストリヒチアン前期――を示す化石が産出しており、そしてそれらは淡路島と北海道――堆積環境の違いから、(時代が被っているのは明らかであったにも関わらず)直接対比の困難だった一大産地を結び合わせるものでもあった。平磯層下部ではディディモセラス・アワジエンゼ――那珂湊層群のほか四国と淡路島の和泉層群で多産する一方、北海道では未だ出る出る詐欺状態の種――が多産する一方、磯合層上部では「トゲの長い大型ノストセラス」――那珂湊層群で最初に発見されたアンモナイトの片割れ――や“イノセラムス”・クシロエンシスといった、目下北海道(“I.”クシロエンシスはサハリンやらでも出るのだが)でのみ知られているものと同様のものが産出していたのである。
 
 那珂湊層群からこの60年あまりで出てきた異常巻アンモナイトはいずれも殻のどこかしらを派手に欠いていたが、それでもいくつか淡路島や北海道のものに匹敵する(殻表面の保存やらに関していえばむしろ上回っているものもある)保存状態のものもあった。ディディモセラス・アワジエンゼの中には殻口が完全に保存されているものもあったし、ディプロモセラス(もろもろの理由でsp.だが、北西太平洋地域のものをひっくるめて究極的には新しい種小名が必要かもしれない)の中には――ものがものだけにポリプチコセラス属にされかけていた――成長中期の4本のシャフトが揃ったままのものさえあったのである。

(ディプロモセラスは世界中で産出し、日本でも中部カンパニアン以上でわりあいよく出るが、カンパニアン後期の後半――ディディモセラス・アワジエンゼと同じ層準から出てきたケースはそれまで未報告であった。また、シャフトが化石化の過程でばらけることがよく知られており(成長後期の殻が2本つながっていればいい方である)、成長中期の殻が4本まとまって出てくるケースは極めて稀である。こうした事情から、その辺でみかけるディプロモセラスの復元図は成長初期~中期の殻を文字通り端折られていたりする。)

 この60年で海岸沿いの風景は激変し、ディディモセラス・ナカミナトエンゼもD.アワジエンゼのシノニムとなったが、それでも岩礁地帯は、そして海は――7500万年前から――変わらずそこにある。どうにか連綿と“バトン”として受け継がれてきた標本たちは今日も新たな研究者の訪れを待っており、そして潮が引くたび那珂湊層群の化石は――筆者の見つけ損ねたものたちは細粒タービダイトの波食台の上で、太陽に身を焦がしている。

シロワニ属の歯や“ヒタチナカリュウ”として知られるニクトサウルス類の肩甲骨巨大スッポン類の上腕骨、モササウルス類の尾椎、そして推定甲長80cmに達する巨大なスッポン類の背甲の産出した層準は、どうもマーストリヒチアン初頭――淡路島のランベオサウルス類やカムイサウルスと同時代に相当するようだ。もし――もしも恐竜が出てくるとすれば、たぶんこの層準を置いて他にない。)