GET AWAY TRIKE !

恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

君はあの影を見たか

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↑Skeletal reconstruction of huge hadrosaur
Shantungosaurus giganteus (composite; including holotype GMV 1780-1) and
Saurolophus angustirostris (composite; largely based on MPC-D 100/764).
Scale bar is 1m for GMV 1780-1 and MPC-D 100/764.

 あけましておめでとうございます。今年もGET AWAY TRIKE !をよろしくお願いします。


 ハドロサウルス類といえば名実ともに世界を支配した恐竜といっても過言ではない(ゴンドワナにしても南米そして南極まで食い込んでおり、北アフリカでそこそこまともな標本が出てくるのも時間の問題だろう)。サントニアン初頭ごろに出現すると瞬く間にローラシアはおろかゴンドワナにまで進出したわけで、ティラノサウルス類など物の数ではないレベルで繁栄したグループなのだが、その実ティラノサウルス類にかじられるのが板についている昨今である。
 
 今のご時世、日本でハドロサウルス類といえばむかわ竜ということになるのだろうが(現実問題として、下手なララミディア産のものより完全度は高いのだ)、ニッポノサウルスは置いておくとして、西南日本の各地でもハドロサウルス類の化石はちょこちょこ産出している。淡路島のランベオサウルス類は完全度はともかく保存状態はむしろむかわ竜を上回るものであるし、昨年(2018年)に報告された上甑島のハドロサウルス類の大腿骨は推定で長さ1.2m――まごうことなき10m級のハドロサウルス類のものである。その辺のティラノサウルス類をサシで殴り倒せるレベルの動物がいたのだ。

 ハドロサウルス類はローラシアならどこにでも住んでいたようなものだし、さらに言えば海成層からもちょくちょく出てくる(むかわ竜は言うまでもないが、アウグスティノロフスなど、それなりに沖合であっても全身骨格が出てくるケースは他にもあるのだ)。従って日本各地に点在する上部白亜系から出てくるのは訳ない話なのだが、一方で、ハドロサウルス類の骨格が展示されている博物館は国内では思いのほか少なく(現状の雰囲気でいくとむかわ竜の骨格もあまり量産はされなさそうだ)、まして10m超級となればなおさらである。
 こんにち国内でみられる唯一の10m超級のハドロサウルス類の全身骨格が、福井県立恐竜博物館にあるサウロロフス・アングスティロストリスMPC-D 100/706のキャストである(読者のみなさまもご存知の通り、これのオリジナルはしばしば来日している)。展示配置の問題もあってその全長を実感するのは難しい(実のところ胴椎がいくつか欠けているのを強引にマウントしているようである――これはタルボサウルスも同様である)し、また棘突起は派手に失われている(バルスボルディアは結局のところ本種のシノニムとみなせるらしく、だとするとサウロロフス亜科でも屈指の背の高さを持つ計算になる)が、そのプレッシャー(富野節)を感じるのには十分すぎるだろう。
 
 とはいえ、実のところサウロロフスの最大個体はこの骨格ではない。例えばモスクワにあるひどく潰れた頭骨PIN 551-357はMPC-D 100/706よりわずかに大きいし(変形を補正すればもう少し差が開くかもしれない)、林原が各地で展示していたブギン・ツァフ産のほぼ完全な骨格MPC-D 100/764――計測値がろくに出版されていないうえ記載も中断されている岡山理大には何とかしてほしい所存)――も、MPC-D 100/706よりやや大きそうである。つまるところ(足跡に基づく18mという全長の推定は置いておくとして――ブレヴィパロプスを忘れてはならない)、シャントゥンゴサウルスと同等のサイズなのである。

 恐ろしい話だが、実のところ10m超級のハドロサウルス類は世界的に見ても――少なくとも北米とアジアでは決して珍しいものではない。アパラチア産のいくつかの断片(時代やら古地理からすると真正のハドロサウルス類としてはかなり古いタイプだろう)が10m超級のものらしいことは古くから指摘されてきたし、シャントゥンゴサウルスやサウロロフス・アングスティロストリス、マグナパウリア(先の2つに比べるとやや見劣りするサイズだが、「背びれ」がとんでもなく大きいのでサイズ感は相当だろう)は言うまでもない。
 あげく、従来9m止まりと言われていた(12、3mに届くという話もあるにはあったが)エドモントサウルス・アネクテンスがどうやらシャントゥンゴサウルスと同等の体格になるまで成長したらしいことまで明らかになったのである(ブラキロフォサウルスも8m止まりと見せかけて13mほどにはなるらしい)。結局のところ、ホーナーの弁――既知の恐竜の“おとな”のほとんどは亜成体に過ぎない――は、割とそれらしく聞こえてくるものでもあるのだ。
 
 このあたり、上甑島の大腿骨はたぶん氷山の一角でさえないのだろう。10m級のハドロサウルス類はユーラシアの内陸だけに留まらず、海岸線近く――ひょっとすると波打ち際さえ歩き回っていたのである。
 むかわ竜の全長はざっと8mちょうどくらいのようなのだが(ハドロサウルス類はこのあたり、大腿骨1本でも割としっかり推定が利くのだ)、ハドロサウルス類としては(サイズの割には)かなりスマートな部類であるらしく、あまり高くないらしい棘突起も相まって、どことなく若い個体であるらしい印象さえ受ける。あるいはむかわ竜も、環境が許せばひょっとすると10mクラスまで育つのかもしれない。

 サウロロフス族はカンパニアン後期からマーストリヒチアンの終わりごろまで繁栄したわけだが、プロサウロロフスやアウグスティノロフスは海成層からほぼ完全な骨格が発見されていたりもして、内陸から海沿いまで広い範囲で栄えていたらしい。ユーラシア大陸の東岸でも全長10mを越す巨大なサウロロフス族がティラノサウルス類を蹴散らしていたというのは、多分にありそうな話ではある。

(開設初年度を除いてげったうぇーとらいく!の年頭記事はハドロサウルス類、それもアジア産のものが恒例であった。例によって今年もそうなったわけだが、このあたりの事情については、筆者の邪さについてよくご存じのみなさまには多分とっくにお気づきのことだろう。備えよう。)

おわりのはじまり

 大晦日である(齢を取るにつれ実感がわかなくなってきた)。職にありついたりなんだりで今年も色々あったのだが、まあなんとかさばいた格好である。

 業界を振り返ってみれば、今年もミャンマー琥珀が席巻した1年であった。翼竜の「羽毛」に関するかなり衝撃的な話もあり(なんだかんだこれまでまともに微細構造を観察できる保存の羽毛はなかったのだ)、恐竜に関していえば空前絶後(かは今後の話だが)のレバッキサウルス類の当たり年であった。アンフィコエリアス・フラギリムスの思いがけない再検討もあったが、あれは半ば質の悪い冗談だと受け止めておくべきであろう。
 また、アーカンサウルスやサルトリオヴェナトルなど、ここ20年近く非公式に命名されたきりだった恐竜が陽の目を見た年でもあった。(以前SVPで出ていたネタではあったが)メデューサケラトプスは無事セントロサウルス亜科として再記載され、そしてアルボアの整理した旧エウオプロケファルス群はペンカルスキー(久方ぶりの登場であろう)によって細切れにされるなど、北米の事情は相変わらずであった。ブラウンスタインによるアパラチアの恐竜相に関する研究はやたら細切れに出版されたが、いずれも断片的な化石に基づいていることはまあ言うまでもない話である。

 ひるがえって筆者といえば、最初の3ヶ月――特に3月は論文の執筆と、それから某案件(いつ陽の目を見るかがさっぱりなのだが、事が事だけに腰を据えて待つべきなのだろう)で大わらわであった。5月に受けた案件は即座に公開されたわけだが、そういうケースは現状それが唯一のようだ。論文は最初の査読でズタボロにされた割にはすんなり出版にこぎつけることができたようだ。秋すぎからは色々あったが、そういうわけで来年(もっと正確にいえば半年後)へのお膳立ては割と始まったばかりなのかもしれない。

 そういうわけで今年も順調に(?)不安定な更新ペースだったのは許してほしいところなのだが、まあその辺は同人誌でも読んでおいてほしいところでもある(在庫はまだそれなりにあるのだ)。



 というわけで来年もGET AWAY TRIKE !をよろしくお願いします。来年は色々席巻する予定なのでおたのしみに(・∀・) 新年最初の記事は【検閲】にするわけにもいかないのでサウロロフスだ、いってみよー!

邪悪の種子

 筆者は昔から悪だくみが得意科目だったクチだが、そういうわけでここ数ヶ月怪しい動きを見せているのは言わずもがなである。今年の3月から色々と(もっと言えば一昨年の秋から)現状では表沙汰にはできない新作が相当数あったりもして(芦別ティラノサウルス類に関しても昨年の早い時期にうすぼんやりとした話があったりもしたのだが、結局のところ発注があったのは6月に入ろうかという頃で、公開は6月半ば過ぎとかなりのスピード案件であった)、このあたりは(一番早いものでも)陽の目を見るまでたっぷり半年はかかろうものである。一方で、絵のない案件についても色々と手を出しつつある昨今であり、こちらのうち1件は年明けには明るみに出るだろう。
 読者の皆様には何かと楽しみにしておいてほしいところなのだが(我ながらだいぶどでかい話に複数ありついたものである)、筆者が一番楽しみにしているのは言うまでもないことである。

夏の炎の竜

 去年の秋からちらほら情報は出ており、また本ブログでもそこはかとなく度々取り上げてはきたわけだが、来年の7月13日(土)~10月14日(月)まで、国立科学博物館恐竜博2019が開催されることが発表された(公式サイトはティザーもいいところだが、やたら解像度のよいむかわ竜の写真がある)。
 かねてからの情報通り、むかわ竜の復元骨格(実物を組み込んだマウントにする話だったわけだが、見るからに重く脆そうな化石でもあり、色々気になるところである)が恐竜博2019の目玉になるわけだが、もうひとつ、公式サイトを見れば一目瞭然の通りデイノケイルスの全身骨格が目玉になるという。公式サイトの文言を見る限りマウントはキャストになるようにもとれるわけだが(その方が色々と好都合であろうし、あの代物をマウントするのはちょっと考えものでもあろう)、頭骨などは実物が来日するようである。
 一方で、目玉がこの二つだけとも考えにくく(どちらもマウントすればわりあい面積を取るのは違いないのだが)、他の色々な標本の来日にも期待したいところである。

(以前のモンゴル展におけるゴビヴェナトルのようなケースはあったが、むかわ竜が名無しのまま目玉展示に君臨するとも考えにくく、これはつまり、来年の初夏ごろには命名される可能性が高そうだ(言うまでもなく記載論文が出版されるかどうかの問題なわけだが)。フクイヴェナトルと並ぶ日本産屈指の完全度なわけで、論文の内容も楽しみなところである。)

脆すぎた呪縛

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Carpenter (2018)より、マラアプニサウルス(A)、レバッキサウルス(B)、ヒストリアサウルス(C)の胴椎(後面)の比較。スケールは50cm。

 恐竜の分類が分類の体をなしていないという話(1属1種が多すぎる)はしばしばなされることで、実際問題として属名を出されたときに模式種以外の種をぱっと思い浮かべる属というのは少ないものである。そうした状況の中で数少ない例外のひとつがアンフィコエリアス――「最大の恐竜」として名高い一方標本が行方不明となっていることも相まって伝説的な存在となったA.フラギリムスである。アンフィコエリアスと聞いた時に模式種A.アルトゥスを先に思いつくという人は、たぶん専門家の相談を受けた方がいい。

 アンフィコエリアス・フラギリムスの模式標本AMNH 5777(AMNHのナンバーが付いているのだが、この標本がAMNHの門をくぐったかどうかさえ定かではない)といえば、「コープの図を信用する限り」極めて巨大な竜脚類の胴椎の神経弓ただひとつである。これはコープに曰く「神経弓だけで」高さ1500m(これはmmの誤記のようにも思われるのだが、実のところこの当時「M」をメートル、「m」をミリメートルの略記として用いることがしばしばあったらしい。コープは「M」と「m」を明確に使い分けているフシがあり、従って「1500mm」は最近指摘されたように「1050mm」の誤記というわけではなく、実際に「1500mm」を示している可能性が高いようだ。)に達する代物で、コープによって新種とされた一方、一時はもっぱらA.アルトゥスの極端な大型個体とみなされていた。
 さて、アンフィコエリアス属のうちA.アルトゥスは系統解析にしばしばぶち込まれ、最近では一般にディプロドクス科の最基盤(ディプロドクス亜科とアパトサウルス亜科の分岐する前の段階)に置かれている。従ってA.フラギリムスの全長の推定はざっくりディプロドクスに準拠していたのだが(A.アルトゥスの見てくれはアパトサウルスのようにがっしりしたタイプではない)、一方で一部(のアマチュア)からは、A.フラギリムスをレバッキサウルス類とみなす声も上がっていた。

(そもそも原記載の時点において、A.フラギリムスをアンフィコエリアス属たらしめる強い根拠は何もなかった。当時胴椎の形態のはっきりしていた竜脚類はカマラサウルスとアンフィコエリアスくらいであり、単にコープが参照できるものが限られていただけの話だったのである。)

 このあたりの問題に真正面から突っ込んでいったのは、例によってA.フラギリムスの虜になっているカーペンターであった(メガ恐竜展で来日した模型もカーペンターの復元に基づいたものである)。いかんせん残された(ぱっとしない)コープのスケッチ頼りであったが、確かにそこからはレバッキサウルス類の特徴――A.アルトゥスにはみられない――が認められた。
 かくしてA.フラギリムスとA.アルトゥスを結び付けていたもの(実際には端から存在しなかったとさえ言えるわけだが)は崩れ去り、ここにマラアプニサウルス・フラギリムスMaraapunisaurus fragillimus――属名の前半は「巨大」を意味する南部ユテ族の言葉――が生まれることとなった。58mとも言われた(“セイスモサウルス”の全長について最初にまともな推定値を導き出したポールでさえ40~60mという訳の分からない数字を書くほかなかった)推定全長はつまるところアンフィコエリアス属がディプロドクス型の動物だったという前提に基づいていたわけで、リマイサウルスにぶち込んではじき出されたマラアプニサウルスの推定全長は30m~32mと、ずいぶんと(依然として巨大だが)現実的な数値が出てきたのである。

 ここに最大最古のレバッキサウルス類として生まれ変わったマラアプニサウルスだが、依然としてホロタイプは――AMNH 5777は行方不明(というよりこの世に残っていないのがほぼ確実である)のままである。アンフィコエリアス・フラギリムスの呪縛は、アンフィコエリアス・フラギリムスが崩れ去ってなお、ひょっとすると未来永劫あり続けるのだ。

太陽に身を焦がす

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 「化石の日」である。こと日本においては今年が初めての試みではあるのだが、一応筆者も学界を追放されたわけではない(ちゃんと学会費は払っている)ので、便乗してもたぶん怒られることはないだろう。言うまでもなく自☆演☆乙なわけだが、そういうわけで(論文がwebに出てからしばらく経つのだが――冊子体になったのはつい先日の話である)お付き合い願いたい。
 
 上部白亜系はややもすれば意外なほど日本各地に点在しているのだが、そうはいってもたいがい露出は貧弱で、一般(相変わらず謎のフレーズである)の知名度は皆無に等しいものも少なくない。そういう意味で那珂湊層群は数少ない関東地方の上部白亜系として、地元――茨城県ひたちなか市では多少の――「白亜紀層」――として知名度を得ていた(かつてここには「白亜紀荘(国民宿舎)」があり、今日そこは「ホテルニュー白亜紀(市営)」(ネーミングに若干のいかがわしさを感じるが、何ということはない普通の観光ホテルである)となっている)。
 那珂川の河口を挟んで南北10kmあまり、南は大洗港から北は磯崎漁港(ここ数年で妙に知名度の上がったひたち海浜公園(もともと陸軍の飛行場→わりかし最近までアメリカ空軍の悪名高き射爆場であった)は目と鼻の先である)までには、関東では珍しく岩礁地帯が続いている。この岩礁地帯(ともう少し陸側)は妙にややこしい地質からなり(付加体のそれとは比べ物にならないが)、それがそのまま研究史となっている。そしてそのもっとも北側――4kmあまりの岩礁をなすのが那珂湊層群――カンパニアン後期~マーストリヒチアン前期(ざっと7500万~7000万年前あたりだろう)の海成層であった。
 
 日本における地質学や古生物学の歴史が明治時代までさかのぼれるのは言うまでもないことで、大洗~磯崎まで続く岩礁地帯(いちいち書くのも面倒なので以下那珂湊-大洗海岸とよぶ)の地質学研究のはじまりも明治の中ごろ――1888年(ボーンウォーズ真っただ中の頃である)までさかのぼることができる。これは水戸周辺の地質図(20万分の1)だったのだが、この中で那珂湊-大洗海岸岩礁地帯はすべて第三系とされた。その後の研究でも(双葉に上部白亜系――双葉層群が認識される一方で)この一帯の地層は第三系とされ続けたのである。
 
(実のところ1926年に作成された20万分の1の地質図では那珂湊-大洗海岸のうち那珂湊海岸の岩礁地帯が下部白亜系とされたりもしたのだが、いかんせんこの地質図は説明書を欠いた作りで、かつ印刷された数もわずかだったため特に顧みられることはなかったらしい。今となっては根拠は完全に謎なのだが、どうも地層の固結度あたりに基づいていたフシがある。)
 
 そんなこんなで戦後もこの一帯――まとめて湊層とよばれていた――は鮮新統とされていたのだが、実のところ露頭をよく観察してやるとそう単純な話ではなさそうであった。鮮新統とされていたものの「拾える」貝化石はどれも中新世のもののようであったし、走向・傾斜からしてこの「湊層」のうちの上部(那珂湊海岸に露出するもの)の下部(つまり湊層上部の下部)の方が湊層上部の上部よりも上位に来そうだったのである。
 こうして色々と揺さぶりがかかっていた中、1954年5月16日に事態は急変した。一人の学生が「湊層上部の上部」から2つのアンモナイト――ディディモセラスに似たフックの雌型と、バキュリテスを見出したのである。
 このわずか2つ――前者(雌型とはいえ妙に保存がよい)はともかく後者の保存状態は悲惨だった――の化石が那珂湊-大洗海岸の地質を文字通りひっくり返すことになった。「湊層の下部」が上部白亜系大洗層に、「湊層上部の上部」が上部白亜系那珂湊層(のち層群に格上げ)に、そして「湊層上部の下部」が中新統殿山層となったのである。
 
(この地から初めてアンモナイトの化石を見出した学生は、そのまま大量の化石を採集(彼の調査ののち、これほど大量の化石がまとまって採れたことはとうとうなかった)するとともに一帯の地質を卒論としてまとめ上げた。その後研究者となることはなかったが、教員として茨城県の地学教育普及に力を尽くしたという。)
 
 大洗植物群の研究も含め、このあたりの地質と化石に関する研究は1960年代でひと段落付くことになった。岩礁地帯に露出していたノジュールはあらかた採り尽くされ、それなりの数の軟体動物化石――ほとんどが異常巻アンモナイト――が採集されたのである(イノセラムスさえロクに出ず、そしてどういうわけか通常巻アンモナイトは産出しなかった)。
 異常巻アンモナイトもいくらかはバキュリテスだったが、ほかはほとんどディディモセラス属――D.アワジエンゼであった。他に2標本が新種――D.ナカミナトエンゼとされ、他のいくつかの新種(たとえばブンブクウニ類――ニポナスター・ナカミナトエンシス)とともに「ご当地化石」の座に収まった。
 
 やがて大洗層が白亜系から外され(どうも古第三系の気があるが、現状謎のままである)、那珂湊層は那珂湊層群に格上げされた(同時に部層が層へと格上げされ、下から順に築港層、平磯層、磯合層となった。築港層の露頭は今日完全に失われているのだが(ちょうど県立海洋高校のあたりである)、そもそも磯合層の“切れ端”に過ぎない可能性さえある)。80年代に入り、北海道――蝦夷層群に留まらず四国や淡路島、和泉山地――和泉層群における同時代層のアンモナイトが続々と(再)記載された――が、那珂湊層群は特段顧みられることはなかった。多様というわけでもなかったし、基本的に出てくる異常巻アンモナイトは淡路島のものと変わり映えしなかったのである(保存もよくなかったし、そして何より地層としての規模がごく小さかった)。層序学的および堆積学的研究がぽつぽつと行われる一方で、蝦夷層群や和泉層群を横目に古生物学的研究の進展はほとんどなかった。
 状況が変わり始めたのは90年代に入ってからで、堆積相解析の概念を導入した再検討が(卒論ではあったが)おこなわれた。堆積学的な研究が中心であったとはいえ、通常巻アンモナイトの破片とともに久方ぶりのみごとなディディモセラスの化石――GIUM 5001――が採集された(そしてその「雌型」は現地に残された;どうもこいつは新種くさいのだが、螺塔がきれいに失われており、また付近の層準からひとかけらたりとも参照できそうな化石が産出していないこともあってsp.止まりが無難なところである)。
 
 それからの20年で少しずつ化石は増え(茨城県自然博物館が開館したのも大きかった)、中には那珂湊層群ではまだ報告されていなかったタイプのもの――クリップ状に巻くもの――ものも少なからず含まれていた。それまでアオザメ属の歯がただ一本発見されているだけだった脊椎動物化石についても翼竜の肩甲骨スッポン類の上腕骨やモササウルス類の尾椎が発見されるなど、着実に標本は増えつつあり、また(いかんせん狭いわりに開けて見通しの利く場所であり、産出地点はピンポイントで柱状図に落とし込むことができた)生層序的なデータの素も集まりつつあった。また、平磯層産の微化石の研究もおこなわれるようになった。
 この頃になると、日本各地の上部白亜系で層序やらなんやらの再検討が続々と出版されるようになっていた。お膳立てはすべて整っていたのである。
 
 役者がそろったのは2014年になってからで、GIUM 5001の雌型の「再」発見に始まり、那珂湊層群産の異常巻アンモナイトと各地の同時代層――和泉層群や蝦夷層群産の標本との比較がおこなわれるようになった。同時に、溜まりに溜まった産地データは柱状図に叩き込まれ、1900mあまりに渡って途切れずに見える岩相の変化(すなわち堆積環境の変化である)と産出種の変遷が明るみに出た(意外なことに、先行研究で試みられたことはなかったのである)。
 先行研究でそれとなく指摘されていたことではあるのだが、かくして、海底扇状地の下部(平磯層下部)から中部~上部(平磯層上部~磯合層)へと堆積環境は移り変わり、そしてそれと合わせるように大型化石もディディモセラス主体からバキュリテス主体(そもそも平磯層下部とそれより上とでは化石の産出頻度が比べ物にならないのだが)へと移り変わっていくことが明白となった。平磯層の下部と磯合層とでは明らかに別の時代――カンパニアン後期とマーストリヒチアン前期――を示す化石が産出しており、そしてそれらは淡路島と北海道――堆積環境の違いから、(時代が被っているのは明らかであったにも関わらず)直接対比の困難だった一大産地を結び合わせるものでもあった。平磯層下部ではディディモセラス・アワジエンゼ――那珂湊層群のほか四国と淡路島の和泉層群で多産する一方、北海道では未だ出る出る詐欺状態の種――が多産する一方、磯合層上部では「トゲの長い大型ノストセラス」――那珂湊層群で最初に発見されたアンモナイトの片割れ――や“イノセラムス”・クシロエンシスといった、目下北海道(“I.”クシロエンシスはサハリンやらでも出るのだが)でのみ知られているものと同様のものが産出していたのである。
 
 那珂湊層群からこの60年あまりで出てきた異常巻アンモナイトはいずれも殻のどこかしらを派手に欠いていたが、それでもいくつか淡路島や北海道のものに匹敵する(殻表面の保存やらに関していえばむしろ上回っているものもある)保存状態のものもあった。ディディモセラス・アワジエンゼの中には殻口が完全に保存されているものもあったし、ディプロモセラス(もろもろの理由でsp.だが、北西太平洋地域のものをひっくるめて究極的には新しい種小名が必要かもしれない)の中には――ものがものだけにポリプチコセラス属にされかけていた――成長中期の4本のシャフトが揃ったままのものさえあったのである。

(ディプロモセラスは世界中で産出し、日本でも中部カンパニアン以上でわりあいよく出るが、カンパニアン後期の後半――ディディモセラス・アワジエンゼと同じ層準から出てきたケースはそれまで未報告であった。また、シャフトが化石化の過程でばらけることがよく知られており(成長後期の殻が2本つながっていればいい方である)、成長中期の殻が4本まとまって出てくるケースは極めて稀である。こうした事情から、その辺でみかけるディプロモセラスの復元図は成長初期~中期の殻を文字通り端折られていたりする。)

 この60年で海岸沿いの風景は激変し、ディディモセラス・ナカミナトエンゼもD.アワジエンゼのシノニムとなったが、それでも岩礁地帯は、そして海は――7500万年前から――変わらずそこにある。どうにか連綿と“バトン”として受け継がれてきた標本たちは今日も新たな研究者の訪れを待っており、そして潮が引くたび那珂湊層群の化石は――筆者の見つけ損ねたものたちは細粒タービダイトの波食台の上で、太陽に身を焦がしている。

シロワニ属の歯や“ヒタチナカリュウ”として知られるニクトサウルス類の肩甲骨巨大スッポン類の上腕骨、モササウルス類の尾椎、そして推定甲長80cmに達する巨大なスッポン類の背甲の産出した層準は、どうもマーストリヒチアン初頭――淡路島のランベオサウルス類やカムイサウルスと同時代に相当するようだ。もし――もしも恐竜が出てくるとすれば、たぶんこの層準を置いて他にない。)
 

ラストエンデミズム【ブログ開設5周年記念記事】

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↑Skeletal reconstruction of Dryptosaurus aquilunguis,
the best-known late Maastrichtian dinosaur in "old" Appalachia,
based on holotype
and Triceratops horridus, typical chasmosaurine
in mid-late Maastrichtian "old" Laramidia, based on SDSM 2760.
Scale bar is 1m.

 5周年である。我ながら5年もよくやったと思うところでもあるのだが、言うまでもなく取り上げていないネタは数知れず、そういうわけで当分飽きは来そうもない。

 さて、アパラチア(そしてそれと対をなすララミディア)といえば本ブログではこれまで散々取り上げてきたわけだが、ここに書くまでもなく恐竜相(というか陸上生物相全般)の理解はあまり進んでいない(ララミー変動による育ち盛りのロッキー山脈を後背地に抱えたララミディアと比較するのが間違いといえばそうでもあろうが)。ここ数年ブラウンスタインによって(いささか小出しにしすぎているきらいがあるのだが)獣脚類の再評価が進められているのだが、アパラチオサウルスのホロタイプ以降、部分骨格が見つかる気配は一向にないのが現状である。断片に基づくトピックはいくらかあったが、正直なところ何とも言えない話止まりではある。
 一方鳥盤類に目を向ければ、久方ぶりの(そしてアパラチアでは空前(目下)絶後の)まともな新発見――エオトラコドンの記載は記憶に新しい。アパラチア産の頭骨付きハドロサウルス類といえば実質的にそれまでロフォロトンのホロタイプ1例しか知られていなかったわけだが、エオトラコドンのホロタイプはララミディア産の最良クラスに匹敵するほぼ完全な頭骨を残していたのである。
 そしてもうひとつ、標本はわずか1本の歯に過ぎないが、これまでの(少なくとも一般(何)的な)認識をひっくり返す話題が一昨年にあったのは記憶に新しい。二重歯根――ケラトプス上科の特徴である――をもつ角竜の歯が、ミシシッピ州の最上部白亜系オウル・クリークOwl Creek層で産出したのである。

 その標本MMNS VP-7969――見てくれはその辺で1本4、5万円で売られているトリケラトプスの歯の最高級品と変わりない――が産出したのはミシシッピ州はユニオン郡を流れる川のほとり、それも最近その辺に溜まったちょっとした泥の中からであった。この川(詳細な産地情報は産地保護の観点からか、一般には公開されていない)に沿って更新統と古第三系(ダニアン)のクレイトンClayton層、そして上部白亜系(マーストリヒチアン)のオウル・クリーク層とリプレイRipley層のチワパChiwapa砂岩部層が露出しているのだが、様々な状況証拠――特筆すべきことに、蟹やらモササウルス(ホフマニとされている)やらなんやらと共に、名実ともに最後のアンモナイトのひとつであるディスコスカファイテス・アイリスDiscoscaphites irisが同じ吹き溜まりから共産した――からして、この歯がオウル・クリーク層上部――マーストリヒチアンの中頃以降に由来することはほぼ確実であった。

 オウル・クリーク層(やその下のリプレイ層)はミシシッピ湾入――ララミディアとアパラチアを分かつ西部内陸海路(WIS)の南端近くに口を開けた巨大な湾――の南西部を構成しており、つまりこの場所はアパラチア南端近くの海だったことになる。MMNS VP-7969にみられる摩耗はわずかであり(歯根が残っていた――遊離歯ではないことを差し引いても)、すぐ近辺からやってきた角竜のようである。――白亜紀最後のほんの数百万年の間に、アパラチアにケラトプス科角竜が侵入していたのである。
 マーストリヒチアン後期にWISが閉鎖された(一方でモンタナ-南北ダコタ近辺に白亜紀のほぼ末までWISの名残の海があったのも確実なのだが)可能性については色々な観点から度々指摘されていたことではあったのだが、いかんせんアパラチアの陸上生物相の保存の悪さもあっていささか決定打を欠いていた。歯一本だけとはいえMMNS VP-7969はまぎれもないケラトプス科角竜――他にはララミディアと山東省そして(おそらく)日本(下甑島)でしか知られていない――であり、そしてそれがララミディアから(マーストリヒチアンの半ば以降に)渡ってきたのもほぼ確実である。

 右歯骨歯1本だけではケラトプス科角竜であること以上の同定はどうやっても不可能なのだが、言うまでもなく当時の(旧)ララミディア側の状況はMMNS VP-7969の正体のヒントになる(ヒント止まりだが)。マーストリヒチアンの中ごろ(ここではざっと6900万年前にしておこう)のララミディア南部の角竜といえば、“トロサウルス”・ユタエンシス“オホケラトプス”・ファウラーリ(要はどちらもトリケラトプス族である)あたりが挙げられるが、どちらも内陸部の住人である。
 もう少し目を北に向けてやると、海岸平野で形成されたとされるララミー層ではトリケラトプス・ホリドゥス(のうち最古のもの)とトロサウルス属と思しき謎の部分骨格が産出している。両者は後のヘル・クリーク層(これも基本的に海岸平野で形成された地層である)でも産出しており、トリケラトプス族の中でも比較的海辺が好きな部類なのかもしれない。
 このあたりは言うまでもなく妄想止まりの話であり、結局のところアパラチア側でそれなりの頭骨要素(何度も書くがMMNS VP-7969は遊離歯ではないわけで、本来近くに歯骨があったことを示唆している)が見つからなければどうしようもない話である。とはいえ、もろもろの間接証拠からするとMMNS VP-7969はトリケラトプス族に属しているようで(現状の化石証拠からすると、マーストリヒチアンの中ごろまでに非トリケラトプス族ケラトプス科は絶滅しているようである)、ひょっとするとトリケラトプス属かトロサウルス属の可能性さえあるのだ。

 散々書いて書きすぎることはないが、結局のところアパラチアの陸上生物相はわかっていないことがあまりにも多い。とはいえ、MMNS VP-7969の発見で、マーストリヒチアンの半ば過ぎには少なくとも旧アパラチア側の南部までケラトプス科角竜が進出していたことが明らかとなった。
 この時期のアパラチア側の恐竜相が多少なりとも明らかになっているのははるか彼方のニュージャージーはネーヴシンク層とニューエジプト層だけである。もっとも、アパラチアはララミディア側と比べて全体的に平坦であり、目立った障壁になる地形は特になさそうでもある。ララミディアの南北で恐竜相が明確に分かれていたとする意見はだいぶ勢いを失いつつあるのだが、それをさておいてもアパラチアの恐竜相が各地で割と均一だったというのは(現状化石証拠も何もないのだが)割とありそうな話でもある。

 はるばるミシシッピ湾入まで旅した角竜――初期のトリケラトプス・ホリドゥスの可能性さえある――はそこで何を見たのだろう。あるいはそこにいたのは大人になってもティラノサウルスの亜成体めいた姿の獣脚類――ドリプトサウルスだったのかもしれない。