GET AWAY TRIKE !

恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

テンダグルの丘を越えて

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↑Composite skeletal reconstruction of Giraffatitan brancai
largely based on paralectotype MB.R.2181 with complete skull MB.R.2223.
Scale bar is 1m for MB.R.2181.
The largest specimen (formerly known as HMN XVII)
is approximately 13% larger than this specimen.

 19世紀後半から20世紀前半にかけての古生物学の輝かしい歴史はそのまま帝国主義の一面でもあることについては今さらここに書くまでもないわけで、今であればあらゆる理由で持ち出しがためらわれるような標本が相当数無茶な旅を経て国境を越えたわけである。とはいえ、そうでもなければ永久に人目に付くことなく風化で消えていったであろう標本も多く、このあたりは古生物学にせよ考古学にせよ、今日厄介な問題となっているわけである。
 テンダグルといえば東アフリカ随一の恐竜化石(に加えて相当量の浅海の軟体動物化石が産出するのだが)産地であるが、そういうわけでこの丘が陽の目を見たのは1907年、帝政ドイツの植民地時代のことであった。この地で発見された恐竜――ジラファティタンに代表される――は、帝国主義の行く末に至るまで、時代の波に翻弄され続けることになったのである。

 ツェツェバエが飛び交いライオンが出ては地元民が襲われるこのうっそうとした、それでいて急峻な丘で最初に恐竜化石が発見されると、にわかにこの地は古生物学者の注目を集めるようになった。探鉱技術者のサトラーによって発見された2種の竜脚類は翌1908年にはそれぞれギガントサウルス・アフリカヌス、ギガントサウルス・ロブストゥスと命名され(すったもんだの末両種はそれぞれディプロドクス亜科のトルニエリア・アフリカーナと真竜脚類――トゥリアサウリアかカマラサウルス一歩手前段階かははっきりしないが、とりあえず以前言われていたようなティタノサウリアではないようだ――のヤネンシア・ロブスタとなった)、そして1909年にはドイツ帝国自然科学界の威信をかけた大規模な遠征隊がテンダグル――タンザニア南部へと乗り込んでいったのだった。

 テンダグルの丘の周辺はまさしく化石の山であった。おびただしい数(アルファベットひとつずつの割り当てが追いつかなくなり、かなり訳の分からない整理記号が付けられた)のサイトが開かれ、人力、帆船、蒸気船、汽車を駆使して壮絶な量の化石がベルリンへと送られた。ベルリン大学博物館(後フンボルト大学博物館を経て現ベルリン自然史博物館)の地下収蔵庫が(今もなお)納骨堂のような有様となったのは言うまでもないことで(古くからこの辺の写真はよく知られている)、ヤネンシュらベルリン大の研究者はその後40年以上に渡って――帝政ドイツから共和制ドイツ、ナチスドイツそして東ドイツに至るまでの間、納骨堂に通い詰める羽目になったわけである。
 さて、遠征隊の調査は1912年に終わり、とりあえずヤネンシュが手を付けたのが竜脚類であった。遠征前にすでに“ギガントサウルス”2種がテンダグルから知られていたわけだが、他にも複数の新種が存在することは明らかであった。かくして1914年、ヤネンシュはテンダグル層の中部恐竜Middle Dinosaur部層および上部恐竜Upper Dinosaur部層(キンメリッジアン後期~チトニアン;1億5560万~1億4550万年前ごろ)からブラキオサウルス属――モリソン層でただ一つの部分骨格が知られているだけだった――の新種を命名した。恐ろしいことに、遠征隊の旗振り役であったブランカの名を種小名に冠したその恐竜――ブラキオサウルスブランカイ――は、実質的に全身の要素が発見されていたのである。

 全身の要素が記載されるまでにはその後長い年月を要したのだが、それでもこの発見によってブラキオサウルスの理解は一気に進んだ。1915年には早くもブラキオサウルス・アルティソラックスの欠損部の補填にB.ブランカイを用いた骨格図が描かれ(実のところこの時点ではB.ブランカイのほとんどの部位は未記載だったのだが、肩帯や肋骨、尾などはあきらかにB.ブランカイのそれを参考に描かれており、どうも写真がひっそりとアメリカまで流通していたらしい(一方で頭骨はクリーニングが追い付いていなかったのかあからさまにカマラサウルスである)。ルシタニア号事件が起きたのはこの年のことであった)、雲突くばかりの姿が一般の目に触れるようになったのである。
 ベルリンへと持ち帰られたブラキオサウルスブランカイのうち、HMN SII(Sサイトで発見された2体目の標本の意。露骨に整理番号である)は全身のかなりの部分が揃っていた。これを基に復元骨格を制作することはすんなり決まった――が、第一次世界大戦とその後のすったもんだを受け、制作は遅れに遅れた。その間に東アフリカはドイツ領からイギリス領へと変わり、テンダグルへ意気揚々とカトラー率いる遠征隊が乗り込み、そしてマラリアの前に斃れた。

 1937年、ようやくブラキオサウルスブランカイの復元骨格がベルリン大学博物館にお目見えした。変形と損傷の酷かった仙前椎を全て模型に置き換えることで強度面をクリア(頭骨もキャストというか模型が据えられていたことは言うまでもない;長骨は実物だったがドイツ的美意識のためか容赦なく鉄骨が通された)したこの骨格は、当時すでに世界各地で見ることのできたディプロドクスの骨格をはるかに凌ぐ、文字通り「最高」の復元骨格であった。
 直後に第二次世界大戦の口火が切られ、復元骨格はあっという間に解体された。ケントロサウルスの化石のほとんどを始め、かなりの数のテンダグル産恐竜化石が空襲で失われたが、ブラキオサウルスブランカイの化石のうちのほとんどはどうにか無事であった。気が付いてみればベルリン大学博物館は東側にあり、そしてカトラー隊の命を吸った大英自然史博物館のテンダグル産ブラキオサウルス類――今日新種と考えられており“Archbishop”(大主教)の仮称で呼ばれている――も未記載のままかなりのパーツが戦禍に呑まれていたが、それでもヤネンシュは研究を続けたのである。

 ヤネンシュのローペースながら(なにしろ研究材料がありすぎる始末である)精力的な研究の甲斐もあり、いつしか(むしろ1915年以降常にというべきか)ブラキオサウルスといえばB.ブランカイという状況ができあがっていた。あらゆるブラキオサウルスの復元のベースとなるのはB.ブランカイであり、模式種たるB.アルティソラックスは半ば忘れられたような状況でさえあったのである。
 70年代になり、ジェンセン率いるBYUの調査隊がコロラド南西部で一大産地――ドライ・メサを発見したことで少々状況は変わった。巨大な(実のところ特別巨大でもなかったのだが)ブラキオサウルス類の肩甲骨(や頸椎)がここから産出し、これの記載にあたってB.アルティソラックスのホロタイプや同種らしい巨大な断片が取り上げられたのである。
 そして80年代になり、骨格図を武器に一躍時の人になったのがポールであった。大英自然史博物館の標本の情報も取り入れ、ヤネンシュがB.ブランカイの研究の総まとめとして描いた(かなり記号的な)骨格図とはずいぶん趣の違う――まさしくキリンのような――骨格図を描き出したのである。ポールはここでB.アルティソラックスとB.ブランカイの胴椎のプロポーションに著しい違いがあることを指摘し(復元骨格にせよヤネンシュの骨格図にせよ、胴椎の変形の補正は完全にB.アルティソラックス頼みであった)、B.ブランカイをブラキオサウルス属の新亜属――ブラキオサウルス・(ジラファティタン)・ブランカイとしたのであった。

 ポールの分類は例によって特に相手にされなかったのだが、それ以来、ブラキオサウルスの復元イメージは(B.アルティソラックスも含めて)ポールのジラファティタンに置き換えられることになった。ブラキオサウルスの名のあるところ、ポールに言わせるところのジラファティタンが(皮肉にも)常に立ち続けたわけである。
 2007年になり、フンボルト大学博物館改めベルリン自然史博物館のブラキオサウルスブランカイのマウントはリニューアルに合わせポールが泣いて喜ぶ姿勢で組み直された。もはや完全に不適切になった胴椎の模型は(頸椎もろとも)取り除かれ、新たに、より適切に作られた模型に差し替えられた。のっぺりした頭も完全な頭骨に基づき拡大された3Dプリントの模型に置き換えられ、足取り高く、前より一層高みから来場者を見下ろす格好となったのである。
 状況が変わったのは2009年のことで、ポール以来初めてまともに(ポールによる比較がまともだったのかはさておき)B.アルティソラックスとB.ブランカイの骨学的な比較が行われた。結果、B.ブランカイをB.アルティソラックスに特段結び付けられる特徴が実のところ何もないことが明らかになった――ここに、ブラキオサウルスブランカイはジラファティタン・ブランカイとして広く認められるようになったのである。

 発見から100年以上が過ぎたが、今なおジラファティタンはブラキオサウルス科としては最も完全な骨格が知られているものとなる。ブラキオサウルス科のイメージがいまだにジラファティタンに頼り切りな状況なのは言わずもがなだが、頭骨など、既知のブラキオサウルス科の中では最も「過激」なつくりでもある。
 ジラファティタンは相当数がキンメリッジアン後期からチトニアンにかけて海岸付近にのさばっていたらしいのだが、実のところこれは輝かしいブラキオサウルス科の歴史の真ん中あたりでしかない。少なくとも北米では、白亜紀中ごろまでキリンに似た竜脚類の一群が繁栄を続けていたのである。


 今回、ジラファティタン骨格図の制作にあたって某Sさんから(いつものように)多大な資料提供をいただきました。ありがとうございました。

失われた者たちへの鎮魂歌

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↑Skeletal reconstruction of famous Smithsonian trikes.
Top, Triceratops horridus USNM 2100;
bottom, Triceratops sp. USNM 4842.
Scale bar is 1m.

 スミソニアン――本ブログの読者にはたぶんUSNMと言った方が通りがよい――の恐竜展示の歴史は当然古く、化石戦争の戦後処理を担わされてからかれこれ100年以上に渡っている。そんなUSNMの恐竜ホールがリニューアル工事に入って5年が過ぎ、今夏ついに再公開されるわけである。
 かつてのUSNMを飾っていた輝かしい復元骨格の数々――これまでも本ブログで取り上げてきたし、今後も取り上げるはずだ――はすべて実物からキャストへ置き換えられ、最新の技術で新たなポーズに組み直されたわけだが、その中でひっそりと「息を引き取った」マウントがある。お披露目から114年、紆余曲折がありながらもUSNMの「顔」として閉鎖された恐竜ホールの留守さえ守ってきた“ハッチャー”――トリケラトプスの合成復元骨格は、“合衆国のティラノサウルス・レックス”――USNMに50年間の期限でリースされたMOR 555に我が身を捧げたのである。

 マーシュ麾下の最強の化石ハンターであったジョン・ベル・ハッチャーは“長角バイソン”を皮切りに、ほぼ全ての種のホロタイプを含むあきれるほど大量のトリケラトプスの化石を19世紀最後の10数年で発見したのだが、そういうわけで化石戦争がコープとマーシュの死で幕を閉じた時、トリケラトプスの化石はマーシュの拠点であったイェール大学ピーボディ博物館(YPM)にはとても収まりきらない量になっていた。かくして相当数の標本(ほとんどはジャケットも外されていなかった)がYPMからUSNMへと移管されたのだが、その中にはマーシュが生前記載・図示した標本も含まれていたわけである。
 トリケラトプスの化石といえば今も昔も頭骨ばかりのイメージが強い(実際その通りではある)が、実のところ“ケラトプス”・ホリドゥスの原記載から2年後の1891年には、足を除く全身各部の代表的な要素が(“鎧”と共に)記載・図示されていた。その中にあったのが後のUSNM 4842――“ハッチャー”の主要部分を占める、かなり大きなおとなの部分骨格であった。

 なんだかんだで(椎骨のカウントなど、謎は多かったのだが)それなりの要素が集まっていたこともあり、1896年にはマーシュによる北米産恐竜類の総括の中でトリケラトプス・プロルススの骨格の復元が試みられることとなった。この復元は(最初の復元の試みでありながら)いまだにトリケラトプスの復元イメージを支配しているという代物であり、そして究極的にはUSNMのトリケラトプスの運命を支配するものでさえあった(そしてこの骨格図の体部の主要部分をUSNM 4842が占めていることは言うまでもない)。
 アメリカの輝かしい(そして血塗られた――当時の大統領であったマッキンリーは会場内で銃撃されその後落命した)20世紀の幕開けを飾るパンアメリカン博覧会にブースを出展するにあたり、USNMがシンボル展示に選んだのがトリケラトプスの復元骨格――いうまでもなく世界初――であった。とはいえUSNMに移管されたトリケラトプスの標本の多くはジャケットの開封が追い付いていない状態であり、USNMのキュレーターであったフレデリック・ルーカスは「張り子」でこれを作り上げることにしたのである。

(実のところルーカスは古生物学者ではなかった――鳥類を得意とする腕利きの剥製士ではあったのだが化石を扱った経験はなく、従ってルーカスはマーシュの骨格図を単純に「立体化」することしかできなかったのである。)

 かくしてマーシュの復元に基づくトリケラトプスの復元骨格「模型」は1901年の5月から11月までニューヨーク州はバッファローで公開され(模型とはいえ、これはハドロサウルスと“クラオサウルス”・アネクテンスに次ぐアメリカ3種目の恐竜の復元骨格であった)大好評となった(1901年に描かれたナイトの有名な復元画は明らかにこの骨格に基づいている)。これに気をよくしたUSNMは、本家博物館の地質分野の目玉として実骨のマウントを展示することとしたのである。
 パンアメリカン博覧会では断念されたこの難題を任されたのがUSNMにやってきたばかりの若手――ハッチャーの下でクリーニングの修業を積んだギルモアであった。手始めに“クラオサウルス”・アネクテンスのホロタイプをウォールマウントとして送り出し、そしてトリケラトプスの山の中から目を付けたのがUSNM 4842――頭骨の断片やいくつかの椎骨、肋骨と四肢の大部分、そして見事な腰帯であった。
 首から後ろの主要部分はUSNM 4842を核にすることで落ち着いた(欠損部はサイズのだいたい合いそうな他の実骨で埋め、間に合わない椎骨などは石膏模型があてがわれた)が、もうひとつ問題があった。この骨格の「顔」が欠けていたのである。ここでハッチャーが見出したのがUSNM 2100――吻を欠くもののほぼ変形のない、見事な頭骨であった(下顎は別個体のものである点に注意)。

 ハッチャーの死から1年後の1905年、ギルモアとその相方であるノーマン・ロスの手によって「トリケラトプス・プロルススの復元骨格」が完成し、USNMの目玉展示となった(当時の新聞記事が熱気を教えてくれる)。その後もギルモアとロスの手によって続々と恐竜のマウントがホールを飾っていく中にあって、この骨格はUSNMの化石ホールの顔であり続けたのである。

(「張り子」の復元骨格模型はその後セントルイス万博を始め全米各地を巡回し、その後一旦スミソニアンの展示に復帰した。1907年にはこれと同型のものが大英自然史博物館で展示された(今日でも常設展示のままである)が、これがオリジナルの「張り子」そのものなのか、「張り子」のレプリカであるかははっきりしない。)

 1907年になってようやく出版されたハッチャーの遺作である角竜のモノグラフ(もともとマーシュの死後ハッチャーが引き継いだ研究であった)でUSNM 4842とUSNM 2100は詳しく記載・図示され、特にUSNM 4842については貴重なトリケラトプスの体骨格ということもあってその後も様々な文献に図が転載されることとなった。80年代の後半になりポールがトリケラトプス・ホリドゥスの骨格図を描いた際にも、四肢と腰帯にはUSNM 4842があてがわれさえしたのである。
 黄鉄鉱病でいよいよ限界に来ていたマウントは、1998年になってついに来館者のくしゃみのショックで腰帯が崩壊を始めた。USNM 4842はバックヤードへ勇退する一方USNM 2100はそのまま単体の展示として残留し、そしてこの骨格は最新技術のデモンストレーションを兼ねて全身を3Dスキャンされた。20GB“もの”データを元にこの骨格のプロポーション――USNM 2100はUSNM 4842と比べて一回り小さな個体であった――は矯正され(ついでに足にあてがわれていたエドモントサウルスも追い出された)、2001年に“ハッチャー”としてこの骨格は再デビューを飾ったのである。

 USNMの黄金時代を飾った“ハッチャー”の功績は上に書いた通りであり、USNM 2100にせよUSNM 4842にせよ、その標本としての重要性はいまだに揺るがない。USNM 2100ほど変形の少ない成体の頭骨は他にほとんど知られていないし、USNM 4842ほどのサイズで体部の記載のある(それも変形のほぼみられない)トリケラトプスは他にないのである。
 トリケラトプスの復元イメージを114年間担い続けてきた“ハッチャー”は、かくしてUSNMの恐竜ホールの顔役をティラノサウルスへ譲り、文字通り身を捧げることとなった。USNM 4842に基づくポールの骨格図もフィールドガイドの第二版から消えたが、それでもギルモアとロスが手塩にかけた標本たちはUSNMの収蔵庫で息づいている。

(USNM 4842の頭骨のうちまともに残っているのは上眼窩角だけであり、従って(上腕骨の形態からしトロサウルス属ではなくトリケラトプス属なのはほぼ確実だが)USNM 4842の種を定めるのは難しい。USNM 4842のナンバーを振られた断片の中には明らかにエドモントサウルスの上顎骨が紛れ込んだりしているのだが、一方でどうも鼻角らしいものも見受けられる。何となく腹側から撮影したように見え、だとするとホリドゥス的な小さな鼻角のようにも見えるのだが、さてどうだろう。)

君はあの影を見たか

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↑Skeletal reconstruction of huge hadrosaur
Shantungosaurus giganteus (composite; including holotype GMV 1780-1) and
Saurolophus angustirostris (composite; largely based on MPC-D 100/764).
Scale bar is 1m for GMV 1780-1 and MPC-D 100/764.

 あけましておめでとうございます。今年もGET AWAY TRIKE !をよろしくお願いします。


 ハドロサウルス類といえば名実ともに世界を支配した恐竜といっても過言ではない(ゴンドワナにしても南米そして南極まで食い込んでおり、北アフリカでそこそこまともな標本が出てくるのも時間の問題だろう)。サントニアン初頭ごろに出現すると瞬く間にローラシアはおろかゴンドワナにまで進出したわけで、ティラノサウルス類など物の数ではないレベルで繁栄したグループなのだが、その実ティラノサウルス類にかじられるのが板についている昨今である。
 
 今のご時世、日本でハドロサウルス類といえばむかわ竜ということになるのだろうが(現実問題として、下手なララミディア産のものより完全度は高いのだ)、ニッポノサウルスは置いておくとして、西南日本の各地でもハドロサウルス類の化石はちょこちょこ産出している。淡路島のランベオサウルス類は完全度はともかく保存状態はむしろむかわ竜を上回るものであるし、昨年(2018年)に報告された上甑島のハドロサウルス類の大腿骨は推定で長さ1.2m――まごうことなき10m級のハドロサウルス類のものである。その辺のティラノサウルス類をサシで殴り倒せるレベルの動物がいたのだ。

 ハドロサウルス類はローラシアならどこにでも住んでいたようなものだし、さらに言えば海成層からもちょくちょく出てくる(むかわ竜は言うまでもないが、アウグスティノロフスなど、それなりに沖合であっても全身骨格が出てくるケースは他にもあるのだ)。従って日本各地に点在する上部白亜系から出てくるのは訳ない話なのだが、一方で、ハドロサウルス類の骨格が展示されている博物館は国内では思いのほか少なく(現状の雰囲気でいくとむかわ竜の骨格もあまり量産はされなさそうだ)、まして10m超級となればなおさらである。
 こんにち国内でみられる唯一の10m超級のハドロサウルス類の全身骨格が、福井県立恐竜博物館にあるサウロロフス・アングスティロストリスMPC-D 100/706のキャストである(読者のみなさまもご存知の通り、これのオリジナルはしばしば来日している)。展示配置の問題もあってその全長を実感するのは難しい(実のところ胴椎がいくつか欠けているのを強引にマウントしているようである――これはタルボサウルスも同様である)し、また棘突起は派手に失われている(バルスボルディアは結局のところ本種のシノニムとみなせるらしく、だとするとサウロロフス亜科でも屈指の背の高さを持つ計算になる)が、そのプレッシャー(富野節)を感じるのには十分すぎるだろう。
 
 とはいえ、実のところサウロロフスの最大個体はこの骨格ではない。例えばモスクワにあるひどく潰れた頭骨PIN 551-357はMPC-D 100/706よりわずかに大きいし(変形を補正すればもう少し差が開くかもしれない)、林原が各地で展示していたブギン・ツァフ産のほぼ完全な骨格MPC-D 100/764――計測値がろくに出版されていないうえ記載も中断されている岡山理大には何とかしてほしい所存)――も、MPC-D 100/706よりやや大きそうである。つまるところ(足跡に基づく18mという全長の推定は置いておくとして――ブレヴィパロプスを忘れてはならない)、シャントゥンゴサウルスと同等のサイズなのである。

 恐ろしい話だが、実のところ10m超級のハドロサウルス類は世界的に見ても――少なくとも北米とアジアでは決して珍しいものではない。アパラチア産のいくつかの断片(時代やら古地理からすると真正のハドロサウルス類としてはかなり古いタイプだろう)が10m超級のものらしいことは古くから指摘されてきたし、シャントゥンゴサウルスやサウロロフス・アングスティロストリス、マグナパウリア(先の2つに比べるとやや見劣りするサイズだが、「背びれ」がとんでもなく大きいのでサイズ感は相当だろう)は言うまでもない。
 あげく、従来9m止まりと言われていた(12、3mに届くという話もあるにはあったが)エドモントサウルス・アネクテンスがどうやらシャントゥンゴサウルスと同等の体格になるまで成長したらしいことまで明らかになったのである(ブラキロフォサウルスも8m止まりと見せかけて13mほどにはなるらしい)。結局のところ、ホーナーの弁――既知の恐竜の“おとな”のほとんどは亜成体に過ぎない――は、割とそれらしく聞こえてくるものでもあるのだ。
 
 このあたり、上甑島の大腿骨はたぶん氷山の一角でさえないのだろう。10m級のハドロサウルス類はユーラシアの内陸だけに留まらず、海岸線近く――ひょっとすると波打ち際さえ歩き回っていたのである。
 むかわ竜の全長はざっと8mちょうどくらいのようなのだが(ハドロサウルス類はこのあたり、大腿骨1本でも割としっかり推定が利くのだ)、ハドロサウルス類としては(サイズの割には)かなりスマートな部類であるらしく、あまり高くないらしい棘突起も相まって、どことなく若い個体であるらしい印象さえ受ける。あるいはむかわ竜も、環境が許せばひょっとすると10mクラスまで育つのかもしれない。

 サウロロフス族はカンパニアン後期からマーストリヒチアンの終わりごろまで繁栄したわけだが、プロサウロロフスやアウグスティノロフスは海成層からほぼ完全な骨格が発見されていたりもして、内陸から海沿いまで広い範囲で栄えていたらしい。ユーラシア大陸の東岸でも全長10mを越す巨大なサウロロフス族がティラノサウルス類を蹴散らしていたというのは、多分にありそうな話ではある。

(開設初年度を除いてげったうぇーとらいく!の年頭記事はハドロサウルス類、それもアジア産のものが恒例であった。例によって今年もそうなったわけだが、このあたりの事情については、筆者の邪さについてよくご存じのみなさまには多分とっくにお気づきのことだろう。備えよう。)

おわりのはじまり

 大晦日である(齢を取るにつれ実感がわかなくなってきた)。職にありついたりなんだりで今年も色々あったのだが、まあなんとかさばいた格好である。

 業界を振り返ってみれば、今年もミャンマー琥珀が席巻した1年であった。翼竜の「羽毛」に関するかなり衝撃的な話もあり(なんだかんだこれまでまともに微細構造を観察できる保存の羽毛はなかったのだ)、恐竜に関していえば空前絶後(かは今後の話だが)のレバッキサウルス類の当たり年であった。アンフィコエリアス・フラギリムスの思いがけない再検討もあったが、あれは半ば質の悪い冗談だと受け止めておくべきであろう。
 また、アーカンサウルスやサルトリオヴェナトルなど、ここ20年近く非公式に命名されたきりだった恐竜が陽の目を見た年でもあった。(以前SVPで出ていたネタではあったが)メデューサケラトプスは無事セントロサウルス亜科として再記載され、そしてアルボアの整理した旧エウオプロケファルス群はペンカルスキー(久方ぶりの登場であろう)によって細切れにされるなど、北米の事情は相変わらずであった。ブラウンスタインによるアパラチアの恐竜相に関する研究はやたら細切れに出版されたが、いずれも断片的な化石に基づいていることはまあ言うまでもない話である。

 ひるがえって筆者といえば、最初の3ヶ月――特に3月は論文の執筆と、それから某案件(いつ陽の目を見るかがさっぱりなのだが、事が事だけに腰を据えて待つべきなのだろう)で大わらわであった。5月に受けた案件は即座に公開されたわけだが、そういうケースは現状それが唯一のようだ。論文は最初の査読でズタボロにされた割にはすんなり出版にこぎつけることができたようだ。秋すぎからは色々あったが、そういうわけで来年(もっと正確にいえば半年後)へのお膳立ては割と始まったばかりなのかもしれない。

 そういうわけで今年も順調に(?)不安定な更新ペースだったのは許してほしいところなのだが、まあその辺は同人誌でも読んでおいてほしいところでもある(在庫はまだそれなりにあるのだ)。



 というわけで来年もGET AWAY TRIKE !をよろしくお願いします。来年は色々席巻する予定なのでおたのしみに(・∀・) 新年最初の記事は【検閲】にするわけにもいかないのでサウロロフスだ、いってみよー!

邪悪の種子

 筆者は昔から悪だくみが得意科目だったクチだが、そういうわけでここ数ヶ月怪しい動きを見せているのは言わずもがなである。今年の3月から色々と(もっと言えば一昨年の秋から)現状では表沙汰にはできない新作が相当数あったりもして(芦別ティラノサウルス類に関しても昨年の早い時期にうすぼんやりとした話があったりもしたのだが、結局のところ発注があったのは6月に入ろうかという頃で、公開は6月半ば過ぎとかなりのスピード案件であった)、このあたりは(一番早いものでも)陽の目を見るまでたっぷり半年はかかろうものである。一方で、絵のない案件についても色々と手を出しつつある昨今であり、こちらのうち1件は年明けには明るみに出るだろう。
 読者の皆様には何かと楽しみにしておいてほしいところなのだが(我ながらだいぶどでかい話に複数ありついたものである)、筆者が一番楽しみにしているのは言うまでもないことである。

夏の炎の竜

 去年の秋からちらほら情報は出ており、また本ブログでもそこはかとなく度々取り上げてはきたわけだが、来年の7月13日(土)~10月14日(月)まで、国立科学博物館恐竜博2019が開催されることが発表された(公式サイトはティザーもいいところだが、やたら解像度のよいむかわ竜の写真がある)。
 かねてからの情報通り、むかわ竜の復元骨格(実物を組み込んだマウントにする話だったわけだが、見るからに重く脆そうな化石でもあり、色々気になるところである)が恐竜博2019の目玉になるわけだが、もうひとつ、公式サイトを見れば一目瞭然の通りデイノケイルスの全身骨格が目玉になるという。公式サイトの文言を見る限りマウントはキャストになるようにもとれるわけだが(その方が色々と好都合であろうし、あの代物をマウントするのはちょっと考えものでもあろう)、頭骨などは実物が来日するようである。
 一方で、目玉がこの二つだけとも考えにくく(どちらもマウントすればわりあい面積を取るのは違いないのだが)、他の色々な標本の来日にも期待したいところである。

(以前のモンゴル展におけるゴビヴェナトルのようなケースはあったが、むかわ竜が名無しのまま目玉展示に君臨するとも考えにくく、これはつまり、来年の初夏ごろには命名される可能性が高そうだ(言うまでもなく記載論文が出版されるかどうかの問題なわけだが)。フクイヴェナトルと並ぶ日本産屈指の完全度なわけで、論文の内容も楽しみなところである。)

脆すぎた呪縛

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Carpenter (2018)より、マラアプニサウルス(A)、レバッキサウルス(B)、ヒストリアサウルス(C)の胴椎(後面)の比較。スケールは50cm。

 恐竜の分類が分類の体をなしていないという話(1属1種が多すぎる)はしばしばなされることで、実際問題として属名を出されたときに模式種以外の種をぱっと思い浮かべる属というのは少ないものである。そうした状況の中で数少ない例外のひとつがアンフィコエリアス――「最大の恐竜」として名高い一方標本が行方不明となっていることも相まって伝説的な存在となったA.フラギリムスである。アンフィコエリアスと聞いた時に模式種A.アルトゥスを先に思いつくという人は、たぶん専門家の相談を受けた方がいい。

 アンフィコエリアス・フラギリムスの模式標本AMNH 5777(AMNHのナンバーが付いているのだが、この標本がAMNHの門をくぐったかどうかさえ定かではない)といえば、「コープの図を信用する限り」極めて巨大な竜脚類の胴椎の神経弓ただひとつである。これはコープに曰く「神経弓だけで」高さ1500m(これはmmの誤記のようにも思われるのだが、実のところこの当時「M」をメートル、「m」をミリメートルの略記として用いることがしばしばあったらしい。コープは「M」と「m」を明確に使い分けているフシがあり、従って「1500mm」は最近指摘されたように「1050mm」の誤記というわけではなく、実際に「1500mm」を示している可能性が高いようだ。)に達する代物で、コープによって新種とされた一方、一時はもっぱらA.アルトゥスの極端な大型個体とみなされていた。
 さて、アンフィコエリアス属のうちA.アルトゥスは系統解析にしばしばぶち込まれ、最近では一般にディプロドクス科の最基盤(ディプロドクス亜科とアパトサウルス亜科の分岐する前の段階)に置かれている。従ってA.フラギリムスの全長の推定はざっくりディプロドクスに準拠していたのだが(A.アルトゥスの見てくれはアパトサウルスのようにがっしりしたタイプではない)、一方で一部(のアマチュア)からは、A.フラギリムスをレバッキサウルス類とみなす声も上がっていた。

(そもそも原記載の時点において、A.フラギリムスをアンフィコエリアス属たらしめる強い根拠は何もなかった。当時胴椎の形態のはっきりしていた竜脚類はカマラサウルスとアンフィコエリアスくらいであり、単にコープが参照できるものが限られていただけの話だったのである。)

 このあたりの問題に真正面から突っ込んでいったのは、例によってA.フラギリムスの虜になっているカーペンターであった(メガ恐竜展で来日した模型もカーペンターの復元に基づいたものである)。いかんせん残された(ぱっとしない)コープのスケッチ頼りであったが、確かにそこからはレバッキサウルス類の特徴――A.アルトゥスにはみられない――が認められた。
 かくしてA.フラギリムスとA.アルトゥスを結び付けていたもの(実際には端から存在しなかったとさえ言えるわけだが)は崩れ去り、ここにマラアプニサウルス・フラギリムスMaraapunisaurus fragillimus――属名の前半は「巨大」を意味する南部ユテ族の言葉――が生まれることとなった。58mとも言われた(“セイスモサウルス”の全長について最初にまともな推定値を導き出したポールでさえ40~60mという訳の分からない数字を書くほかなかった)推定全長はつまるところアンフィコエリアス属がディプロドクス型の動物だったという前提に基づいていたわけで、リマイサウルスにぶち込んではじき出されたマラアプニサウルスの推定全長は30m~32mと、ずいぶんと(依然として巨大だが)現実的な数値が出てきたのである。

 ここに最大最古のレバッキサウルス類として生まれ変わったマラアプニサウルスだが、依然としてホロタイプは――AMNH 5777は行方不明(というよりこの世に残っていないのがほぼ確実である)のままである。アンフィコエリアス・フラギリムスの呪縛は、アンフィコエリアス・フラギリムスが崩れ去ってなお、ひょっとすると未来永劫あり続けるのだ。