↑Composite skeletal reconstruction of Giraffatitan brancai
largely based on paralectotype MB.R.2181 with complete skull MB.R.2223.
Scale bar is 1m for MB.R.2181.
The largest specimen (formerly known as HMN XVII)
is approximately 13% larger than this specimen.
19世紀後半から20世紀前半にかけての古生物学の輝かしい歴史はそのまま
帝国主義の一面でもあることについては今さらここに書くまでもないわけで、今であればあらゆる理由で持ち出しがためらわれるような標本が相当数無茶な旅を経て国境を越えたわけである。とはいえ、そうでもなければ永久に人目に付くことなく風化で消えていったであろう標本も多く、このあたりは古生物学にせよ考古学にせよ、今日厄介な問題となっているわけである。
テンダグルといえば東アフリカ随一の恐竜化石(に加えて相当量の浅海の軟体
動物化石が産出するのだが)産地であるが、そういうわけでこの丘が陽の目を見たのは1907年、帝政ドイツの植民地時代のことであった。この地で発見された恐竜――ジ
ラファティタンに代表される――は、
帝国主義の行く末に至るまで、時代の波に翻弄され続けることになったのである。
ツェツェバエが飛び交いライオンが出ては地元民が襲われるこのうっそうとした、それでいて急峻な丘で最初に恐竜化石が発見されると、にわかにこの地は古
生物学者の注目を集めるようになった。探鉱技術者のサトラーによって発見された2種の
竜脚類は翌1908年にはそれぞれギガントサウルス・アフリカヌス、ギガントサウルス・ロブストゥスと
命名され(すったもんだの末両種はそれぞれディプロドクス亜科のトルニエリア・アフリカーナと真
竜脚類――トゥリアサウリアかカマラサウルス一歩手前段階かははっきりしないが、とりあえず以前言われていたようなティタノサウリアではないようだ――のヤネンシア・ロブスタとなった)、そして1909年には
ドイツ帝国自然科学界の威信をかけた大規模な遠征隊がテンダグル――
タンザニア南部へと乗り込んでいったのだった。
テンダグルの丘の周辺はまさしく化石の山であった。おびただしい数(アルファベットひとつずつの割り当てが追いつかなくなり、かなり訳の分からない整理記号が付けられた)のサイトが開かれ、人力、帆船、蒸気船、汽車を駆使して壮絶な量の化石がベルリンへと送られた。
ベルリン大学博物館(後
フンボルト大学博物館を経て現ベルリン自然史博物館)の地下収蔵庫が(今もなお)納骨堂のような有様となったのは言うまでもないことで(古くからこの辺の写真はよく知られている)、ヤネンシュらベルリン大の研究者はその後40年以上に渡って――帝政ドイツから共和制ドイツ、
ナチスドイツそして
東ドイツに至るまでの間、納骨堂に通い詰める羽目になったわけである。
さて、遠征隊の調査は1912年に終わり、とりあえずヤネンシュが手を付けたのが
竜脚類であった。遠征前にすでに“ギガントサウルス”2種がテンダグルから知られていたわけだが、他にも複数の新種が存在することは明らかであった。かくして1914年、ヤネンシュはテンダグル層の中部恐竜Middle Dinosaur部層および上部恐竜Upper Dinosaur部層(キンメリッジアン後期~チトニアン;1億5560万~1億4550万年前ごろ)から
ブラキオサウルス属――モリソン層でただ一つの部分骨格が知られているだけだった――の新種を
命名した。恐ろしいことに、遠征隊の旗振り役であった
ブランカの名を種小名に冠したその恐竜――
ブラキオサウルス・
ブランカイ――は、実質的に全身の要素が発見されていたのである。
全身の要素が記載されるまでにはその後長い年月を要したのだが、それでもこの発見によって
ブラキオサウルスの理解は一気に進んだ。1915年には早くも
ブラキオサウルス・アルティソラックスの欠損部の補填にB.ブランカイを用いた骨格図が描かれ(実のところこの時点では
B.
ブランカイのほとんどの部位は未記載だったのだが、肩帯や肋骨、尾などはあきらかに
B.
ブランカイのそれを参考に描かれており、どうも写真がひっそりと
アメリカまで流通していたらしい(一方で頭骨はクリーニングが追い付いていなかったのかあからさまにカマラサウルスである)。ルシタニア号事件が起きたのはこの年のことであった)、雲突くばかりの姿が一般の目に触れるようになったのである。
ベルリンへと持ち帰られた
ブラキオサウルス・
ブランカイのうち、HMN
SII(Sサイトで発見された2体目の標本の意。露骨に整理番号である)は全身のかなりの部分が揃っていた。これを基に復元骨格を制作することはすんなり決まった――が、
第一次世界大戦とその後のすったもんだを受け、制作は遅れに遅れた。その間に東アフリカはドイツ領からイギリス領へと変わり、テンダグルへ意気揚々とカトラー率いる遠征隊が乗り込み、そして
マラリアの前に斃れた。
1937年、ようやく
ブラキオサウルス・
ブランカイの復元骨格が
ベルリン大学博物館にお目見えした。変形と損傷の酷かった仙前椎を全て模型に置き換えることで強度面をクリア(頭骨もキャストというか模型が据えられていたことは言うまでもない;長骨は実物だったがドイツ的美意識のためか容赦なく鉄骨が通された)したこの骨格は、当時すでに世界各地で見ることのできたディプロドクスの骨格をはるかに凌ぐ、文字通り「最高」の復元骨格であった。
ヤネンシュのローペースながら(なにしろ研究材料がありすぎる始末である)精力的な研究の甲斐もあり、いつしか(むしろ1915年以降常にというべきか)
ブラキオサウルスといえば
B.
ブランカイという状況ができあがっていた。あらゆる
ブラキオサウルスの復元のベースとなるのは
B.
ブランカイであり、模式種たる
B.アルティソラックスは半ば忘れられたような状況でさえあったのである。
70年代になり、ジェンセン率いるBYUの調査隊が
コロラド南西部で一大産地――ドライ・メサを発見したことで少々状況は変わった。巨大な(実のところ特別巨大でもなかったのだが)
ブラキオサウルス類の肩甲骨(や頸椎)がここから産出し、
これの記載にあたって
B.アルティソラックスのホロタイプや同種らしい巨大な断片が取り上げられたのである。
そして80年代になり、骨格図を武器に一躍時の人になったのがポールであった。大英自然史博物館の標本の情報も取り入れ、ヤネンシュが
B.
ブランカイの研究の総まとめとして描いた(かなり記号的な)骨格図とはずいぶん趣の違う――まさしくキリンのような――骨格図を
描き出したのである。ポールはここで
B.アルティソラックスと
B.
ブランカイの胴椎のプロ
ポーションに著しい違いがあることを指摘し(復元骨格にせよヤネンシュの骨格図にせよ、胴椎の変形の補正は完全に
B.アルティソラックス頼みであった)、
B.
ブランカイを
ブラキオサウルス属の新亜属――
ブラキオサウルス・(ジ
ラファティタン)・
ブランカイとしたのであった。
ポールの分類は例によって特に相手にされなかったのだが、それ以来、
ブラキオサウルスの復元イメージは(
B.アルティソラックスも含めて)ポールのジ
ラファティタンに置き換えられることになった。
ブラキオサウルスの名のあるところ、ポールに言わせるところのジ
ラファティタンが(皮肉にも)常に立ち続けたわけである。
2007年になり、
フンボルト大学博物館改めベルリン自然史博物館の
ブラキオサウルス・
ブランカイのマウントはリニューアルに合わせポールが泣いて喜ぶ姿勢で組み直された。もはや完全に不適切になった胴椎の模型は(頸椎もろとも)取り除かれ、新たに、より適切に作られた模型に差し替えられた。のっぺりした頭も完全な頭骨に基づき拡大された3Dプリントの模型に置き換えられ、足取り高く、前より一層高みから来場者を見下ろす格好となったのである。
ジ
ラファティタンは相当数がキンメリッジアン後期からチトニアンにかけて海岸付近にのさばっていたらしいのだが、実のところこれは輝かしい
ブラキオサウルス科の歴史の真ん中あたりでしかない。少なくとも北米では、
白亜紀中ごろまでキリンに似た
竜脚類の一群が繁栄を続けていたのである。
今回、ジラファティタン骨格図の制作にあたって某Sさんから(いつものように)多大な資料提供をいただきました。ありがとうございました。