GET AWAY TRIKE !

恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

暴君王の遍歴(前編)

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Top to bottom, "Dynamosaurus imperiosus" BMNH R7994 (in part),
Tyrannosaurus rex holotype CM 9380, 
Tyrannosaurus rex AMNH 5027,
Tyrannosaurus rex FMNH PR 2081.
Scale bar is 1m.

 気が付けば命名110周年を迎えようとしているティラノサウルスであるが、相変わらずの人気である。近年の羽毛恐竜の復元うんぬんでも槍玉に上がったりもして、やはりその辺は貫禄の人気ゆえと言ってもよいだろう。

 命名(記載)こそ1905年であるが、実のところ19世紀の後半にはすでに複数のティラノサウルス(と思しき)化石は知られていた。「最初の発見」は1874年、コロラドデンヴァー層にて“あの”アーサー・レイクスによってなされている。この時採集された「化石トカゲ類の歯」はマーシュの元へ引き取られ、YPM 4192としてひっそりと眠っている。
 1888年になり、YPM 4192と同じサイトから、G.キャノン(トリケラトプス絡みでたまに名前の出てくる人)によって大型獣脚類の下顎とされる化石が採集された。この化石はとうとう記載されないまま行方不明になったが、恐らくはティラノサウルスの下顎で間違いなさそうだ。

 1890年になり、ワイオミングのランス層でトリケラトプスを採集しまくっていたハッチャーは、たびたび大型獣脚類の後肢や腰帯も採集していた。マーシュは1896年になってこれら全てをオルニトミムス・グランディスOrnithomimus grandis(模式産地はモンタナのイーグル砂岩層;カンパニアン前期)と同定し、「植物食性の角竜にとってもっとも破壊的な敵のひとつ」とした。
 後になって一連のO.グランディスティラノサウルス類(の寄せ集め)であることが判明し、ランス層産のO.グランディスは全てティラノサウルスであると考えられている。
O.グランディスの模式標本は実のところティラノサウルス科の最古級の種である可能性もあるのだが、不幸にして現存していない)

 これとほぼ同時期の1892年、マーシュによる「角竜の発見」に歯ぎしりしていたコープ(マーシュより先に角竜を複数発見しておきながら実態をつかめず、良好な角竜化石の記載・分類を先取されていた)は、サウスダコタのヘル・クリーク層にて巨大な椎骨を2つ採集した。
 椎骨は風化が進んでおり、内部の海綿状構造が露わになっていた。すかさずコープはこの椎骨を(ハドロサウルス科よりも多少似ていたという理由だけで)アガタウマス科とみなし、スカスカになっていた内部構造にちなんでマノスポンディルス・ギガスManospondylus gigasの学名を与えた。
(言うまでもないことだが、アガタウマス科=ケラトプス科である。アガタウマスの命名はケラトプスに先んじているのだが、科としての名称はケラトプス科が先んじている。要するにマーシュの命名した属に基づくケラトプス科の名称が気に入らなかっただけのコープである)

 マノスポンディルスの発見は大して注目されなかった。ケラトプス科(=アガタウマス科)の化石は続々と発見されており、保存状態のよくない椎骨2つなどは取るに足らない発見だったのである。1900年になり、コープのコレクションを引き取ったアメリカ自然史博物館(AMNH)のH.F.オズボーン(館長になったのは1906年になってかららしい)は、パタゴニアの調査から帰ってきて間もない期待の若手、バーナム・ブラウンにワイオミングでの調査を命じた。AMNHは展示用にトリケラトプスを欲しがっていたのである。
 ニューヨークからワイオミングへ飛ばされたブラウンは、ランス層で巨大な獣脚類と出くわした。ほぼ完全な歯骨と頸椎、いくつかの胴椎の残骸と頚肋骨を含む多数の肋骨、そして部分的な腰帯と大腿骨―――当時知られていた白亜紀の獣脚類の化石としては最も完全な標本だった。さらに多数の皮骨も発見され、これらの化石はすぐにニューヨークへと送られた。この標本―――AMNH 5866はかなりもろく、それでいて柔らかい砂岩に埋まっていたため、クリーニングはかなり難航した。そうこうしているうちに翌1901年、運命の発見が待っていた。

 ―――次のような「伝説」が知られている。
 オズボーンの部下だったW.H.ホーナデイは1901年10月のある日、相方でカメラマンのハフマンと共にモンタナの“ヘル・クリーク郡”(正しくはドーソン郡)でちょっとした遠征調査を行っていた。
 彼らはジョーダン村の近くで道に迷い、シーバーなる隠遁者の小屋の側でキャンプをすることになった。彼らはシーバーの小屋の近くで巨大な頭骨(トリケラトプス?)に出くわし、シーバーにそれを見せた。するとシーバーは自分の化石コレクションの中にあった角の化石を見せ、ホーナデイたちに譲った。
 ホーナデイがシーバーから貰って文鎮にしていた角をオズボーンに見せたところ、オズボーンはそれをトリケラトプスと断定し、ブラウンとR.S.ラル(イェール大でのキャリアが有名だが、当時はAMNH勤めだった)を可及的速やかにシーバーの小屋へと送り出したのだった。
 かくして1902年、ブラウンとラルは2人でシーバーの小屋の周辺の調査をおこなった。すぐに小さな山の中腹で、多数の化石の断片が見つかった。そこに眠っていたのが、ティラノサウルス・レックスのホロタイプ―――AMNH 973だった。

 AMNH 973の母岩はとてつもなくしぶとかった。AMNHの誇る2人のプレパレーター(ミラーとカイセン)がつきっきりで、ダイナマイトまで動員してもクリーニング完了までに3年を要したのである。一方で、カーネギー博物館のピーターソン(一時期AMNH勤めだった)が1902年に頭骨を含む巨大な獣脚類の化石をランス層で採集したという情報もオズボーンの元へ伝わってきた。ピーターソンがこの化石(CM 1400)を記載すると確信したオズボーンは、AMNH 973のクリーニングの完了を待たずして記載をおこなうことを決断した。
 こうして、1905年10月4日付で、オズボーンはAMNH 973とAMNH 5866、そしてアルバータで見つかっていた頭骨(CMN 5600、CMN 5601)について、それぞれティラノサウルス・レックスTyrannosaurus rexディナモサウルス・インぺリオススDynamosaurus imperiosusアルバートサウルス・サルコファグスAlbertosaurus sarcophagusの学名を与えた。
この時点で、ティラノサウルスディナモサウルスは皮骨の有無のみによって区別されていた。)

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↑原記載論文におけるティラノサウルスの骨格図。AMNH 973の産出が確認されていた部位のみが大ざっぱに示されている。Osborn(1905)より


 しかし、AMNH 973のクリーニングが終わってみれば、ティラノサウルスディナモサウルスには骨学的に有意な差がないことは明らかだった。かくして1906年の論文で、オズボーンはAMNH 973の詳細な記載をおこなうと共にディナモサウルス・インペリオススをティラノサウルス・レックスのジュニアシノニムとしたのである。

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↑AMNH 973を元に、“ディナモサウルス”やAMNH 5881の要素を加えて描かれた骨格図。Osborn(1906)より

 1907年、ブラウンは(すでに何回目か分からない)モンタナへの遠征調査に出発した。ここでブラウンが発見したのが“代表作”―――AMNH 5027である。翌年に採集されたこの標本は、恐ろしいことにAMNH 973とほぼ同じサイズの動物であった。手足こそ欠けていたが脊柱は尾の中ほどまで完全と言っていい状態で、AMNH 973と組み合わせることで全身のほぼすべてが揃うのである。
 AMNH 5027のクリーニングを終えて頭骨の記載を済ませたオズボーンは、早速AMNH 973とAMNH 5027を(それぞれのキャストで補って)組み立てる計画に打って出た。2体を戦っているポーズで復元するのである。ポーズの検討用に1/6の模型が製作されたが、結局コストの問題でティラノサウルスの復元骨格を2体並べる計画は潰えた。こうして1915年、有名なティラノサウルスの復元骨格が完成したのだった。

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↑AMNHが当初計画していた復元骨格のディスプレイ案。しゃがんでいる方がAMNH 973、立ち上がっている方がAMNH 5027である。Osborn(1913)より

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↑1915年に完成した復元骨格を元に描かれたティラノサウルスの骨格図。AMNH 973とAMNH 5027に基づく。Osborn(1916)より





やたら長くなったので後編へ続く!