GET AWAY TRIKE !

恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

最初のカモノハシ

イメージ 2
↑ハドロサウルス・フォーキイHadrosaurus foulkiiの模式標本
ANSP 9203、9204、10005(ほかにANSP 9201、9202も模式標本の一部をなす)
スケールは1m

 いわゆるボーンウォーズが勃発したのは1870年代からであるが、ここから輝かしい北米の恐竜発掘の歴史が始まったというわけでもない。19世紀の半ばから断続的に北米での発掘は行われていた。
 とは言っても、この時期北米から発見されていたのはほとんどが歯、稀にごく断片的な体化石がやっとであった。しかし、それからわずか数年で状況は一変したのである。

 1858年夏、アメリカ自然科学アカデミーの会員であったW.P.フォークはニュージャージーのハッドンフィールドで休暇中であった。この時、近所に住んでいたホプキンスという男から、20年ほど前に彼の農場にある泥灰土坑で大きな椎骨が見つかったこと、化石は来客にお土産として渡してしまったことを聞いたのである。フォークは渋るホプキンスを説得して発掘場所(すでに埋め戻されていた)を突き止め、そこに発掘チームを送り込んだ。
 地表から3mほど掘ったところで、チームは化石に突き当たった。ホプキンスがかつて発見した骨格の残りの部分らしきそれは当時としてはかなり完全な恐竜の骨格であり、その年の12月にはフォークとライディ(むしろこの人の場合化石は副業である)によって自然科学アカデミーの会合で発表された。

 翌1859年にこの恐竜はハドロサウルス・フォーキイHadrosaurus foulkiiとして記載された。ヨーロッパ以外で初めての、しかも“メイドストーンのイグアノドン”(マンテロドン)やヒラエオサウルスHylaeosaurusと同等の完全度を誇る化石である。
 ライディはハドロサウルスがイグアノドン(この場合マンテロドンを指す)と近縁であること、そして前肢と後肢の長さが著しく異なることから(イグアノドンも)カンガルーや鳥類のように2足歩行をしたと考えたのである。
 ライディはマンテルのトカゲに似た、そしてオーウェンとホーキンズによるサイに似たイグアノドンのイメージを完全に否定した。ここに至って、初めて2足歩行する恐竜の概念が生まれたのだった。(もっとも、イグアノドンもマンテロドンもハドロサウルスも、常に2足歩行だったかと言えばそんなことは多分ない)

 当初この化石はバラバラにした状態でフィラデルフィアの自然科学アカデミー(ANSP)内で展示されていたのだが、発見からおよそ10年が過ぎた1868年の初夏、ハドロサウルスに転機が訪れる。
 
 さて、イグアノドンの“旧復元”を手掛けたホーキンズであったが、彼は19世紀の中ごろまでにはすでにプレパレーター兼自然科学アーティストとして輝かしい実績を持っていた。ロンドン万博の「水晶宮」での実績に目を付けたニューヨーク市は、セントラルパークに巨大な「古代博物館」を建設し、アメリカ産恐竜の復元骨格と、実物大の復元模型を展示する計画の指導をホーキンズに仰いだのである。こうして1868年にイギリスからニューヨークにやってきたホーキンズは、手始めにハドロサウルスそして“ラエラプス”の復元に当たることとなったのである。

 ホーキンズはきっちり仕事をやり遂げた。腸骨を前後逆にしてみたりなどのミス(当時の知識からすれば仕方のないことである)はあったが、ライディの監修のもとでイグアナに似た頭をもつ、カンガルーのような巨大な動物が姿を現したのである。これこそ、史上初の恐竜の復元骨格であった。
イメージ 1
↑ホーキンズによるハドロサウルスの復元骨格。腸骨が前後逆である点に注意。
写真はwikipediaより

 不幸にして、古代博物館はニューヨーク市内の利権争いやらで頓挫し、アトリエにあった作りかけの模型やキャストは破壊(!)されてしまった(恐らくこの時、“ラエラプス”の復元骨格も破壊されている)。幸いハドロサウルスの復元骨格量産第1号はANSPに納入されたあとであり、型もなんとか持ち出すことができた。ゆえに、復元骨格はその後もいくつか量産され、各地の博物館に納められることとなったのだった。

 その後20年余りで完全なハドロサウルス類の骨格が続々と採集・記載されたこともあり、次第にハドロサウルスそのものの存在感は薄くなっていった。再研究も大して行われることなく半世紀以上が過ぎていった。

 状況が変わり始めたのは1970年代の終わりである。依然としてハドロサウルスは北米東部の上部白亜系―――アパラチア―――産の鳥脚類の中ではもっともよく骨格が保存されており(頭骨などはロフォロトンLophorhothonでよく保存されていたが)、それゆえ未だに重要だったのである。再研究によってクリトサウルスやグリポサウルスとの強い類似が指摘され、いっとき全てハドロサウルス属とされたこともあった。同属とするかはともかくとしても、かなり近縁であると考えられたのである。

 2000年代に入って再び状況は動いた。ホーナーらは本種がハドロサウルス科の中で系統不明である可能性を指摘し、これを踏まえた再記載ではついに疑問名とされてしまったのである。
 しかし、最近(2011年)になって、ハドロサウルスの独自性が再確認され、どうにか息を吹き返すこととなった。とはいえ系統的な位置付けははっきりせず、それゆえここ数年ではもっぱら「サウロロフス亜科Saurolophinae」が従来の「ハドロサウルス亜科Hadrosaurinae」に代わって用いられている(ハドロサウルス亜科はハドロサウルス“専用”に用いられている)。

 ホーキンズによるハドロサウルスの復元骨格はその後解体されてしまった。1984年になってウォールマウントが組み立てられたが、これも最近になって解体されている。そのかわり、ハドロサウルスの命名150年を記念して3Dの復元骨格(マイアサウラをベースとしている)が制作されている。

 結局、命名から150年以上が過ぎた今でもハドロサウルスの姿ははっきりしない。いくつかの断片的な属・種(例えば“オルニトタルススOrnithotarsus”)が本種のシノニムである可能性も指摘されたことがあるが、いずれも信憑性は微妙である。しかし、それでもロフォロトンと並ぶ数少ないまともな北米東部の上部白亜系産の鳥脚類である。
 アパラチア産ということでドリプトサウルスやアパラチオサウルスと絡めたくなるところではあるが、本種の発見されたウッドバリーWoodbury層の年代はカンパニアンの前期(8050万~7850万年前)とされており、適当とは言えないだろう。結局、ウッドバリー層からはハドロサウルスや“オルニトタルスス”、不定のハドロサウルス類以外の恐竜化石が発見されておらず、恐竜相は闇の中である。