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恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

逆説の狼煙をあげろ

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↑Skeletal reconstruction of Fukuivenator paradoxus holotype FPDM-V-8461.
Scale bar is 1m.

 

 フクイラプトルの陰に隠れがちだったとはいえ、フクイヴェナトル――当初「北谷層産ドロマエオサウルス類」として報道発表されたそれ(かれこれ10年以上前の話である)は、例外的なほど(関節がばらけた状態で発見されることがもっぱらだった福井の恐竜化石としてはなおのこと)に骨格が揃っており、2010年(やはり10年以上前の話である)には復元骨格が――あからさまにシノルニトサウルスを参考とした頭骨を載せたそれがお目見えしたのである。

 発見からクリーニング、復元骨格の制作・展示までは表向き(クリーニングで地獄を見たであろうことは想像に難くないし、結局のところ人力でクリーニングしきれるものではなかったわけである)スムーズだったわけだが、そこから記載に至るまではかなりの時間を要することとなった。北谷層のドロマエオサウルス類といえば“キタダニリュウ”――「大型のドロマエオサウルス類」たる骨格の要素はフクイラプトルのホロタイプとなった一方で、ドロマエオサウルス類と思しき小さな歯は依然として残されていた――が、この「ドロマエオサウルス類の全身骨格」の歯にはセレーションがまったく見られず、明らかに(遺された)“キタダニリュウ”とは別物であることだけは確かであった。

 かくして2016年にようやく命名されたフクイヴェナトルであったが、下馬評とは異なり、系統不明のマニラプトル類とされたわけである。系統解析の結果がかなりカオスなことになっていたのはさておき、確かに非ドロマエオサウルス類的な特徴(肩帯や大腿骨は一見してわかる)が相当数確認された。一方で、頭骨には依然としてドロマエオサウルス類のみと共通する特徴もかなりみられたのである(このあたりのなんともいえない空気についてはかつて書いたとおりである)。

 

(原記載の中でフクイヴェナトルの“シックルクロー”の存在について触れられる一方、妙にごつい第I趾はテリジノサウルス類的であるとも述べられている。もっとも、この時点でこの程度の類似について気に留められることはなかった。結局、このあたりの要素の同定も再記載で改められている。)

 

 そんなこんなでフクイヴェナトルはほぼ完全な骨格が発見されているにもかかわらず/であるからこそ実態のよくわからない恐竜になった(このあたりはカムイサウルスと対照的である)が、ここ数年再検討がひっそりと進められていたわけである。すべての要素をCTスキャンに(必要に応じてμCTに)かけてみれば、頭骨の要素のクリーニングがかなり不完全だったことが明らかになった。顕微鏡下でさえどうしようもないレベルで骨片が癒着していたりしたケースがかなりあったのである。

 頭骨要素に誤同定が含まれているという話は実のところ当初からささやかれもしていたわけだが、蓋を開けてみればそれどころの騒ぎではなくなっていた。原記載では未確認だったパーツが(頭骨だけに限らないが)相当数追加されるとともに、あからさまにドロマエオサウルス類風だった頭骨の要素――“鱗状骨”が胴椎の神経弓の断片であったことが判明するなどしたのである。フクイヴェナトルをドロマエオサウルス類めいた復元たらしめていた要素はもはやどこにもなく(“シックルクロー”にしても、単に第II趾の末節骨が大きいという以上のものではなかった;オルニトレステスなど、しばしばみられる特徴ではあった)、2020年の夏にお披露目された新たな復元骨格は頭骨と足が差し替えられた、ver. 1.5とでもいうべき代物であった。

 

 復元骨格のリニューアルは頭骨の差し替えと足のポーズ替えには留まらなかった。再検討の成果を踏まえて昨年(2021年)の今時分にはver. 2.0となる復元骨格が常設展示に据えられ、また筆者がちょこちょこなんかやっていたわけである(腰帯のアーティファクトがあからさまにファルカリウスなわけで、この時点でヒントが出ていたのだと先日やっと合点が行った筆者)。日本古生物学会での発表を経て、満を持して出版されたモノグラフにてフクイヴェナトルはテリジノサウルス類の最基盤に置かれたのであった。

 

 かくして基盤的なテリジノサウルス類とされたフクイヴェナトルであるが、見てくれにテリジノサウルス類らしさは特にない(当初アーティファクトを単に付けていないだけかのように思われた尾のぶつ切り部分が尾端骨だったりもしたのだが)。フクイヴェナトルの骨格に「ほどけた」中足骨くらいしか一見してテリジノサウルス類らしさが見られないことは、いかにフクイヴェナトルが(テリジノサウルス類として)原始的であるか、いかにテリジノサウルス類の初期進化が壮絶であったかの裏返しである。

 尾の短いオルニトレステスめいた見てくれとなったフクイヴェナトルだが、オルニトレステスを基盤的なオヴィラプトロサウルス類とする最近の意見と妙に整合的なようにも思われる。テリジノサウルス類とオヴィラプトロサウルス類が姉妹群とされていた時代はとっくに過去のものとなったが、マニラプトル類――アルヴァレズサウルス類、テリジノサウルス類、オヴィラプトロサウルス類(とスカンソリオプテリクス類)、デイノニコサウルス類そしてアヴィアラエの「原型」が、こうしたぬるっとした見てくれ――やや小さめの頭部と長めの首を持った、強肉食性というわけではなさそうな恐竜であったということなのだろう。

 

(フクイヴェナトルのプロポーション――特に仙前椎の割り当てに関しては、復元骨格が最初にお披露目された時点でその奇妙さが明らかであった。短足のドロマエオサウルス類は珍しくもなかった(例えばヴェロキラプトルもだいぶ短い部類である)が、復元骨格の頸椎はドロマエオサウルス類(というか獣脚類の標準)から1個多かったのである。歯の特徴とあわせて何かしら特殊化したもののようには見えた一方、「ほどけた」中足骨は変形によるもののように思われた。)

 

 壮絶な再記載(小型獣脚類でこれほど詳細な骨学的記載のなされたものは他にない)の果てにもっともらしそうなポジションに収まったフクイヴェナトルであるが、これはつまり、これほど完全かつ保存のよい骨格が発見され、かつ強力なCTスキャンが通用する相手だったからこその話でもある。オルニトレステスの系統関係に関する意見は相当な紆余曲折を経てきた(上述の話はもっともらしく聞こえるが、とはいえまだ学会どまりである)ことは言うまでもないし、系統不明の小型獣脚類――部分的な骨格が精々である――は世界中でいくらでも見つかっているのだ。

 フクイヴェナトルの再記載で、マニラプトラ――鳥類をはじめ、それまでの獣脚類の枠を完全に吹き飛ばしたグループの初期進化の一端が明らかとなった。とはいえ、テリジノサウルス類の初期進化――体型すらおぼつかないファルカリウスや、すらりとしているとはいえまごうことなきテリジノサウルス類の見てくれになっているジアンチャンゴサウルスとフクイヴェナトルとのギャップは派手である(エシャノサウルスも怪しく蠢いている)――はまだまだ不明瞭である。マニラプトラの他のグループにおける初期進化が深い闇の中にあることは今さら書くまでもない。

 テリジノサウルス類の狼煙をあげたフクイヴェナトルだが、取り巻きたち――鳥類を含む――の前途はあまりにも多難である。そして置き去りにされた“キタダニリュウ”は、恐竜王国の影に深く身を沈めている。

 

 

モノクロニウスの影

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↑Some skulls of "Monoclonius". Scale bars are 1m. AMNH 5239 is the holotype of Monoclonius flexus.

 

 角竜の研究が始まって150年が過ぎようとしているが、その中にあって、初期の研究の産物を代表するものがモノクロニウスである。筆者くらいまでの世代であれば(エウセントロサウルスとセットで)子供向けの恐竜図鑑でもギリギリ見たことがあるだろう。

 不穏な記事タイトルから察していただけようが、恐竜図鑑から消えて久しい昨今にあって、モノクロニウスはなおも怪しく蠢いている。悪夢のはじまりを告げたこの恐竜の再整理が済んではじめて、ジュディス・リバーの悪夢を振り払ったことになる――が、その日はまだ見えない。

 

 第一次化石戦争真っ只中の1876年、まだ20代のチャールズ・ヘイゼリアス・スターンバーグとジョン・C・イザーク(ほとんど無名である)を伴い、コープはモンタナ州ジュディス・リバーの近辺で調査を行っていた。あちこちを巡り歩く間にそれなりの量の化石――恐竜については寄せ集めの歯が多かったが、植物食恐竜の骨格要素もそれなりにあった――が集まり、同年のうちにコープはこれらを記載することにした。アウブリソドン、ラエラプス(この時点ではまだトゲダニ属のホモニムだとは発覚していなかった)、ディスガヌス(新属)と不穏な名前が続く中(いずれも歯に基づく記載である)、いくらかの歯と寄せ集めの骨格要素に基づきモノクロニウス・クラッススMonoclonius crassus命名したのであった。

 コープはいつものごとく、やたら簡潔(と見せかけてその実意味不明だったりもするのだが;後述)な論文(図は1枚もない)をもってモノクロニウスを記載した。歯の形態はハドロサウルスによく似ているが、一方で頑丈な前肢と長大な腸骨はハドロサウルスのそれとはまったく異なっていた。モノクロニウスの化石にはほかに仙椎、3個の癒合した「前方胴椎」、そして奇妙な「胸骨柄」が含まれており、すらりとした二足歩行のハドロサウルスとはずいぶん異なった見てくれであるように思われた。

 

(コープが記載したこれらの標本「群」――のちのAMNH 3998には、実のところ鼻角や上眼窩角の要素は全く含まれていない。学名の由来について地の文でそれとなくほのめかすのがコープの記載スタイルであり、何をもってモノクロニウスMonoclonius――「一つの芽」を命名したのか、確実なことはわからない。とはいえ、コープは同じ論文の中でモノクロニウスと対になる属名――「二つの芽」――ディクロニウスDicloniusを歯に基づいて命名しており、モノクロニウスが歯の形態にちなんだ属名であることは確かなようだ。どうもコープは、歯の交換様式に基づいてそれぞれを命名したらしい。コープがこの標本群の中で最も重要視していたのが歯であったともいえるわけだが、読者の方はすでにお気づきの通り、この歯――寄せ集めの標本群の中で事実上の模式標本として機能するはずだった――はハドロサウルス類のものであった。なお、1860年にはライディが角竜の歯をトラコドン・ミラビリスに含めるやらかしをしていたりもする。コープが胸骨関連の要素とみなしたものこそ紛れもないセントロサウルス類のフリルであったが、この時点では側方バーが接合されておらず、奇妙なリッジのあるY字型の馬鹿でかい骨といった様相であった。胸部の要素だと誤認するのもわからなくはない。)

 

 翌1877年、ハイデンによって取りまとめられた先住民居留区の地質・地理に関する大著の中で、コープは初めてモノクロニウスの図示を行った――が、これは前年に記載したものとは別の標本(のちのAMNH 3999)であった。この標本(これは寄せ集めではなく、まとまった単一個体の要素である)について、脳函と眼窩まわり(小さめの上眼窩角を含む)の図示を行ったコープであったが、(脳函について、鳥類との類似を指摘しつつも)分類を確定することができなかった。歯はディクロニウスに、図示しなかった首から後ろの要素はモノクロニウスやアガタウマスに似ていたが、コープは(なぜか)ここで新属を立てたりすることはなかったのである。コープは上眼窩角の存在を認識しつつ(角芯であるかさえ自信がなかった)、それが頭骨のどの部位にあたるのかさえ決めかねたのであった。角竜の実態にかなり迫ってはいたのだが、珍しく慎重だったコープはマーシュを出し抜く千載一遇のチャンスを逸したのである。

 

(ケラトプス科角竜といえば頭骨ばかり見つかるイメージがあるが、概形のわかる「まとも」な頭骨の発見は1889年の“ケラトプス”・ホリドゥスを待たねばならなかった。ここからハッチャーによる怒涛の発見が続くわけで、要は注目している産地の問題だったのである。150年以上にわたる研究の歴史にあって、ジュディス・リバーで発見された1個体分のまともな角竜の頭骨はわずか数点である。)

 

 それからの数年でディクロニウスが巨大なハドロサウルス類であるらしいことが判明した一方、モノクロニウスの正体は判然としなかった。1886年になってコープは“ディクロニウス・ミラビリス”(AMNH 5730:のちのアナトティタン・コープイのホロタイプにして現エドモントサウルス・アネクテンス)の胸骨と共に、初めてモノクロニウス・クラッススの「胸骨」を図示したが、依然として「ハドロサウルスに似た歯を持つ」恐竜であると考えていたのである。

 状況が変わったのは1888年であった。マーシュの右腕としてジュディス・リバーへ乗り込んだジョン・ベル・ハッチャーが、一対の角(破損して1本ずつに分かれていたが)のある頭蓋天井と、それに続く後頭顆を発見したのである。1888年の暮れ、マーシュはこれを新属新種ケラトプス・モンタヌスCeratops montanusとして記載・図示を行い、またステゴサウルスに近い新たなグループ――ケラトプス科を設立した。ここに初めて、角のある植物食恐竜の存在が認識されたのである。

 

(マーシュ自身、ケラトプスが初めて記載する角竜だったわけではない。この前年、ジョージ・キャノンJr.によってコロラドデンヴァーにて採集された見事な一対の角――ケラトプスとは違って頭蓋天井とつながっていた――を、鮮新世後期のバイソン属の新種、ビソン・アルティコルニスBison alticornisとして記載していたのである。トリケラトプス属を設立する際にマーシュはこの同定を訂正したが、なぜかトリケラトプスではなくケラトプス属として再分類した。このあたりの下りは前記事を参照)

 

 ケラトプスの記載を見るなり、コープは1877年に図示した化石の正体に気が付いた。慌てたコープは即座に短報を出し、この標本がケラトプスに近縁であること、そして1874年に命名していたポリオナクス・モルトゥアリウスPolyonax mortuariusもこの類である可能性を述べたのであった。

 

(コープはこの時点でも、1877年に図示した標本を命名することはなかった。コープは断片の寄せ集めたるポリオナクスに角の断片らしいものがあることに触れている(ハッチャーらもこれに追随した)が、結局のところこれは腓骨の破片であるようだ。)

 

 年が明けた1889年、絶好調のハッチャーはついに角竜の「まとも」な頭骨の発見に至った。ワイオミングの“ララミー層”で発見されたそれは、だいぶ破片化していたものの、2本の巨大な上眼窩角と、1本の鼻角――3本の角を保存していたのである。このケラトプス属の新種――ケラトプス・ホリドゥスを皮切りに、ララミー層では3本の角を備えた頭骨が次々と見つかるようになった。夏になるとマーシュがケラトプス・ホリドゥスのために新属――トリケラトプスを設け、12月にはついにトリケラトプス属の頭骨を完全に復元できるようになった(ここで初めてトリケラトプス属――トリケラトプス・“フラベラトゥス”の図示が行われた)。3本の角、鋭いくちばし、力強い顎、そして巨大なフリル――角竜の姿が明らかになった瞬間であった。

 ここに至り、ようやくコープも、モノクロニウスの「胸骨」がフリルであることを認識した。1889年の8月付の論文(実際に出版されたのは1890年であるし、執筆自体も1889年12月のマーシュの論文を読んでからである)にて、コープはモノクロニウス・クラッススの再記載を行うとともに、モノクロニウス属の新種の記載・図示を行った。1877年に記載・図示した標本――モノクロニウス・レクルヴィコルニスMonoclonius recurvicornisは脳函と上眼窩角に加えて鼻角(斜め上方へ伸び、そこから下方へカーブしている)と吻の一部を保存しており、またモノクロニウス・スフェノケルスM. sphenocerusは見事な鼻角と吻の一部をよく残していた。モノクロニウス・フィススM. fisusはだいぶ小さな個体であり、鱗状骨を保存しているかに見えた(が、これは翼状骨の誤認であった)。コープはさらに、1872年に首なしの骨格に基づき命名していたアガタウマス・シルヴェストリスが、モノクロニウス・クラッススの椎骨とよく似ていることを指摘し、これもモノクロニウスやポリオナクスの近縁とみなした。そしてコープはこれら角竜を1888年命名されたばかりのケラトプスではなく、そのうちでもっとも古くに命名された属――アガタウマスに基づく名前である、アガタウマス科と呼ぶべきであると主張した。

 

(コープはこの時、M.スフェノケルスをモノクロニウス属ではなくアガタウマス属に分類する可能性について触れている。このことが巡り巡ってナイトによるアガタウマスの復元画――トリケラトプス・プロルススのフリルとM.スフェノケルスの鼻角を組み合わせたもの――へつながっていく。)

 

 続いてコープは(論文は1889年10月付ではあるが、執筆は1890年の3月であった)ポリオナクスがトリケラトプスのシニアシノニムであることを主張し、またモノクロニウスをケラトプスのシニアシノニムとした。コープいうところのアガタウマス科の構成メンバーはかくして、長い上眼窩角と短い鼻角、窓のないフリルを持つポリオナクス、短い上眼窩角と長い鼻角、窓の開いたフリルを持つモノクロニウス、そして巨大なアガタウマスとなった。マーシュの命名による分類群をすっかり片付け、コープはようやく留飲を下げたのだった。

 

 このあたりのコープの動きは当然マーシュには無視された。ポリオナクス・モルトゥアリウスの模式標本は破片を通り越して残骸もいいところであり、モノクロニウスにしてもM.レクルヴィコルニスはケラトプス・モンタヌスと比較可能な部位は眼窩まわりだけ(後述)に過ぎなかったのである。1895年になってコープのコレクションのかなりの数がAMNHに売却され、ハッチャーによって再検討が行われることとなった。

 コープ自身認めていたことではあったのだが、AMNH 3998――モノクロニウス・クラッススの原記載に用いられた標本は、明らかに複数個体(同じ場所で産出したかどうかすら怪しい)の寄せ集めであった(さらに言えば、コープが種々の記載で用いた標本が具体的にどれなのか確認することさえ難しい状況でもあった。コープの記載には図はおろか、標本番号の指定すらなかったのである)。とりあえず歯以外の要素は角竜で間違いないようだったが、首から後ろのばらけた要素でケラトプス科の属種を決定することが困難であることはハッチャーにはわかりきったことであった。

 苦闘の末、コープが記載に用いたらしい標本をいくらか見つけ出したハッチャーにより、ようやくモノクロニウスのまともな記載が行われることになった(出版の前にハッチャーは腸チフスで無惨に死んだ)。ハッチャーはAMNH 3998――モノクロニウスのシンタイプ(複数個体の混じった基準標本)からフリルのみをレクトタイプとして選び出し、将来の大混乱への備えとした(コープがM.クラッススの上眼窩角とみなしていたらしい標本AMNH 3997は、明らかにフリルの主よりも小さな個体のものであった)。また、M.レクルヴィコルニスをとりあえずケラトプス属へ移動させることも提案している。

 さて、これに先んじる1902年、ランベによってカナダからモノクロニウス属の新種が3種報告されていた。モノクロニウス・ドーソニM. dawsoniは吻を欠く以外はほぼ完全な頭骨(フリルは風化して崩れかけており、採集することはかなわなかった――これが新たな火種となった)CMN 1173に基づいており、またほぼ完全なフリルと鼻角らしき断片からなるCMN 971もM. ドーソニとみなされた。このフリルはM. クラッススのそれと比べてずっと派手な装飾が特徴であった。モノクロニウス・ベリM. belliはT字型のフリルの断片CMN 491に基づいており、M. クラッススと比べてずっと長いフリルを持っていたらしかった。モノクロニウス・カナデンシスM. canadensis(CMN 1254)は吻と頭頂骨の大半を欠いていたが、短いフリルと短くそして後方へカーブした上眼窩角を備えていた。ハッチャー(とラル)はこれらについても再検討を加え、モノクロニウス・ベリがトロサウルス属に似たフリルを持っていたらしいこと、モノクロニウス・ベリとモノクロニウス・カナデンシスをケラトプス属に移動すべきことを述べたのだった。

 これと前後する1904年、ランベはCMN 971をモノクロニウス・ドーソニから切り離し、新属新種セントロサウルス・アペルトゥスとして記載した(上記の項を執筆中だったハッチャーのアドバイスがあったらしい)。ラルはこれを受け入れ、モノクロニウスとは明確に異なるものとしてセントロサウルスを扱うこととしたのである。

ハッチャーの遺稿はラルによって仕上げられ、1907年にひとまずの角竜の総まとめが出版された。第一次化石戦争の終結から10年余りを経て、いちおうの戦後処理が終わった格好であった。

 が、一息付けたのはここまでであった。1912年にはブラウン率いるAMNH隊が本格的にアルバータ入りし、次いで60代になっていたチャールズ・ヘイゼリアス率いるスターンバーグ一家もブラウン隊を追いかけてレッド・ディアー川へと漕ぎ出したのである。第二次化石戦争が始まったのだった。

 

(1910年になり、ランベはセントロサウルス・アペルトゥスの復元を訂正している。CMN 971の鼻角とされていた「角」は、実際にはフリルから垂れ下がるように長く伸びたホーンレット(P1)であった。1909年の夏にランベを訪ねたブラウンが、頭頂骨に新鮮な破断面を発見し、「鼻角」がそこにぴったりはまることに気付いたのである。)

 

 モンタナとは違い、アルバータの「ジュディス・リバー層」(のちベリー・リバー層、現ダイナソー・パーク層)では完全な角竜の頭骨がいくらでも見つかった。関節のつながったほぼ完全な骨格さえ見つかり、ケラトプス科角竜の解剖学的特徴に関する理解はほんの数年で飛躍的に高まったのである。

 ブラウンらは1914年に見事な角竜の頭骨AMNH 5239を記載するにあたり、まずモノクロニウス・ドーソニとセントロサウルス・アペルトゥスが結局は同じ種に属するらしいことを指摘した。セントロサウルス・アペルトゥスを(もともとランベが考えていたように)モノクロニウス・ドーソニのシノニムとしたうえで、AMNH 5239――セントロサウルス・アペルトゥスに酷似したフリルを備えていた――を新種モノクロニウス・フレクススM. flexusとして記載したのである。モノクロニウス・クラッススのP1やP2は風化かなにかで死後失われたとみなし、ランベがセントロサウルス属をモノクロニウスから分割するのに用いたはずの特徴をモノクロニウス属本来の特徴として扱ったのであった。

 これと前後して、ランベは自ら命名したモノクロニウス属の種の整理を進めていた。ハッチャーらの指摘した通りM. ベリはより新しい時代のトロサウルスに続く系譜にあるように思われ、ランベはこれにプロトロサウルスProtorosaurusの属名を与えた――が、これはペルム紀の主竜形類にとっくに用いられており、すぐにカスモサウルスChasmosaurusの属名をM. ベリに与えた。ランベはまた、M. カナデンシスがトリケラトプスと似たフリルを持っていることを指摘し、これをトリケラトプスの祖先とみなして新たな属名――エオケラトプスEoceratopsの属名を与えたのだった。

 ランベは自らの仕事を片付ける中で、極めて重要な指摘――ケラトプスとモノクロニウスの模式種がそれぞれ貧弱な化石に基づいていることを述べている。ケラトプス・モンタヌスはそっくりフリルを欠いており、モノクロニウス・クラッススは(ハッチャーの苦闘を経ても、依然として)標本に付随してくる情報がほとんどなかった。ランベはこれらの属名を用いるべきではないこと――疑問名として扱うべきことを提案したのである(ランベの分類の大枠はハッチャーらの影響を強く受けていたが、ゆえにモノクロニウス・カナデンシスをケラトプス・カナデンシスとするのではなく、新属エオケラトプスを設けた)。ランベはモノクロニウス・ドーソニをブラキケラトプス属へと再分類し、セントロサウルス・アペルトゥスと明確に区別したのであった。ランベはまた、前方に曲がった鼻角と短いが明瞭な上眼窩角を持った頭骨をセントロサウルス・アペルトゥスとして記載し、M.フレクススがC.アペルトゥスのシノニムに過ぎないことを示した。

 ブラウンはこれを受け入れることなく、1917年になってほぼ完全かつ関節のよくつながった標本AMNH 5351をモノクロニウス・ナシコルヌスM. nasicornus、首なしのミイラ化石AMNH 5427をモノクロニウス・カトラーリM. cutleriとして記載したM. フレクススはその種小名の通り前方へ折れ曲がった鼻角を持つ一方、M. ナシコルヌスはM.スフェノケルスとよく似た真っすぐな鼻角を備えていた。そしてM. ナシコルヌスのフリルは“セントロサウルス・アペルトゥス”やM. フレクススと同様の形態――垂れ下がったP1と、内側向きにまがったP2を備えていた

 そんなわけでセントロサウルスをモノクロニウスのシノニムとした(というよりは、セントロサウルス属の特徴とされていたものをそのままモノクロニウス属にスライドしただけの)ブラウンと、モノクロニウスを疑問名としてセントロサウルスを残したランベとで分類のコンセプトはきっぱり分かれることとなった。この状況はだいぶ尾を引き、1933年になってラルが出版した新たな角竜のモノグラフ(1907年の増補版をうたっていたが、こちらは名実ともにラル一人の仕事である)では、モノクロニウス属の下にセントロサウルス亜属を設ける始末であった。ラルはコープが命名した一連のジュディス・リバー産の種(とM.ドーソニ)を全て(それぞれ独立種としたうえで)モノクロニウス亜属とし、ベリー・リバー産の種(ブラウンがモノクロニウス属として命名したものを含む)を(これも全て独立種としたうえで)セントロサウルス亜属としたのである。

 第二次化石戦争の火もすっかり消えた1930年代後半にあって、チャールズ・モートラムはまだレッド・ディアー川流域を掘り続けていたが、ここで巨大なモノクロニウスらしき頭骨に出くわした。この頭骨CMN 8790はモノクロニウス・クラッススと酷似したフリルを備えていたが、侵食によってP1を失った形跡はなかったのだった。チャールズ・モートラムはCMN 8790をモノクロニウス・ロウイM. loweiとして記載し、モノクロニウスとセントロサウルスが明確に異なることを指摘した。彼はまたセントロサウルス属の新種セントロサウルス・ロンギロストリスC. longirostrisを設け、新標本に基づきM.ドーソニをセントロサウルス属へと移した。こうして状況は落ち着いたかに見えた。

 

 デジタル的な手法――分岐分析がその最たるものである――が古生物学に導入された1970年代以降、様々な視点から古典的な分類群の再整理が進んだ。ボーンベッドから産出した標本の検討が行われる中で、ケラトプス科角竜は個体変異が著しいらしいことが示されるようになり、属種の整理が始まったのである。

 1990年になり、ドッドソンが分岐分析の手法で取り組んだのがモノクロニウスとセントロサウルスの再整理であった。ドッドソンはモノクロニウス・レクルヴィコルニスとM.フィスス、それからセントロサウルス・カトラーリ――頭骨が著しく不完全か、あるいは首なしだった――を疑問名とし、それからM. ロウイをモノクロニウス・クラッススのシノニムとした(これでモノクロニウス・クラッススの完全な頭骨が知られている格好になる;M. スフェノケルスは?付きでM. クラッススのシノニムとした)。セントロサウルス属はC. アペルトゥス一種にまとめつつ、C. ナシコルヌスはスティラコサウルス・アルバーテンシスのメスとみなした。

 

(この当時、様々な恐竜の雌雄をなんとかして識別しようという研究がひたすらに流行っていた。C.ナシコルヌスをスティラコサウルス・アルバーテンシスとするドッドソンの意見はその後全く顧みられず、またこの当時様々な研究者によってなされた角竜の雌雄差診断も肯定的には見られていない。)

 

 なんにせよドッドソンのこの研究で、モノクロニウスとセントロサウルスの違いが再確認されることになった。ついでに両者とも1属1種となり、ずいぶんすっきりしたわけである。

 一方、これと前後して、ランベが1902年に設けたセントロサウルスCentrosaurusの属名が、1843年には既に別の動物に対して用いられていたらしいことが明らかになっていた。両生類・爬虫類の分類の大家であったレオポルト・フィッツジンガーが、テキサスツノトカゲPhrynosoma cornutumのジュニアシノニムとして、セントロサウルス・ホリドゥスCentrosaurus horridusを使っていたのである。かくしてチューレとマッキントッシュは、角竜としてのセントロサウルスの属名をエウセントロサウルスEucentrosaurusの新属名に置き換えることを提案した(ヘロプスに対するエウヘロプスしかり、よく用いられる手ではある)。

 しかしこれはいまいち定着せず、文献によってセントロサウルスとエウセントロサウルスの属名が入り乱れる結果となった。セントロサウルス・ホリドゥスの名は1843年以前に(=プリノソマ・コルナトゥムのジュニアシノニムになる前に)使用された形跡がなかったのである。フィッツジンガーはどういうわけか(少なくとも出版された限りでは)、わざわざ初めからP. コルナトゥムのジュニアシノニムとしてセントロサウルス・ホリドゥスの名を設けたらしかった。フィッツジンガーのセントロサウルス属が分類名として機能したことは事実上一度もなかったことが確認され、結局はランベのセントロサウルス属が有効性を保つこととなったのである。結果、エウセントロサウルスの属名はその存在意義を失い、2000年を過ぎるころには単にランベのセントロサウルス属のジュニアシノニムとして扱われるようになった。

 さて、90年代になってエイニオサウルスとアケロウサウルスが発見され、またセントロサウルスのボーンベッドも新たに発見されるようになると(パイプストーン・クリークの話も言わずもがな)、角竜の成長に関する研究に火が付いた。ボーンベッドからは様々な成長段階のセントロサウルス類の化石が採集されたが、未成熟個体らしいもののフリルはことごとくブラキケラトプスやモノクロニウスと酷似していたのである。ここに至り、ブラキケラトプスはおろかモノクロニウスまでもがなんらかのセントロサウルス類――なんらかの新種かもしれないし、既知のものかもしれないが、それさえ判断できそうもない――の幼体と亜成体であるらしいことが明確に示されたのであった。

 ドッドソンがこれをすんなり受け入れることはなく、モノクロニウス(この場合M.ロウイを意味する)がセントロサウルス類の亜成体にしてはむやみに大きいことを指摘した。モノクロニウスの成体と目される他の角竜と比べても大きかったのである。ドッドソンはモノクロニウスの形態が幼形成熟の産物であり、様々なセントロサウルス類のボーンベッドから産出した「モノクロニウス様」の亜成体とは別物――独立属であると主張したが、とはいえ、もはやモノクロニウス・クラッススM. ロウイを積極的に結びつける証拠は何もなかった。モノクロニウス・クラッススのホロタイプは特別巨大なわけでもなかったし、モノクロニウス・ロウイも巨大なだけで明らかに未成熟――頭骨の癒合がほとんど進んでいなかったのである。The Dinosauria第2版――2004年刊行――ではモノクロニウス・クラッススは「おそらく有効名」として扱われたが、それがモノクロニウスの最期であった。命名から130年を経て、ついにモノクロニウス――事実上角竜に基づいた属名ではなかった――は、疑問名としてコンセンサスを得たのである。ランベによる最初の提案から、90年の歳月が流れていた。

 

 かくして今日、モノクロニウスは疑問名として扱われている。そうはいってもあくまで学名の取り扱いの話であり、セントロサウルスのシノニムになりそこなったモノクロニウス属の標本は今日もそこにあり続けている。

 年代測定の手法の拡大や高精度化に伴い、特に北米においては恐竜の分類学的再検討について生層序学的な観点も加えられるようになった。コープの命名した一連のモノクロニウス属はジュディス・リバーJudith River層のコール・リッジCoal Ridge部層下部(ざっと7600万年前ごろ)から産出した可能性が高い(現状で産地の再特定には至っていないのだが)のだが、これはダイナソー・パーク層では最上部――スティラコサウルス・アルバーテンシスが姿を消し、突如(先の記事で述べた)パキリノサウルス類が姿を現す(そして直後に海成層であるベアポウBearpaw層が堆積する)――に対比される層準でもある。“モノクロニウス・ロウイ”も、ちょうどこのあたりの層準からの産出である(むしろパキリノサウルス類よりも新しい可能性もある)。ジュディス・リバー層より内陸であるトゥー・メディスン層にはこの時期“スティラコサウルス・オヴァトゥス”(結局のところスティラコサウルス・アルバーテンシスに過ぎないかもしれない)や“ブラキケラトプス”、そしてステラサウルスあたりがいたかどうかといったところであり、“モノクロニウス”――単一種とは限らない――の成体候補はすんなり見つからない。

 “モノクロニウス・ロウイ”は吻が長く、(セントロサウルスの亜成体よりも)スティラコサウルスの亜成体によく似ている。P3だけが長く伸びそうな気配を見せているあたりはスティラコサウルスの亜成体と異なる(サイズもこちらの方が大きい)が、時代からしても、スティラコサウルスやその系譜――ステラサウルスやエイニオサウルスではP3が長く伸びる――に近いのかもしれない。一方で、“モノクロニウス・スフェノケルス”はよりセントロサウルス的な吻の長さのようである。つい最近になってジュディス・リバー層(層準不祥)で紛れもないセントロサウルスが産出したというのだが、あるいはこれとの関係があるのかもしれない。“モノクロニウス・レクルヴィコルニス”でみられる、短いが明確な上眼窩角と前傾した鼻角の組み合わせはまごうことなきセントロサウルス・アペルトゥスで知られている。“モノクロニウス・クラッスス”のフリルの形態は派生的なセントロサウルス類の亜成体のそれであり、なにかしらの独自性を見出すのはやはり困難なようだ。

 “モノクロニウス”たちの真の姿を明らかにするうえで、産出層準の特定と、それと対比される層準での成体探しは避けては通れない。そして、“モノクロニウス”たちの産出層準が明らかになり、かつそれと対比される層準でセントロサウルス類の成体の完全な頭骨が発見されたところで、結局は“モノクロニウス”――セントロサウルス類の亜成体や断片の寄せ集め――との比較は非常に難しいのである(だからこそ疑問名というシステムが存在する)。

 “モノクロニウス”たちが疑問名を脱し、分類学的な議論の俎上に再び上がることは、おそらくこの先もないだろう。それでもなお、ケラトプス科角竜の分類に携わる研究者たちは、ジュディス・リバー層――ケラトプス科のふるさとで、醒めない悪夢を見続けている。

 

(“モノクロニウス・ロウイ”はセントロサウルス類としては驚くほど長いフリルを持っており、しばしば本種の独自性らしいものとして挙げられる――が、見まごうことなきセントロサウルス・アペルトゥスの亜成体で長めのフリルを持っている標本が知られており、また最近記載されたエイニオサウルスないしアケロウサウルスの亜成体と思しき標本も“モノクロニウス・ロウイ”と互角以上の長いフリルを持っている。成長のある時期にフリルの伸長が先んじるというだけのことのようだ。)

Wild and Horned Hermit

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↑Some skulls of Triceratops. Scale bars are 1m.

 

 命名から130年以上もの間、トリケラトプスは常に角竜の代表であり続けてきた。長きにわたる研究の中で紆余曲折が繰り返されたが、それでも恐竜時代の最後を飾る徒花として今日も第一線に立ち続けている。


 いわゆるインディアン戦争に歩調を合わせるように、第一次化石戦争の主戦場もアメリカ西部へと移っていった。19世紀後半、西部の地質調査はその端緒についたばかりであり、コープもマーシュもそれぞれ政府の地理地質調査隊(後の米国地質調査所USGS――言うまでもなく今日まで存続している)と共同で調査を行いつつ(コープとは対照的にマーシュはうまく立ち回り、USGSの主任古生物学者にまでなった)地質学的なフロンティアで激しい競争を繰り広げることとなったのである。
 当然のごとくアメリカ西部の地質は全くの未解明であり、化石をもって時代を確定させる必要があった。州に昇格したばかりであったコロラドの州都デンヴァーでは、市街地の中に露頭が多数残っており、1860年代から化石の採集が行われていた。1873年にはUSGSの調査隊としてコープがコロラド州からいくらかの恐竜化石――属種も定かではない破片の寄せ集め――を持ち帰った。例によってすぐさま命名されたこれらの化石の中にはポリオナクス・モルトゥアリスPolyonax mortuaris――角竜の破片を含む――があったが、コープには知る由もないことであり、デンヴァーの市街地で調査を行うこともなかった。
 1873年の暮れ、マーシュのもとにゴールデン(デンヴァーと隣接する)に住むベルソーという男から手紙が届いた。ベルソーは1860年代後半に様々な化石をこの一帯で採集しており、「牙(トゥースではなくタスクの方)の化石」――おそらくは角竜の角芯――が見つかったことを手紙に記している。ベルソーはその後マーシュへ獣脚類の歯(アーサー・レイクスが採集したものであった)――今日までYPMで現存しており、YPM 4192のナンバーを与えられている――を送ったが、これこそ最初に発見されたティラノサウルスの歯であった。
 ベルソーの化石にマーシュは特別の興味を抱かず、ベルソーもやがて採集した化石をデンヴァー周辺の地質調査を進めていたジョージ・キャノン――若き高校教師にして地質学者――のもとへ送るようになった。キャノンはUSGSのクロスらと共にこの地域の地質調査を進め、産出化石――明らかに恐竜だった――からして、デンヴァーの市街地周辺の露頭が白亜系であることを確信していた。
 1887年の春、キャノンがデンヴァーの街はずれを流れるグリーン・マウンテン・クリーク(今日ではレイクウッド・ガルチと呼ばれており、産出地点(だいたい2ヶ所まで絞り込まれている)は河川工事で埋め立てられている。住宅街のすぐ脇であり、公園の駐車場 隅っこ といったところである)にて、一対の巨大な角と出くわした。クロスがこの標本をマーシュへ送る手はずを整えたが、マーシュは5月初週に届いた化石――YPM 1871E(後のUSNM 4739)のナンバーを与えられた――を見るなり、この「デンヴァーバイソン」の掘り残しがまだあることを見て取った。この鉱化も半ばの角はどちらも不完全だったが、新鮮な破断面が残っていたのである。マーシュは掘り残しを探すよう、クロスとキャノンそれぞれに手紙を送って念押しした。
 果たして、角の先端などが次々と見つかり、「デンヴァーバイソン」の右の角は完全、左の角も先端以外はきれいにパーツが揃うこととなった。角と頭蓋天井の他は明らかに川の浸食で失われており、これ以上パーツが追加されないことに納得したマーシュは、その年の10月に「デンヴァーバイソン」を、鮮新世のバイソンの新種、ビソン・アルティコルニスBison alticornisとして記載したのであった。
 マーシュからの最初の返信を受け取った時点で、キャノンはマーシュの同定――「デンヴァーバイソン」と呼んでいた――に眉をひそめていた。「デンヴァーバイソン」が産出したのは、キャノンらの調査で恐竜の産出する地層――白亜系のはずだったからである。キャノンはマーシュに対し、この矛盾をどうにかして解決するためになんとか時間を割かねばならないと手紙で嘆いたが、結局は間違いなく白亜系からの産出であると結論付けた。にもかかわらず、マーシュはこの標本をバイソンの一種として記載したのである。基部(というより下から1/3ほどまで達する)が中空で、深い血管溝が多数刻まれたそれは、確かにバイソンの角と酷似していた。鉱化が中途半端であり、それほど古い時代のもののようには見えなかったことも相まって、キャノンらの再三の意見を無視してまでマーシュはこれをバイソンとみなしたのである。
 翌1888年にハッチャーが紛れもない有角恐竜――ケラトプス・モンタヌスをマーシュのもとへ送った。マーシュは角の基部にちょっとした中空部が存在することを見て取り、ビソン・アルティコルニスの分類にいささか疑問を抱くようにはなったが、表沙汰にすることはなかった。


 10月初め、ジュディス・リバーの調査を終えたハッチャーは、YPMへの帰りがけにワイオミング南部――セミノール山脈の南へ寄るよう命じられた。この地で恐竜の部分骨格が発見されたという報がマーシュの耳に届いていたのである。果たしてハッチャーが現地で見たものは角竜の部分骨格らしきものであったが、断片的なうえに保存状態もよくなかった。周辺の調査も行ったがめぼしいものは何も見つからず、無駄足を運んだ格好になったハッチャーは、気を取り直してサウスダコタのブラックヒルズへ足を延ばし、ここで哺乳類探しと洒落こむことにした。

 

(ハッチャーが目にした断片骨格の産地は、今日メディスン・ボウMedicine Bow層の露出域とみなされている。メディスン・ボウ層とその上位のフェリスFerris層(の下部)はランス層の同時異相すなわちマーストリヒチアンとされている。河口付近や海浜部の要素を含んでおり、この時期までWISの一部が残っていたことを示す重要な地層だが、恐竜化石でめぼしいものは今日まで知られていない。)

 

 道すがら、ワイオミングの知人――のちにワイオミング州知事まで上り詰めた――を訪ねたハッチャーは、そこで地元の名士であるガーンジーを紹介された。ガーンジーは牧場の経営主として成功する一方、精力的に化石をコレクションしていたのである。ガーンジーのコレクションの質の高さに感銘を受けたハッチャーは、直径20cm、長さにして50cm近くある巨大な角の化石――基部は中空になっていた――に目を留めた。
 この化石は、ガーンジーの牧場でリーダーとして働いていたウィルソンが発見したものであった。「鍬の柄くらいの長さの角」と「帽子くらいの大きさの眼窩」をもつ頭骨が枯れ谷の崖に横たわっており、投げ縄を付けて引っ張ったところ、角だけがすっぽ抜け、残りは谷底へ落としてしまったのだという。興奮するハッチャーに産地までの案内を申し出たガーンジーだったが、仕事が忙しかったため、すぐ連れていくというわけにはいかなかった。
 サウスダコタでの仕事を終えたハッチャーは、年の明けた1889年の1月にYPMへ戻ってきた。ハッチャーはここでようやくビソン・アルティコルニスの実物と対面し、すぐさまガーンジーのコレクションにあった角との類似を見て取った。ハッチャーはガーンジーに手紙を書き、ガーンジーはハッチャーの要望に応えて問題の角を送ったのだった。両者が酷似していることを確認したマーシュは居ても立ってもいられなくなり、真冬の荒野へとハッチャーを送り出した。
 ひと月半のニューヘイヴン暮らしに別れを告げたハッチャーは、ウィルソンの案内のもと問題の標本の場所へたどり着いた。ガーンジーの言った通り、谷底にはノジュールに包まれた頭骨が眠っていたのである。真冬の嵐の前に作業は困難を極めたが、それでもハッチャーはこの500kg近い代物を採集し、どうにかニューヘイヴンへの運送を段取ると、そのままこの一帯での調査を続けたのであった(伝説の「アリの巣で化石探し」もこの時編み出した手法である)。
 頭骨がまだ届いていなかった1889年4月、マーシュは(ガーンジーから借り受けた角と、ハッチャーによる現地での観察をもとに)この恐竜をケラトプス属の新種――ケラトプス・ホリドゥスCeratops horridusと命名した。頭蓋天井――上眼窩角からフリルの付け根にかけての、どっしりとして分厚く、そして多数の血管溝の走った荒々しいつくり――ケラトプス・モンタヌスでは保存されていなかった――に感銘を受けたマーシュは、この特徴にちなんだ種小名を選んだのである。

 

(ここに至ってマーシュはビソン・アルティコルニスがまぎれもないケラトプスの類であると考えるようになった――が、欄外の注釈で触れただけであり、恐らくケラトプス属であると述べたのみであった。)

 

 5月になるとハッチャーの送った頭骨もYPMに到着し、クリーニングが始まった。ハッチャーは次から次へと角竜の頭骨を掘り当ててはYPMへ送り、8月にはマーシュはこれらの角竜をまとめて新属――これらの頭骨は長い上眼窩角と短い鼻角をあわせもっていた――を設けた。ここに、トリケラトプス・ホリドゥスTriceratops horridusと、それに続く2新種――トリケラトプス・フラベラトゥスT. flabellatusトリケラトプス・ガレウスT. galeusが生まれたのである。さらにマーシュは正式にビソン・アルティコルニスの分類を正した――が、トリケラトプス属ではなく、なぜかケラトプス属としたのだった。
 トリケラトプス・ホリドゥスのホロタイプYPM 1820は風化によってだいぶ砕けてはいたが、保存状態は良好であり、吻からフリルの付け根までを保存していた。トリケラトプス・ガレウスのホロタイプ(後のUSNM 2410)は(実のところトリケラトプスかもはっきりしない)鼻角やそのほかのちょっとした破片の寄せ集めだったが、トリケラトプス・フラベラトゥスのホロタイプYPM 1821は関節のきれいに外れた、ほぼ完全な頭骨(の左半分と、完全な腰帯をはじめとするいくらかの骨格要素)を保存していた。その年の冬にはYPM 1821のクリーニングもあらかた終わり、12月の論文でトリケラトプスひいては角竜の頭骨の全貌が初めて図示されたのであった。

 

(ハッチャーは1907年のモノグラフでYPM 1820の発見に至る詳細を書き記し、「右の上眼窩角の基部」が結局ガーンジーのプライベートコレクションとなったことを述べている。今日、YPM 1820は脳函から頭蓋天井、上眼窩角に至るブロックを天地逆の状態にして、台座と一体化したジャケットに半ば埋め込まれた状態で収蔵されている(その他の部位はばらけた状態のままである)が、残っているのは右の上眼窩の半分ほど(と左の上眼窩角の基部;残っている右の上眼窩角の形態は、ハッチャーがモノグラフで左右同じ形で描いた角とよく一致する)である(右の後眼窩骨の、鱗状骨と関節するあたりは確かに欠けているが)。ガーンジーの手元に残った化石は、もともと彼のコレクションであった角――左の角の付け根付近のようにも思われるのだが、今日どうなっているのか確認の術はない。)

 

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↑Skeletal reconstruction of Triceratops sp. USNM 4842. Scale bar is 1m.

 

 続く数年の間に、ハッチャーはおびただしい量のトリケラトプスや新顔――トロサウルスの化石をYPMへ送った。マーシュはこれらにせっせと名前――トリケラトプス・セラトゥスT. serratusトリケラトプス・プロルススT. prorsusトリケラトプス・スルカトゥスT. sulcatusトリケラトプス・エラトゥスT. elatusトリケラトプス・カリコルニスT. calicornisそしてトリケラトプス・オブトゥススT. obtusus――を付けたのである。次々に届く化石の中には部分骨格もそれなりに含まれており、1891年にはトリケラトプスの骨格図を描くことができるレベルにまで達していた

 マーシュによるこの復元は、トリケラトプス・プロルススのホロタイプYPM 1822――見事に保存されたほぼ完全な頭骨と、癒合頸椎からなる――と、同じくT.プロルススとみなされた巨大な部分骨格――のちのUSNM 4842を組み合わせ、それでも足りない部分(手足や椎骨の大多数)を他の標本で補ったものであった。今日からしてみれば、仙前椎がやたら多かったり、肘関節を無理やりまっすぐ伸ばしたり、手足が実際とは全く異なる様相であったりと修正すべき点はキリがないのだが、それでもこの骨格図は、当時からしてみれば十二分に「妥当な程度に正確」な復元であった。この骨格図は広くトリケラトプスの復元の礎となり、今日に至るまで古典的なトリケラトプスのイメージを規定することとなったのである。
 
(「ケラトプスの皮骨板」が皮骨板などではないことはとうに明らかになっていたが、一方でマーシュはワイオミングの「角竜層」で時折見つかる皮骨質のスパイクやこぶの集合体、小さなプレートがトリケラトプスに由来するのではないかと考えていた。これはパキケファロサウルス類の後頭部の断片であったり、アンキロサウルス類の単離した鎧の一部だったのだが、当時のマーシュには知る由もなかった。)

 

 マーシュは1899年に死に、やりかけの仕事が数多く残された。言うまでもなく、後任者は後始末に奔走することとなったのである。
 マーシュは生前、USGSの地位にあるうちに角竜のモノグラフの出版を計画していた――が、マーシュの死後に残っていたのは見事な図版――USGSつまりは連邦政府の予算があてられていた――だけで、本文は全くの手つかずであった。オズボーンはUSGSの所長から、不良債権化しつつあるこのモノグラフをどうにかして完成させるべく相談を受け、そして白羽の矢が立ったのがハッチャーであった。モノグラフで記載されるべき標本のほとんどを自ら採集してきたこの男以外に、託せる人物はいなかったのである。
 ハッチャーは1902年からモノグラフの執筆に本格的に取りかかり、他の様々な案件を抱えた中にあって、1日に6時間を割き続けた。2年の歳月を費やし、モノグラフのおよそ3/4まで修正稿を仕上げた。――が、ステルロロフス・フラベラトゥス(マーシュは1891年になってYPM 1821に新属ステルロロフスSterrholophusを与えていたが、ハッチャーはこれを一蹴していた)の前上顎骨の記載を推敲している最中、中途半端なところで突如手を止めた。
 ハッチャーはタイプライターの前にはもう戻らず、そして数日後に腸チフスで死んだ。


 ハッチャーの遺稿は、最後の10ページほどが未改稿のままだった。モノグラフの3人目の著者として、世に送り出す大役を負うこととなったラル(マーシュの後任としてYPMに就いた)は、角竜の進化や分類、生態等々に関する30ページあまりの章を書き足すこととし、またハッチャーがモノグラフの中で命名しようとしていた新種――トリケラトプス・ブレヴィコルヌスTriceratops brevicornusとディケラトプス・ハッチャーリDiceratops hatcheriを、モノグラフに先駆けて、それぞれ独立した記載論文で命名することとした。モノグラフは1907年にようやく出版され、今日まで重要な文献として読み継がれている。

 

T.ブレヴィコルヌスとディケラトプスの記載論文の出版にあたり、ラルの行った作業は、独立した論文として遺稿から切り取るだけのことであった(ゆえに前者はハッチャーの単著扱いである)。後者の学名をハッチャーは考えておらず、従ってラルは(自身はディケラトプスの独自性に懐疑的でもあったのだが)ハッチャーに献名することとしたのであった。モノグラフの中で、ようやくケラトプス・アルティコルニスはトリケラトプス属へと移された。)

 

 モノグラフの出版をもって、トリケラトプスを取り巻く状況は急に静かになった。第二次化石戦争の主戦場はカナダに移り、トリケラトプスよりも古い時代のケラトプス科角竜が盛んに発掘・研究されるようになったのである。
 ラルは1933年になって再び――当然、今度は全て自らの執筆だった――角竜のモノグラフを出版したが、1907年以降にトリケラトプストロサウルスに関する目立った動きはなく(トリケラトプス・インゲンスT. ingensトリケラトプス・マクシムスT. maximus命名されたのみで、しかも前者はマーシュの草稿をラルが紹介するという体であった)、記載事項についても特別に付け加えることもなかった。トリケラトプス属の種の整理を進めるには進めたのだが、ホロタイプが貧弱だった4種――T. アルティコルニス(いかんせん上眼窩角だけだったので、今となってはトロサウルスとの区別もおぼつかなかった)、T. ガレウス(鼻角の断片しか事実上比較には用いることができなかった)、T. スルカトゥス(実質的に上眼窩角の断片のみ)、T. マクシムス(単に大きいだけの一連の椎骨でしかなかった)を疑問名とするにとどまったのである。
 ラルは1907年のモノグラフにおいて、ケラトプス科を二大系統――フリルの短いモノクロニウス-トリケラトプス系とフリルの長いケラトプス(というよりカスモサウルス)-トロサウルス系に大別した(このコンセプトは1933年に「改訂版」として出版した新たなモノグラフでも踏襲していた)。ランベはこれに対し、1915年に出版したカナダ産角竜のモノグラフの中で、セントロサウルス-スティラコサウルス系(セントロサウルス亜科)とカスモサウルス-トロサウルス系(カスモサウルス亜科)、そしてエオケラトプス-トリケラトプス系(エオケラトプス亜科)の3系統とした。最後発となったチャールズ・モートラム・スターンバーグは、トリケラトプス・アルバーテンシスTriceratops albertensis――目下トリケラトプス属として命名された「最後」の種である――の記載論文において、トリケラトプスの鱗状骨が他の「長盾角竜」と同様、フリルの後/上端まで達していることを指摘し、トリケラトプスをカスモサウルス亜科として扱った。分岐分析に基づくものでは当然なかったが、1949年になり、今日まで続くケラトプス科の二大系統の基本的な見方がようやく確立された――かに見えた。
 アメリカの研究者の見立ては異なっていた。コルバートは1948年の論文の中でラルの意見を踏襲していたし、YPMで(ラルの後任だった)シンプソンの跡を継いだオストロムも、1966年の論文で同様の見解を示していた。

 

(ラルやシュレイカー、チャールズ・モートラムは、トリケラトプスの種内の系統関係についても考察を行っている(ラルやチャールズ・モートラムは、亜成体らしいT. フラベラトゥスとT. セラトゥスには言及しなかった)。ラルは1933年のモノグラフにて、T. プロルスス→T. ブレヴィコルヌス→T. ホリドゥス系統(トリケラトプス属の基本形であり、体サイズの大型化と反比例して鼻角が縮小する)、T. エラトゥス→T. カリコルニス系統(非常に長く伸びた上眼窩角とごく短くなった鼻角;ラルは後者が前者のシノニムである可能性も考えていた)、そしてT. オブトゥスス→ディケラトプス・ハッチャーリ系統(ほぼ消失した鼻角;ラルは1933年のモノグラフにて、ディケラトプスをトリケラトプス属の亜属とした)の3系統に分けた。シュレイカーは1935年にT. エウリケファルスeurycephalusの原記載の中で再検討を試み、T. オブトゥスス→ディケラトプス・ハッチャーリ系統をT. エラトゥス→T. カリコルニス系統の根本に位置付けた。T. エウリケファルスはディケラトプスと共に「フリルの大きい」グループをなし、T. フラベラトゥスとT. セラトゥスも「T. プロルスス→T. ブレヴィコルヌス→T. ホリドゥス系統以外」の根本に位置する格好である。チャールズ・モートラムはラルの系統樹を下敷きとしつつ、T. アルバーテンシスとT. エウリケファルスを加えて再検討し、T. プロルスス→T. ブレヴィコルヌス→T. ホリドゥス系統とそれ以外のものからなる系統が、それぞれアリノケラトプスから進化した(つまりトリケラトプス属は単系統ではない)可能性を示唆した。それ以外のものからなる系統はまずT. アルバーテンシスが枝分かれし、次いでT. エウリケファルスからT. エラトゥス→T. カリコルニス系統とT. オブトゥスス→ディケラトプス・ハッチャーリ系統が分かれるという格好である。これらの試みはつまるところ客観的な証拠から積み上げられたというわけではなく、分岐分析が基本となった今日では全く顧みられていない。)

 

 

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↑Skeletal reconstruction of Triceratops prorsus BSP 1964 I 458. Scale bar is 1m.

 

 1891年にハッチャーの助手であったアターバックにより発見され、その後アターバックとハッチャーによって採集されたYPM 1834――トリケラトプス・ブレヴィコルヌスは、ほぼ完全な頭骨と、それに続く一連の仙前椎を非常によく保存していた。この標本の仙前椎については1907年のモノグラフにて、T. カリコルニスのホロタイプの仙前椎と共に図示されてはいたのだが、詳しい記載はなされていなかった。この標本のうち、頭骨については1926年からYPMのグレート・ホールで常設展示されていたのだが、やがて改装にともなってバックヤードに引っ込められていた。

 オストロムはこの頭骨――下顎も完全だった――がYPMのトリケラトプスの頭骨の中でも最良の部類に入ることをよく認識しており、従って角竜の顎の機能形態学的な研究において、主だった材料として用いていた。とはいえこの標本はバックヤードで眠りについているのが常であり、そこにミュンヘンからの客――第二次世界大戦で壊滅的な被害を被ったバイエルン古生物学・地質史博物館(BSP)の館長が目を留めたのである。交渉の末、この標本は生まれて初めて海を渡ることとなった。1964年、YPM 1834はBSPへ移管され、BSP 1964 I 458のナンバーを得たのである。

 この頃にはオストロムの研究上の興味は獣脚類と鳥――デイノニクスと始祖鳥へ移り、しばらくの間角竜に触ることはなくなった。BSPのヴェルンホーファーは翼竜が専門であり、とにかく手持ちの翼竜の研究で忙しく(始祖鳥を見にやってくるオストロムの手伝いはしたが)、しばらくの間BSP 1964 I 458の研究は進まなかった。そうは言っても完全な頭骨と仙前椎の全体がよく保存されている(うえに、マウントされているわけでもないので触りたい放題だった)ケラトプス科角竜はきわめて貴重であり、頭骨と長骨に偏重していた解剖学的理解を一気に推し進めることが期待されたのである。

 翼竜の専門家であったヴェルンホーファーには、一人でBSP 1964 I 458の記載をするのは荷が重かった。幸いにしてオストロムとの付き合いは深く、かくしてオストロムは再びBSP 1964 I 458と向き合うことになったのである。

 オストロムとヴェルンホーファーはBSP 1964 I 458の骨学的記載だけには飽き足らず、トリケラトプス属の整理――ラル以来長らくほったらかしにされていた仕事に手を出すことにした。1970年代から1980年代にかけて、様々な観点から粗製乱造された種――例えばランベオサウルス類――の整理の大波が到来していたのである。

 BSP 1964 I 458の詳細な骨学的記載は1986年になって出版されたが、その中で行われた分類学的整理は苛烈の一言に尽きた。トリケラトプス属はトリケラトプス・ホリドゥスただ1種にまとめられたのである。オストロムとヴェルンホーファーは、トリケラトプス属の目ぼしい種がほぼすべて、四次元的にかなり狭いらしい範囲から産出したことに着目した。ほとんどの種のホロタイプが、ワイオミング州東部――ナイオブララ郡のランスLance層からの産出だったのである。ハーテビーストやアフリカスイギュウをモデル生物とし、オストロムとヴェルンホーファーはトリケラトプスの様々な種を定義していた角やフリルの形態等々の違いが、すべて個体変異や病変、化石化の過程における変形で説明できると考えたのだった。

 

(オストロムとヴェルンホーファーは何を思ったか、“ケラトプス・モンタヌス”をトリケラトプスの一例として扱った。これを顧みた研究者はさすがに誰一人いなかったようだ。オストロムとヴェルンホーファーはまた、BSP 1964 I 458における仙前椎のトータル数を実際より多く推定していた。)

 

 アグハケラトプスAgujaceratopsのボーンベッドの記載でケラトプス科角竜の個体変異のありようをいやというほど思い知らされていたレーマンは、このオストロムとヴェルンホーファーの意見を強力に支持した。レーマンはアグハケラトプスのボーンベッドの研究から、上眼窩角の角度が性的二形を示すというアイデアにたどり着いており、これが今やただ1種となったトリケラトプス属にも適用できそうなことを見て取った。レーマンは、古典的なT. プロルスス→T. ブレヴィコルヌス→T. ホリドゥス系統がメス(短めの上眼窩角が低角度で伸び、かつ左右に大きく開く)、T. エラトゥス→T. カリコルニス系統がオス(長めの上眼窩角が急角度で立ち上がるが、左右にはあまり開かない)、T. オブトゥスス→ディケラトプス・ハッチャーリ系統がオスの病変個体を代表すると考えたのである(一方、オストロムとヴェルンホーファーはトロサウルストリケラトプスのオスである可能性を考えてもいた)。

 にわかにトリケラトプス・ホリドゥス唯物論で沸く中にあって、ドッドソンの学生だったキャサリン・フォースターは、博士課程の課題としてトリケラトプスの属内分類を再検討することにした。オストロムとヴェルンホーファーの意見はもっともらしいものではあったが、一方で「モデル生物」に依存したアイデアではあったのである。

 フォースターは泥臭く、かつ先進的な手法――当時知られていたトリケラトプスの頭骨の目ぼしいものに総当たりし、標本ごとに分岐分析にかける――を用い、それなりに客観的にトリケラトプス属内の系統関係を可視化しようとした。その結果、2通りのそれらしい樹形――トリケラトプス・ホリドゥスとトリケラトプス・プロルスス、そしてディケラトプスの2属3種にまとめるか、さもなくばオストロムとヴェルンホーファーの言うトリケラトプス・ホリドゥスと、AMNH 5116(AMNHのマウントの頭蓋)のみからなるトリケラトプス属の新種、そしてディケラトプスの2属3種にまとめる――がはじき出されたのである。

 フォースターは博論においては後者の方がよりもっともらしいと考えた――AMNH 5116に仮の新種名“トリケラトプス・スターンバーギイTriceratops sternbergii”を与えさえしたのだが、最終的に論文化するにあたり、前者の樹形を取ることにした。

フォースターの博論は2編の論文にまとめなおされて1996年に出版され、トリケラトプスは2種――短い鼻角と(側面から見て)S字カーブを描いた長めの吻をあわせ持つトリケラトプス・ホリドゥスと、長い鼻角と丸っこく短い吻をあわせ持ったトリケラトプス・プロルススに再編されたのであった。

 

(フォースターは博論の中でケラトプス科全体の系統解析も試みており、描き出された樹形はチャールズ・モートラムの1949年の意見――トリケラトプスをカスモサウルス亜科に含めることを強く支持していた。鱗状骨の形態に重きを置いて分類するというチャールズ・モートラムのアイデアは直感的なものではあったが、本質的な部分を突いていたのである。同年に出版されたレーマンの論文(先述のもの)はカスモサウルス亜科とセントロサウルス亜科の再定義を行っており、それ以降トリケラトプスがセントロサウルス亜科に分類されることはもはやなかった。)

 

フォースターの意見は広く支持を集め、(それぞれの種の定義に多少の変更はあったものの)今日に至るまでトリケラトプスは(他の属の種をトリケラトプス属に移す意見はさておいて)T. ホリドゥスとT. プロルススの2種からなるものとして扱われている。90年代当時は両種を形態以外――地理的あるいは生層序的に区別できるかはっきりしなかったが、2000年代のモンタナ州立大によるヘル・クリークHell Creek層の精力的な野外調査によって、T. ホリドゥスがT. プロルススよりももっぱら古い時代のものであること、両者の「中間型」が存在し、T. プロルススがT. ホリドゥスの直接の子孫であることがはっきりと示されたのだった。
 トリケラトプスが著しく特殊化したカスモサウルス類――アリノケラトプスやトロサウルスのような長いフリルを、二次的に短くした――の例であることは、1990年代以来広く認識されるようになった。2000年代も後半に入るとトリケラトプスの取り巻き――ごく近縁らしいものが続々と記載され、マーストリヒチアンの中ごろから最後の角竜として君臨したグループ――トリケラトプス族Triceratopsiniが姿を現したのである。
 ケラトプス科角竜の最後を飾ったトリケラトプス族にあって、その最後を飾ったのはトリケラトプス――T. プロルススであった。徒花と咲いたトリケラトプスだったが、バッドランドから無数とあふれる化石が、大輪の花であったことを今日に伝えている。
 ハッチャーがランス層から持ち帰った標本の多くは、YPMやスミソニアンの収蔵庫でひっそりと眠りについている。YPM 1822――トリケラトプス・プロルススのホロタイプは常に――リノベーション後も――グレート・ホールを守り続ける一方、YPM 1820――片角となったトリケラトプス・ホリドゥスのホロタイプは、なおも新たな研究者を待っている。

 

モンタナ州立大の調査範囲はモンタナ州東部(それだけでも相当な範囲なのだが)に限られており、その他の地域――とりわけワイオミングのランス層(T. ホリドゥスにせよT. プロルススにせよ、模式標本はランス層産である)でどのようにトリケラトプスの種の置き換わりが進んでいったのかは全くわかっていない。ハッチャーはランス層におけるトリケラトプスの相対的な産出層準の関係を記載しているが、GPSのない時代にだだっ広いバッドランドで行われた記録であり、現代的な研究で参照するわけにはいかないのである。ランス層におけるトリケラトプスの歴史的な産出地点の特定は全く進んでおらず(第二次化石戦争の時とは違い、フィールドでの写真がろくにないのだ)、ランス層の層序学的な研究がヘル・クリーク層ほど進んでいないことと相まって、実のところトリケラトプス・ホリドゥスの生息年代、ひいてはトリケラトプス属の出現した年代ははっきりしていない。)

Solitary Flight

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↑Skeletal reconstructions of Asian "mid-grade tyrannosauroids".

Top to bottom, Jinbeisaurus wangi SMG V0003 (holotype); Alectrosaurus olseni AMNH 6554 (lectotype); Unnamed Bayanshiree taxon MPC-D 100/50, 100/51; Timurlengia euotica composite (scaled as maxilla ZIN PH 676/16); Xiongguanlong baimoensis FRDC-GS JB16-2-1 (holotype). Scale bar is 1m.

 

 一握りのティラノサウルス科とストケソサウルスのような怪しげな属だけが知られていた時代は遠く、ティラノサウルス類がずいぶんにぎやかになって久しい。これはつまり「ティラノサウルス類」と一口に言った場合(特に広義のティラノサウルス類――ティラノサウロイデアを指した場合)、かなり形態的に多様なグループに言及している格好となる。

 日本産のティラノサウルス類(と言っていいのかはっきりしない部分もあるのはさておき)がフタバリュウだけであった時代もまた遠く(死んだミカサリュウの歳を数えるようなことはしない)、手取層群や篠山層群に加えて各地の上部白亜系からティラノサウルス類の化石が報告されるようになった今日である。ティラノサウルス科そのもの(時代からすると“一歩手前”の可能性もあるが)と思しき遊離歯も知られるようになった昨今だが、白亜紀“中期”(いわゆるガリック世)の後半からいわゆるセノニアン世の初頭――ティラノサウルス科の起源を探るうえで極めて重要な時代の地層も(海成だが)よくみられるのが日本というか北西太平洋地域の上部白亜系である。前置きがやたら長いのは2022年も変わらずだが、そういうわけで日本からも出そうな/出ているこの時代のティラノサウルス類――本ブログではとっくにおなじみの“中間型ティラノサウルス類”について、アジア産のめぼしいものを適当にまとめておきたい。

 今日言う“中間型ティラノサウルス類mid-grade tyrannosauroids”はエオティラヌス(あるいは“ストケソサウルス科”やディロンよりも派生的なエウティラノサウリアであり、一方でドリプトサウルス科よりも基盤的なものを指している(ススキティラヌススとモロスはここでは割愛する)。これらがティラノサウルス科へと続くひとつの流れを示している(側系統)のか、あるいは(少なくともその一部が)アークトメタターサルを獲得した直後に枝分かれした単系統のグループなのか、現状では定かでない。

 

ジンベイサウルス・ワンギJinbeisaurus wangi

 もともとタルボサウルスの幼体と目されていた山西省産のティラノサウルス類である。とりあえず椎骨は神経弓が(失われているものの)椎体と癒合ないし結合していたようで、上顎骨についても特別幼体の特徴らしいものは見られないようだ。本種の産出した灰泉堡Huiquanpu 層上部の時代ははっきりしないが、灰泉堡層といえばチアンゼノサウルスTianzhenosaurusやシャンシアShanxiaも知られている。これらはもっぱらサイカニアのシノニムとされており、であればジンベイサウルスも同時代――カンパニアンの中ごろのものとみてよいだろう。その場合、“中間型ティラノサウルス類”としては(目下)最新の種ということになる。

(シャンシアのホロタイプは後頭部しか知られていない一方、チアンゼノサウルスのホロタイプはほぼ完全な頭骨である。最近発見されたらしい山西省産の頭骨はチアンゼノサウルスのホロタイプとはだいぶ装飾が異なって見え、またチアンゼノサウルスのホロタイプの装飾もサイカニアのそれとは割と印象が異なっていたりもする。このあたり、うかつに示準化石めいた扱いをするのはやめておいた方がよさそうでもある。)

 

アレクトロサウルス・オルセニAlectrosaurus olseni

 前肢が長めやらなんやら言われていたのはテリジノサウルス類の上腕骨やら末節骨AMNH 6338も本種(のシンタイプの片割れ)として扱っていたからであり、レクトタイプAMNH 6554は上図の通り後肢だけ(+これまで特に図示されたことのない恥骨ブーツの一部と、本種のものかどうか怪しいやたらカーブの強い末節骨2つの断片;ドリプトサウルスのそれとも明らかに別物)である。後肢の細部の特徴は他のティラノサウルス類とはだいぶ異なるようで、本種の独自性を担保するのには今のところ十分――だが、上図の通り“中間型ティラノサウルス類”で後肢がまともに産出しているのは本種だけであり、系統解析に使いにくいところでもある。本種の産出したイレン・ダバスIren Dabasu層では他に涙骨や頬骨などを含んだ部分頭骨AMNH 6556(これまでに図示されたことはないようだ)も知られており、近年の系統解析ではアレクトロサウルスの代わりにこちら(言うまでもなく現状アレクトロサウルスとは断定できない)を"Iren Dabasu taxon"として用いることがほとんどである。

 イレン・ダバス層はバイン・シレ層(下記)のざっくり同時異相として扱われているが、バイン・シレ層ともども時代論は揉めるところである。バイン・シレ層ともどもセノマニアン~サントニアンの1500万年間のいつかしらであることには違いない。

 

バイン・シレの分類群 Bayanshiree taxon

 地層名の表記ゆれがやたら多いのはともかく、1977年にペールが記載した“モンゴル産アレクトロサウルス”(アレクトロサウルスの頭骨としてググって出てくる図はすべてこれである)が本分類群で、アレクトロサウルスとは足の細部が異なるようである。部分骨格がふたつ知られているが、ペールの記載は伝説的な悲惨さであり、図(リンク先はフォードによる原図のトレスだが、だからなんだという代物である)も恐ろしく素朴である。のちにカリーが描き直された頭骨図を総説に載せていたりもするが、これも実際の化石の情報をどこまで反映しているかは微妙なところである。カーの博論で再検討が試みられたほか、最近でも再検討が新たに進められているようだが、現状出版されてはいない。

 時代論については上述の通りであり、アレクトロサウルスともどもはっきりしない。ビッセクティ層とバイン・シレ層(やイレン・ダバス層)における化石相の類似から考えると、ざっくりチューロニアン後期からコニアシアン初頭と言ってもよいのかもしれない。

 

ティムーレンギア・エウオティカTimurlengia euotica

 鬼才ネソフが“ウズベキスタン産”アレクトロサウルスとして報告した化石は、それなりに本種として(暫定的でもあるが)再同定されている。ビッセクティ層産の恐竜化石がことごとく単離した状態でしか見つからないのは本種(と言ってよいのかは別問題でもある)に限った話ではないが、モロスやススキティラヌスと同様、とりあえず時代がかなり明確に決まる(チューロニアン後期:約9200万~9000万年前ごろ)点で極めて重要である。本種のものと思しき手の末節骨の形態は、ドリプトサウルスよりもむしろティラノサウルス科的である。

 

シオングアンロン・バイモエンシスXiongguanlong baimoensis

 膝下がそっくり欠けており、さらに本種の産出した下溝Xiagou層の時代は白亜紀前期――アプチアン~アルビアン(ざっくり1億1000万年前ごろか)とやたら古いが、系統解析の結果からするとアークトメタターサルを備えていた可能性が濃厚である。頭蓋は上下から著しく押しつぶされており、やたら細面に見えるが、実際の高さはさておき(それなりに進化したタイプのティラノサウルス類としては)吻が特に長いわけではない。含気化を欠いた鼻骨(左右縁辺部のリッジも全く欠いている)や上顎骨、“B字型”の下部側頭窓など、頭蓋の基本的なつくりはティラノサウルス科まで続くそれであり、エオティラヌスやディロンといったバレミアン~アプチアン初頭のティラノサウルス類とは著しく異なっている。ディロンから2000万年も経たずに本種が出現しているらしい点は非常に興味深い。

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 チューロニアン~サントニアンといえば、例えば東北日本では蝦夷層群や久慈層群、双葉層群がよく知られており、いずれも浅海の要素を含んでいる(し、すでにティラノサウルス類とされる化石が知られている)。西南日本はといえば御船層群がもろに陸成であるし、御所浦層群も(もう少し古い時代だが)期待がもてるだろう。この時代のティラノサウルス類で確実に“中間型ティラノサウルス類”よりも基盤的と言えるものは知られておらず、ユティラヌスやディロンのようなタイプは急速に“中間型ティラノサウルス類”――ティラノサウルス科とさほど変わらないものに置き換えられていったようでもある。

 真正のカルカロドントサウルス類やメガラプトル類(そして分類のはっきりしない怪しげな大型獣脚類)が跋扈する中にあって、“中間型ティラノサウルス類”は急速に大型化し、カンパニアンの初頭にはアジアと北米の陸上生態系における頂点捕食者の座におさまった。このあたりのシナリオに明確な時間軸の挿入が要求されることは言うまでもなく、北西太平洋地域――とりわけ日本の上部白亜系にそのあたりの期待がかかることはこれまでも散々書いたとおりである。

 

 

 

 

 

 

2021年を振り返って

 大晦日である。昨年のイベント興行的な地獄はいくぶんマシになったらしい今年であり、特別展はそれなりの規模で開催された――が、流動的な情勢に飲み込まれて関係者が結局地獄を見ていたらしいというのは筆者が書く話ではないだろう。

 とはいえ、恐竜科学博は台風の目であったし、福井は(来年度は工事があるため、リニューアル前の夏の大型企画展は今年で一区切りである)相変わらず…と見せかけて、関係先の凄まじい尽力で冬まで会期が延長されるという事態になった。1年越しの開催となったポケモン化石博物館は三笠会場が会期半ばで事実上の強制終了ともなってしまったが、それでも鳥取会場とあわせてたいへん賑わっているようだ。おっかなびっくり描いた版権ものはとりあえず好評だったようで何よりである。1時間完全入れ替え制の状況が続いているとはいえ、新設された長崎市恐竜博物館もにぎやかなようである。

 研究の状況は今年も変わらず活発だった(ヤマトサウルスの骨格図をものすごい勢いで描いたという話はここには書かない)が、筆者としてはケツァルコアトルスのモノグラフに全てを持っていかれたような気分である。長年「うわさ」以上の研究成果が表に出ず、分類学的にかなりろくでもない事件が起こったりと波乱万丈があった中で、大口の個人スポンサーの寄付でもってオープンアクセス化されるという、今日のもろもろの集大成のような代物でさえあった。

 

 筆者としてはここ数年、毎年毎年激動の1年だったわけだが、今年はその中でも特にそうであった(ボジョレー・ヌーヴォーのキャッチコピーではない)。幸い各方面から(それもかなり新規開拓で)声をかけていただいたわけで、ありがたい限りである。1年半ほどひっそりと進めていた話はここにきて一気に動き出し、とりあえず来年の夏までには表に出すことができそうだ。

 

 そんなこんなで来年も相変わらず先の見えない年にはなりそうだが、とはいえポケモン化石博物館のかはく巡回を皮切りに、夏には化石ハンター展の開催も控えている。とりあえず色々と刮目して待ってほしいところだが、さて。

再び空へ

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↑Azhdarchids from Javelina Formation.

Right to left, Quetzalcoatlus northlopi holotype (holotype TMM 41450-3) ,

Quetzalcoatlus lawsoni (composite; scaled as holotype TMM 41961-1; with skull of TMM 42161-2),

and Wellnhopterus brevirostris / Javelinadactylus sagebieli (holotype TMM 42489-2).

Scale bar is 1m.

 

 ケツァルコアトルスといえば、巨大なケツァルコアトルス・ノースロッピが(このところしばらくは「飛べなかった!?」の枕詞といっしょに)人口に膾炙していた一方、その半分のサイズで同じくテキサスはハヴェリナJavelina層産のケツァルコアトルス sp.――ボーンベッドから多数の化石が産出しており、頭骨を含めてほぼ全身が揃うらしい――の存在も界隈(いかがわしい表現である)ではよく知られていた。前者のホロタイプ――ひどく破損した左前肢――の実態がいつまで経っても示されない(わりに、それのキャストを練り込んだ巨大な翼の骨格は様々なところへ出回っていた)一方、ケツァルコアトルス sp.も頭骨の予察的な記載がなされるのみであり、いくつかの怪しげな骨格図が出回るばかりでその実態は全く不明のままであった。さらに言えばヴェルンホーファーの一般書(この手の本としては珍しく邦訳がある)で、うっかり「ケツァルコアトルス sp.」として紹介された第三のハヴェリナ層産翼竜もおり、これらの翼竜――ケツァルコアトルス sp.はQ. ノースロッピの幼体に過ぎないとする見方も(元来は)あったが、もっぱら新種とみなされていた――の記載が長らく待ち望まれていたのである。ケツァルコアトルス sp.は(下馬評が真実なら)アズダルコ類はおろか白亜紀の数ある翼竜の中でも屈指の完全度であるらしく、謎めいたQ. ノースロッピの実態の解明にも役立つはずであった。

 

 様々な業者によって「近縁種に基づく」ケツァルコアトルス・ノースロッピの復元骨格が量産されるようになり、また(どの程度実際の化石に基づいているのかもわからない;結局のところ完全な模型であり、実際の化石とはかけ離れた形態だった)ケツァルコアトルス sp.の復元骨格も制作されるようになった。「第三の翼竜」については頭骨の形態からして(真正の)アズダルコ科ではなくトゥプクスアラの類である可能性さえ指摘されるようになったが、依然としてこれらの翼竜はほぼほぼ未記載の状況が続いていたのである。実態とはかけ離れている(かどうかさえ究極的には判断できない)ケツァルコアトルスのイメージが氾濫する中にあって、ライフワークとしてケツァルコアトルスの記載に取り組んでいたラングストンは、草稿を墓場まで持って行ってしまったかのように思われた。

 

 「第三の翼竜」の命名を巡るトラブルはあったものの、それ以外は結局万事丸く収まった。原記載から50年近くが過ぎ、ノースロップはとっくにグラマンと合併していたが、ここにケツァルコアトルス・ノースロッピは初めての詳細な記載を引っ提げて、SVPのメモワール――しかも(MSの技術部門のトップだったミルボルドの資金援助によって)オープンアクセスで出版されたのである。ケツァルコアトルス・ノースロッピがその威容を示す中にあって、ケツァルコアトルス sp.――もはやQ. ローソニの種名が与えられていた――の詳細な記載がそれに続いた。「第三の翼竜」もここで(それまでほとんど言及されることのなかった頸椎まで)記載され、さらに発掘史や古環境復元、系統解析そして機能形態――パディアンが嬉々として「実質的二足歩行」をうたう論文がセットになったそれは、ローソンそしてその師であったラングストンの果たせなかった成果の結晶となったのである。

 ケツァルコアトルスを巡る議論はここにようやくスタート地点に立ったことになる(スピノサウルスの記事でも同じようなことを書いたが、幸いこちらのスタート地点にはクラウチングスタート用の台が据えてある)。依然として不完全ではあるが、それでも今やケツァルコアトルス・ノースロッピの前肢は白日の下に晒されており、そしてケツァルコアトルス・ローソニは全身の相当な部位を三次元的に保存しているのである。ヴェルンホプテルス・ブレヴィロストリス(あるいはハヴェリナダクティルス・ザーゲビーリ)は翼開長4mそこそこではある(現生動物からしてみればそれでも驚異的なサイズだが)とはいえ、「首の短いアズダルコ類」の姿を垣間見せてくれる。

 

 巷にあふれる「ケツァルコアトルスの復元骨格」は、もはや全てが完全なる「イメージ模型」となった。ケツァルコアトルス・ノースロッピの姿は陽炎の向こうでゆらめいたままだが、ケツァルコアトルス・ローソニは大挙してこちらを取り囲み、次の一手を待ち受けている。

化石の日なのでみんなで骨格図を描いてみるコーナー

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↑Skeletal reconstruction of Tarbosaurus bataar MPC-D 107/2. Scale bar is 1m.

 

 10月15日は「化石の日」である。特別用意しておいたネタがあるわけではないのだが、乗るべきものには乗っておく主義の筆者ではある。

 

 古生物の復元画が化石のなんかしらの普及に極めて大きな役割を担っていることは言うまでもないし、筆者とてそれでごはんと酒代(あと国民健康保険とかいろいろ)を捻出しなくてはいけない立場の人間である。化石を見てそこから復元画を描くことができる人材は依然として貴重ではあり、それができれば何かしらの即戦力でさえあろう。

 化石から直接、ではなくとも、ワンクッション置いて復元画の参考資料に骨格図を見やがれ的なムーブメントは、ポールの登場以後わりあいに市民権を得た――が、骨格図はピンキリでもあり(ポールのものでさえも)、骨格図の制作過程を知っておくというのは割と(自分が何を参考にすべきかというところも含めて)有意義なはずである。サイエンスイラストレーションであれば過程がわかれば再現性も付いて回ってもよさそうなものだが、実際にはそうではないというのもこのあたりの過程を見ればわかることで、というわけで筆者のケースを適当に紹介しておきたい。

 

◆タルボサウルス・バタールの骨格図を描く◆

標本を選定する

 タルボサウルスと一口に言っても色々な標本が知られているし、とりあえず大人っぽいサイズ(実際はそうでもなさそうでもあるのだが)で全身が比較的よく見つかっているらしい骨格もそれなりに数がある。かはく神流町恐竜センターでおなじみのタルボサウルス・“エフレモヴィ”の骨格はそれなりに記載されているはず…だが入手が困難という事情がある。

 従って、タルボサウルスの大人の骨格図を描く場合、基本的には写真から描き起こす羽目になるのだが、かはくや神流町恐竜センターに展示されている骨格のオリジナルの内訳ははっきりしない(消去法でPIN 551-4のようだ;よりによって特に図示されていないらしい標本である)。おそらくはT. “エフレモヴィ”のホロタイプであるPIN 551-2だが、それと同サイズのPIN 551-3、あるいはそれらのコンポジットの可能性もある。(PIN 551-2はこちらで間違いないようだ: ;PIN 551-4(?)と展示場所が入れ替えられている)であればこれの写真から描き起こすのは避けたほうが無難でもある(PIN 551-2の部分頭骨に基づく復元頭骨模型を使いまわしているようであるが、PIN 551-3の頭骨とはかけ離れた代物でもある。PIN 551-2の頭蓋はどうもばらけて産出したようである)。

 

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↑2013年に科博で展示された際のMPC-D 107/2。座骨以外の腰帯(と仙椎)が完全に模型であることがよくわかる。出ていない分の胴椎は特に補われておらず、胴体が実際よりもだいぶ短い状態で組み立てられている。

 

 こうした事情を踏まえると、実物のマウントが複数回来日したことがあり、かつキャストのマウントが岡山理科大福井県立恐竜博物館で常設展示されている(頭蓋だけなら北大総合博物館等でも見られる)MPC-D 107/2が骨格図(だけに留まらない)の参考には最適と言えるだろう。頭蓋の変形がひどく、また椎骨列に重大な欠損があったりするのだが、全体としてほぼ完全で、保存状態もまずまずといったところである。

 MPC-D 107/2は1984年に採集されているのだが、今日に至るまで記載はほとんど行われておらず、(ひどく変形した)頭蓋と大腿骨の計測値があるのみである。ゆえに本標本の骨格図を描く上ではプロポーションも全て写真判読に頼らざるを得ず(どうしようもない場合はサイズの近しい標本から比例計算ですり合わせるほかない)、そのあたりも踏まえた資料写真が必要となる。

 

頭蓋の変形を読み解く

 上記の通り本標本の頭蓋は悲惨な保存状態である(が、ホロタイプに次ぐ大型個体の頭骨はこれくらいしかまともなものがない)。変形の状況を把握して、作画はそれからである。

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↑頭蓋天井の破損がひどく、後頭部が上方・上部後方から押しつぶされている。頬骨は内側へ向かって倒れ込んでいる。

 

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↑左側に比べるとだいぶマシに見えるが、眼窩のあたりを中心に、吻も後頭部も上方へ向かって押し曲げられている。眼窩の後縁も内側に向かって押し込まれた状態である。下顎の右半分は変形もほぼ見られないようだ。

 

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↑正面から見ると、頭蓋の左右方向への歪みがよくわかる。一方で正中面はきれいに通っており、正中面/線を軸として、どうにか変形を補正してやることはできそうだ。

 

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↑頭蓋の変形をどうやれば三次元的に補正できるか、3Dモデルのイメージを脳内に描きつつ撮影するのが肝要である。本標本の場合、上顎骨はこのくらいのアングルが本来の「真横」に近いはずだ。

 

頭蓋をどうにかする

 あくまでも二次元の骨格図を描くので、側面から見て破綻がなければ変形の補正は最低限クリアしたといえる。「真横」を狙って撮影した写真資料を切り刻みつつ、三次元的にもっとずっとよく保存されている近縁種(この場合ティラノサウルスをおいて他にない)を参考にうまくつなげていく。

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Photoshop(筆者は貧乏なのでelements愛用)で作成したコラージュから「使える」ラインをトレースし、その他の資料写真やらなんやらから拾い出したディテールを載せていく。コラージュの下敷きには「大きすぎない大人」のティラノサウルスで、かつ頭蓋の変形が小さいAMNH 5027を用いている。

 

椎骨をきちんと並べる

 上述の通り、本標本の胴椎はいくつか失われており、また尾椎も後半1/3は失われているようである(血道弓もオリジナルマウントに据えられているのはあからさまに模型であり、とりあえず未発見のようだ)。

 福井県立恐竜博物館のマウント(オリジナルマウントと同様、胴椎がいくつか抜けたままである)は前半身をほぼ真横から撮影可能である。岡山理科大のマウントは(筆者が訪ねた時点では)全景を(引きで)真横から撮ることはできなかったが、尾を除けば近接して真横から撮影でき、尾にしても近接撮影は可能であった。

 

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↑映えも何もない写真だが、仙前椎の全容は見て取れる。目的意識が大事ではあろう。

 

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↑岡山理科大のマウントは仙前椎の数は実際に合わせてある(と見せかけて前環椎めいた謎の物体が入っていたりもする)のだが、欠損部は前後(と推測される)の椎骨のコピペである。このあたりに注意しつつ、ティラノサウルスの記載とにらめっこである。

 

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↑AMNH 5027の仙前椎~腰帯でアタリを取りつつ、資料写真に基づきどんどん描き込んでいく。×印が付いているのは筆者が未発見と判断した胴椎である。腸骨と恥骨はPIN 551-2を参考にしたアーティファクトである。

 

長骨の比率をなんとかする

 写真から骨格図を描き起こす場合、最も注意すべきが四肢のバランスというか長骨の比率である。ポール式骨格図が(生息時の状態からあえて崩して)長骨を正中面と平行に立てて(つまり前方から見ると地面に対して垂直に)描くのに対し、復元骨格では(本来の生息姿勢に即しているかはさておき、支持構造の許す範囲で)四肢を「それっぽく」曲げて組み立てられる。従って、資料写真の撮影や、それに基づく作画の際にはそのあたりに留意しなくてはならない。

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↑幸いというかなんというか、岡山理科大のマウントの後肢はほぼ垂直であった(本来、少なくとも歩行中の姿勢はこうではない)。肩帯と前肢の長さだけなんとかしてやれば、骨格図はもう描きあがったも同然である。

 

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↑脛骨は内側面もきちんと撮影しておくと後が楽である。外側面からだと膝頭の形態は案外読みにくい。

 

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↑「真横」を狙い撃ちするのはもちろんとして、色々なアングルから撮らないと寸法を割り出せない場合はしばしばある。前肢(のうち上腕骨)とそれ以外の要素の比率は実測しない限りどうしようもなかったので、PIN 551-2の比率に従うこととした。

 

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 というような過程を延々経て完成したのが↑の図である。マウントの「真横」写真とはずいぶん印象が異なるようにも見えるが、化石(やそのレプリカ)についてまわる様々な制約を取っ払って(ついでにポール式のフォーマットに則って)描き下したに過ぎない。監修のきちんとつく骨格図であってもやることは(自分で資料写真を撮りに行かない/行けない案件でも)何も変わらず、ここぞという時に監修者からの天の声なり未出版資料なりに救われるだけでもある。

 

 化石を描く、ひいては化石生物を描くということは、そのまま化石と向かい合う行為に他ならない。向かい合えば向かい合っただけ見えてくるものがあるし、それだけ堂々巡りの泥沼にもはまっていく。それがどうしようもなく好きだった筆者は、結局化石とにらめっこして日銭を稼ぐ道を選んでしまった。

 あくまでも復元画は復元画に過ぎず、何の復元画かといえば化石の復元画である。復元画の向こうに化石を見透かせるだろうか。復元画なしに化石と向かい合えるだろうか。筆者は粛々と(たまに鼻歌交じりで)化石とにらめっこをするだけである。