GET AWAY TRIKE !

恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

企画展「福井の恐竜新時代」レポ

 更新をほったらかしていたらあっという間に8月である。本来なら今夏も色々あるはずが中止やら延期やら規模縮小やらではあるのだが、致し方ないところではある(が、細々と告知を続けているものもある)。

 福井県立恐竜博物館といえば今年で開館20周年(前身がもう少し以前までさかのぼれることは言わずもがな)であり、本来ならいつも以上に気合の入った特別展(エオティラヌス(しかもマウント)が来日するという話であり、ひょっとするとネオヴェナトルよろしく会期後に引き取るくらいのつもりだったのかもしれない)が開催される予定だったわけだが、かくして地元要素に絞った特別展と相成ったわけである。

 とはいえ、さすがに20周年だけあって、規模は縮小しても相当な濃さである(このご時世なのであまり長居するものでもないのだが)。噂通り「新復元」もお目見え(まだ今後の展開が控えていそうな雰囲気があるわけだが)し、この20年間の総括にふさわしい特別展とはいえよう。そういうわけで、いつも通り(ずいぶんレポート記事は久しぶりなのだが;うっかり去年の福井レポを書きそびれた筆者である)つらつらと適当に紹介していきたい。

 

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 お約束というべきか、迎えてくれるのは海鳥達だけなのか?勝山産ゴニオフォリス類である。いい加減骨学的記載を…というのは鉄板ネタなのでここではやらない。皮骨の保存も非常に良好である。

 

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 クリーニングで少なからず損傷しているというのはたぶんそうなのだろう。

 

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 フクイサウルスの「新復元」は頭骨だけのお披露目であるが、たぶんこれには深い事情がありそうである。眼窩まわりというか頭蓋天井が別物になっており、なんというかバリグナー(の改造パーツを組み込んだ1/144のD-1)臭がする。

 

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 眼瞼骨の近位部と後眼窩骨の装飾が目を引く。前前頭骨-涙骨や上顎骨も作り直されているようだ。

 

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 今回の「新復元」の核になっているのが、数年前に発見されたこの部分骨格(同一個体由来)である。いちおうキャプションはイグアノドン類どまりではあるものの、上顎骨の形態からしてコシサウルスではありえない(とりあえずフクイサウルスとよく似ているように見える)。サイズはフクイサウルスの模式標本群とほぼ同じようで、上述の「新復元」には本標本のキャストがそのままねじ込まれているようである。
 本標本のプロポーションからして、どうもフクイサウルスは(旧復元では「小顔」がウリであったわけだが)かなり頭でっかちだったとみてよさそうで(元フクイリュウのマウントの上に掲げられた復元画でもそんな感じである)、このあたり「新復元の完全版」がお披露目されるのもそう遠くないだろう。

 

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 フクイラプトルの「新復元」はなんというかハイディテールマニピュレーター(B-CLUBにはちょこちょこお世話になっていた筆者)を付けてみました感がある(実際だいぶ印象は変わっている)。

 

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 頭骨はそのまま…と見せかけて、下顎にはちょこちょこ手が入っている。

 

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フクイヴェナトルがいちばん「新復元」らしくなっている。とはいえ首から後ろはポーズ替えに終始している。第2趾の問題は要は「始祖鳥のシックルクロー問題」と同じようなものだろう。

 

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 「旧復元」のアーティファクトが(造型的な意味で)悲惨だったわけだが、今回新要素(原記載時には同定不能だった部分)も加わって、まるっきりの別人顔である。とりあえず再記載は必須であろう。

 

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 新復元というか、今までなかったのが不思議なフクイティタンの(四肢だけではあるが)マウントである。大腿骨の破損がひどいので何とも言えない部分は残るのだが、とはいえ上腕骨はたいして長くはないタイプである。

 

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 大腿骨のアーティファクトが根性の産物であることがよくわかる。カクルめいた写真(意味不明)なのはPLフィルターの都合である。手首の処理はむずかしいところ。

 

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 第一次発掘の時から大規模な足跡(というか連続歩行痕)群が知られているわけで、さまざまな足跡種の化石も展示されている。鳥類や翼竜と、恐竜以外も興味深いところである。

 

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 小粒ではあるが、数を集めればなかなかの見ものである。フレームワークの是非はさておき普通に現生属である。

 

 

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 手取層群で魚類といえば桑島のイメージが強いわけだが、勝山でもちょこちょこ出ているものである。部分的だが大変美しい化石である。

 

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 というわけでごくごくかいつまんで紹介したが、本展の恐竜の展示はもっとある(先報道発表されたスピノサウルス類の歯も含め)し、植物や無脊椎動物の化石もきっちり展示されている。縮小を余儀なくされたとはいえ、これまでの20年の振り返りと、これからの20年の始まりを告げるにはふさわしい企画展と言えるだろう。

 

(この手の大規模企画展についていえば、中止というより延期という文字の方が目立つ印象である。来年を待つのも手であろう。)

 

十字架に磔られて

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↑Composite skeletal reconstruction of Deinocheirus mirificus. Scaled as MPC-D 100/127.

 

 筆者くらいの世代、つまり90 年代生まれは、「謎の獣脚類」としてのデイノケイルス(とテリジノサウルス)を(リアルタイムで)図鑑で見た最後の世代であった。筆者の手元にある1990年版の学研の図鑑(筆者が買ってもらったのは96 年に出た第20 刷である)には、“まだ”、中途半端に首が長いものの典型的な獣脚類の頭の載った、とりあえず肉食であるらしいテリジノサウルスとデイノケイルスが描かれている(デイノケイルスは遠景に描かれているだけだが、近景に置かれたテリジノサウルスの足はかなり幅広に描かれており、セグノサウルス類を念頭に描かれたフシがある)。
 オルニトミモサウルス類との形態的類似は原記載の時点ですでに指摘されており、2000年代に入るころにはデイノケイルスがオルニトミモサウルス類(のおそらく基盤的なもの)であることはもはや明らかだった。かくして「謎の獣脚類」をそれっぽく復元することが可能となり、とりあえずその辺のオルニトミムス類の巨大なものとして復元したイメージがあふれかえることになった(言うまでもなく、当時それらに特別問題はなかった)。——のだが、2013 年のSVP を経て2014 年に発表された「新復元」は「はめ込み合成」されたそれまでの復元とは別物といってよい代物であった(本質的に「旧復元」が間違っていたかといえばそういうわけではないのだが)。盗掘された頭骨と足——MPC-D 100/127 も紆余曲折の末もとの体に帰還し、そして恐竜博2019 で「再び」日本の土を踏むことになった。——ブギン・ツァフから盗掘されたMPC-D 100/127 の頭と足は、モンゴルから「日本のバイヤー」へ売られ、そしてヨーロッパへと流れていったのである。

 

 1963 年から始まったポーランド-モンゴル古生物探査にはモンゴル、ポーランド双方から新進気鋭の研究者が参加したが、女性研究者の多かったこの調査隊は薫枝明をして「モンゴル-ポーランド娘子軍」と称され輝かしい成果を残した。そして3 回目の調査となった1965年、ソフィア・キエラン-ヤウオロスカはネメグト盆地のアルタン・ウラⅢ(ネメグト層の下部にあたる)で、奇妙な“メガロサウルス類”(この場合のメガロサウルス類はウォーカーによる獣脚類の大分類——カルノサウルス類をメガロサウルス上科とティラノサウルス上科に二分したものである)にぶち当たったのである。

 この“メガロサウルス類”(1966 年の速報ではメガロサウルス科とされていた)はゆるやかに関節したほぼ完全な肩帯と前肢、そしてわずかな胴椎の破片と肋骨、腹骨が保存されていた。問題だったのはそのサイズで、上腕骨の長さは938mm——前肢全体で長さ2.4m(右前肢は完全だった)というすさまじい代物であった。オスモルスカ(とまだ学生だったロニウィッツ——とっくの昔に小型無脊椎動物化石の大御所である)——「娘子軍」の主力であった——はこの恐竜がティラノサウルスと互角のサイズであることを見抜くと共に、手の構造や、やたらデカいものの貧弱な上腕骨がオルニトミムス類と酷似していることにも気付いていた。一方で、デイノケイルスの巨大なサイズや、骨が肉厚であることから(古典的な意味での——今にしてみれば系統関係を何ら反映していない)コエルロサウルス類である可能性を排除し、原始的なメガロサウルス類——デイノケイルス科を設けたのであった。

 

 原記載に合わせてデイノケイルスのホロタイプ(当初はワルシャワポーランド科学アカデミーの所蔵であったが、後にモンゴルに返還された)のキャストは組み立てられ、鮮烈なデビューを飾ることとなった。天井すれすれに組み上げられた肩帯と前肢“だけ”を見上げるオスモルスカの写真は数々の書籍を飾り、量産されたキャストは西側諸国にも出回るようになったのである。

 原記載におけるオスモルスカの観察眼はさすがといったところで(The Dinosauria の編集を伊達でやることになるわけではない)、デイノケイルスを最終的にメガロサウルス上科としたのは、単に(単発の記載に過ぎなかったということもあり)分岐分類導入以前の獣脚類の分類——巨大で重厚なカルノサウルス類と、小型で華奢なコエルロサウルス類というフレームワークに手を付けなかったというだけのことでもあった(ついでに、当時まだホロタイプしか知られておらずカメ扱いだったテリジノサウルスが獣脚類であることを指摘している)。とはいえ、一度分類してしまえば、それが独り歩きするのが今も昔もこの業界のお約束である。

 かくして化け物じみた剛腕カルノサウルス類としてのデイノケイルスが氾濫するようになり、テリジノサウルスのほぼ完全な前肢が発見された(ここに至ってようやくテリジノサウルスがカメではなく恐竜であることにコンセンサスが得られた)ことで状況はさらにややこしくなった。オストロム(やポール)がオルニトミモサウルス類への分類を主張し、一方でバルスボルド(ホロタイプの発掘にも携わっていた)はテリジノサウルスとデイノケイルスをまとめて「デイノケイロサウリア」を創設しようとした。
こうした状況を復元画は敏感に反映し、巨大なオルニトミムスから“セグノサウルス類”
風の復元まで、様々な復元が同時に出回るようになった。名実ともにデイノケイルスは謎の恐竜となっていたのである。

 

 このあたりについて一応の幕引きとなったのがThe Dinosauria 第2 版——2004 年に出
版されたマコヴィッキーらによる研究であった。デイノケイルスの前肢から基盤的なオルニトミモサウルス類の特徴が見いだされ、ひとまずの定位置を得ることになったのである。とはいえ、依然としてオルニトミモサウルス類とすんなり言い切るのが難しい代物でもあった。非オルニトミモサウルス類的な特徴も混在していたのである(わかりやすいのが前肢の末節骨である。カーブが強いのはガリミムスにもみられる特徴だが、屈筋の付着点ががっつり近位寄りにあるのは非オルニトミモサウルス類的である。また、橈骨と尺骨が密着しないのも非オルニトミモサウルス類的である)。

 閑話休題、韓国といえばやたら恐竜の足跡と卵が産出することで有名だが(釜山港のすぐ近くの岩礁に巣と思しき卵化石の集まりがある始末である)、数こそ少ないながら保存良好な恐竜の骨格化石も知られている。どことなく「モンゴル的」な保存状態でもあり、時代的にもそれらしいことも相まって、イ・ユンナムを旗振り役に、2000 年代から精力的にモンゴルでの調査を行うこととなったわけである。

 さて、この韓国-モンゴル共同調査には例によって各国の研究者が相乗りしており、2008年の調査の際にデイノケイルス(のホロタイプ)の産地——アルタン・ウルⅢを再訪することとなった(この手の産地再訪は化石探しの基本中の基本と言ってよく、歴史的な標本の産出地点を再発見できれば色々と得るものは大きい)。ポーランド隊はしっかり写真を残しており、そんなわけで首尾よく産地の再発見に至った——が、特筆すべき収穫品はタルボサウルスらしき歯型の付いた肋骨の断片くらいであった。

 ホロタイプの産地再訪ではぱっとしなかった韓国隊とゆかいな仲間たちだったが、実のところ2006 年に韓国隊はとんでもない代物をアルタン・ウルⅣで発掘していた。盗掘者にあらかたほじくられた後だったこの骨格MPC-D 100/128(胴椎列の大半と尾の大部分、足を除く後肢はどうにか現場に残されていた)は、未成熟個体であるにもかかわらずガリミムスより明らかに巨大であり、そして謎の“帆”が——伸長した棘突起が中部胴椎から近位尾椎にかけて発達していたのである。挙句、仙椎の作りは反り返り(上半身をもたげるのが基本姿勢だったことを示唆する)、一方で胴椎は強い下方カーブ——ハドロサウルス類のような構造であるらしかった。

 とはいえ、この骨格はどうしようもない代物でもあった。“未知のオルニトミモサウルス類の体骨格”であるらしいことはうかがえたが、頭も前肢も足も文字通り“持っていかれた”後だったのである。取り付く島のなかったこの標本は、それからしばらく埃をかぶることになった。

 

 ツイていたというべきなのか、2009 年に韓国隊とゆかいな仲間たちが遭遇したのはなおも凄惨な現場であった。ブギン・ツァフに横たわっていたのは、頭と手、足を盗掘者にもぎとられた巨大なオルニトミモサウルス類のほぼ完全な骨格——デイノケイルスMPC-D100/127 だったのである。“モンゴル式”の儀式の痕跡からして、2002 年以降に地元民によって盗掘されたことは明らかだった。

 そして大腿骨の特徴がMPC-D 100/128 と一致し、明らかになったのはあまりに残酷な
事実であった。盗掘され(そして間違いなく)マーケットに流れた頭骨と(手と)足を除けば、デイノケイルスの骨学的情報は実質的に全て明らかになったのである。

 2011 年になり、事態は水面下で急変することになった。ゴドフロアから“タレこみ”が
あったのである。曰く、“デイノケイルスの頭骨と手・足”がモンゴルで盗掘された後に「日本の」バイヤー(匿名の扱いではあるが、名前がわからなかったはずはない)に売却され、現在ではヨーロッパのプライベートコレクションに入っているとのことであった。交渉が始まったものの先行きは見えず、従ってユンナムらは首なしの骨格に基づく記載を進めることとした。かくして2013 年のSVP で首なしの骨格図が大々的に発表された——が、最終的にツキはこちらへ回ってきた。タルボサウルスの密輸で逮捕者が出た上に実刑判決を受けたことで、怯えたコレクターの手元から化石が返ってきたのである。問題の化石はMPC-D 100/127 のもぎ取られた部分にぴったり一致し、ここにデイノケイルスの骨学的な情報のほぼ全てが揃ったのだった。

 

 かくしてデイノケイルスのマウントは恐竜博2019 の目玉となったわけだが、結局のとこもろもろの厄介な問題が解決されたわけではない。「日本の」バイヤーはなおも(多少品ぞろえに変化もあったようなのだが)健在のようであるし、どういうわけかデイノケイルスの再記載の著者に名を連ねることになったフランスの有名ディーラーの周りに見え隠れするのは、結局のところ出所の怪しげな代物である。相変わらずモンゴル(だけに留まらないが)での盗掘と密輸出は後を絶たず、そのあたりの“東アジア産”の化石はショーのたびにあちこちの店頭に並び、そして今日も全国の博物館にさりげなく居座っている。究極的に言えば、このあたりの十字架は等しく(等しく、である)本ブログを読むような人間は全員背負っている格好である。

 “二度目”の来日となったデイノケイルスの頭骨は、強膜輪をえぐり出された左の目でアクリル越しに何かを見ていた。

WISの果てに

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↑Skeletal reconstruction of Dryptosaurus aquilunguis (holotype ANSP 9995 and AMNH 2438) and small subadult or large juvenile Tyrannosaurus rex (composite; largely "Jane" BMRP 2002.4.1). Scale bar is 1m.

 

 2020年もすでに3日目である。筆者はといえば微妙にバタバタしている今日この頃ではあるのだが、とりあえず(あまりにも色々ありすぎた昨年ほどではないだろうが)今年も色々やらかす予定ではある。

 さて、本ブログの立ち上げ間もないころ(うっかり看取りそこなったがそういうわけでYahoo!ブログは虚空のかなたへ消えた)をご存じの方は案外少なそうな気もするわけだが、本ブログでは過去それなりにティラノサウルス-ナノティラヌス問題を取り上げてきた。今さらナノティラヌスの独自性をどうこう言うつもりはない筆者ではあるのだが、つい先日“ナノティラヌス段階”にある2標本(一方は日本でもよく見かける“ジェーン”である)の骨組織学的研究が出版されたこともある。いつものごとく、gdgdと書き連ねていきたい。

 

(最初に本題を書いてしまえば、今回の骨組織学的研究は今まで言われていた話の補強でしかなく、結局のところナノティラヌス論者に特別な影響を与えるような内容ではない。ジェーンなりが活発な成長の途上にあったことは一見して明らかであるし、あとは成長の過程でどこまで形態が変化しうるかというだけの話である。ティラノサウルス-ナノティラヌス問題は分類学的な問題というより業者との泥仕合的な側面をがっつり含んでおり、あまりにもあまりにもな話がいくらでも出てくる)

 

 ナノティラヌスについては今さら説明不要ではあるが、要はティラノサウルスと同時代、同所的に(厳密に同じ環境で生活していたかといえばたぶんそうでもない)生息していた中大型獣脚類ということで、ランス期――マーストリヒチアン後期の北米西部の動物相を考える上では割とキモになりそうな存在ではあった。もともとギルモアが(死後に出版された論文にて)ゴルゴサウルス・ランセンシスとして記載したのが本種なわけだが、一方でロジェストヴェンスキーなどは(大量のタルボサウルスの標本の観察を踏まえたうえで)1965年の段階でティラノサウルスの幼体である可能性を指摘していたりもする。ホロタイプCMNH 7541は表面の保存こそ良好であったものの伝説的な変形っぷりを呈しており(ちなみにこの標本を採集したのはD.H.ダンクル――ダンクルオステウスにその名を残す男であった)、この何とも言えない保存状態が現在まで禍根を残すことになったのだった。

 

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Tyrannosaurus rex "Sue" FMNH PR 2081, "Dinotyrannus megagracilis" LACM 23845, and composite "Nanotyrannus lancensis". Scale bar is 1m.

 

 特に深い理由のないままCMNH 7541をゴルゴサウルス属にしたギルモアにせよ、新属を設けたバッカー(とカリー、ウィリアムズ)にせよ、大前提となっていたのはその成長段階――CMNH 7541が成体であるらしいことに基づいていた(一方、カーペンターはナノティラヌス属の命名からさほど間を置かず、これが未成熟である可能性について触れていたりもする)。どっこい、カーによる1999年の研究(とそれに続く2004年の研究)によって、CMNH 7541が未成熟の個体――幼体もいいとこであることが示されたのである。CMNH 7541はティラノサウルスと多数の(ほかの北米産ティラノサウルス類には見られない)特徴を共有しており、ここにナノティラヌスの独自性は風前の灯火となった。

 

わりあい最近になって行われた高精度のCTスキャンによって、ティラノサウルスとナノティラヌスの頭骨における含気孔や脳函の形態差が見いだされた――が、結局は解釈の問題である。)

 

 一方で、2000年代に入ると“ナノティラヌス”と目される保存良好な骨格が複数発見されるようになった。口火を切ったのはBMRP 2002.4.1――“ジェーン”として知られる標本で、脳函と肘から下、尾の後半部を除けばほぼ完全な骨格といえる代物であった。“ジェーン”の頭骨はCMNH 7541のそれと様々な特徴を共有しており(つまるところティラノサウルスの成体とも様々な特徴を共有している)、首から後ろの骨格はティラノサウルスの成体とはプロポーションが著しく異なっていた(ほか、ティラノサウルスの成体とは異なり、やや横向きになった肩関節窩や、腹側後方に強くカーブした腸骨前方ブレードをもっていた)。これは“ナノティラヌス”の独自性を強く示すものとみる向きもあった一方で、明らかに幼体の特徴をもっていた。

 2011年になって発表された“モンタナ闘争化石”――本ブログ立ち上げ初期に散々取り上げた――の片割れは極めて完全な状態の“ナノティラヌス”(“ジェーン”とほぼ同サイズと思われる)であった。前肢にはやたら大きな(ある種ドリプトサウルス的な)手と末節骨がついており、現実問題としてティラノサウルスの成体(例えばスー)や亜成体と思しきもの(これまた本ブログで何度も取り上げてきた“ディノティラヌス”ことLACM 23845)とはサイズの整合性が取れない代物であった。“ナノティラヌス”の手は、全長で倍するティラノサウルスの成体よりも(絶対的に)大きかったのである。

 

(末節骨のサイズ問題については、“ピーティ”ことBMRP 2006.4.4で認識されていたことでもある。これは頭骨を欠いた部分骨格ではあるものの、ひとそろいの前肢の末節骨を含んでいた。リンク先にある“ティラノサウルスの末節骨”は実のところかなりアーティファクトを含んでおり、適切な比較と言えないところではある。)

 

 よく知られた「歯の本数」問題と合わせ、手のサイズ問題はナノティラヌス論者の(実質最後に残された)よりどころとなっている。もっとも、2000年代に入って採集された“ナノティラヌス”の骨格(頭骨を含むものが少なくとも3体、そうでないものも1体はある)のうち、まともな研究機関に所蔵され研究に供されているものは2体――“ジェーン”と“ピーティ”に限られている。本命である“モンタナ闘争化石”の片割れは依然として落札されることもなく、頭部と前肢のキャストだけが流通している(た)だけの状況にあるのだ(キャストは若干数が某業者を通じて日本でも流通していた)。

 手のサイズ問題は(少なくとも標本の数に乏しい現時点では)個体差云々で片付けようと思えば片付けられる話ではある。体サイズだけで成長段階の序列を定めていいかといえばそんなことはなく、ましてや上の“ナノティラヌス”の骨格図は計測値すらまともにない状態で描き起こした代物でもある。

 歯の本数問題の方が厄介そうではある(タルボサウルスの幼齢個体では成体と同じ本数であるし、「成体と同じ本数」をうたうティラノサウルスの幼体らしき化石は複数知られている――が、研究されているのはタルボサウルスに限られている)が、このあたりは(成体と幼体の歯の本数が一緒だからといって)すんなり言い切ることは難しそうでもある。成長に伴い(幼体から亜成体にかけて)吻の伸長が起きることは間違いないし、その後(見かけ上)吻が短くなることも間違いない話なのである。

 

 “モンタナ闘争化石”を見るにつけ、“ナノティラヌス”の前肢はかなりドリプトサウルス的――同時代にはるか東にのさばっていた、同サイズのティラノサウルス類とよく似た格好である。もっとも、ドリプトサウルスほど極端に大きな手と末節骨をもっているわけではないようで、またドリプトサウルスと比べればずっと長い後肢をもっている(ドリプトサウルスの全長は7m少々といったところだが、その割にはややごついようにも思われる)。

 マーストリヒチアン後期といえばいい加減ララミディアとアパラチアが地続きになってきた時期であり(ケラトプス科角竜がアパラチアに侵入しつつあった)、あるいは“ナノティラヌス”もアパラチアへ足跡を記していたかもしれない。“ナノティラヌス”とドリプトサウルスであれば体重で勝るであろう後者のほうが有利そうな気はするのだが、“ナノティラヌスのおとな”が相手なら、ドリプトサウルスに勝ち目はなかっただろう。

 

 

 

美しかったもの

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↑Skeletal reconstruction of cf. Pinacosaurus sp. MPC-D 100/1305. Scale bar is 1m.

 

 サイカニアといえば、「エウオプロケファルスと違って前肢やわき腹にも鎧が存在する」ということで名前を覚えた方も多いのではないだろうか(筆者もそのクチである)。「前肢やわき腹に鎧が存在する」鎧竜の化石は稀であり、従ってこれを化石化の過程によるみせかけと見る向きさえあったわけである。しかし、不穏なタイトルから既にお察しの方も多かろうが、「前肢やわき腹に鎧が存在するサイカニアの全身骨格」は――頭部以外は――サイカニアではなくなってしまった。モンゴル古生物学センターの所蔵するオリジナルがたびたび来日し、また神流町恐竜センターにて見事なキャストが常設展示されている「サイカニアの完全な骨格」は実のところコンポジットであり、そしてサイカニアの要素は頭部――ホロタイプのキャストが据えられていた――に限られていたのである。


 アンドリュース率いるAMNHの遠征隊による調査やソ連によるWWⅡ直後の調査によってゴビ砂漠に広がる上部白亜系では様々なアンキロサウルス科の化石が採集されてきたが、「まともな骨格」――頭骨と首から後ろの要素がほどほどに揃った骨格はなかなか出てこなかった。全身の要素が最もよく残っていた“シルモサウルス・ヴィミニカウドゥスSyrmosaurus viminocaudus”のホロタイプPIN 614でさえ首なしの有様だったのである。

 1960年代になるとポーランド隊がモンゴル入りし、そこで多数の良好な鎧竜化石を得た。アンドリュース隊によって発見・命名されたピナコサウルス・グレンジャーリの実態が(ある程度)明らかになったのはこの時であったし、美しく関節したアンキロサウルス科の上半身――後のサイカニア・フルサネンシスのホロタイプとなる標本MPC-D 100/151もポーランド隊の手によって発掘された。これらの化石は董枝明言うところの「モンゴル―ポーランド娘子軍」の一角を担っていたマリヤンスカによって記載され、そして彼女は鎧竜の権威として名を馳せていくのであった。


 さて、サイカニアのホロタイプはワルシャワのポーランド科学アカデミーにて産状レプリカが展示されたオリジナルは容赦なくクリーニングされた)のだが、三次元的にマウントされることは(モンゴルに返還された今日でも)なかった。一方で、1990年代後半から「サイカニアの全身骨格」として注目を集めるようになったのがMPC-D 100/1305である。
 MPC-D 100/1305の背面にはほとんど鎧が残っていなかったのだが、前肢やわき腹、そして尾には見事な鎧が残されていた。特にわき腹のものは――90年代までクリーニングされていなかったようなのだが――バルスボルドが「北斎の波」に例えたほどの代物である。
 1995年夏の時点でMPC-D 100/1305は中途半端な状態で展示されていた(「完全にクリーニングされた頭蓋と下顎」、皮骨ごと関節したままの前肢、クリーニング半ばのわき腹のブロック、バラした後肢、関節状態の尾が床に並べられていた)のだが、ほどなくしてこれは(展示に回されていなかった残りの頸椎や胴体のブロックともども)マウントされた。ここに「最も完全な鎧竜の骨格」が組み立てられ、世界を巡るようになったのである。


 「サイカニアの全身骨格」がよく知られるようになる一方で、依然としてモンゴル産鎧竜類のまともな骨格はピナコサウルスの幼体しか見つからない状況が続いていた(ピナコサウルス・メフィストケファルスP. mephistocephalusのホロタイプIMM 96BM3/1を筆頭に3m級の骨格が見つからないわけでもなかったのだが、それらの首から後ろの要素は未記載のままである)。こうした中で、カーペンターを筆頭にMPC-D 100/1305の詳細な骨学的研究が行われることになった。
 満を持して2011年に出版されたモノグラフはMPC-D100/1305の骨学的な記載はもちろんのこと、ハンマーの力学的な解析をもおこなった代物であった。ホロタイプとの間にみられる上腕骨の形態差から、性的二形が存在する可能性にまで踏み込んだ、野心的な論文でもある。カーペンターによる(かなり胡散臭い)骨格図まで添えられ、原記載から30年余りでサイカニア・フルサネンシスの実態が明らかになった。――はずだった。


 博士課程でその辺のアンキロサウルス類の化石を片っ端から引っ掻き回していたアルボアはあることに気付いた。カーペンターらのモノグラフでMPC-D 100/1305の産地はサイカニア・フルサネンシスのホロタイプMPC-D 100/151と同じフルサン――バルンゴヨットBaruungoyot層とされていたのだが、所蔵先のモンゴル古生物学センターの記録では、MPC-D 100/1305は1976年のモンゴル―ソ連共同調査によってザミン・コンド――ジャドフタDjadokhta層で採集されたことになっていたのである(採集されてから20年近くに渡って中途半端なクリーニングで放り出されていたということらしい)。
そしてアルボアはとんでもないことに気がついた。MPC-D 100/1305のマウントに据えられていた頭はMPC-D100/151すなわちホロタイプのキャストその人だったのである(写真で見てもクラックの入り方が完全に一致する)。どういうわけかカーペンターらはMPC-D 100/1305の頭骨がまるっきりMPC-D 100/151と同じものであることに気が付かなかったらしい。

 

(そもそもカーペンター本人がMPC-D 100/1305の実物にどの程度アクセスできたのかは割と謎である。実物はどうも日本に来日した隙に(恐らく著者のうち日本人の誰かが)撮影・観察したらしい。モンゴルのこの手の標本はなぜか実物のマウントが(長期に渡って)巡回に回ることが多く(その間キャストが留守番である)、アルボア自身はMPC-D 100/1305の実物を観察することはかなわなかったという。鎧竜に限らず、この手の話を嘆く声はモンゴル絡みの文献でよく目にするものである。)


 カーペンターらがモノグラフで「サイカニアの全身骨格」を記載するにあたり、その同定――サイカニア・フルサネンシスへのよりどころとしたのは頭骨――サイカニア・フルサネンシスのホロタイプMPC-D 100/151その人だった。つまり、MPC-D 100/1305そのものをサイカニア・フルサネンシスと同定する積極的な根拠は何もなかったのである。そしてカーペンターらが記載した通りMPC-D 100/1305の上腕骨の形態はMPC-D 100/151とは大きく異なっており(それ以外にもちょこちょこ形態差があった)、そもそもサイカニアとは別物の可能性が急浮上したのだった。バルンゴヨット層の方がジャドフタ層よりも新しいという話はダメ押しにしかならなかったのである。


 かくしてMPC-D 100/1305がサイカニア・フルサネンシスでないことはほぼ確実になったのだが、いかんせん首なしということで科レベル以上の同定は厄介な案件であった。アンキロサウルス科の鎧の実像を最もよく示している標本のひとつであり、依然として首から後ろはほぼ完全であるにも関わらず、である。MPC-D 100/1305の採集されたザミン・コンドでは他にも林原隊によって複数のアンキロサウルス科の化石が採集されていたが、これらは記載待ちの状況であり、現状で比較することはできなかった。
 そのくらいでへこたれるアルボアではなく、次に目を付けたのがMPC-D 100/1305の鎧の配置パターンであった。アンキロサウルス科の鎧の基本配置パターンはいずれも同じらしいが、それぞれの鎧やトゲのサイズ、形状は属レベルで(ひょっとすると種レベルでも)異なっている。そして、MPC-D 100/1305と酷似した鎧をもつ化石はすでに知られていたのである。
 その化石――持ち帰るあてがなかったのか、未採集で放棄された――は、1993年から始まったAMNHの「レコンキスタ(Gレコはケルベスとリンゴくんがお気に入りの筆者)で、ウハ・トルゴッド――ジャドフタ層にて発見(そして撮影)されたものだった。頭骨とハンマーそして背面の鎧は浸食で失われていたものの、わき腹から尾にかけての側面鎧はしっかりと生前の配置を留めており、MPC-D 100/1305と酷似していたのである。
 ウハ・トルゴッドでは多数の鎧竜の化石が採集されていたが、それらは全てピナコサウルス・グレンジャーリであった。問題の未採集標本の同定は今となってはかなわないが、産地からしてみるとP. グレンジャーリの可能性が高そうであり、そしてそれはMPC-D 100/1305にも言えそうだった。


 そうは言っても、現状でMPC-D 100/1305をピナコサウルス・グレンジャーリと断定することは難しい。P. グレンジャーリとして詳しく記載された標本は幼体といってよいサイズのものばかりで、亜成体サイズのMPC-D 100/1305との比較はそう簡単にはいかないのである(実際問題、MPC-D 100/1305の烏口骨の形態はアラグテグAlagteeg層産のP. グレンジャーリの幼体とは大きく異なっている)。また、今日P. グレンジャーリの亜成体ないし成体とされている“シルモサウルス・ヴィミニカウドゥス”(のホロタイプ)はMPC-D 100/1305よりも明らかに尾が長い(そもそも尾椎がずっと多い)。このあたり、林原がジャドフタ層からかき集めてきた標本が重要な役割を担うことになりそうでもある。
 首なしだったとはいえ、MPC-D 100/1305は依然としてアンキロサウルス科の化石としては最良のもののひとつであり続けている。モンゴル産のものとしては数少ない亜成体サイズのまともな骨格であり(それゆえ同定が難しいという側面もあるが)、ネメグトNemegt層で時おり産出する大型のアンキロサウルス類の断片の研究にもずいぶん役立っているのだ。そして何より、前肢やわき腹の鎧の配置を保存しているのは未だにMPC-D 100/1305ただひとつなのである。
 MPC-D 100/1305が“美しいもの”――サイカニアから切り離されたことで、結局サイカニアの実態は闇の中に再び引き戻されてしまった。しかしMPC-D 100/1305は――赤い砂の海に白く砕けた波は、今日もまだ美しくそこにある。

もうひとつの謎【ブログ開設6周年記念記事】

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Composite reconstruction of latest Cretaceous therizinosaurid---using Erlikosaurus skull and pes, Nanshiungosaurus neck and torso, Therizinosaurus forelimb (and pes), and Nothronychus hindlimb and tail.

Scale bar is 1m for Therizinosaurus cheloniformis MPC-D 100/15.

 

 6周年である。小学生が中学生になるわけで、まあうまい具合に骨格図はちらほら見かけるようになったわけである。

 

 まもなく閉幕する恐竜博2019の目玉の一つが、デイノケイルスの復元骨格――3体からなるコンポジットだったわけである。系統関係についてはここ20年あまりでほぼコンセンサスが得られていたとはいえ、ホロタイプ――肩帯と前肢だけで復元がおぼつくはずはなく、2体の新標本の重要性については今さら書くまでもない。

 さて、モンゴルはネメグト層といえば、デイノケイルスのほかにももうひとつ、巨大な(この場合あくまでも絶対的なサイズであり、デイノケイルスにおいては前肢は特別目立つプロポーションではなかった)前肢をもつ恐竜が知られている。デイノケイルス・ケロニフォルミスはデイノケイルスより以前から知られていた種であるが、しかし今日に至るまで、肩帯と前肢、わずかばかりの肋骨と足が知られているだけなのであった。その一方で、ここ20年、我々はテリジノサウルスの姿についてなにがしかのコンセンサスらしいビジュアルを見続けてきた。――グレゴリー・S・ポールによる、「テリジノサウルス類」の復元である。

 

 テリジノサウルスのホロタイプPIN 551-483が発見されたのは、1948年のソ連モンゴル遠征においてであった。これは巨大かつ妙に薄っぺらな前肢の末節骨(の破片)が3本ぶんと、やたらごつい肋骨の破片、それから長骨の破片(原記載では中手骨とされたが、実際には中足骨であるようだ)からなっており、当時の知見からしてみれば恐竜とは同定しがたい代物だった。テリジノサウルスの肋骨は何ともなしにプロトステガやアーケロンと比較され、かくして「巨大なカメ様の爬虫類」として記載されたのであった。1970年になってようやく、ロジェストヴェンスキー(ここぞというときに存在感を発揮する)によって獣脚類として再記載されたのである。

 

(ロジェストヴェンスキーはこの時、テリジノサウルスの前肢について、シロアリの塚を崩したり、木の実を集めるためのものと推察している。このあたり、ロジェストヴェンスキーの非凡な才がうかがえる。)

 

 テリジノサウルスの前肢の実態が明らかになったのは、1976年になってからであった。バルスボルドによって記載されたそれは部分的な肩甲烏口骨と前肢の大半、それから肋骨要素からなっており、テリジノサウルスと同定するのはたやすいことであった。復元された前肢の長さは2.5mに達し、テリジノサウルスはデイノケイルスをも上回る巨大な前肢の持ち主であることが明らかになった――が、その全体像はまったくの闇の中にあった。バルスボルドはテリジノサウルスがデイノケイルスと近縁である可能性を指摘したが、前肢のサイズ以外に特別な類似もなかったのである。

 

 1970年代の終わりから80年代にかけてセグノサウルス類の化石が続々と発見されるようになるにつれ、どうもテリジノサウルスがセグノサウルス類と近縁である可能性がささやかれるようになった。ヘルミンツァフで発見された部分的なセグノサウルス類の足は、(特に重複する部位はなかったのだが)どうもテリジノサウルスの気があったのである。

 1980年代の半ば過ぎには(依然として恐竜類の中での位置付けははっきりしなかったのだが)セグノサウルス類の姿は何となく復元できるようになっていた。エルリコサウルスの頭と足にナンシュンゴサウルスの首と胴、セグノサウルスの前後肢。4足歩行にさえ復元されたこの奇怪な恐竜の分類を決定付けるためには、アラシャサウルスの発見を待たねばならなかったのである。

 アラシャサウルスの発見により、テリジノサウルスとセグノサウルス類がごく近縁であること(セグノサウルス類はそのままテリジノサウルス類と呼ばれるようになった)、そしてテリジノサウルス類が獣脚類であることが明白となった。ここに至り、ポールはそれまでちょこちょこ露出のあった自前の「セグノサウルス類の合成骨格図」にテリジノサウルスの前肢をぶち込んだ。かくして、「テリジノサウルスの復元画」のイメージが定まったのである。

 

 それから20年以上が過ぎたが、今日でもポールによる合成骨格図はテリジノサウルスの復元のベースとして用いられている。もっとも、ノスロニクス、スジョウサウルスの発見により、ポールの合成骨格図からもう一歩踏み込んだ解像度での復元が可能となっている昨今でもある。

 デイノケイルスの全身骨格が復元できるようになった今日、テリジノサウルスの全身骨格の発見にも期待がかかる。いかにそれらしく復元できるようになったとはいえ、テリジノサウルスそのものの確実な骨格要素は、ほぼ前肢のみに限られているのが現状なのだ。デイノケイルスの系統関係はしばらく前から(おおざっぱに)定まっていたとはいえ、発見された骨格はそれまでの「復元」とはかけ離れたものであった。実のところ「鎌状」の末節骨をもつテリジノサウルスの前肢はテリジノサウルス類の中でもぶっ飛んだ形態であるのだが、ではそれ以外はどうだろうか。

 

 

いつの間にか

 いろいろとバタバタしているうちに、うっかりブログ開設から6周年が過ぎていました。例によって更新は滞りがちですが、(本来の目標通り)のんびりまったりゆるくやっていきたいところです。

 

 去年あたりからほのめかしていたことですが、この1年間でいろいろなことが(計画通りに)ありました。ブログ立ち上げから苦節(特に苦労はしていない)6年、もろもろの下心はいろいろな形で結実したようです。

 というわけで、すべての“関係者”のみなさまに感謝を。GET AWAY TRIKE !はすでにそこかしこに浸透しています。ここまでお付き合いいただいている読者のみなさま。備えよう。

朱い砂、白い骨

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Skeletal reconstruction of Velociraptor mongoliensis largely based on MPC-D 100/25 ("fighting dinosaurs").
Scale bar is 1m for MPC-D 100/25.

 

 今日非常に高い知名度を誇るヴェロキラプトルが最近見つかった恐竜などではないことは、賢明なるGET AWAY TRIKE !の読者の皆様には今さら言うまでもないことである。原記載ではほとんど頭骨しか知られておらず、ぱっとしない知名度であった下積み時代を経ての「格闘化石」の発見、そしてジュラシック・パークへの大抜擢(特に映画)、羽毛恐竜への「昇格」と順調にスター街道を上ってきた感のある恐竜だが、しかし一方で(それ故に、というべきでもあろうか)、その実態は案外不確かでもある。


 ロイ・チャップマン・アンドリュースの特に前半生といえばそんじょそこらの冒険映画の主人公が寄ってたかって敵うかどうか(あたりまえ)といった代物なのだが、最も有名なのがかの1920年代の中央アジア調査――人類化石を求めたAMNHの内外モンゴル遠征であった。
 ヘッケルのレムリア(この場合ムー的な意味ではない)起源説に始まり、デュボアによるジャワ原人の発見、そしてアンダーソン(本ブログ読者にはおなじみ)とグレンジャー(ピナコサウルスの種小名にその名を残す)による周口店での古人類の痕跡の発見(北京原人の化石そのものの発見は数年後ツダンスキーによってタニウスとエウヘロプスの発見ついでに成し遂げられた――これも後の記事を参照)により、この時期人類のアジア起源説は最高潮にあった。何しろ明確な化石証拠に支えられているわけで、グレンジャーやマシュー、そしてオズボーンにアンドリュースその人と、当時のAMNHの化石哺乳類担当もこの「定説」を支持していたのである。
 かくしてアンドリュース率いるAMNHの遠征隊は一路モンゴルへ向かい、もろもろの困難(自然ばかりが問題だったわけではないが、GPSもない時代である)と戦いつつ化石を捜し歩くこととなった。が、AMNHのメンバーが当初期待したような成果は上がらなかったのはよく知られた話である――アンドリュース隊が内外モンゴルから華々しく持ち帰ったのは、アンドリューサルクスや“バルキテリウム”(懐かしい響き)のような古第三紀の哺乳類化石と、それから無数の白亜紀の恐竜化石であった。


 古人類化石が一向に見つからないまま、アンドリュース隊がたどり着いたのが運命の場所――フレーミング・クリフであった。夕陽を浴びて燃えるように輝くその丘――モンゴル語ではその朱い砂岩にちなんで赤い崖――バイン・ザク――と呼ばれていたその丘で、アンドリュース隊は多数の恐竜化石、哺乳類化石、そして「恐竜の卵」を多数得たのである。
 アンドリュース隊は1923年の夏の間しばらくバイン・ザクに滞在して発掘を行ったが、そこでカイゼン――AMNHの誇る当時世界最強のプレパレーター――がプロトケラトプスの頭骨の脇で小さな獣脚類の頭骨を発見した。頭骨はひしゃげてこそあれ完全といっていい状態で保存されており、また同一個体と思しき部分的な手も残されていた。
 同じ丘で採集された多数の化石と共にニューヨークへ凱旋したその部分骨格AMNH 6515は、翌1924年には早速オズボーンによって一般向けの雑誌にて紹介されることとなった。“オヴォラプトル・ジャドフタリOvoraptor djadochtari”の「仮名」で掲載されたそれは、その年のうちに正式記載されヴェロキラプトル・モンゴリエンシスのホロタイプとなったのである。

 

(この時バイン・ザクではもう1体のヴェロキラプトル――AMNH 6518が採集されていた。これは上顎骨と部分的な前後肢(足はほぼ完全であった)からなっていたのだが、いかんせん頭骨要素に乏しかったためか特に記載されることもなかったのである(そもそも当初ヴェロキラプトルとは同定されていなかったようでもある)。オストロムはデイノニクスの記載にあたり、AMNH 6518の足がデイノニクスに酷似していることを述べている。)

 

 オズボーンはどういうわけか(メガロサウルス科が当時どれほど「ゴミ箱」だったかを如実に示すエピソードでもある)ヴェロキラプトルをサウロルニトイデスともども「(華奢で小型ではあるが)典型的なメガロサウルス類」の特徴をもつとし、これらをメガロサウルス科とした。同じジャドフタ層(カンパニアンのいつか;ざっくり7、8000万年前)で発見されたプロトケラトプスや「プロトケラトプスの卵」、そしてオヴィラプトルは広く注目された一方で、ヴェロキラプトルやサウロルニトイデスは特段脚光を浴びることもなかったのである。


 政治状況に翻弄されるまま1930年の調査を最後にアンドリュース隊はモンゴルから締め出され、また中国―スウェーデン隊の調査は(恐竜に関しては)いまいちぱっとしないまま終わり、そして冷戦の幕開けと共にやってきたのはソ連隊であった。アンドリュース隊の再現を目指したソ連隊の大規模調査はネメグト――アンドリュース隊のたどり着けなかった一大産地の発見で報われたわけだが、ジャドフタ層の露出域では特筆すべき発見はなかった。
 そういうわけでこの間ヴェロキラプトルに関する続報が出るはずもなく、当然大した注目を集めることもなかったのだが、1969年のデイノニクスの「発見」で事情は変わった。オストロムはデイノニクスとドロマエオサウルスそしてヴェロキラプトルがごく近縁であることを見抜き、ここに初めてドロマエオサウルス科の実態が(まだおぼろげだったのだが)示されたのである。ヴェロキラプトルはドロマエオサウルス科としては当時唯一完全な頭骨の知られているものであった(記載は古いままだったのだが)。
 デイノニクスの「発見」でドロマエオサウルス科の骨格復元が可能になったとはいえ、依然としてデイノニクスの骨格は不完全な代物であった(肩帯や腰帯のつくりがはっきりしていなかった)。とはいえ、1970年代に入りポーランド―モンゴル共同調査やソ連―モンゴル共同調査によってジャドフタ層露出域の新産地――バイン・ザクから西へ30kmほどのトゥグリキン・シレ(目のさめるような朱色のバイン・ザクとは異なり、こちらの砂岩は白みの強い黄土色である)が開拓されたことで、このあたりの知見は一気に推し進められることとなった。ヴェロキラプトルの複数の良好な頭骨や初めての全身骨格――格闘化石が発見されたのである。
 プロトケラトプスの全身骨格は別段珍しいものでもなかった(アンドリュース隊の調査ですでに完全なものが知られていた)が、1971年のポーランド―モンゴル共同調査によって発見されたそれは、小型獣脚類――ヴェロキラプトルと向かい合った状態で保存されていた。プロトケラトプスMPC-D 100/512の骨格は風化して砂に還りつつあったのだが(もともと頭骨が露出した状態で、そういうわけで頭の上半分はごっそり失われている)が、そっくり埋まったままだったヴェロキラプトルMPC-D 100/25は完全な状態であり(胴体は左右方向にかなり潰れてはいたのだが)、そしてその右前肢はプロトケラトプスの口の中にあった。クリーニングが済んでみればヴェロキラプトルシックルクローはプロトケラトプスの喉元に蹴り込まれており、これらの骨格は「格闘化石」として名を馳せるようになった。

 

(ジャドフタ層はソ連の研究者によって浅い湖に注ぐ河川成デルタ相とされており、これを受けたバルスボルドは当初「格闘化石」がもつれ合った末水中に転落・溺死した成れの果てであると考えた。今日ジャドフタ層は基本的に風成であると考えられており、「格闘化石」は砂嵐あるいは砂丘の崩壊によってほぼ瞬時に埋積されたものとされている。どういうわけかプロトケラトプスMPC-D 100/512の両前肢と左後肢は発見されなかったのだが、完全に埋積される前にスカベンジャーに前後肢をもぎとられた可能性をカーペンターは述べている。)


 MPC-D 100/25は(今なお)最も完全なヴェロキラプトルの骨格にして派生的なドロマエオサウルス類としても最も完全な骨格なのだが、結局今日に至るまで詳細な骨学的研究は行われていない(尾を欠くとはいえこれに匹敵する骨格がサウロルニトレステスで知られているが、現状では頭骨の記載に留まっている)。頭骨こそそ詳しく記載されたが、それ以外はバルスボルドによって散発的に一部が抜き出されて記載されたきりである。こうした事情もあり、ポールは乏しい写真とデイノニクスのモノグラフに基づいてヴェロキラプトルの骨格図を(それも「大まかなもの」と自ら前置きしたうえで)描き起こすほかなかった。
 1980年代当時、依然としてドロマエオサウルス科の化石はごく限られたものしか知られておらず、ましてや記載されたものはなお限られていた。まともな頭骨要素はヴェロキラプトルのほかはドロマエオサウルスとデイノニクスしか記載されておらず(つまりオストロムの研究以降、ドロマエオサウルス科の頭骨に関してはヴェロキラプトルの頭骨の追加情報のほかは実質進展がなかったのである)、そしてヴェロキラプトルの頭骨はドロマエオサウルスよりはずっとデイノニクスに似ていた。かくしてポールはデイノニクス・アンティロプスをヴェロキラプトル・アンティロプスとし、ポールの一般書――肉食恐竜事典にインスパイアされたのがクライトンだった。ここに全長4m近い「ラプトル」が生まれ、やがてスクリーンの外までを席巻するようになったのである。

上で述べた通り、ポールの描いたヴェロキラプトル・モンゴリエンシスのうち「初期バージョン」(90年代まで使っていたもの)はかなりの部分をデイノニクス・アンティロプスの情報で補っており、従ってV.モンゴリエンシスの実態とは(本人も端から認めている通り)だいぶギャップがある(一方で、D.アンティロプスの頭骨はV.モンゴリエンシスを参考にせざるを得なかったわけで、つまりどちらも初期バージョンの骨格図はちゃんぽんになっている。のちに描き直したバージョンは細部まで手が入っており、少なくとも初期バージョンよりはずっとよく実態を示している)。こうした「ちゃんぽん」が拡大された結果がジュラシックパークの「ラプトル」なわけだが、一方で80年代~90年代の「ポール以外」によるデイノニクスの復元も実態とはだいぶかけ離れたものであり(特に頭骨;オストロムによる初期の復元が当時でも主流であった)、このあたりデイノニクスやヴェロキラプトルの実態を(羽毛は抜きにしても、あれだけ化石が出ていたのにも関わらず)捉えていたのは当時誰もいなかったとさえいえるのかもしれない。)


 「格闘化石」の不甲斐なさをカバーすべく、70年ぶりにモンゴルへ「再上陸」したAMNHのチームは精力的にヴェロキラプトルの新標本の記載を行った()。が、依然として「格闘化石」を凌ぐ完全度のものはなく、そんなこんなでヴェロキラプトルの骨学的記載は(全身骨格が知られているにも関わらず)不完全なままである。ジャドフタ層とほぼ同時代とされる内モンゴルのバヤンマンダフ(バインマントフ)Bayan Mandahu層でもヴェロキラプトルらしい化石がしばしば発見されているが、これらの記載はなお乏しい。
 オストロムによるデイノニクスの「発見」は獣脚類と鳥類との形態的類似を強く示すものだったが、叉骨や骨化した胸骨、鉤状突起(デイノニクスでも発見されていたが、腹骨の一部と誤同定されていた)、そして羽軸こぶの存在と、鳥類との形態的類似をさらに強く示したのはヴェロキラプトルであった。羽毛をむしられてなお鳥に似たその恐竜は、今日もその系統的なつながりを画面の中から訴え続けている。