GET AWAY TRIKE !

恐竜その他について書き散らかす場末ブログ

ごあいさつ

 というわけで(前略)、かねてからひっそり予告していた通り、Yahoo!ブログからはてなブログへのおひっこしとなりました。先代は立ち上げから5年と10ヶ月に渡ってご愛顧いただいたわけですが、はてなブログでも引き続きGET AWAY TRIKE !をどうぞよろしくお願いします。

「恐竜博2019」レポ

 7月も半ばである。筆者はといえば色々と綱渡りの状況が続き(無事渡りきれたかといえばそんなことはない)、そうこうしている間にブログの引っ越しができるかといえばそんなこともなかったわけである。

 諸般の事情により内覧会におよばれしていたにもかかわらず参加できなかった筆者だが、意地で恐竜博2019(7/13(土)~10/14(月・祝))の初日に行ってきたわけである(毎度ながらお付き合いいただいた山本聖士さんには感謝の言葉もない)。もろもろの事情は薄い本のネタにとっておくとして、かいつまんで展示を紹介したい。

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 謎の骨格図をばらまいている入り口をくぐれば、いきなり目玉の一つであるデイノニクス・アンティロプスのホロタイプYPM 5205のお出ましである。足だけとはいえ保存のよさも相まって存在感はすさまじく、初っ端から身動きが取れなくなること請け合いである。隅々までよく観察されたい。

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 デイノニクス、テノントサウルスのマウントは共に今回の特別展に合わせて組まれたものであるらしく、前者のマウントは現在存在するタイプの中では最良のものと言ってよいだろう(依然として問題はあるのだが)。よくできたテノントサウルスの亜成体もよく知られた頭骨の主のようで、日本ではまずお目にかかれない代物である。

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 もとを辿れば本館の展示以前に特別展の目玉としてカーペンターによってマウントされた骨格である。今となってはプロポーションには問題しかないのだが、裏を返せば10mクラスのマイアサウラの要素が組み込まれているということでもある。

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 羽毛恐竜枠は今年も見事な標本が(キャストについても)持ち込まれており、シノサウロプテリクスのホロタイプは久方ぶり(たぶん)の実物である。頭骨の保存はコンプソグナトゥス・“コラレストリス”と並び、コンプソグナトゥス科としては最良の部類に入るだろう。

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 問題のスピノサウルスの頭骨はだいぶ無理やり展示に組み込んだ感があり、見ての通りの代物である。別の意味でCTのかけがいはあるだろう。

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 デイノケイルスのホロタイプは今回キャストだけだが、その分肉薄して観察することができる。サイズ相応のゴツさはあり、原記載でカルノサウルス類とされたのもわかる話ではある。関節の粗面は竜脚類的な発達具合である。

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 二度目の来日のはずだが、今回合法的に日本の土を踏んだことになる。しっかり張り付いて観察されたい。

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 「ひづめ型」の末節骨だが、側面から見ると根元でカーブしているのが面白いところである。背景に映り込んでいる骨格図は気にするな!(魔王様)

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 グラスファイバーの生々しい浮きがあったりで突貫工事感は割と露骨なのだが、そうは言ってもよくできたマウントである。頭にせよ前肢にせよ、全身のバランスからしてみれば特段大きなものではない。左膝に引っ付いているのは胃石のブロックである。

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 伏兵だったアンセリミムスの全体パースを撮りそびれたのはさておき、カーンに加えて未記載のオヴィラプトル類も来日している。前肢の退縮がかなり進んだタイプであり(しかも二本指である)、ネメグト層から盗掘された標本である。

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 鳥屋城層産のモササウルス類の産状はため息が出るほど美しいのだが、それを容赦なくクリーニングしているのはさすがといったところである。モササウルス類としては異様なプロポーションやら肩関節の構造やら、見どころは非常に多い。

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 むかわ竜のマウントはかなり厳重に囲ってある。終わってみれば(当然、始まってすらいないという見方もできる)筆者としても謎の感慨深さがあったりもする。
 関節突起の変形やらマウントの都合やらで肋骨籠がやたら幅広くなっている(ハドロサウルス類は幅の狭い生き物である)が、それを除けば基本的によくできたマウントである。吻のアーティファクトはもう少し短くてよいはずだ。

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 イクチオルニスの実物というだけで日本国内では十分珍しいのだが、この保存状態である。脇にあるマウントのディテールとの差に注意したいところ。

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 パタゴプテリクスも最良の部類に入る標本のはずである。前半身は驚くほど立体的に保存されている。

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 ヴェガヴィスもため息が出る代物である(並べ方が謎なのはともかくとして)。このくらいの完全度で初めて現生鳥類との関係がまともに議論できるのだろう。


 標本点数はいささか少ない感もあるのだが、今回の標本の質は極めて高く、「ハズレ」は実質スピノサウルスの頭骨とチレサウルスのマウントくらいであろう。数年前に学会で報告されたきり動きのなかった「二本指のテリジノサウルス類」(写真はあえて貼らなかった)も、腰帯の保存状態など、見るべきところはたくさんある。
 恐竜博2019の展示物は(結局のところむかわ竜にせよデイノケイルスにせよ)通好みというかだいぶ渋いチョイスといえるが、それでも(NHKのもろもろが相当効いているのだろうが)大盛況であった。ティラノサウルス(穂別博物館が購入した“スコッティ”である)の存在感がろくにない展示というのも珍しいもので、このあたりはひとつの試金石となるかもしれない。
 学術協力者の名前ばかりが取りざたされていたような印象のある本展だが、蓋を開けてみれば監修者のこれまでの研究の集大成といった趣の展示であった。どういうわけか筆者がクレジットに見え隠れしたりもしているのだが、それはさておき、一つの到達点としてみられる特別展である。

企画展「体験!発見!恐竜研究所 ようこそ未来の研究者」レポ

 会期が始まってからだいぶ経ってしまったわけだが、そうは言ってもゴールデンウィークはこれからであり、修羅場はこれからであろう。そういうわけで開幕セレモニーにおよばれしてきた筆者だが(なんなら本ブログも協力機関としてクレジットされている)、ミュージアムパーク茨城県自然博物館の企画展「体験!発見!恐竜研究所 ようこそ未来の研究者」について、ごくかいつまんで紹介しておきたい。
 本企画展は大変「教科書的」な展示企画となっており、その内容はおそろしく網羅的である。図録の作りも含めて、基本の「き」から最新のトピックまで追いかけられる作りなわけである。会場・図録ともツク之助(最近筆者と手を組んだ)によるやたら親しみやすい絵に溢れている一方で、妙にマニアックな標本がちりばめられているあたりはさすがといったところである。茨城県白亜紀の化石をきっちり並べているあたりもさすがに地元(というにはだいぶ遠いが)というべきで、最近発見された巨大なスッポンの化石(撮影禁止)まで展示されている。

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 改めて見るとやはりとんでもなくデカいわけである。常設展示のエウオプロケファルス・トゥトゥス(あるいはスコロサウルス・スロヌス――ペンカルスキ―の分類にはかなり懐疑的な筆者である)と比べてみれば、うっかりアンキロサウルスの全長を11mほどと見積もったクームズの気持ちもよくわかるものである。

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 主に巡回要員と化している感はあるが、茨城県博のカルノタウルスは日本で初めて展示された代物(の成れの果て)のはずである。キャストとはいえ頭骨を間近で見る機会は案外少ないわけで、原記載では実態のつかめない無残な変形っぷりがよくわかる。前頭骨の角は本来ほぼ水平に伸びていたと思われる。

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 タッチ要員で“ウルトラサウロス”のホロタイプBYU 9044(今日ではスーパーサウルスの胴椎とされている)のキャストが置いてあったので肝を抜かした筆者である。サイズの割に極めて繊細な代物であることがよくわかる。

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 そしてその奥にしれっと鎮座しているのはウルトラサウロスとされていた肩甲烏口骨BYU 9462(あくまでもホロタイプは胴椎の方である)である。やたら細い肩甲骨ブレードの軸部が目を引く。

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 目玉展示ということでさすがに大迫力である(ジェーンの薄さがやけに目に付く)。床置きされているぶん、実際のサイズ感そのままなのが地味に嬉しい。幼体はLACMのマウントと同型(=常設展示されているLACM 28471が載っているもの)が展示されると思いきや、タルボサウルスの幼体準拠の頭骨の載ったタイプであった(スケジュールの関係でやむなく常設のLACM 28471のキャストの写真をうまいこと企画展のポスターに使ったということのようである)。

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 隙をつけばジェーンの写真も撮り放題である。

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 例によってしれっとおさわりOKになっているのはUCMP 118742のキャストである。ポールによる伝説の推定値で有名な(そんなことはない)この標本だが、とりあえずおさわりのついでに色々な角度から観察できる。

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 むかわ竜の後方胴椎(撮影禁止)をはじめ、各地のご当地恐竜も色々と展示されている。産地の話はさておき、ニッポノサウルスの(ろくでもない出来のマウントではない)キャストを見る機会もあまりないところである。

 写真で紹介したものは展示のごく一部であり、様々な時代の様々な分類群(恐竜以外も含めて)がかき集められている。展示品のチョイス(トリを飾るのは、筆者がかつて散々触りまくった連中である)もさることながら、映像による解説も要所で光っており、ついでに書き加えておくとちびっこがGAT印の骨格図を奪い合うことさえある。毎年おなじみの福井に加え今年の夏は上野でも恐竜展なわけだが、その前哨戦に(あらゆる意味で)ふさわしい恐竜展といえよう。

恐竜博2019によせて

 カーナビ(特に“レイ”とかそういう名前を付けているわけではない)の言うことには、今日は「恐竜の日」なわけである。由来がいまいちぴんとこない日なのはここに書くまでもないことなのだが、そういうわけでうまくタイミングを合わせたのか、恐竜博2019に展示されるむかわ竜デイノケイルスのマウントが報道発表された。

 むかわ竜のマウントは先日一瞬だけ(ほんの数時間で削除されたあたり、「うっかり」だったのだろう)8割がた組み上がった状態の映像がネットニュースに流れたりもしたわけだが、今回公開されたのは塗装も済んだ完成版(たぶん)である。見ればわかる通りアーティファクトは吻と仙椎、遠位尾椎のみと最小限に留められており、雰囲気のいい塗装と相まって、純骨並みの迫力である。結局(少なくとも今回のバージョンは)アーマチュアが外装式とはいえキャストで組み上げられたわけだが、これはむしろ(当然)英断といえるだろう。
 胸郭の幅が広すぎるのは明らかに胴椎と肋骨の変形のせいのようで(肋骨自体、数は揃っているものの(おそらくほとんどが発掘の過程で)粉々になっている状態である)、本来であれば胸郭はより幅が狭く、烏口骨は(左右で関節することはむしろあり得ないのだが)より正中に近づくはずである。
 頭部のアーティファクトエドモントサウルス準拠のようで(小顔とはいえ、頬骨の形は確かにそれっぽいのである)、吻は(推定される範囲内としては)めいっぱい伸ばして復元されているようである。吻が出ていない以上何とも言えないわけだが、今回の復元骨格より吻が長いということは多分ないだろう。

 デイノケイルスのマウントは塗装前というか見るからに未完成なのだが(右の腰帯ができあがっていないようで、頸椎なども内装式アーマチュアの「フタ」がまだ取り付けられていない。もっとも、化石の色がネメグト層でよくある白っ茶けた色なので、塗装したところでここから特別印象は変わらないはずだが)、その全容を知るのには十分である。「新標本」のうち成体の方のキャストをベースに、ホロタイプ(新標本の成体の方と誤差の範囲で同サイズなわけだが)と幼体の要素をサイズ合わせして組み込んでいるようだが、サイズ合わせはうまくいっているようで、「コンポジット感」は全くない。
 未記載のむかわ竜はさておいてもデイノケイルスの「新標本」の写真の露出はこれまで頭骨を除けば椎骨数点と腰帯、脛などに限られていたわけで、マウントの出来が普通によかった(スゴイ・シツレイ!)のはともかくとしても、今回の情報解禁は素直に嬉しいところである。左膝には母岩のブロックが付いたまま(キャストが取られた)なわけだが、これは胃石の密集したブロックだという消息筋の話である。

 むかわ竜にせよデイノケイルスにせよすんなりマウントが組み上がるわけではない代物だったわけだが、蓋を開けてみれば水準以上の出来だったわけで(このあたりゴビサポートは昔からよい仕事をしていたわけなのだが)、恐竜博2019の展示については(勝手に)一安心である。気が付けば開幕までもう3ヶ月を切っており、楽しい夏まで指折り数える日々はもうとっくに始まっている。

 閑話休題、本ブログに長年お付き合いいただいている読者のみなさまは散々ご存知の通り、げったうぇーとらいく!の白々しい内容の記事には必ず裏があるわけである。備えよう。
 

そのうち移転するおしらせ

 4月である。R-TYPEの新作に筆者のバイド汚染された領域は疼き、茨城県博の特別展(どういうわけか本ブログが協力機関として挙げられている)はとっくに始まり、そしていつの間にか恐竜博2019のサイトはリニューアルされてまともな代物になっていたわけである(まだだいぶ工事中のようなのだが)。特に深い理由もないまましばらく本ブログの更新をほったらかしていたわけなのだが、そうこうしている間にわりととんでもない事態になっていたことは読者のみなさまはご存知の通りであろう。
 
 というわけで、開設から5年半をむかえたGET AWAY TRIKE !ですが、Yahoo!ブログのサービス終了にともない、夏ごろ(おそらく8月までには)をもって別ブログサービス(はてなブログが有力)に移転します。
 夏まではYahoo!ブログ上でこれまで通りゆるゆると更新していきますが、それ以降、別サービスへ移行後もどうぞよろしくお願いいたします。

平成のうちには間に合わない話

 新年度である。もろもろの罪に問われた筆者はしばらく前から流刑になっているわけだが、とりあえず7月12日かそこらには上野に出頭しなければならないようだ。
 さて、筆者が(かつての)本業のライフワークとしていた某上部白亜系の小露出だが、ここでは以前からバキュリテス(言わずもがなの棒状異常巻アンモナイト)がわりあい多産する。が、実のところ自信をもってバキュリテス(ユーバキュリテスということはないだろう)と言い切れるものは案外少なく、なんらかのゆるいテーパーの付いた棒/棘状の(ゆるくカーブしていることがないわけでもない)化石はとりあえずバキュリテスとされがちである。
 ご多分に漏れずバキュリテスはこの地層でも密集産状を示しがちなのだが、その中に“バキュリテス・レックス”とされる30cmほどの化石がふたつ、ほぼ平行に並んで産出した例がある。これは(いかんせん死ぬほどもろいので)母岩から取り出されることは今日までなかったのだが、一方で最近になって母岩をいくらか削ってやるとやたら薄い骨質――炭酸カルシウムのなれの果てではない――の壁がいくつも現れた。上部白亜系の上部からディプロドクス上科の報告はちらほらあるわけだが、どうもこの化石もそれであるようだ。ごく最近になって、「例の」層準からよく関節した上半身が出ていたりもするのだが、これはほぼ間違いなく同じ種のものだろう。

テンダグルの丘を越えて

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↑Composite skeletal reconstruction of Giraffatitan brancai
largely based on paralectotype MB.R.2181 with complete skull MB.R.2223.
Scale bar is 1m for MB.R.2181.
The largest specimen (formerly known as HMN XVII)
is approximately 13% larger than this specimen.

 19世紀後半から20世紀前半にかけての古生物学の輝かしい歴史はそのまま帝国主義の一面でもあることについては今さらここに書くまでもないわけで、今であればあらゆる理由で持ち出しがためらわれるような標本が相当数無茶な旅を経て国境を越えたわけである。とはいえ、そうでもなければ永久に人目に付くことなく風化で消えていったであろう標本も多く、このあたりは古生物学にせよ考古学にせよ、今日厄介な問題となっているわけである。
 テンダグルといえば東アフリカ随一の恐竜化石(に加えて相当量の浅海の軟体動物化石が産出するのだが)産地であるが、そういうわけでこの丘が陽の目を見たのは1907年、帝政ドイツの植民地時代のことであった。この地で発見された恐竜――ジラファティタンに代表される――は、帝国主義の行く末に至るまで、時代の波に翻弄され続けることになったのである。

 ツェツェバエが飛び交いライオンが出ては地元民が襲われるこのうっそうとした、それでいて急峻な丘で最初に恐竜化石が発見されると、にわかにこの地は古生物学者の注目を集めるようになった。探鉱技術者のサトラーによって発見された2種の竜脚類は翌1908年にはそれぞれギガントサウルス・アフリカヌス、ギガントサウルス・ロブストゥスと命名され(すったもんだの末両種はそれぞれディプロドクス亜科のトルニエリア・アフリカーナと真竜脚類――トゥリアサウリアかカマラサウルス一歩手前段階かははっきりしないが、とりあえず以前言われていたようなティタノサウリアではないようだ――のヤネンシア・ロブスタとなった)、そして1909年にはドイツ帝国自然科学界の威信をかけた大規模な遠征隊がテンダグル――タンザニア南部へと乗り込んでいったのだった。

 テンダグルの丘の周辺はまさしく化石の山であった。おびただしい数(アルファベットひとつずつの割り当てが追いつかなくなり、かなり訳の分からない整理記号が付けられた)のサイトが開かれ、人力、帆船、蒸気船、汽車を駆使して壮絶な量の化石がベルリンへと送られた。ベルリン大学博物館(後フンボルト大学博物館を経て現ベルリン自然史博物館)の地下収蔵庫が(今もなお)納骨堂のような有様となったのは言うまでもないことで(古くからこの辺の写真はよく知られている)、ヤネンシュらベルリン大の研究者はその後40年以上に渡って――帝政ドイツから共和制ドイツ、ナチスドイツそして東ドイツに至るまでの間、納骨堂に通い詰める羽目になったわけである。
 さて、遠征隊の調査は1912年に終わり、とりあえずヤネンシュが手を付けたのが竜脚類であった。遠征前にすでに“ギガントサウルス”2種がテンダグルから知られていたわけだが、他にも複数の新種が存在することは明らかであった。かくして1914年、ヤネンシュはテンダグル層の中部恐竜Middle Dinosaur部層および上部恐竜Upper Dinosaur部層(キンメリッジアン後期~チトニアン;1億5560万~1億4550万年前ごろ)からブラキオサウルス属――モリソン層でただ一つの部分骨格が知られているだけだった――の新種を命名した。恐ろしいことに、遠征隊の旗振り役であったブランカの名を種小名に冠したその恐竜――ブラキオサウルスブランカイ――は、実質的に全身の要素が発見されていたのである。

 全身の要素が記載されるまでにはその後長い年月を要したのだが、それでもこの発見によってブラキオサウルスの理解は一気に進んだ。1915年には早くもブラキオサウルス・アルティソラックスの欠損部の補填にB.ブランカイを用いた骨格図が描かれ(実のところこの時点ではB.ブランカイのほとんどの部位は未記載だったのだが、肩帯や肋骨、尾などはあきらかにB.ブランカイのそれを参考に描かれており、どうも写真がひっそりとアメリカまで流通していたらしい(一方で頭骨はクリーニングが追い付いていなかったのかあからさまにカマラサウルスである)。ルシタニア号事件が起きたのはこの年のことであった)、雲突くばかりの姿が一般の目に触れるようになったのである。
 ベルリンへと持ち帰られたブラキオサウルスブランカイのうち、HMN SII(Sサイトで発見された2体目の標本の意。露骨に整理番号である)は全身のかなりの部分が揃っていた。これを基に復元骨格を制作することはすんなり決まった――が、第一次世界大戦とその後のすったもんだを受け、制作は遅れに遅れた。その間に東アフリカはドイツ領からイギリス領へと変わり、テンダグルへ意気揚々とカトラー率いる遠征隊が乗り込み、そしてマラリアの前に斃れた。

 1937年、ようやくブラキオサウルスブランカイの復元骨格がベルリン大学博物館にお目見えした。変形と損傷の酷かった仙前椎を全て模型に置き換えることで強度面をクリア(頭骨もキャストというか模型が据えられていたことは言うまでもない;長骨は実物だったがドイツ的美意識のためか容赦なく鉄骨が通された)したこの骨格は、当時すでに世界各地で見ることのできたディプロドクスの骨格をはるかに凌ぐ、文字通り「最高」の復元骨格であった。
 直後に第二次世界大戦の口火が切られ、復元骨格はあっという間に解体された。ケントロサウルスの化石のほとんどを始め、かなりの数のテンダグル産恐竜化石が空襲で失われたが、ブラキオサウルスブランカイの化石のうちのほとんどはどうにか無事であった。気が付いてみればベルリン大学博物館は東側にあり、そしてカトラー隊の命を吸った大英自然史博物館のテンダグル産ブラキオサウルス類――今日新種と考えられており“Archbishop”(大主教)の仮称で呼ばれている――も未記載のままかなりのパーツが戦禍に呑まれていたが、それでもヤネンシュは研究を続けたのである。

 ヤネンシュのローペースながら(なにしろ研究材料がありすぎる始末である)精力的な研究の甲斐もあり、いつしか(むしろ1915年以降常にというべきか)ブラキオサウルスといえばB.ブランカイという状況ができあがっていた。あらゆるブラキオサウルスの復元のベースとなるのはB.ブランカイであり、模式種たるB.アルティソラックスは半ば忘れられたような状況でさえあったのである。
 70年代になり、ジェンセン率いるBYUの調査隊がコロラド南西部で一大産地――ドライ・メサを発見したことで少々状況は変わった。巨大な(実のところ特別巨大でもなかったのだが)ブラキオサウルス類の肩甲骨(や頸椎)がここから産出し、これの記載にあたってB.アルティソラックスのホロタイプや同種らしい巨大な断片が取り上げられたのである。
 そして80年代になり、骨格図を武器に一躍時の人になったのがポールであった。大英自然史博物館の標本の情報も取り入れ、ヤネンシュがB.ブランカイの研究の総まとめとして描いた(かなり記号的な)骨格図とはずいぶん趣の違う――まさしくキリンのような――骨格図を描き出したのである。ポールはここでB.アルティソラックスとB.ブランカイの胴椎のプロポーションに著しい違いがあることを指摘し(復元骨格にせよヤネンシュの骨格図にせよ、胴椎の変形の補正は完全にB.アルティソラックス頼みであった)、B.ブランカイをブラキオサウルス属の新亜属――ブラキオサウルス・(ジラファティタン)・ブランカイとしたのであった。

 ポールの分類は例によって特に相手にされなかったのだが、それ以来、ブラキオサウルスの復元イメージは(B.アルティソラックスも含めて)ポールのジラファティタンに置き換えられることになった。ブラキオサウルスの名のあるところ、ポールに言わせるところのジラファティタンが(皮肉にも)常に立ち続けたわけである。
 2007年になり、フンボルト大学博物館改めベルリン自然史博物館のブラキオサウルスブランカイのマウントはリニューアルに合わせポールが泣いて喜ぶ姿勢で組み直された。もはや完全に不適切になった胴椎の模型は(頸椎もろとも)取り除かれ、新たに、より適切に作られた模型に差し替えられた。のっぺりした頭も完全な頭骨に基づき拡大された3Dプリントの模型に置き換えられ、足取り高く、前より一層高みから来場者を見下ろす格好となったのである。
 状況が変わったのは2009年のことで、ポール以来初めてまともに(ポールによる比較がまともだったのかはさておき)B.アルティソラックスとB.ブランカイの骨学的な比較が行われた。結果、B.ブランカイをB.アルティソラックスに特段結び付けられる特徴が実のところ何もないことが明らかになった――ここに、ブラキオサウルスブランカイはジラファティタン・ブランカイとして広く認められるようになったのである。

 発見から100年以上が過ぎたが、今なおジラファティタンはブラキオサウルス科としては最も完全な骨格が知られているものとなる。ブラキオサウルス科のイメージがいまだにジラファティタンに頼り切りな状況なのは言わずもがなだが、頭骨など、既知のブラキオサウルス科の中では最も「過激」なつくりでもある。
 ジラファティタンは相当数がキンメリッジアン後期からチトニアンにかけて海岸付近にのさばっていたらしいのだが、実のところこれは輝かしいブラキオサウルス科の歴史の真ん中あたりでしかない。少なくとも北米では、白亜紀中ごろまでキリンに似た竜脚類の一群が繁栄を続けていたのである。


 今回、ジラファティタン骨格図の制作にあたって某Sさんから(いつものように)多大な資料提供をいただきました。ありがとうございました。